西欧の地球侵略と日本の鎖国(六)

六/六)
 その次に何がつながるかというと、フランスは力を失っていたのですが、イギリスとロシアにしてやられているのが悔しくて、1785年にフランス政府はジャン・フランソワ・ド・ラペルーズを派遣します。フランスは日本に重大な関心を示して、日本を調べてくるよう命じます。まず南太平洋に入ったラペルーズはハワイ諸島、北アメリカ大陸を巡った後、日本列島の日本海側を通っています。その前に台湾、琉球や済州島を測量して日本海側に入って能登半島を徹底的に測量します。東北地方はすでにクック隊が測量しています。

私が感心するのは、ヨーロッパは「国際社会」で、ベーリングやクックの測量の数値やデータが全部公表されていたことです。だからクックは日記の中でベーリングがやった海洋探検について「素晴らしい。だいたい正確だ」と褒めています。同じようにラペルーズは、クック隊の太平洋側と日本列島の測量も公表されているので、日本海側のデータを揃えて日本列島の「幅」を測量して数値の計算をしています。つまり争っている国同士、競争し合って、時には戦争もする国同士だったにもかかわらず、国際社会の約束やデータを尊重しあう。そういう事で協力し合う、という近代性が備わっていた。これは当時のアジア人には考えられないことでした。なんのかんの言ったって負けているのです。ヨーロッパはこれだけの規模のことをやっていたのです。日本に「鎖国が無かった」などと言えますか! これだけのことをやられていたということで、暗黒の鎖国の中にいたのではないでしょうか。

 1784年にはジェームズ・クックの航海記が刊行されます。クックの死後5年後です。航海記はオープンなので、これが大変に読まれます。ここでラッコの生息地のデータが公開されますが、ロシアは一人儲けをしていたので危機感を覚えます。フランスもクックの航海記を見てから、1785年にラペルーズが出てくるのです。しかしあと4年後に何が起こるか分かりますね。フランス革命です。ですからフランスは国内が混乱してしまい、もう北太平洋の争いに参加することが出来なくなります。フランスはここで退場しますが、イギリスと、そしてアメリカが登場します。そしてロシア。オランダは端からここに入っていません。前にも話しましたがそこが大事なのです。日本はオランダだけを頼りにしていたのですから、ほとんど片肺思考だったのです。

先ほどベーリングの話をしましたが、別働隊を二つ連れていっています。そのうちの一つは千島列島を下って日本列島に来ています。1741年にアメリカ大陸(アラスカ)を発見する2年前の1739年のことで「元文(げんぶん)の黒船」と呼ばれています。1回目は宮城県に来ています。日本の役人が船に乗り込んで、丁重な挨拶をしてロシア側は船上でご馳走やお酒で彼等をもてなして楽しい談話をしたあと、きれいに別れたというだけのことで、ロシア船もこれで満足して帰っていったそうです。2回目は千葉県で、陸上にあがってきて農家を訪ねて軒先で大根と水を貰って(笑)(壊血病があるから大根は必要ですよね)それからお茶を飲んで煙草を呑んで帰って行った。言葉は通じないけれど楽しい話をたくさんして帰って行った。そのとき律儀にも銅の貨幣を置いていきました。それは直ぐに長崎奉行に届けられて初めてロシアの貨幣と分かったのです。そのあとレザノフとかいろいろ出てきますが、日本にロシアが来たのはこれが最初でしょう。これはおそらくラッコの貿易で来たのだと思います。すでにラッコは乱獲されすぎたということで、教科書には捕鯨船がたくさん来たことは書いてあります。

ヨーロッパに物産を持って帰るのではありません。ラッコはシナの貴族に売ってそれが儲かるという話がワーッと広がって次々と船が来たという話です。いかにアジアが富んでいたかということです。有名な話に、イギリス人が清朝の皇帝に会ったら「清朝は何でもあるから貿易などする必要ない」と言って三跪九拝させられて帰ったという話もあります。それくらいアジアは豊かで、日本もまたそうでした。それにしても日本がその当時ラッコの毛皮を買って使ったか、ということになると寒さの度合いも違うしあまり聞いた話ではありません。だからといって日本からラッコの話が消えるのはおかしなことです。

ペリーは日本に捕鯨船で来たといいますが、これは当時の産業に微妙な変化が起こっていて、機械の潤滑油に鯨油が必要になったということが基本にあります。女性のコルセットに鯨髭を使うこともありました。そうなるとラッコはその多くがシナで大金を得るためが目的でしたが、クジラは全部ヨーロッパかアメリカで消費されました。

ここに貿易の質と内容に大きな転換があったと考えられますが、それは間違いなく産業革命です。それによってヨーロッパが力をつけてゆきます。それと、これまでお話してきた情報量です。世界を制覇せんとした勢いです。これはなんのかんの言っても、科学と冒険心と愛国心と、そして経済的な動機と・・・。こういう物が一体となった情熱はどの国にもあり、そして我々の今の時代にももちろんありましたけれど「限界点へ向けての限りなきパッション」これは優れてヨーロッパ的で、それは少し前の時代まではインド洋と南太平洋であったのが、地理的空間の大規模な移動への熱情が北太平洋に変わった、北極海経由の海路に取替わったということです。それは18世紀人からの夢でした。ロシアとイギリスがその夢を牽引したのです。アメリカはその後についてきたのです。

ロシアとイギリスこそがユーラシア大陸を二分したこの後の政治的、次の世紀の軍事的対立のドラマ。すなわち「グレート・ゲーム」とよばれる中央アジアを巡る争い。皆さん知ってのとおり、日本も明治になってそのドラマに参加しますね。関岡英之さんが『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略』という本を書きました。その「グレート・ゲーム」はこの北太平洋を巡る争いから始まっているのです。日本周辺の海域から始まっているのです。そしてそれは東アジアをも引き裂いて、開国して間もない我が国が英露の代理戦争である日露戦争に引きずりこまれた根本的な背景です。

つまりこれまでの地球を二つに引き裂くドラマは、アメリカが次の時代に登場するまでの世界史だったのです。そしてそれは我が国の目の前で起こっていたラッコから始まっていたということです。ラッコは笑い事ではありません。当時としてはすごいお金だったのです。しかし産業革命が起こって機械文明になってから規模が大きくなり額も跳ね上がりますね。それでいつの間にかみんなラッコのことを忘れてしまいます。帆船は蒸気船になってゆきます。蒸気船が出来るのはやっと明治維新の頃です。ペリーの来航は帆船で、アフリカを回って来ているのです。太平洋航路が無く太平洋を渡れなかったのだから当然です。こんな大きなドラマさえも「外から歴史を見る」ということをしないから分からないのです。

「外から歴史を見る」というのは、私の『国民の歴史』の精神であったことを皆さんご存知かと思います。「外から日本史を見る。そして日本史を中心に外の歴史を見直す。また外から日本史を見直してから、日本史を中心にもう一度外の歴史を見直す」この往復運動こそ歴史の正しい精神ではありませんか? 日本の歴史をやる人は日本の中をごちゃごちゃやるばかり。また世界の歴史、西洋史などをやる人は皆自分の専門をやるばかりで、全体を統合して見ようとしません。だからこんな重大なことが見落とされるのです。何が「鎖国は無かった」ですか?(笑)

1791年にはイギリスやアメリカの毛皮交易船が堂々と博多と小倉に来ます。ラッコの毛皮で一攫千金を狙う外国船はフランス、スペインと後相次ぎます。ジェームズ・クックの航海記が情報に火をつけたと考えられます。ロシア使節アダム・ラクスマンも1792年に日本に漂流者の大黒屋光太夫らを連れて軍艦で日本に来たのですが、本当は国を開いてラッコの貿易をしたいと言ってきたのです。清朝との貿易で認められていたのは内陸ばかりだったので、遠く広東での貿易に手を広げたいから毛皮を運ぶその中継地としても日本が必要でした。さらに毛皮の新しいマーケットとして、我が国の開国を求めたのです。

 私の作った年表に「1789年 ヌートカ湾事件」というのがあります。皆さんあまり聞いたことが無いでしょう。これはたいへん大きな地球的規模の危機だったのです。その前に、1494年のトルデシリャス条約はご存知でしょう。スペインとポルトガルがお饅頭を二つに割るようにしてローマ法王の勅許によって、大西洋の上に線を引いて地球を二つに分割するというもので、それに従ってコロンブスはどんどん西に渡って、これからどんどん西へ行ったところは全部スペインの領土だと言いました。同じようにポルトガルは、アフリカの海岸を南にどんどん下って東に進んでこれは全部ポルトガルの領土だと言いました。その真ん中はどこでぶつかるかというと、ご存知のようにモルッカ海峡よりももっと東で、だいたいオーストラリアの真ん中を貫き西日本の上を通るのです。それが半分なのですから勝手な話です。『国民の歴史』でもヨーロッパはなにを考えているのだろうと強調して、『新しい歴史教科書』にも入っているかと思います。考えることが凄いですね。怪しからんですね。この地理的情熱がどこから来るかといえば、ガリレオとデカルトの幾何学精神です。だから地球を全体として、子午線を引いたり赤道を引いたり、勝手にやったのです。なぜグリニッジ天文台が出来たのかといえば、あれはイギリスの政治戦略なのです。「なぜロンドンにあるのか?」とパリもベルリンも反対したのです。そしてグリニッジ天文台が中心になっちゃった。それと同じことで、これはスペインとポルトガルがやったことをイギリスが後追いしたのです。そして次の時代にはイギリスは勝ったということで、そのドラマの中にまだわれわれがいるということです。

ヌートカ湾事件というのは、オレゴンの海岸の北西部分にスペインの植民地がありました。そこを巡るイギリス、フランス、ロシア、アメリカ(アメリカはほぼ自分自身の土地でしたが)との争いです。スペインは1494年の古証文を持ち出して「ローマ法王が言った通り。北アメリカ大陸も南アメリカ大陸も全部スペインのもの」と言い出します。しかしアメリカは独立戦争の後、フランス革命の年にそういうことを言って抵抗したのです。それでイギリスを中心に衝突するのです。それはスペインの時代遅れの最後のあがきだったのかもしれませんが、実はそうではなかったのです。スペインは太平洋の西側を全部押さえていたのですから・・・。たとえば硫黄島は日本領で日本政府が日本領と宣言しますが、ダメだと言った国はスペインです。スペインはサイパンやテニアンを領土としていました。米西戦争でドイツに渡って、第一次世界大戦で日本領になるのですが、スペインは大変大きな影響力をアジアに持っていたのです。オランダではないのです。オランダの特徴は何かというとインドネシアに拘り過ぎたのです。他の国はどんどん動いたのですが、オランダはインドネシアにペッタリで足を取られて動けなかったのです。ヌートカ湾事件は、一つの地球上の大きな危機を表明して同時にそこで局面が動いたということがお分かりかと思います。

このヌートカ湾事件も全く歴史の教科書には書かれていません。でもやがて書かれるようになります。今日私がお話ししたことは「新しい歴史研究」ですから、やがて書かれるようになります。20年くらい遅れるでしょうけれど、日本はそういうものでしょう。だけど、このヌートカ湾事件もラッコの話も書かなければ歴史にならないからね。ラッコって可愛いのにねぇ。(笑)ということで終わりにします。

 文書化:阿由葉 秀峰

“西欧の地球侵略と日本の鎖国(六)” への 3 件のフィードバック

  1. 幹二先生、こんばんは!

    仏典・基督・ムスリム、

    古代中国経典・哲学・歴史。

    MIXして、受け止めるのが現代的なのではないでしょうか?

    偉人に国境は無く、「全ての宗教・教えは神の下へ帰る足掛かりに過ぎない」。

    興味を持った事に精通すれば、万事 根は同じだと思います。

    *

    17/02/05 , 16:37 子路 .

  2. わああ先生お元気になられたのですか〜?
    良かったです!!!!
    yutubeの「つくる会」の動画で
    体調が悪いということだったので大丈夫なか〜と心配していました!!!
    非常に最近のファンです。
    youtubeで「焚書図書開封」を発見し、ずっ〜っと観ています。
    とても面白いです!

  3. 今回の講演は、少し前にyoutubeで拝聴しました。
    『国民の歴史』(平成11年)が出版され、西尾先生が「歴史とは物語である」
    と仰った時、世間では「そんなバカな」、「事実が大切」、「歴史は実証的なも
    の」というお決まりの反応が沢山ありました。

    ところがあれから20年近く経った現在、巷では何かにつけ「ストーリー」
    が求められるようになったのではないでしょうか。例えば芸術作品であれ
    日用品であれ、ただ単にパッと見てよいとか、使い勝手がよいだけでなく、
    製作者の着想や、それらが出来上がるまでの過程・物語がその物に、より
    価値を与えるという考え方です。
    こうしたやり方の代表的な例が、映画のDVDに付属のメイキング映像や、
    シャネルやカルティエなどフランスのブランド品の宣伝です。youtube動画
    に時折見られる宝飾品や時計の宣伝は、まるで映画のようにドラマチックで、
    その美しく格調ある映像と音楽は、所詮仮想の物語だと分かっていても、思
    わず見とれてしまいます。

    戦後の占領政策により禁止されたり大幅に制限されたものの中に、戦前の
    歴史書をはじめ、武道や刀剣の製造、そして地理学があったとのことです
    が、今回の講演録を読んで、改めて自分の受けた教育がいかに不十分なも
    のであったかが、今更ながら認識させられました。

    自分の中高時代の地理の授業を思い出すと、一応は流れのある日本史や世界
    史と異なり、どうしても無味乾燥というイメージが付きまとうし、大学で地
    理学を専攻する同級生も少数でした。
    ただ(少なくとも私の時代の)小中学校までの地理の、自分が住んでいる
    地域から県、国土その後世界に広がって、白地図を色分けする作業などは楽
    しかったものです。
    ところが、高校に入ると急に専門的になり、地図図法から気候・産業の分類、
    貿易など、あちこちの分野に飛ぶので、流れというものが一向につかめず、
    面白くない暗記科目となってしまいました。

    しかし本来、歴史と地理が切り離せないものであることは、戦前の書物を見
    れば分かります。例えば『歴史公論 特輯 海』(昭和11年8月号 雄山閣)
    (ネットオークションで入手)を読むと、「特輯 海」という一見文学的な
    副題のついたこの雑誌に集められた論考には、「海國日本」という言葉が頻
    繁に出てくるし、「江戸時代の海運」「中世に於ける海賊と我國の貿易」な
    どタイトルだけでその内容が予想できるものの他、「平安朝女性と海」という
    論文では、班田制の苛税からの逃亡者が、土地を捨てた浮浪人(ウカレビト)
    となり、女性の場合は、交通の便のよい地で貴族達を相手とする遊女となっ
    たこと、彼女らは舟を住居とし海で生活したが、こうしたケースは瀬戸内海
    沿岸に著しかったと書かれています。

    この雑誌の巻頭に登場する論文「海と文化」(文學博士 大類伸)によれば、
    「變化」と「停滞」とは歴史を動かす二の力であり、前者が海で、後者が陸
    である。極楽や天國を海外未知の天地に夢想するのは古今東西同じであり、
    「ユートピア」は現実生活を指導する力となり、目標となるが、それなく
    して人間生活の「現実」は進歩しない。それゆえ急激な變化の起こる場合、
    何らかの意味において海の力が働いてゐると考えられる。が、しかし「變化」
    と共に「停滞」も必要であり、同時に「展望」と相並んで「回顧」も亦缺く
    ことは出来ない、「これが史を學ぶ者の途であらう」と結んでいます。

    中でも印象深い論文「海洋の空間的考察」(法政大學教授 野口保市郎)で
    は、「いかに文化が發芽し・・・現在に至ったかは・・・文化の時間性・歴史
    性であって、いかに文化が地球の表面に分布し擴充してゐるかは文化の空間
    性・地域性であり、歴史と地理は或點に於いて聯關し、結帯してゐる。從っ
    て歴史には地理學が、地理には歴史學の援助を必要とするのである」と言い、
    「主として海洋が文化の傳播者であり、物資の調達者であり、人類の統制者
    である」と述べられています。

    また先生が講演の中で言及されたロシヤのピョートル大帝について、野口氏
    は、「一日穀倉に古き船の打ち棄てられてあるを發見し、航海熱に刺戟せられ
    て、他日水夫となり、水兵たらんとして、北方アルハンゲルスクに趣き、更
    に黑海に艦隊を編成せんとして自らオランダに至り、造船の術を研究した」
    のだが、これも川から始まり広大な海洋に思いを馳せた「人間の文化的意欲
    による」と説明しています。

    かくして「ギリシャ人はフェニキア人を多島海から驅逐してこれをギリシャ
    人の海となし、ローマ人は地中海を自己の内海として使用し、スウェーデン
    人とノルウェー人とはバルト海を占有し、ハンザ同盟の市々はバルト海に税
    關を設けてこれを支配してゐた。またポルトガル人はインド洋をスペイン人
    はカリブ海・太平洋を自國のものと考えてゐた。しかるに十七世紀に至って
    オランダの國際法の大家ユーゴ―・グロチウスがでるやうになって、彼れは
    『海洋の自由』を主張し、遂に海洋は世界の公海となり、公道となるに至っ
    のである。・・・」

    六回に亘って連載された今回の講演録では、16世紀から18世紀にかけての
    ヨーロッパ各国の動向と我が国の関係が、詳細な年表と地図を以って活写さ
    れました。
    「我思うゆえに我あり」で有名なデカルトや先生がしばしば言及されている
    ホッブズ等の数学的知性、そしてロック、バークリー、ヒュームといった英
    国哲学の系譜に見られる、キリスト教の神とそれを背景にした強烈な西洋型
    の「自意識」が、産業革命による文明の利器と共に、地球全体を席巻し始め
    た時、我が国はどうだったか?

    「・・・それだから露船が蝦夷に現はれたといっては騒ぎ(天明六年)、林
    子平が『海國兵談』を著はしたといっては驚き(寛政四年)、ロシヤの使節が
    漂民を送り來ったといっては恐れ(文化元年)、まるで猫の前にゐる鼠のやう
    な態度を取らねばならなかったのである。これを安土桃山時代や江戸時代早
    期の日本人に比べると、どうしても同一民族とは思へないほどの堕落振りで
    あった。」(「海權と造船との交聯」文學博士 西村眞次 『歴史公論 第三巻 
    第七號 日本海軍史』昭和9年7月 雄山閣)

    ところで西村氏によれば、「造船といへば一般には單にそれが造船技術のや
    うに考へられるけれど、實は政治、經済、軍事、外交と密接に交渉を有って
    ゐるのであって、造船の盛んな時は國家の活動の目覺ましい時であり、反對
    に造船の衰へた時は國家が退嬰的状態にある時である。造船は海運の基礎で
    あり、海運は海權の母體であるから、私達は造船史の檢討によって、或點ま
    では國力の展開過程を知ることが出來る」そうです。

    西村氏は日本史における海權の盛衰を五期に分けますが、衰退期、例えば
    「白村江に於ける日唐海戦の結果、我邦の朝鮮半島に扶植した勢力が年々
    失墜し」た時期は、「我邦から半島に向って流れた勢力が、反對に彼方から
    此方に流れ初め」、各地に新羅人が漂着したといいます。
    また貴族政治は瀬戸内海の制海權すら握れず、藤原純友の海賊を制圧するに
    も多くの日々を要し、「平將門の亂を征討する實力もなく、京都の内に連日現
    はれる強盗すら捕縛できなかった」ということです。

    しかし元軍來寇の時、我軍が大型漁船程度の船がせいぜいの所、敵は巨艦を
    連ねたのを見て、もちろん「小舟で大船に迫り、敵中に躍り入って切りまく
    るといふやうな戰法――それを小笠原長生子は水雷艇的戰法といった――が
    日本人の特技であること、戰は器にあらずして人にありといふことを覺った」
    ものの、水軍の建設が國防には不可欠であることが明らかとなり、「元寇以
    來、我國民の對外思想が一變して、所動的から能動的に、封鎖的から解放的
    に、年々其態度が變化していった」といいます。

    続いて室町時代に至り、「足利義滿はアラビヤ人楠葉西忍を顧問にしてゐたか
    ら、航海術、及び造船術の知識を若干我邦に傳へたと思はれ」、「室町政府の
    唐船奉行や唐物奉行は、外國行の船政と輸入品の鑑定とを司ったといふから、
    貿易の勃興、從って造船の盛隆に關係があったのに相違ない。」実際当時の資
    料によれば、「瀨戸内海に巨船の分布していたことはわかり、從ってそこらに
    造船所が存在してゐたこともわかるのである。」

    さらに時代が下り、「豊臣秀吉が出現して國内を統一するに及んで、初めて
    其命令が全國的に遵奉せられ、漸く倭寇が其影を潜めるに至った。」「秀吉の
    征韓役は、海賊を禁遏した代りに明との通商を回復しようとしたにも拘わら
    ず、明國政府がこれに應じなかった爲に起こったもので、我征韓軍は結局
    倭寇が統一されたものだと視て差支へない。文祿慶長の兩役とも、日本軍は
    戰爭には勝ったが、外交で敗けて、虻蜂取らずの憂き目を見たけれども、こ
    れが爲に國力は伸張し、國權は展開して、支那海から南洋に至る間の制海權
    を不知不識の間に掌握することが出來た。」

    そして問題の江戸時代ですが、「鎖國令以後、我邦の造船航運は一時に衰微
    したけれども、固より多量に我國民に有たれてゐた慣海生が忽然として消失
    する筈はなく、それが時々頭を擡げて・・・オランダ型船舶の建造となり」
    はしたものの、「五百石積以上及びに二檣を有る船舶の建造が禁止せられて
    からは、我國の造船航運界は加速度的に衰微し、『板子一枚下は地獄』と
    いふ海國に取って情ない俚諺を發生せしめた。つまり江戸政府が國際的關係
    を絶って、我邦を世界から封鎖したことが、我海權を全滅に歸せしめたので
    ある。」
    「下って日淸の役、黄海の大勝により我征海權は黄海一帯に延びたが、それ
    だとて安土桃山時代に祖先の有ってゐたそれの半分を漸く回復したに過ぎな
    いのである。しかしながら、造船と海權との相應は、明らかに此一戰によっ
    て證明せられた。
    それが爲め日淸戰役以後は一層造艦造艇に苦心し、明治二十八年に呉海軍
    工廠が、三十年に佐世保の、三十四年に舞鶴の海軍工廠が完成せられたが、
    民間に於いても長崎の三菱造船所、神戸の川崎造船所、大阪の大阪鐵工所
    等が次第に工場設備を完成して、造船造機に成功するに至った。」

    以上西村眞次氏の論文に沿えば、尖閣諸島の中国公船一つ追い払えない
    現代日本は明らかに「海權の衰退期」に当たり、雪崩を打って入国してく
    る不法入国者もまともに取り締まれない有様は、「政府に蟠屈する官僚は
    たゞ宴會と音樂と讀經と祈禱とを事とするのみであった」平安貴族にも劣る
    と言っても過言ではありません。

    このように、戦前の雑誌『歴史公論 特輯 海』(昭和11年8月号)や
    『歴史公論 日本海軍史』(昭和9年7月)を読んでも、江戸時代の鎖国は
    当然のこととして、またどちらかと言えば否定的に描かれていました。

    ただし国内海運に関して興味深い論文「江戸時代の海運」(古田良一)も
    あり、古田氏によれば、「江戸時代は鎖國の世であったが、國内の海運は却っ
    て從來よりも盛んになった」が、それというのも太平の世になり商業が隆盛
    となり物資を運ぶことが多くなったため、「國内に於ける需要供給を圓滑な
    らしむる必要が愈々大となり、この傾向を一層促進せしめた」からです。
    そして巨大都市江戸と上方を結ぶ海運と東廻、西廻は江戸時代の三大海運
    である他、下關から九州北岸に沿うて長崎に至る海運も重要でした。

    「尚この外にも國内至る處に海運の開かれたる様は、江戸時代に出來た海路
    圖及び海路誌によって窺ふことが出來る。そして海運の發達は經済事情變遷
    等の自然の結果によるとは云へ、幕府の力に俟つことも決して少くはなかっ
    たのである。寛文七年諸國に巡見使を派遣した時に出來た海圖の如き、實に
    精細を極めたもので、その苦心の様は察すべきである。江戸幕府は海事に
    無關心であったなどと考へるならば、それは大なる誤であると言はねばなら
    ぬ。」
    さらに大切なことは、この「國内海運の發達が當時の我國社會におよぼした
    る影響・・・港灣の発達」であると古田氏は言います。「思ふに海運政策や
    港灣施設は我國の經済發展、産業開發のためには重要なることであって」、
    こうした国内の基礎がなかったとしたら、あっと言う間に列強の餌食にな
    っていたに違いありません。

    講演録「西欧の地球侵略と日本の鎖国」を読んでから、戦前の雑誌『歴史
    公論』二冊を読むと、先生が冒頭紹介された、鎖国はあった或はなかった
    等の議論はそれほど重要ではない気がしてきました。

    なぜなら我が国はもともと「海國」であり、神代の時代から海と関わり合い、
    人々が海士として造船し、漁業を生業としたのは島国の人間として当然であ
    り、時には大陸や南洋と貿易をし、その間様々な摩擦もあり国家存亡の危機
    にも直面してきた長い歴史を持っているのであって、こうした特性を消すこ
    とはできません。そして我々は今でも海という環境と神道を根幹とした日本
    という「世界、宇宙」に住んでいて、それがどんなに奇異に見えようが、西
    洋的世界観と交わることはないのではないでしょうか。

    現代の国内の様々な混迷は、こうした我が国の特性を忘れ、従って自国の
    歴史から生まれてくる内発的な要請に耳を傾けることすらできなくなって
    いるためなのではないでしょうか。
    「科学的真実」「普遍的価値」などでがんじがらめになった現代の我々こそ
    は精神的な「鎖国状態」であって、だからこそ現代危急の問題に対しても、
    ぼんやりと「自分自身の劇を見つめ」、部外者のように、岡目八目よろしく
    あれこれ論ずるだけなのです。

    西尾先生が再三主張されているように、グロチウスの「海洋の自由」にしろ、
    「国際法」にしろ、或は科学ですら、もともとはヨーロッパ固有の事情から
    生まれてきたことを、我々は片時も忘れてはなりません。

    『GHQ焚書図書開封』(第一巻)に印象的な一節があります。

    「私は『米英挑戰の眞相』を読んでいて不思議に思ったことがひとつだけ
    あります。それは何かといえば、ABCD包囲陣が合理的で、かつきわめて
    堅牢なものであるということを百も知っておりながら、わが日本はじつに
    悠然と構えていたことです。つまり日本側にはあまり怯えがない。四つに
    組んで堂々と戦うぞ、という覚悟が見える。しかもあまり興奮もしていな
    い。いま考えれば非常に不思議であります。
    この本が出たのは昭和十八年です。いうまでもなく、戦争たけなわの時期
    です。しかも敵の包囲陣をつぶさに調べております。軍事力やその配列ま
    で詳しく知っていた。よく見ています。リアリズムなのです。敵を見くび
    っていません。傲慢に構えているわけではありません。勝てないと分かっ
    ている戦争に自暴自棄に飛び込んでいっているわけでもないのです。そう
    いうことがこの本から伝わってくる。合理的で、戦略的で、現実的な目で
    書かれています。それでいて事柄の困難さはよく見抜き、起たざるをえな
    いといっているのです。このときの日本人の心の勁(つよ)さは謎であり
    ます。しかしそれは歴史の真実、私たちの過去にあった事実として動きま
    せん。いまではもうそんな勁さはとても考えることが出来ませんが。
    なぜでしょうか。
    分かりませんね。分かりません。
    歴史の謎はこうした焚書図書の中に潜んでいるはずです。・・・」
    (P75~76)

    私は戦前のほんの二冊の『歴史公論』に目を通しただけですが、そこに掲載
    された論文の数々に、上の一節に通ずるような、戦前の日本人の強靭な知性
    と、しぶとさを感じました。

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