韓国が国際社会に喧伝するウソ「20万人」「軍関与」 日本は「国際的恥辱」払拭する努力してきたか

 産経新聞 平成29年1月19日正論欄より

 私はつねに素朴な疑問から始まる。日本の外交は国民が最大に望む一点を見落としがちだ。何かを怖がるか、安心していい気になるかのいずれかの心理的落とし穴にはまることが多い。今回の対韓外交も例外ではない。

≪≪≪ウソを払拭しない政府の怠慢≫≫≫

 米オバマ政権は慰安婦問題の真相を理解していないので不当に日本に圧力を加えていた。心ならずも妥協を強いられたわが国は、釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置されたことを受けて、大使らを一時帰国させるという強い措置に出た。日本国民はさぞ清々しただろうといわんばかりだ。が、日本外交は米韓の顔を見ているが、世界全体の顔は見ていない。
 
 慰安婦問題で国民が切望してやまない本質的な一点は、韓国に“報復”することそれ自体にはない。20万人もの無垢(むく)な少女が旧日本軍に拉致連行され、性奴隷にされたと国際社会に喧伝(けんでん)されてきた虚報の打ち消しにある。「20万人」という数も「軍関与」という嘘も、私はふた昔前にドイツの宿で現地新聞で知り、ひとり密(ひそ)かに憤怒したものだが、あれ以来変わっていない。ますます世界中に広がり、諸国の教科書に載り、今やユネスコの凶悪国家犯罪の一つに登録されかけている。

 日本政府は一度でもこれと本気で戦ったことがあるのだろうか。外交官が生命を賭して戦うべきは、事実にあらざる国際的恥辱の汚名をすすぐことであって、外国に報復することではない。

 女の子の座像を街角に建てるなど韓国人のやっていることは子供っぽく低レベルで、論争しても仕方がない相手である。敵は韓国人のウソに乗せられる国際社会のほうであって、日本の公的機関はウソを払拭するどんな工夫と努力をしてきたというのか。

 ≪≪≪なぜミサイル撤去を迫らないか≫≫≫

 実は本腰を入れて何もしなかった、どころの話ではない。一昨年末の日韓合意の共同記者会見で、岸田文雄外相は「当時の軍の関与」をあっさり認める発言をし、慰安婦像の撤去については合意の文書すら残さず、曖昧なままにして帰国した。しかるに安倍晋三首相はこれで完全決着した、と断定した。
 まずいことになったと当時私は心配したものだが、案の定1年を待たずに合意は踏みにじられている。国際社会にわが身の潔白を示す努力を十分に展開していたなら、まだ救いはあるが、「軍の関与」を認めるなど言いっぱなしの無作為、カネを使わない国際広報の怠惰はここにきてボディーブローのように効いている。

 軍艦島をめぐるユネスコ文化遺産登録の「強制労働」を強引に認めさせられた一件の致命傷に続き、なぜ岸田外相の進退が問われないのか不思議でならない。

 私はもう一つ別の例を取り上げる。対ロシア外交において、プーチン大統領来訪の直前、択捉島にミサイルが設置された。

 日本政府はなぜ抗議しなかったのか。せめて平和条約を語り合う首脳会談の期間中には、ミサイルは撤去してもらいたいと、日本側から要請があったという情報を私はただの一度も目にし耳にすることはなかった。

 私は安倍政権のロシア接近政策に「合理性」を見ていて、対米、対韓外交に比べていいと思っている。北方領土は放っておけばこのままだし、対中牽制(けんせい)政策、シベリアへの日本産業の進出の可能性などを考えても評価に値するが、ミサイル黙認だけはいただけない。昔の日本人ならこんな腰抜け外交は決してしなかった。

 ≪≪≪感情的騒ぎを恐れてはならない≫≫≫

 もう一例挙げる。オスプレイが沖縄の海岸に不時着する事故があった。事故機は住宅地を避けようとしたという。駆けつけた米国高官は、日本から非難される理由はない、と憤然と語ったとされるが、私もそう思う。いわゆる沖縄をめぐる一切の政治情勢からとりあえず切り離して、搭乗員がとっさにとった“回避行動”に、日本側からなぜ感謝の言葉がないのか。県知事に期待できない以上、官房長官か防衛相が一言、言うべきだ。これは対米従属行為ではない。礼儀である。

 感謝の言葉を聞かなかったら、米兵は日本をどうして守る気になるだろう。日本は武士道と礼節の国である。何が本当の国防のためになるのかをよく考えるべきだ。
 プーチン大統領には来てもらうのが精一杯で、ミサイル撤去の件は一言も口に出せなかった。沖縄の件はオスプレイ反対運動の人々のあの剣幕(けんまく)をみて、何も言えない。岸田外相が「(当時の)軍の関与」を公言したのも、韓国の感情的騒ぎが怖かったのである。

 何かを怖がるのと、安心していい気になるのとは同じ事柄の二面である。今度、韓国に「経済断交」に近いカードを切ったのは、ことの流れを知っている私は当然だと思っているが、日本人がこれで溜飲(りゅういん)を下げていい気になってはならない。日本人も本当に怖い国際世論からは逃げているので、情緒的韓国人と似たようなものだと思われるのが落ちであろう。(評論家・西尾幹二 にしお・かんじ)

「韓国が国際社会に喧伝するウソ「20万人」「軍関与」 日本は「国際的恥辱」払拭する努力してきたか」への4件のフィードバック

  1. 不快な反日韓国のバックは中国であり、韓国などを相手に「報復」することは、お灸を据える程度の意味はあり、キチンと据えておくべきと思いますが、真の敵を見誤るもので、日本政府の対応は真の敵中国に向けられるべく、その方法は真っ赤なウソを暴くという極めて容易なことと思います。国際社会で日本を貶めるために中国が懸命に必死に宣伝する、又はさせる「南京」「尖閣」「慰安婦」などの歴史捏造は事実を摘示するだけで平和裡に勝つことができます。中国は反論するでしょうが、それは必ずイデオロギーによる宣伝文句にしか過ぎなく、今回のアパ会長のように、そして保守系の多くの先人達のように、正面から再反論すれば論破できる、理性ある者なら欧米人も誰も日本の主張を正当と認めるはずです。「事実にあらざる国際的恥辱の汚名を雪ぐこと」は本来政府の仕事ですが、腰抜けで動かない以上、外相や首相を馘首するわけにはいきませんから、ネットを活用した民間の努力でも可能ではないでしょうか。そしてこの歴史問題は中国現政権建国の根幹や土台ですから、言論でここを崩せば政権を転覆することさえ可能と思います。いま日本国に降りかかるもろもろの災厄の根を絶つには共産党政権の撲滅以外ありません。その意味で、辣椒の好著『嘘つき中国共産党』は非常に時宜を得た出版と思われます。

  2. かつて米国占領軍が日本を再び大国に復興させないため、「侵略戦争の戦争犯罪」という大ウソを捏造し、いま中国が「慰安婦」というウソと「南京」というデマを巨費を投じて世界中にまき散らしていますが、この両者とも自分の脅威となりうる日本を叩くという動機は共通し、歴史認識という精神の領域で日本と日本人を貶め、日本民族の心を蝕むという卑劣極まりない手段を用いることでも共通します。

    しかし、「南京」について先月はアパホテル会長が反撃の狼煙をあげたとみることができます。共産党独裁政権を批判する自国民を反革命として弾圧するのは未だしも、手前が勝手に捏造したウソをウソだと告発すること自体を国境を越えて弾圧するという極めて分かり易い蛮行をやってのけました。

    戦場売春婦を強制連行慰安婦とするウソは、昨年ようやく元凶の朝日新聞の捏造がばれて、ウソであることが最終的に証明されましたが、この「慰安婦」が虚偽であれば、次に「南京」の大ウソが国際的に拡散するのは時間の問題です。

    本丸は「日本戦争犯罪論(東京裁判)」のウソであり、このウソを暴かなければ日本の戦後が本当には終わりません。西尾先生の云う「事実にあらざる国際的恥辱の汚名を雪ぐ」本来のターゲットはここにあります。ここが落とせれば、慰安婦も南京も自ずと落とせるのですが、戦術としては止むを得ません。外堀から攻め落とすのが手順でしょう。ただ私はこの為にするウソやフェイクに消極的に反論し暴くことよりも、積極的に攻めることが手っ取り早い気がします。

    ABCD包囲網で締めあげられ退路を断たれた日本が自身の自存自衛とアジア植民地解放のため、ルーズベルトの挑発を受けて立ち上がり、B(シンガポール陥落・東洋艦隊撃滅)とD(バンドン陥落・インドネシア独立)は完膚なきまでに打ち破り完勝、Cには各地の拠点を押さえ判定勝ち、Aには敗けはしたが、敗因はAが卑劣な非戦闘員の大量殺りく(ホロコーストー核兵器の使用、全国の都市無差別空爆)という戦争ルール違反の反則勝ちだったという史実と歴史認識を下敷きに、個々の武人の華々しい戦功のエピソードを謳い上げる映画を、イーストウッドの「硫黄島からの手紙」以上のパンチを利かせ最新のテクニックで量産することが効果的だと思います。

    先の戦争で、日本は陸海軍将兵が、日清日露の戦いに恥じない、世界史に残る正々堂々の戦いを米国に挑みました。映画化のモデルに事欠かず、私の知る限りでも以下のような誇らしくも素晴らしいエピソードに溢れています。安倍総理が旧臘にハワイで「勇者は勇者を敬う」と戦後初めて表現したことは(文脈は不適切を免れませんが)注目に値します。

    今村均(インドネシア開放の聖将)
    栗林忠道(硫黄島のマッドドッグ)
    樋口季一郎(ユダヤ難民と千島北海道の守護者)
    淵田美津雄(真珠湾攻撃・空中指揮官)
    山口多門(ミッドウェー海戦・二航戦司令官)
    岡田資(戦犯裁判の法戦に勝った将軍)
    山下奉文(マレーの虎)
    根本博(内蒙古邦人引揚と台湾の守護者)
    臼淵磐(天一号作戦・戦艦「大和」哨戒長)
    檜貝襄治(第701航空隊飛行隊長)
    坂井三郎(ゼロ戦の撃墜王)
    奥本實(パレンバン・空の神兵)
    舩坂弘(アンガウルの不死身サイボーグ・最優秀兵士)
    松尾敬宇(シドニー軍港突入)
    秋枝三郎(マダガスカル島ディゴスワレズ突入)
    関行雄(神風特攻の魁)
    奥山道郎(義烈空挺隊隊長)
    林尹夫(四国沖の月明に燃えた学徒兵)
    和田稔(回天訓練中に事故死した学徒兵)
    谷藤徹夫(葛根廟でソ連戦車へ特攻)
    小野田寛郎(ルバング・残置諜者)
    深谷義治(上海・残置諜者)

  3. 「Will」4月号の西尾、中西両論文が重要である。
    中西氏の論文は、国際政治の煉獄の中を生きる我々の宿命を再認識させるものだ。

    西尾先生の言を引用しよう。
    「外交官が生命を賭して戦うべきは、事実にあらざる国際的恥辱の汚名を雪ぐことであ」り、「敵は韓国人や中国人のウソに乗せられる国際社会の方であって、日本の公的機関がなすべきは世界のウソを払拭することそれ自体であり、そのために戦略を立て、カネをかけ、目的を達成することです」。
    「韓国に次に北朝鮮系の大統領が出てくればすべてひっくり返され、空しくなるのは避けられないでしょう。それでいて、国交断絶する覚悟がないのならば、『軍の関与』と『謝罪金』の二つの事実がこのあとも歴史の証拠として残りつづけ、呪われたようにまといつかれるでしょう」
    「人間がすべてなのです。『勇気の欠落』が物事のすべてをおかしくしているのです」。
    「ことに政治的トラブルが日本国内で発生したときに本国政府の指令通りに動く中国人の知的集団の存在はある意味で大変に恐ろしい。そういうことも考えないで中国人移民の急増を黙って看過ごし、むしろ推進力の主役にさえなっている安倍総理に、根本的疑問を呈したいと思います」。「中国からの観光客も本当は来てもらいたくないと内心思っている庶民が実は圧倒的多数を占めていることをぜひ考えて下さい」。
    「本来なら口を開くべき自民党議員がこの手の意見を述べることはまったくありません。・・・自民党議員には総理の決めた方針に抵抗する自由がないのでしょう。・・・安倍政権の内も外も、内部も周辺も、動脈硬化を来たしているのではないか・・・」。

    大体、世界遺産登録などというものになぜ血道を上げなければならないのか。願い下げ、糞食らえである。官邸も官庁もマスメディアも自己喪失の狐憑きにかかっている。

    私は中国の現地法人の撤退を指揮し完了したのだが、撤退を決意して他の現地取引先日本企業や国内の関係先に説明した際の反応は、「中国から撤退なんてそもそもできるのか」、「中国で赤字経営なのは当たり前で、それで撤退なんてするんですか」というものであった。ここにある心的態度は何か。言うまでもなく、勇気の欠如に由来する現実への直面回避である。それは日本中に蔓延している。産経新聞の「北の大地」の連載も、国土保全どころか外国による国土買収に加担するかの如き国交省の不真面目で不甲斐ない姿勢に匙を投げている。勇気の欠落に由来する国家の溶解が留まるところを知らない。

    江藤淳との対談で小林秀雄が言った「江藤さん、日本は終わりませんよ。終わるものですか」(本が手元にないため、発言は記憶に頼ったものであることをお許しいただきたい)を、私は密かに心の拠り所としてきた。だからこそしかし、西尾先生が今回の論文で「私はほとんど日本の未来に絶望しています」と語られた衝撃は小さくない。

    当方の駄言は終わりにして、マックス・ウェーバーの言葉を引くことをお許しいただきたい。
    「およそ政治というものは、それが目指す目標とはまったく別個に、人間生活の倫理的な営みの全体の中でどのような使命を果たすことができるのか。言ってみれば、政治の倫理的故郷はどこにあるのか。(中略)それでは、最近になってー私の考えでは完全に間違った仕方でー再燃してきたこの問題に、思いきって取り組んでみることにしよう。
    ・・・男女の仲を例に引いて、わかりやすく騎士道精神に反する場合を説く・・・
    戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである。あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと告白する代わりに、厭戦気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである。同じことは敗戦者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者ならー戦争が社会構造によって起こったというのにー戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方では戦勝者に負わされた将来に対する責任ーこれが肝心な点ーにもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。戦争に対する道義的埋葬は現実(ザッハ)に即した(リッヒ)態度(カイト)と騎(リッ)士道(ターリッヒ)精神(カイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」【自己弁護の「倫理」】によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは実は双方における品位(ヴェルデ)の欠如を意味する。政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは-もしそんなものがあるとすれば-こういう態度のことである。しかもその際、勝者はー道義的にも物質的にもー最大限の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な情勢を買い取ろうという魂胆があるから、こういうはなはだ物質的な利害関心によって問題全体が不可避的に歪曲化されるという事実までが、そこでは見逃されてしまう。「卑俗」とはまさにこういう態度をこそ指す言葉で、それは「倫理」が「独善」の手段として利用された結果である。」
    (マックス・ヴェーバー「職業としての政治」脇圭平訳傍点 傍点、原著)

    「名誉の侵害」、それに断固として立ち向かわない我が国に対して、国民はどのような発露を求めることになるのであろうか。

  4. 数年前、中国の税収が落ち込み北京の税関総局が全国に向け、外国企業からの追徴を指示したらしく、ある省で突然日系企業を標的に種々難癖をつけ過去に遡って関税を課してきました。反論し、手練手管で撤回させましたが、驚いたことに周辺の数社は素直に応じ支払っています。ここでも日本人経営者の「勇気の欠落」の一事例です。争うべきときに争わない事勿れの、この勇気欠落現象が日本社会すべてに蔓延しています。

    この日録にリンクしている唯一のブログ「TEL QUEL JAPON」は亡くなったブリュッセルこと坦ケ眞理子女史のものですが、以前私に「右翼に袋だたきにされて死ぬのを覚悟でいつかしっかり書かなければと思っています。」とメールし、志の高い興味深い発掘記事を綴り続けながらも、大方の保守を含めて「腐ったか、日本」と西尾先生同様、「日本の将来に絶望」していました。では最早や非常手段を考えるしかないと云ったところ、「日本人が日本人を殺してどうする」と諭されたことがあります。絶望するのも、腐ったとみるのも、「名を惜しむ心」が根底にあるからですが、この心を持たない日本人が増殖したのが「勇気の欠落」の根源です。「豚に歴史がないように百姓・庶民に歴史はない」という平泉氏の言葉も一面の真理を突いています。しかし、ソーシャルメディアを通じて日本人有権者・庶民の過半が歴史の真実を知り、真実の声を聴くようになれば、国益と愛国心にめざめ、政府も「名誉の侵害」に断固として立ち向かわざるを得なくなるのではないでしょうか。最近FBで沖縄の20歳の女学生の憂国の力強い弁論を聞いて心強くおもった次第です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です