三浦淳氏の書評

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 新潟大学教授三浦淳氏がご自身のブログで私の全集9巻『文学評論』について論評して下さった。三浦さんは秀れたドイツ文学者で翻訳家でもある。最近は『フルトヴェングラーとトーマス・マン――ナチズムと芸術家』(アルテスパブリッシング刊¥2500)を刊行された。

 氏は大変な読書家で『隗より始めよ・三浦淳のブログ』を開いてみて欲しい。書評と映画評のオンパレードである。私はその中からたびたび良書を選び出している。みなさんもこうしたエピキュリアン、本と映画と芸術に通じたエキスパートの文章から学ぶ処多いはずで、私も自らの不勉強を恥じ、これを見て新知識を補っている。このような博識の方に論評していただけたことはありがたい。

西尾幹二氏の全集が現在国書刊行会から刊行されている。

 氏は、現在でこそ保守系雑誌にたびたび登場し政治的な時事問題を扱う論客として、そして少し前には「新しい歴史教科書をつくる会」を主導し戦後長らくマルクス主義の呪縛に囚われてきた日本の歴史学界の実態を告発した人物として知られているが、もともとは東大の独文を出て、ニーチェに関する論文で日本独文学会の外郭団体が若手研究者の優れた仕事に与える賞を受賞し、その直後にドイツに留学するところからドイツ文学者としての経歴をスタートさせている。つまり、文学こそが氏の当初の仕事だったのである。

 本書は、その西尾氏の文学評論を集成した巻である。

 2段組800ページに及ぶ浩瀚な書物には、扱う対象ということで言えば実に多様な文章が収められている。

 全体は10部に分けられ、初期批評、日本文学管見、現代文明と文学、現代の小説、文学研究の自立は可能か、作家論、掌篇、1988年文壇主要作品論評、文芸時評、書評となっており、さらに追補として桶谷秀昭氏、および江藤淳氏との対談が収められている。

 分量も多ければ扱う対象もきわめて広い――日本文学だけでも『平家物語』から現代文学にまでおよぶ――本書の全容を紹介することは私の手に余る仕事である。したがって私の目についたいくつかの論考を紹介することで書評の体裁をかろうじて整えることをお赦しいただきたい。

 本書を読んで目につくのは、西尾氏が原理論への傾きを持っているということであろう。もとより時評の類であってもそこには書く人間の基本的なものの考え方が含まれており、時流に迎合もしくは反抗して書かれた文章であれ時代相というものではくくれない部分があること自体は当然なのであるが、氏の場合はどんな対象を扱っても、そこに強固なまでの原理論への志向が見られるのであって、氏の文章を読む楽しみとはそういう部分にあるのではないだろうか。

 例えば冒頭に収められている「批評の二重性」という、1972年の『新潮』に掲載された文章である。平明に書くのはよいことなのかという問題提起から始まり、それが平明に書くと嘘になる場合があるのではという問題提起に変形され、一例として、否定することと肯定することとは一つのことではないかという問いが投げかけられる。サミュエル・ベケットに魅かれながら、そこに引き込まれてしまったら自分自身がなくなるという危機感から来る抵抗も同時にあるとすると、魅力と抵抗を一つの文章で同時に表現するにはどうすればいいか、という問題だと氏は説明する。一人の作家の長所と弱点は別々にあるのではなく、一体なのであって、そこから氏は批評するべき対象への愛憎というものに論を進めている。

 文字どおり卑近な感想だが、愛憎というと私などはすぐ男女関係を思い浮かべてしまう。或る異性への愛憎は表裏一体であり、愛があれば必ず憎しみも抱くのが天上ならぬ地上の恋愛であり、愛の反対語は憎悪ではなく無関心であるという男女関係の原理は文芸批評にも通じるところがあるのだと改めて認識させられた。

 少し問題が違うように見えて、実は通底しているものがあると感じさせるのが、作家論の中に入れられた「手塚富雄」である。手塚富雄は独文学者にして名訳者として名高いが、西尾氏の学生時代の師でもあった。しかしこの文章では客観性を保つためであろう、敢えて師を「手塚富雄氏」と呼んでいる。
 ここで展開されているのは翻訳論であり、西尾氏が(独文科の学生ではなく)一般市民相手にニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の学習会を開いたとき、邦訳を数種類用意したものの、結局は手塚富雄訳がその分かりやすさ故に残ったというのである。
 しかし分かりやすければいいという単純な結論を、むろん西尾氏は導き出してはいない。手塚富雄にしても、必要なときには漢語を用いている。分かりやすいことは翻訳の大前提ではあるが、文章の格調や、西洋哲学に必然的に伴う形而上学とのつながりなど、配慮すべき点は多い。いかに名訳者といえども、所詮は体系の異なる(そして背景にある文化も異なる)日本語にドイツ語を完璧に置き換えることはできない。西尾氏は手塚訳が過去の訳業に比していかに優れているかを正確に把握しながらも、同時にその(やむを得ない)限界に触れることも忘れない。
 これは、究極的に言えば、言葉というものに含まれた、場合によっては矛盾する諸要素を、いかにひとつの単語やひとつの文章で表現するかという問題であるが故に、前述の問題とつながっていると私には思われるのである。
 西尾氏自身も翻訳の仕事に手を染めている。私も、西尾氏の仕事で最初に接したのは氏の手になる翻訳で、中公の「世界の名著」に収録されているニーチェ『悲劇の誕生』であった。私が大学の学部学生だったのは1970年代前半だが、その頃に読んだのである。ただし学生の身分でカネがなかったので古本屋で購入した本であった。その月報では、西尾氏はドイツ留学中と紹介されている。氏がドイツに留学したのは60年代半ば過ぎだが、その結実として60年代末に『ヨーロッパ像の転換』が上梓される。しかし万事に奥手な私は、80年代初頭にようやく『ヨーロッパ像の転換』を読み、西尾氏の真価を知るに至ったのだった。

 話を元に戻そう。

原理論ということでいうと、その次に収められた「現代小説の問題(付・二葉亭四迷論)―― 大江健三郎と古井由吉」も面白い。1971年9月に『新潮』に発表された文章である。

 この文章に私が興味を持ったのは、発表年の1971年がちょうど私が大学に入学した年で、つまり若い時分の同時代文学を扱っているからでもある。大江健三郎は戦後長らく若手純文学の旗手的な存在で、私の高校生時代も同じ文学趣味の仲間には大江ファンが何人かいた。私自身はというと、大江の作品はいくつか読んだものの、どうも好きになれなかった。古井由吉が『杳子』で芥川賞を受賞したのがこの1971年で(大江の芥川賞受賞は1958年)、当時古井は大江の次の世代の純文学を担う存在になるのでは、と言われていた。だから大江と古井を対照的な志向性を持つ作家として捉える向きも多かったと記憶する。

 しかし西尾氏はここではそのような見方をとっていない。最近の小説は長くなっているがという石川達三の苦言に始まって、小説における描写の問題に話を進めている。言葉を主観の側に引きつけて修辞に過剰に頼り、事物から離れていく文学、そして言葉を事物に近づけようとして修辞を拒み微細な分析を続け、自我を解体してしまう文学の二つの方向性が当時の現代文学には目立つと述べ、前者に大江健三郎を、後者に古井由吉を代表させている。

 ただし、必ずしも両者を対蹠的な文学者として扱っているわけではない。氏が書いている詳しい分析はここでは省かざるを得ないが、過剰な修辞や詳細な描写が、読者にでは作家が期待したような効果をあげることができるかという、これまた原理論的な問題に触れて、大江と古井のいずれの作品もかつて小説が読者に期待したようないわば素朴な効果からは遠ざかっているのであり、そこに現代文学のかかえる大きな問題があるのでは、と述べている。そして後半、氏は二葉亭四迷の『浮雲』に言及する。その文体は、今からすれば過去の文語体の影響が濃厚に残存し、また文体のリズムには歌に通じる部分があって、『浮雲』は過去と現在の狭間にあったことによってその独特の魅力と存在感が生じたのではないか、と氏は指摘する。

 小説には、大江や古井の作品に限らず、作品の文章が読者に対して、作者が想定したような効果をあげ得るか、作者が思い描いていたイメージを喚起し得るのかという問題がつきまとう。西尾氏自身述べているように、読者が小説を読むとき、読者は自分の年齢や経験や環境に否応なく制約されながら読むしかないのであって、理想的な読者などというものは現実世界には存在しないのである。そうした制約を乗り越えようとすればするほど、逆に作品は作者の意図からはずれていくのかも知れない。まさにそれこそが、小説というジャンルにつきまとう原理的な矛盾なのである。氏の文章はそうした事情を鋭く捉えている。

 大江と古井という、当時よく読まれた作家を取り上げながら、情勢論ではなく原理論に行き着くところに、西尾氏の真骨頂があるのだと思う。

 そうした氏の姿勢は、作家論の中の「江藤淳 Ⅱ」にもはっきりと表れている。

 江藤淳の『一族再会』を論じながら、氏は次のような言葉を差し挟まずにはいられない。

 「著者〔江藤淳〕は近代日本人がどのような理想を描いて、またどのような目的意識を抱いて生きたかを探りたくて、この本を書いたのではない。理想や目的が何であったかは誰にも分らなかった。分らないけれども、日本人はともかく生きたし、今も生きつづけている。その事実にまず著者は強く博(う)たれ、そこを起点に本書を書いているのである。」

 「未来が分って生きる人間はいない。一寸先が闇だからこそ、人間は生きる勇気を得られるのである。著者はそのようにして歴史を描いている。結果が分ってしまった今日の時点から、過去を整理し、解釈する合理的手つきは著者には無縁だ。」

 こうした、いわばアフォリズム的な物言いは、江藤淳論に限らず、西尾氏の論考を或る程度読んだ人間なら必ず出会うものである。しかし、それを金太郎飴的なものと切り捨てるのは当を得ていない。氏はあくまで『一族再会』で江藤淳が過去に向ける眼差しを真摯に見つめているのであって、その結果として以上のような表現が否応なく出てこざるを得ないのである。まさに、自分の型に合わせて相手を切り取るのではなく、あくまで相手を尊重しつつ、しかし歴史への眼差しの根底において自己と共通の部分を見いだしたことの表現として、アフォリズム的な言い方が出てくるのだと考えるべきなのだ。

 なお、巻末に収められた江藤淳との対談も興味深い内容であることを付け加えておく。

 すでにかなり長くなってしまった。

 原理的な論考だけがこの巻に収められているわけではない。大学で同窓だった柏原兵三や、一度だけ会う機会のあった三島由紀夫の思い出を綴った文章は、西尾氏の目を通した人物素描を見るような趣きがあり、素朴な意味で面白い。

 本書は、そのように多様な楽しみに満ちあふれている。文学に興味のある方にはもとより、時事評論家や文明史家としての西尾ファンである方にも十分お薦めできる書物であろう。

「三浦淳氏の書評」への4件のフィードバック

  1. おはようございます!

    幹二先生は、司馬遼太郎 先生について、言及された書物を刊行しておりましたでしょうか?

    三島よりも司馬 !! ..、と言う気がします。

    H 27 04/25 06:20

    子路

  2. 西尾幹二先生

    瑞宝中綬章受章おめでとうございます。
    先生の雑誌論文は、毎回購入して拝読させていただいております。
    先生は、いまのおかしなわが国を正しい国に導く先頭に立っておられると思っています。

    管理人様

    西尾先生の叙勲のこと、「お知らせ」をお願いします。
    コメント欄で読者でお祝いしましょう。

  3. 西尾先生、瑞宝章ご受賞おめでとうございます!

    H.A様のコメントに心から同感です。西尾先生ほど祖国に貢献している方は他に無いといつも思って居ります。叙勲は当然と言ったら失礼でしょうか。
    政界や官界にも先生の思索と行動をきちんと評価している方がいらっしゃるからこそのご受賞でありましょう。そのこともまた心を明るくします。

    改めまして、心よりお祝い申し上げます!西尾幹二先生、万歳!

  4. 「文章は簡潔ならざるべからず」(正岡子規)

     簡単ではなく、簡潔な文章を書くべきであると、子規は述べているのでしょう。

     持って回った言い回しをせず、偉そうな文章を書くなということが言外に含まれていたのかもしれません。

     格調高く簡潔な文章を書く権化といえば、やはり、福田恒存先生であったといえるでしょう。

     その弟子筋であった西尾先生も、簡潔な文章を受け継いでいると思います。

     ところで、私は、高校生の時は、遠藤周作を読みまくり、授業中も読みふけっていたのですが、おかげで勉学がさっぱりで、一年浪人をしました。

     それだけ小説を読んだにもかかわらず、ついに一行の小説も書くことはありませんでした。

     こと文学論に至っては、興味が湧かないばかりでなく、文学とは何かということ自体が、よく分かっていません。

     ただ、私は大江健三郎だけは読まないようにしています。

     彼が憲法九条の信奉者だからという理由ではなく、それも理由のひとつに入りますが、憲法九条を信じているような人間は、人間把握が未熟であるからであり、そんな人間把握しか出来ていないのに、あれだけ難解な文章を読まされるのは御免だからです。

     小説とは、人間を描くものだと考えています。

     結局、文学作品は、純文学は遠藤周作しか読んでいないので、他の作品との比較ということは出来ませんし、私は読むなら遠藤周作しか読みたくないのです。

     この私の性癖は、評論にも現れていて、私は、西尾先生の書いたものしか、一時は、ほとんど読んでいませんでした。

     西尾先生の書く文章は、持ってまわった言い回しをせず、自分の感情をストレートに文字にしてぶつけているような感じを受けて、読んでいてとても気分がいいのです。

     野球に例えるならば、小手先のバッティングはせずに、つねにフルスイングでピッチャーに向かっていくと言えばいいでしょうか。

     その姿勢が、非常に気持ちよかったです。

     出し惜しみをしない、格好をつけない、小手先の技術に頼らない、それが西尾先生の書く文章だと感じました。

     正直に話しますが、私は、福田恒存全集は持っていますが、西尾幹二全集は購入するかどうか迷っています。

     というのも、私が西尾先生の著書を読み出した2000年辺り以降に発行された著書は、ほとんど単行本は持っているからです。

     また、私は古本屋めぐりが好きなのですが、そこで西尾先生の著書を見つけるたびに購入してきました。

     冷戦時代の名著「ソ連知識人との対話」から、西尾先生の最大の業績である「ニーチェ」2部作も単行本で持っています。

     三浦淳さんの文章の中にも出てくる、「世界の名著シリーズ」の「ニーチェ」も持っていますし、手塚先生の訳した「ツゥラトゥストラ」も読んでいます。

     他にもニーチェは文庫で4、5冊ほど持っています。

     というように、西尾先生の本は、初期の頃(「ヨーロッパ像の転換」や「ヨーロッパの個人主義」もある)から、現在に至るまで、かなりカヴァーしているのではないかと思うのですね。

     最近は先生の仕事が多すぎるので、ちょっとフォローしきれないでいますが。

     また、一時ほどの西尾先生熱も、少し冷めてきたこともあり、最近は色々な本を読むようにしています(1人の人間の本しか読まないというのは危うい)

     また余裕が出てきましたら、西尾先生の本にも挑戦しようかと存じます。

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