村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム集(第三回)

9)右の胸からどくどくと血が流れ出しているイエス、全身に斑点となって血が吹き出しているイエス、拷問、斬首の場面、ことに首斬り役人に打首された聖ヨハネの屍体の首から血が棒になって流れ出している構図などは、あまりに即物的で、ある意味では漫画的ともいえるので、私は見ていて馬鹿らしくなった。 
全集第一巻ヨーロッパ像の転換 P45上段より

10)日本人に苦手なのは、割り切り方である。相手の気持ちを忖度して、日本人の神経はこまかく働きすぎる。相手から信頼されているかどうかに鋭敏で、できるだけ相手を傷つけず、そのみかえりにできるだけ相手からも傷つけられず、暖かくつつまれていたいという孤立をおそれる心理が、日本人の対人関係にたえまなくつき纏っているように思える。
全集第一巻ヨーロッパ像の転換 P48下段より

11)特殊性をまもることはしたがって、ここでは自己主張の形式であり、積極的な自己愛の方式ではなかったか。
全集第一巻ヨーロッパ像の転換 P58上段より

12)ヨーロッパの「普遍精神」とは、ただ、「特殊」を通じてのみ獲得されうる。
全集第一巻ヨーロッパ像の転換 P58下段より

13)特殊とは自己主張であり、自我拡張欲である。それがヨーロッパの流儀である。
全集第一巻ヨーロッパ像の転換 P58下段より

14)京都はたしかに美しい。それは、フィレンツェよりもウィーンよりも美しい。が、その美は文化保存の意志であって、文化創造の意志ではない。
全集第一巻ヨーロッパ像の転換 P60下段より

「村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム集(第三回)」への1件のフィードバック

  1. 11)から13)のアフォリズムは、私は主にヘーゲルから学び、私の青年時代の教科書は、日本の文部省の指定したカリキュラムではなく、彼の「法の哲学」や「精神現象学前文」(共に日本訳、中央公論社刊行)でした。もっとも、「特殊」から「普遍」へのダイナミックな弁証法過程は、いわば彼も言う「理性の詭計」であり、私もマスターするのにしくじり、正反合の合に於いて統合失調気味に成ってしまいました。
    以上私事で恐縮ですが、日本において「覚悟を決めて」ヨーロッパを学ぶことの困難さを皆さんに知って貰えたらと思い書きました。
    因みに、現実政治に於いて、マルキストの指南書がマルクス、レーニンならば、私の指南書を明かせばそれは倫理志向ともいえるヘーゲルになります。
    先生の政治指南の原風景、バックボーンはその価値転換、否定、自我志向からニーチェ、ショーペンハウエルかと思われ、思想意見が対立するのもむべなるかなと時々思います。以上粗雑感想まで。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です