(2-11)誰しも他人を理解しようと思っているばかりでなく、自分を理解させようと思い、あるいは理解させることが出来ると思っている。つまり、自分で自分を理解しているように、他人に自分を理解してもらおうという欲望をもたないものはない。論争において、味方の理解を期待するのはそのような欲望と無関係ではあるまい。しかし、ここでよく考えてみる必要がある。それは、実は、他人が自己を理解しやすいように自己を仕立て上げる欲望でしかないのではないか。その弊害は、自分で自分が理解できるように思いこむことにある。
(2-12)認識への直線的な道を示す「科学的方法」は、それを硬化させるあらゆる信仰を打ちくだくが、信仰にとじこもって、認識への道をさまたげているものは、じつは科学そのものではないのか。
(2-13)神を信じなくとも神の影を信じている。かくして逆転された真理の座に、神の代わりに科学がとって代っているからといって、もはや何の
不思議もあるまい。人間には、つねに、なにかの真理が必要だからである。真理の得られないときには幻覚さえも欲するからである。
(2-14)一冊の小説を三人が読めば、そこにあるのはすでに三冊の小説である。作品のなかにめいめいが別のものを読みとっている、というだけのことではない。読者は作品のなかに、作者の意図とさえかかわりのない自己自身の映像をみる。読者は作品を読むのではない。己れを読むのである。
(2-15)「平和」とか「階級」とか「ヒューマニズム」とか「学問の自律」とか・・・・・・こうした言葉が理窟らしい理窟でこね上げられ、意味ありげな内容に仕立てられると、書いた本人とはかかわりなしに、言葉だけが独りでに動き出す。言葉は個人から離れ、個人とはかかわりのない所で、別個の個物としての存在を主張しはじめる。言葉が人間を支配し、人間は言葉に操られる。
出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-11) P113 上段「福田恆存(一)」より
(2-12) P125 上段 「ニーチェ」より
(2-13) P135 下段 「ニーチェ」より
(2-14) P152 上段から下段 「ニーチェ」より
(2-15) P152 下段からP153 上段 「ニーチェ」より