阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十八回」

(4-26)現代では他人の信念は好んで疑うが、事実と名づけられてあればなんでも簡単に信じる人がふえているように、私には思える。語っているのは事物それ自体で、人間は介在していないという主張は俗耳(ぞくじ)に入り易いが、しかしそのようにして主張された事実もまた一個の観念であり、厳密に考えれば主張者の表象であることを免れることはできないのである。事実ほど曖昧で、無限の解釈を許すものもないからである。

(4-27)過去は現在に制約され、未来への意識とも切り離せない。

(4-28)過去を見る立脚点が、一般に十九世紀ほど安定していた時代はなかった。歴史とは何か、過去とは何かに関し共通の了解があり、人はその前提を疑うことを知らなかった。従って歴史に対する素朴な客観主義への信仰が十九世紀全体を蔽っていた。

(4-29)「先入見」を除いて人は過去を認識しうるというが、正確な客観性というような観念も、すでに一つの「先入見」ではないか。

(4-30)いかなる過去も、ついに正確に把握されることはなく、いかなる事実も、ついに完全に再現されることはない

(4-31)過去とは固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。文献学者の客観性への信仰は、過去を既に固定して考えているが、過去の事実とはニーチェが言う通り、「際限のないものであり、完全に再生産することのできないもの」である。と同時に、過去を認識する人間もまた、たえず動いている動態であり、なんらかのフィルターなしではなに一つものを見ることはできない。

(4-32)過去とはわれわれの目に見える光景なのであり、われわれがそれに問を発する限りにおいて存在するものである。しかしだからといってその問いは、単なる主観の反映として歴史を静的に捉えるのではない。そのような安定した構図は最初からわれわれには拒まれている。歴史に関する認識は所詮相対性から脱却することはできないが、われわれは自ら動かずして、同じような動かない過去を認識するのではない。認識するとは、生きながら、行動しながら認識することにほかならず、われわれの情熱は一定地点に立ち止まることを決して許さないだろう。

(4-33)言葉で表現し得ないなにかにぶつかって、初めて言葉は真の言葉となる。言葉では伝達しえないなにかが表面の言葉を支えている、

(4-34)結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。

(4-35)われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。

(4-36)行動とは、たとえいかように些細な行動であろうとも、およそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることに外ならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより、人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われるものだ。

(4-37)人はなんらかの行動を起すためには、そのつど仮面を必要とする。仮面と承知で素面(すめん)を演じるのではなく、素面であると信じ切ることなくしては、それが後で仮面であったと判明する事態も起こらないだろう。そのかぎりで人は騙されること、幻惑されることを自ら欲する瞬間もある。

(4-38)歴史の研究とは、過去を厳密に扱うだけでなく、自ら哲学的に過去の中へ思索するのでなければならない。しかしその思索は観照ではなく、観照する安定した立脚点は現代に生きる人間には与えられていないのであるから、たえず自分の立つ足場を取り外して歩んで行くようなことでなければならない。いいかえれば極度の不確定性の中に立ちつくすことである。

(4-39)ヨーロッパでは、天地創造から最後の審判に至るまでの有限な時間の内部の、くりかえしのきかない(後戻りできない)事象の連鎖であると考えられる限り、歴史は反自然的である。なぜなら自然は永遠にくりかえす世界、悠久無辺、永劫回帰の世界である。歴史の基本は、自然と対立した、人間の一回的な行為の連鎖にある。一回的であるがゆえに、その都度の行為が等価値で、記録に値する。

(4-40)ギリシア人はつねに長時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が認識されたことはなかった。

(4-41)日本の近頃かまびすしい教育論争に一番欠けているのは、この理想の観点である。すなわち教育は無償の情熱に支えられるべきで、生活向上のためにあるのではないこと、定まった訓練や修行を経てはじめて真の自由が得られるのであり、青年に無形式の自由を最初から与え、自主性を育てるという考えはなんら自由でも自主性でもない(中略)ニーチェの言葉は現代日本の教育の弱点を的確に指摘している

(4-42)ニーチェが言葉化していることだけが彼の思想ではない。彼がある局面でなにも語っていないこと、つまり彼の沈黙の部分も彼の主張の一つである。

(4-43)人間の体験というのは、言葉になる以前のものを孕んでいるのが常で、後からそれを言葉で再現するのはどだい矛盾をはらんだ作業です。

(4-44)言葉の天才であればあるほど、言葉には及びがたいものがあるということを予感している

(4-45)学問研究は「物語」でなくてはいけない、

出典 全集第四巻
「第三章 本源からの問い」より
(4-26)(459頁上段)
(4-27)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-28)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-29)(468頁下段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-30)
(4-31)(469頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-32)(470頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-33)(489頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-34)(495頁上段から495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-35)(495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-36)(517頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-37)(518頁上段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-38)(519頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
「第四章 理想への疾走」より
(4-39)(609頁下段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-40)(609頁下段から610頁上段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-41)(616頁上段「第四節 十九世紀歴史主義を超えて」)
(4-42)(678頁下段「あとがき」)
(4-43)(733頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-44)(737頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-45)(778頁「後記」)

 

「阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十八回」」への14件のフィードバック

  1. 假面 ・ Bruxellesさん ・ 安倍總理

    (4-37)人はなんらかの行動を起すためには、そのつど仮面を必要と
    する。仮面と承知で素面(すめん)を演じるのではなく、素面であると信じ
    切ることなくしては、それが後で仮面であったと判明する事態も起こらな
    いだろう。そのかぎりで人は騙されること、幻惑されることを自ら欲する
    瞬間もある。

    下線部分が私にはどうも理解出來ない。
    阿湯葉さん、適切な解釋を教へてくれませんか。西尾先生に直接質問するのは、なんだ、今ごろ! と叱られさうな氣がして憚られます。
    「信じ切る」のは、第三者ではなく、「素面」なり「假面」なりを着けてゐる本人でせうね。「行動」とは、(この場合)ニーチェが非政治的な姿勢を
    急に變へて、普佛戰爭への從軍に踏み切つたことでせうか。
    この後に、先生は「ハムレットが行動に踏み切れなかつたのは反省して選擇に迷つているからではなく、事物の本質をすでに見通してしまつたからであると彼(ニーチェ)は言う」、「ニーチェにもまた戰場へ出陣することを動機づける時局上の見解や政治判斷などはなにひとつなかった。そんなものはどうでもよかったのである」とお書きになつてゐるが、それが、私の解釋につながらない。

    この箇所に限らず、『ニーチェ』自體が私には難解で、昭和52年發行と同時に買つて、讀んだといふよりも、字面を追つたといつた方が正確だらう。一節一節が感銘深く身に沁み込んだとは言へない。
    しかし『ニーチェとの對話』(昭和54年)は全く違つた。これは面白かつ
    た。貪るやうに、繰り返し讀み、ビンビンと胸に響いた。かなりの部分が、
    血肉になつたと思ふ。
    後に、私は職場の部下に説教した際、己が獨創的見解を、やや逆説的ながら無理のない論理で展開することができて滿足したし、部下も感服したに違ひない・・・。
    ところが、なにかの機會に、『對話』を讀み返して驚いた。私の説教がその一節と完全に同じだつたのだ。もちろん、私には請賣りといふ意識は全くなかつた。斷じて故意の剽竊ではない。つまり、中身は完全に身に着いてはゐるが、それを先生から教へられたことを忘れてゐたのだ。そこまで馴染んでゐたと言へよう。
    先生御自身、のちに、「前者は學問的で非常に緻密な仕事であつた」「(後者は)一切の約束事を破つて、私の好き勝手な放言を竝べ立てるというスタイルにしました」とおつしやつてゐるから、私の反應は當然のことかもしれない。「放言」のレヴェルが私に合ふのだらう。

    『對話』でお馴染みの「素面」「假面」といふ言葉が(4-37)に出て來たのが懷しくて、冒頭の引用をした次第。阿湯葉さん、よろしくお教へを。

    『對話』には、「人はそれぞれの相手に應じた假面を相手の數だけ持つている」 「私たちは友の假面を見ているわけだが、私たち自身もじつは友に假面を見せているに過ぎない。しかし假面とは別のところに、あるいは、その奧に、本當の素面がある、とはたしてニーチェは言っているのだろうか」「一人の人間はじつにさまざまな顏を持つていて、そのどれが本當の彼であるかはつかみにくいところがある」「私たちは素面ではなく假面を、現實ではなく嘘を、ときにたいせつにしていく必要があるのではないか」等々の記述が續き、私は憑かれたやうに讀み進んで、憑かれたやうに考へた。そこに描かれた微妙な心理作用を追ふのは愉しく、聯想は果てしなく擴がつた。

    先生には、のちに、私の編輯する雜誌に「人生論ノート」を連載して頂いたが、これがまた、人間の心の襞を實に精緻に描いてゐて、私は虜になつた。印刷所への入稿前に熟讀したのは勿論、ふつう編輯長は加はらない初校にも率先參加し、存分に味はひ、吸收した。假面・素面を支へる、人間の心の奧底を見せられ、その意外なあり方に驚きつつも、これが眞理だと納得させられた。
    雜誌をコピーして、友人達と輪讀會を開いた。先生も、「この連載には全力を傾けた」と囘顧してをられる。「どうも、自分は人生論(を書くこと)が好きらしい」ともおつしやつたと思ふ。
    『ニーチェとの對話』は自分で買つたのだが、「人生論ノート」には、月給をもらふ仕事の中でたつぷりと接した。これ以上の役得はない。
    今でも、人と話してゐて、自分のせりふの出所が先生の著作だと、ふと氣づくことがある。以前、電話で先生とお話してゐて、大江健三郎の惡口を言つた。先生は默つて聞いてをられたが、私はハッとした。これは、前に先生がお書きになつたことだ。つまり請け得りを御本尊に對してやつてしまつたのだ。慌ててお詫びしたが、「まあ、いいさ」と笑ひながら、許して下さつた。

    閑話休題。この假面・素面の件りをBruxellesさんと論じたことがある。
    私の方から持ち出したのだ。彼女は『ニーチェとの對話』を讀んでゐた。
    先般、勇馬さん、黒ユリさん、樂秋庵主さんなどによる彼女の思ひ出を讀んで、このことを思ひ出した。

    私は、西尾先生に彼女を紹介され、亡くなるまで一年數ヵ月間、手紙、e メール、彼女のブログへの投稿によつてーーつまり、文字だけによるお附合ひをさせていただいたが、その半ばくらゐの時期だつたか、「素面」「假面」について、『對話』の次の一節を示して、彼女の感想を求めた。

    私たちは友達と談笑しているときや、いっしょに歩いているときに、
    その彼の友人、私たちの知らない人物から突然聲をかけられた經驗を   持っているだろう。第三者の登場で、今まで談笑中の二人の親密な關
      係がにわかに一變することも、やはり誰もが經驗していよう。友人は
      自分と話しているときとはすっかり表情を變え、まるで別人のように、  新しい人物としばしの間短い會話を交しているのを私たちは默って待
      っている。彼等二人が非常に親しく、愉快そうに振舞う と、取り殘さ
      れた自分はなぜか、少し不愉快な氣持になる。

    あの強い、人の思惑などを氣にすることなどなささうな人には、格別感じることはないかなどとも考へた。ところが、さに非ず。
    すぐに來た返事に曰く。「あの部分を讀むとゾッとする。西尾先生のいはゆる ”第三者の登場 ” とは違ふが、ヨーロッパの某國に滯在した時、あれにやや似た、痛切な經驗をした」。
    某國とは、東歐のどこかだらうと思つた。「ソ聯で、ブレジネフが死に、あ
    とを嗣いだアンドロポフもすぐ死に」といふ記述があつたからだ。先般勇馬さん、黒ユリさんのお書きになつたことからすると、フランスだつたのかもしれない。

    彼女の言には諒解しかねることもあつたが、(叱られることを恐れて)訊
    き返さなかつた。以下は、彼女のことばのまま。
    「あるサロンで紹介された若い中國女Aとカフェに行つたり、芝居を見た
    りして附合つた。大學に留學して來てゐると言つてゐたが、どうも、自國
    の地下の反體制派につながつてゐたらしい。屡々黨を批判したが、こちらが調子を合せると喜んだ。チベット彈壓には激しい嫌惡を示したが、チベット系ではないやうだ。日常、どんな活動をしてゐるのか、滯在資金がどこから出てゐるのかは分らなかつた」

    「東ドイツの代理公使だといふ、40歳前後の女Bとも附合つた。社交性があり、話題が豐富、考へ方は柔軟で、上品でもあり、誰にも好かれ、附合ひの幅は廣かつた。相當な美人・グラマーであり、彼女がハニートラップになれば、大抵の男は掛かつたらう。ハイネやハウプトマンの詩に詳しく、ずゐぶん教へられた。ただ彼女の任務は反體制派の監視だといふ噂があつた。もちろん、主たる對象は(東)ドイツ人だが、すべての共産國の、不純分子取締りのための組織と聯絡があり、情報を提供し合つてゐるとか。それを聞いてから、彼女の前では共産主義批判を控へた」

    「その後、Aと美術館からの歸途、前方から歩いてきたBらしい女とすれちがつた。その際、Bは私の方は見なかつたが、Aとは會釋とまではゆかないが、輕く目配せをしたやうな氣がした。これにはゾッとした。AもBも、どれが(あるいは、どこまでが)假面か素面か知れたものではないが、自分の認識では、Aは反體制、Bは(國は違ふとはいへ)それを取り締まる側。その二人が知合ひだなんて、あり得べからず!」

    「一ヵ月後。日本から來た友を創業350年にもなるレストランに案内した際、奧のメインテーブルとも言ふべき一角で、なんとAとBが向きあつて、ワイングラスを傾けながら、談笑してゐるのが目に這入つた。何がをかしいのか、Bはのけぞつて笑つた。自分は戰慄をおぼえ、友の手を引いて、店を
    出た」

    「數年後、Bは崩潰寸前の東獨・クレンツェ政權で、閣僚を務め(といふこ
    とは、私が會つた頃は、反體制派に近かつたのかもしれない)、統一ドイツ成立後も、樞要なポストを占め、新聞に寫眞が載つたりしたが、やがて姿を消し、今は杳として消息がしれない。顧みて、私が如何に甘かつたか、寒心に堪へない。 『第三者の登場』ではないが、 先生の、あのお言葉は痛切に身に入みた。私も、人との関係が瞬時に一変することを経験したのだ。『素面ではなく假面を、現實ではなく嘘を』の意味をつくづく考へた」

    彼女のコメントは以上で終り。某國とはどこの國かとか、なんのための滯
    在だつたのかとか、A・Bとはその後も附合つたのかとかは訊けなかつた。
    ふと、彼女はinteligenceの仕事でもしてゐたのではと、思つた。しかし、それを統轄する組織は、日本といふ國にはなからう。あるいは、外國の機關に屬してゐたのかもしれない。どのやうにして得た情報でも、最終的には、それが祖國のためになるのならいい・・・。彼女なら、さう考へたかもしれない。實際、女性ではあるが、憂國の烈士とでも呼びたい人だつた。それだけに、國賊・賣國奴に對する怒りは激しく、容赦なかつた。

    私は、先生の描く、心の細かい、微妙な襞を觀察することに夢中だつたので、彼女の強烈な、きはめて具體的な體驗談には少々水をさされた思ひだつた。しかし、その聯想が無理だとは思はなかつた。

    彼女は「言語哲學」がライフワークださうだが、その話は殆ど出なかつた。私に素養がないとみたのだらう。
    彼女に叱られながら、叩き込まれたのは、安倍晉三といふ政治家のインチキさ加減だつた。それを徹底的に解剖・分析して見せてくれた。

    安倍さんのいかがはしいことなら、人に言はれるまでもなく、私もほぼ感じ取つてゐる。しかし彼女の安倍批判は、單なる印象批判ではなく、どうやつて入手するのかと驚くほど豐富な情報により、「積極的平和主義」だの「地球儀俯瞰外交」だのの、無内容にして、ただ日本の品位を下げ、國費を濫費するだけの、反國家行爲に過ぎない實態を暴き、完膚なきまで、叩き伏せたものであつた。

    結論は同じでも、私のやうに、「あの發言は前に言つたことと矛盾する」
    「言ふことが一貫せず、そこに信念のやうなものが感じられない」といつた
    表面的なものではなく、對象の奥底まで這入り込んで指さすやうな、徹底的
    なものだつた。私はひたすら謹聽した。

    しかし、講義の後、彼女から忠告された。「世間の安倍贔屓は尋常ではない。自分は安倍批判により、村八分にされ、きつかつた。何人もから絶交された。シカトされた。あなたは大概にした方がよい」。私は答へた。「いえ、村八分にされるほどの活動を、私はしてゐません。平氣です」。

    實際、職業上の活動の場でシカトなどされれば往生するだらう。しかし、それ以外で、たとへば趣味の仲間の一人から、無視されたり冷たく扱はれても、さして辛くはなからう、さう思つた。

    Bruxellesさんも職業はない筈だ。そして普段、僞物と斷じたものに對して、 この世に恐れるもののないかのごとく怒り、罵る彼女に「きつい」などといふことがあるとは不思議な氣がした。でも、ああ見えて、孤獨が怖いのかもしれない。神經はかなり鋭敏かつ纖細さうだ。私のやうに氣の小さい者以上に感じるのかもしれないなどと思つた。

    それで、彼女の忠告に從はずに、色々な場で、安倍さんの惡口を言つてきたが、別にひどい目に合はされることはなかつた。相手が急に口をきいてくれなくなつて、暫くして、それが私の安倍批判のせゐ、つまりシカトだと氣づいたことは何度かあつたが、それが商賣上のお得意でもなく、職場の上司・同僚でもないので、ほとんど痛痒を感じなかつた。

    大きな聲では言へないが、レクレーションにも時々使ふ。人をからかつたり、試したりするのだ。
    たとへば、茶飮み話で、日韓關係について(安倍さんの名は出さずに)、「日本のやり方はをかしいよ。あれぢや、韓國も嵩に掛かつて來たくなるよ」と言ふと、大抵の人は、「さう、さう。そのとほり。をかしいのはこちらだ」と贊成する。それに續けて、私が「安倍さんは、カッコいいことを言つても、中身は空つぽで、その場が凌げさへすればいいのだから、少しでも押されれば、必ずずるずると後退する」などと言はうものなら、途端に默り込んだり、急いで話を逸したりする相手が多い。とにかく、露骨に態度が變る。ははーん、この人は・・・と分る。今の日本で、不動の體制派である。
    いきなり呶鳴りつけられたり、毆られたことはまだない。あまりいい趣味ではないが、結構樂しんでゐる。

    好き嫌ひは別にして、安倍さんの言動について、これを可とするか不可とす
    るかが、論者の知能程度、感性などを計るメルクマールになる場合がある
    ことも知つた。
    一例が昨年の伊勢サミット。安倍さんが嫌ひでも、あの場所を選んだことは、一見、いいことのやうにも思へる。しかし、さにあらず。昨年6月、本欄で、「青葉を觀ながら考えさせられたこと」を讀んで、ああいふ場所を選んだのは間違ひであることを、的確な言葉で教へられた。可と不可の差は微妙なやうではあるが、實は儼然として存在するのだ。

    そしてそこに、それぞれの論者のレヴェルの決定的違ひもあることを知つた。
    「自分は伝統を最も重んじる政治家だ、伝統の最上といえば伊勢だ、神宮の
    すばらしさをトップリーダーの眼にやきつけてもらう。言い換えれば図式化された感動づくりなのだ。安倍晋三にはそういうところがある」。この3行で、すべてが言ひ盡くされてゐる。
    かういふ、インチキ政治家のいやらしさ・淺ましさを感じると否とでは決定的な違ひだ。私は筆者の鋭い感覺と行き届いた、易しい語り口に感歎して、全面的にこれに服したが、それに留らず、これは他の問題にも應用が利きさうだと思つた。
    論者Aと論者Bの説のどちらを支持すべきか迷つた時、もしもAが安倍シン
    パであり、Bが如上のいかがはしさに氣づいてゐると知れたなら、本論の檢
    討を拔きにしてでも、Bに軍配を上げるべきだ、それでまづ、間違へることはない。うまく整理・説明できないのはまだしも、あのまやかしを嗅ぎとれないやうでは、麻藥搜査犬にもなれないだらう。
    とにかく、教養のない人が、氣の利いた風なことを言つたりしたりしようとするのだから、うさん臭さとかうそ臭さとかが必ず漂ひ出すのだ。安倍さんの教養(のお粗末さ)について觸れたのは、私の知る限り、西尾先生とBruxellesさんの二人だけだ。

    因みに、「安倍さんにも”假面” ”素面”はあるだらうが、それはどんなものか、本人は意識してゐるのだらうか」とBruxellesさんに質問したが、答はなかつた。愚問として一蹴されたのだと思つた。

    職業に關係なくても、親友から絶交されたら困るだらう? 親友とは、一生に一人得られるかどうかといつた存在だらう。そんな大切なものに、いくら私が迂闊でも、”伊勢 ”に惑はされるやうな安倍シンパなどを選ぶことはない。御心配なく。

    (追記)(4-37)の2行め「仮面と承知で」から、3~4行め「事態も起こらないだろう」に付した下線が、送信しようとすると消えてしまひます。阿湯葉さん、厚かましいのですが、いつそ、この部分に限らず、全部を
    まとめて解釈してくれませんか。すみません。よろしく。

  2. 敬愛する西尾幹二先生のブログ、いつも興味深く拝読いたしております。

    ですが、渡部昇一教授の訃報が報じられてからかなりの月日が経ちましたが、西尾幹二先生からは何の論評も発せられてない様に感じております。
    例えば、小堀桂一郎教授などは、それぞれに哀悼の意を表されております。
    敬愛する西尾幹二先生が、今になっても、渡部昇一教授の訃報について、何の論評も発せられないのか、その存念の程をお知らせ頂きたいと思った次第です。

  3. 佐藤 樣

    先生に對するお訊ねに口を出すのは僭越ですが。

    ①お忙しくて(御旅行なども含めて)、お書きになる暇がない。
    ②お書きになる意志がない。
    ③その他

    のいづれか存じませんが、これは、臆測にしろ、忖度にしろ、
    佐藤さんが御自身でお考へになるべきではないでせうか。
    假に、私が先生だとしたら、 ”存念 ”などを訊かれたら困る
    場合が多からうと思ひます。ぢや言はうと、スラスラ喋る氣
    になることもあるかもしれませんが。

  4. 池田様

    “ウップン晴らし”と控えめに云われますが、ネットの世界に寄稿される動機や真意はやはり憂国の至情からの建設的社会改革ではないかと勝手に解釈しています。覿面の効果が目に見えないために鬱憤を晴らすような外観を呈するかもしれませんが、若い世代を含め読者がご寄稿によって、鬱憤の拠って来るものから啓発されることは(私を含め)十分に期待できますので是非懲りずにお続け頂きたい思います。

    このアフォリズムは私にも(かなり低いレベルですが)理解不能です。ブリュッセル女史の逸話で益々分からなくなりました。戦前、満洲のハルピンで遊んでいた親しい者の体験談ですが、キタイスカヤ通りのキャバレーにいた白系ロシアのホステス全員が終戦と同時にソ連共産党のスパイだったことが判明したそうです。女史の体験した「人との関係が瞬時に一変」したことも、エピソードを拝読する限りですが、この類いで、仮面を被っていたのが露見した程度の話ではないでしょうか。

    因みに、政治家はみな”假面” で世間を渡る職業であり、”素面”を出すとたちまち落伍する、三島由紀夫の仮面は小説家、素面は愛国者と理解していますが、浅いでしょうか。

    『人はなんらかの行動を起すためには、そのつど仮面を必要とする。素面ではなく假面を、現實ではなく嘘を』はもっと深い意味ではないかと思います。阿湯葉様の回答を期待します。

    1年前、安倍首相がサミット首脳を伊勢神宮に招聘したことへの評価については伊藤様のご意見にコメントしていますので繰り返しになりますが、①歴史的、文化的観点からは、「大事なものはそっとしておくもの、神宮が貴いというなら神宮を使うな、伊勢は遺跡でないし、廟でもないし、施設でもない」に賛同し、基本的にこの立場から私も同調しました。その他に、②外交的観点からは、各国首脳に神道の作法を守った参拝を勧めず、放恣で勝手な訪問作法に任せたことから失敗だったとも書き加えました。しかし評価の観点はもう一つあり、③国際政治的観点からは、曲がりなりにも「日本文化の中心であり、聖地でもある伊勢」に首脳らを誘い込んだこと自体はある意味で成功だった、歴史戦の観点からも、高得点を挙げたものと評価することは可能であり公平でもあるかと思います。①の評価が最も重要ですので、評価の全てと割り切ることもできましょうが、③の評価も忘れてはならないと思います。

    外務省が、現行憲法の政教分離の原則から、御垣内参拝に反対し、一般人のする御幌の外からの“訪問”で済ますことを頑強に主張したのに対して、安倍総理がこれを押し切って幣垣内に招じ入れ御正殿にお参りさせたことを、このコメントをした直後の伊勢訪問で、関係者から聞き及びましたが、これが事実であれば、①の観点からは依然難点をつけることになりますが、③の観点からは更に得点をあげたことになります。

    このあたりからは、純粋な女史や池田様からは批判がでることを承知で申し上げますが、現下の政治情勢の下では、保守が安倍氏の看板を降ろせば、次に出てくる輩は日本を真っ直ぐに亡国の道へ導くものだらけですので、弊害はあっても政治的行動としては、条件付き、留保付きで安倍政権を支持する選択しかないのではないでしょうか、池田様の高く評価される陸奥宗光や私の尊敬する原敬などにとおく及ばない、いやらしさや淺ましさを拭えない、うさん臭さとかうそ臭さが鼻につく、インチキ政治家に政治を任せるしかない時代に我々は生きていると思います。

    古き良き時代と違い、現在はどこの国も、政治家に本物を求めることができなくなり、本物のステーツマンは影を潜めざるを得ないようですが、反面ネットの世界では、本物の政治的意見や情報が簡単に入手できる時代でもあります。

    本物のダイアモンドのようなネット世論の好例として、2例御紹介します。すでにご存じの方も多いのではないでしょうか。

    1. 尖閣を奪われる切迫した危機がいまそこにあることを石井望氏がブログで警告し、十分な情報武装、理論武装を完成していますが、私の以下のコメントに対して彼は以下のように不平を漏らしました。

    ”石井様の「旧仮名、正字」表現ですが、私もその価値は十分承知し、私的な文書では自分もこれに切り替えたい、更に将来は日本全体でこれに復古させたいとさえ思う者ですが、奈何せん現状は、特に団塊以降若い世代は、ということは国民の大多数は残念乍ら、”読めません”。石井様の信念は分かりますが、国内にご意見を広く拡散するための障害になっていないでしょうか。”

    ”文章は障碍になってます。しかし私自身が澤山書くには時間と精力の障碍こそ更に大きいです。私自身でなく、愛國的著名人らがオールジャパンで分かり易く書いてくれれば、障碍になりません。それをしないのは、彼らの愛國心が足りないのでせう。そもそも文體以前に、私の論文の所在すら檢索しないし、論文複製すら取り寄せてませんよ。結局努力不足で日本人は負けるのです。”

    これは彼の悲痛な叫びにも聞こえます。坦々塾の皆様には是非彼の研究成果を拡散し利用して頂きたいと共に政府が最大限活用することを念願します。外務省もある程度利用している気配がありますが、あまりにも扱いが地味で迫力がありません。

    2. 目良浩一氏等の「歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)」のブログにも注目してきましたが、先週、グランデール訴訟報告会が参議院議員会館で行われ、つぶさに身近に目良氏の活動、活躍、人柄を知ることが出来ました。国士です。「最高裁で敗訴になれば却って敵にお墨付きを与える」などと評論家めいた発言もありましたが、罰が当たることを知りました。日本の保守勢力は全力を挙げて目良氏らの活動を支援する必要があります。

    このお二人に共通するのは、日本政府の支援が極めて不十分であり、若し政府が如何なる形式にせよ、本格的に後押しするならば国際社会で日本の恥辱を雪ぐための活路が明確に開けることです。そして現時点での僅かな光明は、これまで一切支援の手を差し伸べなかった日本政府・外務省が、不十分ではありますが、今年2月にグランデール訴訟で米国連邦最高裁判所に意見書(原文英語)を作成し提出したことです。「積極的平和主義だの地球儀俯瞰外交だの、無内容にして、ただ日本の品位を下げ、國費を濫費する」だけの政権ではありますが、このような動きは「不動の體制派」となった安倍政権以外では考えられないことではないでしょうか。

    その意味において、その限りで、私も「安倍シンパ」であると名乗ります。

  5. 勇馬 樣

    原敬と陸奧宗光と

    「私の尊敬する原敬」ですか。

    陸奧と原の關係はきはめて深いやうですね。陸奧の引立てがなければ、別の
    「原敬」になつてゐたかもしれませんね。
    私は兩方とも好きで、原については、『原敬日記』を4册(全部揃へると8卷
    ?)持つてゐますし、評傳の類も何册か讀みました(特に、養子 原奎一郎
    〈貢〉著『ふだん着の原敬』の靜かな、沁々とした語り口に惹かれ、今でも、
    時折書架から拔き出します)が、陸奧については、本人の書いた『蹇蹇録』を讀んだだけです(竹山道雄先生の教へに從つて。當時あまり評判がよろしくなく、「不蹇蹇録だ」といつた批判もあつたとか)。

    私が『蹇蹇録』から引用する箇所はいつも決まつてゐます(文庫本に栞を挾んであります)。

    「人々其公然世間に表白する所は社會凡俗の輿論と稱する所謂弱を扶け強を抑ふるの義侠論に外ならざりき」

    「余は固より朝鮮内政の改革を以て政治的必要の外何等の意味なきものとせり亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし故に朝鮮内政の改革なるものは第一に我國の利益を主眼とするの程度に止め之が爲め敢て我利益を犧牲とするの必要なしとせり」

    「我國朝野の議論が如何なる事情源因に基きたるが如きは之を問ふに及ばず兔に角此一致協同を見たるの頗る内外に對して都合好きを認めたり余は此好題目を假り已に一囘破裂したる日清兩國の關係を再び調和し得べきか否か若又終に之を調和する能はずとせば寧ろ因て以て破裂の機を促迫すべきか兔も角も陰々たる曇天を一變して一大強雨を降らすか一大快晴を得るかの風雨針として之を利用せむと欲せり」

    これを誰が讀むにしても、注釋は不要でせうね。
    當時、清に對して戰端を開きたくて、うずうずしてゐた陸奧(外相)が、ありと
    あらゆるものを利用して、その方向に進まうとしてゐたことは明かでした。彼は「有效であれば」といふ條件さへ滿たせば、手段を選びませんでした。
    そして、最も適切な時期に、最も適切な形で、戰爭に持ち込むことに成功しました。しかし、國としては、あくまでも戰爭は望まずといふ受動的姿勢を保つ(さう見せかける)努力を忘れませんでした。そして、宣戰布告と同時に、滿を持して、準備に準備を重ねて來た軍が一擧に襲ひかかりました。あの戰史を讀むと、初めから勝敗は決まつてゐたやうな氣さへします。

    これを大東亞戰爭と比べれば大變な違ひです。後者は(陸奧が「朝鮮の内政などどうならうと、知つたことか」と考へた日清と違つて)、基本的に聖戰でした
    が、戰ひたくないのに、ずるずると引きずられたり、戰ふべきところで、妙な佛
    心や讀み違へのせゐで躊躇したり・・・とヘマが續きました。マッカーサーに言
    はれるまでもなく、「これが同じ國?」と思ひたくなります。

    關野通夫さんが、『いまなお蔓延るWGIPの嘘』に、「成田や羽田のボーディングブリッジで 、頭を『人間性善説』から『人間性悪説』に 切 り 替えるようにしています」と書いたのに對して、私が、「立派な心がけだが、陸奧なら、切り替へなくても平氣だつたのではないでせうか」と申した所以です。

    實際、陸奧にしても原にしても、世界のいかなるやくざ國家の無頼漢と渡り合ふにしても、瞞すことはあつても、瞞される場面など、想像もつきません。

    そのくらゐ、賢こ過ぎるほど賢かつた日本人が、どうして今のやうに魯鈍になつてしまつたかといふ、以前に論じたテーマになりますが、一つには、公的な場と日常がうまくつながらなくなつたといふ事情があるのではないでせうか。

    日本の近代化が一應成功して、表面的なもの、社會的なものは急速に整備され、軍隊、役所、學校、鉄道、工場、病院、新聞社等々は、西洋のそれとあまり違はないものができました。しかし、あまりに急いだために、それらは國民の日常の、自然な延長にはならなかつた。兩者の懸隔はあまりに甚しく、當初は(陸奧や原までは)、公的な場でも、普段の智慧を發揮し得たが、やがてさうはゆかなくなりました。
    これは、ずうつと續き、普段は勉強がよくでき、常識も備へた學生が、たとへば60年安保などに際しては、白癡・狂人のやうになるのを、私も目前に見ました。これは公と私、あるいは、社會と日常の差の激しさに堪へられないのだと思ひました。

    これを、レーヴィットは「一階と二階」に譬へたのだと思ひます。
    かく日本人は變質したと申すと、見かけが、ちよつと司馬史觀に似るので、西尾先生に叱られる恐れがありますが、その點は、全く性質が違ふ旨、以前申し開きしたことがあります。

    この、日本人の「變質」について龜井勝一郎は別の言葉で、次のやうに言つてゐます。

    「維新前後に青春期を送つた十九世紀人が次第に滅び、日露戰役から第一次第二次大戰にかけて生育した20世紀前半の人が登場するこの交替は現代日本にとつて甚だ重要な意味をもつ」

    「武士の血統が滅びたといふことは、我々が豫想するよりもはるかに重大な事實にちがひない。後世の明敏な史家は必ず指摘するだらう」

    「何百年間日本人を支へた道徳の崩壞を指すのである。道徳なる言葉は甚だ複雜だが、これを日本人の背骨と言ひ換へてもよい。或る巨大な骨格が崩壞したのである。武士の道徳とは一種獨特の知性であつた。潔癖と忍耐と持續的エネルギーをもつた,ものに同ぜぬ知性であつた。明治の文明開化に、武士或はその子達が示した強靱な反應を思ひ出せば明らかであらう」

    「大正から昭和にかけて、これに代つて新しいタイプの人間があらはれた。
    『近代的知識人』である。西洋に關する知識においても教養においても、19世紀人に比すればはるかに複雜多樣になつたのは事實である。視野も擴大された。しかし内面から支へるいかなる道徳があつたらうか。骨格の崩壞の後にあらはれたのは、一種の知的軟體動物ではなかつたか。今から顧みると實に惠まれた時代にはちがひなかつたが、そこに生育した人間が、今日の敗北を準備したことを正視すべきである」(昭和29年)

    龜井は護憲派でしたが、それは商賣の都合でせう。この言葉には同感しました。これこそ、近代日本の背負ふ最大の、克服しなければ未來はない課題であり、たとへば漱石の「(日本は)滅びるね」(三四郎)、「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは畢竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」(こゝろ)などのせりふは、のちの「敗北」を見通してゐたや
    うな氣がします。

    勇馬樣、WGIPの猛毒にやられる前から、日本は傾き續けてきたといふのが私の持論ですが、貴見如何。

    假面

    私が輕はづみなことを申したために、話が混亂てしまひました。

    「彼女の強烈な、きはめて具體的な體驗談には少々水をさされた思ひだつた」までは間違ひありません。その後の、「しかし、その聯想が無理だとは思はなかつた」は正直ではありません。「その聯想は、先生の示唆されたものとはずゐぶん乖離してゐると思つたが、それを指摘することは控へた」と書くべきでした。いまだに、彼女の一喝に怯えてゐるのでせうか。申し譯ありません。

    「キャバレーにいた白系ロシアのホステス全員が終戦と同時にソ連共産党のスパイだったことが判明した」「女史の体験した『人との関係が瞬時に一変』したことも、・・・この類いで、仮面を被っていたのが露見した程度の話ではないしょうか」と解されて當然ですね。拙文からすると、さういふことにならざるを得ませんね。

    「政治家はみな”假面” で世間を渡る職業であり、”素面”を出すとたちまち落伍する、三島由紀夫の仮面は小説家、素面は愛国者と理解していますが、浅いしょうか」。 私の責任ですが、淺いですね。
    「人はそれぞれの相手に應じた假面を相手の數だけ持つている」のですから、一歩進めれば、同じ相手に常に同じ假面で接するとは限らないといふことにもなります。三島も時により違ふ假面を着けたのではないでせうか。
    當然、小説を書く時にも樣々な假面、愛國者としても樣々な假面をつけたことでせう。その他に素面もあつたらうが、それと假面の區別は簡單にはつけにくいと考へるのがよろしいのではないでせうか。
    私の不徳・不注意から、とんだ御迷惑をおかけしました。謹んでお詫び申し上げます。

    ブルータスよ

    勇馬樣もたうとう「〇〇シンパ」に。ブルータスよ、汝もか!? 私も、ブリュッセル女史の忠告に從つておくべきでした。呵呵

    幸か不幸か、西尾先生のお言葉を拜借すれば、「自民黨幹事長でもなく、官房長官でもない」のみならず、如何なる公的團體にも屬してをりませんので、シカト
    されることはあつても、正式の立場表明は未だ迫られてゐません。ぎりぎりまで
    粘るつもりです。多分、當方の持ち時間が切れて、終りになりさうです。
    勇馬樣は〇〇シンパでいらした(もしくは、そのふりをされた)方が、國の爲に活動しやすいかもしれませんね。御健鬪を。
    私は當分、愛國よりも、自身の精神衞生を大事にするつもりです。惡しからず。また御教示を賜りますやうに

  6. (4―37)「素面と仮面」についての解釈・・・。池田様と勇馬様から思いもよらず高いハードルを頂きました。とても手に負えない私は「当件を悉知している仮面」を被ることにします。

    「人がなんらかの行動を起こすには仮面を必要とする。仮面は作り物、嘘でもあり、自ら騙され幻惑されることでもあり、素面では行動を起こしえない。」と言い換えることが出来るかもしれません。

    西尾先生があるご講演で、「私たちは自分で自分を意識する(例えば、「意識している自分自身」を意識する私・・・)ことは出来るけれど、絶対に他人が私を意識することは出来ない。」と仰有っていました。私はそれこそが、つまり「対象化できない根源的な自己」が「素面」であると思います。他人は「自分の仮面」しか知り得ません。

    池田様は、西尾先生とのご対談本『自由と宿命・西尾幹二との対話』の第七章「ニーチェのはにかみとやさしさと果てしなさ」で、『ニーチェとの対話』第一章「友情について」から長い引用をされて、そこで「どれが仮面でどれが素面というような区別は、他人にはもちろん本人にも容易にできるものではない・・・」と仰有っています。素面、「対象化できない根源的な自己」の存在に気付き、向き合う努力無しには仮面にも気付かないかもしれません。

    「私たちは友の仮面を見ているわけだが、私たち自身も友に仮面を見せているにすぎない。しかし仮面とは別のところに、あるいはその奥に、本当の素面がある、とはたしてニーチェは言っているのだろうか。必ずしもそうとは思えない。(『ニーチェとの対話』第一章友情について「素面と仮面」22頁)」

    「 私たちは素面ではなく仮面を、真実ではなく嘘を、ときに大切にしていく必要があるのではないか。それは「嘘も方便」という、人間関係を円滑にする合理性のためばかりではない。その人間観の根本に関わる問題がここに横たわっているのである。すなわち人間はもともと他人の心のすべてをつかむことは出来ないという断念とペシミズムを、彼が持っているか否かが問われている。他人の心がわかった、と考えることは、自分の心が自分でわかった、と考える驕慢にも通じてはいないか。自分の心の中の悪には気がつかず、他人の悪にばかり目が行きこれを非難する短慮にも、道を通じてはいまいか。(『ニーチェとの対話』第一章・友情について「素面と仮面」23頁~24頁)」

    論を逸らしてしましますが、『ニーチェとの対話』の体験は池田様には遠く及ばずながら、実は私にとりましても懐かしい作品です。西尾先生のお名前も知らなかった高校生の頃(30年前)、書店で何の知識もなしに手に取ったことから、考えたことも無い思想、世界観に衝撃を受けて完全に心を奪われて、以来すっかり生き方の指針となって今日に及んでいます。

    長年西尾先生にお会いしたい気持ちも強かったのですが、次の『対話』の一節により慎んでいました。「 正直いって私はこういう青年に訪ねて来られるとたいがい困惑するし、迷惑である。彼は自分の問題しか眼中になく、ニーチェにしても、私の文章にしても、自分の気に入った言葉だけを拾い読みしているにすぎないからである。否、本人は丁寧に全文を味読しているつもりでも、結果的に、自分を正当化してくれる言葉、自分にのみ都合のいい言葉にばかり目が向いてしまう危険には、気がついていないのが普通だからである。(『ニーチェとの対話』第二章・孤独について「純粋さという錯覚」46頁)」

    西尾先生は『ニーチェとの対話』が代表作とされていることに困惑されているのは承知していますが、私の青年期の大切な邂逅の記憶を少し記しました。最初に購入した本は誰かにあげてしまいもう手元になく、すっかり汚れてしまった平成五年第一七刷が手許にあります。

    牽強付会かもしれませんが、ブラームスは第一交響曲をベートーヴェンの第九に次ぐ作品に位置付けるべく長年費やして作曲して、その成功の翌年、伸びやかな作風の第二交響曲を作曲したといいます。『対話』の誕生と似ている気がします。もったいなくもブラームスがオペラを作曲しなかったように、西尾先生は小説や戯曲を発表されていません。またブラームスは「自由だが楽しく(Frei aber froh)」をモットーとして、第三交響曲でも冒頭から3つの単語の音列を用いていますが、むしろブラームスの作風は「自由だが決然と(Frei aber entschlossen)」していて、モットーとしてはこちらのが似合います。私にはそれが西尾先生の作品と生き方そのものと思えてなりません。(「決然と」は音楽用語であれば伊語の“risoluto”を使うのでしょう。)

    また話は全く変わって、世界情勢の劇的な変化、近傍では北朝鮮のミサイル技術の著しい進歩とその猛威が日々高まるいっぽう、我が国の主権放棄の酷さ、政治の機能不全ぶりに憤懣やるかたありません。昨年末に刊行された『全集第一六巻 沈黙する歴史』に単行本『私は毎日こんな事を考えている』が収録されていますが、平成一五年頃に西尾先生が投げかけた諸問題がお座なりのまま、更に深刻になって私たちに襲いかかっているように感じます。『全集』に触れることが、過去ではなく今現在の体験であることを実感しております。

    1. 阿湯葉 樣

      大變なお手數をおかけしました。眞摯にお答へ下さり、感謝に堪へません。

      一應拜讀しましたが、いま時間がなく(間もなく2泊の旅にでます)、(4-37)について、お説によりきちつと把握するところまでは行つてゐません。
      申し譯ありません。來週にでも改めてじつくりと考へてみます。

      「 正直いって私はこういう青年に訪ねて来られるとたいがい困惑するし、迷
      惑である。彼は自分の問題しか眼中になく、ニーチェにしても、私の文章にし
      ても、自分の気に入った言葉だけを拾い読みしているにすぎないからである。
      否、本人は丁寧に全文を味読しているつもりでも、結果的に、自分を正当化
      してくれる言葉、自分にのみ都合のいい言葉にばかり目が向いてしまう危険
      には、気がついていないのが普通だからである」(『ニーチェとの対話』第二
      章)
      により、阿湯葉さんは、躊躇されたのですね。私が先生にアプローチを試み
      たのは、『對話』の出る前でしたので、めくら蛇に怖ぢずでした。

      先に書いておいた、勇馬さんへのお答と共に、以上を、取り敢へず投稿しま
      す。失禮の段お詫びします。 (5月26日)

  7. 阿湯葉様の哲学的ご回答が出たあとに本題の「仮面と素面のアフォリズム」から離れるのは気が引けますが池田様の刺激的文章に啓発されて拡がった連想を記すことをお許しください。

    原敬と陸奧宗光との関係さえ知らず、『原敬日記』も『ふだん着の原敬』も知らず、ただその風貌と「一山」と号した反骨、平民宰相の経歴、悲運の最期からのみ尊敬できる政治家と(皮相的に)思っていました。暇に任せてご示教の本を読んでみるつもりです。

    『蹇蹇録』さえ読んでいませんので本来池田様と議論できる身分ではないのですが、その引用された片言の内容が実に的確で、且つ表現が格調高いので、池田様の省略したと思われる部分を、横着ですが、ネットで検索した結果、以下の箇所を見つけました。いずれ全文を読みますが、現在の日本を取り巻く極東アジアの情勢を彷彿とさせ、韓国は昔と寸分違わないことを知りました。

    「朝鮮半島は常に朋党争鬩、内訌暴動の淵叢にして事変のしばしば起るは、全くその独立国たるの責守を全うするの要素において欠くるあるに由ると確信せり、而して我が国とは一葦の海水を隔てて疆土殆ど接近し彼我交易上の重要なるは論なく、総て大日本帝国が朝鮮国に対する種々の利害は甚だ緊切重大なるを以て、今日彼の国における如き惨状を拱手傍観しこれを匡救するの謀を施さざるは隣邦の友誼に悖るのみならず、実に我が国自衛の道においても相悖るあるの誚りを免れざるに依り、日本政府は朝鮮国に安寧静謐を求むるの計画を担任するにおいて毫も遅疑する所なかるべし」。

    伊藤、山縣、陸奥ら明治政府首脳はこの基本認識の下に、日清戦争を遂行し勝利したのですから、天晴れと言うほかなく、今更ですが胸のすく思いです。一葦の海水を隔てただけの隣国朝鮮の開国と近代化が日本の「自衛(安全保障)の道」であるとし、そのためには先ず朝鮮の対支隷属を止めさせる以外になく、従って日清戦争は不可避と決断したわけです。

    現在、北の人民の困窮、政権の暴戻、南の政治の朋党争鬩、内訌など、半島は1880年代の朝鮮さながらの「惨状」を呈しており、日本政府は朝鮮半島の安寧静謐を米国とともに求める計画を策定するにおいて毫も遅疑してはならない状況ですが、マスメディアの報ずる記事を見る限り、殆ど主導的な動きはなく、北に向かっては、対日レッドラインは疾うに超え、国民の安全がすでに危殆に瀕していながら「遺憾」と「厳重抗議」のバカのひとつ覚え、南に向かっては「いい加減な合意」でお茶を濁し、国連の得体の知れない拷問や人権の委員会からは罵詈雑言を浴びせられてもまともな反論もしない惨状を呈しています。

    明治期の日本の国際社会での振舞は池田様ご指摘のとおり見事です。朝鮮との日鮮修交条規(江華島条約―明治9年・1876年)、清国との天津条約(明治18年・1885)そして日清戦争(明治27年・1894)に至る流れは、仰るように、「清に對して戰端を開きたくて、うずうずしてゐた陸奧(外相)が、ありとあらゆるものを利用して、その方向に進まうとしてゐたことは明かでした。彼は「有效であれば」といふ條件さへ滿たせば、手段を選びませんでした。そして、最も適切な時期に、最も適切な形で、戰爭に持ち込むことに成功しました。」

    しかしこの表現はここだけ引用すれば、「日本が好戦的な侵略国家だった」とのご主張と誤解されかねません。決してその意図でないことを池田様のカットされた蹇蹇録を辿って明確にします。

    その前に以下、日鮮修交条規(明治9年・1876年)の第1条を確認します。

     「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ。嗣後両国和親ノ実ヲ表セント欲スルニハ彼此互ニ同等ノ礼義ヲ以テ相接待シ、毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラス。先ツ従前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ、務メテ寛裕弘達ノ法ヲ開拡シ以テ雙方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ」

    今この条約を締結し直すことを南北に持ちかけてはどうでしょう。朝鮮半島は明治期と同様、隣国の事実上の影響下にありますので、「韓国朝鮮は独立国にして日本国と平等の権利を保有する」と宣明する意味はあり、現在の日韓関係に「礼義を以て接待する」ことを確認する意義があります。「従前の諸例規を悉く革除」というのも現在の法律用語の「完全なる合意(entire agreement)」に相当し、昨年の日韓合意の「不可逆的」よりは優れています。

    以下は天津条約(明治18年・1885)に関する蹇蹇録です。池田様が陸奥を高く評価するのも此のあたりでしょうか。

    「清国政府が常に己の属邦なりと称する朝鮮に駐在せる軍隊を、条約上より撤回せざるを得ざるに至りたるのみならず、将来如何なる場合においても同国へ軍隊を派出せんとするときは、先ず日本政府に『行文知照』せざるべからずとの条欵を具する条約を訂結したるは、彼にありては殆ど一大打撃を加えられたるものにして、従来清国が唱え居たる属邦論の論理はこれがために大いにその力を減殺せしことは一点の疑いを存せず」。

    天津条約は、「これ単に日清両国が既定の条約に依り朝鮮に軍隊を派出するの行文知照のみ。しかれども彼よりの照会に存する保護属邦の文字に対しては、我は既に黙止する能わず。而して我よりの照会に対しては彼また数多の詰問を試みんとせり。平和いまだ破れず干戈いまだ交わらざるも、僅かに一篇の簡牘中既に彼我その見る所を同じくせずして、早くも甲争乙抗の状態を表したる此の如し。別種の電気を含める両雲は已に正に相触る。その一転して電撃雷轟となるは形勢において甚だ明らかなり。しかれども我が政府はなおこの危機一髪の間にも、なるべく現在の平和を破裂せしめずして国家の名誉を全うするの道を求めんとし、専らこれに汲々したり」

    安倍政権をふくめ戦後の日本政府は、外国政府の不当な言動に対して「詰問」することも「反論」することもせず、「現在の平和を破裂せしめずして国家の名誉を全うするの道を求めん」としたこともなかったと思います。陸奥(明治政府)のこの外交姿勢は古今東西を問わず一国の当然のことと思いますが、戦後の自民党政権に何故出来ないのでしょうか?

    「我はなるたけ被動者たるの位置を執り、毎に清国をして主動者たらしむべし。またかかる一大事件を発生するや外交の常習として必ず第三者たる欧米各国のうち互いに向背を生ずることあるべきも、事情万やむをえざる場合の外は厳に事局を日清両国の間のみに限り、努めて第三国の関係を生ずるを避くべし」「この廟算は初め伊藤総理と余との熟議に成り、特に多くは伊藤総理の意見に出て当時の閣僚は皆これを賛襄し、聖断を仰ぎたるものなれば、日清交戦中我が政府は終始以上の主義を以て一貫せんことを努めたり」

    日本に対する欧米列強という国際社会の干渉を防ぐため、清国にこの戦争の「第1発」を撃たせ、日本はやむをえず応戦する外観を作出する戦略は太平洋戦争のルーズベルトの対日戦略であり、ルーズベルトが陸奥の知恵に学んだとすれば陸奥は浮かばれません。

    日清開戦の前に、日本は朝鮮の財政、政府人事、治安維持、政治全般にわたる「共同内政改革」を清に提案しています。陸奥外交の特色は、6か国協議のごとき戦後日本外交得意の受け身ではなく、終始、主体的積極的主導権で関係国をリードしたことでしょう。現政権の虚しい「積極的平和主義」と違い、実質があるので相手国のボディに強く響きます。この朝鮮改革提案を出しても到底清が請けるとは考えないが、「清国政府にて我が提案に同意せざる場合においては、我が国自ら単独に韓国内政の改革を担当すべしとの決心をなし置かざれば、他日あるいは彼我の意見衝突したる時に及び我が外交上の進路を阻格するの恐れありと思料したり」

    日本の平和と独立を保つには、隣国朝鮮の自立が要件であり、宗主国である清にこれを認めさせなければならず、清が平和裡に肯じなければ、已む無く武力を行使するという当時の常識的思考に基づく冷徹な戦略。この戦略に則った改革提案であり、この提案には以下の一文が付加されていました。

    「若シ清国ニ於テ我意見ニ賛同セザルトキハ帝国政府の独力ヲ以テ朝鮮政府ヲシテ前述ノ政治改革ヲ為サシムル事ヲ努ムル事」

    中村燦氏は「大東亜戦争への道(42頁)」で、「内政改革は、開戦の口実というよりは、清との一戦を覚悟した上での提議であったと解釈する方が歴史の実態に忠実ではないか」と記述されていますが、これは解釈ではなく、史実そのものであったわけです。

    蹇蹇録はさらに、「今や我が外交は百尺竿頭一歩を進めたり。向後一縷の望みは、僅かに清国政府が果して我が提案に賛同するや否やに係れり。もし清国政府にして如何なる処置に出るも、いやしくも我が提案を拒絶するに及べば我が政府は固より黙視する能わず。よって以て将来あるいは日清両国の衝突を免れざるべく、我は竟にやむをえず最後の決心を実行せざるを得ざるに至るべきなり。しかれどもこの決心や、最初帝国政府が朝鮮に軍隊を派出せし時において業に己に定めたる所なれば、今に及びて毫も躊躇するの謂れなし」

    池田様は、「これを大東亞戰爭と比べれば大變な違ひです。後者は(陸奧が「朝鮮の内政などどうならうと、知つたことか」と考へた日清と違つて)、基本的に聖戰でしたが、戰ひたくないのに、ずるずると引きずられたり、戰ふべきところで、妙な佛心や讀み違へのせゐで躊躇したり・・・とヘマが續きました。マッカーサーに言はれるまでもなく、「これが同じ國?」と思ひたくなります。」とお書きになっていますが、「陸奧が「朝鮮の内政などどうならうと、知つたことか(朝鮮内政の改革を以て政治的必要の外何等の意味なきものとせり)」と云ったのは、あくまで「日本の政治的必要の外」という条件付きであって、日本のnational security上の必要から(義侠からでなく)改革が不可欠であると陸奥が言っていることは当然分かっておられると思います。そして大東亜戦争も、ヘマが続いたことは否定できませんが、アジア植民地解放の聖戦の側面の他に、マッカーサーも認めたように基本的には自存自衛の止むを得ない戦争でした。前線での日本将兵の勇戦も日清戦争と大東亜戦争に根本的違いはないのではないでしょうか。

    昭和に陸奥が生きていたら、①対米戦争不可避を前提に、平和外交を積極的に仕掛け、先に米国に手を出させて、米国世論を非戦に誘導する、もしくは②対米戦争を絶対回避するために矢張り平和外交を駆使する、そのいずれの場合も日本の敗戦はあり得なかったと思います。

    マッカーサーの「これが同じ国か?」は戦前の昭和日本ではなく、寧ろ平成の日本に当てはまるのではないかと考えます。戦前の松岡外交は立派でした。平成の日本外交は、歴史戦のやられっぱなし、敗けっぱなしは、陸奥、小村、松岡には考えられないほどの惨状でしょう。

    「賢こ過ぎるほど賢かつた日本人が、どうして今のやうに魯鈍になつてしまつたか」については以前に論じたテーマになってしまいますが、私は「賢愚」よりも寧ろ「気概」と「勇気」つまり「決然たる心」の喪失が問題にされるべきと考えます。

    今月15日は上野彰義隊の150回忌慰霊祭でした。因州兵の裏切りと宇和島藩の新兵器によって慶応4年のこの日わずか半日で勝敗が決しましたが、上野戦争は戊辰戦争の関ケ原であり、この戦いは会津の抵抗と並んで維新史に花を添えたと思われます。18代宗家が原稿なしの御挨拶で「彰義隊士のこころを偲び徳川家を代表して慰霊する」と述べ、16歳だった14番隊士村上光實は、「不義に屈して生き延びるより死して義を貫く」ため参戦し、その後、大日本武徳会創立に関わり三重県の政治に多大な貢献をしたとそのご子孫から伺いました。「日本人がWGIPの猛毒にやられる前から、日本は傾き續けてきた」といふご意見に賛成です。彰義隊、白虎隊、神風連らの死とともにその「こころ」が滅んだことで日本は大きく傾いたと思います。明治の近代化によって「1階と2階に分離した」という理論よりも、亀井勝一郎の「日本人の背骨だった武士の道徳、一種獨特の知性、潔癖と忍耐と持續的エネルギーをもつた骨格の崩壞」が大きなエポックになり、それでも戦前まではなんとか持ちこたえたものの、WGIPで止めを刺され、西尾先生の「第2の敗戦」に繋がった、第1の敗戦、昭和の戦争の敗北は、明治の戦争を勝利に導いた陸奥のような外交の知恵を喪った、陸奥のような外交を担う人材にめぐまれなかったのが原因と考えます。明治と昭和の断絶、戦前と戦後の断絶、この2段階の劣化がいまの日本の惨状を招いたのではないでしょうか。

    池田様は、「亀井勝一郎の推論」をレーヴィットの「一階と二階の譬へ」の「別の言葉」と評価されますが、私にはこの2つのつながりが理解できません。というのも私にはレーヴィットは理解できず、亀井には賛同できるからです。高校時代に亀井の著書を読み、強く共感した覚えがありますが、その内容は忘れており、記憶に沈んだ亀井の言葉を今自分の意見として述べているのかも知れません。亀井の「武士の血統が滅びたといふことは、我々が豫想するよりもはるかに重大な事實にちがひない。後世の明敏な史家は必ず指摘するだらう」に「名を惜しむ廉恥心を喪失した」を加えたいと思います。
    以下、日本国の「惨状」打開の方策です。

    1. 蹇蹇録の文体には初めて接しましたが、声に出して読むと清々しい気分になり、書く者のこころ映えと凛々しい緊張感がひしひしと伝わります。沖縄戦での大田中将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」にもこの精神を感じます。漢文脈の文語体で書けばその精神になるのか、その精神が文語体となるのか、鶏と卵でしょうか、失敗すれば切腹する覚悟、生命を掛ける責任感は亀井の云う武士の魂につながり、江戸の遺産を明治の為政者、軍人が継承したために、外交でも戦闘でも優位に立てたのであれば現在への処方箋は、エリートは「文語体、旧仮名遣いで日記を書くべし」ということになります。

    2. 行政、司法、立法、マスメディアのすべての分野で陸奥のいう「義侠」すなわち妙な正義感がはびこっています。言葉狩りもこの延長線上です。国連尊重、世界遺産登録もしかりです。そんなものは「仮面」でよく、「素面」は陸奥の「第一に我國の利益を主眼とするの程度に止め之が爲め敢て我利益を犧牲とするの必要なしとせり」のごとくジャパンファーストを徹底して追求する精神を行政、司法、立法、マスメディアのすべての分野で日本人が共有すべくエリートを教育する。

    長くなりましたので最後にブルータスより。
    「〇〇シンパ」は仮面で方便です。サラリーマンの仕事は結果をだすことが全てでした。ブリュッセル女史の衣鉢を継ぐ國士を気取るネットの一草莽に過ぎませんが私(自身の精神衞生)よりも公(愛國)を大事にすることで何とか周囲を折伏し世論を変えることを目指したいと思っています。安倍政権に兆した僅かな変化にしか日本変革の種を見いだせない以上、そこをテコ入れするのが有効であり、方便としてのシンパは左翼に対する仮面であり、エセ保守には素面で尻を叩くつもりです。

    以上、アフォリズムへの浅薄な理解に基づくまとまりのない床屋談義の域を出ない議論に最後までお付き合い頂き有難うございました。返信

    1. 勇馬 樣

      恐れ入りました。ネットでの書物の檢索については、聞いたことはありますが、
      自分では出來ません。こんなにも出てくるのですね。

      たくさんお示し下さり、懷しく讀みましたと、申したいところですが・・・。一度通讀したことは間違ひありませんが、かすかに覺えてゐることが僅か、完全に忘れてゐる部分も・・・。

      しかし、適切に引用して下さつたせゐでせう、そこまでやつたかと、あの頃の日
      本に改めて感歎し、さういふ歴史を持つ國民の一員たることが嬉しくなりました。

      といつて、當り前のことができる國だつたといふことだけですが。「社會凡俗の輿論」の囂々たることは、今と同じですが,それをなだめたり、ごまかしたりさらには利用までして、國をまともな方向に持つて行く人がゐた、そして、それによつて國が動くといふ、しあはせな状況にあつたことを再確認しました。

      さてそこで、そんなまともな國が、どうしてこんなにひどいことになつてしまつたのか、ぜひ見究めて匡さねばならず、レーヴィットの「一階と二階の譬へ」は、その有力な手がかりだと思つたのですが、御理解いただけないとは殘念です。

      もつとも、私もこれを竹山道雄先生から教はり、眼前の60年安保の光景に、
      これだと思ひ、今日に及んでゐるので、あるいは思ひ込みかもしれませんが。
      レーヴィットはたしか、ニ階には西洋の學問が、紐を通したやうに竝べられてゐ
      ると言ひました。

      私には、西洋の近代社會を模して、突貫工事で築き上げられた、日本の近代社
      會が「ニ階」と見えました。「一階」は勿論、國民一般の日常、個人の生活する場といつことを指します(これはレーヴィットも同じでせう)。

      私の親しい友人數名は、勉強もでき、禮儀正しく、情誼に厚く、平素附合ふ上で
      は申し分なかつた。(以上が一階)
      ところが、彼らは、一旦日常(一階)から離れた、たとへば日米安保條約改定な
      どといふ社會的テーマに接すると、狂氣のやうになつた。これは、日常の感覺
      (一階)がふつとび、といつて、新たな、二階用の社會的感覺も得てゐなかつた
      ので、どうしたらいいか分らず、唯一の智慧は、周邊と全く同じやうに振舞ふこ
      とだつた。皆同じなら、自分だけ責められることはない。それ、ワッショイワッショイ。(以上が二階)

      これは、急ぎに急いだために、そこにできた社會と、國民の日常に著しい隔りが
      生じた、後者(一階)の健全な智慧が、前者(二階)にあつては發揮できなくなつてゐるのだ。彼等だけの責任ではない。近代日本の悲劇であり、彼等も犧牲者
      なのだ。そんな風に考へました。

      どうも、たどたどしい言ひ方ですね。勇馬樣、納得していただけないでせうね。大事なポイントだと思ひますので、お時間をいただければ、もつと考へ、工夫した上で改めてといふ意欲は十分にありますが。

      「蹇蹇録の文体には初めて接しましたが、声に出して読むと清々しい気分になり」、さうですか。私はさういふ感じをもつたことはありませんでしたが、あれだけ充實した内容ですから、當然かもしれませんね。我が聖典をかくおつしやつて頂き、欣快至極です。

      「安倍シンパ」とされて、邦家の爲の御盡力を願ひ上げます。私は、轉向した方が、自身に樂な場合に限り、躊躇なくさう致します。
      なほ、「仮面」とか「方便」とかは、あまりおつしやらない方がよろしいのではないでせうか。どこに、どんな目や耳があるか分りません。文科省の前事務次官だかが、血祭に上げられましたね。安倍さんを見縊るのは危險でせう。(もつとも、その役人は、腹に据ゑかねたのか、反撃に轉じたやうで、役人をクビになつたばかりの素浪人に刃向かはれるやうでは、安倍さんなんて怖くないとも言へるのかもしれませんが)

      第2次安倍政權からですか。内閣官房人事局といふものができましたね。官房長
      官の主導かもしれませんが、あれにはゾッとします。全省廳の局長・局審議官(次長)以上の役人人事は、ここが一手に行ふといふものです。そんなことがうまくいく筈がありません。明らかに亡國への道をたどりつつあります。

      あれだけの役所の、あれだけの役人の全てを一箇所で把握することは不可能です。明治以來、試行錯誤を重ねながら、役所の人事はそれぞれにやらせるといふことに落ち着いたのです。それは、何度も忌はしい結果をもたらしたが、それよりもベターなやり方が見つからなかつたのです。

      勿論、形式的には、あらゆる役所の人事の最終的權限は總理大臣(官邸)にあります。各省は大臣により、官邸につながり、総理の指揮下にあるのですから、當然です。從つて、官邸が個別の官廳人事に介入してくることは、以前からありました。
      私が眼前に見て、
      最も印象的だつたのは、郵政民營化騷ぎのさなか、總務次官内定とされた、同省
      總務審議官(郵政系)が、總理祕書官によりクビを切られたといふ例です。これは、必ずしも非議すべきことでないかもしれません。時の政權の最高方針(しかもそれは、それを唯一の爭點とする衆院選により國民の支持を最近得た)に對して、十分忠實でない役人がゐた場合、これを排除する權限が總理にあることは否定できません。最終的にことを決めるのは、試驗を通つただけの役人ではなく、選擧で國民から選ばれた政治家であるべきは、言ふまでもありません。

      しかし、人事への個別介入は例外です。
      役人どもよ、よほど理不盡な反抗をすれば別だが、基本的にはいきなりクビなんてことにはしないから、安心して、自分の能力を發揮せよ。君らも試驗に受かつたのだから、頭はいいんだらう、それをフルに使つて御奉公せよ。もちろん、時には大臣の顏色も見よ、たまには總理の意向も忖度せよ、でも、あまり怯えるな、そしてまづ役所の傳統に從ひ、先輩の訓へに忠實であることを第一とせよーーといふことにしておけば、役所は最も效率的に機能するだらうと永年の智慧により決めたのです。

      それを、人事の一元管理ですと! よくは知りませんが、どこかに、かなりりヨコシマな意圖が働いてゐるやうな氣がします。これに對して叛亂が起きないのが不思議ですが、徹底的に肝つ玉も何もかも拔かれてしまつてゐるのかもしれません。
      舊知の役所を覗くと(そこの特殊事情を別にしても)、およそ活氣も霸氣も、仕事への熱意も見られません。目が行く先は、官房人事局ばかり。以前を多少知る者には隔世の感です。荒廢しきつてゐます。少しだけですが、傳へ聞く限りでは、他の役所も似たやうな姿らしいですね。

      毎年の人事を官邸に握られてゐるとあつては、そりや、意氣も上りませんね。
      私の知つてゐる姿とはえらい違ひです。嘗て、私と同年で仲のよかつた男が祕書
      課長の時、「部外者には本當のことは教へないよ。大臣なんてのは部外者だから
      ね」とうそぶきました。そこまで馬鹿にするのも如何かと思ひましたね。しかし、陰で私などに、そんなことを言つても、常識もあり、勘所をそつなく押へる才にも惠まれてゐたので、事務次官まにで上りつめましたが、その途中、小泉郵政大臣の時は、官房長を務めてゐました。そして、『フライデー』に「大臣にソッポを向く官房長」といふタイトルの、見開きの大きな寫眞を掲げられました。「俺は大臣にソッポを向いたことなんてない。あれは合成寫眞だ」と怒りました。これは彼の言ひ分が正しい。そこまで、非常識な、あるいは” ソツ ”のある男ではないと思ひました。あの頃、小泉大臣と役所の不仲は、マスコミに面白をかしく傳へられてゐましたが、その一材料にされたのでせう。

      夜更けて、近くの酒場には、そこの役人どもが、事業と行政(兩方をやつてゐたので)の理想を語り、その實現のために、どの政治家を使ふ、既にこんな手を打つたなどと、法螺を吹き、氣焔を上げた、あの熱氣はどこに行つたのか。昨年の秋、數人で探訪を試みたが、あの頃の飮み屋は大抵なくなつてゐました。

      私は、明治入省から昭和60年くらゐ入省までの樣々な役人を見て、その中のかなりの人々がきはめて優秀で、お國に貢獻してゐると、しばしば實感しました。從つて、一般の役人觀には牴觸することでせうが、たとへば繩張爭ひなども、必ずしも惡いことばかりとは思つてゐません。
      官廳は原則獨占ですから、何かの刺戟がないと活氣が生れません。一つの仕事
      を、これは俺の仕事だと複數の役所が奪ひ合ふのを見て、ここには竸爭がある、熱意がある、これはいい結果を産むかもしれないと、感じました。自分の方がやれば、かうやつてみせるといふ理想と方策を必ず語るからです。反對に、これは俺の仕事ぢやないと押しつけ合ふやうになつたらおしまひだと思ひました。

      戰前の大物官僚から、昨日は商工、今日は農林と鬪ふのだと、血刀を引つ提げ
      るやうな氣分で、毎朝役所を出たと言はれ、なるほどと聞き入つたこともあります。

      役人に月給を拂ふ以上、彼等の能力を最大限に活用すべきではないでせうか。
      一元管理の名の下に、彼等を宦官のやうにしておいていいのでせうか。

      人には大抵、上に媚びて、自らを引上げてもらはうとする習性がありますが、これは必ずしも排除すべきではなく、上がうまくこれを扱つてやれば、インセンティヴになることもあります。しかし、その適性規模は、各役所の中でせう。日本中を一本にされたのでは、そんなんに遠い存在に對してどう媚びれば、どう忠節を盡せばいいのか分らなくなつて、士氣が落ちるのが、關の山でせう。

      安倍さんに、獨裁だの、ファッショだのといふ意志も能力もあるとは思ひせん。しかし、時の勢ひといふものがあり、それに乘じた、各種畫一化の、忌はしい、陰謀めいた動きがあるなどといふ噂も聞えてきます。

      もう一つ、小選擧區制。このために派閥抗爭がなくなつたのは、勿論制度の當初
      に目指したメリットですが,大事な活氣までなくなつてしまひました。議員でゐるためには、總裁と幹事長のおぼえをめでたくし、公認さへしてもらへばいい。私の住む所でも、事情通によると、自民黨議員(いはゆる2期生)の、選擧區での活動は極めて鈍いさうです。民進黨に負ける恐れのあるほどの弱い候補者でない限り、選擧區に自民黨の竸爭相手がゐないのだから、まづ、自分のものだらうと、のほほんとするのは當然でせう。活氣のないこと甚しい。
      かくして、公認權を握つた者が、半永久的に力を保つことになります。以前のやうに、反對勢力(反主流派)の活動する場がなくなつてしまひました。權力者が、いつ寢首をかかれるかと怯えることもなくなりました。
      多くの場で、竸爭がなくなり、自然に獨裁的な風潮が生れてきます。派閥が總裁の座を鬪ひとるといふことがなくなつたのですから、派閥を經營し兵を養ふことをしなくとも、總裁になれるし、一旦なつてしまへば、當分安泰といふことになります。靜かでいいとも言へますが、なんともしまりのないことです。

      安倍さんは無能だけれども、さしたる惡意はないと思ひます。しかし、安倍さんを擔ぐ連中の動きいかんによつては、相當危險なことになる可能性もありさうです。擔がれる神輿がやり手だからではなく、ボンクラであるために、かへつて、をかしな力を得てしまふことは、よくあります。

      ブリュッセル女史が、安倍體勢を、昔の左翼に似てゐると評し、私も同感したことがあります。彼女によると、彼らは、氣に入らないことを言はれると、反論せずに、いきなりシカトで應じるといふのです。

      餘計なことを申しました。「安倍シンパ」とされて、ブルータス樣の縱横無盡、神出鬼沒の御活躍を期待してをります。

  8. 惨状の打開

    話が逸れてきましたが、逸れた先が大変興味深く、本ブログにふさわしい本質的問題と池田様も考えられておられると推測しますので敢えて続けさせて頂きます。

    1.「一階と二階の譬へ」は日本の近代化の歪みに関する本質的説明を試みるものですが、私の充分理解できないのは愚鈍の故で、明敏な読者の方々は疾うに理解されていると思われます。恥を忍んで正直に御説が腑に落ちない理由を告白しますので、ご面倒かとは思いますが一層のご教示を賜りたいと思います。見当違いの設問であれば無視してください。
    “明治以降、西洋の近代社會を模して、突貫工事で築き上げられた、日本の近代社會が「ニ階」で、ここに西洋の學問が、紐を通したやうに竝べられてゐる。「一階」は、國民一般の日常、個人の生活する場”という御説に関して:
    ① 「日常感覺」や「人格」や人間性、「健全な智慧」といった個人の次元と、明治に急ぎ過ぎて作り上げた(日本)社会の次元は根本的に異なり、直接比べることのできない次元のものを比べておられないでしょうか?
    ② 御議論は、易しく言い換えれば、「日本の近代社会が日本人の地に足が付いていない、板につかない近代化」と理解しましたが、それは明治期の2階に関することで、昭和の安保反対の喧騒とは時代がずれていないでしょうか?戦後の昭和まで2階を引きずっていると仰るのでしょうか?
    ③ 「二階用の社會的感覺も得てゐなかつた」デモ学生が社會的テーマに接して、「狂氣のやうに周邊と全く同じやうに振舞」った付和雷同の行為と、「急ぎに急いで出来た日本社會と、國民の日常との著しい隔り」との間に因果関係があるのでしょうか?
    ④ 戦後の日本社会の歪みはGHQからの外発で、しかも受動的。明治の日本社会の歪みは西欧からの外発であっても、自主的、能動的であったので、両者を一律には論じられないのではないでしょうか?

    一方、武士道の喪失による説明は、嘗て亀井勝一郎の所説に馴染んだせいか、少しの違和感もなく腹に収まります。幕末開明官僚の小栗忠順、水野忠徳、岩瀬忠震ら俊秀が生き残って日本外交を継続していたならば陸奥に優るとも劣らない活躍をしたのではないかと、榎本武揚の北方領土交渉の事績に鑑みると、断言できそうな気がします。自己責任、自己尊敬、自己犠牲の3拍子揃った士族的精神を叩き込む教育が今こそ望まれます。

    2.「内閣官房人事局」の問題を池田様のこの文章で知った読者も多いと思います。私は全く知りませんでした。池田様がこの問題を採りあげた理由は、霞が関の幹部人事が日本の将来を決める大きな要素になる、惨状を打開し、健全な外交や行政が行われる「幸せな時代」を回復するには、官僚制を最も效率的に機能させる人事が鍵になるとのご認識からと推測します。官房長官が内閣人事局を通じて一手に行う政治任用が「亡國への道」に繋がるとのご指摘ですが、他方、一部には、「霞ヶ関の革命」とも云われ、安倍一強の背景であると肯定的に捉える声もあるようです。

    私も、衆愚(大衆)の選ぶ代議士よりも公正で難関の公務員試験に合格した頭のいい連中に政治を任せた方が国民は安心でき、幹部の登用も閣僚ではなく、各官庁が決めた幹部を人事院が追認する100%内部昇進システムが基本的に望ましいとは思いますが、いま風俗通いの弁明が話題になっている前川氏や郵政官僚だった小西議員、検察にいた山尾議員、古くは平成8年、福祉を食い物にして私腹を肥やした厚生官僚、平成10年に発覚した接待汚職の大蔵官僚のような低劣高級官僚が生まれる根を絶ち、戦前、満洲建国に関与した武藤富雄氏や戦後、経済成長を指導した佐橋滋氏の如き「お國に貢獻」する人材を確保するには、これまでの内部での叩き上げに任せるのではなく、官邸の優れた特命チームがトップダウンで任用する幹部がその配下に優秀な人材を登用するシステムに変えるのも、不適格者を排除するための解決方法ではあると思います。尤も特命チームの質を確保する手段が次の課題となり、同じことかもしれませんが。いずれにしても駄目なトップの下には駄目な配下しか集まらないのが経験則です。現在、日本の政治トップの多くが2世、3世のボンクラです。世襲は皇室と歌舞伎など伝統芸能の世界で沢山。政治家世襲は戦後レジームの大きな弊害であり、これを改革するのが最重要であると思います。

    3.「内閣官房人事局」の看板を見ましたが、その書は不細工で醜いものでした。「文化庁」など最悪です。容姿の美醜同様、字の旨い下手はあまり言いたくないのですが、書道の心得のある中国人が見たら心中で馬鹿にするほどのレベルです。昔から、書は人なり、文は人なりと謂われ、字体と文章はその人間の精神を表現するとされてきました。美しい字、格調高い文を尊重する心を回復することも日本復活の一要素ではないかと考えます。因果関係は証明できませんが、パーフォーマンスの優れた明治までの政治家はその文も書も外に出して恥ずかしくないものでした。

    4.蹇蹇録の勝手な引用がお役に立ち、時間をかけた甲斐がありました。私も明治を含む戦前までの日本の歴史を知る限りで、一知半解は免れませんが、日本國民の一員たることに誇りをもてる心が愛国心なのだと思います。その心で戦後の「惨状」をみて、悔しさと憤りを覚えるのも矢張り愛国心の発露かも知れません。

    先の投稿で尖閣の危機について触れましたが、これまで尖閣史問題で幾多の優れた業績を残し、いまも縦横の活躍を続けている石井望教授が、尖閣に切迫した危機意識をもたず、教授の成果に無関心な保守勢力を、「愛国心」が足りない、と評しました。

    別の場所で尖閣問題を論じ、この後にも新しい知見をもとに重ねて論じるつもりですが、日本が尖閣を自衛隊によって自分で死守する覚悟なく、ハリス発言やトランプの保証に安堵し、安保条約や米軍に依存するならば、早晩、中国に盗られる危機が迫っていると思います。一旦、尖閣侵略を許せばドミノで沖縄から本土に及ぶことを予期しなければなりません。

    私は石井教授の主張である「尖閣への自衛隊常駐」を支持しますが、先日の石井教授を囲む懇親会で、諸先輩方から、「もし尖閣に恒久施設を構築したり、公務員を常駐させれば、戦争になる」と強く反論されました。しかし、戦争をする覚悟のある軍国(中国)と戦争を覚悟出来ない平和国(日本)が対決し衝突すれば、どちらが勝つかは火を見るよりも明らかです。「戦前までの日本」と「戦後の日本」の決定的違いがここにあり、これこそWGIP(日本弱体化)の見事な成果であり、国益を毀損し続ける戦後日本の不幸の根本に、この武力による解決が選択肢になり得ず、いざとなれば立ち上がる覚悟の喪失、があるのではないでしょうか。中国は現在すでに海空で侵略の予備行動に及んでいますが、さらに間接、直接の侵略・奪取行為の“実行に着手”すれば即座に武力で撃退する決意ができていて初めて日本は尖閣を確保でき、その決意や決然たる覚悟を具現化するのが常駐であり、常駐に踏み込んで初めて中国は奪取を断念し、「日本開放」などの野望も諦めると思われます。

  9. 勇馬 樣

    また、拙論にお附合ひ下さり忝く存じます。
    前にも申しましたが、貴論に對すると、こちらにも必ずなにがしかの發展
    があるやうに感ぜられますので、以下申上げます。まあ、自分の爲です。
    勉強したり資料を整へる勞を惜しまなければ、もつと爲になるのですが、
    怠け癖は直りません。

    「一階と二階」

    レーヴィットの言葉に最初に接した時、うまい譬へと感心し、以來なんの
    疑ひも抱かずにきましたが、あるいは一人よがりだつたのかもしれませ
    ん。勇馬樣のおかげで、考へる機會を得ました。

    實は、自分の言葉で説明しようと思ひましたが、やつてみてうまく行きま
    せんので、別のやり方に替へます。ただ、そのうまく行かなかつた構想に少し觸れさせて下さい(この部分、鬱陶しくお感じになつたら、すつ飛ばして、先の、竹山道雄先生の文の引用に進んで下さい)。

    ①「個人の次元」と「社会の次元」といふ「直接比べることのできない次
    元のものを比べておられないでしょうか」に對しては、つぎのやうにお答
    へするつもりでした。

    「個人の次元」(A・一階 )と「社會の次元」(B・二階 )を比べようといふのではありません。本來の日本におけるAとBの關係・繋がり(X )をまづ考へ、ついで、近代化の副作用によつてすつかり駄目になつた日本
    におけるAとBの關係・繋がり(Y)を考へ、最後にXとYの違ひを比べれば、どのやうに變つたかが分るのではないかと考へます。

    ②そのために、XにおけるAの例としては、たとへば鴎外の「澀江抽齋」における抽齋の家庭生活・友人との附合ひなどが適當ではないか。
    Bとしては、弘前城主の定府(江戸)の醫官としての、あるいは、近習
    詰めとしての彼の勤務の樣がよろしからん。
    AとBでは勿論、大きな懸隔があるが、仔細に見れば、兩者に共通す
    る、確乎たる感覺・智慧といつたものの存在が確認できるのではない
    か。そして、AとBの間に架かる梯子もあり、搖ぎない、あるものが全
    體を貫いてゐる、しあはせな時代であつたことが察せられるのではないか。
    さう考へました。そして、Aにふさはしい場面はすぐに、幾つも出てきま
    した。ところが、Bには、なかなかいい場面が得られず、「澀江抽齋」の
    最初からかなりの部分を讀み返したところで、取敢へず作業を中斷しました。狙ひは惡くないつもりなのに殘念!

    ③Yには、大正末期から昭和10年頃までの軍人を描いた小説または傳記を探しました。言ふまでもなく、あまり有能な軍人では困ります。舊大名の孫あたりが望ましい。
    彼は江戸時代からの武家の家風に基いた立派な躾を受けた。もののふの精神も叩き込まれた。その限りでは一人前の武人になつたとすら言へる(以上A)。
    彼の勤務する軍は兵器も組織もきはめて近代化され、近代戰に必要な全てを備へてゐた(以上B)。
    ここで彼は、Aで得たものを活用することが出來なかつた。Bは、明治
    の搖籃期に、その建設・整備に携はつた人々は否應なくなじみ、對應できたのだが、彼の時代のBは、既に完成したものとして、そこに儼然と存在し、彼はそれにAによる教養、知識を適用する術を見出せなかつた。
    そして、Bでは、彼に代表されるやうな、軍首腦による、たとへば世界情勢分析のための會議で、見當違ひの意見が飛び交ひ、彼等の無能・無定見ぶりが露呈する。これでは、他から侮られて、前途多難、さう思はせるやうな材料はないか。
    AにもBにも適當なものは見つかりませんでした。

    ④更にはマッカーサーの「日露戰爭時の軍人と今度の戰爭時の軍人」といふ言葉に應じるため、Zとして、大東亞戰爭時のAとB・・・。これは、探すこともしませんでした。XもYもできてゐないのですから。

    かくて、「自分の言葉で」は抛棄し、「別のやり方」に移ります(以上、
    長々と、不得要領の愚説を竝べ、恐縮至極です)。
    「戦後の昭和まで2階を引きずっていると仰るのでしょうか」、「GHQか
    ら」のものと「西欧からのもの」を「一律には論じられないのではない
    でしょうか」へのお答も、そちらによることとします。

    前に申したかどうか、私がレーヴィットのこの言葉を知つたのは、竹山道雄著『見て・感じて・考へる』(昭和32年發行。新潮文庫)の「あとがき」によつてです。原版がいつ發行されたのか知りませんが、中身が書かれたのは昭和24年~28年であると、著者が言つてゐます。

    てつとり早く、その「あとがき」から、數箇所を引用します。

    「・・・私は、進歩思想はもはや歴史の検討には堪えないものだと思っていた」

    「進歩主義の学生さんや文化人と議論をし教わり反駁した結果を、まことに舌足らずながら、書きつづけた。おかげで、私は札付きの反動ということになってしまった。自分ではどこが反動だか分らず、ただ意外なことになるものだとおどろいている」

    「そして、近年になって、いろいろな事件がおこり、ついにはハンガリア事件までおこったが、もう一度ああいう人の意見をききたいものだ、と思っている」

    「原版の『あとがき』に、つぎのようなレーヴィットの言葉をひいた。ー
    ー『日本の学生は懸命にヨーロッパの書籍を研究し、事実またその知力で理解している。しかしかれらは、その研究から、自分たち自身の日本的な自我を肥やすべき何等の結果をも引き出さない・・・。ヨーロッパの哲学者のテキストにはいってゆくのに、その哲学者の概念を本来の異国的な相のままにして、自身の概念とつき合わせて見ることをせず、自明でもあるかのような風にとりかかる。・・・ちょうど二階建の家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりしていながら、二階にはプラトンからハイデッガーにいたるまでの、ヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そして、ヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子はどこにあるのだろうかと、ふしぎに思う』」

    「この言葉は、われわれの思考のもっとも急所をついている。自分の心の真実から生れたのではない借用の抽象論はどうにでもできるものなので、それがついにはおそるべき知的不正直となった」
    (池田註:レーヴィットが東北帝大教授として、日本に滯在したのは、
    昭和11年~16年)

    レーヴィットのこの言葉を、私が60年安保の際の學生たちの觀察・分析に用ゐたのは、さほど的外れではなかつたと思ひます。
    ただマッカーサーの言葉と併せ考へ、結びつけるために、二つの戰役時の軍人だの、個人的感覺・社會的感覺だのと聯想を廣げたのは、自身だけで濟ますのなら、勝手かもしれませんが、それを文字にしたために、お附合ひ下さつた讀者(勇馬樣オンリーワン?)に餘計なことを考へさせ、とんだ御迷惑をおかけしました。

    なほ、西尾先生も『ヨーロッパの個人主義』で、この言葉(昭和15年に
    『思想』に掲載され、反響を呼んだ一文の一部である由)と他の數箇所を引用され、「全文、意地の惡い觀察にみちている文章だが、事態は當時と本質的にはさして變わってはいないように思える」と評してをられます。つまり同著の書かれた昭和43年頃の事態にも當てはまりさうといふことです。

    龜井勝一郎の所論についての御感想には同感です。「士族的精神を叩き込む」ことの大切さにも異論ありません。ただ、「精神」がどういふ意味
    で、どこまでを統べるものかを詰めなければ論じられないことですが、私
    としては、全ての源は、知力・感性などだと思ひます。その全き土壤にこ
    そ、武士道のあらゆる美徳も稔るのだといふ氣がします。
    陸奧宗光に於て、最も感ずべきは、その洞察力とそれに基く的確無比の行動力です。武士の精神があつたればこそとの見方も否定できませんが、私はどちらかちいふと、立派な精神を産む、ある大切なものがあるやうな氣がします。
    負けた戰爭について、あとからとやかく批評する卑しさ・愚劣さから免れたく、多くを申しませんが、第2次大戰での我が國の軍人には、勇敢なことは申し分なくとも、大局を見る目や、それに即應する能力を缺いた人がゐたことは否めません。それも、武士道が衰へたためとも申せませうが、とにかく、智慧の有無が決定的要素です。突撃の勇氣が全てではないと思ひます。

    なほ、小生の舌足らずのために、時に、勇馬樣と議論が噛み合はないこと
    がありますね。前々囘でしたか、「マッカーサーの『これが同じ国か?』は戦前の昭和日本ではなく、寧ろ平成の日本に当てはまるのではないか」とおつしやつたのには、改めて、意志の疏通の難しさを感じました。マック本人の眞意は別にして、平成の今の慘状は誰もが知つてゐるので、特に言ふまでもない、これに對して「戰前の昭和日本」は別世界のやうに思はれがちだが、必ずしもさうではない。既に頽廢の兆しも現象もかなりあつたことを見逃すべきではない、と私は言ひたかつたのでした。
    護憲・平和論者ではない勇馬樣と、かく行き違ふのですから、よほど注意しなければなりません。でも、いい勉強になります。

    官邸が高級官僚の人事を一手に握ることは、、「霞ヶ関の革命」といふキャッチフレーズで進められてきました。「肯定的に捉える声もある」のは當然です。以前のやり方に、樣々な難があることは否定できないのですから。これらについて、私は自分のごく僅かな見聞に基いて比べ、「革命」は「亡國への道」に繋がると申しました。
    自身の觀察と感覺にはある程度の自信を持つてゐますが、全體を調べた
    ことがなく、たとへば、今の國家公務員やキャリアの數も知りませんので、全體を體系的に論ずることはできません。從つて、斷片的なことを二三申すに留めざるを得ません。

    今のやり方を政治任用といふのですね。アメリカのそれが猛烈なことは聞
    きましたが、もちろん一長一短でせうね。アメリカの實態は勇馬さまが御存じでせうから、お教へいただければさいはひです。
    日本でも、戰前の政友・民政拮抗時代には、政權が變ると、村の巡査まで
    ・・・といつた話を聞いたことがあるだけで、よく存じませんが、あの頃の日本人のことだから、さう苛烈ではなかつたらうと想像してゐます。その後日本人も段々と西洋人や支那人に似てきて、殘忍性を蓄へたたやうだから、菅官房長官などは・・・と思つたりします。

    「いま風俗通いの弁明が話題になっている前川氏」との仰せで思ひ出しま
    した。テレビで、この人のことを興味深く見てゐます。異色の人で、加計學園事件とやらの解明に大きな働きを期待してゐますが、それは別として、3點申します。

    前囘、「官邸は遠過ぎて、媚びるのがむづかしい」と申しました。そのあとに付け加へるのを忘れました。「一方、監視の目がどこにあるかも分らず、疑心暗鬼になる」といふことです。元が省内限定でないのですから、容易ではありませんね。官房長官が「出會ひ系バー」に触れたのにはギクリとしました。

    もう一つは、事務次官時代の講演の動畫が流れましたが、「事務次官など、なにほどのこともない」とか言つて拍手を浴びてゐました。私はイヤな氣がして、ウソ吐けと言ひたくなりました。加藤一郎といふ人が「東大學長なんて、つまらない仕事」と言つたのを思ひ出しました。嬉しくてしやうがないことは、寫眞の顏を見れば明かなのに。
    試驗に受かつた役人にとつて、事務次官になることは、政治家が總理大臣
    になる以上に、この上のない最終目標です。嬉しくない筈がありません。家族や部下の前で時に、率直に、赤裸々に、その喜びを爆發させる樣はすさまじいものですが、私はさもあらんと思ひ、反感を催したことはありません。
    前川さんは「嬉しくて嬉しくて」と言ふべきだとは申しませんが、次官になりたくてもなれないで、退官した同期生のことを思ふなら、あんなせりふは口にすべきではでせう。

    以前は、退官直前の事務次官の意向に基いて、定期人事異動が行はれました。新體制になつた時には既に去つて、ゐない人ではなく、新體制を率ゐる新次官によるべきだと普通考へられますが、次官のレームダック化を防
    ぐためのやり方でした。もちろん、弊害もありましたが、永年の經驗から、それがベストと考へられたのでせう。

    さういふ慣行を一切無視した「革命」にどんなプラスがあらうとも、相當な問題も生じることは、理の當然です。政治家が權限を握るのがいいことだとしても、どの程度のノウハウを持つてゐるのか、疑問を感ぜざるを得ません。

    もう一つ、斷片的なことを一つ。50年くらゐ前でせうか。新任の資材部長が部下に對して、「ぜんぶ隨契(隨意契約)でやるくらゐの覺悟をもつて仕事をせよ」と訓示したと聞いて、強い共感を覺えました。
    今や、いよいよ、隨契は惡の根源といふことになつてゐますね。これをあながち否定することはできません。惡い役人にとつては、惡事を働く大きな誘因になるからです。

    しかし、その惡事が絶對にばれないといふ保證はありません。ここに、隨契の生き殘る餘地があります。これによるのなら、後に、萬一疑ひを受けた場合に、微塵の不正もないことを完全に説明できる準備をしなければならない。
    實にむづかしいことですが、眞に有能にして忠良な役人は、その勞をも厭ひません。然るのちに、存分に腕を振るひたいからです。

    公開竸爭入札(唯一の公正な方法とされてゐますが)なんて、あまり優秀でないロボットにもできます。價格・性能など數字化すれば、そこに人間による判斷は必要はありません。これに對して隨契は、極めつきの、優秀な人間にして初めてこなし得るものです。
    まづ、どこにどういふ製品を作る能力・事業があるかを調べ上げなけらばなりません。それらをリストアップして、これはと思はれるものを、幾つかに絞つて、それぞれに當ります。このあたりが腕の見せどころでせう。Aに對してBのことを語り、値段や性能を竸ひ合せるなども有效です。非公開の場でこそ、それは效果を發揮します。場合によつては、この次に儲けさせるから、今囘は泣いてくれと持ちかけるのも手です。

    いかなる手數を要しても、敢てそれに挑んで、最良の品を最低の値で手に
    入れ、國家に貢獻するーーそれを無上にして唯一の喜びとする、そんな役
    人もゐる(ゐた)のです。
    さうした驅け引きを重ねながら、永年の間に築いた、業者との相互信頼關係が、非常時に如何に大きな力となるかーーそれをオイルショック、紙不足に際して見ました。「永年お附合ひいただいたのですから・・・」と言ふ業者のことばに嘘はなく、ほんたうに心中するつもりだ、さう感じたことを覺えてゐます。

    役所のことをを見るだけではなく、自分の編輯といふ仕事の關聯から、紙屋さんとは大分附合ひましたが、たまたま初期の上司の、安い紙の賣り込みは頻繁にあるが、迂闊に乘つてはいけない。そんな安さは、いとも簡單にパーになる。永年の附合ひを大事にすべきだといふ方針に從つて、結果として、救はれたことがあります。勿論、相手が、切り捨てられる恐れのないことに安心して、胡坐をかいてゐると思はれる場合は、「紙屋はほかにもあるんだけど」とかなんとか、搖さぶりをかける必要があるのでせうが。物資調達擔當の樂しさ・喜びを少しだけ想像しました。

    存分に腕を振るはせるーーそれがうまくいつた結果、國の受ける利益が莫大であることを痛感したことが、何度もありました。「存分に」がとんでもない惡に繋がる場合もあり、もはや信じるに足る役人はゐないと言はれれば、反論できませんが、檢査の仕組み、惡事の處罰などを工夫することによつて、隨契のいい面を殘せないものでせうか。

    物資(サービスその他も含めて)購入は、役所も民間もそのやり方は基本的には同じ筈です。親戚のやつてゐる福祉團體がいま新しい部門に進出を計つてゐますが、そのための業者との契約のかなりの部分が、表面は公開竸爭入札であるかの如き體裁をとりながら、實質は、隨契で行はれ、それが團體にとつて、きはめて有利に作用してゐることを知らされ、面白く思ひました。
    そして、役所でも(最近の實態は知らないが)、國家國民に對して忠なるところは、同樣なやり方をしてゐるのではないかなどと想像しました。

    つまらない役人論で失禮しました。

    尖閣への自衞隊の常駐について。
    「もし尖閣に恒久施設を構築したり、公務員を常駐させれば、戦争になる」と強く反對した諸先輩とは、左翼人士ではなく、いはゆる保守派の人々であらうと想像します。そこに、日本といふ國の、殆ど救ひがたい姿が見えますね。

    自國領に對して當然なすべき「構築」や「常駐」を、これまで控へてきたから、戰爭にならなかつたのでせうか。それほどの配慮をする對象とは、どんな性質の國なのでせう。その國は、日本の配慮に免じて、今のところ、攻め込んで來ないのでせうか。配慮をやめたら、途端に・・・?
    なんだか變です。つまらない理屈にこれ以上附合ふつもりはありませんが、論理破綻をきたしてゐますよね。「諸先輩」の頭を解剖して調べたくなります。

    これまでの支那は、尖閣に樣々な違法のチヨツカイを出しながらも、決定的侵攻・占領に至つてゐないが、いつまでも、それで濟む保證はない。「日本が尖閣を自衛隊によって自分で死守する覚悟なく、ハリス発言やトランプの保証に安堵し、安保条約や米軍に依存するならば、早晩、中国に盗られる危機が迫っている」との仰せの方が理に適つてゐますし、その危機も十二分に實感させられます。

    日本は戰後、何度、「戰爭になる」といふ理由をつけて、當然なすべきことをなさずにきたか。算へきれませんね。我々は既に亡國の民なのかもしれません。
    「戦争をする覚悟のある軍国(中国)と戦争を覚悟出来ない平和国(日本)が対決し衝突すれば、どちらが勝つかは火を見るよりも明らかです」「中国は現在すでに海空で侵略の予備行動に及んでいます」「侵略・奪取行為の“実行に着手”すれば即座に武力で撃退する決意ができていて初めて日本は尖閣を確保でき」「常駐に踏み込んで初めて中国は奪取を断念し、『日本開放』などの野望も諦める」とのお説に全面的に同意します。

    この問題は、貴ブログ「日本人と世界人に告ぐ」において、極めて深く廣く論じられ、犀利な分析・洞察・示唆に滿ちてゐますので、私などがこれ以上口を挾む餘地はありません。石井望教授の「安倍政権は既に尖閣を捨てている」「常駐しない安倍さんが強い批判にさらされれば、安倍さんは常駐します。支持率で動く人ですから」といふ説を、笑ひごとではないと自分に言ひ聞かせながら、讀みました。
    そして、先に檢索・お示し下さつた『蹇蹇録』の樣々な言葉を思ひ出してゐます。

    長々と失禮しました。

  10. 頑迷不霊の質問への懇切なるご説明で、「一階と二階」の譬えに漸く得心しました。とくに澀江抽齋と家族(五百・保)、直参になった記述などを思い出して腑に落ちるものがありました。Bは見つかりそうですので新幹線で読み直します。官僚人事についても大変勉強になりました。尖閣について、「戦争になる」というのは数年前からの議論のようで、田母神氏が、「戦争になっても、あと10年は、海と空で日本が勝てる。」と分析しています。

    有難うございました。

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