『西欧の地球侵略史と日本の鎖国』2016.4.24〈歴史・公民〉東京塾第30回

“『西欧の地球侵略史と日本の鎖国』2016.4.24〈歴史・公民〉東京塾第30回” への 12 件のフィードバック

  1. 「歴史年表は自分で作成する」
    このインパクトが今回の最大のポイントかと感じます。
    他人が作り上げた年表に左右されるな、自分が見つけた重大事項を尊重せよ・・・ということかと理解します。

    ちょっと話は変わりますが、西尾先生はイチローの功績をかなり評価されていましたね。
    私もイチローは尊敬している人間の一人です。彼の出始めのころは、正直こんな野球選手は卑怯だと思ったのですが、いろんな彼の活躍を知る上で、ある日こんなコメントを彼のインタビューから認識したんです。
    以下彼の言葉をできるだけ忠実に語ります。

    『よく、私のヒットを見下す方もけっこういらっしゃるんですが、私はボテボテのヒットこそ、自分なりに評価したいんです。その最大の理由は、私が常に意識しているのはきれいなヒットを打とうとか、ホームランを打とうとか、そこには実は意識が集中していなくて、一番大切にしているのは、相手ピッチャーが一番得意にしている球をいかにヒットできるか、ここに一番こだわっているんです。
    例えば、失投をもしホームランしても、相手ピッチャーはそれほどダメージを感じないはずなんです。でも、相手が一番得意とする決め球をヒットすれば、かなり慌てるはずです。ところがそういう球はやっぱり厳しいところにきます。でもそれを敢えて打ちに行くことでその価値はあります。ましてやボテボテなヒットでも、絶対ピッチャーはショックなんです。これが私がこだわる打席での意識です』

    イチローがなんでこんな悪球をわざわざ打ちに行くのか・・・とおもった場面、けっこうありましたよね。ましてやそのボテボテの内野安打なんか何度見たことか。
    実はこんな理由があったわけですよ。
    私はこの彼のコメントを聞いた時から、彼こそ世界最高の野球選手だと思いましたね。
    彼は敵投手の首根っこに剣を突きつけることのできる日本人です。
    ここが最大の魅力です。
    彼はこのスタイルを今も変えていません。ボテボテの打球の時こそ、自身が一番挑戦した瞬間であり、それをなんとか安打に導くための身体的能力を発揮するための訓練。

    私は彼がピートローズの安打記録を塗り替えても、アメリカで評価されないこの現実は、おそらく彼のその本当の野球魂を知らないか、もしくはそれを感じているアメリカ人がいたとするなら、本当の意味で自分の野球理論が覆されてしまう恐怖を感じているかのどちらかではないかと思います。

    そのあと彼はこう言いました。絶頂期のころの言葉です。
    『ホームランは狙えば打てるかもしれない。でも、相手の決め球は打とうと思ってもなかなか打てない』

    なかなかの名台詞です。

  2. 突然のこと、失礼いたします。
    西尾さんと東京でお会いしてお話しすることはできますか?
    東京で講演会などがあれば、教えていただきたいです。
    よろしくお願いします。

  3. 続けます。

    もう一人私が尊敬しているスポーツ選手は、サッカーの中田英寿氏です。
    キラーパス・・・彼の代名詞です。
    しかし、そのパスもけして味方にやさしいものではなく、かなり無理なパスも多かった。
    多くの先輩選手が、彼と一緒にプレーすると、そのパスがあまりにも無理な場所に放たれるので、もっと足元によこせと要求する。
    しかし彼は一切その要求に応じなかった。

    イチローとは真逆なイメージが中田には付きまとった。
    でも、段々と彼の意図するプレーが認められるようになり、走りだしを早め、中田のパスを受け入れる選手が増えだした。

    中田のコメントを色々探ると、こんなイメージだと認識する。
    『味方にとって難しいパスは対戦相手にとっても一番来てほしくないパスであり、そこを狙うことが、一番効果的な攻めになる』
    彼はゴールを狙うことは意識すればできないことではないが、チーム全体の能力が底上げすることが最大の困難で、自分はそこを常に意識していると言う。

    イチローも中田も、全体が見えている。ここが二人の共通点なだと思う。
    自分一人が結果を出せば良いのではなく、チーム全体が持っている能力をできるだけ発揮できる試合を目指している。
    イチローは相手投手の決め球をヒットにすることで、投手の乱れを誘い、中田は相手ディフェンスが厭がる場所にパスを出し、味方の攻撃力を誘い出そうとする。
    どちらも自分で得点することだけに拘りを持っていない。それはある意味容易いことだと語る。

    その意味で言えば、社会評論という世界も、何か同じ物差しで判断できるものがあるように感じる。
    私はいつもこう思っている。
    正しい論というものが、本当に大切なことなのだろうか。
    たぶん間違いではないが、しかし、それだけでは不十分ではないか。
    まったく違う思想や認識がぶつかり合うことが、ごく自然なことではないだろうか。
    この世は絶対の平和を目指すが、それを目指す以上は議論が伴い、ごく純粋な議論が成り立つ社会こそ、本当の平和だと認識する。
    そこには純粋な競争(アゴーン)があり、理想的な戦いが生まれる。

  4. 更に続けます。
    私はハンドルネームが示す通り、商人の出です。
    子供のころから「商い」が人生でした。
    何年前でしたか、私の生まれ育った町の商店街を写した写真集を見させてもらい、懐かしさはもちろんですが、今と比べるとはるかに多い店の数に驚きました。
    「そうか、こんな店も当時はあったよな」

    そしてそこで気づいたのは、商店街に同じ業種の店が何軒か存在していること。
    今では考えられないくらいの店の数。通りを通れば一通りのものは揃う構造になっている。これこそが理想的な商店街。誰が通っても必ず買い物をしてしまうような雰囲気が、写真からも見受けられる。

    どうしてなのだろう・・・その単純な疑問にはこう認識すべきなんだろうと私は考える。
    商店街には先ほども示したように、同業種のお店がかならず存在する。言ってみればこれが商店街のアゴーンなのだ。戦える範疇にあるライバル意識がお互いを鍛え上げていく。だから活気があり面白い。

    話は飛躍するが、EU離脱を決意したイギリスの単純な見方からの私の印象は、「自分らしさを取り戻したい」ではなかろうか。
    イギリスの本来の自尊心は「孤立を余儀なくする決断」なんだと思う。
    移民問題はもちろん主題の一部分だが、本筋ではないような気がする。
    彼らはつまり主役を演じたいのだろう。それが根本的に失われていない証明ではないだろうか。それはある種のイギリスの逞しさであり、真骨頂だと見るべきだろう。
    この決断の答えはいつ訪れるのか。それは誰も予測できない。ただそこにはイギリスという国が、なぜか世界を動かすマッチポンプの役割を今も続けているという歴史の繰り返しを再確認する以外、今は何も語れないのかもしれない。

  5. 「歴史」という言葉が飛び交い、それらを利用した歴史認識戦争なるものが在りますが、やれ歴史をあれやこれやといじくった所で、歴史の本懐とは「今でしかない」という、当たり前過ぎる事を忘却したまま、建設性のない議論が未だ続いております。実に陳腐で、品性の欠片もない。つまらぬ土俵です。

    所謂、近代科学の負の部分、盲目による「真実依存性」による学問的アプローチでしかない。最初から政治や経済、もっと言えば商売の手段としてしかその帰結はない。近代の特徴である、枠組みの中の歯車の様な学問的視座である。本来、学問はそれそのものが目的であり、その有用性は後付けになるのが健全な姿である。枠組みの中にある学問は、その各々の萎縮性と、纏いし反面の膨張性が嫌々しく映り出す。そしてすぐ上書きされる。下手すれば革命思想の道具と化ける。

    ···アリストテレスの元素の捉え方、その「火·水·風·土」の在り方を信じている科学者等は無論今や居やしませんが、その時は迷う事なき真実であった。中世欧州の地図には我が列島より巨大な種子島が描かれ、海洋学者は赤道では海水は沸騰していると説いた。これもまた、その時代時代の「真実」なのです。

    近代科学とて然りです。今や量子論は巨大な立体迷路に迷い混みながらアインシュタインをコーナーに追い込んではいるが、我々を取り巻く生活や自然の耳目に届くはニュートン、マックスウェル、古典力学の範囲を越えてはいない。言うまでもなく、科学もまた、観察、その瞬間に働く感性が健全な内は、その分析美しく積み上がるものです。

    歴史もまた、この科学的視線が、多少の姿形を変えている内は良い。しかし今の歴史もまた、科学と同じで歪な積み上げ方をしている。その場所、その事象、その対象、各々「のみ」に有用であるだけで真実だと言い放つ。
    「この物質にあの物質を反応させると云々」だとか「あの遺跡にはこの時代の生活の云々」こんな分析の上に真実を被せ、社会や思想に反応させるように「仕向けて」いるのだから、普遍性などなく、いずれ細分し、無駄な議論の餌に成り果てる。

    先生の仰る「歴史を学べ。今の為に」は、その保守的思想の段階において、いずれ「歴史を学べ。今の為に。そして《歴史をやれ》」という実践的、行動的な処まで導かれなくてはならない。これを考えると、必然的にそこに歴史の意味の本懐が顔を出す。この本懐が真に力強さを取り戻しますと、様々な「歴史認識云々」は、その土俵ごとひっくり返って離散するはずなのです。

    「歴史を着る」のと「歴史をやる」の圧倒的な相違、例えば昨今の韓国や支那等のプロパガンダに見る「⚪⚪起源」などは非常に分かりやすい事例。万歩譲って、桜や寿司などの起源が我が国でないとしても、歴史とは「今」に働くしかない以上、その各々の文化が、今まさに続いており、人々の営みの中に在る、その景そのものが歴史であって、「今という刻に無いものは歴史ではない」と考える。

    情けない哉、過去に在ったものが無くなった事自体に歴史の失敗を覚えない様では、その語り口そのものが羞恥であるのに関わらず。

    馬鹿馬鹿しい程に当たり前の事であり、今無いものを歴史というのは、只の幼稚な帰依でしかなく、その過去に陳腐な憧憬を重ねているのだけの、弱々しい様です。自己回帰の姿勢と同じく「歴史と戯れる」のを「歴史と向き合う」にすり替えてはならない。

    歴史とは、その並木道に咲く桜を、手入れし、剪定し、管理している職人の姿が、今も在り、その景見る事叶う、その事そのものが歴史であります。

    しかしながら、今や我が民の大半が、支那や朝鮮の様な悪意無いまでも、贔屓にしているスポーツチームのTシャツの如く、その歴史を着ようとしている。

    無論、今もなお我が国には、様々な文化伝統が耳目を震わす。しかしそれら文化伝統は、それ紡ぎし其の人々の営みが貴いのであって、それらをその外側から観客的に論じ「これが日本だ」等と声高々に宣伝する行為それには、日本精神など一寸もない。しかしながら、あまりにもこのような体の日本への帰依としての讚美、つまりはhobbyとしての日本を「愛国」と勘違いしている風潮が何と多い事か。
    また、戦前の日本人の姿勢や、大日本帝国の力強さに陶酔したがるルサンチマンも、基本的には心根は同じで、自我の薄弱さを緩和する精神武装に過ぎない。知って憧れているだけで、乃木希典、東郷平八郎、佐久間勉の様になど爪の垢程も生きてなどはいない。

    日本を着る日本人は、その知識以外で

    「では貴方は、貴方自身の中にどの様な日本の歴史が在って、どの様に普段の営みの中に歴史の学びから行為として現しているのか?」

    この問いに応える事は出来ないと考えます。

    今や日本人自身が、かつて昔の日本人が唐や天竺に見た時の同じ様な憧憬を、己自身の過去に見る時代に来ている。これは何も我が民のみの事象でなく、世界中の民族、地域、或いは宗教、そういったものが戻りて集いて磨く刻に来ていると考えます。これはいずれ、上汲み取りて、文明すらふるいにかけましょう。

    このふるいから落ちぬ、その為には、史という縦軸を、代という横軸に交わせ、それこそ世を現さなくてはならない。各々の範囲でそれをやらねばならない。
    「己が歴史と向き合える大人」を増やさねば、その幼稚性は幅利かせ、更に歴史、さすれば人そのものさえも「眺めるもの」や「分析するもの」と堕ちてゆく。

    民、一人一人が、その狭く矮小な範囲とて、己が役もくを改めて認め、「下り過ぎた政」に右往左往せず、力強く、さりとて柔和に、隠し持ちながら、胆据えてやってはじめて、日本遺す事叶うと思っております。

    最後までお読みくださり、ありがとうございました。

  6. 最近ネットもおとなしくなってますので、久々に意見を戦わせてみます。
    Tukuyomi 様よろしいですか?

    >「歴史」という言葉が飛び交い、それらを利用した歴史認識戦争なるものが在りますが、やれ歴史をあれやこれやといじくった所で、歴史の本懐とは「今でしかない」という、当たり前過ぎる事を忘却したまま、建設性のない議論が未だ続いております。実に陳腐で、品性の欠片もない。つまらぬ土俵です。<

    いやそうではないはず。歴史をどう捉えるかは根本的に自由だが、しかし、貴殿の言う「品性の欠片もない」と言い切るものには、はたしてどうかなぁ・・・と、逆に首を傾げる他ない。

    >所謂、近代科学の負の部分、盲目による「真実依存性」による学問的アプローチでしかない。最初から政治や経済、もっと言えば商売の手段としてしかその帰結はない。近代の特徴である、枠組みの中の歯車の様な学問的視座である。本来、学問はそれそのものが目的であり、その有用性は後付けになるのが健全な姿である。枠組みの中にある学問は、その各々の萎縮性と、纏いし反面の膨張性が嫌々しく映り出す。そしてすぐ上書きされる。下手すれば革命思想の道具と化ける。>

    何を言いたいのかさっぱりわかりません。

    >···アリストテレスの元素の捉え方、その「火·水·風·土」の在り方を信じている科学者等は無論今や居やしませんが、その時は迷う事なき真実であった。中世欧州の地図には我が列島より巨大な種子島が描かれ、海洋学者は赤道では海水は沸騰していると説いた。これもまた、その時代時代の「真実」なのです。<

    ふむふむ・・・。

    >近代科学とて然りです。今や量子論は巨大な立体迷路に迷い混みながらアインシュタインをコーナーに追い込んではいるが、我々を取り巻く生活や自然の耳目に届くはニュートン、マックスウェル、古典力学の範囲を越えてはいない。言うまでもなく、科学もまた、観察、その瞬間に働く感性が健全な内は、その分析美しく積み上がるものです。<

    ほほーっそうなんですか。

    >歴史もまた、この科学的視線が、多少の姿形を変えている内は良い。しかし今の歴史もまた、科学と同じで歪な積み上げ方をしている。その場所、その事象、その対象、各々「のみ」に有用であるだけで真実だと言い放つ。<

    科学と歴史をどうしてそこまで強引に結びつける理由があるのか、この際の理論上の説明がもう少し必要なのではないか。

    > 「この物質にあの物質を反応させると云々」だとか「あの遺跡にはこの時代の生活の云々」こんな分析の上に真実を被せ、社会や思想に反応させるように「仕向けて」いるのだから、普遍性などなく、いずれ細分し、無駄な議論の餌に成り果てる。<

    いや、だからそう決めつけてしまってはどうしようもないのではないか。
    「無駄な議論の餌に成り果てる」とおっしゃっている貴殿の意見そのものが、「無駄だ」と言われたらどうするんですか。

    >先生の仰る「歴史を学べ。今の為に」は、その保守的思想の段階において、いずれ「歴史を学べ。今の為に。そして《歴史をやれ》」という実践的、行動的な処まで導かれなくてはならない。これを考えると、必然的にそこに歴史の意味の本懐が顔を出す。この本懐が真に力強さを取り戻しますと、様々な「歴史認識云々」は、その土俵ごとひっくり返って離散するはずなのです。<

    よくわからないのですが、歴史を学ぶとガラガラポンが起きて、テンデンばらばらになっちゃうのですか。よくわかりません、意味が。

    >「歴史を着る」のと「歴史をやる」の圧倒的な相違、例えば昨今の韓国や支那等のプロパガンダに見る「⚪⚪起源」などは非常に分かりやすい事例。万歩譲って、桜や寿司などの起源が我が国でないとしても、歴史とは「今」に働くしかない以上、その各々の文化が、今まさに続いており、人々の営みの中に在る、その景そのものが歴史であって、「今という刻に無いものは歴史ではない」と考える。<

    おっしゃりたいことはなんとなく理解できるんですが、でも韓国も日本も、けして歴史が途絶えたわけではなく、どの国だって一応歴史は存在するんですよ。韓国や支那にも今働いている歴史はあるはずです。日本だけが歴史を背負っているわけではないはずなので。

    >情けない哉、過去に在ったものが無くなった事自体に歴史の失敗を覚えない様では、その語り口そのものが羞恥であるのに関わらず。<

    意味不明です。

    >馬鹿馬鹿しい程に当たり前の事であり、今無いものを歴史というのは、只の幼稚な帰依でしかなく、その過去に陳腐な憧憬を重ねているのだけの、弱々しい様です。自己回帰の姿勢と同じく「歴史と戯れる」のを「歴史と向き合う」にすり替えてはならない。<

    えーと、日本だってけっこう失ったものはあるんじゃないですか。さらには、歴史と戯れている方はけっこう日本にもいますよ。歴史と向き合っていない方もおそらくそうとういるはずです。

    >歴史とは、その並木道に咲く桜を、手入れし、剪定し、管理している職人の姿が、今も在り、その景見る事叶う、その事そのものが歴史であります。<

    この比喩あまり好感できません。歴史はそんなに簡単に扱えるもではないはず。ましてや「剪定」なんて誰がどうやってできるのか。もしも言葉がそれほど力を持っているのなら、歴史そのものが存在しなくなりますよ。歴史がそんなに軽々しいものだとは思えないのですが、ところで貴殿は歴史を左右させるだけの言葉をお持ちですか。

    >しかしながら、今や我が民の大半が、支那や朝鮮の様な悪意無いまでも、贔屓にしているスポーツチームのTシャツの如く、その歴史を着ようとしている。<

    国民が着ようとしているのではなく、一部の団体ともしくはマスメディアがそれを着せようとしている・・・のではないですか。日本国民は基本的に自然体ですよ。

    >無論、今もなお我が国には、様々な文化伝統が耳目を震わす。しかしそれら文化伝統は、それ紡ぎし其の人々の営みが貴いのであって、それらをその外側から観客的に論じ「これが日本だ」等と声高々に宣伝する行為それには、日本精神など一寸もない。しかしながら、あまりにもこのような体の日本への帰依としての讚美、つまりはhobbyとしての日本を「愛国」と勘違いしている風潮が何と多い事か。<

    いいじゃないですか、それで。どこがおかしいんですか。声高々に「これが日本じゃ」と叫ぶ方がそんなにいるのなら、いいじゃないですか。良い傾向ですよ。内側だろうが外側だろうが、日本国民が日本を愛することなら、いいじゃないですか。

    >また、戦前の日本人の姿勢や、大日本帝国の力強さに陶酔したがるルサンチマンも、基本的には心根は同じで、自我の薄弱さを緩和する精神武装に過ぎない。知って憧れているだけで、乃木希典、東郷平八郎、佐久間勉の様になど爪の垢程も生きてなどはいない。<

    ルサンチマンではなくエピゴーネンではないですか。そして、乃木希典、東郷平八郎、佐久間勉さんと日本国民一般人が、みんな同じ能力を持てればそりゃいいですが、少なくとも私には無理です。

    >日本を着る日本人は、その知識以外で

    「では貴方は、貴方自身の中にどの様な日本の歴史が在って、どの様に普段の営みの中に歴史の学びから行為として現しているのか?」

    この問いに応える事は出来ないと考えます。<

    いやできますよ。両親から教えられたことを、できるだけ守ろうとはしていますが、何か問題ありますか。

    >今や日本人自身が、かつて昔の日本人が唐や天竺に見た時の同じ様な憧憬を、己自身の過去に見る時代に来ている。これは何も我が民のみの事象でなく、世界中の民族、地域、或いは宗教、そういったものが戻りて集いて磨く刻に来ていると考えます。これはいずれ、上汲み取りて、文明すらふるいにかけましょう。>

    なんだかよくわからないのですが、貴殿はグローバリストなのですか。
    ナショナリストではない発言がここにきて見えますが。

    >このふるいから落ちぬ、その為には、史という縦軸を、代という横軸に交わせ、それこそ世を現さなくてはならない。各々の範囲でそれをやらねばならない。<

    縦と横の結びつき・・・ですか。どうやって結べばいいのですか。というより、わざわざ結ばなくたって、勝手に結ばれていくんじゃないですか。

    > 「己が歴史と向き合える大人」を増やさねば、その幼稚性は幅利かせ、更に歴史、さすれば人そのものさえも「眺めるもの」や「分析するもの」と堕ちてゆく。<

    毎日歴史と向き合っている人間がどれほどいるのかわかりませんが、歴史も大事ですけど将来も同じくらい大事じゃないですか。ましてや「今」・・・「今」が一番大事なんじゃないですか。歴史を学ぶのは大事ですが、歴史にぶら下がるのは最も下品じゃないですか。

    >民、一人一人が、その狭く矮小な範囲とて、己が役もくを改めて認め、「下り過ぎた政」に右往左往せず、力強く、さりとて柔和に、隠し持ちながら、胆据えてやってはじめて、日本遺す事叶うと思っております。<

    この言葉貴殿にそのままお返しいたします。

    >最後までお読みくださり、ありがとうございました。<

    突然のレスをお許しください。

  7. あきんど様へ

    Tukuyomi様とご意見を戦わせるのはお止めください。

    私がTukuyomi様のコメントを拝読したとき、西尾先生の最近の連載もよく読まれたうえで「ご自身の言葉」で語られ、また多くのの作品にも深い共感をお持ちであることが伺えるコメントだったことに感服しておりました。

    ところが、それに対して、

    >何を言いたいのかさっぱりわかりません。
    >ふむふむ・・・。
    >ほほーっそうなんですか。

    などなど・・・。「ご意見」されるご意図が理解でしませんし、感服していた私もバカにされた気持ちになりました。

    あきんど様は日録でのご発言がとても長い方でいらっしゃいますが、だからこそ、この場で敢えて私の思いを述べさせて頂きます。

    西尾先生は思想、言論の世界で生きていらっしゃいます。全集、単行本、雑誌の連載など・・・、日録は西尾先生にとって不可分なメディアですが、伺えるのは「一部」であって、「西尾先生の思想、言論の世界」への切っ掛けです。すくなくとも作品に触れてそれにお答えするのが礼儀です。

    私は以前あきんど様に以下のように尋ねました。
    『話は飛びまして、「オバマ広島訪問と「人類」の欺瞞」(前々回)についてですが、あきんど様は月刊Hanadaの西尾先生の文章を読まれましたでしょうか?日録コメントは印象深い名文揃いでしたが、あきんど様がその良いきっかけをつくったように感じました。』
    もうお読みかどうかをお答え頂かなくても結構ですが、回りくどかったようです・・・。

    西尾先生の日録への投稿「のみ」から直観的に私見を展開されていらっしゃるようですが、あきんど様のそれ(直観)を楽しみにしている読者に期待してのことでしょうけれど、少なくとも西尾先生に対して「この場で」その姿勢はとても失礼です。そして此度はTukuyomi様に対しても・・・。あきんど様がきっと望まれている「論争」は決して成り立ちません。

    当講義の動画投稿について、コメントが内容の9割以上がイチローや中田では、かけ離れすぎていて誰も何も言えないことでしょう・・・。

  8. >阿由葉秀峰さま

    貴殿は私の文章を日頃から熱心に読んでいただいているようで、そのことをまず御礼申し上げます。批判をされるほどの熱心な方がいらっしゃることには、本当に感無量です。これが率直な感想です。

    しかし、そうであっても、ネット上は互角が条件です。いや、もうすでにネットは普通の社会生活でありますから、互角は当たり前。さらには礼節が求められるところであることを、貴殿から教わったことをあらためて感謝します。

    そうした条件を踏まえて一言だけ言わせてください。
    どんな意見も聞き入れますが、こうするべきだ、ああするべきだと言った時点で、貴殿はすでに私を一つ上のひな壇に置いて意見している形になりませんか。
    そうではなく、堂々と「あきんどという人間は実につまらない意見を述べる人間だ」と批判された方がいいのではないでしょうか。
    そのうえで意見を戦わせませんか。
    違う壇上にいるかぎり、何を語ろうにも効果が生まれない気がします。

    もしもすでに貴殿がその意志の元語ったとするならば、反論します。
    意見する以上、批判は覚悟のうえ臨むべきです。
    そしてイチローのことを題材にしたのは、西尾先生が以前彼以外に大リーグで本当に活躍している選手がいないと述べれれていることをきっかけにしております。
    それを話のきっかけにして、このスレッドを最後のところで関連付けている形をとった文章としています。

    何度も投稿しているのは、思いついた文章を忘れないうちに書こうとする意図からです。

    それから月間Hanadaはまだ読んでいません。以前地元の書店で探しましたが、ございませんでした。売り切れたのか、元々なかったのか、そこまでは調べていませんが。

  9. 今日は仕事が休みですので、空いた時間に書き込みをしようと思っています。
    私が住んでいる北海道伊達市にも、ゲオああります。ですから書店はここがメインです。しかし、残念ながら読みたい本はほとんどございません。
    だったらネットで取り寄せればいいじゃないかと言われそうですが、北海道は車社会で、都会のように通勤がてら目にする書物に触れる機会がほとんどないのです。
    そうした環境が生む生活をぜひご想像ください。ゲオに足を運ぶ生活は、私には皆無に近い。そうした環境に行く意思もございません。
    色んな条件下で、地方の生活はとにかく制限されているんです。
    建物はありますが中身が空っぽなんですよ。

    しかもどんどん大型店が進出します。こんな田舎にケーズデンキとヤマダ電機があるんです。人口は37000人です。それでもまだ多い方なんです。もっと田舎に行くと1万人を切りますからね。
    実は私の叔父はケーズデンキ胆振地区のフランチャイズオーナーでした。
    でも昨年本社に身売りし、今はデンコウドーグループになっています。
    最初は三店舗だった会社が、身売りする段階で七店舗になっていました。
    しかしランニングコストが追い付かず、結局身売りです。

    昔あった商店街の方がずっと便利だし、町に活気もあったし、市民も幸せだったはず。
    東京でもアーケード街が今にわかに活気づいていると聞きます。
    歩いて買い物ができる環境の保全にもなっているんでしょうね。
    高齢者社会にも、こうした商店街が必要なんだと聞きます。
    田舎のスーパーでも、とにかくお惣菜コーナーが充実しているそうで、うちの女房なんか材料買うより出来合いを買った方が安いかも・・・と言ってます。

    こうした社会が現実なんです。いかに保守なんて言葉が現実社会で出会えないか、皆さん知るべきですよ。安部さんの苦労を、先生方ももっと知るべきです。

  10. あきんど様

    私は貴殿と意見を戦わせる積りなどございませんし、Tukuyomi様の件が無くとも一言お伝えする積りでした。

    「インターネットの世界ではすべてが互角で、礼節を求めることが大変困難な世界」である一面は当然承知しております。それでもひとつの秩序が必要なので、最近の更新があったことかと思います。

    貴殿の当日録のご発言歴は長年に亘ることでしょう。(ご投稿回数や長さのことではありません。)同時に西尾先生とのおつき合いも長いはずです。

    でしたらその西尾先生の「投稿の文章だけ」をもっていろいろ語られることを、逆の(西尾先生の)立場でお考えになって、失礼には感じられませんか?この場(日録)に関しては「互角が当たり前」とは言えないはずです。

    再度申しますが、日録は西尾先生にとって不可分なメディアですが、伺えるのは「一部」であって、「西尾先生の思想、言論の世界」への切っ掛けです。

    ご意見が「つまらない」とか、そいうことではありません。先ず西尾先生の言論という「一つの雛壇の上に乗った」ご意見であることを願っているだけなのです。

  11. 阿由葉秀峰 さん。

    そこまで私の投稿に関心を示してくれていたんですね。
    そうであるならば、・・・・私は実はこの路線の語り口の方が、多い方ですよ。
    まじめに語ることも勿論ありますが、私は些細な日常現象を取り上げて、ちょっとだけ社会を風刺するタイプの人間です。
    そこはどうかご理解ください。
    シリアルな論文より、実社会から離れない文章を心がけています。でもそれが時々宙を舞ってしまい、自分でも情けないくらいヘタレな文章を書いてしまうわけですが。

    西尾先生とは電話でお話しさせていただいたことが数回あります。
    それはそれは緊張しましたが、なぜか素直に話せた方だと思っています。
    西尾先生は東京に行くことがあったら是非お会いしたい方のナンバーワンですが、私は今北海道を出る意思がありませんし、旅する予定もありません。
    そんな私のことを気遣ってくださる西尾先生でもあるんですよ。

    これはけして何か深い縁があって実現したことではなく、ただ単に日録へ投稿しているうちに起きた現実なんです。
    信じてもらえますか。私は学者でもないし、経歴も普通のサラリーマン出身者です。
    どうか阿由葉秀峰 さん。私をとっくに飛び越える文章をどんどん投稿してください。
    私なんかにとどまっていないで、もうどんどん進んでください。

    西尾先生はもう私の文体には飽きているころです。
    ぜひ新しい文体を期待しています。

    これ本当の気持ちですからね。阿由葉秀峰さん。

  12. あきんど様へ

    貴殿はとても懐の深い方ですね。
    短い表現で恐縮ですがありがとうございます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です