坦々塾 呉善花先生講義(三)

 ここでこの精神状況というものを、少し詳しく紐解いておきたいと私は考えます。

 日本を訪ねた韓国人はすなおに日本のすごさ、すばらしさを認めます。料理に限りません、例に挙げると「ものづくり」。これもあらゆるものが精緻で美しく機能的で、かつ伝統に裏打ちされている。あらゆる分野での工芸品の水準の高さは目を見張ります。また、先端技術が生かされた高度な社会システムが構築され、秩序は乱れない。
 
 世界の人々が驚いた東日本大震災のときの日本人の姿。極限の自然災害に遭遇しても、人に譲って自分をあとにするという道徳心をまざまざと見ました。韓国人も衝撃を受けました。なぜ、あんなことができるんだろうと。こうして敬意をはらうと同時に、頭が混乱するのです。「日本人とはいうのは全くわからない国民だ」ということになるのです。

 日本人の精神の軸。そう呼べるものがいったい何なのか。全くわからない永遠の謎なのです。

 韓国は基督教社会です。一神教の社会というのはその点でわかります。勿論、朱子学の儒教社会はわかります。韓国の軸と言えるでしょう。日本人は何が軸と言えますか?神道ですか、または武士道ですか。ある人はそれではなく仏教だというでしょう。ほかにもあるかもしれません。韓国人はそこで戸惑ってしまうのです。

 つまり軸が一つではない。日本には至る所に神社がある、寺もある。その神社というのも八百万の神々を祭っているので同じではない。太陽であったり樹木であったり自然をうやまうアフリカの人ならわかる。日本人も自然をうやまいますがわかりにくい。バラバラなんです。もしかしたら悪魔を信じているのではないか。そのように韓国人は思うわけです。

 正月には初詣に神社に行って、その足で寺にお参りするような日本人だってざらにある。

 どういう精神性なのかと頭が混乱するのです。ほとんどの韓国人はここで困ってしまう。そして、混乱するだけではなく、許せないということになるのです。私も長い間、そうしたどこか許容できないという気持ちをもっていた。

 韓国の人は先祖以外は拝んではいけません。いろんなものを拝むのは迷信の部類です。韓国はちょうど日本が鎌倉時代のころ、仏教を棄ててそれから陽明学も弾圧して、朱子学だけを大切にするという転換を行いました。朝鮮における文治主義の徹底です。日本は鎌倉時代以降も野蛮な武士の戦いがいっこうにおさまらない。どうにもならない国だと、私たちの先祖は思っていたわけです。

 日本人にはひとつの価値とか道徳がない。なんだかわからない。韓国人の善はわかりやすいのです。一つだけある。儒教に説かれている聖人君子がその善を体現している。金正日一人が善を実現できる人で、それ以外は悪である。一番偉い人が一番正しい。朱子学の教えはこれであると。

 そしてデタラメな基準で生きている日本人はこれが理解できないから、いつも頭を叩いておかないと彼らは何をするかわからない。考えを変えてしまう。常にきちんと教え込んでおかないといけない。韓国人が言うところの「歴史認識」とはこれであって、双方の国民がそれぞれ意見を主張しあって互いに歩み寄る、というものでは決してないのです。日本人がやることは韓国が主張するものを受け取るだけ。反論や異論等とんでもない。繰り返し繰り返し、韓国の言うことを日本人は心して聞けということです。

 日本人にしてみると実に不可解なことだと思うでしょうが、現在の韓国の朴政権は戦後いちばん外交で成功しているという評価を国内ではしています。

 普段は日本人はぼおっとしている。けれど何か一つ掴んだときの集団主義は怖しい。韓国人はそういう恐怖心で見ています。事あれば、いつ軍国主義になるか知れない。震災のときもそうでした。ここから日本人はさっと変質していくのではないか。軍国主義に走るのではないかと心配しています。

 日本人と韓国人の価値観について、もう一つお伝えしておきたいと思います。

 「もののあわれ」というものを日本人なら感覚的に、情緒的に知っています。一方、韓国人は「恨」の国民だと自他共に認めています。二つの国民性は大きく異なっています。もののあわれというのは何でしょう。秋になると日本人は物悲しいと言ったりします。虫の声が聴こえると、ああ秋だと言います。木の葉が紅く染まってくるとこれも秋を感じますね。
 
 韓国人は日本人ほど虫の音が聴きわ分けられません。日本人は敏感なのです。柿の木に実が成っていたが、秋も深まり三つしか残っていない。こうした情景も日本人は美しい感じたりします。しかし韓国人がこれを見たら美など感じません。三つしかない、これは不吉なのです。韓国人は花が咲き、木が生い茂っているなら、永遠に咲いて永遠に繁っていてほしいと思うのです。「なぜ枯れて(衰弱して)いくのか?」。この感情も「恨」なのです。枯れること、弱ること、衰えること、すべてあってはならないのです。

 私は昔、日本の茶道をまなぶ機会がありました。茶室に招かれて、お点前を待っていました。部屋の一角の花筒に今にも落ちてしまいそうな枯れ葉がありました。私はこれがイヤで「生き生きとした花ならまだしも」と思って質問したのです。すると先生は、「この瞬間にしかみられない生命の儚さ」というものがあるのです、と説明してくれました。初めてそんなことを知りました。

 日本の人たちは桜をこよなく愛します。桜の花といっても僅か三日か四日。長くて七日くらいで散ってしまいます。雨風が来てたった一日で花が終わることもあります。けれど日本人はこの儚い花を観るために花見に繰り出します。散り際が美しいとも感じます。韓国人にはこの感覚がわからないだけでなく、怖いのです。潔いという美意識が怖い。日本人は親切なときは親切。ですが、あまとはぱっと斬ってしまう。朝鮮人はそう思うのです。日本人はわがままも聞いてくれるが、桜の花のようにさっと態度を変えるかもしれない。

 恋愛の話をすると、日本の男性は好きな女性に告白して、受け入れられないなら、大抵、さっと身を引きます。ところが韓国の男性はそうはしない。好きな女性に対してはいつまでもどこまでも未練がましく追いかける。女性が結婚してもまだ告白している。韓国人は自ら、それを「情が深い」と自讃しているのです。韓国人は水に流すことはできない。過去をずっと携えて言う。相手が、相手である日本人が水に流すのは許せない。だから、善である韓国人は、善でない日本人に対してずっと言いつづけなければいけない。そう思っているわけです。

 永遠に咲いている花なんてこの世にありません。しかし、韓国人はそれを望んでいるのです。だから、韓国には至るところに造花を飾ってあります。公の場所、ホテルのフロントなどでも見かけるでしょう。造花はいつまでも枯れない、萎れない。したがって韓国の国花は「むくげ」なのです。華やかとはいえないけど、散らないからです。

 韓国人はユダヤ人が大好きです。私たちは一度も侵略したことがない。善なる民族である。同じく受難がありながらユダヤ人のように優秀で強くありたい。朱子学の教えでは、善なるものは枯れたり、萎れたりしてはいけない。つまり死んではいけない。だから息子を産むことです。そうすれば遺伝子が代々継いでくれ、明るい未来になる。若いときに勉強するのは将来、苦しみが少なくて済むと思うからです。「私には苦しみがあってはならない」。そう深層にはそういう意識があるのです。
 私には苦しみがあってはならないはずなのに、日本人のせいでこんな苦しみを負わされている。こうした偏った性向が嵩じたのか、「火病」という世界で韓国人にしか罹らない珍しい病気があります。「火病」の症状は体の片方に熱がこもって、もう片方が冷たくなる。原因はストレス。嫁と姑の間で葛藤が生じて、女性に多かったが最近は男性患者も増えている。ストレスの内容ですがやはり「恨」、恨みつらみと関係があるとされています。

 日本人が韓国人に話し合いましょうと言ってもうまくいかない。当面は、日本人の知恵であります「間」をおくこと、それから立ち向かっていくことが大切だと私は思っています。                    (了)

「坦々塾 呉善花先生講義(三)」への3件のフィードバック

  1. >呉善花先生の論文に寄せて

    呉善花先生の一字一句に、考えさせられるものがたくさんございます。
    日本人と朝鮮人の心の差異に、気づかされるものがたくさんありました。
    はたしてこの両国は、なぜこれほどまで心の宿し方が違うのか、その真意は誰にも解明できないものだと、諦めに近いものが今もなおあるわけですが、先生の存在が少からず、我々日本人にはその謎解きの解明に役立っていることには間違いありません。

    しかし、厳しい表現を許されるなら、先生の言葉の中にも朝鮮半島への心の「ゆりかご」を感じるものがしっかりあり、私にはかえってそれが不思議と安心できる気持ちにもなりました。

    過去の両国の歴史を深く知り合っていない今の時代、はたしてどうやって今後接するべきなのか、それはなかなか困難なことではあるのですが、私は両国が近い存在であることを意識しすぎない未来を望む立場であります。

    お互いに「下駄履き」で行き来していることがどこかにありはしないだろうか。お互いに「国」を意識しないものが存在していないだろうか。
    そうした観念が今後どのように構築されるべきなのか。

    そんなことを考えています。

    私は北海道人なので、朝鮮人との接触が内地に比べて少ない環境でした。高校時代に修学旅行で関西に訪れて、はじめてチマチョゴリの学生服に出会った身です。
    その制服を見た際、どうして胸元がこんなに短いものでデザインされているのか、その理由さえ謎に思うほどの立場でした。
    それを知ってから、よくよく周りを見渡すと、、我が学校内にもそれを意識しているかのような女生徒が数人いて、そういう子に限って、風圧を感じさせる違和感があったことは間違いない事実です。それに引き釣られるかのように、徐々に他の女子生徒も制服の上半分が短めになっていき、一種の流行になっていたわけです。

    それはさておき、先生の両国の差異に関する細やかな表現は、とても勉強になりました。特に私に響いた部分は、韓国の男性はしつこく女性につきまとうというところです。それを、女性の方がどのように受け止めるかは別とした、確かにその差は多く見受けられることだと認識しました。

    昔から日本の女性の「ウケ」は評判で、日本男児の「ウケ」の良さは聞いたことがありません。総称して「サムライ」という観点で、日本男児を論う(あげつらう)ことはあっても、そこにはなにか異次元な観念があり、はたして現代人がどれだけそれを許容しているかは疑問符が多いでしょう。
    おそらく先生もその点はガッテンされるはずです。

    ところが最近は、男勝りな女性が身近なところで見受けられるじだいとなりました。若い層には少なくなりつつあるようですが、ちょうど私たち50代を中心に、その幅上下が20歳ぐらいと表現したら良いかと思うのですが、いわゆる男勝りな方々がいらっしゃいます。
    でも、おそらく彼女たちはまだ「女」を意識して育てられてきたはずですから、性の差は当然あるでしょう。
    問題はその次の次の世代の女性たちです。
    平成生まれの子供たちが続々と現代社会に出現しているわけですが、その多くの女性たちは、普段の言葉のなかに男性的な表現を惜しまず使い果たします。
    個人的な名指しをしたかと思うと、突然「おまえさぁ、なにやってんだよぉ、ばっかじゃねぇのぉ」
    昔の関西弁で言えば「あんさん何されまんの、アホやのう」となります。

    時代が違っても女性が男性を貶すことはあったでしょう。でもそれが「言葉の表し方の差異」となって伝わってしまうと、聞き入れる男性陣には、あまりにも違う心理が生まれてくるわけです。
    現代人の男性諸氏が気弱だと言われる由来は、おそらく現代女性の言葉遣いに何らかの原因があるかもしれないと、私は思っています。

  2. 7世紀,日本国は百済人がつくった.これは常識だ.では,百済のルーツは?
     百済のルーツは,いくつもの中国史書に明確に書いてある.
     たとえば,『旧唐書』百済伝には「百濟國,本亦扶餘之別種」とある.
     これは,百済のルーツは「扶余」である,という意味だ.そう書いてある.
     つまり,「扶余」→「百済」→「日本」.日本のルーツ,それは「扶余」である.
       「扶余」とはツングース語の鹿(ブヨ)の漢字表記.「扶余」は鹿(ブヨ)なのだ.
     はるか昔,扶余族が黒竜江流域にいた頃,鹿は,聖獣であり始祖であったという.
     ……現代日本においても,鹿は,聖獣である.

  3.  戦前から戦後と歴史の連続性が、閉ざされた言語空間によって遮断されている。
     この遮断とはポツダム宣言受託、東京裁判史観という占領国側の歴史観により塗り部されている。
     戦後の人間にとって、何故、日本が戦争に追い込まれたか、国内対立とは何であったか、またその要因に何であったか。

     大森一声氏は回顧し、視野の広い小林さんは、貿易の仕事を通じていよいよ世界情勢に通じて、1939年の危機を予測し、自ら中心となつて三六クラブを結成されたのでした。私も直心道場の面倒を見て貰う情誼から、その三六クラブの一翼を担うことになつたのです。三六クラブの主な仕事は、危機に備えて国体を明徴するということで、そのために天皇機関説を排撃しました。これが小林さんの生涯を通じて最も重要な仕事になりました。また私としても、小林さんと共に生命をかけた仕事であったのです。
     私は天皇機関説というのは、徳川幕府が自らの政治形態を合理化するために、二元的御用学説を奨励したようなもので、機関的実態が現存し、その存在を合理化する学説であると考えたのです。
    従ってこの問題の処理は、美濃部博士の処分や、その著書の発禁で解決する筈のものではない。そり実体を打倒せねばならなぬわけです。
    ではその実体とは何かといえば、維新以来の国是である『富国強兵』の『布富国』の面の機構です。これは曾て日本の発展に貢献したが、だんだん英米の金融支配に屈従してしまつた。その一環に連なった日本資本主義、そしてその政治的触手となつた御用政党、その政権、これら一連の勢力が、自己の存在の合理化のために機関説を援用したのです。
     小林さんから「近く最後の切り札、井田男爵が、貴族院本会議でこの問題を提げて立つ。井田が立てばその絶大な信頼から、貴族院は一体的にこれを支持する筈だ。その際全国の郷軍指揮者からその場合の盟約を取ってきてくれ」と言われて、私は北海道から鹿児島に至る間を、機関説排撃の連判状に署名捺印を求めて奔走したのでした。これは大いに成功して、機関説排撃の火の手は全国的に燃え上がったのです。しかしどうも事態は思うように進まない。擁護勢力の止めを刺した真崎教育総監の「国体明徴」の訓示が、却って機関説派に逆手をとられ、真崎大将はついに更迭を余儀なくされる始末。本人不同意の更迭が陸軍の「省部規定」に違反し、統帥権を千犯したものであるというところから、相沢中佐が立ち上がったわけです。
    ご承知のように、相沢事件が二・二六事件を生み、その結果陸軍の有能にして廉直な人物は皆退官してしまつた。それに加えて近衛内閣を擁立した、小林さんの朋友・志賀直方さんが死去し、機関説排撃、国体明徴運動は中道にして挫折せざるを得なくなったのです。
     しかしなお日本救済の努力は続けたのです。昭和十五年七月上旬、米内内閣崩壊に頻し、次は近衛と見た私は、軽井沢に公を訪ねて、大命降下の場合、ガンは陸軍だから、意中の陸軍大臣を勅命で取る方法を力説して重大進言を行ったのでしたが、公の勇断足らず、第二次近衛内閣の人事は陸軍側から一方的に押し切られ、陸相東条が現れ、日本の命運に関わる大事となたわけです。
     さて小林さんや私どもの第二の課題は、大政翼賛運動だつた。小林さんは翼賛会総務となられ、内部からそのファショ化を防止につくされた。さまざまな誤解を受けつつ、実に血涙下ろ苦闘をされたのでありました。小林さんの主張は多くの著書・論文にのこされています。
     昭和39年11月、小林さんの一周忌を期して追悼出版が為されましたが、私も序文および本文を書いてあります。
    参考にしてください。これは昭和の裏面史とでもいうべきものだと思います。

     さて、安倍総理は談話を発表するという。公明党の山口のような、戦勝国の史観でなく、日本人としての歴史観を踏まえた談話でなくてはならない。
    西尾先生にお願いしたいのは、何故、日本は戦争に追い込まれたのか、当然、その背後にはユダヤ人がいたはずである。
     現在の第二次グローバル化においても、その影を見ることができる。
    天皇をいただき、八紘一宇の国柄を千代に八千代に継承する、談話となるように先生の影響力を発揮してほしいものである。

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