70年安倍談話をめぐる私の事情

 8月14日における安倍総理の70年談話に対し保守系言論界が一般的に高い評価を与えているのに少し驚いています。評価には余りに政治的、意図的な匂いが感ぜられるからです。私は見解をまだ書いていません。

 8月12日にBSのフジTV系「プライムニュース」で例のないほど長い時間、戦争と平和と戦後処理について語るチャンスが与えられ、存分にしゃべったので、もうそれでいいと思っていました。

 しかし総理談話が具体的に出てみると、やはり自分の見解を言っておく必要があるとも考えています。私は談話の示した歴史観に不満があるからです。

 遅ればせながら何らかの形で一度は雑誌に論評を出したいと思いますが、少し待って下さい。文章を出す前に、日本文化チャンネル桜の私のGHQ焚書図書開封の時間帯で「真夏の夜の自由談話」第5回と第6回を用いて安倍談話の分析と批判を展開しました。9月9日と23日の放映でYou Tubeに出れば当ブログに転送されます。

 何人の方から西尾は黙っているがどう考えているか、とのご質問をいたゞくので、別にわざと黙っているわけではなく、プライムニュース(8月12日)で一時間半も話す時間を与えられたのでもういいと思っていただけです。

 あんなに伸び伸びと地上波テレビで語ることが出来た例はついぞありませんでした。これからも恐らくないでしょう。

 ただし当ブログに転送されたプライムニュースはダイジェスト版で、しかも2週間で消えました。坦々塾会員浅野正美さんのご努力でオリジナルが再生可能となりましたので、下記に掲示します。尚、8月13日の日録からも見られるようになっています。あの日のコメント欄に、録画してあるから転送してあげるよと言って下さった方々が多数あり、とても嬉しく存じました。ご協力まことにありがとうございました。

「70年安倍談話をめぐる私の事情」への7件のフィードバック

  1. 西尾先生の熱辯、いつもの如く、感銘深く、溜飮を下げつゝ、大いに
    教へられつゝ、拜聽致しました。

    西尾先生のおつしやることについては、私自身は平素、能ふ限りキャ
    ッチアップして、それを己が血肉とすべく努めてをり、ある程度の成果
    をあげてきたつもりです。
    でも、今囘のお話の中で、一點だけ、さうだつたのか。これは意外!
    勉強不足だつたと反省させられた箇所がありました。
    支那についての、「共産黨が崩潰してまともな國家になれば、あの大
    國民は變る、言論の自由があれば、中には、南京大虐殺などなかつたと
    言ひ出す者も出てくるかもしれない。それほど幅のある國民なのだ」と
    の仰せです。
    これには我が無知を恥ぢました。支那の現在の異形は、共産黨のせゐ
    もいくらかあるかもしれないが、異形こそがあの國本來の姿なのだと信じ
    てゐたからでせす。「まともな國家」であつたことなど、開闢以來、一度
    もなかつたのだと思つてゐました。假に共産主義が消えてもまた次の・・
    ・と想像してゐました。
    ツアーリズム、スターリニズム、あるいは毛澤東體制に對する、祕かな
    る抵抗物語は若干讀んだことがあります。けれども、屈原のことはさてお
    き、それが將來へのプラスになるなどとは(特に、支那において)、夢に
    も思ひませんでした。支那に異形以外の未來があり得るとは知りませんで
    した。あの國に光がさすとは!?
    遲ればせながら、少し勉強するつもりです。

    總理談話なるものについて、先生もやはりお立場上、御見解なるものを
    公けになさる必要があるのでせうね。
    私自身は、ヒマを持て餘す毎日なのに、この談話を讀んでゐません。ど
    うせ面白くなからう、讀めば精神衞生によくなからうと考へるからです。新
    聞廣告で、渡邊昇一といふ人の、某雜誌の論文のタイトル「百點滿點」とい
    ふタイトル、某新聞で佐伯啓思といふ人の「GHQ史觀の丸寫し」といふ批
    判的一行のみを見ました。やれやれですね。

  2. 今回も迫力ある対談でしたね。
    人類全般、人間について表裏ご存知の
    お二方の話題は尽きない。
    普遍的、哲学的な視点も出て来ました。

    実は私も西尾先生のご発言で
    池田様と同じ点についておや?と思いました。
    あくまで一つの仮定だと思いますが
    あの国ははたして変わられるのだろうか。

    ちょうど2005年出版の古森義久氏の
    中国の学校での歴史教育の報告、これはもう絶望的。
    反日歴史観、小学1年から。
    知識人の大量逮捕は毛沢東時代より変わりなし。
    13億の民の革命にしてもこわいですよ。
    富裕層は国外脱出続出。

    また白人社会と黄色人種ではないが
    中国 対 日本は彼らの中では最初から優位の上下が
    すりこまれているのでは。

    それ以上に地球温暖化などで地球が水没の危機
    ・・・石原慎太郎著より。
    生命力たくましい中国人は生存率高い、これは確か。

  3. 昨今、日本人のみならず、世界の「情報力」はめまぐるしく変わったと言えます。しかし、その環境の下にありながら、何故か変わらない部分もあるのではないかという印象もあります。
    あまりにも情報が「過多」になると、人間というのは逆に「守り」に誇示するのかもしれないということなのか。

    私は普段からあまり多くのサイトを調べ上げる行為をいたしません。あまり知りすぎると、かえって「自分」が表せなくなるような気持ちになるからです。
    実際、ネットに復帰してからは、自分の中で想像力があまり膨らまなくなりました。一時期、ネットを離れて、先生の著書や普通に得られる情報から浮かび上がる自分の考え方の方が、いざそれを文章化したとき、何か通じるものを与えることができていたような気がします。

    やっぱり、人間はとりあえず自分ひとりで考えるべきであって、それがどんなに愚策であっても、「個人の純粋な考え方」というのは、受け入れられやすいということなのではないでしょうか。
    その中に色々問題点があったとしても、読み手に何かがグサリと突き刺されば、それだけで評価されるべきことだと私は思うのです。

    戦後70年目の総理の「談話」というものは、何に要求されたものなのか。そしてそれはどこで必要とされているのだろうか。
    我々が固唾をのんで待ち構えていたものなのか。それとも外交上必要なものなのか。
    この根本的な立ち返りがないまま、むやみに一国の代表者が「私見」を語ることは、よくよく考えてみるとこの情勢下、非常に危険なことだと思う。
    語る義務がどのように構築されているのか、私たちは考えたことがあるだろうか。興味の本質は「総理が何を語るのだろう」の一点張りで、まるで下種な芸能情報を待ち構えていた人間の心理状態そのものではないだろうか。

    どう見たってこの談話が必要とされている場所は、韓国や中国の政治上層部だけであって、言ってみればその一番厄介な人間たちにわざわざ餌を与えに出向いて行ったという行為ではないだろうか。
    70年目に何を語ればいいのかというその「今の日本が無理やり押し付けられてしまった課題」を、真面目に提出してしまう我々日本人の、馬鹿な真面目さ。

    本当ならば、先の対戦を節目節目で「正当性」の再確認という対策を考えるべきなのが普通の人間の考え方であって、どうやって近隣諸国に受け入れてもらえるかが真っ先に浮かび上がるような信念は、余計な配慮の象徴だと言いたい。

    でも、そんなことくらいは阿部総理が認識していないわけがないだろう。
    私の理論が正しいということであっても、近年の政治情勢がそこには至らない背景から、談話を発表せざるを得ないんだというのが、少なからず認識の根本ならば、私もいたしからないことと認識できるかもしれない。

    つまり、戦後の外交姿勢の「ツケ」が、今どうしようもなく政治の現場を圧迫しているんだと、捉えるべきなのだろう。
    そのうえで出た結論は、その「ツケ」を外交的理由からも、また国内的反省の意味からも、一つの形として表し長い年月をかけても、日本の理想的な政治の現実に向かって、一歩一歩言葉を重ねることが必要とされていると認識しなければならない状況下にあるということなのかもしれない。

    実にこまったもんだいであります。どうしてこんな状況を生んでしまったのか。一言でいえば「油断」でしょう。政治的「油断」を続けてしまった「ツケ」が、ここにきて一気に襲いかかっているのでしょう。
    つまり、政治的「自家中毒症」にかかってしまっていると言うべきです。

    その対策に今後の政治代表者が背負わなければならない責任が、あまりにも重すぎるこの現実。
    新たな戦後後遺症の始まりなのだろうと認識する次第・・・。

  4. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
    平成27年(2015)9月2日(水曜日)
      通算第4644号    
    西尾先生のご本の書評があります

  5. 続き・・・

    あきんどです。コメントを続けさせていただきます。
    一口で70年と言ってしまうと、そこに至るまでの歴史が、あまりにも軽々しく扱われているような不満が、実のところ私の中にあると言わざるを得ません。
    私自身がはたして保守なのか、それともリベラルなのかは本当のところよくわからないわけですが、どちらにしてもこの70年という歳月を思うと、どこか不憫な思いになるところと、逆にこんな恵まれた時代も珍しいのではないかと思う気持ちが、正直交錯しているのが現実です。

    人間的絶対値から言えば、私は戦後の歴史しか理解していないわけですが、しかし人間的理想値から言えば、過去の歴史をこれほどまで探求可能な時代に生きることができた事実も見過ごせないと思うわけです。

    ところが、いろいろ調べていくと、過去に生きた人間の方が、もっともっと歴史を認識していたのではないかという話も耳にします。その意味でいうと、時代的格差というものなど存在していないと言えるのかもしれない、と思う気持ちも間違いなくあります。

    過去には過去の情報習得があり、その時代に見合った適正な情報量の下で人間は何かを感じながら生きていたと言えます。しかし、人間の性なのでしょうが、どんな時代であっても人の噂というものは存在していたに違いありません。そのようなものに対して人はどうあるべきか・・・という、一種の道徳的観念というものが問われてしかるべきかとも思うわけです。
    そして私が声を大にして言いたいことは、個の人間が何を感じているのか、そして何を考えているのか、私は根本的にそれを聞き求めていきたい。
    人の噂をもとに色々感じたり考えたりすることは仕方がないことですが、問題はそれを一人一人がどう処理して、自分に言い聞かせ、そして他人にどう発しているのか、それが一番大切なことだと言いたいのです。

    何かを知るということは、それまでの自分の認識を覆す事例も生み出します。それが良いとか悪いとかを言いたいのではない。ただ、そういった環境にあるということは、危険な状況下でもあるという認識を確認してほしいのです。
    人間は昔も今もそれほど行動エリアが大きく変わったと思っていないのが、私の持論であります。普通に生きていれば歴史的「差」など存在しないのではないかという理論です。その意味で人間は「歴史」を認識できる能力を有しているのではないだろうか、そう考える立場です。
    つまり、今も昔も人間の行動範囲の基本はあまり差がないのではないか。そしてその意味から、人間の心の在り方もそんなに大きな差があるという風には考えたくないわけです。
    しかし、絶対的環境の差は間違いなくあり、それを度外視したものの考え方には無条件に反対を述べます。しかし、どんな時代であっても、大なり小なり情報の伝達の環境に対する、その人間の適合性というものがあり、今が絶対新しいという保証がないように、昔が絶対古いという保証もないわけで、その時代その時代に応じた人間の情報処理というものが適切に存在してきたのだろうと思います。その意味から歴史を比較した場合、よく言われる最近の情報としては、江戸時代の情報力はものすごくスピード感があったと聞きます。しかも当時は人伝えだったものが多かったことは予測できますが、その真実が意外なほどに真実に近いものだったということも、昔読んだ本で知りました。それをなし得た根本的な社会条件は何かというと、「長屋住まい」が基本だったからだろうと言います。長屋住まいには色んな形式があったのだろうとおもいますが、多くの基本は大家がいてそこにタナコが住み、ほとんどの場合が借家住まいだったという環境だったようです。
    しかも大家はタナコに対して、金融的対処も施していたようで、大家の絶対的権利は揺るぎのないものだったようです。
    つまり、大家からはお金や世の中の情報を公式的に得る環境が、一般人に与えられていたと言えるのでしょう。
    このシステムこそが、江戸時代を支える根本的な仕組みだったのだろうと思います。大家の絶対的存在感が、いわばその町の安定感を生み、それに見合った大家の人間性といものが同時に求められていたのだろうと想像します。
    その意味でいえば、今だってその風潮はどこか感じることができるのではないでしょうか。そのニュアンスが理解できる今の時代にも当時の事情がよくわかるような気持ちになれます。
    そこから想像することは、ちょっと大それた話になりますが、おそらく江戸時代というのは今の時代が掲げる理想的な「小さな政府」だったのではないかと。つまり、細かなところまで社会的に上下が配備され、江戸政府はあまり一般市民に介入しないでも社会が安定していたのではないだろうかと想像するのです。「藩」という存在からしてそれがよりわかりやすく想像可能だろうと思います。ましてや「通行手形」なるものが存在していたわけですから、それが諸藩の任務であっただろうことを想像すると、いかに江戸政府が直接的に一般人に接していなかったかが想像できるのです。

    今の時代「地域的格差をなくそう」などと叫ばれていますが、私にはそれが最大の不快感でして、地域的格差などという認識が、いったい何を基準にそう言い正しているのか、そのこと自体がまったくもって理解できません。
    ではその地域的格差をなくすためには、どの県もどの町も、等しく同じ条件で商売形態が存在しなければならないのでしょうか。そんなこと誰が求めているんですか。ハンコで押したような街並みを、日本全国等しく立ち並べないと、我々は満足しないのでしょうか。
    仮にそれが認識の中に刷り込まれていたとしたら、それは不幸なことではないですか。
    今流行の「秘境ツアー」とかありますが、誰もが行けるようなことになれば、そこはすでに「秘境」ではないわけで、かえって新宿の駅のすぐそばにある居酒屋の方が、はるかに「秘境」になっちゃうことだって、この時代笑えない現実なんですよ。

    結局何が言いたいかと申しますと、今の時代、余計なものが多すぎると言いたいのです。不必要なものがあまりにも多い。そういう「不便さ」に陥っている。かくいう私もその恩恵にあずかって生きていることは歪めませんが、せめて自分がそんななかにありながらも、「自分の意見」というものをしっかりもっていきていきたいという信念はあります。

    その「信念」こそがもっとも大事なものであり、総理が述べる言葉の中にそれが存在しているのかいないのか、そのことを本当の意味で再確認できる社会環境ならば、私は一国の総理が何を語ってもそれは聞き入るべきことだと言いたい。
    もしもそれが不可能ならば、「何も語らない」という手段だって許されるべきことではないだろうか。それが最善の方法であるならば。

  6. 西尾先生の「第二次大戰終了時、中華人民共和國は存在しな
    かつた」「日本は國民黨軍にも負けてゐなかつた」「朝鮮は
    日本の一部で、敗戰國民だつた」「韓國製のトンデモ歴史」
    などの仰せを思ひ出しながら、けふの支那の軍事パレードを
    見ました。
    でも、あの堂々たる兵器、どこまで實戰に使へるかどうかは
    ともかく、カッコよかつたですね。

    先生の ” PKO ” といふ譬へ、まことに適切で、分りやすい
    ですね。今後、私も使はせていただきたく(出典・發案者を
    明かにした上で)、お許し下さい。

    嘗て、ある講演會で、藤原歸一とかいふ學者(進歩的文化人
    の末裔と聞いてゐますが、詳しくは知りません)が、「最近
    イデオロギーが力を失つたことは好ましい」とか分つたやう
    なことを言つたあと、「中國を侵掠した日本」といふお決り
    のせりふを持出しました。
    リスナーの一人として、腹のムシがをさまらなかつた私は
    「それもイデオロギーではないですか」と質問しました。色
    をなした藤原教授、嚴しい口調で、私を難詰しました。私も、
    これに應じて、決して侵掠ではなかつた旨を述べようとしま
    したが、すぐに主催者から遮られてしまひました(苦勞して
    呼んで來た先生を、招待リスナーたる私が茶化すのは無禮で、
    主催者が止めたのは當然です)。私の、二度めの發言時間は
    10~15秒でしたが、もしも、その初めに、 ” PKO ”と
    言つてゐたら、別の展開になつたかもしれません。少し殘念
    です。

  7. 西尾先生のブログで皆さんとも
    新たに出会え興味深いです。

    「藤原歸一」講演会でご質問と意見、勇敢!
    有名な方のようですが私は存じあげません。
    これでまた著書を読んでみようと意欲が。

    9月3日(木)の軍事パレード、
    「時代錯誤」表現が産経新聞に。
    招待客のメンバーも同じ穴のなんとか。
    日本から自己意思出席(91歳)の方
    映像にないと思ったら折からの暑さで入院。

    「70年談話」も外部以上に同じ党内OBや
    意外なところから圧力が。全くの四面楚歌。

    新国立競技場、エンブレム問題の見苦しいこと。
    国内でもめたり決定が遅れたりしてる場合では
    ない。トップ人選のお粗末さ。
    責任転嫁、なすり合いはもはや日本式。

    21世紀の今も数々の危機が迫ってる。
    欧州移民のすごさ。中国経済の今後。
    常にシュミレーションしておかねば。

    安保関連のデモも日本人とはを問われてる。
    「平和、平和、憲法9条堅持」と叫んでいれば
    自然にゲット出来ると信じている
    おめでたい人が多くはないか。

    西尾先生のブログに接していると
    平和な日本人で大丈夫だろうかと危機感。

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