張作霖爆殺事件対談(五)

東京裁判史観を守り継ぐ「タコツボ史観」史家

西尾 秦郁彦氏と私は、『諸君!』二〇〇九年一月号で、「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」と題して誌上対談を行いました。

加藤 過激な対談でした。

西尾 秦氏は田母神氏の論文について、「全体的な趣旨や提言については、私もさしたる違和感はありません」としながらも、日本軍と国民党軍を戦わせて両者を疲弊させ、最終的に中国共産党に中国大陸を支配させようと考えたコミンテルンの戦略で日支事変が起きたこと、またルーズベルト米大統領と、その政権に入り込んだコミンテルンのスパイの罠に日本がはまって真珠湾攻撃を決行してしまったと述べていることについては、陰謀史観だとにべもない。「坂本龍馬はフリーメイソンだった」「平清盛はペルシア人だった」というテレビの歴史推理番組と同じ類だと憎々しげに愚弄する言い方でした。張作霖爆殺事件に関して田母神氏の論文が「少なくとも日本軍がやったとは断的できなくなった…コミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と控え目に言及していることついても、秦氏は「上杉謙信が実は女だったというのと同じぐらいの珍説」(週刊朝日、二〇〇八年十一月二十八日号)と小馬鹿にしていて、私は「そういう珍説と一緒にするのはやめてください」「こんな断定の仕方は酷い。可能性としては、爆破計画が別々にあって、河本大作大佐らが先に実行した、あるいはソ連と秘かに組んで実行したというケースもありえる」と怒りました。

 さらに「河本大佐が何者であったか、いまでもわからない」と言ったら秦氏は、「隅々までわかってますよ」と言うんですね。

加藤 まだ重要史料の不足で分からないことが色々あります。今回、前述のお孫さんの女性への取材で、河本が早くから諜報機関に憧れ、ロシアに入り込んでそうした活動をしたいと本気で考えていたこと、ロシア人の友人がいたことが分かりました。この「友人」が工作員だった可能性も捨て切れません。
 
半藤一利氏もベストセラー『昭和史』で秦氏と同じように従来の説をなぞって、講釈師のように「六月四日のことでした。まさに張作霖の列車が奉天付近に辿り着いた時に、線路に仕掛けられた爆薬が爆発してあっという間に列車が燃え上がり、張作霖は爆殺されてしまいます」と書いています。
 
西尾 半藤氏はより悪質だと思います。『昭和史』の本章は、昭和三年の張作霖爆殺事件から始まり、昭和という時代の戦争へと至る止まらない流れがこの年に始まったように書く。なぜか。この一九二八年という年に締結された「ケロッグ=ブリアン」条約、いわゆる不戦条約が、東京裁判で日本を犯罪国家、侵略国家に仕立て上げるための唯一の論拠だったからです。それに合わせているのです。
 
加藤 「昭和三年一月一日以降の『侵略戦争遂行の共同謀議』」などとあげつらった東京裁判の起訴状そのものです。張作霖爆殺事件もそこにうまくあてはめられた。
 
西尾 すべてがつくり話なんです。つくり話に戦後の歴史家たちが乗っかっているんです。

 秦氏は、歴史の陰に陰謀や謀略があったとの見方を、根拠のあやふやな「陰謀史観」だと切って捨てます。しかし、世界史は陰謀にまみれています。特に中国大陸は一九二〇年代から今日に至るまで、陰謀抜きでは語れません。歴史を書くこととは、驚くべき陰謀がどのように歴史を動かしてきたかを、少しずつ解明して証拠を添えていくという作業です。歴史は疑問に対する推理や想像から始まります。そして証言や証拠をもってそれを検証していくという作業です。きょう、最初に河本首謀説のどこに疑問を持たれたのかと質問したのも、そのためです。

加藤 想像力がなければ謀略は見抜けません。どんな科学、化学の成果でも、最初の一歩は想像力ではないでしょうか。

西尾 謀略を見抜けなければ、外国に指定された歴史観に盲従するしかない。戦後の日本がそうです。
 
加藤 秦氏は、コミンテルンの事件への関与というと「陰謀史観だ」といって顧みようともしませんが、河本首謀説しか考えないのは逆に「タコツボ史観」だと言えます。国内の事情や史料しか見ない。しかも、占領軍、東京裁判によって押しつけられた歴史とはつじつまの合わない史料は敢えて黙殺する。今回の検証作業で、このタコツボ史観の問題点を明確にすることができたと考えています。コミンテルンや張学良の他に別の背景があるのかどうかについては今後の研究を待たなければなりませんが、少なくとも河本首謀説の誤りは明確になったと考えています。

西尾 既存の歴史認識、あるいは歴史学会、現代史の学者たちに重い挑戦状を突きつけた、何人も無視できない業績だと思います。
 
加藤 今年夏、中学校の歴史教科書の採択が行われます。各社の新しい教科書をみると、依然として張作霖事件は旧来の河本首謀説に即した記述です。自由社版などでは、そう記述しないと検定に合格できかったそうです。せめて事件の記述が教科書から外れるようにするためには、文部科学省の教科書検定官たちの歴史認識を変えるような史料がもっとたくさん出回る必要があると思います。次代を担う子供たちがこれ以上、不当に日本が貶められた歴史を学ぶことは看過できません。


『正論』2011年7月号より

「張作霖爆殺事件対談(五)」への1件のフィードバック

  1. お邪魔します。
    「講釈師のように」という言葉が光っていますね。歴史家ではなく、小説家のスタンスを感じます。西尾先生のこのご指摘ー『昭和史』の本章は、昭和三年の張作霖爆殺事件から始まり、昭和という時代の戦争へと至る止まらない流れがこの年に始まったように書く。なぜか。この一九二八年という年に締結された「ケロッグ=ブリアン」条約、いわゆる不戦条約が、東京裁判で日本を犯罪国家、侵略国家に仕立て上げるための唯一の論拠だったからです。それに合わせているのです。←も重要だと思います。加藤氏のー「昭和三年一月一日以降の『侵略戦争遂行の共同謀議』」などとあげつらった東京裁判の起訴状そのものです。張作霖爆殺事件もそこにうまくあてはめられた。←も同様です。WILLの「シリーズ 日本史を見直す」、が張作霖爆破事件と柳条湖事件でスタートしたことに、私がなにか非常に期待できる意気込みを感じたのもそのためです。連合国の裁判ですから、太平洋戦争は真珠湾の検証から始めればいい筈です。当然真珠湾から始めるべきです。そんな自虐行為はアメリカもしたくなかったのでしょう。
    2009年に西尾先生が秦氏とされた重鎮対決なんですけどね、秦氏の最後の言葉が気になるのです。http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-107.html
    ーこれからの日本は世界の覇権争いに首を突っ込むのではなく、石橋湛山流の小日本主義の道を行くと言う手もある。博打は打たないで、大英帝国のように『能う限り衰亡を遅らせていくというのは、立派な国家戦略だと思います』ーと発言された。これを繰り返して考えています。こういう歴史に定着させることが日本の歴史家に課せられた使命ではないかと。西尾先生に「あなたの専門にお帰りなさい」ともおっしゃった。歴史家の立場があなたにはわからないのだ、とおっしゃっているように聞こえないこともない。歴史家には歴史家の掟があると、言外にほのめかされているのではないかと。「隅々までわかってますよ」もそのように響きます。わかっているけど、歴史家としてそれでは生きていけないと。そこで最後の発言です。『能う限り衰亡を遅らせていくというのは、立派な国家戦略だと思います』。しかしこんな歴史のままでは衰退するしかない、とわかっている。そんなものが「立派な国家戦略である筈がない」←そんなことは子供にでもわかります。それを敢えて口にするところに、何か信号があるように思うのです。
    勿論肯定しているわけではありません。多くの日本人が命を張ってでも「博打をうち」この戦いに挑まなければなりません。「衰退するしかない国家」をそのまま見捨てたいのなら、話は別ですが。

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