張作霖爆殺事件対談(二)

爆破の瞬間写真をなぜ残した

西尾 爆発の瞬間を撮影した現場写真に話を戻しますが、不思議な写真です。爆殺が行われるのをあらかじめ知っていた何者かがスタンバイしていなければ撮れません。
 bakuha.jpg

加藤 この写真は、爆発の前からその瞬間、以降の現場検証や張作霖の葬儀の様子までを撮影した六十一枚の組写真の一枚です。山形新聞資料室に残されていて、昭和六十年には地元テレビ放送局の特集番組で紹介されて日の目を見ました。河本グループの一員が所有していた写真を陸軍特務機関員が入手していたようです。

西尾 撮影者は河本グループの誰かである。しかし、この写真は、撮影者の事件への関与を示す証拠になります。河本グループは、苦力の死体を置いてとりあえずは国民党軍の犯行にみせかける偽装工作をして実行に及んでいますが、敢えて自分たちの関与が発覚する危険性を承知で撮影したのはなぜでしょうか。

加藤 敢えて自分たちの関与を示す証拠として残したかったのだと考えられます。

西尾 写真を撮ってまで自分たちの行動を後世に伝えようとした。実行犯グループは自分たちの行動を非常に誇りに思っていた。そうした心理が読み取れるわけですね。

加藤 河本のお孫さんの女性にも昨年会って話を聞きました。彼女は河本の妻や娘、つまり祖母や叔母から「陸軍の上層部も祖父(河本)自身も日本にとって張作霖が極めて不都合な存在だったと考えていたので、祖父がお国のために実行したのだ」と教えられたと語ってくれました。事件に対する河本の誇りは、家族にも受け継がれているように思えました。

西尾 読者の皆さんに注意を喚起したいのですが、河本自身は事件の約一カ月半前、満蒙問題解決のため「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めても、ドーシテモ、やってみる」という手紙を参謀本部の友人に送っています。手柄として誇示したいとすら思っていたのであって、本来なら隠すべきところを、隠すような犯罪では決してないと考えていたわけです。これが前提です。

加藤 軍中央の河本の同志たち、エリート幕僚集団の「二葉会」のメンバーも喝采を送っていました。河本は張作霖爆殺事件で予備役とされますが、その後は満鉄や中国の炭鉱会社の役員になったりします。彼を支援、支持する軍内部の声が後々まで続いたということです。

西尾 ほかにも、河本首謀説の「決め手」とされた証拠が幾つか現場に残されていますね。
 
加藤 河本たちは国民党軍の便衣兵の犯行にみせかける偽装工作として二人のアヘン中毒の苦力(クーリー)を殺害し、死体を現場に残しています。そのポケットには犯行声明文のようなものを入れましたが、いい加減で、中国人が書いたとはとても思えない。日本軍がやったとすぐにバレる代物でした。
 また発火装置の導電線を約一八〇メートル離れた日本の監視小屋にまで引き込み、そこで爆破スイッチを押したと言われていますが、事件後の現場からは導電線が半分ぐらい残されているのが発見されています。こうしたカモフラージュのずさんさは、普通では考えられません。河本や東宮はエリート軍人であって、らしからぬ偽装と言わざるを得ません。

西尾 つまり、偽装だとすぐにばれるような工作だった。

加藤 故意に関東軍の犯行だと示唆する証拠を残したんでしょうね。その証拠を拾ってきて、「河本が首謀したことに間違いない」と…。

西尾 言っているのが秦郁彦氏たち。

加藤 それは歴史とは言えません。

西尾 裏も読めていないし。時代の背景も人間の真実も分かっていないんですよ。

加藤 『マオ』がコミンテルン犯行説の根拠とした『GRU帝国』の関連の記述を紹介します。「GRU」はソ連軍参謀本部情報総局という巨大な諜報機関で、筆者はロシアの歴史家、プロホロフです。それによると、「張作霖は長年にわたって権力の座におり、満州日本、ソ連、孫文政府の利害対立をうまく利用していたが、彼自身は一九二六年から二七年のボロディン(中国で活動したコミンテルン工作員)の活動の結果に対しひどく不満を抱いていた。東支鉄道(中東鉄道)の通常の機能は、ソ連側で働く者と張作霖側との絶え間ない戦闘によって著しく脅かされていた。それゆえモスクワでは張作霖を処分すること、その際に日本軍に疑いが向けられるようにすることが決定された」。この最後の「日本軍に疑いが向けられるようにする」というモスクワの意向と、「ずさんな証拠残し」とが符合することを指摘しておきたいと思います。

イギリスにあった日本外務省の報告書

西尾 加藤さんは海外でも多くの史料を発見されました。例えば、イギリス公文書館で公開されていた史料です。その中に、事件直後の現場の見取り図(二四五頁の図1~2)があります。

(図をクリックすると拡大します)
Zhang Zuolin Assassination Incident sketch 1
図1

Zhang Zuolin Assassination Incident sketch 2
図2

加藤 日本語で書かれた見取り図で、奉天領事の内田が作成した報告書をイギリス諜報機関が入手したもではないかと思われます。しかし、「満州某重大事件」などと呼んで一般には内容が秘密にされた事件です。調査報告書の類は日本政府内でも限られた人員しか閲覧できなかったはず。そんな史料がなぜロンドンにあるのかと驚きました。イギリスが入手した経緯は当然ながら書かれていませんが、内田の結論である列車内部爆発説が斎藤参謀長所見と同様、まったく本国日本で取り上げられなかったことから、真相解明を後世に託すために、敢えてイギリス側に渡した可能性もあると思っています。

西尾 九十年後の今日、その内田の密かな願いが加藤さんの手で実現したのだとすれば、運命的な発見です。図2を見れば明らかですが、高架の満鉄線の欄干が破壊されて、下に垂れ下がっています。一方、図1では、地面に穴が空いたり線路が破壊されたりしたことを示す書き込みはありません。やはり河本たちの爆発は効果がなく、実際に彼を殺害に至らしめたのは、列車内の天井に仕掛けられた爆弾の爆発であったこと、それが極めて強力で車両だけでなく、上部の満鉄の橋梁まで吹っ飛ばしていたことがよく分かります。
 これだけすさまじい爆発の威力は、実は橋脚付近にも仕掛けられていた爆薬が、車両天井部の爆発によって誘爆したことで生じたという見方を加藤さんは『謎解き張作霖』で披露されています。

加藤 ええ。河本が第二の実行犯の存在に気付いていたかどうかにも関わる重要な問題です。

西尾 複雑な話なので、残念ですがその内容は本書『謎解き張作霖』に譲りましょう。イギリスでは、同国の諜報機関が作成した文書にも当たられたんですね。

加藤 イギリスは当時、陸軍情報部極東課(MI2c)と情報局秘密情報部(MI6)の二つの諜報機関が事件の真相を探っていました。
 このうちMI6諜報員だったヒル大佐という駐日大使館付武官のメモは、爆薬の設置場所について、爆薬は客車の上方にあったとしたうえで、①陸橋に詰め込まれていた②車両の天井に置かれていた|という二通りの可能性を検討しています。①なら陸橋上は日本兵が警戒していたので日本軍の関与を示す決定的証拠となるものの、「この見解はイギリス総領事に嘲笑された」として否定的です。これまでみてきたように、②の可能性が「十分ありえるのだ」としている点は重要なポイントです。
 また「張作霖の死に関するメモ」と題したイギリス外交部あての文書(一九二八年十二月十五日付)も、「爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った」と書かれています。

西尾 これは大きな発見だったと思います。
 
加藤 張作霖事件に関する同国諜報機関の文書をめぐっては、興味深い論争があります。京都大学教授の中西輝政氏は、MI2cの文書(一九二八年十月十九日付)を引用する形で、MI2cは「(張作霖事件に)関東軍もかんだかもしれないが、ソ連(コミンテルンないしソ連軍諜報部)が主役だったという結論を出している」としています(『WiLL』二〇〇九年一月号)。
 これに対し、秦郁彦氏は「張作霖からハル・ノートまで」(『日本法学』第七十六巻)という論文で、当時のイギリス諜報機関の活動を紹介するイギリス人の著述に「一九二九年に入り東京の英大使館は(事件の主役がソ連だったという可能性とは)別の推定に達した。すなわち暗殺は関東軍の一部によって遂行されたということである」と書かれているとして中西氏の主張を否定しています。このイギリス人の著述は、駐日大使からチェンバレン外相にあてた一九二九年三月二十三日付文書などに基づいているとのことです。
 しかし先ほど紹介した、河本グループ以外の実行犯の存在を示唆するヒル大佐のメモも同じ一九二九年三月二十三日付で、チェンバレン外相に送られています。秦氏が引用したイギリス人の著述を見ておらず詳細は分かりませんが、同じ日付の新史料が今回発見されたことで、秦氏の論拠が中西説を覆したことには必ずしもならないように思われます。

つづく
『正論』(2011年7月号)より

「張作霖爆殺事件対談(二)」への1件のフィードバック

  1. 西尾先生、明けましておめでとうございます\(^o^)/

    陰ながら応援しています、今年もご活躍を!

小林 正剛 にコメントする コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です