「平成28年坦々塾新年会のシンポジウム」への4件のフィードバック

  1. ニ ー チ ェ と の 對 話』

    3月4日
    西尾 先生
    池田 俊二 拜

    我が家に來るヘルパーさんが、ニーチェに興味ありとのことで、
    ニーチェ入門なんとかといふ漫畫入りの本を持つて來て見せまし
    た。そして、ほかにはどういふものを讀んだらいいかと私に相談
    しました。

    ニーチェそのものは私には難解で讀めないが、西尾先生の標記の
    本(講談社現代新書)は、實に愉しく讀めて有益だつた。いい勉
    強になつた。ニーチェの言葉の注釋ではなく、西尾先生が思ひつ
    くままの聯想を、御自身の生活經驗の中から拾ひ出して自由に語
    つてをられる。そののびのびとした、易しい語り口と話の進行に
    惹附けられて歩むうちに、私も自身の聯想をあちこちへ廣げて愉
    しんだ。ニーチェに親しむにはこれ以上のものはないのではない
    か。ーーさう言つて、我が書架から御著を拔いて貸しました。
    一週間前のことです。

    彼女本日來りて、アマゾンで買つたと言つて、第35刷(2015
    年5月12日發行)の同書(新品)を見せました。永く賣れ續けて
    ゐることは存じてゐましたが、新版を實際に見て手にすると、やは
    り感慨は格別でした。表紙のデザインは若干變つたやうですね。

    更に、返された私の所有する御書の奧付を見ると、「昭和53年3
    月20日 第1刷發行」とありました。なんと初版本だつたのです!
    今まで全く知らずにゐましたが、かなりの値がつくのではないでせ
    うか。

    思ひもかけず、二度喜ぶことになりました。

    以上、御報告申上げます。

  2. >池田俊二さま
    インテリのヘルパーさんなんですね。

    私のは21刷でした。残念!

  3. 坦々塾の討論の録畫、ありがたうございました。

    ポイントは冒頭の渡邊望さんの論述の出だしと、最後の先生の總括に
    盡きるやうに思ひました。

    渡邊「安倍政權になつて、政治の世界と保守系の論壇との間の境界線
    が急に溶解した。昨日まで、強硬な論客として、筋目を匡すことに嚴
    しかつた人たちが、俄かにもの分りがよくなり、安倍さんを理解して
    あげよう、支持しようと ”穩健な ”ことを言ひ始めた。評論家が安倍翼
    贊グループに加はり、中には、それについての ”文藝評論”をものする
    者まで現はれる始末。政治家を對象にした文藝評論とは、前代未聞の
    椿事、異常事態だ」

    先生「安倍さんはナショナリズムをバカにする人ではないーー國民は
    さう思つてゐる。靖國神社參拜にアメリカが因縁をつけた時、日本國
    民の反撥はすごかつた。米大使館へ抗議のメールが殺到して、向うは
    驚いたらしい。そのやうに、國民は安倍さんをバックアップした。國
    民が信頼し、期待してゐるから、なんでも出來る。さういふ雰圍氣の
    中で、どういふわけか、安倍さんは尻込みし、アメリカに顏を向けす
    ぎた。それでも皆が、安倍さんのことだから間違ふはずがない、我等
    國民の思ひを正しく汲んでくれる、さう思つて遠慮し、批判しない。
    安倍さんの選擇の幅はとても廣くなつた。またとなく惠まれた状況だ。
    といふことは、しかし國民の聲をも壓殺する力も與へられてゐるとい
    ふことだ。安倍さんの眞意はともかく、事實として、國民の願ひを踏
    みにじつてゐるーーさういふ現状ではないか」

    實際、先生のおつしやる、安倍さんへの「信頼・期待」は、今も大き
    くは搖いではゐませんね。「安倍さんは壓力に堪へてゐるのだ。自由
    に振舞へるやうに、我々が支へるべきだ」「安倍さんの言葉には問題
    もあるが、工夫・苦心のあともうかがへる」等々、日常聞くせりふで
    す。
    まるで、安倍さんを理解しなかつたり、罵つたりすると、沽券にかか
    はるといふやうなムードです。カリスマ性などほとんどない安倍さんが教祖
    に祀り上げられる不思議さ!
    私自身、嘗て安倍さんに期待を寄せた一人ですので、これを嗤ふこと
    はできませんが。
    新しい歴史教科書をつくる會に後足で砂をかけて、八木さんの側に走
    つた人たちがことごとく、安倍さんの前にひれ伏して忠勤を勵んでゐ
    ることは、安倍政治の本質について示唆するところがあるやうに思は
    れます。にもかかはらず、つくる會の關係者に、安倍さんを惡く言ふ
    人は少いのではないでせうか。以前の安倍さんのイメージが捨てきれ
    ないのでせうか。氣持はよく分りますが、哀れでもあります。

    (附記)林千勝さんの近衞文麿論、實に立派なものでしたが、今囘の
    テーマとかかはる範圍でとの制約のために、話しにくかつたのではな
    いでせうか。こちらとしても、近衞についてもつと知りたく、是非改
    めて獨立した御講演をお願ひ致します。

  4. 昨年末面白いと思った事の一つは、ある地方の喫茶店に入った時、たまたま隣の席にいた60代半ばから後半くらいの数人の女性グループが、南シナ海や珊瑚の事を話題にしていたのを耳にした事でした。

     今の日本は、好きでもない相手に、「お前は私に惚れている」と誤解され、しかもその事をしきりに周囲に吹聴され、迷惑している人に似ています。その上第三者から、「あの人は人に好かれるのが初めてで、真実を知らしめるのは可哀想だから、誤解したままにさせてあげて」と言われているようなものです。

     昨年物議を醸し出した「安倍談話」ですが、この動画の最後の方で、池田氏が抜粋して読まれた個所を改めて聴くと、思わず「冗談でしょ?」と発語せざるを得ませんでした。
    というのも「耐えがたい苦痛」を、成し得る限りの「寛容」の心で、「どれ程の心の葛藤」を抱きながら、克服するべく「努力」してきたか、を主張できるのは我々日本人であって、都合の悪い事は何でも「他人のせい」にするという安易な道を歩んできたシナ人ではないからです。つい2、30年前までは、「日本が戦後経済発展したのは、自分たちが賠償金を取らなかったからだ」と言い、今では「自分たちの爆買いが、日本経済を支えている」とコロコロ変わる民族には、我々日本人が戦中戦後なめてきた身体的精神的苦渋など、到底耐えられないでしょう。

     そういえば、山崎豊子はシナ側の要請によって『大地の子』を書いたそうですが、その中に「戦時中の事に何の反省もない日本人」といった表現があり、違和感を覚えたものです。この小説自体が、シナ人の立場から記述することが多くなるのは仕方がないにせよ、三冊目の煩雑さも手伝って、私は結局読了せずに終わりました。

    この『大地の子』のように、一見公平を装いながら、「日本人が全て悪かった」式の内容を盛り込んだ文物は、今でもあちこちにはびこっているのであって、如何に立派に見えようが、そうした内容そのものが、芸術作品であれ学問であれ、我々が「掛け値なしに」絶賛し、歓迎できない理由となっているのです。

    かつてテレビ朝日の「驚きももの木20世紀」という番組に、「実録 赤穂浪士」(平成10年(‘98)12月18日)というのがありました。数人のゲストとドラマ仕立てで進行して行くこの番組は、今とは異なり、テレビ朝日もまだ「まし」な内容があった頃で、特に印象的だったのは、「・・・この赤穂事件が起こってほどなく、人々は彼ら赤穂浪士を題材に、歌舞伎や浄瑠璃を作った、いや作らずにはおられなかった」、と結んでいる所でした。

    翻って現代人は、どうか。戦局が悪くなって、多くの若者が国の将来を憂え、特攻で突っ込んで行ったという、実に明解な行動に対しても、あれこれと理屈を付けなければならないこと自体が、我々の精神の歪みを象徴しています。そうでなければ、特攻隊員の物語が、『忠臣蔵』のように毎年繰り返し上演されるような、国民的な物語となって定着していたはずです。

    「安倍談話」の許せない点は、日本国を代表しているはずの総理が、「自国の物語」擁護せず、あろうことかシナであれ欧米であれ、他民族の精神衛生に貢献するためには、自国民の自尊心を踏みにじってもよいかのような文脈を含んでいる所です。

    ところが、例えどれほど相手に「気を遣って」も「お世辞」を言っても、「こちらの意」に反して、相手はそれを「真に受ける」だけでなく、彼ら自身自己反省するどころか、仇で返されるという体験は、内外の企業人を始め、外国人と付き合ったことのある多くの人々が経験している所です。一国の総理が、こうした様々な苦労を背負う国民の心情を理解していないとすれば、もはや信頼を失うのは当然であって、そのため今や多くの人々が、「政治家や公教育にはもう期待できない」、と考える状況にまで至っているのです。

    この「国民の物語」に関して、最初に発言された渡辺氏の『未完の大東亜戦争 日米の戦後をゆがめ続ける本土決戦の正体』は秀逸でした。終戦の日のほんの直前に特攻機で果てた人々はもちろん、待機していた兵士たちを始めその他の多くの国民が、それまでの人生の物語の幕を強引に下ろされ、それに代わる何の精神的な支えもなく真空地帯に放り出されたい幾ばくかの時間に、後の世に禍根を残す何らかの出来事があったであろうことは、この前の戦争に少しでも関心のある人なら、当然思い至るポイントでありましょう。

    のみならず国家としても個人としても、現実的に可能であったか否かは別としても、「最後まで戦い切ることが出来なかった」という悔悟の念は、悪夢のように繰り返し立ち現れるのです。加えて忌まわしいGHQの政策にまんまとはまった、という屈辱的な自らの姿を見るにつけ、知れば知るほど精神的なストレスに苛まされるというのが現在の我々です。

    そうした中「実験的精神」さながらに、あの時、本土決戦に向けて準備していた人々がいたことや、それがどんな過程を経て我々が知る実際の今の姿に納まったか、また現実に本土決戦が行われたと仮定した場合、我々の目の前にはどんな光景が繰り広げられたかなど、ありとあらゆる可能性を追求したこの著書は、真剣に我が国の
    ことを考える人なら、一度は出会わなければならない書物だと言えるでしょう。

    よしんばこうした思考実験を経た結果、自らの「死」に立ち至ったにせよ、そこで初めて、「あの空白の時の流れによって、うかつにも敵の策略に乗ってしまった不覚を払拭すべく、失われた自己を奪還する」ことが出来るからです。
    渡辺氏が最後の方で引用した、佐藤健志氏の文章は象徴的です。
     
     わが国は「1945年に戻って本土決戦をやり直したい」という願望と、「虚妄でもいいから、現在の平和や繁栄を維持したい」という願望に引き裂かれているのだ。かかる葛藤、ないし「過去」と「現在」における時間のせめぎあいこそ、「戦後」なるものの本質であり、この状態を脱却しえないうちは、戦後も永遠に終わらないのである。(佐藤健志 『震災ゴジラー』VNC、2013年)

    大切なことは、こうした文章が若い人によって書かれたということです。というのも、まさにこの瞬間にも、この日本列島で我々国民一人一人が「精神的本土決戦」とも言うべき戦いを、あらゆる場面で余儀なくされるであろうことが想定されるからであり、感受性の鋭い若者なら、それに対処すべく我々日本人自身の手による「国民の物語」を切望しているはずだからです。

    そうした意味で、安倍総理を含む、「第二次団塊の世代」とも言える団塊世代より10歳くらい若い世代は、教育改革にも失敗した中途半端な世代として、後の世の厳しい弾劾を受けるに違いありません。

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