阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十六回)

(2-21)現実を改変する力を文学はもともと持っていないし、また、持つ必要もない。文学は現実に支配される宿命のうちにある。

(2-22)作家は文明の位置の変動の波に乗せられているだけでは駄目である。変動の波に乗せられている自分の位置を対象化して眺めるもう一つの目が必要なのである。

(2-23)作家は社会の裡(うち)に生きているある無言の思想に言葉を与えるのみである。そのために、作家の自己はつねに自分より大きな犠牲を要求されているとさえ言える。

(2-24)かりに今の私たちの生活の場が極度に悪い条件のうちにあると仮定しても、私自身はそこからの脱出は考えない。なぜなら、脱出という行為への情熱は、ただ脱出という行為そのものに終わるからである。いい社会ができてしまって何をするか、という問題はそこには初めから含まれていない。

(2-25)生活人の日常には、文学などに携わっている人の及びもつかないほどの強靭なものが秘められているのが普通なのである。

出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-21) P184 下段 「文学の宿命」より
(2-22) P199 上段 「文学の宿命」より
(2-23) P206 上段 「文学の宿命」より
(2-24) P218 上段 「文学の宿命」より
(2-25) P223 上段 「文学の宿命」より

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