阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十五回)

(2-16)文章の書き手が言葉をもって言い表したものを、読み手が指示されたとおりに受けとるだなどということは全くあり得ない。読み手は書き手の指示するものを読むのではなく、自分自身の欲するものを読む。同様に書き手は読み手のために書くのではなく、自分自身を生かしいいように書く。良いとか悪いとかいうことではない。言葉とはそういうものなのだ。
 いかなる言葉にも読み手の、または書き手のそれぞれの下心、経験、欲望、自意識からまったく自由になりきれないなにものかが介在している。

(2-17)たといどのように深い政治的洞察から書かれた作品であっても、それがどうしても文学でなければ表せない現実を表現していると納得がゆかない限り、私は文学化されたあらゆる種類の政治主義には猜疑(さいぎ)の目を向ける。

(2-18)どんな文学表現も作家の現在の日々の生活意識から切り離すことはできない。

(2-19)死への情熱によってはじめて人間は生への情熱に触れることもある。

(2-20)人間にとって完全な自由、完全な自律はありえない。私は現代に生きる私自身の「自己」などというものを信じていない。私は自己の外に、もしくは自己を超えたところに、奉仕と義務の責めを負わねば「自己」そのものが成り立たぬことを考える。

出展 全集第2巻  「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-16) P153 下段 「ニーチェ」より
(2-17) P168 上段 「政治と文学の状況」より
(2-18) P170 下段 「政治と文学の状況」より
(2-19) P174 下段からP175頁上段 「政治と文学の状況」より
(2-20) P180 上段 「政治と文学の状況」より

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