村山秀太郎が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)

56)日本に「市民意識」が育たないのは、日本人にはそういう外枠への想像力や構想力が弱く、ために、自分が属している小集団の価値観を絶対化し、それを外の世界へ主観的に押しひろげていこうとするわがままや無理強いが幅をきかすことになるためだろう。

57)日本人・・・・・・は行動というものをつねに一種のスポーツと考え、当意即妙に、現実に適応する爽快な遊戯精神はそこからは出てこない。(中略)欧米人の・・・・・仮面の裏に、いつでも人をも私をも傷つける強靭な合理主義の刃が顔をのぞかせているのは行動の規範が他人への見栄にではなく、自己への誠実さそのものにもとめられているからにほかならない。

58)ヨーロッパ社会では・・・・人間同士の横のつながりに、もう一つの重直の軸が置かれている。

59)われわれは、これまで、つねに、個人であり過ぎるか、日本人であり過ぎるか、そのいずれかでしかなく、両者の契約的な、仮説的な、とらわれのない、自由な関わり方をどうしても身につけることじゃできなかった。

60)部分が全体を目的とせず、全体が部分を圧殺しないこの自由な関わり方は、(中略)ヨーロッパ・キリスト教世界全体をささえるあり方であるともいえるだろう。

出展 全集第一巻ヨーロッパの個人主義
56) P307上段より
57) P310上段より
58) P313下段より
59) P324下段より
60) P325下段より

「村山秀太郎が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)」への1件のフィードバック

  1. アフォリズムという言葉を聴くとArthur Schopenhauerの『Aphorismen zur Lebensweisheit』が読みたくなりました。(ドイツ語が出来ないのでいつの事やら・・)

    私は学生時代にショウペンハウエルの「自ら考えること」(角川文庫)を読んでから如何に本を鵜呑みにしないで自分なりに考えることが大切かを知りました。
    それからショウペンハウエルファンとなり、彼の伝記を読んでから仏教に興味が沸き、いまでは旧漢字、旧仮名遣いの仏典で声をあげてご供養することが日課となりました。

    私にとってのウパニシャドは平楽寺書店の「法華三部経」です。このお経の中にウパニシャドの精神が生き続けているのです。
    Das bist du.という箴言は関口存男の「趣味のドイツ語」で知りましたが、この教えを法華経で発見したときには身震いしたものです。

    法華経の妙法蓮華経授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)第九に
    仏と阿難(あなん)という読書好きの弟子との違いがお釈迦様のお言葉で書かれています。

    阿難は常に多聞(たもん)を楽(ねが)い、我は常に勤め精進す。是の故に我は巳(すで)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たり。

    阿難は、多聞(たもん)という知識ばかり増えていた弟子よりも同じ時期に修業に入った私(お釈迦様)の方が実践行(勤め精進)をすることで彼よりもずっと早く悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に達した。

    とかく本ばかり読んで実践行の足らない自分の戒めとして読経するたびに感銘を受けるお経の一文です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です