昭和3年(1928年)の張作霖爆殺事件は加藤康男氏の研究によって、関東軍主犯説はくつがえされた。昭和6年(1931年)の柳条湖事件の日本軍犯行説も、まだ証拠十分ではないが、くつがえされる日はそう遠くないと信じている。
張作霖爆殺事件の真相をめぐって、加藤康男氏と私とは『正論』(2011年7月号)で読者に分り易く解説するための対談をしたことがある。今日から何回かに分けて、同対談をここに掲示することにしたい。
両事件の日本軍主犯説がくつがえると、戦後歴史学会が組み立てた昭和史の全体像が崩壊することになるであろう。
東京裁判史観を撃つ
張作霖爆殺の黒幕はコミンテルンだ
イギリス機密文書やコミンテルン工作員の自伝…。数々の新資料が物語る事件の黒幕。そして「父親殺し」の可能性。「日本単独犯」に異を唱えた田母神論文を一笑した歴史家たちを糾す!
編集者・近現代史研究家●かとう・やすお 加藤康男
(略歴)
加藤康男氏
昭和16(1941)年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。集英社に入社し、『週刊プレイボーイ』創刊から編集に携わる。集英社文庫編集長、文芸誌『すばる』編集長、恒文社専務取締役などを歴任。主に近現代史をテーマに執筆活動を行っている。『昭和の写真家』(晶文社)、『戦争写真家ロバート・キャパ』(ちくま新書)など写真評論の著作(筆名・加藤哲郎)がある。評論家●にしお・かんじ 西尾幹二
(略歴)
西尾幹二氏
昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。第10回正論大賞受賞。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)、『GHQ焚書図書開封1~4』(徳間書店)など多数。近著に『西尾幹二のブログ論壇』(総和社)。
爆殺現場に残された河本首謀説の矛盾
西尾 加藤さんが五月に出された『謎解き「張作霖爆殺事件」』(PHP新書、以下『謎解き張作霖』)は、昭和史をひっくり返すだけのインパクトをもった、極めて重要な本だと思います。
事件は、東京裁判以降、河本大作大佐を首謀者とする関東軍関係者の犯行だと考えられてきました。ところが、戦後六十年の平成十七(二〇〇五)年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、講談社)で、「コミンテルン(第三インターナショナル・国際共産党=戦前の国際共産主義運動指導組織)/ソ連軍諜報機関」の犯行だったという説が提示され、注目を集めました。そして元空将の田母神俊雄氏が、空幕長を更迭される原因となった懸賞論文「日本は侵略国家であったのか」で、「最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と記したところ、現代史家の秦郁彦氏たちから罵倒・中傷としか言いようのない批判をされたという経緯があります。
『謎解き張作霖』は、一言でいえば、河本首謀説を明確に否定し、コミンテルン説を補強する内容です。河本首謀説以外はまったく受け入れようとしない秦氏たちに眼を開いてもらうために、また一般の昭和史論者に歴史とはどのように調べるべきなのか、そしてどのようにして新しく変わっていくものかということをも示す、一つの大きな転機となるご本だろうと思います。
「まえがき」で加藤さんは、事件の背景の外交や軍事などをできるだけ省き、爆殺事件そのもの、とりわけ現場に焦点を絞って実行犯を特定したいと書いておられます。河本首謀説の何に最初に疑問を持たれたのでしょうか。
加藤 河本首謀説を簡単に説明すると、関東軍高級参謀だった河本大佐が関東軍の将校並びに工兵たちを使って一九二八(昭和三)年六月四日の払暁、奉天郊外の皇姑屯(こうことん)で、張作霖が乗った列車が通りかかったタイミングで仕掛けておいた爆薬を爆発させ、張を殺害したというものです。秦氏だけではなく、昭和史の売れ筋の著作を書いている作家の半藤一利氏やノンフィクション作家の保阪正康氏もそのように紹介しています。
河本首謀説を否定する『マオ』のコミンテルン説を検証したいと思いましたが、モスクワでは、旧ソ連崩壊時に公開され始めた当時の秘密工作に関する史料がプーチン体制となってからはほとんど公開されず、新たなハードファクトが出てくるという状況にはありません。そこで、入手可能な史料を丹念に見直す作業から始めました。そして事件直後の現場写真と、事実関係を照らし合わせると、大きな矛盾があることに気付きました。河本たちが爆薬を仕掛けたと語っている場所で爆発が起きたとしても、写真に記録されているような現場の状況にはならない。どうしてもつじつまがあわないのです。
西尾 確認です。『マオ』でコミンテルン説が注目されると、河本グループの役割が問われました。「まったく関与していない」「河本らがコミンテルンに完全に操られていたのではないか」と侃々諤々でした。加藤さんの検証では、河本が事件に関わり、配下の東宮鉄男(かねお)大尉たちを使って爆薬爆破を実行した事実は動かないわけですね。
加藤 はい。河本自身の中国共産党に対する供述調書をはじめ、爆破にかかわったグループメンバーの証言などからも、その点は揺るがないと思います。
西尾 しかし、張作霖を実際に死に至らしめたのは、河本たちの仕掛けた爆発物ではないのではないかという疑問を、加藤さんはどの点で抱いたのですか。
加藤 現場は、張作霖の列車が走っていた京奉線を、満鉄線の高架がクロスする形でまたいでいます。『謎解き張作霖』で検証しましたが、河本の部下が爆薬を仕掛けたのは、このクロスポイントから、列車の進行方向である東側に数メートルの地点だと考えられます。仕掛けられた爆薬は二〇〇~二五〇キロ、線路脇に積まれた土嚢に入れられていたという証言もあります。
これだけの爆薬が爆発すれば、普通なら地面に大きな穴が空くはずですが、爆発の瞬間を撮影した二四一ページの写真をみると、まったく穴は空いていません。レールも無傷です。その他の現場写真をみてもそうです。列車も少なくとも一両は転覆しないとおかしいのに、それもない。車体は確かに側面が崩れていますが、爆発に伴う火災で崩れ落ちたものだと考えられます。
西尾 そこで、車両の内部に爆発物が仕掛けられていて、これが張作霖を死に至らしめたのではないかという推論に加藤さんは導かれた。
加藤 ええ。河本グループが実際に爆破したのは、恐らく数十キロ程度の少量の爆薬に過ぎず、列車と張作霖に致命傷を与えた第二の実行犯がいたということです。
列車内に爆発物が仕掛けられていた可能性は、実は当時のさまざまな現場調査で指摘されていて、あろうことか関東軍の記録にまで書かれていました。当時、関東軍参謀長だった斎藤恒が、参謀本部に提出した『張作霖列車爆破事件に関する所見』という文書には、次のように書かれています。この中で出てくる「橋脚」とは、満鉄線の高架(鉄橋)の橋脚です。爆薬が仕掛けられた位置についてはいろいろな意見があると前置きしつつ、「破壊せし車輌及び鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること、略推測に難しとせず」としています。
同じ事が、内田五郎という日本外務省の奉天領事が作成した調査報告書にも書かれています。内田は支那側との共同チームで調べた結果を、一九二八年六月二十一日付で爆薬の装置場所について概略次のようにまとめています。①爆薬は(高架)橋の上、橋の下、または地面に装置したものとは思われない②側面や橋上から投げつけたものでもない③張作霖が爆発時にいた展望車後方部か後続の食堂車前部付近の車内上部、または高架橋脚の鉄桁と石崖との間の隙間に装置したと認められる|。そのうえで、「電気仕掛にて爆発せしめたるもの」としています。
西尾 河本首謀説を覆し、別の実行犯の存在を示す調査報告書が、関東軍から参謀本部に提出されていた。河本らが爆破を実行していたことは、事件からほどなくして日本政府内で知られ始めて陸軍は対応に困っていたと思いますが、犯人は別だというこの報告書を当局は喜ばなかったのでしょうか。
加藤 恐らく、表に出したくなかったので握り潰されたのだろうと思います。河本が爆破をやったことは間違いないわけですから、第三国による別の爆破があって、その謀略に関東軍が加担した、あるいは乗せられたことを認めることになります。陸軍の主権、さらには統帥権の問題にも発展しかねません。国家としては認められないわけです。
『正論』2011年7月号より
つづく
一段落目、1931年が昭和60年になっています。