トランプ外交も本質変わらず…米国への「依頼心」こそ最大の敵

6月9日産經新聞「正論」欄より

 米大統領選挙のあとに日米関係は大きな変化が訪れ、わが国は今まで考えていなかった新しい国難や試練を強いられるのではないか、という不安が取り沙汰されている。

≪≪≪ 孤立主義は米外交の基本ライン≫≫≫

 オバマ米大統領の8年間の外交政策の評価は低い。現在の世界の不安定は相当程度に彼の不作為に原因がある。何と言っても同盟国を軽視し、仮想敵国(中国やイランなど)との融和を図る腰のぐらつきは困ったもので、日本、イスラエル、サウジアラビア、トルコなどをいたく不安がらせてきた。さらにイギリス、ドイツ、韓国を「習近平の中華帝国」に走らせ、フィリピンまでが“親中派”ともされる大統領を選んだ。

 米国のいやがる安倍晋三首相のロシア接近も、親米一辺倒の昔の自民党なら考えられぬことだ。すべてはオバマ政権が覇権意志を失いかけていることに原因がある。

 大統領選共和党候補トランプ氏が言い立てている外交戦略は、オバマ大統領の政策とはまるきり違い、大胆なものとの印象を与えているが、それほど大きな隔たりはない。「米国は世界の警察官にならない」と2度にわたって宣言したオバマ大統領の方針と本質的な違いがあるとは思えない。

 背景には軍事予算の大幅削減の事情があり、だれが大統領になっても「孤立主義」「米国第一」「国際非干渉主義」は、イラク戦争が失敗と分かってから以後の米国外交の基本ラインである。ただトランプ氏は、中国やロシアに対しては同盟を組まなければ米国も自分を守れないということが全く分かっていない点に、相違があるのみである。

≪≪≪ あらゆる面で依存してきた日本 ≫≫≫

 動かせない米国の内向き志向の情勢下で、肝心なことは、わが国が依存体質をどう脱し、自立意志をどう高めるかである。軍事力を背景に現状を変更しようとしている中国に対する米国の抑止力は弱まるだろう。アジア各国は米国への不信感を募らせ、それぞれ生存を図ろうと中国との関係を調整し(すでに始まっている)、同盟の組み替えを試みるようになるだろう。そして国内に中国共産党の意向を迎える勢力の拡大を少しずつ許すようになるだろう。わが国も多分、例外ではない。

 恐るべきことが始まろうとしている。米国の“離反”を目の前にして、わが国が今まで米国に何をどのように依存していたかを整理してみる必要がある。核抑止力と通常戦力、軍事技術の基本的な部分、安全保障に必要な国際情報のほぼすべて、エネルギー輸送路の防衛、食料の大部分、驚くべきことに水資源も食料という形で大量に輸入している。これだけ依存していれば米国から離れられるわけがない。

 米国は今でも世界の国防費の37%を掌握している。中国が11%でそれに次ぎ、ロシアが5%、約3%が英、仏、日本である。日本の自衛隊の質は非常に優れていて、装備の性能や技術力も高いが、兵員や装備は数量的に劣っている。法的準備態勢などはご承知の通り、だめである。なぜ日本が安全であったかといえば、世界最強の軍事大国と同盟を結んできたからである。
 これは否定することのできない事実である。そしてこの事実の代償として、わが国の国土に133カ所の米軍基地(施設・区域)を許し、軍事装備品の米国以外からの購入も自主開発も制限され、約1兆ドルにも及ぶ米国債を買わされ売却する自由はなく、貿易決済の円建ては事実上、封じられている。しかも金融政策まで米国の意向に合わせざるを得ない。

≪≪≪ 国内が引き裂かれる状況に ≫≫≫

 これはすなわち“保護国”ともいえる証拠である。逆に米国は日本から防衛費の何倍もの利益を得ていることになる。トランプ氏はこの事実を知らない。わが国民も中国の「侵略」を目の前に見て、同盟国に責任と補償をさらに求めてくる米国のこれからの対応-大統領が誰になっても-に対し、今まで体験してこなかった想定外の戸惑いと苦悶(くもん)を強いられることになるだろう。

 なにしろ中国の現預金は22兆ドル(約2400兆円)もあり、そのだぶついているカネを、人民元が暴落しないうちに少しでも取り込もうと、欧米の金融資本は目の色を変えている。南シナ海を侵す醜悪なスターリン型全体主義体制を、あの手この手で生き永らえさせ、温存することに必死である。日本の財務官僚も例外ではない。
 恐ろしいことが起こりつつある。日本は一国では中国に立ち向かえない。米国の助けが必要である。しかし米国は内向きで、日本が必死になってすがりつこうとすればするほど、背負うべき負担はさらに倍増され、一方、国の独立と自存に無関心な国内の親中派が米国との関係を壊そうとする。

 このように国内が引き裂かれる状況になるのをどう避けたらよいだろう。これからの日本に真に大切なのは、国民が自らの弱点によく気づき、国家の自立意志を片時も忘れぬことだろう。(にしお かんじ)

「トランプ外交も本質変わらず…米国への「依頼心」こそ最大の敵」への8件のフィードバック

  1. 舛添都知事 頑張れ!

    明日、都議會に舛添知事の不信任案が出されるとか。
    ためらつて、もたついてゐた自民黨も、最後は追從した。さもないと、
    舛添さんを庇つたとの印象を與へ、來たるべき參院選擧で不利になる
    からださうだ。

    私は舛添さんに徹底抗戰を期待してゐる。安倍・自民に決定的ダメー
    ジを與へるためだ。
    不信任案が可決した場合は、ただちに都議會を解散されたい。ーー都
    知事の身分はそのままで、都議會選擧。
    そして、新たな議員により、再度舛添知事の不信任案が可決されるだ
    らう。(ここで、舛添さんは自動的に失職するが、それで十分使命を
    果したことになる。殊勳甲! お疲れさまでした)

    舛添さんを都知事にした責任は、第一には、我等都民にあるが、その
    前に舛添さんを支持した安倍・自民黨の責任も輕くない。(數日前ま
    で、ひたすら頬被りをきめこんでゐたが)都議會・知事の連續選擧で、
    たつぷりとお灸をすゑられるべし。

    前囘の都知事選擧の際、西尾先生が(田母神さんの應援演説で)「私
    は舛添さんには恨みがある」といふ前置で聽衆を笑はせたあと、次の
    やうなことをおつしやつたのを覺えてゐる。

    (昭和61年のパリ圓卓會議ー讀賣新聞社主宰・日本から7人、
    ヨーロッパから12人の知識人が參加した討論會)の席のある
    場面。日vs歐の感じで議論が進んでゐると思はれたところで、
    舛添さんは突如西尾・西部などの日本側の議論に反對し始め、
    兩陣營を唖然とせしめた。舛添さんには、急に周圍を裏切り、
    自分だけいい子になる習性がある。

    テレビにも映つたが、會議の場で、舛添さんは、テーブ ルの自
    分の前に置かれた小さな日の丸の旗を手にとつて脇にどかした。
    舛添さんは日本人ではないのではないか。

    私(西尾先生)の發言中、「レイシスト!」と罵つた(朝まで生
    テレビ?)
    (以上は、池田の記憶で書いてゐます。間違ひがあればお詫びし
    ます)

    この少しあと、先生にお會ひした際、「先生、安倍總理大臣が舛添さんと
    一緒に選擧カーに乘つて、舛添さんの手を高々と持上げましたよ」と申し
    たところ、先生は無言で苦い顏をされました。

    安倍さんは「斷言」することがお好きで、それを頻發しますが、そのとほ
    りに實行された例を私は知りません。そして、そのことにつき、釋明も謝
    罪もしません。
    最近では、數年前に「國民の皆樣に對して、はつきりと斷言します」と言
    つた消費税を・・・。それも「新しい考へにより」でしたか。「前の判斷
    は誤りだつた」とは言ひませんでしたね。アベノミクスとやらは着實に成
    果をあげてゐる(ただし、道半ば)のださうですね。
    第一次安倍内閣の頃から、村山・河野談話をそのまま蹈襲することはない、
    竹島の日は國が主催して行ふ、・・・etc,これ以上思ひ出すのも不愉
    快なので、止めます。

    昨年の坦々塾新年會で西尾先生は、安倍さんの後釜に人がゐないからとい
    ふ理由で安倍批判をしない人に對して「あなたは自民黨幹事長ではないの
    だから、あとに人がゐるとかゐないとか顧慮する必要はない」とたしなめ
    られました。今年の新年會では、同樣の人に對して「あなたは官房長官で
    はないのだから」と、やはりたしなめられました。

    先生は、恐らく安倍さんをとつくに見限つてをられるのではないでせうか。
    しかし、いはゆる保守論壇は、今もほぼ安倍一邊倒です。その理由につい
    て、ここでは言及しません。
    『正論』、”WiLL” 、”HANADA”などは、安倍さんベッタリでせう。
    西尾先生もこれらに執筆される際は、あからさまな安倍批判と受取られな
    いやう配慮されつつ、信念を吐露されてゐるゐるやうに感ぜられます(私
    の誤認かもしれませんが)。

    西尾先生にそんな苦心をさせる元兇 安倍さんは許せません。成敗しなけれ
    ばなりません。しかし、國民の安倍内閣支持率はいまだ43%も!。私に
    は信じられないことですが、それが現實ならしかたありません。
    この際、非常の手段によるしかありません。それには舛添さんのお力を借
    りることが、現在では最も有效です。

    舛添さん、とことんねばつて下さい。そして、安倍・自民に痛棒を!

  2. インターネットの時代となり、政治行政の中の位置の取り合い、椅子取りゲーム、思想誘導の姿は、日本のみならず、世界各国のその内部分裂の種となり、その共有性や同調性も、必然的に空間を大きく跨ぎ始め、転移し、広がる。

    スマートフォンやSNS等の徹底した普及により、各々に与えられたその無尽蔵の情報の箱は、個人個人の能動、知的欲求、承認願望を強烈なまでに刺激し、より短絡的に情報の速度を求め、言葉の簡易性に邁進し、およそこの短期間の間に濁流と化した。

    鎮静や静寂を嫌うその姿は、あらゆる情報の対処に、その情報に対する「無理矢理なまでの上書き」を用い、その人の精神の緩和として働く。圧倒的なまでの情報に対し、それすら情報、他者からの即時に働く対処法を使い、その情報からの逃避、或いは攻撃を試み、また、触れられもせず、他者ですらない「ただの情報」に対してでさえ、善悪や正誤を、その情報の背景に「居るであろう対象」に被せて、己を安定させる。

    この姿は確かに、古来からの人間の在り方に重なりますが、現代社会は、その書き換えと上書きのスピードが、あらゆる分野で異常加速し過ぎており、沈黙の入る隙が無い。またそういった人々の割合が増えすぎている。

    本来、国家や民族を語る事とは、そんな情報の渦の中で、さも「反応」しながら、声高々に叫びながら、ましてや感情をそのまま言葉に乗せる事など「出来る筈が無い」と考えます。あまりにも帰依としての日本が野放しに散らかり過ぎている。

    その姿勢は国家や民族、つまりは日本を、あまりにも「対象」とし過ぎている姿で、感情的表現の手段ですらない。

    我が国の国家観は、その様が、地理的、文化的にも勿論、あらゆるものが人工的でないのだから、学術的な検証はともかく、一般人が本来、その精神の史に幾何学的な鮮明な区切りをつけること事自体に違和感を感じるのが普通です。

    個人が自らの生い立ちや、家族やその記憶を言葉に乗せる時、そこには哀しみや喜びや、時には怒りや羞恥の入り雑じった、向き合わざるを得ない、重き葛藤が襲うもの。善悪や正誤に当てはめた所で、それが解決の道になる事叶わないのは、良きも悪きも、その「他者を汲み取る現実が、どうしようもなく在る」からです。そこで用いる、時には用いざるをえない「沈黙を経由した理性」には、不思議と、刺を払いし感情を纏った言葉となって下りるもの。

    これは何も崇高なものでも、高き知性がもたらすものでもない。哲学と呼ぶほど懐疑性に満ちてさえいない。内省的な部分はあっても、全てが内省である訳もない。無理矢理の肯定も、当然自らの内部には出来ない。

    「自分はどうして此処にいて、どうしてこうなったのか、あれを何時の何処で知ったか、何が出来て、何をしてきたのか」

    主義も宗教も、人間は知らないものは信じれないし、言葉に出来ない。戻れば誰しもがそこに大局は無い筈で、刻に身を置く日本人なら、疑いもしない当たり前の事だった。言葉の有無や、環境や身分、職、識の濃度の違いはあっても、各々、誰しもが経験する通過儀礼の様に自らと向き合った。その経験無きままでは、例え齢重ねても、決して「大人」として他者は見なかった。

    言論人は無論のこと、誰であれ、国家や民族を「我が事」まで広げて語るなら、せめて「自らと向き合って」からにしてほしいものです。己向き合わずして、億の民包む国など語れはしない。共産主義者等が言う様な浅はかな自己否定にも似た、また懺悔的な自己分析など、あまりにも軽すぎる言葉が飛び交い、情報で傷を舐め合っている。「敵を論破」する事自体を目的化している、知性ゲームから卒業せねばならない。

    元々、我々日本人は、本音と建前の揺らぎの中で、その和を具現していますが、それはその極が離れ過ぎるのを防ぐ為でもある。そしてその揺らぎが創造性に繋がる事も肌で知っていた。ウチソトの概念は精神を高揚と安定の揺らぎをもたらし、他者との距離の最適化を現す。
    PCやSNSの中の言葉と現実に放つ言葉の解離が、我の他者への関心にもたらす効果の危険性を知らねばならない。

    そのうちインターネットそのものが、ドストエフスキーの言った「自由」への覚醒のトリガーになり、自己の矮小さを突き付けに来る。その畏怖に、とても今の日本人が耐えられるとは思えない。情報の海ではなく「プール」を泳ぎ過ぎているが故に。

    ···先生の言われる「国内が引き裂かれる状況」は、民主主義が形骸と化したとはいえ、否、形骸化したからこそ、先述した様な情報化社会の延長上に、恐怖的なまでに現実に現れるのではないか。

    自らを知る。その本質を避ける人間、騒音と濁流で誤魔化している段階で、自らの周囲範囲の他者すら捌けず導けず、一体どうして国家単位としての他者、米国、露国、支那を論じる事など出来るのか。今のままでは、ポピュリズムすら道具とするのが常態化するのをインスタントなニヒリズムを着て、冷ややかに見送るだけかも知れない。嘲笑や皮肉では人を導く事など出来はしないのに。

    「他文化尊重」ならぬ「他文化共生」は、いずれ言語分断まで加速する可能性があり、巷に溢れる、中国語やハングルの必要以上の並列表記は、その先鋒の様にさえ映る。その源泉は「自由」であるのだろうが、その形而上すら信じれぬまま、或いは捨てたまま、自由という言葉のみを振るう。国亡ぶは邪染まりし民の愚、バベルの塔崩れるは言語の分断です。

    あらゆる処において、一人一人が、要は「己と向き合う」のが怖いのです。上がそうだから、下りている。この部分が、今の我が国、我が民の最大の弱点で、理性が後付けの知武装にばかりおかれ、この回顧の姿勢自体を避ける為に言葉を用いている様にさえ思えてならない。戦後、いや、近代の虚構の部分が露呈しつつある今だからこそ、その戦後日本の「光の部分」を抽出する為にも、その闇の部分を、唇噛んでも、鮮明化せねばならぬと考えます。

    「恐怖」や「孤独」のトリガーは、いつも刻と他者の間に在るので、その刻を切った戦後日本にも70年という刻が出来、記憶は襲いかかってはきていると考えますが、何ゆえ短く唯物的なので、向き合い方すら再構築せねばならず、今はその渦中でありましょう。その対座がある一定の観に入る時、真に他者を見る視座が芽を吹く。その活力、胆の様を、これからの若者に魅せていかなくては、彼等はそのバトンを力強く受け取りはしないでしょう。

    このような、濃霧にも似た、日本人を包み込む違和感を、果たしてどの様に胆と義纏い、言葉に乗せるのか。言論人の方々に大いに期待すると共に、それがまつりごとを揺るがす程の論理展開を生むと願う。

    最後までお読みくださり、ありがとうございました。

  3. 最後の二段落は私達が深く肝に銘ずべき言葉です。

    全集第一三巻「日本の孤独」は一九九〇年代からおよそ六年間のご集成ですが、当時私もいくつかを読んでいて、今回ふたたび全集で読み返してみて(まだ途中ですが)、とても過去のこととは思えず、今もって有効な時事評論を遥かに越えた作品だと思っております。見方を変えれば、今だ克服できず、多くは認識すらできない、私達の本質的な問題なのでしょう。

    四半世紀経った時事評論が今日と響きを合わせています。偶然にも今日本は当時よりも自らの「孤独」を見つめる時期に迫られているのではないでしょうか。

    池田様のコメントに昨年の新年会(平成27年2月1日)のことが出てきましたので、これを機会に質疑応答の時間の西尾先生が仰っていたことを以下、一部紹介させて頂きます。

    『 安倍さんしか居ない、安倍さんを護るしかない・・・。ということについて、それはPTA的な発想で、安倍さんが沈没して第二第三がバカなやつばかりだったとしたら、この国は亡びるわけだ・・・。

    それだったらしょうがないんだよ! 「思想」はそこまで面倒見てやる必要はないんだよ。「思想」は冷酷でなければいけないんだよ! それでNOと言えばいいんですよ! 安倍さんの腰巾着みたいになって助手みたいなことをやるひとが何人もいますけど、あんなのは利用されるだけで本当にみっともないよ。(二人ほど挙げて)安倍さんも知識人の遣い方を全く解っていなくて、変な人ばかり集めているでしょ。あれは分かっていない証拠ですよ。その知識人の方々についても解っていないと思いますね。

    今日(の講演で)「イスラム教とキリスト教の宗教戦争に日本は手を出すな」と最初に言いましたが、安倍さんにそういう認識は無いと思いますよ。そういう教養が全然無いんですよ。学歴のことなどではなく、基本的に教養が無いんですよ。違いますか?

     だったら僕まで駄目になるようなことを言ったらいいのですか?違うでしょ!言い続けるしかないでしょ!たとえそれが今の政治に反映されなくても・・・。そういうことではないですか?皆さんもその声でいけば良いのですよ。安倍さんが駄目になろうがなるまいが、俺達ひとりゝの責任ではないのだから・・・。「安倍さんを護る」とか、「安倍さん以外に人が居ない」なんてことを言うのはおかしいんだよ。何なら、そういうことを言う人に「あなたは自民党の総裁なんですか?」とでも言いたいですよ。「あなたは自民党の党員なんですか?自民党に何か縁のある人ですか?自民党の幹事長の代理なんですか?」そういう幹事長代理とか何とかいう人たちは、一所懸命にそう考えるべきですよ・・・。私はそう思います。
     
     ・・・何か攻撃されると安倍ファンっていうのが、保守の中で安倍さんの悪口を言うやつはシラミ潰しに叩き潰す、と言っているようだから・・・。とんでもない国ですよ、本当に。 』

    話は飛びまして、「オバマ広島訪問と「人類」の欺瞞」(前々回)についてですが、あきんど様は月刊Hanadaの西尾先生の文章を読まれましたでしょうか?日録コメントは印象深い名文揃いでしたが、あきんど様がその良いきっかけをつくったように感じました。

  4. この場を、無礼講で日録の驥尾に付すことのできるオープンな言論の場であり、アクセスする方々はみな戦後レジームの超克を目指す同志と想定し、一読者として発言させて頂いています。
    政治家にあらざる言論人としての西尾先生の御立場から、「思想はそこまで面倒見てやる必要はない。それで(安倍に)NOと言えばいい」と言われるのは納得で、日和見、コバンザメの蠢くエセ保守のなかにあって気骨ある正論をこれからも主張し続けて頂きたいと思いますが、私どものような一票しか持たない憂国の一有権者にとっては安倍内閣が倒れた後に、民進党のような売国政党や左がかった保守が幅を利かす国に戻る可能性があるなら、よりマシな安倍支持が現実的選択となります。池田様の辛辣な皮肉にも共感は覚えますが、破廉恥漢舛添にねばらせて安倍・自民に痛棒を食らわせた後はどうなってもいいのでしょうか?その後は、数から言って真正保守の出番はなく、有権者としてはそこまで考えざるを得ません。
    「安倍さんを護るしかない・・・というのはPTA的な発想で、安倍さんが沈没して第二第三がバカなやつばかりだったとしたら、この国は亡びるわけだ・・・。それだったらしょうがないんだよ!」というのは悲痛なご発言ですが同感です、というより理の当然ですが、そうなってしまったら万事休すで、あきんど様ではありませんが、「ではどうすればいいのか?」

    以前、楽秋庵主がそのブログで「1人区は次世代の党、比例区は自民」を示唆されていましたが、先生の「わが国が依存体質をどう脱し、自立意志をどう高めるか」への選挙での具体的回答ではないかとおもいます。米国依存の自民に対しては「日本のこころ」、自立意志のない左派勢力に対しては実力ある自民を支持するという捻じれた投票行動です。ただ「日本のこころ」は主要メンバーが離脱し中山ご夫妻の私的な政党の印象が拭えません。どうしたのでしょうか?
    日本国民の「自立意志を高め」、「国家の自立意志を片時も忘れぬ」ための捷径は、青少年に「自尊自恃のこころ」を植え付けることではないでしょうか。人は生まれながら本能的にこの心を持つことは出来ず、戦前の日本のように、親や先生が吹き込んでやらなければ駄目です。WGIPが日本民族の精神の中枢を破壊した結果、大方の日本人が「廉恥心」と「名を惜しむ」気持ちを喪ったことは、2代続いた団塊世代都知事の醜い振舞と風貌が証明しています。個人が恥辱を恥辱として感じられなければ、国家の恥辱も当然感じることはなく、恥辱を雪ぐ発想も出てきません。自分の城を自分で守れない、米国への依頼心が不名誉で恥ずかしいと思えることが基本ではないでしょうか?
    “国の恥辱とありては日本国中の人民ひとりも残らず命を捨てて国の威光を落とさざるこそ一国の自由独立と申すべきなり。”福沢諭吉の「学問のすすめ」にあるこの明治の日本の常識が平成日本の非常識となっています。南京も慰安婦も尖閣も、独立心を喪った民族の自招の危難であり、日本のいまここにある禍機の根底にこの問題があると思っています。
    「安倍内閣支持率43%」の殆どはむかし民主党に投票した無知な節操なき有権者です。それが日本の政治の現實であることは敢えて私ごときが云う必要のないことですが、この現実をすぐに変えるには「非常の手段」しかなく、それがクーデターですが、皮肉なことに市ヶ谷事件がその芽を自衛隊幹部から完全に摘んでしまい(山本瞬勝陸将補証言)、田母神氏の失脚や訴追に繋がったのではないでしょうか。最も恐ろしい国難は左翼勢力の間接侵略ですが、日米関係の変化はこれを助長します。迂遠ですが残された道は教育と宣伝と思います。
    第1に、先に述べた名誉を重んじる心の復活、第2に重要な基礎知識の普及。黒ユリ様が紹介されたシンガポール陥落時の本当のこと、その世界史的意義、通州、通化事件の真相などの歴史を広く知らしめれば世論が変わるはずです。そうすれば、先月の“ユネスコ記憶遺産に「通州事件・チベット侵略」「慰安婦」を登録申請“のような勇気ある行動に出る人も増えるでしょうし、そのためにも敵を討論や論戦で論破する用意が必要となってくると思います。

  5. 勇馬さんへ

    「破廉恥漢 舛添」ーー豐富な語彙をお持ちなのに感心しました。
    語彙に乏しい私としては、借用して「破廉恥漢 安倍」とやりたいので
    すが、それでよろしいでせうか。もつと適切な語があれば御教示下さ
    いませんか。

    「安倍自民に痛棒を食らはせた後はどうなつてもいいのでせうか」
    「よりマシな安倍支持が現實的選擇」
    いやはや、恐れ入りました。1年半くらゐ前まで、「安倍さんのあと
    に人がゐますか?」の一言で即刻、沈默させられてゐたことを思ひ出
    し、苦笑を禁じ得ませんでした。一言もありません。今も事態は變り
    ませんよね。以後、勇馬さんに對しては言葉を愼みます。

    三島由紀夫とクーデター。その後の展開は皮肉ではなく、すべて三島
    の考へてゐたとほりだつたのではないでせうか。三島は自衞隊に對し
    てなんの幻想も抱いてゐませんでした。
    あの場で三島に續く者が出ないことは百も勿論、のちのちの自衞隊に
    も一切期待してゐなかつたと思ひます。三島は恐るべきリアリストで
    もあつたといふのが、私の考へです。

    「草莽がネットワークする」「一人區は次世代、比例區は自民」「自
    尊自恃のこころを植ゑ付ける」「敵を討論や論戰で論破する用意」等
    々、(一部は、樂秋庵主さんとやらの發案であるにしても)アイディ
    ア沸くがごとしですね。しかも、どれも大切なポイントをついてゐま
    す。敬服の至りです。

    そこで、失禮ながらお訊ねします(勿論、お答へになる義務はありま
    せん)。勇馬さんは以前左翼にいらして、轉向されたのではないでせ
    うか。左翼は、策、智慧に滿ちてゐるといふのが、私の抱くイメージ
    で、その點、無策の私などとは大變な違ひです。少しは見習ふべきだ
    と考へてゐます。
    そんなことから、貴文を拜讀してゐて、そちら方面で鍛へられたかた
    ではないかなどと、ふと臆測した次第です。

    失禮の段 お詫びします。

  6. 訂正

    先稿 中ほどの「百も勿論」は「百も承知」の誤り
    でした。申し譯ありません。

    1. 池田様

      折角のお尋ねですので、豊富な語彙を持っているというおだてに乗ってお答えしますと、安倍氏は破廉恥漢でも勿論宜しいかと思いますが、裏切りのレベルが舛添などと比較になりませんので「変節漢」あるいは「獅子身中の虫」ではどうでしょう。邦家の為、成敗(天誅)の対象というご意見に賛同の上、何度も期待を裏切られた池田様の御心をこのネーミングでお慰めすることが出来れば嬉しく思います。これでも飽き足りないでしょうか。

      などと言葉を弄び、身の程を弁えず大きな口を私ごときがネットの片隅で叩いても世の中は少しも変わりません。居酒屋宴会保守とブリュッセル氏にやっつけられるのが落ちです。

      そこで直接行動が選択肢になるわけですが、市ヶ谷事件を調べるうちに、親戚の者と奇縁のあった山本瞬勝氏の「憂悶の祖国防衛賦」に最近遭遇しました。この方は戦後日本のCIAのような方ですが、三島由紀夫とかなり深く関わっており、その著書で三島の真実を語っているように推察します。この事件は一知半解の者が軽々しく語ることは憚られ、西尾先生の論文も読まねばなりませんが、国を憂うる者は誰しもこの事件に注目したはずで、池田様も御多分に漏れない。

      「三島は自衞隊に對してなんの幻想も抱いておらず、あの場で續く者が出ないことは百も承知」というご意見はその通りと私も思いますが、「のちのちの自衞隊にも一切期待してゐなかつた」とまでは言い切れないことがこの本を読むかぎり言えると思います。それは最終局面のことであり、当初は自衛隊の第1師団長だったあの藤原岩市氏との知遇、佐藤総理への建白書(その内容は今読み返しても新鮮です)から始まり、“端倪すべからざる”共産勢力の思想戦、情報戦と間接侵略に対して、自衛隊とは別に、不正規軍としての民間防衛組織を作り、併せて共産勢力の侵略を受け付けない鞏固な国民精神を涵養する、「英霊の聲」はその先駆けだった、という筋が読み取れます。良く知る方々には常識かもしれませんが。あの古式に則った最期の自裁は、日本人に民族の伝統と名誉に目覚めさせる死を賭した「大芝居」だったと山本氏は断定しています。

      自衛隊のクーデターに絶望し、民間防衛の組織作りも断念し、最後に、あの行動によって、日本民族の魂を覚醒させることが出来るという一縷の希望を以て、その結果、自衛隊が真の国軍になることを願ったという意味でのリアリストだったのではないか、しかしその後半世紀近く経っても日本人の多数は未だに目覚めない、その意味ではリアリストではなく、夢想主義者だったのかもしれません。

      三島由紀夫の生きていた時代には拉致、慰安婦、南京、尖閣の問題は起きていませんでした。安保や国際反戦デ―などは去りましたが、共産中国の海洋侵略は我が国の安全への深刻な脅威であり、沖縄の間接侵略は始まっているのに、政府自民党も国民もマスメディアも安閑としています。

      今回の論文で西尾先生が明確に“わが国民も中国の「侵略」を目の前に見て”と記述されたことに注目しました。いま世間でハッキリ「中国の侵略」と云う者が居ません。産経でさえ終始一貫、中国の海洋「進出」という用語を朝日などと同じく不用意に使っています。「進出」とか「台頭」と云った途端、当然の権利として、出るべくして出てきた、というニュアンスが前面に出てその本質を隠してしまいます。嘗て「敗退」を「転進」と言い換えたのと同類です。なぜ明確に「侵略」と言わないのでしょうか?「領海の侵犯、奪取の意図、略取、強奪、乗っ取り」といった用語でかれらの仕業の本当のところが表現されるのに、これらを故意に避けて、中国に遠慮し阿っているとしか思えず、さらに推測すれば彼らの手が回っていると考えるべきでしょう。武力で奪取しようとする中国の思想には軍事力の優位で対抗するという行動しか方法はないことをこの「進出」という言葉が覆い隠してしまうのです

      策と智慧に滿ちてゐる元左翼、との推量も半分は御からかい半分は過分の買い被りと受け取りました。国立大学の法学部で学べばみな左傾化します。天皇制は民主主義に反する、などと言い始め、そのまま社会人となり世界を知って漸く目覚めた迂闊な一介のサラリーマンに過ぎません。

      かつて故中村燦氏と面談した折、「保守は一人一人がお山の大将でまとまりにくい」と嘆いておられました。人民戦線方式を採って保守が大同団結すれば真の敵に対して強くなります。日本会議がそれだというのが週間金曜日の見立てでしたが、この坦坦塾にはお呼びがかかっているのでしょうか?

      たとえ無責任な口舌であっても具体的なアイデアを心ある方々に提言し、共感の輪が広がるとき、声なき声が「声ある声」として多少でも影響力をもつことを期待しつつ、もう一つ持論を紹介します。「シンガポール陥落」の映画化です。予算を十分にとって、西尾先生に監修して頂き、山本嘉次郎の「ハワイマレー沖海戦」の迫力を100倍にする演出で製作し公開すれば、「永遠のゼロ」などの効果を遥かに凌ぐ世論形成が可能で、この1本で日本が変わります。水島氏の「7人の死刑囚」はカンパまでして応援しましたが駄作でした。日本人にも訴えるものが弱すぎ、まして外国人にはサッパリです。三島氏の映画も同じでした。黒沢や大島位の力量のある監督で製作できないものでしょうか。

  7. 阿由葉秀峰様や勇馬眞次郎様、さらには池田様のやりとり、たいへん参考になります。
    そして時折私のことにも触れてくださり光栄の至りです。
    私はお三方がどんな方々なのか、ほとんど存じておりませんが、坦々塾にご参加されているとするなら・・・(池田様がその主要メンバーであることだけは存じておりますが)、去る4月26日でしたか、西尾先生の「日本の鎖国」をテーマにした講演はご存知でしょうか。
    つい先日そのビデオをyouチューブで拝見し、あらためて西尾先生の論建てに感嘆した次第です。なにしろ最近の歴史認識の中で「江戸時代の鎖国」は存在しなかった・・・という流れが、だんだん認識されつつあったわけで、その発端は西尾先生がきっかけだったのも事実で、その張本人が今度は「日本は鎖国していたんですよ、しかも10世紀から」と語れば、驚かざるを得ないのも当然です。

    お三方がこの講演をご存じであると前提して語らせていただきます。
    実は昔、私は毛皮を扱う仕事をしておりまして、そこで学んだ中でこんなことがありました。
    『世界の毛皮の狩猟の歴史を見ると、ロシアの場合はセーブルを追って東へ東へと進み、アメリカはビーバーを追って西へ西へと進んだのだ』
    西尾先生は、ラッコを中国に売りつけるためにロシアが日本近海でそれを狩猟し、当時の世界貿易の構図がいかに近海で盛んだったかを紹介していますが、それを知って、なるほど毛皮の狩猟は陸上だけにとどまらず、海上にも進出していたんだと認識しました。
    そういえば我が家にもラッコの帽子があって、たしか親しくしていた靴屋さんに薦められて親父が買わされたと聞いています。
    近くの靴屋がラッコの原皮を在庫していたということは、まさにその昔日本近海でラッコが捕れていたという証なのでしょう。
    そうした当時の大国が世界の海上航路を熟知していた事実を横目に、日本は呑気に「鎖国」をしていたという先生の論は、久々に驚かされました。
    当時クック船長とベーリングが、まるでドラゴンクエストばりに海上進出し、世界の海を歩き回っていることを想像しただけで、なるほど当時のヨーロッパの社会事情というのが、いかにその後の歴史に真っ直ぐつながっているかを深く認識できました。
    そしてその後は捕鯨が盛んになり、当時の産業革命になくてはならないものだということも知り、確かに日本はこのころから何か蚊帳の外だったことが理解できます。
    先日も中国の船が尖閣諸島近海に出没した事実に、政治的圧力が図れない現実は、それこそ日本の歴史をありのままに象徴しているわけで、この呑気な気質はそう簡単に治療できないのだろう・・・などと考えた次第。
    といことは、この気質は永遠に残ることも覚悟しなければならないのかもしれません。
    実際現代日本人の中で、欧米諸国民のごとく世界制覇など念頭に置くものは皆無だろうし、できれば我々は征服されたくもないし征服したくもないのが現実なのではないか。
    この路線から考えると、日本人の中で左翼だ保守だと区分けすること自体がちゃんちゃらおかしな話で、もともと日本人はそのすべてが本音の部分では根っこが同質で、上辺だけ違ったふりをして論じあっているだけのことじゃないか、などとおちょくりたくもなります。
    そんな風に考えていくと、舛添氏の一連の話題も、実は多くの日本人の生癖を鏡のように演じているからであって、批判する者も実は同調の余地があるからこそ腹が立つのではないかとさえ考えてしまうのは、しょうしょう言い過ぎだろうか。

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