1/3【討論!特別版】西尾幹二氏と語る、世界と日本の現在(いま)[桜H28/6/25]

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  1. 惚けと突っ込みの形式をとった西尾先生の独演会で、真の愛国者の面目躍如でしたが、時折、惚けが生半可な自己主張をするところが耳障りでした。安倍中曽根論は深く首肯されます。このまま参院選で自公が勝てば、生半可で好もしからざる憲法改正につき進むことを寧ろ懸念します。

  2. 水島社長、いつから、このやうに、安倍さんを批判するやうになつたのでせう
    か。

    私の記憶では、前にここに紹介された櫻チャネルの座談會では、安倍批判に對
    して、司會の水島社長は、湯氣が立つやうな勢ひで怒つてゐました。
    特に、安倍さんの” グローバリズム ” のいかがはしさを指摘した小濱逸郎さん
    には、無責任だと食つてかかり、「安倍さんの他に人はゐるのか」と叫びまし
    た。
    その場面は鮮明に覺えてゐます。これに對して、西尾先生は「あなたは官房長
    官ではないのだから、そんなことを考へなくてもよい」と輕くたしなめられま
    した。

    昨年の坦々塾新年會で、「安倍さんを見限ると、あとに人がゐない」と發言し
    た我等の仲間は、「あなたは自民黨幹事長ではないのだから、そんな心配をす
    る必要はない」と、先生から叱られました。私は、その仲間に「あなたが先生
    に怒られてくれたので、私の目も覺めた」と、お禮を言ひました。

    先生は同趣旨のことをおつしやるのに、以前は「幹事長」、後に「官房長官」
    といふ肩書を使はれるやうになりました。「官房長官」に變つてからも、上述
    のやうに水島社長は安倍シンパでしたから、ごく最近までと言へます。

    中西輝政さんが、つくる會を逃げ出したタイミングは絶妙でした(西尾先生は
    怒つて、本欄でこれを批判されました)。つくる會に後足で砂をかけて寢返つ
    たあとは、安倍さんのブレインとして、ときめいてゐると我々は思つてをりま
    した。ところが、今から何ヵ月か前、中西さんは、「さらば安倍晉三 もはや
    これまで 」といふ文章を雜誌に書きました。世間の風向きに應じて、自由自在
    に進行方向を變へる人ですので、おやおや、ムードが變つたのかなと、思ひま
    した。

    小堀桂一郎先生が産經に「安倍長期政權で憲法改正を」をお書きになつたのは、
    昨年だつたでせうか。それ以外に、たとへばチャンネル櫻でのお話を聞いても、
    氣味が惡いほど、「安倍さん可愛い!」一點張りでした。ところが、その小堀
    先生も一ヶ月くらゐ前でせうか、70年談話は許せるとしても、日韓合意は我
    慢ならないといふ妙なことを、やはり産經にお書きになりました。

    お三方のこの變化(安倍離れ?)は喜んでいいのでせうか。

    30年くらゐ前だつたでせうか、西尾先生の御紹介・御推薦により、駒場の研
    究室に小堀教授をお訪ねして、執筆をお願ひしたことを思ひ出し、以上のこと
    を考へました。

  3. ローマカトリックの興亡を経て、覇道の遊牧ともいえる蒙古の西進に怯え、クルーアンの強固性による鍵を東方にかけられ、混沌の中世をうねりながら、漂うを良しとせず、その活路を外洋に見出だした、西洋という「挑戦者」は、その冒険心を懸命に勇気に変えながら、赤道を越え、果てなき地平線を目指して、日の沈む方向へすら漕ぎ出した。

    恐らくは当時の人間の認識範囲を越えるであろうに、しかしながらそういった空間の膨張にすら、すがりつかざるをえない危機性が当時の西洋には黒い霧の如く在ったのだと、人間や文明の在り方の本質から紐解く事は出来ます。「変えよう」としたのだと、必死だったのだと、そこに文明や権力が「神を必要以上に纏う」他無いのは、至極当然の様な事だともいえましょう。

    ある意味、其の開拓者精神は、あまりにも「成功し過ぎた」のかも知れません。権力、さては権威の表側に現れ過ぎてしまった。

    この圧倒的成功による富や領地や支配の拡大は、万事を全肯定させるに充分であり、力は称賛され、法は理性を掌握し、言葉は正義を着れた。そして何より「神が彼らを応援」していた。
    それは新大陸に至るまで、その西洋的な思想の源に、今も尚脈打ち、胎動し続けている。しかしながら既にそれは拠り所に成りつつある。西洋自身が自ら招いた。神を着ながら神を殺した。神に絆創膏を貼り過ぎた。

    ···昨年、先生が焚書図書開封にて西洋を論じておられた頃、私は此処のコメントで「一体どの国が内部分裂のカードを引かされるのか」と警鐘し「プロテスタンティズム帝国の分解も起きて然るべし」と書きましたが、成る程、米国という分家ではなく、本家の英国にそれ襲いかかるとは、まさに文明の妙を感じざるをえません。

    「西洋侵略史と鎖国」の中にも在る様に、地球を舞台とした西洋列国の壮大なチェスに対し、我が国は、その外海に黒い影が霞み始めてようやく、慌てながら、恐れながら、また憧れながらも、懸命に捌き、学び、実践し、跳ね返して来た。しかしそれは、あまりにも急進的で、時に革命的であった。西洋の数百年に及ぶ開拓者の光と闇、その在り様をなぞるにはあまりにも刻が足らなかった。

    何事でも、やれそれと急に変えれば、その反作用も多いもの。しかしそれこそ大航海時代をミニチュア的になぞる様に、我が国の近代の発展性もまた、その反面の部分を富や狂喜で覆い隠し、その富や膨張は、西洋的理念を肯定するに充分で、進歩的価値観の具現と錯覚するのは避けられなかったのだろうと考える。そこに超近代を見つけたがるのもまた然り。

    近代日本は、その繁栄の裏に、先生の仰る暗雲を、実は認識していたのにも関わらず、「見ない様に」努め、更に言えば「見ない様にする為」、それ自体を目的とする様な振る舞い、極めて逃避的で弱虫な心を深淵に抱いている。記憶や道程と向き合うと自我崩壊する様な幼稚性が渦巻いておるのです。

    更に神殺されし戦後は、自己顕示の手法が、あからさまな媚態に変態し、なすがままに米国化が加速した。揺らぎの徳性は弱まり、あらゆる事柄に「正解を求める信仰」が根を巡らす。例えば、アメリカ横断クイズなるものの中で、野球場に集まった万人の民が、○×のプラカードを一斉に上げる姿に、今ならば違和感を感じてもらえるのではなかろうか。この姿の延長に思想や政治のレールが敷いてあったのだと理解出来ないだろうか。

    当然ながら、国の在り方もまた、上から民へ下りるもの。思想が染み渡るには時間差がある。ですから例え上が媚びようと、日本人的教養は民の中には在った。端的に申せば、戦前の教えを持つ人々が戦後日本を牽引していた時期はまだ良かった。

    分かり易い程に、所謂「戦後日本人」が様々な処にてタクトを振るう様になってから、その媚態と依存心は、個人は元より、その組織体の姿にすら重なりはじめ、最早「戦前日本人の現した戦後日本の発展性、その脛をかじって生きている」という薄弱な様を露呈している。あまりにもバトンの渡し方が下手くそだ。会社や組織、或いは家族を守るのだなどと口では言いながら、守りたいのは実は己という「自己完結型思考」の負的側面の保身の現れである。
    反面、そういった社会風潮から精神的距離を置き、個人の自由を背景に、薄いニヒリズムに浸る日本人も増えた。知をさらけ出しながら「我関せず」を個人の範囲まで狭め、その他事象を傍観する。

    双方の在り方共に、西洋の負的な何かを模倣していると何ゆえ自覚出来ぬのか。本来の日本人としての知や人格の貴さとは程遠く、こんな体では人望も人徳もついて来る筈はない。富の有無、肩書、家柄、現代なら学歴、役職、これすら越えた高貴さが我が民には確かに在った。真の意味の「身の程を知れ」の言の葉を忘れ過ぎている。

    それでいて、そんな戦後の喧騒や雑音や思想に振り回されず、粛々と我が役もくを認めて、伝統や文化や技術、田畑森林や自然、家族、その精神性、それらを紡いで来た人々、過去を信じて実践してきた人々に、今更ながら日本を観るとは、全く軽薄なることこの上無い。

    ···数極化するであろうこれからの世にあって、闇雲に西洋への憧憬を続けるのはいかがなものか。

    英国の資本やら、独国の憲法やら、仏国の理念やら、米国の政経やら、学術や宗教、思想、そして思考、ありとあらゆる西洋を、いい加減に「他者」として論じる姿勢を見い出さなくてはならない。我が国は、1000年前に「唐を他者として見た」のですから、出来ない訳が無いのです。当然その時代にも「唐的なるもの」への依存や媚態、利権や保身は在った訳です。だがやり遂げた。歴史はある。

    我が国を覆う近代とは、その空気感自体が、米国を含めたその西洋的価値観により構成されている。つまり西洋≒近代という錯覚が果てしなく強い。立ち位置を固定し、敵と味方に分ける「癖」を持つ。果たして何処まで掘り下げてその「根」を探し当てる事が出来るでありましょう。その根の存在知って始めて、その根に除草剤をかけるか、株分けするのか、守り育むのか、さては放置かなどの取捨が出来ましょう。

    近代は、民主主義という形で、政が「汲み取るもの」から「参加するもの」に変貌している。さも高きハードルであり、とても恐ろしいものだと気づくにはもう少し刻かかる。故に此度の羅針盤は、民そのものを巻き込まざるをえないでしょう。「自由の精算」を避けて通るのは難しいかも知れない。

    「彼らの、常態化した矮小の矜持が、国を亡ぼす」

    現代の「常態化」の中には、果たして何が在るのか。それが例え、戦後日本人のアイデンティティーを砕く危険性が在ろうとも、それが例え、歴史は繰り返すという普遍を浴びるとわかっていても、後世に「あの時代の日本人が日本の歴史を終わらせた」と「分析」されたくないのなら、やり遂げる価値は十分に在るのです。小事に感けては本道が反れる。誤解を恐れず言えば、この小事には政すら含むでしょう。

    再び、支配はいずれ世界の奴隷となりましょう。だからこそ、その円環の歩みを螺旋と信じ、虚無や絶望をとりあえず脇に置く胆を震い起こし、その数多の情報に対して、愛せないのなら通り過ぎなくてはならない時代が来ていると考えます。

    最後までお読み下さり、ありがとうございました。

  4. もう一度、お邪魔します。先生ご指摘の「日本の大企業のパワーダウン」につき、大企業に身を置いた者としてコメントするためです。

    「愛国心がない!」と喝破されましたが、その通りなのです。日本一の大企業トヨタの2009年の米国大規模リコール事件がその格好の事例です。戦後の日本では愛国心は軍国主義であり、ネガティブな意味しかなく、日本という国を意識して外国の政府や会社と争うことは、たとえその争いの原因を先方が作り先方に非があっても、争わず、その非を正面から咎めず、自分が引き下がるという惨めな悪例がトヨタだけでなく、つい先月にも三菱マテリアルが仕出かしました。正規雇用で相当の賃金を支払っていたにも拘わらず“強制連行”されたと訴えた4000人近い元中国人労働者に謝罪したうえ総額60億円以上の賠償金を支払いました。日中共同声明で個人請求権は放棄されたのですが(日本の最高裁判決)、三菱が自発的にこのような和解に応じたことで他の日本企業に迷惑が及ぶことを三菱首脳の脳裏に浮かばなかったわけです。

    北米駐在中、税務当局から不当な追徴課税の更正決定を受けたことがありました。異議申立で争い撤回させましたが周囲のお金持ち大手日本企業の殆どが相互協議や処分受入れで決着させています。中国でも同じ事態が起きています。いま世界中で、日系企業は脅せば金になるという風評(不名誉)が蔓延し始めているのではないでしょうか。理不尽な要求に安易に妥協すれば自社だけでなく日本の他社にも迷惑をかけることになるという自覚は愛国心がないと出てきません。出光佐三の日章丸事件の快挙は彼の強固な愛国心が根本にありました。西尾先生の「企業のパワーダウンは愛国心の欠如」という見立てはシャープ事件が念頭にあったと思いますが一般化されており、それは正しいと確信します。一人の人間の精神において正義感、廉恥心の気概と愛国心は一体です。
    トヨタのリコール事件は2年後の2011年に米国運輸省(ラフード長官)が「トヨタ車に欠陥はなく、いかなる問題点も見つからなかった」との調査結果を発表し「急発進事故の殆どが運転手のミス」と確認されたのですが、2010年の米国の挙国一致のバッシング(政府、議会、司法、CNNやNYTなどマスメディア)に会った豊田章夫社長は上下両院議会の公聴会で謝罪させられた上、リコール開始が遅かったことを咎められ3200万ドルの罰金支払に応じ、その他一連のリコール費用総額1000億円相当をみすみす支払いました。弁護士フィーその他訴訟費用を含めればさらに膨らんだことでしょう。トヨタとその傘下のサプライアー各社の従業員が日夜カイゼンに取り組み血のにじむ努力で稼いだ利益からこの1000億円以上を巻き上げられるのを経営トップが許したわけです。

    当時の首相鳩山由紀夫はトヨタに「真摯な対応を」求めるコメントを出しましたが米国OEMの欠陥車対策に比べトヨタがどれだけ真摯・真剣にこの問題に取り組んできたか。恐らく外務省は警察もどきに「民事不介入」だったと思います。しかし日本政府がトヨタを支援することは国益に叶い、正義にも叶ったのではないでしょうか。何も支援せずに突き放すことは見殺しと同じです。これこそ本物の愛国心欠如です。

    当時ワシントン・ポスト紙にミシシッピ州バーバー知事の投稿が掲載されました。トヨタを擁護する唯一の意見でした。

    「トヨタは、全米で1500社のディーラー、500社のサプライアー、20万人の雇用を生み出し、過去22年間で1600万台のクルマを米国で生産した。対米直接投資は180億円を超え、過去20年間に販売されたトヨタ車の80%以上が現在米国の路上を走っている。

    議会はGMとクライスラーを利するためトヨタを罰してはならない。倒産したGMやクライスラーに米国市民の税金から$60Bも資金援助を決定した。ラフード運輸省長官、連邦政府がこの米国2企業と利害関係をもっていることを考えると、議会がトヨタを公平に扱うとは思えない。議員たちは、政府が10%の資本をもっているクライスラーと、過半数の資本を持っているGMにアンフェアーな優位を与えないよう注意しなければならない。

    政府の出資する米国2企業を優遇するためトヨタの事業回復を妨げてはならない。公聴会での過度のトヨタ・バッシングは、現下のこの経済状況下で、米国が再び保護主義に向かうサインと見做されるだろう。これは米国経済にとっても好ましくない。」

    あの時に豊田章夫氏が堂々と議会でこの州知事の挙げた具体的数字を反論の材料にするぐらいの気概や、逆に公聴会の場を借りてGMの走狗となった議員に逆質問をして、その意図を炙り出すくらいの闘争心があれば、米国世論も変わり、1000億円以上の国富がアメリカに流出することは無かったのです。

    最近、某大学で国際ビジネス講座を担当しましたが、学生に一番教えたかったことが、「戦え」でした。すでに我々団塊の世代から、憲法教育による「平和主義」の弱気が浸透しており、団塊の子や孫の世代はその弱気が益々拡大しています。元々日本人の争いを好まない「和の心」で、相手に譲ることで穏便に済ます、波風を立てない国民性は、国内では美徳ですが、一旦海外にでると弱点になることを自覚しない日本人があまりにも多いのです。

    経済は一流といわれた日本ですが、経営者たちを啓蒙しないと日本の大企業はこのまま衰退に向かいます。理系が頑張って技術革新で勝っても文系が交渉ごとで負ければ稼げない、折角稼いだカネが出ていってしまう。

    最後に、この番組での西尾先生のご発言は文明論的な深い洞察に基づく世界の現状分析であり、戦後の日本人が世界政治の現状を摑むのに必要な広いパースペクティブを与えてくれますので知人に拡散します。

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