「真夏の夜の歴史放談その2」への4件のフィードバック

  1. >現代人は「知能」はあっても「知性」が無い。

    先生お久しぶりです。
    この言葉は「西尾幹二全集第一巻」でもお見受けできる言葉です。
    つまり先生は一貫してこの言葉を日本人に投げかけてきた、と言えるでしょう。

    日本人は真面目です、相対的に。
    でも、創造力が乏しい。
    何故か?
    それは、日本人のほとんどが「やっつけ仕事」を得意とするから。
    外国人から見れば恐ろしい程の美的感覚を持ち合わせている日本人ですが、その弊害が無いとは言い難い。
    仕事の出来具合が綺麗なのは「美徳」ではあっても、人間社会の「智徳」にはたして直結するだろうか。
    日本が世界で一国だけ例外的に「美徳」を投げかけたとしても、おそらく諸外国はついてこれない感覚だろう。しかもそこにこだわりをもつ日本人が大勢いることは現実であり、人間の根本を問いただしてみた時の「違和感」そのものかと認識しなければならない点ではなかろうか。

    日本人には困難で中国人には容易い諸外国との関わりの一部分を指摘するならば、この点が浮き彫りになってくることを指摘せざるを得ない。

    つまり人間の「性分」の範疇に属する問題だと言える。
    日本人と中国人(大陸人と言うべきか)の根本的な違いはここにある。
    この人間的性分の受け入れ方は、おそらく大陸人には有益で、日本人には不利益な場面が多いと感じる。

    なぜなら日本人はこの点で「孤立」を拒まない。
    その結果がはたして日本に不幸をもたらすものだとしても、おそらく日本人はそのことの拘りを失わないだろう。

    先生が指摘された「知能」はこの「性分」と少からず関わりを持っている。
    「美徳」を信条とする国民性は、そこに拘りを持つと、一切の観念を抹殺しかねない。「清く、正しく、美しく」が全ての行動を支配し始める。

    これは他国から見ると「侮辱」の要素を孕んでいる危険性が無いとは言い切れない。日本人の「美徳」を完全評価することの前に、これを違和感としている諸外国が存在している可能性を頭に描くことが、「知性」というものに繋がるのではないだろうか。

  2. 言葉が少し足りなかったかもしれない。

    日本人の「美徳」はけして孤立していると言い切れるものではないのだが、そこに「拘り」をもつ日本人の「観念」が理解しにくい最大要素かと感じる。井沢元彦氏が語っている「箸」の理論というのがあり、食器やその器具を日本人は受け継がないのは「穢れ」を意識するからだと語っていた。

    水の豊富なお国柄だろうか、「洗い流す」という感覚も手助けして、「清く正しく美しく」は定着している。言葉を返せばこれを失うと日本人は壊滅すると言い切っていいだろう。

    孤立しながらもこの観念が「美徳」である以上、日本人は「孤立」せざるを得ないと、最近そのことに思想の拘りを持ち始めているあきんどであります。

    つまりはそのためなら、あとは戦うしかない・・・。

  3. 西尾様や宮崎様の精緻な情報により、茫洋としている所有の概念『』が裏付けられて居ますのでその概念『』につき以下に表記させて頂きます。

    『陰陽の月山と鳥海山は、列島、地球、宇宙と一依帯動の生命系であろう。
    列島は4種の地殻プレ−ト、3種の大気流、寒暖2種の大潮流により、
    冠状・環弧の形態に組み立てられ、
    約一万年前に日本海を介して乾燥と流砂の大陸から離れ、
    枯れることのない無数の緑水脈が鼓動する島弧となった。
    西大陸の流砂に冠状緑水の冠を示し、東方には環弧緑水の盾を備えている。
    その地形心理に染まる性(さが)は緑水の自然親和性であり、
    東西対岸の自然対立性の流砂の性(さが)に常時対峙している。
    更に列島の生命は緑水の熟成の後、東西対岸の流砂を征し緑水の再生するを
    宇宙と地球が導く一依帯動の役務としている。』

    特に明治期以降、列島人は列島の真髄を忘却し、誤動作を連続し大東亜太平洋戦の大敗北に収斂し、自虐謝罪の70年を経てもなお、緑水の覚醒はみられず、東西国の流砂に対し従属乃至刹那的反作用に終始している。落ち着いて江戸期の振り出しに回帰し、武士道を現代に改新し、緑水思想により誤作動を修正し、
    怨恨滅亡の東西に対し緑水蘇生の無怨哲学を実施してゆくべきであろう。

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