新刊『民族への責任』について(五)

長谷川「例えば、国旗国歌に言及しなくては、わが国の歴史の教科書とはいえません。驚くべきことに、八社中六社までが何の記述もありません。・・・・・・・また文化の基本は国語です。日本語の起源に詳しく言及しているのも扶桑社のみです」
 
 さらに歴史上の人物について、文化史の記述について、分量、質ともに他とくらべて扶桑社版が群を抜いていることは一目瞭然である、という数字上の事実を資料で説明した。
S「国旗国歌なんて、法制化はつい最近なされたばかりだから、歴史教科書にのせる必要はない。国歌のほうはまだ異論がいっぱいあって、教科書に書くべきことではない。それに神話上の人物が挙がっているが、神話は歴史じゃないから、書くことは許されない」
K「でも、日本にはあちこちに神社があるのですから、神話上の人物を教えることも大切ではないですか」
長谷川「東郷平八郎は国際的にも高い評価を受けてきたのに、扶桑社以外の教科書には登場しません。それでいて、名前を初めて聞くような、読み方もよく分らない人物、外国にとってだけ重要かもしれない人物がたくさんとり上げられています」
K「そうですよ。東郷平八郎は教えるべきです」
K氏はときどき助けてくれるが、話が途切れて、長くはつづかない。
K「扶桑社本がいいと思いますよ。日本は自信をもって生きていかなければならないんだから、私もこの教科書でいきたいですね」

 そう言ってくれるが、それ以上の支援はない。教育長は答申尊重を何かの一つ覚えのように繰り返すのみである。教育委員長は司会進行役で、自分の意見をいっさい言わない。議論が燃えあがり、壁につき当たり、しばし沈黙が支配する。夕方までもめても、どうしても噛み合わない。

 教育長は次のように何度も同じことを言った。
「ともかく教科書は教員が使うんだから、教員がいいと思うのが一番いい」
長谷川「じゃあ、教育委員は何のためにあるのですか」
教育長「いや、教育委員は大切なお仕事です。みなさんを尊重していますよ」
長谷川「こんなお飾りでは意味がありません」

 日本のどこをみても、どの角度からみても、どうも教育長が最大の闇の役割だということがわかる。
S「長谷川さんの異論は、選定審議会に報告しておきましょう。答申の結論は変えられませんよ」

 K氏はもうここまでくると反論しない。

 夕方になり、ついに最後に採択についての議決に入った。ただし票決はしない。議決文書が卓上に出される。教科書の各一冊ずつの正否の判定ではない。小学校と中学校の分を二つに分けて、それぞれの全部を合意するかどうかが問われる。長谷川さんは、「他の教科書に関してはいいですが、中学校の歴史と公民に関しては賛成できません。そう議事録に留めて下さい」

 K氏はそのときにはもう何も言わなかった。印鑑を捺(お)すというのでもなく、肯(うなず)いて終った。
「教育の荒廃を治すのはここにあると思って頑張ってきたのに、とても残念です」と彼女は最後にひとこと言い添えた。

 当「日録」の管理人の長谷川さんがどういうお人柄の方かは読者はお分りになったであろう。一部のつくる会関係者の間ではその行動力が高く評価されている。そういう人でなければ「日録」をこつこつと支えて4年目にも及ぶということがどうして出来るであろう。

 信じることに靭く、そして生きることに熱い稀有な方である。しかも美人である。

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