コーカサス3国を旅して(1)

ゲストエッセイ
坦々塾会員 松山久幸

 コーカサス山脈の南側はアジアである。旧ソ連から独立したアゼルバイジャン・ジョージア(グルジア)・アルメニアの3カ国はコーカサス3国と呼ばれ、それぞれ特異の歴史と文化を持っている。或る旅行社のツアーに参加し5月の下旬に彼の国々を訪れた。

アゼルバイジャンの炎

 5月23日夕刻、成田空港を出発しカタール航空でカタールのドーハまで飛び、恐ろしく広大な空港で便を乗り継ぎ、翌日午前アゼルバイジャンの首都バクーに到着した。機内の窓から、滑走路より少し離れた草地に小銃を手にした1人の兵士の姿が見える。予め用意した査証も提出して入国手続きを済ませ空港の外に出た。東京と似たような気温だ。外から見た空港ビルは派手で超モダンな造りである。

 大型観光バスでそのまま市内観光に繰り出した。アゼルバイジャンの人口は904万人、首都バクーの人口が300万人。石油で昔から世界的に有名だ。近代的なビルも多く散見され、車も日本車を含め高級車が多い。いま世界の注目を集めているアメリカ大統領候補ドナルド・トランプ氏の高いビルが目に入った。後で分かったことだが、このビルは90%出来たところで工事は頓挫したままだそうだ。

 市内観光でまず訪れたのは「殉教者の小道」。1991年のソ連からの独立に立ち上がって犠牲となった英霊の墓が小道に整然と並び、黒の墓石には英霊の顔も一人一人刻まれている。お墓には赤いカーネーションの花が1本ずつ手向けてあった。ただ彼等英霊は宗教的犠牲者ではないのだから、「殉教者」とするのには違和感がある。その小道の先が高台になっていてカスピ海やバクー市街が一望出来、海沿いにある長いポールに掲揚された巨大な国旗が悠然と身をくねらせていた。因みに、カスピ海は世界最大の塩湖であるが、その塩分は通常の海水の3分の1だそうです。
 高台からの雄大な眺めに浸っていると若いギャルから声を掛けられた。聞けばトルコから来たという女子学生2人。私が日本から来たことを伝えると、並んで写真を撮りたいと。トルコは紛れもない親日国なので安心したのかも知れない。
 バスは高台を下って旧市街に入った。世界遺産になっているその旧市街は然程広くない。まずシルバン・シャフ・ハーン宮殿と乙女の塔を見学。16世紀まで栄えていた王宮の跡で霊廟、モスク、浴場跡などが残っていてこじんまりした感じだ。乙女の塔の周りを燕がいっぱい飛び交っている。

 驚いたことに、この旧市街を中心とした広くもない道路で6月の17日18日19日の3日間、F1グランプリレースが行われるという。街のあちらこちらにスタンド席を設け防護フェンスなどが用意されていた。普段の日でも道路はかなり混んでいるというのに、開催中はどうなることやら。

 アゼルバイジャンはイスラム教の国である。しかしチャドルを身に纏った女性にはとんとお目に掛かれない。モスクも何処にあるのか分からない。緩やかなイスラム国家であることは確かだ。

 翌朝、バクー郊外にあるゴブスタン遺跡見学に向かう。カスピ海に沿う道は半砂漠で荒涼としている。海上には所々油井も見え、途中BTCパイプラインの起点になる施設もあった。Bはバクー、Tはトビリシ、Cはトルコの地中海沿岸都市ジェイハンの頭文字で全長1,768㎞。口径は凡そ1,000㎜。輸送能力は日産100万バーレルで2006年に完成した。距離的にはバクーからアルメニアを通りジェイハンに繋げば近い筈なのに、アゼルバイジャンとアルメニアは昔から仲が悪く、最近も地域紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)で武力衝突したこともあり、パイプラインは大きく迂回してジョージアのトビリシ経由となっている。因みに、このパイプラインはイギリスのBPが主導出資し、日本の伊藤忠商事と国際石油開発も若干出資している。

 バスは1時間ほどでゴブスタン遺跡に到着し、まずは其処の博物館を見学。中の展示物を一通り見て外に出た時、オマーンから見えたというムーサ一家に偶然出会う。話を聞くと可愛いお嬢ちゃん3人とご夫妻で個人観光だそうだ。ご主人はきりりとしたビジネスマンで6年前に仕事で日本に来て地方も含め各所を周り、日本に対して大変好印象を持ったという。ご夫人も綺麗な方でしっかりとチャドルを着用していた。名刺交換したあと「Have a nice day !」と言ってご一家と別れ、遺跡の見学に向かう。

 ごつごつした岩石に、人間や牛、蛇などの動物、小舟、太陽、星などが5,000年から2,000年くらい前の人類によって描かれたこの遺跡は貴重な遺産である。岩々を巡る道すがら、2mもありそうな蛇やイグアナを小型にしたような蜥蜴達にも出くわした。あたかも我々を歓迎してくれているようにも思われた。

 市内に戻って昼食を摂ったあと、バクー市街の外れにあるゾロアスター教の寺院を訪れる。敷地中央の祭壇からは消えることもなく怪しげな火が燃え盛っている。昔はその地下の天然ガスを引いたものであったが、今は他所からパイプで引いて来ているという。自然と宗教が密接に結び付いている証左ではないかと思った。ゾロアスター教は光(善)の象徴として「火」を尊ぶため拝火教とも呼ばれる。最高神アフラ・マズダの名を取ったものに、マツダ(MAZDA)自動車や東芝のマツダ電球などがある。ニーチェの著作「ツァラトストラはかく語りき」のツァラトストラはゾロアスターの独語読みであることは言うまでもない。拝火教寺院の帰り道、周囲に沢山の油井を見た。アゼルバイジャンの石油の多くは、今ではカスピ海の海底油田によると聞いていたが、陸上の油井も直に見ることが出来た。

 トビリシへ向かう飛行機にはまだ時間があったので市の中心街からほど近い海沿いの公園を散歩する。季節も良く公園には色とりどりの様々な花が咲き乱れ目を楽しませてくれる。夕刻、同じカタール航空でバクーからジョージアのトビリシに飛んだ。日が暮れるのは遅く、眼下の景色は半砂漠から緑に変わって行くのがはっきり見て取れた。

ジョージアの道

 ジョージアはロシア革命後の1918年5月26日にロシア帝国の支配を脱し一旦は独立したものの1921年、ソ連の侵略を受けてその支配下に入ってしまう。ジョージアはこの5月26日を独立記念日としており、我々がトビリシに着いたのがその前日に当たり、記念行事の準備で市内各所は交通規制が敷かれ、宿泊先のホテルまではバスからタクシーを乗り継ぐという方法が取られた。しかしタクシーは狭い道路の大渋滞に嵌まり込んで殆ど身動きが取れず、ホテルに着いた時には疲労困憊の状態であった。ホテルの部屋にも独立前夜を祝ってか花火の音など聞こえて来たが、そのまま深い眠りに就いた。

 翌26日は独立記念日である。ジョージアの人口は372万人で首都トビリシの人口は112万人。記念行事の行われる市の中心部は避けてジョージアの古都ムツヘタの方に向かい、まずは川沿いの小高い丘の上に建つジュワリ聖堂を見学する。ジョージア正教の教会で黒の礼服を纏った神父さんがいて我々を出迎えてくれた。この神父さん、三国連太郎に実によく似ている。小振りな建物ではあるが其処からの眺めは良く、昔は辺りに睨みを利かす要塞的な砦の役目もあったのだろう。世界遺産古都ムツヘタも目の前に一望出来る。

 次はムツヘタにあるジョージア正教のスヴェティツホヴェリ大聖堂を見学。6世紀、都がトビリシに移るまでジョージア正教の中心であった。ジョージア最古の教会であり、ジョージア人にとっての聖地でもある。歴代の王や貴族は皆ここに埋葬されているという。建物は至って重厚な造りだ。この大聖堂の裏にある庭園を散歩していた時、イギリスから見えた老紳士に声を掛けられた。勿論ご夫人も一緒である。私が日本人であることを疑っていなかった。

 観光バスの駐車場から大聖堂までの道には土産物屋やこ洒落たレストランも幾つかあったが皆、長閑である。門前は売らん哉の姿勢より、このような長閑さが私は好きである。

 さて次にバスは愈々ジョージア軍用道路を走った。トビリシから大コーカサス山脈を越えロシアのウラジカフカスまでの全長210㎞のアジアとヨーロッパを結ぶ交通の大動脈である。ロシア軍により1799年に建設が開始され1817年に一応完成はするがその後1863年まで道路の拡張工事は続いたという。

 世界に軍用道路として作ったものは夥しく有るに違いない。しかし現在その名称を残している有名な軍用道路は、ここ以外寡聞にして知らない。ジョージアは今でもこの道路を「軍用道路」と呼んでいるが、嘗てはロシア帝国の、そしてまたソ連のジョージアやアルメニア支配の要であったことは容易に察しが付く。この道路の完成によってロシアによる侵略は確かなものとなり、ジョージア人にとっては屈辱以外の何物でもなかったであろう。恐らくこの事実を民族の忌まわしい記憶として永く後世に伝えんとして、敢えて現在でもこの名称で呼んでいるのだと私は確信する。

 軍道に入って最初に訪れたのはアナヌリ教会である。静かなジヌヴァリ湖と美しい森林を背景にして建つ要塞建築の教会である。この日は独立記念日とあって学校が休みの為か、多くの子供達が見学に訪れ、説明員の話を熱心に聞いていた。我々のガイドさんに案内されて橋の上から絵葉書的構図で教会をカメラに収める。

 バスは軍用道路を上りグダウリというリゾート地に至る。周囲はコーカサス山脈が迫りなかなかの景観である。昼食のレストランの入口に2匹のシベリアン・ハスキー犬がいて我々を出迎えてくれた。日頃、日本で見るハスキー犬とは異なり毛も少しふさふさしていて目もあの獰猛さがなく人なつっこい感じがする。皆で代わる代わるその頭を撫でてあげた。スキー用リフトも近くに見えるがスキー用の雪は今はない。

 軍用道路を更に上って行くが、道路上を牛が三々五々のんびり歩いていたり、道路いっぱいの羊の大群に出くわしたりもする。車はその羊の大群の様子を楽しみながら通り過ぎるのを待つ。警笛を鳴らすような野暮なことは誰もしない。
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 バスはジョージア軍用道路で最も高い標高2,395mの十字架峠に至る。其処から眺める雪を頂く5,000m級の雄大な山々が連なる大コーカサスの景観は圧巻である。
 バスは更に奥地に入って行くと、大型トラックが軍用道路の片側に延々と連なっているのに出くわした。ロシアとの国境に近くその通関待ちだという。最後列のトラックが今日中に果たして通関出来るのか知らん。
 バスは通関待ちの大型トラックの横をすり抜け国境の村ステパンツミンダに入る。西の方角にあるのはコーカサス山脈の中でも有名なカズベキ山(標高5,033m)で、山頂は残念ながら雲に隠れて見えない。その手前側の山の上に建つツミンダ・サメバ教会(聖三位一体教会)は小さいながらくっきりと見える。本来はこの教会に四輪駆動の車(三菱自動車製)で登る筈であったが、途中の道路の水道管が破裂したとかで道路閉鎖になり登れない。今回の旅行の目玉の一つでもあった「空に浮かぶような天空の教会」は、麓から遥か遠くで眺めるしかなかった。村の東側にも雪を頂く急峻な岩山が屏風のように聳え立って眼前に迫り真に美しい景観である。国境の両替所はルーブル、ドル、ユーロの順でその交換比率を表示していた。

 帰途、ツミンダ・サメバ教会に登って行く道の入口の村にバスは入る。バスが停車した丁度目の前にある草地に、まだ生まれたばかりかと思われる仔馬が母馬の乳を吸っていた。仔馬の脚はよろよろしていて覚束ない。都会暮らしにはなかなかお目に掛かれない光景ではある。歩いてその辺りを散策す。様々の山野草の花が目を楽しませてくれる。

 行く時にも見えていたロシア・ジョージア友好記念塔なるものに立ち寄った。1983年に出来たというから、ジョージアがまだソ連領だった頃に作った代物で、実にけばけばしく毒々しい色彩だ。友好200年の記念として作ったものらしいが、占領200年の屈辱の証でしかない。「友好」なる名の付くものは全て警戒して当たった方がよい。

 トビリシ郊外のレストランで夕食。身なりのきちっとした清潔そうな好青年がバイオリンで数曲演奏してくれた。その内の1曲は「ある愛の詩」。実に懐かしい曲だ。料理は塩辛くそして香菜だらけで辟易したが、バイオリン演奏は流れるような旋律で情趣に溢れ心を和ませてくれた。但し、投宿のホテルまでは例によってバスからタクシーに乗り継いだものの、タクシーはまたしても大渋滞に嵌り独立記念日のトビリシの交通事情を痛いほど味わった。

 翌朝は悪夢の交通事情も平常に戻りホテル前よりバスに乗り込むことが出来た。トビリシ市街の中心部を流れるムトゥクヴァリ川(クラ川)のほとりの丘の上に建つメテヒ教会を訪ねる。この教会は目下修理中。丘の上からは旧市街を見渡すことが出来、その景色は素晴らしい。眼下の川はトルコに源を発しトビリシを通過してアゼルバイジャンからカスピ海に注ぐ。コーカサス3国を流れる川は押並べて泥川で清流にはとんとお目に掛かれない。日本の川が如何にきれいか我々はその恩恵を忘れるべきでない。但しトビリシのその川に架かる目の前のSF的な橋は頂けない。イタリアの然る有名な建築家がデザインしたものらしいが、歴史的街並みには全くそぐわず私には折角の景観を唯ぶち壊しているとしか思えない。

 丘を下り川の反対側の下町風情の所を歩きシナゴーグの前まで来た。ガイドが交渉したが我々非ユダヤ人には冷たく、門の内には入れてくれない。その直ぐ近くにあったジョージア正教の総本山シオニ教会は誰でもウェルカムで中に入ることは自由。創建は6世紀だそうで、シオニの名はエルサレムのシオンの丘から取られているそうだ。ジョージアにキリスト教を伝えた聖ニノの十字架や数多くのイコンが飾られている。通りすがりの現地の人々がちょっと立ち寄ってお祈りを捧げて行くのを見ると、我々日本人が神社に気軽にお参りするのとよく似ているなと感じた。

 ソロラキの丘の上に立つジョージア母の像を見上げながらトビリシをあとにし、バスはアルメニアとの国境の町サダフロに向かう。

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