現代世界史放談(四)

日本人の宗教心

 ところで、日本はなぜ神道と仏教なのでしょうか。神道と並べて仏教ですね。儒教ではない。儒教は祖先崇拝という点では関係ありますが、日本人の宗教心に入っていないと思います。儒教は道徳として日本に影響を与えましたが、皇帝制度と科挙のシステムに切り離せないほど繋がっています。韓国は儒教なのです。朱子学のイデオロギーであのようになってしまいます。

 日本は儒教を本格的には受け容れませんでした。天皇をずっといただいていますし、王様が二人居続けられた国なので世界に理解されなかったのですが、日本人が心のバランスをとるうえで良かったと思います。つまり、遠いところにある見えない神・仏様と、生き神様である天皇と、すなわち超越神、二神をいただくことで自在に生きることができたということです。

 仏教は本格的に日本人の心に入っていて、日本の宗教心理の根底を形作りました。神道は超越神を持ちませんが、仏教がそれを与えてくれて、二神をいただくことをもって日本人はバランスをとってきたのです。

 日本人はなぜ仏教には抵抗がなかったのか、ということもついでだから考えておきましょう。神道に抵抗がないのは分かりますが、日本人は仏教以外の外来宗教はほとんど受け入れていません。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もヒンズー教も韓国儒教も、いわゆる原理主義的な宗教を日本人は受け入れません。

 しかし仏教は受け入れました。しかも日本仏教は久しく発展し、独自の展開を遂げました。民族の心の深いところにフィットしたのです。なぜかというと、それぞれの宗教は皆、後ろに政治文化を抱えています。たとえば、儒教は皇帝制度と科挙のシステムを抱えている。ヒンズー教も同様で、インドの社会風俗や生活思想を抱えています。ユダヤ教やキリスト教はさらにそうです。西欧の政治や哲学の一大観念体系を突きつけてきます。

 そういうものと何の関係もない仏教。後ろに何もついていない仏教。無なのです。それが日本の神道と組み合わせしやすかった。日本人の心が無であるということと、深く関係があるのです。

 キリスト教と仏教は、ともに普遍宗教ですが、どちらもそれぞれが生まれ育った土地でどうであったかということが日本に関係ある。仏教はインドの地で徹底的な展開を遂げました。思想展開は小乗仏教、大乗仏教、密教に至るまで。そして形而上的な理論展開を終えてから、外国に出始めるのです。8世紀の密教に至るまでインドの地で発展を遂げますが、そこで忽然と消えてしまったのです。つまり、本当に消えてなくなってしまいます。

 あるイギリスの植民地主義者がインドに渡ってきて大きな立派なお堂があり、それはブディズムの伽藍だと聞いているが、僧侶一人いないし、仏像もないし、経典もない。忽然と消えたのです。それでは仏教が消えたのかといえばそうではありません。インドの地から消えただけです。

 チベット仏教・ネパール仏教・中国仏教・日本仏教、南にいけばタイなどの南伝仏教。そういうふうに外に展開したのです。キリスト教はどうかというと全く正反対で、イスラエルの地では一切いかなる理論展開もしないで、ローマとビザンチン、西ローマ帝国と東ローマ帝国で初めて展開しました。

 仏教と違って、他の地域に移っていって初めて形而上的・理論的・学問的展開を遂げました。それに比べると仏教は、後ろに何も政治文化がついていないので日本人に受け入れやすかった。遥か西方浄土にいる仏様は、抽象観念として存在し得たのです。

つづく

月刊Hanada 2016年6月号より

「現代世界史放談(四)」への3件のフィードバック

  1. このスレッドの話題と少し離れたところの話になりますが、チャンネル桜のGHQ焚書図書に関する感想から入りたいと思います。

    先週のチャンネル桜での討論で、先生が「なぜ今の日本はこの研究に何も反応を示さないのか。話題にもしない。この無関心さは何なのか」と訴えていらっしゃいました。
    確かにその通りで、マスコミはもちろんのこと、国民の認識はほとんどありません。
    そして先生はそのような国民性に、おそらく何らかの変化を求めていると認識しました。

    先生はおそらくこの映像をご覧になっていた方々全員に、この問題を定義していたのだろうという素さんスタンスから、先生のこの単刀直入の疑問に誰も答えが出せない中で、私が返答するものはというと、過去に大震災が起きようが、その際でも暴動が起きなかったこの国の根っこには、言葉に出すことを無下に嫌う風習があるのではないかと感じます。

    私はおそらくこの放送を見た日本人ならば、この訴えは必ず心のうちに納めていると想像します。しかし、残念ながら行動や言葉となってのリアクションが期待できない。
    それだけ結局国家が幸せだということの象徴でもあります。
    誰かが何かをしてくれるという甘い心も同居していて、特に大きな問題に対してはそれが顕著となるようです。
    ところがその一方で、細かいところにはうるさいくらいに拘りを持つ日本人はまだまだ大勢存在し、大きな流れに何かを感じながらも、よく理解できないまま見える範囲の事象に対処するということになります。または極端から極端へという図式なのかもしれません。

    このような現象の背後に、おそらく宗教的な関係があると考えられると思います。つまり先生がおっしゃった「仏教には政治的背後がない」というこの現実ですね。
    日本人は原理を求めず原理に従い、西洋人は原理を求めて原理にこだわらない・・・こんな感じで私はとらえています。

    そしてもう一つ、西洋は「キリストが『在る』」から始まり、日本は「すべては『無』」から始まっている。
    結局これは自分の存在意義につながっていると思う。
    西洋は「生きている間こその意義」を問い、日本人は「たとえ自分がいなくなっても・・・」という考え方から物事を考える。
    西洋人は生きているパワーの連続をモノの流れとし、日本人は生きていることと死ぬことの境を無くすことを理想としている。
    日本人にとっては死ぬことは悲しいことではあるが、美しい死に方は理想そのものなのでしょう。
    世の中に悪さをして死ぬことは最も下劣で、生きていることは死ぬことの価値と同列に近い民族なのかもしれません。

    結局は「島国」だからだと私は思います。

    あまり言葉に表して言いませんが、普段の日本人は死に方をけっこう考えているのではないかと思うんです。現代人でさえ。
    本当の日本人のこの言葉にも表さない心の奥の奥にある真の姿に、西洋人がはたしてたどり着けることができるかどうかわかりませんが、無防備でいることが許された時代が続いた文化の不思議な現象というしか言えないのかもしれません。

    その意味で先生が訴えていらっしゃる点は、この近現代においては環境が違うという点で価値があり、そして最大の問題点は、ここまで開かれた時代において、これまでの日本社会の在り方が本当に正しかったのかという疑問点を投入する価値観が、先生の言葉によって芽生えるかもしれないということになります。

    その意味で先生の言葉はある意味日本の始発点です。
    私はその列車に乗ってみようと思います。

  2. 幹二先生、こんばんは!!

    *

    歴史に学べ、寧ろ 歴史上の英雄を自分に重ねろ。

    例えば、俺は張飛だ。こんな奴はゴマンと居る。

    クラブハウス・GYM・グランド。

    孔明や徐庶の様な人物には出会った事が無い。

    その代わりに禰衡は大勢居る。

    *

    私生活でも上辺だけの嘘で塗り固めている様な奴を誰も信用しない。

    お前自身を磨かなければ、俺は心を開かない。

    16.10.28 , 17:30 , J P N .

  3. こんばんは。
    GHQ焚書図書開封の動画を、初めの方だけですが拝見いたしました。
    本当に興味深い部分を選ばれていて、朗読もお上手なので、引き込まれ、
    書籍も一気に購入させて頂きました。

    話は変わりまして、職場にシナの方がいるんですが、
    一日中嘘はついているし、データは捏造するし、あまりにも酷いです。
    にも関わらず、上司は「中国の方は優秀だ」と言うので、
    (上司は知っていて、知らないふりをしている)
    私は、「中国の方は嘘つく能力と騙す能力は優秀ですね。」
    と皮肉で返しておきました。(笑)
    そういう身近に喫緊な課題がありますので、飛ばして7巻から読んでいます。

    最後になりましたが、戦前、戦時中に貴重で宝物のような文献を残された著者の皆様と、その中でも選りすぐりの文章を拾い上げる西尾先生に心から感謝いたします。

きらきら にコメントする コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です