新刊『民族への責任』について(一)

 先日西荻窪の飲み屋「吾作」で宮崎正弘氏と、一夕歓談した『民族への責任』(徳間書店¥1600)の見本が自宅に届けられていたので、一冊持って行ってお渡しした。そうしたらもうたちどころにメルマガに書評を書いて下さった。

 自著を、自分で紹介するのは難しいので、氏の書評を掲げさせていただく。そしてその上で、目次を掲示する。

 なおご好評いただいていた「宮崎正弘氏を囲んで―中国反日暴動の裏側」はまだ終っているわけではない。あと6~7回は連載される。

<<今週の書棚>>
西尾幹二『民族への責任』(徳間書店)     宮崎正弘

民族への責任最初に本書の独特な構成に気付かれる読者が多いだろう。
 四年前に書かれた一連の雑誌論文と、最近書かれた論考が、あたかも一対になって比較できる編集上の構成は、意図的な配置であると思われる。
 過日、杉並の居酒屋でご一緒したおりに、やおら西尾さんが鞄から出されたのが、この新刊だった。かなり分厚く活字もぎっしり。通読に時間がかかりそうだった。そこで小生は講演旅行に携行し、時間をみつけてようやく通読した。
 本書が扱うのは皇位継承、会社法改正、中国のガス田開発、中国・韓国の反日デモ、さらには少子化問題と対策にまでテーマが拡がる。一見、整合性がないように見えて、じつは四年間のブランクを一挙に埋める、つまり日本人に共通する自由の不在についての批判に纏められ、その狙いは通底するのである。
 教科書問題は北京とソウルの指令によって教育委員会の現場で採択されている。現場の委員達には脅迫まがいのFAXや電話が集中し、決断を示せない。
 大事なことを多くの教育委員が決断できないのである。
大げさな表現ではない、あのやる気のない文科省の役人をみていたら、こういう結果は予想できたことだった。
 教科書以外の問題も、「いずれも待ったなしの決断を迫っているテーマ」であり、日本を衰弱から守るための「悲しいまでの裁定の条件」であると西尾氏は言う。
 だが政治はつねに問題を先送りして次代に無責任にバトンを投げ、「どこかから吹いてくる政治の風にあわせて自分の道徳を政治に合わせた」。
保身に陥り、現実の解決を逃げた。
「現実には存在しない何らかの空想を選んで、しかも道徳や思想や教育の名においてそれを実行する。そうすることで、自分が道徳や思想や教育の『基準』をつくっているのだという恐ろしさの自覚すらない」。
 これが西尾さん特有の語彙によれば「平和のままのファシズム」である。同じことをすでに四年前にも書かれていた。
しかるに状況は四年前もいまも不変であり、「政治的道徳家は群れをなし、後から後から登場する」と嘆かれる。
教科書採択の決断のシーズンが四年ぶりにやってきたのに国民の危機意識は希薄であり、「やるか、やらないか」を一日延ばしにしてきた。小泉政権はやることをやらないで、やる必要のない郵政改革、道路改革という「粗悪品法律」の濫造という政治をしている。
中国についての危機意識も鋭敏であり、日本はいかにして自分たちの衰亡を防御するかを考えるべきであるに対して「中国はいかに自己の過剰と欠乏を調和させるかが究極の課題である」。
したがって「日本人と中国人の間には生命のリズムという点での共通性はなにもない。どちらにも危機があるが、その内容と性格を異にしている。日本人と中国人の間では、深い精神的な意味での共同作業は考えられない。『東アジア共同体』などというばかなことを言うのはやめたほうがいい」
 ついでながら本書52ページには小生も登場するが、その部分ははしょって、つぎに女性天皇擁護論批判の一節。
 「皇室の『本当の『敵』がみえないままで『皇室典範』に手を加えるのは、外敵に気付かぬままに国境を自由開放するのにも似ている。中国問題で奥にいる『敵』の仕掛けが見えない不用意な外務官僚』」もまた文科省の役人同様である。要するにかれらは「開かれた社会の自由が恐ろしいのである。自由に背を向けて、『閉ざされた社会』のシンボルやイメージに取り巻かれて、自分を守っていたい」のだ。
 現代日本への痛憤、悲嘆、哀切。読んでいて未来が悲しくなる。救いがない役人たちに政治教育道徳をまかせておくのはもう止めなければ、日本は衰退を免れないだろう。

 過分のことばを数多くいたゞき、宮崎氏には心より厚く御礼を申し上げる。

 このご書評の中に出てこないテーマや内容もあるので、まだ書店でご覧になっていない方のために、目次をお示しする。

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   目  次   民族への責任

中韓の反日暴動と歴史認識――序にかえて――

第1部 平成17年(2005年)

 第一章 民族の生命力をいかにして回復させるか   
    ――性と政治の関係

 第二章 領土問題           
    ――和を尊ぶ日本的美質ではもう通らない

 第三章 皇位継承問題を考えるヒント    
    ――まず天皇制度の「敵」を先に考えよ

 第四章 ライブドア騒動の役者たち     
    ――企業、司法、官庁に乱舞する無国籍者の群れ   

 第五章 怪獣は四つの蛇頭を振り立てて立ち現れた 

 第六章 アメリカとの経済戦争前夜に備えよ   
    ――日本の資本主義はどうあるべきか

 第七章 韓国人はガリバーの小人   

 第八章 第四次世界大戦に踏みこんだアメリカ  
    ――他方、北朝鮮人権法で見せた正義

第2部 平成13年(2001年)

 第一章 歴史の矛盾     

 第二章 文部省、約束を守ってください   

 第三章 売国官庁外務省の教科書検定・不合格工作事件  

 第四章 われわれのめざしたのは常識の確立  

 第五章 『新しい歴史教科書』採択包囲網の正体

 第六章 平和のままのファシズム  

 付録1 歴史を学ぶとは――扶桑社版『新しい歴史教科書』序文  
   2 教科書検定・不合格工作事件(平成12年)の略譜  
   3 「歴史認識」問題に関する西尾幹二の全発言リスト  

 初出紙誌一覧  

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 「領土問題」には地図が、「皇位継承問題」には皇室の略系図がのせられてある。後者は所功氏のご指導もいたゞき、苦心のうえつくり上げた3ページの自信作である。

 伏見宮家が南北朝時代に始まり、戦後GHQの指令で廃された11宮家の基で、今上陛下の系譜とは別であることはよく知られていると思う。今上陛下の系譜は江戸時代に新井白石が断絶を恐れて考えだした閑院宮家の流れをくむ。つまり、このとき緊急避難的な措置がすでにとられているのである。

 こうして生まれたのが第119代光格天皇だが、今度調べていて面白いと思ったのは、置き去りにされかけた系譜から光格天皇の皇后が選ばれていることである。過去にはいろいろな工夫がなされていることが分った。

 有栖川宮、桂宮は江戸時代に絶家し、伏見宮家のみが敗戦まで宮家でありつづけた。孝明天皇の妹に皇女和宮がいることは有名だが、その姉君の淑子内親王は桂宮家を継ぎ、女性で宮家の継嗣となった珍しい例である。しかしそれゆえであろうか、ここで絶家している。女性天皇の行方のあやうさを暗示していないだろうか。

 現在、三笠宮家の宣仁親王が桂宮と呼ばれているのはなぜかと不思議に思っていたら、これは祭祀継承といって、お祭りごとだけを引き継いでおられるのだと所先生に教えてもらい、成程と合点がいった。

 皇室の系図は入り組んでいて難しい。まあざっとこれくらい頭に入っていれば、一番肝心な議論にはこと足りる。大切なことはこのままでいけば20~30年後に皇室の「敵」が巨大な姿を現わすことだ。それは現代日本の社会意識そのものに深く根を張って、巣くっている。

 天皇家も迂闊であり、不用意であったと今にして思う。もうひょっとしたら間に合わないかもしれない。

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