阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十七回」

(8-27)先生に殴り掛かって来るような子は、じつは先生を頼りにしているとも言えるのであって、少なくともそこには指導の取掛かりがまだある筈なのである。問題のない子がかえって問題だとも言える。子供は問題行動を起こすものなのである。そういう基本的な考え方から出発する教師が少ないことに、校内暴力発生の主要原因の一つがあるのではないだろうか。

(8-28)災いだけを取り除いて、長所の部分だけを残すなどという器用なことが、人間に果たして出来るだろうか。社会人を含めた日本人全体の生き方が改まらなくて、教育だけを良くしようというのは虫がいいし、不可能なことだ。

(8-29)日本人がいい学歴を身につけたがるのは、個人の競争を避け、企業という集団内部に身を隠し安心したいがために外ならない。逆に言えば企業社会人の全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争のすべてを高校三年生に押しつけているのではないだろうか。

(8-30)他人より抜きん出るためではなく、他人と同じような資格を得たいがために進学熱が高まっているのが一般的な実情だが、そもそも他人と同じような存在でありたいと思うのは競争心理では決してなく、むしろ競争回避心理である。

(8-31)けれども他人と同じ存在になろうとして競争し、その揚句、微妙な差別に悩まされるくらいなら、他人と違う存在になろうと最初から決意し、微妙な差別から逃れようとするのではなく、むしろそれを逆手に取って、差別される存在にむしろ進んでなるという決意でそれを乗り超えていく生き方だってあり得るのではないだろうか。また、子供たちに接する折の先生の態度もまたここに極まるのではないだろうか。

(8-32)視野が鎖されていたとき人間は強かった。情報の拡大が地球を透明にしていくこの時代に、情熱の高揚は難しい。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」

(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-27) P341 下段「校内暴力の背後にあるにがい事実」より
(8-28) P348 上段「「教育の自由化」路線を批判する」より
(8-29) P353 上段「「競争」概念の再考」より
(8-30) P367 下段からP368上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-31) P376 下段から377頁上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-32) P400 上段「「自由化」論敗退の政治的理由を推理する」より

「阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十七回」」への7件のフィードバック

  1. 西尾先生こんにちわ。

    エラ通信と申します。

    現在、“日本異史”という書き物を書いており、
    その添付資料の一部として、西尾先生の講演をいくつか
    使わせていただいております。

    “データの圧縮とアップデートに難があり、現在はまだ資料部分はあげてません”
    よろしければ、当該ウェブサイトに出来上がったところまでをアップしておりますので、ご覧の上、黙認をいただきたいのです。
    現状、資料としてあげているのは“経団連 愛国心なき経営者は職を去れ ”という短文と、かつて日韓交流掲示板が存在していた時期、そちらにあげられていた先生の慰安婦についての講演の一部です。
    どうかよろしくお願いします。

  2. (8-27)「校内暴力発生の主要原因」という表現、それと「校内暴力の背後にあるにがい事実」というタイトルなどから(このタイトルは私も過去に読んだ記憶があります)西尾先生も校内暴力の荒れくるっていた日本を憂えておられたと想像しました。私もあの時期は「日本はこのまま壊れていくのだろうか」と悲観的に感じていたのを思い出します。あのまっただなかで未成年として社会を観察してまざまざと精神の退廃性をつきつけられました。非常に唐突ですが、ウィークエンダーという昭和50年代にはやった猥褻なテレビ番組を覚えている日本人がどれくらいいるでしょうか。私はあのような残酷なポルノ番組を見せ付けられて育った世代のひとりです。そして校内暴力がはやった時期と、このような悪質な退廃番組がテレビを汚染した時期は見事に一致するということを現代の日本人は知っているでしょうか。
    あれほど先生を師と呼んで敬い、そして子どもを大事にし唱歌などの格調高い文化を育てた日本人があそこまで落ちぶれたのでした。もっともろくにテレビを見ない日本人にとっては大衆社会で何が進行しているかという、この辺の事情はわからなかったでしょう。
    公衆の前で破廉恥なことをやって恥じることがない、伝統的日本人の羞恥心など時代錯誤というのが左翼のマインドでした。どこまでも日本人をおとしめました。あれほど刹那的な快楽社会を提唱し、おどろくべきほど日本人の品格をおとしめた左翼が言論空間を占拠して何十年も日本人を洗脳しました。現在これほど自殺者や家庭崩壊が多い日本になってしまったというのもやむえないと思われてなりません。もっとも日教組などの教師が生徒にいじめられていたのなら、自業自得だ、ざまあみろという屈折した感情も私にはおさえることができませんでした。
    西尾先生は現代のもつ複雑な危機を当時から洞察しようとされているように思います。ただ個人的にはすべて左翼が悪いと本能的に察知したものがあります。なんでも左翼のせいにすると安直だと非難されると思いますが、朝日新聞に象徴される変態左翼の異常性は外交問題や安全保障問題以外に日本人の精神性を徹底低に破壊しました。
    唐突かもしれませんが、変態左翼が我が春を謳歌していた昭和50年代から60年代に私が日本を真に救うものはいったいなんなのだとなにかにすがるように必死で何かを汲み取ろうと読んでいた知識人のひとりが竹山道雄氏でした。そして同時に吉本隆明や丸山真男なども濫読して日本の戦後の精神状況がありありと感じられるようになりました。真にリベラルであったのは竹山道雄などであったのに丸山真男などの変態左翼ほうがリベラルであったと受け取られたのが戦後の精神的不幸の象徴です。そこで自由というものの価値が政治的色彩とともに引き下げられました。丸山真男は戦前は国粋主義者であったようですが戦後になって左翼に転換、しかもマルクス主義が過激になるにつれ、ずるがしこく真正左翼とは距離を置いていった。しかし戦後書かれたもののなかで日本人を戦争に追い込んだのは町の村長や土方の親方や僧侶や教師なにもかも悪いと、日本人の精神中枢をささえた人々をなにもかも一緒くたにしてまとめて切り捨てる冷酷な一刀両断に、とても真正の自由主義者などに備わった高度な品性と教養などみじんも感じられません。
    やはり本を精一杯読んでみょうちくりんな理論を考える知識人に教育などというものは手に負えないに違いありません。たとえば親に対して「生んでくれてありがとう」と言えるような子どもに不幸な人間はめったにいないというような真っ当な社会人にあたりまえの感覚がわかるけれども、そういった本来の人間らしい高貴な感情は無骨におしつけるものではないというような人間精神の繊細さについても熟知しているような、そういう教養人が教育にかかわるべきと思います。支離滅裂かもしれませんが、左翼に教育をぜったいに明け渡してはならない。かといってすぐに教育勅語復活や旧憲法復活を叫ぶ空想家も非常に有害です。昭和50年代はすぐに教育勅語復活をとなえた自民党の老人政治家が左翼によって袋叩きになっていましたが、こういう連中も非常に物事を単純化して日本人におしつけようとしていたので、左翼はあいかわらず自由の守護者であるように見せかけることに成功して、なんら事態は改善しなかったというのを覚えています。

    (8-28)「災いだけを取り除いて、長所の部分だけを残すなどという器用なことが、人間に果たして出来るだろうか」
    この文章とは趣旨が違う方向に強引にねじまげて恐縮ですが、アリの何割かはなまけもので、かといってなまけものをすべて排除して働き者だけ残しても、そのなかからなまけものは一定の割合ででてくるという有名な動物実験は、どれだけの種でどれだけの再現性があるかわかりませんが、こういう現象を認めるしかないと考えるのが自然への正しい畏怖なのかもしれないと思うことがあります。
    唐突ですが、10年以上前に便所の落書きと呼ばれる掲示板で残酷無比な投稿(たとえば悲惨な殺人事件に快哉をさけぶような異常者の投稿)の出現率をまめに調べたことがあります。すると不思議なことにその比率は5%前後に落ち着いていました。ひと様の不幸をストレス解消にして喜ぶような異常者は一定の割合で出現し、それを根絶することはできないのかもしれない。ただ各自ができる範囲で最善をつくすしかないのではないかということをそれ以来感じます。

  3. そうとうにはしょって書いていて支離滅裂に思えるので、補足しますと、いわゆる左翼というのは世界的にはどこでも伝統的道徳を破壊する方向にあばれまわっていました。そのなかでたとえば(牧歌的な性などというものからはかけ離れた)ポルノというものも社会を軟体化し個人を社会の抑圧から解放して自由にするものと肯定的に受け取られていました。右翼でも反社会的な人々はいますが、左翼こそが伝統的道徳を目にかたきにして駆逐しようとしていました。健全な社会であれば、そういった左翼をメディアの中枢にまねきいれようとはしないはずですが、戦後の日本は違っていました。私は堅物ではないので性道徳にめくじらをたてるのは好きではありません。けれども左翼の概念は破壊的なのです。ストレートに書くと子どものころからポルノを見せれば性の抑圧から解放され大人になっても強姦や犯罪をしないと主張していたのです。フロイトやマルクーゼなどのような理屈とは関係ありません。伝統的道徳に対する敬意が致命的なまでに崩壊しているのです。それがここ20年くらいで少しは改善してきたのは多くの良識的日本人が警笛をならしてきたからかもしれません
    アカデミズムの世界では共産主義左翼が人権概念や平和概念で偽装しながら反日的学問を精鋭化しており、大衆芸能などの世界では学生運動くずれのような左翼が自分の背丈にあった退廃的サブカルチャーを蔓延させ、従来の日本人の価値観を麻痺させてました。そういう異常な社会風潮が続いたあげくのはてに象徴的にでてきたのが校内暴力であり、それを対処療法的におさえこんでもその本質的病理は長年つづくにちがいないというのが当時からの私の直感です。

  4. 邪馬台国論争の真相
    〜古事記、日本書紀に卑弥呼も倭国大乱も記述がない理由〜
    暁 美焔(Xiao Meiyan), 2012.12.22(原案), 2014.12.2(完成)
     未だに解決しない邪馬台国と大和朝廷との関係。現状のどの説も魏志倭人伝への次の疑問に答えていない。
    南に邪馬台国の女王の都まで水行10日、陸行1月は方角、行程共に不自然ではないか?
    南に投馬国に至るには水行20日とあるが、南に船で20日行く場所など見つからないではないか?
    女王国の東海上千余里にある倭種の国を説明できないではないか?
    その南の女王国から4千里、と方角と距離が具体的に記述された侏儒国(小人の国)など全く説明できないではないか?
    東南水行1年の裸国、黒歯国も、全く説明できないではないか?
     これらの問題を全て解決し、邪馬台国論争の真相に到達した。
    読者からの応援メッセージが続々!
    「面白い!力作ですね。勉強になりました。」
    「それが結論だろうよ。誰も認めないだろうけどね。」
    「この説を検証する組織が存在しないのが残念だ。」
    1. 倭人伝の日本海呼称問題

     東沃沮(よくそ)は北朝鮮から沿海地方のあたりに存在した国家である。あまりなじみの無い魏志東沃沮伝であるが、実は非常に興味深い記述がある。

     中国人は当時「黄海」の事を「大海」と呼んでいた。では、「日本海」の事を魏志東夷伝ではどのように呼んでいたのであろうか? これこそが日本海呼称問題の原点だ。

    「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に有り、大海に沿って暮らす。」

    答えは「大海」である。さらには次のような記述もある。

     「海東にも人がいるかどうかを古老に問う。古老が言うには数十日流された漁師が島に上陸すると言葉が通じなかった。そこでは7月に童女を海に沈めると言う。また、海中に女だけで男はいない国が有ると言う。」

     この海の先に何があるか。誰も知らないので古老に聞いてその伝承を記したのだ。日本海を単に「大海」と呼んで特別な呼称を使用しなかったのは、要するに日本列島の存在など知らなかったからだ。
     「倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所三十国。」

     有名な倭人伝の冒頭のこの一文は現代人の感覚で読めば間違いなく日本列島に関する記述だと考えるであろう。しかし、当時の地理認識では「大海中の山島」に相応しい場所は他にもある。中国人が日本列島の存在を知らなかった以上、むしろそこしか無い。東西も南も「大海」に囲まれた山と島、それは朝鮮半島だ。このような説は詭弁だとか暴論だとか思われるかもしれない。しかし日本列島を「大海中の山島」と呼ぶためには実は日本列島の存在だけでなく太平洋の存在までも知っていなければならないのだ。海東に何があるかわからない状況で、南方だけは太平洋まで知っていたという可能性があるだろうか。仮に知っていたら黄海や日本海を「大海」と呼ぶだろうか。太平洋や日本列島の存在を常識としない古代中国人の感覚で読めば、「大海中の山島」は朝鮮半島しかない。

     邪馬台国に相応しい土地を地図上で探してみよう。邪馬台国が存在したのは、そこから東方海上1千余里に倭人の地がある場所だ。そのような場所は一ヶ所しか存在し無い。それは朝鮮半島南部であり、東方海上の倭人の地とは対馬の事である。倭国の外交拠点で事実上の首都だった伊都国は後の王朝の首都があった開城か漢城付近と考えるのが自然だろう。南に邪馬台国の女王の都まで水行10日、陸行1月は方角的に正しいし、行程にも合理的な説明が与えられる。朝鮮半島西南を回るよりも早いためか、西南部は敵対勢力に支配されていたのだろう。南へ水行20日の投馬国に対応する土地も確かに存在する(伊都国からの道程は放射説を仮定している)。対馬の南の女王国から4千里の場所には縄文人形態の低身低顔型人種が住んでいた壱岐島(資料1)があり、侏儒国に相応しい。東南に水行1年の裸国、黒歯国が何を意味するかは言うまでも無いだろう。倭人伝の記述と何もかも一致するばかりでなく、金印が出土した博多(志賀島)が 倭人の極南界であるという認識については考古学と文献が完全に一致する。

     百済と高句麗を滅亡させて朝鮮半島を統一した新羅は、長い間倭の属国であった。新羅人とその末裔は、統一しても滅亡させられなかった倭人への怨念を受け継いで、現在にいたるまで対馬海峡の向こう側を「倭」と呼び続けて嫌悪し続けた。こうして、いつの間にか「倭」は「日本」を示す言葉に変わってしまったのだろう。

    2. 九州説、畿内説が成立しない理由

    2.1 九州北岸の地理条件

     九州説にしろ畿内説にしろ魏志倭人伝には伊都国に至るまで次のような疑問も存在する。
    壱岐島からの距離は呼子が30km、松浦、唐津が40km、糸島が50km、博多が70km程度しかないが、末盧国まで千余里という距離は長すぎないか?東松浦半島は壱岐島から目に見える距離にあり、距離を間違えるだろうか?
    末盧国住民は山海に沿って魚やアワビを取って暮らし、草木が茂って前を行く人の姿が見えないとある。呼子はともかく、松浦には志佐川、唐津には松浦川の三角州が存在し、 唐津には虹の松原、糸島には糸島平野、博多には福岡平野の平野が広がる。 アワビは海藻の多い岩礁に住む生物で砂浜の生物ではない。 地形的に見れば末盧国に相応しい土地は呼子以外に存在しないのではないか?呼子だとすると距離が短すぎ、上陸後の行程も不自然で、壱岐島から真南にはっきり見える場所にもかかわらず一大国のように方角が記述されていないのは何故か。
    末盧国、伊都国をどこに比定するにしろ、直接伊都国へ水行せず、草木が茂る末盧国に上陸して伊都国まで陸行するのは何故か?
    壱岐島から海流に乗って航行すれば、自然と博多を目指すのではないか。例え唐津湾に入ったとしても目指すのは唐津ではなく糸島ではないか?
    末盧国を唐津、伊都国を糸島か博多とすると伊都国の方角は東南ではなく東北ではないか?地形的にも背振山地を越える必要があり、陸行するのは不自然ではないか?
     伊都国までの道程は確定しているように考えている人が多いが、実際には倭人伝に基づいて行程を辿ってみても、伊都国どころか末盧国にさえ辿り着かないだろう。唐津を末盧国とするには、壱岐島からの距離が合わず、地形が合わず、伊都国への方角が合わず、伊都国への行程も不合理なのだ。北部九州の港は玄界灘の荒波に晒されるため、その後の行程を考えても、海の中道によって守られた天然の良港である博多湾に上陸するのが自然な航路だろう。 実際に筑紫館(つくしのむろつみ)も日宋貿易も大陸からの交流の歴史の舞台は常に博多(那大津)であった。 唐津は「大陸への玄関」と言われる事もあるが、 「唐津」(中国への港)の地名が現れるのは豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点としてこの地に名護屋城を建築し、 唐津藩を開始したのが最初であり、秀吉の野望が生み出した地名だろう。 唐津は歴史的に筑前ではなく肥前(佐賀県)に属する地域であり、 唐津街道すら整備されていない3世紀に唐津に上陸してから山を越えて陸行する必要性は皆無で、末盧国を唐津とするのは不可能だろう。 ところが博多を末盧国とすると、地形が全く合わないばかりか今度は末盧国よりも重要な伊都国の場所が無くなってしまう。 唐津、博多以外の場所に上陸して陸行するのはさらに不自然な経路となる。 末盧国が唐津とされているのは単にそこに無いと困るだけの理由であり、実際には末盧国は北部九州のどこにもあり得ない国なのだ。
    2.2 壱岐、対馬、朝鮮半島の地理条件

     末盧国に辿り着く前にも、次のような疑問もある。
    壱岐島には平地が多い。 気候は暖流の影響で珊瑚礁も存在するほど暖かく過ごしやすい島である。 降水量も多く幡鉾川、谷江川等の農耕に適した河川や湿地、地下水が豊富に有り、豊穣の大地だ。 しかも世界有数の漁場である玄界灘の中にあり、長く伸びたリアス式海岸により豊富な海産物にも恵まれ、さらに外敵からは玄界灘の荒波と対馬海流に守られて古代人にとっては地上の楽園だったであろう。 遺跡の質、量を見ても古代から他の地域を圧倒して繁栄していたことは間違いない。 「自給自足ができる島」として有名な壱岐が一大国とすると何故農地が不足したのか。玄界灘を越えて貧しい南北(特に北方)に穀類を求めて出かけたのは何故か?
    末盧国の人口は一大国より多かったとある。山海に沿って暮らす末盧国の方が壱岐島よりも人口が多いなどという可能性があるだろうか。仮に多かったとしたら、九州北岸に壱岐島のような規模の遺跡が見つからないのは何故か?
    壱岐と対馬の間の海だけを特別に「瀚海」(砂漠という意味)と名づけるのは不自然ではないか?渡海に失敗したら死が待っている、対馬と釜山の間の海峡の方がより重要ではないだろうか?
    対馬の上島と下島は当時陸続きだったにも関わらず、浅茅湾と対馬海峡東水道の間の船越を陸越えした記述が無い。上島西岸北部に到達し、下島南端まで移動して壱岐を目指したはずだ。対馬は巨大な島であり、壱岐島の大きさが方300里であるのに比べ、対馬が方400里というのはあまりにも小さすぎないか。
     対馬に辿り着く前でも、次のような疑問もある。
    元寇でも応永の外寇でも、朝鮮半島から対馬へ渡るための集結場所は歴史的に常に巨済島(韓国No.2の島)であった。 閑山島海戦や巨済島海戦の舞台となった場所も巨済島であれば、 露梁海戦などの撤退作戦の拠点になった場所もやはり巨済島だ。 巨済島は、半島に進出するためには必ず確保しなくてはならない交通の要衝である。 これは対馬海流が基本的に東北方向に流れるため、巨済島から対馬を目指す方が確実だからだ。 3世紀でも当然、巨済島或いはもっと西方の南海島(韓国No.5の島)などから渡ったはずである。 狗邪韓国から初めて海を渡って到着した場所が対馬と記述されているが、朝鮮半島から初めて海を渡って行く場所は巨済島であるべきではないか。
    対馬への出発点だった狗邪韓国は「倭の北岸」にあったとされる。 巨済島は島であり「倭の北岸」と呼べる地域ではないのではないか?例え狗邪韓国を泗川などに比定したとしても、果たしてこのような「半島南岸」の上にリアス式海岸の入り組んだ地形である朝鮮半島南部の地域を「倭の北岸」と呼ぶだろうか?
    帯方郡から狗邪韓国までは海岸に沿って南へ東へと記述されている。 朝鮮半島南西部はリアス式海岸の上に潮位差、潮流共に大きい地域であり、2008年保寧の海水氾濫事故のように陸上でも注意が必要な地域だ。海中には暗礁が多数存在し海岸沿いの航行は極めて危険である。実際に野性号の実験(資料2)では何度も座礁した上に、古代船がこのルートを航行するには二ヶ月が必要であるとされた。 南西部を海岸に沿って航行するのは不可能ではないか? 海岸から離れて航行したとしても今度は黄海暖流に逆らう事になりやはり難しいのではないか。
    朝鮮半島南西部の航行は航海技術が向上した元代のジャンク船でも新安沖で難破(新安沈船)しているし、 莞島郡でも高麗船が沈没しており、 泰安郡馬島も高麗船の墓場である。 最近だけでも1993年には扶安郡・蝟島付近でフェリーが沈没、 1995年には麗水市付近でタンカーが事故、 2007年にも泰安半島付近でタンカーが事故、 2014年にも珍島(韓国No.3の島)付近で旅客船が沈没など大規模な海難事故が定期的に発生しており、現在に至っても安心して航海できる海域ではない。 実際に後世の朝鮮通信使は半島内は水行せずに12回全て陸行している。 例え海岸に沿って航行しなかったとしても、暗礁が多く潮流の激しいこの海域を3世紀に郡使が手漕ぎの船で頻繁に往来したという事自体が非現実的ではないか?
    末盧国がどこにも有り得ない以上、その先の伊都国も邪馬台国もどこにも有り得ない。それ以前に「豊穣の島」壱岐が貧しい一大国などであるはずがなく、対馬の時点でもう記述が実際の地理的条件と合っていないばかりか、狗邪韓国の記述も不自然な上、狗邪韓国までの航路すら不可能なのだ。 そろそろ気付かれているかもしれないが、倭人伝を読む時には地理的条件やその後の歴史がどうだったか、などは考えてはいけないのである。 何故ならばそのような事を考えた途端、思考を閉ざす壁にぶち当たってしまうからだ。 このような数多くの矛盾を放置してこの先の行程を辿るべきでなく、狗邪韓国までの航路の時点で既に間違っていると考えるべきなのだ。 そうすると必然的に間違っている場所は、帯方郡や楽浪郡の位置となってしまう。 それは歴史学的にも考古学的にも疑う事自体を許されていない場所であり、それ故に倭人伝の謎は解けないのだ。 かつてその場所を疑った資料3の山形氏の説に基づいて帯方郡の場所を営口市付近にあったと考え、下図ようなルートを仮定すれば倭人伝の行程は矛盾なく説明できる。

     末盧国は甕津半島、一大国はクァイル郡あたりにあったと仮定している。 甕津半島には滅悪山脈の支脈の山海に沿ってリアス式海岸の絶好の漁場がある。 北朝鮮の現況は不明だが、付近の韓国領土である白翎島では現在でもアワビが豊漁である。 一大国は半島側に存在しても問題無いし、一大国、末盧国、伊都国の位置には様々な可能性がある(龍淵半島を越えるべきでないかもしれない)。 「対馬国」は現存する最古の版である紹煕本では「対海国」とされており、倭を日本と勘違いした後世の誤植であろう。 対海国は宣川郡の身彌島一帯にあったと仮定している。 現代人から見れば奇異な航路であるが、羅針盤の無いこの時代には地形が見えない場所を航行するのは危険な行為であり、これは自然な航路である。 なお、馬韓の西海上の大島にあったという州胡は長興島にあったと考えられる。 帯方郡の場所を山形氏の説に従うだけで、狗邪韓国から侏儒国、裸国、黒歯国までの全ての位置を矛盾なく説明できるだけなく、誰にも特定できなかった州胡の位置まで説明できるのだ。 帯方郡から狗邪韓国まで7000里、狗邪韓国から伊都国まで約4000里、帯方郡から邪馬台国まで12000里という距離も概ね正しいだろう。
    2.3 対馬海峡の地理条件

     このような説は現実離れした説だと思われるかもしれない。しかし、これこそが実は現実的な説なのである。というのは、朝鮮半島と対馬を隔てる対馬海峡西水道(朝鮮海峡)は単なる海峡ではなく、海の難所なのだ。対馬海流の流軸付近は平均秒速50cmで流れる上、波は荒く転覆の危険が高い。朝鮮半島から渡るのは潮流の上流である西側から渡ればさほど難しくないが、対馬から釜山に渡るのは非常に困難だ。帆船の無い時代では軽量化した船で人力を使用して渡るのであるが、軽量化すると船が転覆しやすくなるので難しい。 対馬を朝早く出発し、潮流、天候、風向、波などの良い条件が無ければ対馬に戻り、条件が揃えば釜山まで一気にこいで夜に到着したと見られる。 後世の日本往還日記では帆走を利用しているにもかかわらず条件が揃うために2週間以上待機している。 3世紀においては力尽きて到着できなければ日本海を遠く流されて生還できない、文字通りの命懸けの航海だ。 日照時間が短かい冬季は成功の可能性は低い。 近代のシーカヤックでは条件が揃えば7時間ほどで到着するカヤッカーの目標とする海路であるが、古代船で郡使や持哀(じさい)などを載せて航行するのは容易ではない。 実際に古代船を復元して対馬海峡を渡ろうとした、なみはや号プロジェクトは見事に失敗した。 金海から対馬に渡ろうとした野性号も、対馬には人力では辿り着けなかったのである。 小型エンジンを付けて対馬海峡を渡ろうとした内閣府職員も生きて辿り着くことは無かった。
     黒潮や対馬海流は、 地球の自転が引き起こすコリオリの力によって生成された北太平洋環流の一環として発生する現象であり、 3世紀の状況も現在と変わらない。 この海流の存在こそが日本列島を大陸から切り離し、独自の歴史を歩む事を可能にしてきたのだろう。これを考えれば九州説、畿内説にはさらに次のような疑問もある。
    元寇に先立つ1267年、モンゴルの使臣殷弘・黒的は日本への海路の険しさを見て、「見渡す限り大海原は風浪天を蹴るよう猛り狂っておりました」と報告し、クビライに対して航海の困難を理由に日本への通使の不要を説いた。また日本往還日記では船酔いで嘔吐して転げまわった様子が記録されている。航海技術が向上した後世でさえ、対馬海峡の海流と荒波は一度経験すれば忘れられない思い出となるものだった。倭人伝の航海の記述に海峡越えの苦難が全く感じられないのは何故か。
    生きて朝鮮半島に辿り着く事さえ困難であったはずだ。対馬住民が穀物を得るために南北に物々交換に出かけたという記述は現実的だろうか。一体何を売りに行ったのだろうか。
    この時代に郡使が中国から伊都国まで頻繁に往来することが出来たのは何故か?
    航海には持哀というノミやシラミを持ったままで垢で汚した人間を連れて行き航海に失敗したら殺した、とある。そのような者を連れて海峡を渡ろうとした者がいただろうか。英語には”We are all in the same boat.”という表現があるが、海峡を渡海する者達はまさに同じ運命にあり、航海の記述としては相応しくないのではないか。
    日本の歴史上では国内の戦闘状況について中国に報告したり調停を依頼したりした事は他に一度も無かった。この時代に邪馬台国がそれを行ったのは何故か?
    遣唐使は成功率の低い難事業だった。この時代の30ヶ国が中国と通じることができたのは何故か?
     帆船も羅針盤も無いこの時代に郡使が対馬海峡を越えて頻繁に往来していたという話や、持哀を連れて対馬海峡を渡海したという話は現実性の全く無い話で、倭人伝に記述された邪馬台国が日本列島内の国家と考えるのは無理があるのだ。対馬海峡の地理条件やその後の歴史がどうだったかを考慮して倭人伝を読めば、倭国の記述が日本列島のものではない事は一目瞭然である。
    2.4 倭人伝以外の資料が示す邪馬台国の場所

    倭人伝以外の資料にも、次のような疑問がある。
    三国史記新羅本紀では、卑弥呼の使者が新羅に来た20年後に倭人が大飢饉となり千余人の避難民が到来したとある。対馬海峡は飢餓難民が越えられるような海峡だろうか。
    記紀に卑弥呼も壱与も、天皇家側としても敵側としても、何の記述も無いのは何故か。帥升も倭国大乱も記述が無いのは何故か。
    倭国は朝鮮半島にあったとすれば、これらも説明がつく。卑弥呼も壱与も、大和朝廷とは敵対関係すら無い人達であり、倭国大乱など遠い異国の出来事だったのだろう。倭人伝以外の資料でも、邪馬台国が日本列島にあったとするのは不自然なのだ。
    2.5 考古学的資料が示す邪馬台国の場所

    さらに考古学的にも次のような疑問もある。
    30ヶ国が中国と通じていたのに3世紀の日本列島から漢字が出土しないのは何故か?
    倭人の極南界である委奴国の金印が博多から発見されたのは何故か?
    壱岐島以外に3世紀に低身長の人種が居住していた侏儒国の候補地は存在しないのではないか?
    卑弥呼の墓には100人余りの奴卑が殉葬されたとある。この時代に朝鮮半島では殉葬の風習があったのに対し、日本では殉葬の跡が見つからないのは何故か。
    日本国内で100年に渡って発掘し続けたが邪馬台国が全く見つからない理由は何故か?
     考古学的にも邪馬台国を日本国内の国家と考えるのは難しいのだ。
    2.6 固定観念を打破しよう

     「大海中の山島」は朝鮮半島以外に考えられないし、倭人伝の行程も朝鮮半島を仮定すれば矛盾無く全てが説明できるが日本列島を仮定すればどこにも辿り着かない。倭人伝に記述されている国家の様子も日本列島の国家としては不可能である。三国史記でも記紀でも、倭国が日本列島にあったとするのは不自然だ。考古学的にも金印が出土した博多が倭人の旧百余国の中の極南界である以上、倭国の中心はそこより北側にあるべきだし、邪馬台国が日本列島内にあれば、3世紀の日本列島から漢字が出土すべきであるし、殉葬の跡が日本列島で見つかるべきである。侏儒国の候補地も壱岐島以外には有力な場所は見つかっていない。即ち文献的にも考古学的にも、全ての資料は邪馬台国が朝鮮半島国家である事を示しており、日本列島の国家だというのは固定観念に過ぎない。
    3. 虚構の楽浪郡平壌説

     邪馬台国が日本列島に存在したはずだ、という根拠は実は楽浪郡が平壌にあったという定説だけである。 しかし邪馬台国が朝鮮半島に存在した以上、定説は成立しない。 定説とは単に楽浪郡が平壌にあったかというような説ではなく、朝鮮半島の歴史を箕子朝鮮から倭の消滅までの数百年に渡って改竄する、壮大な虚構の古代史の基盤となっている説であり、その最大の目的は倭国の歴史を日本列島の歴史に改竄する事である。
     絶対に正しいと信じられている楽浪郡平壌説が実際には破綻した説である事、並びに邪馬台国論争が実は氷山の一角に過ぎない程の驚愕すべき東アジアの古代史の真実と、古代史改竄の驚くべき手口を説明したいのですが、話が多少難しくなるので、興味のある方は「虚構の楽浪郡平壌説」を参照して下さい。
    4. 邪馬台国論争の真相 〜Seeking Truth in a World of Lies〜

    4.1 学会のパンドラの箱 〜It began with a lie〜

     魏志倭人伝は極めて信憑性の高い史書であり、謎など最初からありません。 歴史書に誰にもわからないような説明文を記すはずがありません。 第一の過ちは学会までもが「大海中の山島」を読み間違えたことですが、第二の過ちは学会が文献を完全に無視し、朝鮮半島や遼東半島の地理的条件も考慮せず、その後の歴史や経済的、技術的、戦術的条件その他も全く考慮せず、不十分な考古学的発見だけで楽浪郡平壌説を定説化してしまったことです。 邪馬台国を大和へと誘導するために。 間違った定説を前提にして倭人伝の記述を基に行程を辿っても、日本列島のどこにも辿り着きません。 伊都国は九州北部に有り、邪馬台国は伊都国の南にあるはずなのに、九州内には水行10日、陸行1月の場所が存在しないのです。 その時点で学会は真実を追求し、定説の過ちを疑うべきでしたが、さらに第三の過ちを犯してしまいます。 定説を疑う代わりに真実の追求を放棄し、倭人伝の記述を無視して文献だけで物を言わない風潮を作り上げてしまった事です。 邪馬台国を大和へと誘導するために。 これにより怪しげな主張をする者は学会からいなくなりましたが、同時に強い副作用を生み出しました。 定説の間違いを証明するために文献を調べて主張しても無視されるようになってしまったのです。 これが(学会の)パンドラの箱の正体です。 北朝鮮人の考古学的報告が無視される以上、文献以外に頼る物がないのにも関わらず無視される。即ち、学会には定説を否定する方法が存在しないのです。

     定説とは確かな説なのではなく、反証可能性の存在しないだけの説なのです。 「中国の歴史書は考古学の裏付けが無く、あくまでも一説とする事」という原則の導入は一見すると合理的に聞こえますが、実際には「都合の悪い歴史書の記述は、どれだけ数多くあっても無視して良い」という、定説を守るための詭弁です。 こうして学会は自ら信奉するドグマを疑う方法が存在しない独断主義の集団となりました。 説明できない歴史書の記述を前に学会は、思考自体を停止することにしたのです。 歴史学会は考古学会に立証責任を転嫁するようになり、その考古学会はまるで否定する事が許されなかった天動説のように定説検証には消極的になったのです。 歴史学会からも考古学会からも真実に辿り着ける者は存在しなくなり、 学会は固定観念に取り憑かれ、 最初に作り出した偽史を守るために連鎖的に過ちを繰り返す偽史創作集団に転落しました。 ハインズ博士(資料4)が指摘するだけでなく、一つとして存在すべきでない以下の特徴を全て備える正真正銘のニセ学者の集団です。
    反証可能性の欠如 Falsifiability 定説を守るために都合の良いルールを導入し、異端者が反論できないような仕組みを作る。 疑似科学の基本的な特徴である。 これにより文献史学により定説を否定する事は不可能である。
    検証不能の説に基づく Use of vague, exaggerated or untestable claims 100年前の北朝鮮での遺跡調査に基づいた定説は再検証できない上、北朝鮮学者の調査報告は無視して存在自体を葬る。 即ち、考古学的手法により定説を否定する事は不可能である。
    問題点を認識させない Refusal to acknowledge problems 定説に疑問を投げかけるような「夫余の楽浪郡攻撃の怪」などの問題点を公開して解決を呼びかけたりする事はなく、存在自体を知られないようにして異端者を生み出さないように細心の配慮をする。 問題点の公開こそが学問発展の基本である事には気付かない。
    中国史料の史料批判 Use of misleading language 中国史料を根拠に定説を批判する異端者に対しては、「史料を読む技術が無いのに暴走している」とその翻訳内容や史料に対する認識を批判するのみで、批判内容に反論する事なく無視する。 論点のすり替えを行って本来の議論から逸脱する行為であり、 詭弁の一種である。 数少ない異端者のほとんどはこの批判だけで挫折し、批判を続ける者は残りわずかとなる。
    他の分野の専門家には検証させない Lack of openness to testing by other experts 歴史学、考古学の成果を重視しない者による定説の検証は認めない。このため地理条件については一切考えなくて良く、地理条件を理由に疑問を述べる異端者の批判は無視する。野性号の実験結果も当然無視するだけである。
    論証よりも確証を追求 Over-reliance on confirmation rather than refutation 立証責任の回避(Reversed burden of proof)や、都合の悪い情報の無視(Refusing to consider data that conflict with its claims)など。 数々の手法により中国史料を読みこなす専門能力のある異端者は既にほぼ壊滅された。 しかしわずかに生き残った異端者に対しても反論する必要性が無く無視するだけで良いのである。 山形明郷氏が問題提起した時点で論争は集結すべきだったが、黙殺されたまま死を迎えた。
    批判者を個人攻撃 Personalization of issues 疑似科学の手法を総動員してほぼ壊滅状態となった異端者達に対し、仕上げとしてその動機を嫌韓感情に訴えて批判したり(悪魔化)、 個人的な能力や精神状態、不純な動機などの人格問題として激しく個人攻撃して叩き潰す(Attacking the motives or character of anyone who questions the claims)。 さすがに学会の人間が公の場でこのような発言をする事はない。 学会が沈黙している間に非公式或いは匿名で批判するか、代理として学会支持者が批判する。 同調圧力をかける事を目的とした論点のすり替えの一種。
    進捗の欠如 Absence of progress 定説を疑う事は決して無い(Lack of self-correction)。 ただ目の前にある簡単な問題のみを選んで黙々と研究し続けるのみである。 学会の入会には複数の会員の推薦が必要であり、そもそも異端者が入り込むのは難しい。 そして数多くの障壁を越えてまでも学会内に紛れ込んだ異端者の研究発表に対しては選考段階で抹殺し、思惑通りの内容のみを選考すると共に、異端者には激しく同調圧力をかける。 異端者を排除した世界を作り上げた上に、先人の研究をどれだけ参照したかを重視し、それを異端者を無視する口実の一つとする。 また学会外の各種古代史研究会やマスコミにまでも干渉し、学会の意向に沿わない発表がされないように監視を怠らない。 100年間という長い期間、邪馬台国が探し出せない原因を究明する事も無く、自分達の責任だと考える事も無い。 もはや学問を研究する組織ではなく、定説を守るための疑似科学の手法を学ぶ組織でありこの問題に関する進捗は何もない。 築き上げた砂の城が崩れないようにするために異端者を徹底的に無視する事によって学会の平和を守り続けているが、その実態は単に反論する能力が無いだけの斉一性の原理に基づいた無能集団である。 山形明郷氏が提唱した邪馬台国朝鮮半島説など、存在自体が話題にされる事がなかったのがその証拠である。
     そして学会は自分達が犯した多くの過ちや組織無能、筋金入りのニセ学者である事などを皆、パンドラの箱の中に固く封印し、外部の人間が見てもわからないようにしてしまったのです。 国民の血税を100年に渡って浪費した挙句、日本学術史上最悪の汚点を残してしまいました。 これが本来、謎でも何でもなかった倭人伝が、百年経っても解けない謎になってしまった理由です。

     学会は文献を尊重する意志がなく、 地理条件やその後の歴史の経過も考慮せず、 30ヶ国が中国と通じていたのに3世紀の日本列島のどこからも漢字が出土しなくても問題視せず、 100人余りが殉葬されたのに殉葬の跡が日本列島のどこからも見つからなくても問題視せず、 壱岐島で100ヘクタールの広大な遺跡を発掘しても農地が多い事や玄界灘を越えるのが困難な事には気づかないのか、 壱岐島が農地不足で玄界灘を越えて南北に穀類を求めた貧しい一大国であることを信じて疑う事はありません。 歴史学会は立証責任を考古学会に丸投げし、その考古学会はただ目の前にある遺跡の発掘調査を行うだけで立証責任を放棄しています。 学会とは自らの間違いは決して疑わず、説明できない問題は見なかった事にして真実の追求を放棄した、科学的思考力の欠如したニセ学者の集団であり、邪馬台国が日本列島に存在しない以上、 学会がこの問題を解決する日は永遠に来ないのです。 もっともまた不十分な出土物だけで文献も地理条件もその後の歴史も全て無視した場所に確定し、100年の悲願である究極の偽史を完成させるつもりなのかもしれませんが。
    4.2 日本社会のパンドラの箱 〜It’s all a lie〜

     「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ。」 これはアドルフ・ヒトラーが残した名言だが、 日本社会はトンデモ学会が創作した壮大な偽史に完全に騙されてしまいました。 邪馬台国は日本だという固定観念が刷り込まれ、 もはや定説は社会的にも否定する事が許されなくなったのです。 古代史へのロマンを打ち砕くだけではありません。 日本語と韓国語の言語類型論的類似性を考えればむしろ説得力がある話なのですが、祖先がそのような場所にいた事は現代の民族感情として受け入れられないからです。 天孫降臨や神武東征の日本神話が受け入れたくない事柄を想像させるためでもあります。 教科書も書き換えないといけません。 このような結論は誰も望んでいないのです。 日本人も韓国人も存在しない頃の話であると言うのに、現代人の民族感情が原因で(日本社会の)パンドラの箱の中に邪馬台国は封印されてしまったのです。 これも倭人伝が、解けない謎になってしまったもう一つの理由です。

     日本社会は学会に敬意を払い、学会は有能であり間違いは無いと信じ、学会がこの問題を解決してくれる日を心待ちにしています。 しかしそのような日が来る事は永遠にありません。 倭人伝の謎が実はニセ学者達の妄想によって生み出され、ニセ学者達の狂信によって解けないに過ぎない事など、想像もしていないでしょう。 100年経っても解けない謎など、いずれにせよ原因は学会の無能以外に有り得ないのですが、日本社会はそれに気付かないようです。 袋小路に陥った時には、何か大きな間違いをしている事を根本から疑ってブレイクスルーの方法を探すのが国家、企業だけでなく人生においても基本的な戦略です。 社会全体が事態打開の戦略を追求して真実を追求する事よりも、100年の思考停止状態に安住し、永遠に卑弥呼を夢想しながら人格攻撃やネガティブキャンペーンに溢れた不毛な論争を続けたいのでしょうか。 日本人の創造性がこのような無意味な論争に浪費されてきた事は悲しむべき事ではないでしょうか。

     マスコミは戦前と同じように集団心理に同調して集団行動するだけの傍観者集団で、王様が裸である事に気付く事はありません。 マスコミは文献史学や考古学の学芸員や教育委員会と同様にニセ学者達を守るための大政翼賛会の重要な一員です。 マスコミが学会の調査結果の提灯記事を発表報道する姿はまるで大本営発表を楽しみに待っているかのようです。 マスコミは戦前において発行部数の拡大のために戦争を煽って国民を騙し続け、 その無責任体質により日本を破滅へと導きました。 マスコミは現実に敗戦のその日がやって来るまで決して国民に不都合な真実を伝えようとせず、 膨大な数の民間人の犠牲者を出して領土を失っただけでなく、 名古屋城や首里城などの数多くの日本の文化遺産を消失させました。 マスコミは現実にそれが起きるまでソ連対日参戦という不都合な可能性についても全く報道せず、 当然防ぐ事ができたはずの葛根廟事件や敦化事件、通化事件などの数々の悲劇を防ぐことができなかったばかりでなく、 何ら責任を取らないままこれらの事件を風化させようとしています。 集団心理に同調して不都合な真実の報道を自粛する、多くの日本人を悲劇へと導いたその恥ずべき無責任な傍観者根性は戦後70年が過ぎた現在においても全く改善される事はありません。 マスコミに科学的思考さえあれば疑似科学を見抜く事ができ、数多くの才能ある人達の人生を無駄にする事も無かったのですが。 もっとも当事者意識を持たない思考停止した無能なマスコミにできる事は、ニセ学者達の空虚な調査結果をただそのまま垂れ流す事だけなのかもしれません。 不都合な真実を遮断するのは、民主主義が未成熟な二流国家のマスコミだけです。 科学的思考の欠如した傍観者根性の無責任な三流マスコミが日本人から科学的思考を奪い、日本を戦略思考の喪失した二流国家に貶めているのでしょう。 マスコミは科学的思考を身に付け、当事者意識を持ち、歴史から学び反省し、自らの責任を果たすべきだろう。

     ニセ学者達の生み出した妄想が無能且つ無責任なマスコミによって拡散され、いつの間にか日本社会全体が彼らの社会的影響の下で斉一性の原理に支配されてしまったのだ。 究極の偽史の完成へと向かって。 楽浪郡平壌説の妥当性が、議論もされず、議論自体がタブー視されているのがその証拠である。 この問題が解けない真の理由は学問とは何の関係も無い。 日本人は社会的影響を受けやすいと言われているが、邪馬台国論争とは日本社会の深層に潜む病が生み出した問題なのだ。 その病の正体とは、実現すべき未来が「科学的方法に基づいた戦略、戦術の実行(プラグマティズム)」によって達成されるのではなく、「全会一致の強い信念に基づいた理想主義(イデアリスム)」によって達成されるのだという固定観念である、と言えるだろう。 「戦争に負けるなどと考える奴がいるから日本は戦争に負けるのだ」という何の根拠も無い思考は戦後になって「戦争の事など考える奴がいるから戦争が起きるのだ」という平和主義の思考へと変わったが、その思考に科学的根拠が無い事には変化が無い。 日本人の精神論だけで戦争を防ぐ事ができるはずがないのであるが、残念ながらこれは日本社会のあらゆる場面において見られる思考方法だ。 「そのような事態について考える奴がいるからいけない」などと言って議論自体を拒否していれば政治家を動かす事ができるかもしれない。 しかしそのような精神論では、当然ながら外国や事実までをも動かす事はできないのである。 「楽浪郡平壌説が間違っているなどと考えてはいけない」という無意味な思考も実はその一例に過ぎない。

     日本人には科学的根拠が不要な事を悪用して戦後にマスコミが作り上げたのが従軍慰安婦問題だ。 当事者意識の欠如したマスコミは旧日本軍の行為を自分自身の行為であるとは認識せず、根拠も無しにこの問題を生み出した。 彼らは口先だけで日韓友好や平和主義を唱えている。 しかし科学的思考が欠如しているので、このような報道が日韓関係を本質的に破壊する事や、戦争の原因を生み出す事に考えが及ぶ事は無かった。 その上責任感が欠如しているので、日韓関係がどれほど悪化しても何ら責任を取る事は無い。 そればかりか、相変わらず念仏のように日韓友好や平和主義を唱えつづけているのだ。 念仏などいくら唱えても破壊されてしまった日韓関係は好転もしないし、平和も達成されないと気付く日は来るのだろうか。

     イデアリスムが生み出した究極の結晶がカミカゼ攻撃であるとすれば、プラグマティズムが生み出した究極の結晶が原子爆弾だと言えるだろう。 カミカゼ攻撃が原子爆弾の前に無力である事など、小学生にでもわかるような当然の真理であり、現実に日本は完全に敗北した。 しかも天皇陛下の聖断が無ければ、誰にも敗北の決断ができなかったという重症の病だった。 それにも関わらず、あれだけの惨禍を経験しながらも、日本人はこのような自明の真理をついに学ぶ事が無かったのだ。 社会の様々な場面でこの病は現れ、解決不能の問題として日本社会を袋小路に閉じ込めている。 地獄の業火に焼かれて死んでいった者達は犬死だったのだろうか。 彼らが死んでいった理由を理解しないのであれば、毎年挙行される追悼式典など何の意味も無いだろう。

     「卑弥呼が朝鮮半島にいたなどと考える奴が日本をダメにする」このような思考こそが日本を科学的思考の欠如した戦略の無い二流国家に貶め、日本を破滅に導くのだ。 「科学的思考を拒否して全会一致の精神論を貫くべきだ」という、無能且つ無責任なマスコミによって育まれた固定観念。 これこそが日本社会のパンドラの箱の中に封印されている不治の病の正体である。 日本社会の深層に存在するこの深い闇が、邪馬台国論争を解けない問題にしているのだ。 科学的思考や当事者意識の欠如した無責任で恥知らずなマスコミによってこれまでも日本は破滅へと導かれてきたし、 これからも日本は次なる破滅へと導かれ続ける事であろう。 パンドラの箱を開けてしまわない限り。 論争に聖断を下す者が存在しない以上、パンドラの箱を開けることができるのは童話に示されている通り、子供しかいないのかもしれない(裸の王様の本来の伝承では子供ではなく黒人、即ち外国人であるが)。
    4.3 東アジアのパンドラの箱 〜We live in a world of lies〜

     状況は韓国人にとってはさらに深刻です。箕子朝鮮も遼東にあった事になると檀君朝鮮も遼東にあったという事になり、檀君神話は後世の捏造が疑われ、偉大なる朝鮮民族の始祖を祝う開天節の祝日も廃止する必要が出てしまうのです。 そもそも任那日本府の存在さえ認めていないのに、朝鮮半島の歴史が軽蔑する倭人の手によって始まり、半島全体が倭人の土地だったというような史実が受け入れられるはずがありません。 まだ中国の植民地だったという説の方がマシで、定説を否定する事によって韓国人が受ける衝撃は日本人とは比べ物にならないほど強大であり、その結果を受け入れられるはずがない。それ故に韓国の学会も定説を守り続ける以外に道はありません。これは外交問題に発展する事が間違い無いほど恐ろしい問題なのです。

     中国人にとっては満洲や遼東半島が古来より中国の不可分の領土である事を主張するため(東北工程)、そして朝鮮半島が昔から植民地だったという説が中華民族の偉大さを証明するために定説を守り続けました。 日本人は倭国の歴史を日本列島に組み込むことを熱望し、 韓国人は倭国の歴史を朝鮮半島から排除することを熱望し、 中国人は朝鮮半島の歴史を中国に組み込むことを熱望する。 即ち、仲の悪いこの3国の共通の願望が楽浪郡平壌説であり、それ故に例え嘘であってもいいからこの虚構の世界に安住する以外に無いのです。 定説とは東アジア全体が確かだと確認した説などではなく、単に政治的に否定する事がタブーなだけの説なのです。極東アジアの民族感情が原因で(東アジアの)パンドラの箱の中に邪馬台国は封印されてしまったのです。

     北朝鮮人はこの問題の深刻度に気付いていないだけかもしれませんが、このような発想とは無縁で、中国の植民地ではなく主体的な国があった事だけを証明すれば良いわけですが、国力が弱いので彼らの主張は他国からは無視されるだけです。 最も言論の自由の無い国の学者達が最も論理的な主張をしているのは、皮肉な話です。 そして、この4カ国以外の国々はこの問題に対して興味が無い。 これもまたもう一つの理由です。 極東アジアにおいては邪馬台国論争とはもはや、永遠に解決してはいけない問題なのです。
    4.4 パンドラの箱を開けよう 〜Let’s stop the lie〜

     楽浪郡平壌説とはニセ学者達が生み出した妄想であるにもかかわらず、学会にとっても、日本社会にとっても、東アジア全体にとっても絶対に否定してはいけない説なのです。それ故に邪馬台国は朝鮮半島から追い出され、幾重にも重ねられた固いパンドラの箱の中に封印されて、永遠に見つけられないようになっています。 こうして真実に近づこうとする者達は異端として抹殺され、 学会の改竄した偽歴史に騙された者達は、中国人が知らなかった土地の上で、行程が合わない事や記紀に記述が無い事に疑問を持ちながら、見つかるはずの無い邪馬台国を延々と探し続けてきたのです。

     立証責任を放棄したニセ学者達にそそのかされて偽歴史を完成しようとする者達と、ニセ学者達に騙された上に「研究ごっこ」と馬鹿にされながらも偽歴史の完成を阻もうとする者達との間で繰り広げられる不毛な論争。これが邪馬台国論争の真相です。この論争から得られる事は、疑似科学の手法を学ぶ事だけです。卑弥呼は泣いているのでしょうか。それとも笑っているのでしょうか。

     これからも日本人は貴重な時間を浪費して永遠に邪馬台国を探し続けるのでしょう。パンドラの箱を開けてしまわない限り。 論争が始まってからもう100年。そろそろ夢から覚め、異端とされている山形説へのパラダイムシフトを図るべき時ではなかろうか。 嘘で塗り固められた歴史など、日本人には不要のはずだ。 もうこれ以上、偽歴史を子供たちに教えるべきではない。 子供たちに誤った道を歩ませてはいけない。 第二の内閣府職員を出さないためにも。
    付録:大韓民国史蹟450号(泗川・勒島遺跡)、勒島遺跡の画像検索

    参考資料1):「壱岐・対馬における縄文・弥生時代人骨の研究」内藤芳篤、六反田篤、分部哲秋、松下孝幸(長崎大学)
    参考資料2):「わが心のヤマタイ国—古代船野性号の鎮魂歌」角川春樹
    参考資料3):「卑弥呼の正体〜虚構の楼閣に立つ「邪馬台」国 〜」山形明郷
    参考資料4):「ハインズ博士「超科学」をきる―真の科学とニセの科学をわけるもの」テレンス・ハインズ
    5. 倭の五王と任那日本府の秘密

     社会全体が一致団結して守り続けているパンドラの箱。 封印されている古代史の扉を開け、その中に隠された真実の歴史を子供たちへ伝えよう。 パンドラの箱を開ける勇気を打ち砕くその驚くべき真相。 その真相に比べれば、もはや邪馬台国や楽浪郡の場所すら大した話ではないだろう。 しかもその真相にはアメリカ人作家や他分野の学者達も既に到達しているのだ。 倭国大乱に明け暮れる朝鮮半島。 しかし対馬海峡を越えれば朝鮮半島よりも農耕に適した温暖な土地が無限に広がっている事を知っていた倭人たち。 現代日本人にとっての禁忌とは、古代倭人にとってはむしろ必然だった。 詳しくは子供たちに伝えたい本当の歴史を参照して下さい。
    あとがき:「邪馬台国が朝鮮半島にあった」と発言する者は、例えどのように言葉を選んだとしても、 結局はここで書かれているような罵詈雑言を並べる事と同じ主張をしており、 無視されるか個人攻撃(悪魔化)の対象にされる運命にある。 山形明郷氏が「バカの壁」、「古代史犯罪」などと表現したのは、彼が既に真相に到達していた証である。 すなわち「邪馬台国朝鮮半島説」とは口に出す事すら既に社会への挑戦なのだ。 これは現代日本社会における最大の禁忌であろう。 社会を混乱に陥れると、恐怖の余り口に出すことさえ恐れられるようになったというヴォルデモート卿のようだ。 せめて「例のあの説」とか「名前を出してはいけないあの説」としてでも良いからもっと広まってほしいものである。

  5. >(8-27)先生に殴り掛かって来るような子は、じつは先生を頼りにしているとも言えるのであって、少なくともそこには指導の取掛かりがまだある筈なのである。問題のない子がかえって問題だとも言える。子供は問題行動を起こすものなのである。そういう基本的な考え方から出発する教師が少ないことに、校内暴力発生の主要原因の一つがあるのではないだろうか。<

    私の長女は今年幼稚園の先生になって二年目ですが、同居しているとは言え、日頃なかなか顔を合わせることが少なく、私も帰りが遅いのですが彼女もほぼ毎日九時すぎに帰宅しています。
    たまに顔を合わせて話し込む時は、娘の仕事場のことなどが話題になるのですが、父親としてはなんとか娘が仕事をこなせることを願うばかりで、大きな事件に巻き込まれないようにと、親ばかな願い事をする毎日です。
    けして娘が非標準的な人間だとか、そんなニュアンスで心配しているのではなく、単純に「頑張りすぎないように」して欲しいというのが本音なんです。
    完全に民間企業でありながら、幼稚園という職場には、公共的な責任を要求される空間があまりにも多く、その実態と構造のギャップがあまりにも大きいことに懸念している立場が私の中にはあります。
    もちろん「教育」というセンテンスがこの職場に要求されていることは理解しております。しかし、幼稚園という空間は、本来家庭の事情に付き添う場として利用されるべき所で、けして「教育」が責務ではないはず。
    ただし、保育所と違って、やや企業色を鮮明にし、自由な経営方針を打ち出せる場であることも理解できますので、そうした傾向から、「教育」を・・・もしくは「育児」を売りにしている幼稚園は多く存在しているでしょう。
    現実的にそれを担おうとしているものが、幼稚園サイドにあるということも現実でしょう。
    そのような傾向から、親御さんはお子さんを幼稚園から厳正に選ぶ傾向はどの時代でも衰えず、すでに幼稚園という段階から「教育システム」が社会通念的にシステム化されているのは事実です。
    そのことが良いか悪いかは判断が難しいのですが、どの道この傾向は変わらないのでしょう。
    はたして我娘がそのことをどれくらい認知して日々仕事に挑んでいるかはわかりませんが、社会的には「教育者」の一端であることを覚え聞かさなければ務まらない職業であることを、先日娘との会話で話しました。

    娘が色々反応した中で印象的だったのは、怖いのは仕事場だけではなく、子供たちの家庭にまで自分の役割が要求されている部分が多々ある点だと言ってました。出しゃばる気持ちは毛頭ないが、自分の存在がしっかり各家庭の日常に何らかの影響を及ぼしていることに、この仕事に取り組むむつかしさを感じているようです。
    実際ほぼ毎日、各家庭とのコミュニケーションを繋げる形で、子供ごとの連絡帳があり、それを書き込む作業が日課です。
    娘の一言が、幼い子供の日々の生活に大きな影響を及ぼしているこの現実は、本当に大変な仕事だと思うことしきりです。

    しかし、人間として生きていく中で、これほどやり替えのない職業も他にはないのかもしれないと考えます。
    生まれて間もない人間に接して、その子達に人生観を植え付けることが可能な立場でありますから、おそらくまだ経験の浅い娘でさえ、その実感はかなり高いのではないかと想像します。
    そんなことを考えていると、遠巻きに私の生き方さえけして無縁ではないのではないかと感じる次第です。大げさかもしれませんが、娘の親である立場として、娘の人生観に少からず私の人生観が影響を及ぼしている可能性は当然ありますから、幼稚園のお子さん方に私の中の何かが細い糸でつながっているのかもしれないとと想像するのは、はたして「変」でしょうか。
    考えすぎだと言われればたしかにそうなんですが、油断していると娘の仕事場にダイレクトに私の「大雑把さ」が、緩い風ながらも届いてしまっているのかもしれないと、今ふと感じたりしています。

    もしもこのことが考えすぎではなかったとしたら、(8-27)のアフォリズムは、肝に銘じて読み込まなければならないということになります。

    ゾクッ!

  6. >愛新覚羅は新羅の末裔さま
    ここはあなたのお説を開陳する場所ではなく、西尾日録のエントリーへのコメント欄です。今後、関係のないコメントは掲載しないことにしますので、よろしくお願いいたします。

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