ゲストエッセイ
坦々塾会員 松山 久幸
アルメニア美人とキリスト教
陸路での国境越えは数年ほど前、ナイアガラの滝見物の折りアメリカからカナダへ車で経験して以来で、今回は車ではなく徒歩であるから、どのような状況になるのか興味津津。至って事務的にジョージア側出国審査を終えた後、スーツケースを押しながら50mほどの国境の橋を渡り、愈々アルメニア側に入る。検問所でビザ申請してから入国審査となるのだが、グループの最後列に並んでいた私の番になって係官は私のパスポートを矯めつ眇めつして見るだけでなかなかハンコを押してくれない。件の係官は何かアルメニア語で喚いているが私にはチンプンカンプンで何のことやら。仲の悪いアゼルバイジャン経由が気に食わないとしても、既に審査を通った我がグループの20名は皆アゼルバイジャン経由なのだから、これも入国拒絶の理由にはならない。流石に私も少し不安に駆られイライラし始めていたところ、我々ツアーのアルメニア人ガイドさんと思しき女性が現れて、その女性が係官にツアー名簿を見せながらガチャガチャやってくれて、やっとのことで係官は嫌々ながらもハンコを押す。入国が叶いほっとする。ガイドさんに聞いたが、彼女も入国に手間取った理由は分からないという。入国遅延の真の理由を知りたいところではあった。
そして愈々アルメニアに入る。アルメニアの人口は325万人で国土の平均標高は1,800mとなっている。セヴァン湖という琵琶湖の2倍の湖はあるが海はない。世界で初めてキリスト教を国教とした国でも知られる。
バスは山間の道を進み銅の精錬所跡などを窓外に見ながら、山の中のレストランに着く。幹線を逸れてからそこに至る道は鉄柵も何もない断崖絶壁で高所恐怖症の私には寒い思いに駆られた。レストランのメニューは今までの2国と同じで、塩辛くそして香菜がたっぷり。私の食べられるものは限られる。日本に帰ってからの体重計の目盛りが楽しみだ。
その食事をしている時にアルメニアのおじさん2人が現れてエレクトーンとクラリネットで演奏と歌を始めた。2曲目が何と「百万本のばら」で上手な日本語で歌詞も見ずに歌ってくれた。感激の余り大拍手をしてお捻りを持って行ったら「有難う。」と嬉しそうにニコニコしていた。「百万本のばら」は昭和60年代に大ヒットした曲で、表面的なことしか知らなかったのだが、アルメニアに入る前、ジョージアを周っている時にジョージア人の美人の女性ガイドさんがこの曲について解説をしてくれていた。帰国してからインターネットでも調べてみた。ニコ・ピロスマニというジョージア出身の孤高の画家が、偶々出会ったフランス人女優マルガリータの美しさに魅せられ、貧しい中で「百万本のバラ」を彼女に送ったが、その恋は空しく終わったという悲しい物語である。
レストランの近くの山間から煙がもくもくと立ち上っている。銅の精錬所の煙だという。
昼食後に向かったところはハフパト修道院。ここに行くまでの道すがら、正装した若者達が色とりどりの風船やテープで派手に飾った車に乗って、クラクションを鳴らしながらまるで日本の暴走族のようにバスの横を追い越して行く。中には車の窓から身を乗り出し窓枠に腰かけ、我々に投げキッスをくれる若者もいる。ガイドの説明によれば若い男女の若者達はいま高校を卒業して成人になった記念に羽目を外しているとのこと。車の中には年配の人も見えるからそれは恐らく肉親か誰かであろう。若者だけの単なるバカ騒ぎではなさそうだ。どこぞの国の成人式のバカ騒ぎとは大違いだ。バスは漸くハフパト修道院に着く。先程の若者達も大勢来ている。成人したことを神に報告に来たに違いない。我々観光客にもみな笑顔を返してくれる。ここハフパト修道院はアルメニア正教会に特徴的なアルメニア十字(聖十字架)で有名である。奥の方にある古びた鐘楼も印象的だ。
美男美女の若者達に別れを告げ、バスは山間の道を南下していた。ところがこの道は所々に大きな穴のあるデコボコ道だ。バスは右に左に大きく揺れながらゆっくりゆっくり進む。不図懐かしい昔を思い出した。子供の頃の田舎の道もこうだったのだ。いま日本ではこんな悪路にはもうお目に掛かれない。地図で見るとジョージアとアルメニアを結ぶ幹線道路は3本しかない。その一つがこのような状況にある。悪路はやっと過ぎ、バスはアルメニア第3の都市ヴァナゾールを通る。1988年に起きた大地震では25,000人もの死者が出たとのことで、ここヴァナゾールも大きな被害を受けたそうだ。
バスはアルメニア最高峰のアラガツ山(標高4,092m)の麓を通り抜け、アルメニア文字公園を見た後、暫くして首都のエレヴァンに着く。エレヴァンは人口が119万人で現存する世界最古の都市の一つと言われている。
翌朝、市内観光出発まで少し時間があったので、ホテル近くの24時間スーパーを覗いてみた。早朝で客は殆どいなかったが、商品は様々の物が豊富に並んでいる。全部の値札を見た訳ではないが、物価は少し高いような気がした。
バスで本日一番に向かったところはアララト山が良く見えるホルヴィラップ修道院。アララト山はアルメニア民族のシンボルとまで言われている山で大小2つから成り、大アララト山は5,165m、小アララト山は3,925mの高さだ。現在は、複雑な歴史が絡みトルコ領内にある。山自体は国境から32㎞のところにあるが、国境そのものは修道院から僅か8㎞のところだ。
アララト山は旧約聖書のノアの方舟の舞台でもありその形状は極めて美しい。周辺に高い山がなくくっきりと聳え立っているのは富士山とも似ており、我が千円紙幣の裏面の湖に映る山はアララト山ではないかという説まである。今回我々の見たアララト山は頂上近くが雲で蔽われていて惜しい哉全容を確認することは叶わなかった。
さて、アララト山の景観を一層引き立てるホルヴィラップ修道院の歴史は4世紀にまで遡り、アルメニアの地でキリスト教の布教に勤めていた聖グレゴリウスが13年もの間捕らわれていた所で、その地下牢は今でも残っていた。聖グレゴリウスの努力によりキリスト教は301年に世界で初めて国教として定められた。因みに2番目はローマ帝国、3番目がジョージアである。
我々が祭壇を見学していた丁度その時、若い司祭が香の入った祭具を前後に振りお祈りをしていて、信者と分け隔てなく我々異教徒にもお祈りの所作をされた。祈りの祭具より放たれる独特の煙は聖グレゴリウスの昔からの香のような気がした。
アララト山の頂上まで見られなかったという悔しさはあったが、天気が曇りか雨で山全体が全く見られないという不運は避けられたのだから、これも良しとせざるを得ない。嘗て私はこんな経験をしたのを思い出す。7~8年ほど前、ノルウェーのトロムソに家族でオーロラを見に行ったことがあるが、同じツアー客の中に1年前も来たが1度もオーロラを見られなかったというご家族がいた。お気の毒と言うしかない。私達家族はあの幻想的なオーロラを初めてのツアーで見られたのだから実に幸運だったと言える訳だ。
バスはエレヴァン方向に引き返し、郊外の街を抜けていた。ガイドさんの案内でバスを降りた所の電柱の上にコウノトリが巣を作っている。辺り一帯の電柱も皆同様である。日本では兵庫県豊岡市のコウノトリが有名であるが、市全体が必死で保護した成果と聞いている。果たして此処のコウノトリはどうなのでしょうか。ガイドさんに聞きそびれてしまいました。アルメニアの現地ガイドさんは余りにも日本語がたどたどしく、かわいそうなくらい。
コウノトリの巣から然程離れていない所に原子力発電所の施設が見えた。ガイドさんの説明では、この原子力発電所はロシア製の旧式型でかなり老朽化しているものの、国内電力事情のかなりの割合をこの発電所に依存しているので、政府も頭を悩ましている模様。アルメニアはまた地震も多く、しかも首都エレヴァンにも近い場所とあって、今や世界で一番危険な原子力発電所だと恐れられているそうだ。
次に訪れたのがガルニ神殿。アルメニアに残る唯一のヘレニズム様式の建造物である。三方が崖となっていて周囲の景色も良く、嘗ての浴場跡も残されている。帰り際、神殿敷地内の草を刈っている作業員がいて、使用していたのが今まで見たこともない様な三日月型の大鎌。記念写真に収めました。
山間を縫ってバスはゆっくりと進み、ゲガルト洞窟修道院に着いた。此処は初期キリスト教時代に既に出来ていたと伝えられ、岩盤を穿って造られた洞窟の内部は黒くそしてまた暗く、暗黒の冷たさが肌で感じられる。初期の信者は信仰を隠す為に恐らくこの様な厳しい場所を選んだのではないかとも思う。洞窟内の祭壇では洗礼式が行われていて多くの信者が集まっていた。洞窟を出た所で敷地内に沢山の蜜蜂の巣箱を見掛けたが、初期キリスト教徒も蜂蜜を栄養源にしていたのかな。
今度の旅も愈々終わりに近づいて来た。アルメニア正教の総本山エチミアジン大聖堂を訪れる。入口近くで、門を出て行く屈強の迷彩服を着た数名の兵士に守られて、軍服の胸の部分にいっぱいの勲章を付けた将軍と思しき男と偶々出くわした。大聖堂でトルコやアゼルバイジャン打倒を祈願して来たのかも知れない。
エチミアジン大聖堂は世界最古の教会で、4世紀にその基礎が築かれ現在に至っている。入口を入ると中は広大な敷地で、大聖堂内には大司教座が設けられ、修道士の神学校もある。花壇も整備され、綺麗なバラを主体に様々な花が咲き乱れている。殊に神学校前の白バラの園は見事である。宝物館にはノアの方舟の破片やキリストの脇腹を刺した槍(聖槍)も展示されており我々を古い歴史と聖書の世界へと誘ってくれる。
この日の最後に訪れたのはエレヴァン市内にあるカスケード。その最も高い場所に「ソヴィエト・アルメニア樹立50周年記念塔」が建っていて、その近くには「アルメニアの母の像」も見える。記念塔が出来たのは1970年で市の中心部に独立後もそのまま建っているのはアルメニアの対ロシア感情を如実に物語っているようだ。因みに、軍隊もロシア軍の支援をかなり受けているそうだ。我が日本の情況も米軍無しでは成り立たず、もしかしたらアルメニア以下かも知れない。「母の像」は類似のものがトビリシでも見られたが、直立の母の姿と真横に持った剣はソ連に遠慮した隠れ十字架になっているとのこと。
カスケードは階段状の滝のことであるが、水は流れていない。一部工事が中断したままになっていて完成の見通しは今のところないという。しかしエレヴァンの若者達はそのカスケードを楽しんでいて、我々観光客にも優しい笑顔を見せてくれる。上層の方からは市街も良く見え晴れた日はアララト山も展望出来るとのこと。最上階から一番下までゆっくり歩く間に何度か前後しながら顔を合わせていた麗しいアルメニア美人が、下の広場で椅子に腰掛けていて、目の前を通り過ぎる私に小さく手を振ってくれたので、今までの旅の疲れは一挙に吹き飛んだ。
アルメニアは何と美人の女性が多いことか。世に「世界一の美人が多い国」とも言われるのはどうも真実のようだ。コーカサスという特異な地勢の中で、ヘレニズム、ローマ帝国、蒙古、ペルシャ、オスマントルコ、ロシア等の影響を東西南北のあらゆる方向から強く受け、いや翻弄されたと言った方が適切かも知れない。そういった真に厳しい状況の中で旧約聖書の「ノアの方舟」以来、その息子の子孫として混血を繰り返し現在の美的アルメニア民族が形成されて行ったのではないだろうか。これは私の全く勝手な想像であり単なる思い付きの類と言ってよい。
ここまで来てはたと思い当たった。アルメニア入国の折り、入国審査官が私の入国許可を躊躇ったのは、人攫いと勘違いしたのではなかろうかと。人攫い即ち美女攫いと(笑)。
カスケードの横にシャルル・アズナヴール博物館(ガイドさんは自宅だと言っていたが)がある。シャルル・アズナヴールはフランス在住の世界的に有名なアルメニア系歌手で、アルメニアに対しても多大の貢献をなしているとのこと。
共和国広場に寄った後、民族音楽と民族ダンスのショーを見ながらの夕食で、ダンスの方はテンポの速いコサックダンスにも似ていて、ここにもロシアの影響が強く感じられる。店は略満席で観光客は我々グループだけで、他の客は皆地元の方のようであった。営業的にもっと工夫すれば、より多くの海外の観光客にも楽しんで貰えるのではないかと思う。民族音楽も民族ダンスも素晴らしいものだったから。
翌朝、最終日はセヴァン湖とセヴァン修道院を見学。修道院の2棟の建物と湖のコントラストがよい。セヴァン修道院に飾られているイコンの神の姿は蒙古の顔形をしている。嘗て蒙古の軍勢がここに攻め入った時、恭順の意を表す為に、神もその様な姿に変えざるを得なかったのだという。如何に東西の接点とは言え、そこまでしなくてはならなかった小国の民族の悲しい歴史をまざまざと見せつけられ、もし元寇の折りあの神風が吹かなかったならば日本は一体全体どうなっていたか。酷く複雑な思いに駆られた。
セヴァン湖とセヴァン修道院の見学で今回のツアーは終了しバスは再びジョージアとの国境を目指した。アルメニアとアゼルバイジャンとは宗教も民族も異なり領土紛争をしばしば起こしていて極めて仲が悪く、アルメニアからアゼルバイジャンに直接戻ることは出来ないので帰りもジョージアのトビリシ経由である。
帰途、ジョージアとの国境まで行く途中に例のデコボコの悪路の続く箇所があるが、一つあるトンネルの中までその悪路は続いていた。しかも道は泥濘である。其処をゆっくりゆっくり通過している時に一悶着が起きてしまった。バスがトンネルの出口に近づいた時、向こうから大型のトラックが入って来てしまった。丁度其処はトンネルが少しカーヴしていてバスの警笛も役立たなかった。大型トラックが何度もバスの横をすり抜けようと試みたが、デコボコの為車体は左右に大きく揺れるし、トンネル自体がかなり狭いので、如何にしても横をすり抜けることは出来なかった。そうこうしている内にお互いの車の後ろは後続車が列を作ってしまい二進も三進も行かない状況になってしまう。中には普通車がちょっとした隙間をすり抜けようとして前に出て来てしまう有様で収拾がつきそうもない。これは一体どうなることかとハラハラしながら見守っていたところ、結局大型トラックがバックすることになり、直ぐ後方にいたもう1台の大型トラックも一般の車も皆トンネルの外に後退し、我々のバスは漸くトンネルから外に出た。乗客皆で我々のバスの運転手さんに拍手した。滅多にない経験ではある。
結び
帰りの国境越えは至ってスムーズであった。折しもジョージアの入国審査手続きを丁度終えたところで、係官も吃驚する様な大きな雷が鳴り急に雨も降り出した。しかも大粒の雨で土砂降りになって来た。バスの中からは頻繁に稲妻も見え、時々霰も混じっている。バスはまるで滝の中を走っているかの如くである。
トビリシ空港に着く頃は運よく雨も止んでいた。出国手続きを済ませ搭乗を待つ間、オマーンからのムーサ一家にまた出会った。ムーサ氏「Oh ! Surprise.」と。一家はアゼルバイジャンとジョージアを観光して帰るのだという。ムーサ氏より、もし機会があればオマーンにも来て下さい、オマーンは山やビーチや砂漠の美しい所が沢山ありますからと。カタール航空の機内に乗り込んだところ、何とムーサ一家は私達の直ぐ前の座席に座っていた。3人のお嬢ちゃん達は座席の前の画面を苦も無く操作し各々違った子供番組を見ている。世の中、斯様な偶然が連続するのも不思議だ。広大なドーハ空港で成田行きのカタール航空に乗り換え、5月30日帰国の途に就いた。
此度の旅行で気が付いたことは、3つの国で何人かに声を掛けられ、それは決まって「あなたは日本人ですか。」と。他所の国では、支那人や韓国人によく間違えられる。今回はそれがない。
また、今回の旅では支那人・韓国人のグループには1度もお目に掛からなかった。稀有なことである。3国とも韓国製の車は結構走っていたにも拘わらずである。実にほっとした。今や世界のどんな観光地に行っても彼等は来ている。コーカサスへ行くのは今の内ですよ。
最後に一言付け加えたいのは、この拙い文の中に所々私のつまらない見解が入っていますが、たった1度の、しかも限られた対象の訪問記でありますから、私の一面的なものの見方で管見に過ぎません。どうかご容赦願いたい。