先ごろ私の旧著から村山秀太郎さんがアフォリズムを拾い出して下さいましたが、どういう選び出し方をなさるかを私は実例文を当ブログで目にする前には知りませんでした。管理人さんに全部お任せでした。
長谷川さんはご自身のブログで次のように書いています。
西尾先生の本から、
短文を選んだアフォリズムの特集?をやった。これが意外にやっかいで、
私としては出所場所をきちんとしたいし、
一字一句正確にしたかったので、
文字を照らし合わせる日々が続いた。今回のアフォリズムを選んだ村山さんは
結構自分流に解釈されたりしているようで、
大幅な略があったり、
主語が添えてあったりして、
これを直すのが大変だった。そりゃあ、そのまま載せれば楽ちんなんだけれど、
西尾先生の文章は「て、に、を、は」まで、
考え抜いて書かれているので、
ちょっとでも変えるのは嫌だったので、
こだわった。別に仕事でもなく、
義務でもないのに、
でもこれが私の役割だと思って・・・・・・
阿由葉秀峰さんも同様に昔からの愛読者のお一人で、坦々塾会員です。これから同じようにアフォリズムを拾い出して下さいます。同じように私はお任せで、見ていません。長谷川さんに直送されましたので、これから少しづつ掲示されるのを拝読するのは楽しみです。人により、私がそれぞれ違って顔を見せるのを私自身があらためて眺めるのは面白いというより、不思議な体験になるでしょう。
阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム
坦々塾会員 阿由葉 秀峰
気宇壮大な西尾幹二全集は、大きな論考から、批評や紀行文、数十行の小さな随筆風にいたるまで、全てが文学の香気を醸し、さらにその有機体が纏まって、一巻一巻がそれぞれひとつの芸術としてふたたび昇華している現在進行中の作品群です。読み進む過程で光る一節にあたるたび、はたと立ち止まること屡々です。また、先生ご自身が編集する全集ゆえ、稀有な輝きを放つのでしょう。
全集第2巻「悲劇人の姿勢」冒頭の「アフォリズムの美学」という昭和44年の論文に、「私はアフォリズムを読むのは好きだが、書いた経験はまだ持っていない。ただアフォリズムを十分に読みとることの厄介さ、読解することの難しさといったことを考えると、これを書くことのある種の危険もわかるような気がする。」(全集第2巻10頁上段)とあります。以降、アフォリズムを多産されてゆくというのに、それを読んだとき、私は何とも言いようの無い不思議な感覚に捉われました。
エラスムスの云う「文章の短さ、鋭さ、機智、洗練、新奇、含蓄、簡潔さ」の強調(全集第2巻17頁上段)は、現代も有効なアフォリズムの要素でしょう。しかし、私が戴くこの機会は、そういった要素にそれほど捉われず、文章が短くはなくとも、寧ろ流麗さや韻律が感じられる文章、前後の文脈を知らなくても、それのみで独り立ちする文章を選んでみました。「何十年の体験の集積を、わずか数時間でわかってしまおうとするには、われわれは善良すぎる。」(全集2巻11頁下段)という、34歳の西尾先生の警句(アフォリズム)を肝に銘じつつ。
1)私たちは、私たちがこうして批判し、否定している対象そのものの一部であるという視点を見喪ってはならないのである。
2)内心は反対しながら、表面はにこやかに応対するといった交際術を都会風だとか、大人の付き合い方だとか言いたがる日本人は、じつははじめから言葉や論理にそれほど重きを置いていないというに過ぎまい。つまり言葉や論理で自分をどこまでも追い込んで、相手に自分をぶつけて行かない限り、自分が相手から抹殺されてしまうというような不安が日本人の社会にはもともとないのであろう。
3)日本人に取り入れられているのは西洋人の平常服です。日本女性は西洋の正装というものを知らない。で、正装が必要なときは和服をきてごまかすわけだけれど、そのうち和服の平常の装いを忘れてしまって、したがって平常着の上に成り立つ正装ということ、逆に言えば、正装という規範がなければ、平常着そのものにも自信がもてないはずだという当然の道理に対し無感覚になってしまった。いいかえれば、儀式によって規制されている日常という、いわば風俗の様式そのものを見うしなったのではないですか。
4)過去の規範がなければ、どうして新しい姿というものも生れて来ましょう。
5)伝統とは、その中にとっぷりひたっている者には、本来それとは意識できないなにものかを指す言葉なのである。
出展 全集第一巻 ヨーロッパ像の転換
1) P19下段より
2) P26下段より
3) P61上段より
4) P61下段より
5) P91下段92上段より