北朝鮮への覚悟なき経済制裁の危険 (二)

アメリカに守られているわけではない

北朝鮮の核疑惑のそもそもの始めはソ連崩壊(1991年)が切っ掛けとなって発覚した。それから早くも四世紀が過ぎたが、何一つ問題を始末できないアメリカの無能と限界、自国可愛さのエゴイズムと不誠実に、わが国は己れの生命と国土の安全を委ねて来た。そもそもNPT(核拡散防止条約)は少数の核保有国に特権を許す代りに非核保有国に脅威のない安全を保障するという「神話」の上に成り立って来たはずだ。中国が尖閣騒ぎの背後で、いざとなったら日本に核ミサイルを撃ち込むぞ、などと冗談でも言ってはいけない相互信頼の条約のはずである。アメリカが北朝鮮の核の芽を早い段階で摘み取り、日本や韓国に迷惑を掛けない、という暗黙の約束があってはじめて成り立って来た条約である。核保有国がこの国際信義を揺るがせにするのなら、非核保有国は自国防衛を優先し、脱退し、自ら核武装せざるを得なくなるのである。

北朝鮮がNPTを脱退したときアメリカは一度は現実に核施設の爆撃を計画した(1994年)。しかし韓国と在韓米軍が甚大な被害を受けるという恐れから回避され、カーター元大統領が訪朝して「米朝枠組み合意」が結ばれた。これがボタンの掛け違いであった。後は弱者の恫喝が日を追って大きく激しくなり、2006年の一回目の核実験が見逃された。アメリカはイラク戦争を理由に、北の核問題を中国主導に委ねて、人も知る通り、六ヵ国協議でお茶を濁し、基地を爆撃破壊することも難しくなった。

私が石破茂防衛庁長官(当時)と『坐シテ死セズ』という対談本を出したのは、2003年9月だった。北朝鮮の核開発の可能性がにわかに現実味を帯びて来た頃のことで、私は石破氏に向かって執拗に、日本に攻撃能力があるかないかを問うている。氏は「北朝鮮が日本に向けてミサイルを撃つと宣言して、ミサイルを屹立させ、燃料の注入も始め、その他の状況も踏まえ、北朝鮮が武力攻撃に着手した、と判断されたとします。そのとき、在日アメリカ軍はどこかほかのところに派遣されている・・・・・・ほかには何の手段もないとします」そのような条件下ではじめて自衛隊が敵基地攻撃をしたとしても憲法違反にはならない、というのだ。

私は失望し、何度も食い下がっている。

西尾 北朝鮮の弾道ミサイルが米大陸に届くということが実証されたあかつきには、アメリカによる日本防衛が100パーセント確実だという保証はなくなります。そうなった瞬間に、理論上、日本はある意味で丸裸の無防備になる危険があります。

石破 北朝鮮にアメリカに届くようなミサイルができたなら、状況は相当に変わるのではないでしょうか。状況が変化する前に、ミサイル防衛システムが機能するべきだと私は考えています。

この発言にも私は失望した。北朝鮮の脅威はアメリカにとっては日本に兵器を売りつける絶好の機会でもあったのだ。石破氏がここで言う「ミサイル防衛システム」は、安全の絶対保障からほど遠いにも拘わらず、日本のメディアはことさら反論せず、被爆国日本は平和を愛します、核に核をという考えは持ちません、というお定まりの思考停止に陥ったまま、時間がどんどん経過した。石破氏がいまどのような認識をお持ちになっているか、私はその後聴く機会はない。だが、実験成功で次第に現実のものとなりつつあるのである。

私は中谷防衛大臣に同じ質問を提し、最新の情勢判断を問い質したいと願っているが、今その機会はないので、この誌上でお伺いする。

アメリカはかつて北朝鮮に向けてしきりに言っていた「完全かつ検証可能で後戻りできない核廃棄政策」という言葉を近頃はまったく使わなくなった。核そのものの危険よりも核拡散の危険のほうを言い立てるようになった。

2001年9月ニューヨーク同時多発テロ以来ことにそうである。これは日本人や韓国人の不安よりもアメリカ自身の不安を優先し、同盟国に無関心かつ無責任になりかけている証拠である。

日本の本気だけがアメリカや中国を動かす

しかし核にはもとより別の側面がある。最近は簡単に核に対しては核をと言う人が多いが、日本の核武装は国際社会にとって重大問題で、復讐を恐れるアメリカの心理もあり、今日明日というすぐの現実の手段にはならない。が、北朝鮮の暴発の回避はすぐ明日にも民族の生死に関わる切迫した課題である。そこで、北を相手に核で対抗を考える前にもっとなすべき緊急で、的を射た方法があるはずである。イスラエルがやってきたことである。前述の「打ち上げ『前』の核ミサイルを破壊する」用意周到な方法への準備、その意志確立、軍事技術の再確認である。

私が専門筋から知り得た限りでは、わが自衛隊には空対地ミサイルの用意はないが、戦闘爆撃機による敵基地攻撃能力は十分そなわっている。トマホークなどの艦対地ミサイルはアメリカから供給されれば、勿論使用可能だが、約半年の準備を要するのに対し、即戦力の戦闘爆撃機で十分に対応できるそうである。

問題は、北朝鮮の基地情報、重要ポイントの位置、強度、埋蔵物件等の調査を要する点である。ここでアメリカの協力は不可欠だが、アメリカに任せるのではなく、敵基地調査は必要だと日本が言い出し、動き出すことが肝腎である。

調査をやり出すだけで国内のマスコミが大さわぎするかもしれないばからしさを克服し、民族の生命を守る正念場に対面する時である。小型核のミサイル搭載は時間の問題である。例のPAC3(地対空誘導弾パトリオット)を百台配置しても間に合わない時が必ず来る。しかも案外、早く来る。すでに四回目の核実験が行われた。

アメリカや他の国は日本の出方を見守っているのであって、日本の本気だけがアメリカや中国を動かし、外交を変える。六ヵ国協議は日本を守らない。何の覚悟もなく経済制裁をだらだらつづける危険はこのうえなく大きい。

「正論」平成28年4月号より

「北朝鮮への覚悟なき経済制裁の危険 (二)」への10件のフィードバック

  1. 我が家の床の間には、小林宗之助海軍中将の書あり、「和を以て貴しとなす」とあり、号は松生(戦艦松島の生き残り)。舞鶴鎮守府司令長官時代の書だそうです。当時、どのような思いを込めて小林中将が筆を握ったのか、私には想像もつきません、しかし現在の感覚でこの一書と向き合った時、如何に国際協調という言葉が危ういか、その言葉の裏側にどれほどの各国の思惑があるのか常人には想像もつかないこと、「和を以て貴しとなす」は国際社会では通用しないという無念さ。「和を以て貴しとなす」とは至誠なのでしょう。北朝鮮の核の脅威に怯えていて、どうして和をもって、和やかなる日々を過ごすことができましょう。自分の国は自分で守るのです。そのためにすべきことは山ほどあります。艱難辛苦に立ち向かい、自立の気概を抱けよと、床の間の書は伝えているのだと勝手に解釈している今日です。

  2. 聖徳太子の十七条憲法の「上和下睦文」ですね。
    条文冒頭「和を以って貴しと為し」をもって時々「和の精神で皆仲良く遣ろう・・・。」などと然も馴れ合いを貴ぶ様に語られますが、私はその「和」という言葉に途轍もないものを感じています。

    第一条を口語にすると・・・

    「和を以って貴しと成し、忤う事無きを宗とせよ。
    人皆党あり。また、達(さと)れる者少なし。
    ここを以って、あるいは君父に従わず。また隣里に違(たご)う。
    然れども、上和ぎ下睦びて、事を論ずるに諧うは、事理おのずから通ず。
    何事か成らざん。」

    ふとした思い付きで「上和下睦」を文末から読んでみました(現代語訳を逆にしてみた)。するとそこから「決然としたもの」が見えたのです。

    「何事かが成就される。そこには自ずと物事の道理が通じている。上(天皇のことでしょう)が和らぎ、下の者が協調し、親睦の気持ちを持って議論するからである。
    しかし(現実には)君主や父親の言うことを聞かなかったり、また周囲ともうまくやらない。それは、人というものは派閥やグループを作りたがり、真の人格者は少ないからだ。
    だから諍いを起さぬことを旨として、和を貴びなさい。」

    以上の大いに無理がある解釈が許されるのなら、聖徳太子は十七条憲法の最初に、最重要ではあるが実際には困難な法を示されたのだと思います。これが単に官吏の紀律としての条文とは思えません。
    言挙げしなくとも社会で了解し合っていた「お国柄」を、1400年前に敢えて明文(条文)化したのでしょう。

    「和の精神」の難しさを判っているが故、私達日本人は自ずと「以和為貴」を尊んできたのだと思います。その一方で「何事かを成すため相手を潰滅させる」覇道が常体である世界に抗い続けていると感じます。

    1. 阿由葉秀峰様のコメントに感謝いたします。「和を以って貴しと為す」の一文への理解が深まりました。
      覇道が常体である世界に惑わされぬよう、修養を積むしかないですね。
      そして、1400年前に敢えて明文化したことからも、この言葉の困難さ重みがずしりと響きます。
      力をつけて、私も抗いましょう。それでなくては上に忠義を示せません。

  3. たぶん目に見えない何かが世界を動かしているんでしょうね。でもその構造はあまりにも単純で、大胆で、当然不誠実で、人間の感情の中にある分子から生まれながら、なぜか人間らしさが欠けた物体なんだろうと思います。

    今さら確認することではないのかもしれませんが、先生はとにかく何事にもチャレンジしていらっしゃいますね。わからないことをはっきり「わからない」と言い切れる人間が少ない中、先生はそれを惜しげもなく使い、他分野であってもこの手段から何かを導き出し、正道を直視する姿勢がいつもあります。

    特に私にとっては「チャレンジ」している先生のお姿が一番大好きで、つい見入ります。
    日本という国の観念的見方と、精神的存在感からの見方の違いを、もしかするとこれから国民は意識しなければ耐えられない時代が来るのかなと想像します。

    何を言いたいかと言いますと、観念からのそれは、思い詰めなければならない感情であり、精神のそれは、普段の生活そのものから生まれる日常の自分の真実、という風に言い分けることができると思うのです。
    この二つ、似ているようで全く違うものなんじゃないか、そう指摘するべきではないでしょうか。
    神を鍛える・・・という言葉がよくありますが、これは本来個人的なもので、もしかすると他人が介入できない分野ではないかと思うのです。しかし観念というのは、イメージからするとそれこそ個人的な、というかデジタルなイメージがありますが、実は本来社会性が備わった言葉で、そこには経験や教え、それに思考も存在し、複雑なテイストがこの言葉を支えているんじゃないかと思うのです。

    ややもすると人間はこの二つの言葉をはき違え、心理さえもそれに同調する始末で、元来の言葉の意味を全く誤解して生活しているのではないかと思ったのです。
    その意味で提言すべきは、人間は観念をどう生かすべきか、どう活用すべきかが、いわゆる社会性という面で問われているのかなと感じるわけです。

    そういう角度から判断すると、やっぱり私は西尾先生しか身近な存在としてはそれを実行している方は他にいないというイメージなんです。
    実際先生は、招かれている番組の中で、何度も争う意見を立ち上げてこられました。
    昔テレビタックルでたけしの番組でのご発言は、今もyouチューブで拝見できますが、こういう言い方ができる評論家は、なかなか存在しないわけです。
    この番組のあとたけしが言い放った言葉は「西尾さんはやっぱりダメだ、あれは」でした。これが今も当時もはびこっているいわゆる社会性です。
    同席していたパネラーの本気を促した西尾先生の攻撃に、MCが「NO」という判断を下すというのは、つまりはそれが日本の実情です。

    そういった争い事での無利益さをなぜか感じてしまうこの感覚は、いったいなんなのだろうと常々思います。
    拉致被害者の方々を日々見過ごしている我々日本人は、なにに戦っているんだろうか。
    少なくとも、自分と闘うことが最低条件ではないだろうか。そこから第一歩を踏み出し、その意味での「観念」を育てなければならないのではないか。

    しかし、よくよく考えてみると、「イリアス」の再現が、我々にいま試されているということですよ。
    歴史は実に重いですね。

  4. 幹二先生!!

    今宵、夜半 関東台風到達!!

    彼らの将器が試されますよ!

    ミサイルだなんだ・・と、どうでも良い。

    兵力で持って斬り込むなら此処しかない!

    ただし、本当に付き従う者がいるのかどうか??

    17:15 ,. 子路 .

  5. 幹二先生、こんばんは!

    プライムニュースをご覧でしょうね。

    *

    一戦構えるか・構えないか、どっちだよ!?

    奇兵隊を組織して攻め込めば良いじゃないですか?

    ロシアとは、拉致問題の解決に協力する見返りに和議を結ぶ。

    しかし、見返り・Give , を、求める事はさもしい発想だと思います。

    同盟とは、天地天明に誓うのではないのですか。

    16.09.22 . 21:33 , 子路 .

  6. 幹二先生、こんにちは。

    以前、青州兵 云々と お伝えしましたが、

    ソマリアの民の様な怒兵で在れば・・と言う事です。

    漁業領海侵犯は鬼ごっこをして戯れているのでしょうね。

    国に食を齎せたい、富ませたい・・当然の情でしょう。

    彼らの 爆買いに表れているよに、儲けが還元されているので、

    国際基準で、一国の漁獲量を定めれば足りるのではないかと思います。

    教養のある国を攻めるには及ばなく、返礼 応令で良いかと思います。

    雨読に勤しみます。

    以上!!

    16.09.23 , 13:18 , 子路 .

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