新刊『日本、この決然たる孤独』について

 このたび、6月30日付で、『日本、この決然たる孤独――国際社会を動かす「平和」という名の脅迫――』という題の評論集を刊行しました。すでに一部の店頭には出ています。

 さしあたり「あとがき」の最初の部分と、目次をおしらせします。

 版元は徳間書店で、定価は¥1700(税別)です。

あとがき

何年も前に書いた私の予言が当たることが比較的多いのは少し恐いことである。本書の中にも、当たったら大変な事態になることが語られている。私は希望的観測に立ってものを言わないからだろうか。いま政府や関係官庁が本気になって目前の災いを取り除いてほしいと思えばこそ、きわどい真実を語るのである。私は観察し、そして恐れている未来への思いを正直に打ち明ける。外国との関係に幻想を持たない。日本の弱さにつねに立脚する。自国の優越に立ってものを考える前に、他国の劣弱をしっかり見抜くべきことを説く。歴史は自国の優位を汲み出す泉ではなく、他国の主張する諸価値のウラを読み解く鍵である。自国の歴史に自信がなければ他国は見えない。自国の特性を美化する人が多いが、自信は秘匿されていなくてはいけない。私はあらゆる意味で〝守り″の思想家なのだ。

本書は主に2014-16年(前半)に右に述べたような態度で書かれた文章から成り、それ以前に書かれた文章も若干含んでいる。一冊の表題は迷っていくつもの案があったが、「日本、この決然たる孤独」という私の好みの題をつけさせてもらった。ただ、もう少し説明がほしいといわれ、副題に「国際社会を動かす『平和』という名の脅迫」を添えた。日本の国内の平和主義の弊害をはるかに越える恐ろしい沈黙の脅迫が世界を支配している。

(『日本、この決然たる孤独』目次

Ⅰ 安倍政権の曲り角──わたしの疑問と諫言
 総理に「戦後七十五 年談話」を要望します
 日韓合意、早くも到来した悪夢 
 北朝鮮への覚悟なき経済制裁の危険 
 外国人問題で困るのはタブーの支配 

Ⅱ 中国とヨーロッパ
 歴史の古さからくる中国の優越には理由がない 
 中国、この腐肉に群がるハイエナ 
 ヨーロッパの「正義の法」は神話だった 
 人民元「国際化」のごり押しに目をつむる英仏独 

Ⅲ アメリカと日本
 「反米論」に走らずアメリカの「慎重さ」を理解したい 
 日本の防衛はアメリカからとうに見捨てられている 
 無能なオバマはウクライナで躓き、アジアでも躓く 
 「なぜわれわれはアメリカと戦争をしたのか」ではなく、
 「なぜアメリカは日本と戦争したのか」と問うてこそ
  見えてくる歴史の真実
 悲しき哉、国守る思想の未成育 

Ⅳ 韓国について
 「十七歳の狂気」韓国 
 韓国との「国交断絶」を覚悟しながら歩め
   ──世界文化遺産でまた煮え油!     

Ⅴ 朝日新聞的なるもの
 「朝日新聞的なるもの」とは何か 
 ドイツの慰安婦と比較するなら 
 朝日叩きではない、朝日問題の核心 

Ⅵ 掌篇
 本の表題 
 岡田史学と『国民の歴史』
 遺された一枚の葉書
   ──遠藤浩一氏追悼 
 文学部をこそ重視せよ
   ──国家の運命を語ってきた文学的知性 

Ⅶ 歴史の発掘
 仲小路彰論 
 仲小路彰がみたスペイン内戦からシナ事変への潮流 

あとがき

ketuzen

「新刊『日本、この決然たる孤独』について」への4件のフィードバック

  1. 勇馬さんへ

    早々の、御懇篤なお答へ、忝く存じます。

    ☆「變節漢」「獅子身中の蟲」どちらも結構ですね。

    ☆(自決時の)三島が「自衞隊が眞の國軍になることを願つた」、
    しかし爾來46年近く、一向にさうならない、ゆゑに三島はリアリ
    ストではなく、夢想主義者だつたかもしれない、とのお説には疑問
    を感じます。勿論、兩面があつたが、彼が將來に幻想を抱いたとは
    考へにくい。ただし、三島には、私に理解できない面がかなりある
    ので、正確に、詳細を語ることは出來ません。畏れ多いことながら、
    西尾先生におでましいただけるとよろしいですね。

    ☆「國立大學の法學部で學べばみな左傾化します」ーーこれは完全に
    事實に反します。「みな」ではありません。たとへば、横田喜三郎や
    宮澤俊義(二人を「左翼」と呼ぶことは正確ではありませんが、戰後
    民主主義の利得者といふ意味では共産黨以上ですので、そちらの象徴
    的代表者として、例示に使ひます)のいかがはしさ、不潔さを嗅ぎ取
    つた學生が一人もゐなかつたとお考へならば、それは若者といふより
    人間を見くびり過ぎです。あまりに底の淺い見方です。

    前にも「若いうちは加藤周一や丸山眞男・・・の書生論にかぶれます」
    との仰せ。これも「大抵」くらゐの修辭を加へるべきでせう。かく申す
    私は、初めから彼らを輕蔑し切つてゐました。一度も「かぶれ」たこと
    はありません。

    私が貴台の出自について、前記のやうな臆測をした、もう一つの理由
    は言葉遣ひです。たとへば、「眞正保守の出番」。これを見て、ハハ
    ーンと感じました。

    西尾先生の御厚意により、先生と私の對談本が出たのは、平成13年。
    その本のカヴァーのキャッチコピーに、「眞正保守知識人の・・・」
    といふ文句があるのを見て、ずゐぶん風向きが變つたものだと、感慨
    を催しました。

    20年前なら、”眞正 ”だらうが、”元祖 ”だらうが、いやしくも、本を
    賣らうとする側が、「保守」を看板に掲げることなど絶對になかつた
    からです。

    「保守」は惡の同義語で、大抵その下に「反動」と續けて、人を罵る
    際に使はれました。福田恆存が自身を屡々「保守反動」と稱したのも、
    そのやうな背景があつたればこそです。私の昭和45年の結婚式で、
    主賓のスピーチの前置きは「私は保守反動ですが」でした。「私は惡
    の權化ですが」といふ意味で、だから面白いのです。

    それが、いつの間にか、「保守」の看板でも商賣が成立つやうになり、
    當然インチキ、僞物がなだれこんで來ました。それは困る。こちらを、
    そんな連中と一緒にしないでくれといふために、「眞正保守」を名乘
    るやうになつたのでせう。

    この言葉を、さしたる躊躇もなくお使ひになる貴台(そこに出自がう
    かがへます)と私の感覺はかなり違ひます。もし、私が西尾先生の頌
    徳文を一行で書けと命ぜられたらーー
    「先生はこれまで終始眞正保守の立場を貫かれ」とは決して書かない
    でせう。そんな言葉は、こそばゆくて、とても使へません。他に適當
    な表現を思ひ付かなければ、「保守反動に徹せられ」とは書くかもし
    れませんが。

    ☆日本會議から坦々塾へ呼び掛けはなかつたかですつて? それは存じ
    ませんし、私はお答へする立場にはありません。ただ私の薄々感じて
    ゐるところでは、西尾先生を初めとして、日本會議とのからみは深く、
    散々にもつれ、先方の樣々な背信行爲に傷つけられつづけててきたの
    ではないでせうか。今では、一言で言へば、不倶戴天の敵といつた間
    柄かと、私は想像してをります。間違つてゐるかもしれません。もし
    御希望なら、私から頼んで塾幹部に説明してもらふこともできるかと
    思ひます。

    ☆「シンガポール陷落」の映畫化、結構ですね。さすがです。

  2. 池田様
    新参をまともに相手にして下さるご寛容な胸を借り、無遠慮な発言を続けておりますが、なりやら私的な往復文書の気配になってきました。もう少しだけ三島由紀夫につき続けさせてください。

    「兩面があつたが、彼が將來に幻想を抱いたとは考へにくい。」と仰いますが、人があれだけ思い切った行動にでるときに、何らかの幻想や期待や効果を願って、他者に影響を与えることを考えないわけはない、と考えるのが自然ではないでしょうか。西尾先生や村松剛氏の論考をこれから読みますが、幻想さえなく絶望の果ての自決だったとすることは彼の死を狂気か無意味であったと規定するのと同じで忍びないものがあります。市ヶ谷事件の前から自衞隊が眞の國軍になることを願つて彼は行動を起こし、一方で民間防衛組織も育んできた、しかし池田様の結婚された昭和45年の秋になって、最後に、将来魂の振れる共感者が多数現れ出て、日本再興、今の言葉では戦後レジームの超克に結実する一縷の望みを託して死んでいったと思いたいのです。

    山本瞬勝氏は自衛隊関係者と三島の「行動原理における有効性」の激しい議論に立ちあい、三島の「己の肉体を賭けて文化を守るのが我々の目標」ということばを引用し、「神風連の斬り死に思想」と推論しています。神風連(奔馬)も私の読みが浅いかもしれませぬが、国粋復古への希望は抱いていたのではないかと思います。浅学菲才の身での卑見を正して頂ければ幸いです。

    共産中国の対日侵略が切迫してきた現在、三島由紀夫の建白や思想を日本人が真剣に再評価する必要を強く感じます。

    なお「眞正保守」のことばをその本拠地で使用することの愚かさを思い知りました。ただ、意図を釈明するならば、反コミンテルンが「保守」、あきんど様が「日本人の中で左翼だ保守だと区分けすること自体がちゃんちゃらおかしな話」とお書きになっていますが、この左か右かの区分は容易と思います。その保守の中で東京裁判否定派が「真正」という単純な分類で使いました。

    「横田喜三郎や宮澤俊義のいかがはしさ、不潔さを嗅ぎ取つた」學生が池田様ほかにいらっしゃったことは知りませんでした。雑駁な表現をお詫びします。宮澤教授の弟子の芦部信喜の憲法ゼミをひたすら有難がって拝聴していた若い日の不明を恥じるのみです。

    加藤周一や丸山眞男の書生論を始めから輕蔑し切つておられた慧眼にも敬服します。私や私の周囲に居た平凡で愚鈍な学生の多くは、当時流行っていた「資本論」の勉強会を組んでいましたが私はそこまでは入らず、ノンポリ学生として享楽に耽っておりました。私の出自などどうでもいいことですが、右も左もいずれの政治団体にも属したことはありません。

    最後に、苟も日本文化の伝統を尊重する者として私も池田様に倣って「旧かな使い、正漢字」で文章を綴りたい、今からでも学びたい、と思っています。

    前回の拙文、「池田様も御多分に漏れない」は勿論、「ご多聞に漏れない」の間違いですので訂正します。

  3. 非文明の隣人

    「非文明の隣人」は、『日本、この決然たる孤獨』からの借用です。同書Ⅱ「中國とヨーロッパ」
    の冒頭「歴史の古さからくる中國の優越には理由がない」(全4頁)をいま、讀み了へました。
    たつた4頁の御文章をさらに要約してみます。

    中國と香港への日本からの輸出はGDPの2.8%に過ぎない。日本の輸入は同2.4%。微々た
    るもので、假に輸出が全部とまつても、GDPが2%減る程度で、高度技術の部品や資本財が日本
    から行かなくなると困るのは中國側。

    そらなのに、日本のマスコミは中國の影におびえてゐる。獨裁國家から、俺たちに逆ふと、ひどい
    目にあふぞと催眠術をかけられ、日本は元氣を奪はれてゐる。

    日本は國力を落してゐると言はれるが、中國に比べ、國民の活力にかげりが見えるわけではない。
    擴大を必要とするときに、縮小の旗を振る指導者がゐるために、理由なき敗北心理に陷つてゐるだ
    けである。

    さうは言つても、中國を恐れる心理が消えないのはーー中國は五千年の歴史を持つアジア文明の中
    心的大國であり、日本はそこから文化の原理を受入れてきた「周邊文明國」に屬し、背伸びしても
    「中華」には及ばないといふ無知な宿命論に捉はれてゐるからだ。

    古代中國はたしかに、古代ローマに匹敵し、周邊に高度の文明を與へた。しかし、古代兩文明はそ
    こで一旦幕を閉ぢ、日本と新羅、ゲルマン諸族が勃興する地球文明史の第ニ幕が開いた。漢、唐帝
    國とローマ帝國は沒落し、周邊に記憶と殘像を與へつづけたが、普遍文明の輝きを取り戻すことは
    なかつた。

    漢民族を中心とした中國民族史といふものの存在は疑はしく、「漢人」の正體は幻と化してゐるら
    しい。

    現在のギリシャが古代ギリシャ文明と何の關係もないほどみすぼらしいやうに、現代の中國も古代
    中華帝國の末裔とは言ひがたい。外敵の侵入、血塗られた内亂による荒涼たる破壞の歴史が中國の
    歴史。負ければ匪賊に。勝つた軍閥の最強者が皇帝に。毛澤東王朝もその一つ。

    ユーラシア大陸の東西の端、日本列島とヨーロッパはモンゴルの攻略を免れ、十五、十六世紀に近
    代の狼煙を上げた。明治維新で日本がヨーロッパ文明をあっといふ間に受入れたのは、準備ができ
    てゐたからである。

    ゆゑなき強迫觀念を捨てよう。福澤諭吉のひそみに傚つて、非文明の鄰人として心の中ではズバッ
    と切り捨てる明快さを持たなくてはならない。

    以上、要約と言ひながら、全文コピペと變りないことになりました。すみません。

    どのお言葉も、我々からすれば、平生先生から繰り返し教へられてゐることの筈ですが、この短文
    が改めてずしりと重く、胸に響き、心に滲みるのはどうしてでせう。やはり今こそ、日本と支那の
    關係をきちんと整理すべき時期だからでせうか。實態と關係のない、つまらない幻影に怯えつづけ
    ることは、いい加減に打切るべきでせうね。

    先生が平素あまり高く評價されない福澤諭吉。その「ひそみに・・・」にも、先生の御心情がうか
    がへるやうな氣がします。

    古代ローマ・支那帝國の繁榮と沒落、その後の荒廢ーー先生は何度も熱をこめて語られました。我
    々には完全に身に付いてゐる筈ですが、いま再確認しました。

    現在のヨーロッパが古代ギリシャ・ローマの正統な後嗣ぎであるかのやうな顏をするのは、烏滸が
    ましく滑稽であるといふことも、先生から教はりました。兩文明をヨーロッパに傳へたのはイスラ
    ムであり、それを學習により受繼いだに過ぎない。それまで、ヨーロッパは一千年以上、野蠻なる
    荒野であり、シャルルマーニュの親爺のペピン短軀王は文盲だつたのですね。

    先生から學んだことを忘れてゐたり、あるいは、内容はマスターしても、その大元が先生であるこ
    とを忘れて、我がオリジナルと勘違ひしたり、色々です。

    昨年末、俳句仲間のをばちやんに對してメールで、その中國崇拜をたしなめました。效果は皆無だ
    つたやうですが、私が先生のお教へをどの程度體得してゐるかと思ひ、讀み返してみました。その
    概略が以下です。御迷惑でせうがーー

    頭山滿、犬養毅、内田良平、石原莞爾、松井石根・・・たちは
    深い教養と知識、優れた眼力を持つた、きはめつきの立派な日
    本人でした。彼等に支那の現實が見えなかつたとは考へられま
    せん。彼等が智慧で支那人に劣つたとも思へません。
    孫文に代表される支那の指導者は、日本の歴史や思想には全く
    の不勉強・無知で、日本人の心が分りませんでした。
    にもかかはらず、後者が好きなやうに前者を振囘すことが出來
    たのは何故でせうか。
    日本人の、古代支那と古典にたいする憧れ、崇拜のゆゑでせう
    か。

    「中國(朝鮮も?)から多くの文化が這入つて來たので、日本
    人はあの國を尊敬すべきだ」とおつしやいましたね。古風、純
    情、律儀な日本人のお一人たることに敬意を表します。
    仰せのとほりですが、それはほとんどが古典の時代のこ
    とで、その後の支那は相次いで異民族に侵入されゴチャ
    ゴチャになつてしまひました。人種も文化も、その他一
    切 が・・・。そこに現はれたのは、けだものの集團で、
    當然一片の道義も羞恥心もありません。なまじ人間らし
    い感情を持つと、忽ち食ひ滅ぼされてしまひます。必要
    なのは人を陷れる奸智と力だけです。

    習近平は「中華民族」と言ひますが、そんなものは存在
    しません。そもそも支那においては、「民族」といふも
    のをどう捉へればいいのでせうか。

    辛亥革命は排滿興漢をスローガンの一つにしましたから、
    漢が ”本”民族といふことかもしれませんが、「漢」とい
    ふ、單一民族はないといふ説もあります。
    王朝でいへば、最初の夏は東狄。次の殷は北狄。次の周
    は西戎。(いづれも、支那では野蠻人と呼ばれたのです)
    その後數多の夷狄たちが中原に進出して興亡を繰り返す
    うちに、その後の漢族の元ができたといふことのやうです。
    しかし、そのごちやごちやの漢族に對して、更に外から
    別族が攻め、なだれ込んできました。五胡十國のほとん
    ど、五代十國の四つは非漢族の王朝です。要するに、ゴ
    チャゴチャの上にゴチャゴチャを積み重ね續けてきたの
    です。直近では、清・元が非漢です。

    のみならず、易姓革命といつて、新たな王朝ができると、
    前代の一切が否定されます。
    これでは、全てが原型を止めなくなるのは當然です。
    多くの日本人は、この變化に氣づかず、千數百年にも亙
    つて支那にひれ伏しつづけました。

    明治以來、色々な形で莫大な援助もしましたが、全ては
    裏切られ、ひどい目にあはされました。
    にもかかはらず、こちらのイメージにある支那とは全く
    違つてゐることに氣づいたのは、福澤諭吉など、ほんの
    僅かな人達だけで、大部分の日本人は支那崇拜を止めず、
    今日に至りました。

    私は戰後教育で、日本人は世界一野蠻にして下等な劣等
    人種と教へられました。小學5年の時、先生が言つたこ
    とを、今も覺えてゐます。
    ①日本軍は殘虐だつた。占領地の住民から赤ん坊を取上
    げてきて、空に向つて投げる。そして下で銃劍を構へ、
    落ちてくる赤ん坊を・・・。(先生の銃劍を上に向ける
    身振りは今も目に浮びます)
    ②第一次大戰の際、日本人は石ころや砂利を詰めた罐詰
    をヨーロッパへ輸出した。
    今から數年前、支那の資治通鑑といふ帝王教育の教科書
    の解説のやうなものを讀んでゐたら①と全く同じ話が出
    てきました。赤ん坊を劍でーー支那人はさういふことを
    よくやつたらしい。ずつと前から、どうもをかしい、氣
    の弱い日本人にそんなことができるだらうかと疑問を感
    じてゐましたが、とんだ人違ひでした。
    罐詰に石ーーは朝鮮人のよくやる得意手であることを、
    ある朝鮮研究家から教へられました。私も、少くとも、
    軍艦一等國と言はれるところまで來てゐた日本がそんな
    ことをやるか、忽ち信用をなくすぢやないか、と思つて
    ゐましたが。
    ①②とも、我等日本の子供の教育の材料に、支那や朝鮮
    のやつたことを日本のこととして教へ込んだのです。眞
    つ赤なウソで、いかにも戰後日本にありさうなことです。

    アメリカのある外交官は戰前を囘顧して「支那(國民政
    府)は、こちらがバズーカ砲を突付け、いつでも引き金
    を引くぞといふ體勢になつて初めてまともに交渉に應じ
    る。さうでない限り・・・」と言ひました。現實に接し
    た相手のことですから、正しく觀察してゐます。實際、
    支那人(朝鮮人も)は、自分より強い相手としか、本氣
    では交渉しません。昨今の時事問題を御覽になれば、今
    も全く變つてゐないことがお分りになる筈です。

    私は集合住宅の管理組合で監事を務めてゐます。一階
    に、2年ばかり前から經營者も從業員も支那人といふ
    中華料理店が這入りましたが、彼等は上述の特徴を全
    部揃へてゐて、頻繁にトラブルを起してくれます。如
    何なる規則も、よほど嚴しい罰則がない限り守りませ
    ん。
    その一つについて理事長が交渉する際に、私は上記ア
    メリカ外交官の話を思ひ出してアドヴァイスしました。
    理事長はあらゆる手を盡くし、辯護士、警察、保健所、
    登記所などと下打合せをした上、いつでも退去させる
    といふ態勢で望んだところ、あつさりと言ふことをき
    いたさうです。やはり支那さんを相手にする場合は、
    その一手ですね。勞を惜しんでは、彼等には勝てませ
    ん。

    菅原道眞の建言により、遣唐使が廢止されたのは寛平
    6年(西暦894年)で、今から約1100年前のこ
    とです。異民族の侵入により目茶苦茶になつてゐる唐
    に使をやつても益なしといふのが主な理由のやうです
    が、當時も支那崇拜の風潮が強く、廢止に持込むまで
    には相當の抵抗があつたさうです。
    それでも、今よりはマシだつたのでせうか。

    我々は戰後版遣唐使を無數に見てきましたが、その叩
    頭拜跪ぶりは言語に絶しますね。最近では、小澤とか
    二階とかの政治家が、何百人だか何千人だかを引き連
    れて海を渡りました。道眞以降、彼の國からさしたる
    恩惠は受けてゐない筈ですが、崇拜は愈々強まるやう
    です。

    我等日本人が昔も今も世界一お人好しであることは間
    違ひありません。妄言多謝。

  4. 今回の新刊書の目次を拝見して、最初に目についたのが「仲小路彰論」
    でした。この本に収録された『別冊正論 Extra.13日米「宿命」の対決』
    (2010年9月8日初版)の中で書かれた論文が大変印象的だったので、
    再読しました。

    戦争が終わって英米の地位が逆転しアメリカの覇権が確立して以後、
    あたかも戦争の始まるずっと前から「米英不可分」が当り前のように
    考えられてきたが、歴史を精密に調べればそうではない。アジアから
    イギリスとソ連を排除するのが大陸でのわが国の戦争の目的で、アメ
    リカはそれを妨害しようと突如わが国に襲いかかってきたのが真相で
    ある。富岡定俊も戦後の著作『開戦と終戦』(毎日新聞社)で、「自存
    自衛」と「植民地解放」が開戦の理由であったと証言している。アメ
    リカとの戦争は本意ではなかった。アメリカ側に大義はない。「米英
    可分」が現実であった間に、有効で果断な手を打たずに迷いつづけ、
    支那大陸の泥沼にはまった日本政府の優柔不断を、仲小路彰は身を
    裂かれる思いで見つづけたであろう。
    (「欧米による太平洋侵略史」が語る歴史の必然—仲小路彰が日本人に
    託した未来への意思 『別冊正論 Extra13』P177)

    この前の戦争についてほんの少しでも勉強した日本人なら、西尾先生
    の上記の文章を読んで、胸の痛まない人はいないでしょう。

    今年の始め頃、私は99歳になる父の戦友にお会いしましたが、玩具の
    小さな地球儀をペンにくくり付け、テーブルに置いてあったのが印象的
    でした。そして○○君と、20年以上前に亡くなった父の名前を呼んだの
    を聞いて、さらに戦時中の体験を、あたかも昨日の事のように語るのを見
    て、何とも言えない感慨に襲われました。

    と同時に、世界地図といえば、地球儀よりも学習用地図帳の、我が国が
    中心にあるメルカトル図法しか思い浮かばない自分が、ふと情けなくな
    りました。父の世代とは異なり、戦争体験もなく、天才と言われた
    仲小路彰という独立不羈の思想家がいたことも、何も知らずに過ごし、
    若い頃は戦後教育の影響下で、両親に生意気な口をきいていた自分を、
    今では言いようもなく恥ずかしく感じます。

    でも太平洋を舞台に、戦力では到底かなわないアメリカ相手に、無謀な
    戦争をしたという定説に留まっている間は、誰もが、別の可能性があった
    かもしれないという風に考える余地が無いほど、諦めに近い心理に支配
    されているのではないでしょうか。

    “最初の玉砕地・アッツ島”は「外ヅラは悪いが、内ヅラがいい人がある
    ものだ。アッツはまさしくそれであった。船から見た島は荒れ果てた北海
    の厳しい島だった。ところがいったん足を踏み入れた戦跡は色とりどりの
    花畑におおわれた夢のような美しい島だった」
    「ひとくちに言えば、この島は人の住むべき所ではない。豊富な清水
    が流れ、実に多種類の花がツンドラ地帯を彩ったところで燃料にする一木
    もなく、土壌の存在しないこの島では、戦略上の価値を認めることはでき
    ない…」

    昭和17年6月、最初にアッツ島を占領してから約一年後、昭和18年
    5月30日、「…杉山元参謀総長がアッツ守備隊の玉砕を天皇に上奏した時、
    天皇は『最後までよくやった。このことを伝えよ』と言われた。杉山が
    すでに無線機は破壊されていると述べると、すかさず『それでもよいから
    電波を出してやれ』と言われたと伝えられている。キスカからの奇跡的な
    撤収作戦が成功したのは、それから二か月後の7月29日だった。」
    (「太平洋戦跡慰霊総覧 戦記シリーズ44」別冊歴史読本永久保存版
    新人物往来社 1998年  第1部 戦跡巡拝・鎮めの祈り アッツ島
    山崎部隊長以下2500名救援なし、玉砕命令に従う P12~14)

    「野重九(野戦重砲兵第九連隊)は関東軍隷下の部隊だったが、昭和19年
    2月、抽出されてサイパン島守備隊に転属した第二大隊(大隊長・黒木弘景
    くろきひろかげ少佐)が、同年6月の米軍総攻撃によって玉砕したので
    ある。…黒木大隊はサイパンの戦いにおいて、…米軍の上陸初日に、米軍が
    南西海岸一帯に築いた橋頭堡上の北端部分に、十五榴(15センチ榴弾砲)
    十二門をもって壊滅的な打撃を与えたのである。殊勲甲であった。…」

    野重九の戦友会、野重九会の原稿を読んだ印刷工場の女性従業員が、感動し
    て泣き出したと言われる「野重九連隊史」によれば、

    「6月11から米軍機の爆撃が連日続いた後の、6月15日早朝、サイパン島
    日本軍は西方の海を見て驚愕した。…」
    「(隣の)テニアン島との間の海面を埋め尽くした敵艦船を720幾つまで数
    えた時、その敵艦の砲門が一斉に我が方の島に向かって火を吐き、それは
    夕方まで続いた。…やがて各敵艦の間から上陸用舟艇がリーフ(沖合の
    珊瑚礁)内に入って来た。7、80隻もあったろうか。その間、敵は艦砲
    射撃とグラマン機による爆撃を全島に加えた。…」

    「米軍はR・K・ターナー中将指揮下の統合遠征軍に属する北方攻撃部隊
    (第二、第四海兵師団基幹)7万1千人の上陸部隊を、空母部隊を含む700
    隻以上の艦船が海空から援護。…米軍初日の上陸地点は北はオレアイから
    南はアグイガン岬に至る海岸線であった。
    …それらが砂浜に接近すると、日本軍は一斉に砲火を浴びせた。…敵は砲火を
    かいくぐって上陸を果たす。それでも米軍は午前中だけで4人の大隊長ほか
    千数百人の死傷者を出す激戦となった。

     オレアイ海岸には敵海兵隊一個連隊が上陸を果たした。黒木大隊の本部は
    各中隊が放列を敷いている一五一高地から少し南のヒナシス山にあった。
    その大隊本部へ第四三師団司令部より『重砲早く撃て』の命令が午前中から
    何度も届いた。十五榴はサイパン島でも最大の巨砲であり、頼みとされて
    いたのである。だが黒木少佐は撃たせなかった。
    …黒木少佐の作戦は、日没近くになり敵機が飛ばなくなってから砲撃を開始
    するというものであった。」

    「6時近くになった。ついに『撃て!』の命令が大隊長の口から出た。十二
    門の十五榴が一斉にオレアイ海岸めがけて砲口を開いた。…敵上陸部隊は
    口笛を吹きながら夕食の支度にかかっていた。そこへ文字通り天から十五榴
    の巨弾が降ってきた。…海岸は大混乱、上陸した兵と戦車の大半を吹っ飛ば
    されて上陸用舟艇数隻がからくも沖の本舟に逃げ帰った。
     敵の艦砲射撃が始まったが、山陰にある十五榴陣地には届かない。十五榴
    は陸上の敵兵と戦車などを吹き飛ばしただけでなく、約三十隻の上陸用舟艇
    を撃破し、接近してきた舟艇の母艦にも命中弾を集めて撃退した。砲身が
    赤く焼け始めてようやく砲撃を中止した。黒木大隊の砲撃はサイパン戦での
    日本軍の最大の戦果であった。」

    「黒木大隊の奮戦ぶりは(中部太平洋艦隊)司令部の幹部も目撃していて、
    『その功偉大なり、依って近く上聞に達する(天皇が報告を聞く)見込み』
    との南雲中将からの電話を私は直接に受け、黒木大隊長、各中隊に伝えた」
    (通信手山口竹明氏 談)

    「だが黒木大隊の運命は早くも翌日に暗転する。敵機に位置を知られた放列
    陣地は午前中から艦砲射撃とグラマンの急降下爆撃で、次々に吹き飛ばさ
    れた。…
     黒木大隊長は翌17日深夜、ヒナシス山の山頂で、少尉と曹長各一名と
    一緒に敵艦砲の直撃弾を受け、三名とも跡もとどめず飛散した。…
    7月6日夜、翌未明の残存数百による最後の総攻撃を前に、南雲長官、
    第四十三師団長齋藤義次中将、陸海の両参謀長(少将)計四名の将官が
    自決。日米の損害は日本側死者4万1千、米側死者3千4百、傷者1万
    1千。…」

    そして「東寧の野重九連隊では、…昭和20年3月13日、「本土防衛出動」の
    命令下る。…」
    (「兵隊たちの陸軍史 戦記シリーズ47」別冊歴史読本永久保存版
    新人物往来社 1999年 巻末特別企画 『みんなで綴る野重九連隊史』)

    当時は誰もが「本土決戦」を覚悟していたのが、70年以上も経った今は、
    「国を開く」などとあえて言う必要もない程、鍵なしの「開けっ放し」
    国家となってしまった我が国です。
    高校の時数学の先生が、「イギリスはプライドばかり強くて、僕は嫌いです
    ね」などと言っていたのを覚えていますが、最近はそんな話も聞きません。
    ケンブリッジ大学出身の高円宮久子様を始め、皇室の方々にはお馴染みの
    英国留学、「ハリー・ポッター」に現を抜かす風潮など、これらはすべて、
    西尾先生が仰るように「幕府が自民党、朝廷がワシントン」だからで
    しょうか。

    昭和14年(1939)に、駐英武官補佐官として英国に渡った源田実
    (1904~1989)が最も知りたかったのは、英国空軍の実力でした。
    「ロンドンに着いて半年經ったところで、歐洲戦乱が勃發したのであるが、
    英國の戦闘機と獨逸の戦闘機との空中戦闘の成果は、その戦果に依って
    大體推定し得た。以上の事を綜合して私は、英國空軍の戦闘機隊の實力は
    日本海軍の戦闘機隊より相當低いものであり、獨逸空軍の戦闘機隊は英國
    空軍より更に低いものであるとの結論に到達した。」

    「獨逸軍に依って敷設せられた磁気機雷は、夥しい被害を英國にもたらした。
    英國のような國は海上交通を絶たれたならば、忽ちにして息の根が停まる國
    である。…そこで英國海軍の水雷關係者は次のような計画を立て且つ實行
    した。…一定の數の人を選定し、…一人宛て機雷の分解に當るのであるが、
    只一人だけ…作業する。他の人々は…被害のない程の距離で記録をとる。…
    爆發したならば…分解に當った人は死ぬことになるが、…次にはこの場所に
    は触れないようにして分解を進める。…この方法を繰返して、英國海軍は
    遂に磁気機雷の秘密を握った。握った後の對策は、早速全英國船舶に、磁気
    機雷對策を施すのに僅か二カ月を要しただけであった。…」

    「英國海軍の一枚看板とも言うべき傳統は、『見敵必戦』主義であろう。
    敵を見たならば、彼我の勢力比、對勢、天候、地形等の如何に不拘、必ず
    決戦をやるという決戦主義である。強いて…武将を求めるならば、一に
    源義経、二に東郷元帥…
     この主義は、極めて単純であり…日本海軍も大正十年の華府条約締結まで
    は概ねこの見敵必戦主義を守って来たが、ワシントン軍縮會議で六割海軍を
    押し付けられて以来『如何にして六割を以て十割を破るか』ということに
    腐心した結果、余り策のない見敵必戦主義は次第に影を潜め、多分に技巧を
    弄する戦法が主用されるようになった。
    …我海軍が極めて有利な立場に占位し乍ら、敵を過大評価して決戦を避けた
    り、或は、不徹底な追撃のために戦果の拡充が不十分であった例は数えきれ
    ない程である。…」

    「…英國海軍のように、二國標準主義(世界第二位の海軍國の二倍の海軍力
    持つ意味)一・六倍主義(同様に第二位海軍國の一・六倍の兵力を持つ意味)
    を保持するならば、見敵必戦主義は極めて合理的でもある。即ち、…敵より
    数的に優勢である公算は甚だ多いのみならず、…数十年数百年という長期に
    亙る国家の戦争成績は、綜合して勝と出る算は極めて多い筈である。
     又、仮令数的に劣勢な場合に於いても、見敵必戦主義のもたらす攻勢の
    利が数的劣勢を補って余りある場合も少なくないことを考えれば、英國海軍
    の傳統精神は正しいものと言えよう。
    之を単なる数的軍備の比較に捉われて中途で変更した日本海軍の方針は誤っ
    ていたと思われる。…」
    (「海軍航空隊始末記 戦闘篇」源田実 著 昭和37年2月1日第1版)

    「昭和十三年秋にはドイツから正式に三国同盟が提示された。しかし同盟
    の対象国をソ連に限定し英仏は敵対国扱いしない方針でいきたい日本の海軍
    及び外務省と、対象国をソ連以外に英仏をも含めるドイツ案に賛成する陸軍
    との主張が対立して、紛糾し、五相会議を七○回開いても決断できなかった
    (P168)」のは、源田実の見立てのように、我が海軍の創立期に範をとった
    英国の底力を恐れたからでしょうか。

    でも「米英が強大な敵国である」ことが本当に分かっていたなら、
    仲小路自身の発言のように
    「…かくて日本としては、まず南方の確固たる地盤の補給を可能にし、さらに
    インド洋の制海空権を確保し、西南アジア、アラビアより、独伊との連絡を
    可能にすることにより、日独協同の対ソ作戦の効力が十分期待せらるるので
    あり、あくまでも、米英のスパイ的煽動、宣伝に盲動することを厳しく警戒
    すべきで(P176)」あったでありましょう。

    また「仲小路は『戦争文化』で国内論壇を蔽っていたマルクス主義的知識人
    による(東亜協同体論)を徹底的に批判した。これは日本と中国を同一の
    立場に置き、両国を近代的西欧民主主義的国家関係に置き換える欺瞞的な
    理論で、尾崎秀実らが唱えていた。今でいえば東アジア共同体論のような
    ものである。…(P169)」
    この部分を読むと、まるで現代の日本と全く同じで、つまり我々は、父祖
    たちから得た教訓を全く生かしていないことに愕然とするのです。

    仲小路彰の複数の著作が焚書の対象になったという事実が、現代の我々に
    決定的に欠けているものを示唆しています。
    つまり、「米英(中)のスパイ的煽動、宣伝に盲動する」ことと、マルクス
    主義を、徹底的に排斥することが肝要だと、改めて自覚させられるのです。

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