あとがき
私は、自分は保守主義者であると言ったこともなければ、保守派の一人であると名乗ったこともありません。保守という概念は私のなかで漠然としていて、自分の問題として理論武装したことがありません。ただ今回は少し違います。表題と副題に示したとおり、「保守」を積極的に使用しました。われながら大胆であるとびっくりしています。
日本の今の政治に対し物申す抗議の思いにおいて、本書は切なるものがあり、私の見解や主張を誰にでも分かるように効果的に打ち出すうえで、「保守」は便利な記号でした。
ある人、ある人々が賢者であることを自己宣伝している場合に、賢者であることはいかに困難で希有な例外であるかを示しさえすれば、彼らが愚者であることを論証しなくても、賢者でないことは自ずと明らかになるでしょう。ある人、ある人々が勇者であることを売り物にしている場合には、真の勇気とは何であるかを説明しないでも、彼らのたった一つの臆病の事実を指摘することに成功しさえすれば、勇気を誇示した彼らの物語は、総崩れしてしまうでしょう。
同様に今の日本で「保守」の名の上に胡座をかいている自由民主党とその指導者たち──たいがいは二世三世議員で、努力しないで栄冠をかち得ているリーダーたち──は、本物の保守の正しい条件を示されれば、いかに「保守」の名に値しない人々であるかを思い知らされるでしょう。そして、リベラル左派となんら変わりのない言動の事実を一つでも指摘することができれば、保守政治家をめぐるすべての名誉ある物語は崩壊し、雲散霧消してしまうでしょう。
「保守」は元来、人気のない、嫌われ言葉でした。「保守停滞」「保守頑迷」「保守反動」……等々の使われ方が示すように、良いイメージは少なく、政党名に用いられることは日本では不可能でした(本書・の二、参照)。私が大切にしているのは保守的な生き方であって、政党政治上の保守ではありません(本書・の一、参照)。ところがどういうわけか近頃、人気のないこの悪者イメージに少し変化が生じてきたのです。
理由は分かりません。「保守的」であることを若者が好むようになってきました。この付け焼き刃的な、風向きしだいでどうにでも変わる、あまり根のないムード的な保守感情は、なにごとであれ事を荒立てることを好まない今の日本社会の体質とも合致していて、「保守」は安全で穏健なイメージをかち得ていて、プラスの価値づけがなされているのです。安倍晋三氏を「右翼」呼ばわりしながらも最大多数で公認している日本社会の空気の流れは、この中途半端さにぼんやり漂うように生きることを好む今日の日本人の生ぬるい性向をこのうえなく象徴しています。学校名にも商品名にも使いたがらない「保守」という字句、選挙用ポスターにも用いたくない「保守」というネガティブな概念がやっと日の目を浴び、恰好のいい風格ある言葉として浮かび上がってきているのが昨今です。そして安倍氏が退陣しても、自民党はなおしばらく日本社会の保守体制(エスタブリッシュメント)として君臨し続けるでしょう。
しかし、われわれはいつまでそれを許していてよいのでしょうか。この政党と政治家たちは日本と日本国民の首をゆるやかに絞め続け、やがては窒息死に向かわせてしまうのではないでしょうか。本当の「保守」とは、こんなものであってよいわけがありません。本書・の一の後半において、真の保守の五つの表徴を掲げておきました。これに引き比べ安倍政権のやってきたこと、あるいは何もしなかったことは徹底的に批判されるべきです。
彼らよりさらに保守的な、安倍氏の及びもつかない思想が日本にはあります。日本民族の存続が問われる思想の要点が今述べた五つの表徴ですが、日本のマスメディアがこれを逃げ、「極右」とか「ポピュリズム」とか一括して乱暴に葬り去るのを安倍氏と自民党はうまく利用していて、自分たちを最右翼の安全な現実主義者であるかのように演出しています。保守言論知識人も自民党の応援団の域を出ないので、同じ間違いを犯しています。 極東の空と海が一触即発の危機に迫られている現下において、国民の不安と恐怖をよそに、自民党の内部と周辺に、民族の生存を懸けた真実の発語はなく、シーンと静まりかえっています。岸田文雄氏も麻生太郎氏も小泉進次郎氏も石破茂氏も、もはや期待できません(彼らはすでにお蔵入りです)。自民党の奥の方から首相の寝首を掻く兵(つわもの)はなぜ出てこないのでしょうか。
安倍晋三氏は、アメリカから「修正主義者」と呼ばれました。国内では「右翼」呼ばわりされています。じつはこれは「贋の保守」だということなのですが、そのことが「真の保守」の登場を阻んでいるのです。真の賢者や真の勇者にあらざる者に「贋の賢者」や「臆病者」のカードがきわめて有効であるように、安倍晋三氏と停滞する自民党にカードを突きつける場合に、「保守」はこのうえなく便利な符丁です。
本書『保守の真贋』は、「真の保守」の存在する可能性を示し、党内党外を問わず、政治の流動化を止めている局面の淀みを打開するよう訴えているのです。
自民党の現状よりもずっとましな保守グループがなぜ出てこないのでしょうか。「日本ファーストの会」という名の団体が出てきたようですが、民進党の落ちこぼれ組と手を組もうとしているところを見ると、とうてい本物の「保守」の任に耐えられるものではなさそうです。
今までの「保守」が「保守」を邪魔しているのです。選挙のたびに自民党に入れたくない浮動票が「受け皿」を探している時代です。本書を読めば、「真の保守」の何たるかが分かるでしょう。正々堂々と今までの自民党を保守の立場から批判する個性、ないし団体の登場が今ほど待たれているときはありません。外圧であれ、小内乱であれ、今までの贋の秩序を根底から組み替える力がどこからか働かないかぎり、わが国の未来は救われないでしょう。
私自身は保守といい、革新といい、いかなる政治概念(イデオロギー)も信じていません。何度も言っていますが、「保守」は切り札となる便利な記号なのです。大切なのは、わが国の未来を変えたいというひたむきな情熱です。観念ではなく、行為です。本書は一人の非政治的人間の私心なき訴状にほかなりません。
本書の具体的な成立次第は、第一部・と・の■一において詳(つまび)らかにしてあるので、ここでは控えます。
第二部は、独立した別個のエッセー群です。そのなかの・は、ある雑誌に連載途中だった「現代世界史放談」です。本当はこれで一冊作りたかったのですが、そうなると出版が大分先になるので、ここに収録しました。・の一の題「広角レンズを通せば歴史は万華鏡」は、私の今の心からの実感で、これにより今後また歴史に関する新しい活動ができるのではと自分に期待している切り口の一つです。
ノンフィクション作家の加藤康男氏に緊急対談をお願いしました。本書のきっかけとなった「産経新聞」コラム【正論】「思考停止の『改憲姿勢』を危ぶむ」を書く上で、氏が影の協力者として貢献してくださったからです。詳しい事情や老齢になって目ざましい活動を始められた氏のお仕事などについては、・の冒頭部分をご覧ください。
本書は徳間書店学芸編集部で私の担当である橋上祐一氏の慫慂により、思い立ち、私自身も一冊の組み立てに参加し、成立しました。本はまたたく間にできあがりました。心からありがとう、と申しあげたい。
二〇一七年八月十五日
西尾幹二
このスレッドには関係ないことですが、たったいま北朝鮮から、ミサイルが発射されました。またも北海道の上空を通過しました。
過去日本の上空を通過したミサイルは6回あるそうです。
こういう事実を、私たちはどういう風に受け止めるべきなんですか。
怒るべきなんですか、それとも冷静に受け止めるべきなんですか。
どうなんですか皆さん。
しかもミサイルが着水している地域は、北太平洋の一部です。
以前西尾先生が、いみじくもこの地域が唯一、無法地帯のように誰も踏み入れたことのない海域であることを指摘しましたよね。
ベーリングとかがいましたが、それ以外に接する者がほとんど皆無で、しかもその視野は太平洋側にはなく、北洋海域にばかり眼が向き、この海洋地域が世界地図では無法地帯であることを示すような現実が、北朝鮮のミサイルによって認識させられるという現実です。
たしか私の記憶が間違いでなければ、クック船長がこの地域に挑戦してその後死亡しています。西尾先生の講義をビデオで見て知りました。
地球上の唯一残された無法地帯のごとき漂っている海域に、北朝鮮は二度もミサイルを撃ち込みました。
おそらく今後、この海域は誰もが注目する場所になりかねません。
こうした発信はおそらくほとんどの日本人が関心を寄せず、かえって他国の情報機関の方が、私たちのこんな些細な意見を拾っているんじゃないかと想像します。
不思議な世の中に成っちゃいました。でもそれが現実です。
このことを無視しないでください。
その象徴が、北朝鮮のミサイルの着水地域なんです。
つまり世界が油、断している唯一の「海域」だということ。
そしてそれはけしてその海域だけではなく、我々の心の中にも、その油断は充分存在しているということ。
皮肉にも北のミサイルはそれを示唆するという現実。
江戸時代あたりから日本の近海では世界が様々な取引を行っていたと、西尾先生は語っていました。知らぬは我々日本人のみで、その象徴は、このようなミサイルの発射があって初めて「ハッ」とする次第で、国民がそれを認識できる体制にあるべきなのが「普通」であり、事後にそれをようやく認識するという事態は、あまりにもお粗末です。
身近な現実から言えば、今年はさんまが高いです。当たり前です。漁場にミサイルが飛んでくるからです。誰がそんなところにわざわざ船を出しますか?
前回のミサイルが効いている証拠です。
おそらくこのままではさんまはしばらく食べることができない魚です。
そんなことより、問題はそれに携わっていた漁師の生計です。
漁場がそうなる可能性を示唆できていなかったことが問題です。
西尾先生の着眼点がこういうところでも発揮している生の証拠です。
北朝鮮の心理を、国民レベルで認識すべきなんですよ。
そうすれば日本も目覚めるんです。
「いいかげんんにしろよ」という単純明快な心理が生まれるんです。
憲法改憲なんかちゃんちゃらおかしな話に終わっちゃうくらい、現実が先行するわけです。第一自衛隊なんかその象徴じゃないですか。
元々法律なんて守る人の間で通用する手段であって、金正恩君のような、法律という概念が備わっていない人間には、ちゃんちゃらおかしな制度でしかないのが現実で、誰がそれを教えることができると言うのか、そういう問題と一緒なんです。
それよりも、そうした策略家がもしも行動に移すとき、狙われた立場の人間が、どこか油断していないかを事細かに認識しておくのが大切で、その意味で、西尾先生の北太平洋海域の無法地帯を意識すべき意見は重要なんです。
こうしたことに誰かが着目したでしょうか。冒険家以外にこの海域に意識が寄ったでしょうか。ロシアもアメリカも放っておいた海域かもしれません。
「アンタッチャブル」という言葉が適切かもしれません。
そんな海域が我々国土のすぐ隣にあったということに、びっくりするわけです。
西尾先生は言いました。「日本は今も鎖国状態ですよ。なぜなら江戸時からずっと鎖国しているんですから。」これを解きほぐすものは何も起こっていませんよ。気づかないんですよ日本人は。それがダメなんです。こんなに国民が賢いのに、それを正しく伝えることができないことのデメリットを、認識しなければならない時代かと私も確信します。
私は利害関係が全くないので思い切って言わせていただきます。
西尾先生の周りに集う先生方やそのほかの方々に申します。
あなた方はいったい何のために先生を支持されているんですか。
そしてそれは何の目的なんですか。
もしも先生の意見を聞くだけの会ならば、インターネットだけで済むことじゃないですか。何かを意見することが、一番大切なんじゃないですか。
ここに書き込まれているものを見ますと、時代に即していないものも結構あります。
特に防衛関係に関するご意見はほとんど拝見できません。
私は北海道の温泉旅館んで働いている一市民です。
2002年からこのサイトに参加しています。
当時はもっと、自分の感情をぶつける書き込みが多数ありました。
私なんかこんな真面目な場所でふざけたことも書きこみました。
どうかみなさんもっと気軽に書き込んでください。
難しく考えないでください。
素直な自分を書き込んでください。
そういう時代じゃないですかまさに今。
近著「保守の真贋」と旧著「真贋の洞察」を読んで
いまこのコメントを投稿しようとブログを開いたところ商人様からのコメントに気付きました。「どうなんですか皆さん」のなかに私も含まれると思いますので簡単に。
先週8日に九州方面へJALに乗りましたがその時北が又やるのではないか、万が一にも当たるのではないかという微かな不安がよぎりました。今朝も北海道上空を飛んでいたJALやANAや外国航空機を北のミサイルが掠めたはずですが、政府はどの航空機や船舶・漁船とミサイルがどの程度接近していたかを公表するべきと思いますが、昨年中国軍機の挑発を政権が隠し織田氏が告発したのと類似の隠蔽でしょうか。いま日本の執るべき対策は西尾先生の意見通り、イスラエルがイラクをやったように基地を叩くことで、軍事技術の詳細は知りませんが、策源地や核施設の位置さえ摑めば自衛隊の在来の軍用機で撃滅可能というのが専門家の意見でした。威嚇され、怯え、狼狽え続けるよりも、その根を絶って国民が枕を高く寝られるようにするのが当たり前で、それが政府の国民への責務です。EMP、BLUなど、どうやって北の反抗を封じ悲惨な事態にならぬ仕掛けを米軍と十分に検討しているはずで、日本が当事国として作戦を主導することが重要ですが自民党政権にその覚悟がないのでしょう。また現下の状況は左翼勢力を言論によって日本から駆逐する絶好の好機ですが今の自民党政権にはその能力も意思もないでしょう、と書いてここでストップせざる得ないことに忸怩たる思いです。 なお、ブログは自由なフォーラムであって、多忙な者は時間の出来たときに、勝手放題を言い合い、無視することも勝手、相互に反論の義務も負わない、その限りで無責任だが、発言するからには筋を通す、それでこそ価値があると理解します。
以下、本論です。脈絡なく思いつくままを書いてみます。
1.保守が本物かどうかの基準を私は「愛国者かどうかの基準」と理解しますが、先生は皇室、国土、民族、反共、歴史の5つを挙げておられ、非常に分かり易く、使いやすいメルクマールと納得しました。私はさらにもう一つを加えたい。5つのどれかに含めることも可能かもしれませんが「軍備」を独立の基準にしたいと考えます。在来兵器、核、サイバー、宇宙のすべての軍備を充実させ、日本を軍事強国に脱皮させる意思がない保守は保主として、愛国者として健全ではないと思います。世界が国という単位で動いている以上、国が強くなければ、現状のように、馬鹿にされるだけです。安倍首相が各国を旅行して首脳会談を重ねても、肝心なことを決める外交交渉で主要プレーヤーになれず蚊帳の外に置かれるのは、常任理事国でないことだけでなく、軍事強国でないことが原因です。
2.ベネディクトは日本を「恥の文化」としましたが、戦後の日本はその恥の感覚さえも失い、北ごときに日本列島を何度も軍事的に脅迫され、薄汚い言葉で辱められても、「強い言葉で非難し抗議する」を政府は繰り返すだけ。一般国民は日本が国際社会で北に恥をかかされ、もの笑いにされても、屁とも思わない情けない国になっています。昨今の北の脅迫よりも以前に、対米隷属こそ国際社会が日本を蔑視する源であることからも目を背けています。この廉恥心は二心なき良心の裏返しであり、政治指導者にはこれが不可欠の要件と思いますが、本書で、「巧言令色、美辞麗句、虚言不実行、政治的不誠実、国民欺瞞、逃げ腰、小手先、国民的不始末」といった強烈で容赦なき安倍首相罵倒、自民党への胸のすく啖呵はこの要件欠如を余すところなく指摘し、いちいち腹に落ち、安倍政権への失望を共有しますので、溜飲の下がる思いです。
3.確かにその通りなのですが、この廉恥心や良心の欠如は、誠実、正義、敢為、勇気などの武士道にも反し、安倍氏個人の問題ではなく、安倍氏の背後に居る有権者、現在の日本人一般の問題であると捉えるべきではないでしょうか。9条2項の削除も、拉致被害者奪還もいまの一般の日本人多数は、殆ど関心がなく、たとえ実現しても左程喜ばないのではないか、もし喜ぶ人々であれば、今もっと強く、一部の我々のように削除や奪還を支持するはずではないかと思います。西尾先生が、「国民の最大に望む外交は事実にあらざる国際的恥辱を雪ぐこと」と言われますが、これは幻想で、多くの国民はさほどに望んでいないのが我が国の現実ではないでしょうか。「わが国の未来を変えたいという(先生の)非政治的人間の私心なき訴状」を受理し、審理し、判決を言い渡すべき国民は今日本に存在しない。彼らはマスメディアの情報操作で簡単に付和雷同する無責任で無知な大衆であり、彼らは政治に口を出してはならない存在ですが、平等に一人一票が与えられ、本来政治に関わってはならない、自分の人生を政治に賭ける覚悟や気概のないものが親の七光りで政治家になっています。自民党では日本民族を守ることは出来ません。
4.安倍氏他自民党の政治家や保守の人々の胸に青い徽章が付いていますが、私はこれは寧ろ恥と思います。付けるべきではない。付けることによって、人々を奪還できない無力さを告白しているようなもので救出できない免罪符にしているのではないかとさえ思います。家族の方々も徽章で同情心を表現するくらいならすこしでも実効性のある何かに着手してくれと内心思っておられるのではないか。
5.前のコメントで私は西尾先生のこの批判が、保守内部の批判であって、安倍政権打倒を狙う左翼勢力に加担するものではなく、正反対の方向からの批判なので、結果的に支持の効果があり、安倍以外のより悪しき政治家の登場を牽制する効果があるのではないかと述べましたが、池田様がこの後コメントされないのは、あまりの牽強付会に呆れて無視されたのではないかと推測します。「政治は現実に妥協するが、思想に妥協はない。言論人は政局に自分を合わせる必要は無い」という確かな信念によって通常の理性の持ち主なら誰にも理解でき共感する率直で正直な意見を公表することで権力の小判鮫を炙り出し、エセ保守言論人の欺瞞を暴いてその心胆を寒からしめる仕事は、幕政を正道に導いた大久保彦左衛門を彷彿とさせます。
6.最近、明治維新時の徳川幕府の幕臣達のことを文献に当たって調べていますが、例えば乃木希典と同僚だった田島応親、宮古湾海戦のアボルダージ(1869年)で東郷平八郎を襲った荒井郁之助の写真が残っており、その風貌や行蔵から江戸時代末期の士族の資質や気象がある程度推測でき、彼らが生き残っていれば迷わず「首相の寝首を掻く兵」になっていたのではないかと勝手な思いに駆られました。彼らは日本をグローバリズムから守ろうとして破れましたが、勝っていれば公武合体の穏健な変革が実現し江戸300年の伝統文化も万全な形で継承され日本の近代化もより好ましい道を辿ったことと思います。
「江戸のダイナミズム」で、たしか「アヘン戦争で日本が西洋の武力の脅威を感得し恐ろしさを直感できたのは武士階級が日本を支配していたから」という記述がありましたが、今、北の軍事的脅威に、嘗てのアヘン戦争時に中国が安閑と落ち着いていたように、「非難と抗議」だけで安閑としていられるのも、武士階級の末裔が消滅して、リスクを感得できない人間が今の日本を構成し、支配しているからとも思われます。「今ほど政治家や官僚たちの見識、勇気、人格が問われているときはない」と書かれていますが、乃木や東郷、田島や荒井には、「アメリカへの依存心理」は毛ほども生じなかったでしょうし、北に対して執るべき措置も誤らなかったと考えられ、「自民党よりさらに保守的な、安倍氏の及びもつかない思想」を当然のように持っていたでしょうし、「自民党の現状よりもずっとましな保守グループ」となったでしょう。要は今はまでの贋の秩序を根底から変える力はWGIPの逆洗脳の国民教育からしか出て来ず、しかしそれではいまここにある危機には対応できないので、自衛隊の超法規的措置に期待せざるを得ないと思います。
宮崎正弘さんによる次の紹介が目に這入りました。
私の知る限りでは、宮崎さんもこれまで、一般の保守言論人同樣、安倍政治に寛容で、嚴しく批判されたのを目にした記憶がありませんが、西尾先生の『保守の眞贋』については、正確に讀み、忠實に書いてをられると感じました。「西尾先生 氣が短か過ぎます」と言つた編輯長さん(この人のことを、私の仲間は「ただのノンポリ、少し商才に長けたビジネスマン」と評しました。皆さん、既にお読みでせうが:
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
この書は保守知識人に対しての鋭い問いかけの形をとっているが、骨格は現代日本政治批判である。
日本を窒息させているのは、寧ろ自民党と保守を自認する言論人、知識人ではないのか。北朝鮮、中国によって日本列島が軍事的に脅迫されているのが目の前のリアリティだが、いま政府が提示している加憲のアイディアは醜悪であり、これに追随する保守とはエセ保守であると、抜き身の白刃、おさめる鞘がない。
とくに安倍首相への叱責の筆法は「保守の星」が保守をつぶしており、戦後政治の総決算といって何もしなかった中曽根と同じである。米国と中韓に対しての姿勢は「びくびくしすぎだ」とし、その返す刀で批判の矛先は保守知識人やメディアにも及ぶ。
曰く。
「今の言論界を見ていますと、以前として政局論が跋扈しています。自分の好みの政治家や支持したい政党に対して思想家や言論人があまりにも政治的に振る舞いすぎる(中略)。ひところは石原慎太郎政権をつくりたいという思惑から、そしてその後、安倍晋三政権をつくりたいという思惑から、言論雑誌そのものまでが翻弄されていた」
「言論界において政局占いみたいなことはやるべきではない」
「オピニオン雑誌が政治家をスター扱いして巻頭に掲げるような愚劣なことももう止めて欲しい」
「特定の政治家が何かを実現してくれると思い込んで、言論人が集団思考に陥る。それほどばかばかしいことはない」。
いま、北朝鮮の核を目の前にしながら、米国の軍事力にしか期待できない日本。自立の精神が失われ、自衛隊は米軍との共同訓練が基軸であり、独自に防衛ができる体制にはない。
そして自衛隊を認めない占領基本法を「平和憲法」と偽り、一つの偽善が、次々と大きな偽善を拡げ、偽善が蔓延して、何が真実なのかがわからなくなってしまったのが、いまの日本。西尾氏の基本認識はそこにある。
宮崎正弘、こすい奴ですね。
>この書は保守知識人に対しての鋭い問いかけの形をとっているが、骨格は現代日本政治批判である
自分のような言論活動をしている者に向けられたものであることから目を逸らしたくて仕方がないんでしょう。
>自衛隊を認めない占領基本法を「平和憲法」と偽り、一つの偽善が、次々と大きな偽善を拡げ、偽善>が蔓延して、何が真実なのかがわからなくなってしまったのが、いまの日本
こんなものは西尾さんの今回の本とは何の関係も無い、毎度ながらの「戦後左翼の欺瞞批判」ではないですか。
黙殺するのではなく、敢えて矮小化して評価し、自分らへのダメージを少なくする、
なんと卑怯な手を使うのかと呆れます。
宇井山さんのやうな見方もありましたか。
「自分のような言論活動をしている者に向けられたものであることから目を逸らしたくて仕方がない」ですか。
私はこの數年、保守言論人について、この人は安倍批判をするか否か、興
味本位に觀察してきました。もつとも、安倍翼贊體制に恭順を誓ふやうな言説は面白くなく、不愉快でもあるので、5~6行讀んで投げ出す(テレビならチャンネルを替へる)ことがほとんど(もしくは、名前を見ただけでうんざりして、全く讀まない、見ない)なので、觀察結果は、極めて不正確ですが。
それでも、安倍批判を絶對にしない人々の名は、少くとも10人はすらすら言へます。ずゐぶん露骨な人もゐます。口の惡いことを賣物にし、右も左も斬りまくるといつたポーズをとつてゐるのに、安倍批判となると、ピタリと口を噤む。あるいは、とつてつけたやうな、そして齒の浮くやうな阿諛追從を、恥かしげもなく竝べる。あの顏、この顏と目に浮びます。無頼漢のやうな風貌・口のきき方の元編輯長、紳士風の顏、靜かな聲で安倍長期政權待望論を穩かに説く元教授・・・。
西尾先生がおつしやるやうに、「保守系のメディアはまったく安倍批判を載せようとしない」のですから、商賣上の都合は分りますが、それにしても、少しも惡びれない彼等の態度には感心します。
そんな中で、宮崎さんの説は大抵最後まで讀みます。なによりも貴重な情報に滿ちてゐるからで、讀み了へて損をしたと思つたことがありません。そして安倍批判から逃げたとも、心にもないオベッカを使つてゐるとも、感じたことはありません。意識して考へた時に、安倍首相を批判をされたことはないのではと氣づくだけです。
私は宮崎さんの文章やその人柄(若干知つてゐるつもりです)に平素好意を持つてきただけに、上記の反應をしたのでせう。
宇井山さんの「黙殺するのではなく、敢えて矮小化して評価し、自分らへのダメージを少なくする、なんと卑怯な手」といふ評には驚きました。盲點を突かれた氣がしました。そして、贊成したくはありませんが、完全に反對・否定する根據も持ちません。
話が變りますが、我等坦々塾の會員10數名に對して、「『保守の眞贋』を買ひませう。宣傳しませう」といふ2通のメールが前後して屆きました。差出し人は、我々の仲間では、安倍シンパらしいとされてゐるお二人で、宛て先には西尾先生も這入つてゐました。どういふ意圖だらうと話題になりました。
まあ本筋以外でも、いろいろと話題になる『保守の眞贋』ではあります。
宮崎正弘氏は卑怯でこすいですか?
宇井山様が宮崎正弘氏を「こすい」、「卑怯」と評価された根拠が、池田様が引用された宮崎氏の「保守の真贋」書評の文言だけならば、つまり私の知らない宮崎氏の他の言動が判断根拠に入っていないならば、言葉尻を捉えた穿ち過ぎの邪推ではないかと思います。
“「平和憲法」と偽り、一つの偽善が、次々と大きな偽善を拡げ、偽善が蔓延して、何が真実なのかがわからなくなってしまったのが、いまの日本。西尾氏の基本認識はそこにある”にある「憲法の偽善」は確かに仰るとおり基本的には戦後左翼に向けた批判ではありますが、9条3項を云い始めた安倍首相やその応援団保守に対しても立派に通用する批判であり、偽善や欺瞞は左派の専売ではないとするのが本書の背景と理解します。「西尾さんの今回の本とは何の関係も無い」というのは如何なものでしょう。また、批判の矛先が向けられた保守知識人にご自分は含まれない信念があれば目の逸らしようがありません。
宮崎氏がもし安倍改憲論や拉致二枚舌に追随する言動があったのであれば話は別です。安倍批判の言説がないことは直ちに安倍追随や追従につながりません。
西尾先生の安倍批判が、その政策や言動を超えて、あえて酷薄ともいえる人格や資質非難にまで踏み込んだのは、動かしがたい事実を押えてのことであり、日本の将来に対する真剣でひたむきな心からのよくよくのことであると推測します。誰であれ、そうではない安易な人格批判は控えるべきかと。
宮崎さんは昔から安倍さん追従の姿勢はありました。
わたしはチャンネル桜の討論討論討論という番組を、西尾さんが出ているときは欠かさず見ていたのですが
もう何年も前、西尾さんの他には高山正之、宮崎正弘、代表戸締りとかいう自称経済評論家などが出ていた回で、
何かの話題で高山さんが「麻生なんかじゃ話にならない」と言った後には何も言わなかった宮崎さんが
西尾さんが安倍首相に矛先を向けたとたんに「でも先生、血筋、毛並みは重要ですよ」と西尾さんを遮ったことがありました。「毛並みで擁護するなら麻生の時にも言えよ」と思ったので覚えていますが、こういうことは昔からちょくちょくあります。
宮崎さんに、御自身は西尾さんの批判する保守知識人には含まれない「信念」があれば、卑怯者ではなくコスイわけでもないでしょうが記憶障害ですね。
私は別に、西尾さんが今回のような本を出したから急に安倍追従「知識人」が気になりだしたのではなく、
安倍第一期政権で首相が最初の外国訪問にチャイナを選んだ時、チャンネル桜の社長と日本政策研究センター伊藤さんの「アメリカに行かないでチャイナを選んだ安倍さんは凄い」という番組を見た時に何だこいつらはという疑いが始まり、終戦記念日、靖国神社で三好さんだか小田村さんだか忘れましたが「今ここに安倍さんの姿は無い、しかし安倍さんを責めてはいけない、首相がお参りしたら朝日に叩かれる、左翼にいじめられるから首相は来られない、首相が来られる環境を作るのが保守派の役目である」と講演しているのを見た時に完全に疑念が固まりましたから、
その手の連中の言動はいろいろと覚えています。
普通は、最初から何も期待できない相手よりも、自分が信じた人間が期待通りの働きをしないときに人は怒るものだと思いますが、産経の阿比留瑠偉などは、安倍首相のお参りがないことは批判せず、菅直人が靖国に参拝しないことを批判した文を出したこともあります。
阿比留はちょっと前の産経一面の署名記事の最後を、一見何の脈絡もない「首相は漸進主義だ」という文で結びましたが、あれは西尾さんの6月1日正論欄への当てつけだと判れば何の不思議もありません。
わたしは「やらまいか」というチャンネルの事は知りませんでしたが、ここでの皆様の書き込みを見て、その放送で阿比留と西尾さんは衝突していたのですね。当然の事でしょう。
花田編集長の、「西尾先生は気が短すぎます」という文を産経紙面で見た瞬間に「これは全く西尾さんに対して向けられたものではない、自分の忠臣ぶりと帰依っぷりを安倍首相周辺と追従『知識人』に向け見せるためのものだ、俺は安倍さんを批判する者があれば、それがあの重鎮西尾でもこうして苦言を呈することができるぜ」とアピールするための物だと思いました。これも人によっては穿ち過ぎだと思うんでしょうか。
「信じるとは強く疑うことである」という言葉がありますが、それを座右の銘にして色々な保守派とされる人の言う事を聴いたり読んだりして、最後に残ったのが西尾さん(と、青木直人さん)です。
これからも西尾さんのご活躍をお祈りしています。
宇井山様
このご説明に納得しました。昨日の僭越な言葉をお許しください。
長く外地に居り、帰国してからも多忙で、皆さま共有しておられると思われるここに挙げられたエピソードや情報はすべて知りませんでした。背景を知った以上、私も貴論に「反對・否定する根據」はなく、さらには支持します。宮崎氏の「血筋や毛並み」が政治家の要件として重要という考えが志の低い無能でこすい世襲政治家を蔓延させ自民党を堕落させ日本の政治を劣化させてきたと思います。知識人、評論家も箸は2本、筆は1本ですので時の権力や大勢・時流から孤立できないのでしょう。
阿比留記者と花田編集長批判に全く同感です。
鈴木敏明氏のブログに以下の記述がありこれにも同感です。
“私はなぜ西尾幹二氏の意見を尊重するか。皆さん、戦前戦後を通じて、日本の保守知識人の特徴は何だと思いますか。それは日本では権力から独立した知識人は、極端に少ないことです。これは日本の悲劇です。むしろ、権力によって認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流なのです。それだけに権力から独立した知識人は、自分のことより国家にとって大事かどうかを優先します。それだけに権力から独立した保守知識人、西尾幹二氏の意見は貴重なのです。”
青木直人氏の意見も読んでみるつもりです。
宇井山 樣
恐れ入りました。完全に降參します。
私自身は、人(特に、その過去の言説)に對して酷薄であると、時折反省します(西尾先生から過激と評されたこともあります)。そして、なるべく寛容でありたいと念じてゐます。
ところが、貴論に接した上で、己を顧みると、なんとも甘つたるく、締まりのないこと! 恥かしくなりました。
「安倍第一期政権で首相が最初の外国訪問にチャイナを選んだ時、チャンネル桜の社長と日本政策研究センター伊藤さんの『アメリカに行かないでチャイナを選んだ安倍さんは凄い』という番組を見た時に何だこいつらはという疑いが始まり」とは、凄い洞察ですね。
私はその番組を見てゐませんが、首相が支那を選んだ理由について、あれこれ考へてみました。結局分りませんでしたが、國運の伸張に向けた、安倍さんの深謀遠慮・戰略に違ひないと肯定的に捉へました。「何だこいつらは」といふやうな受取り方は全くできませんでした。宇井山さんには脱帽せざるを得ません。
「産経の阿比留瑠偉などは、安倍首相のお参りがないことは批判せず、菅直人が靖国に参拝しないことを批判した文を出したこともあります。阿比留はちょっと前の産経一面の署名記事の最後を、 一見何の脈絡もない 『首相は漸進主義だ』という文で結びましたが、あれは西尾さんの6月1日正論欄への当てつけだと判れば何の不思議もありません」ーーこれ亦全く氣づきませんでした。
敢て言ひ譯をすれば、阿比留記者の徹底的(首相の)提燈持ちに辟易して、見出し以外は讀まないせゐもありますが、假に注意深く讀んでも、とてもそれを見拔くことはできなかつたでせう。
「花田編集長の、『西尾先生は気が短すぎます』という文を産経紙面で見た瞬間に、これは全く西尾さんに対して向けられたものではない、自分の忠臣ぶりと帰依っぷりを安倍首相周辺と追従『知識人』に向け見せるためのものだ、俺は安倍さんを批判する者があれば、それがあの重鎮西尾でもこうして苦言を呈することができるぜとアピールするための物だと思いました」ーーこれを穿ち過ぎなどとはとても言へません。恐るべき犀利な分析・お見立てに敬服、感歎するのみです。
「信じるとは強く疑うことである」ですか。私もこれを座右銘にしたくなりました。
それにしても、宇井山さんのやうな方がをられるとは、驚きであり、喜びでもあります。この世は、金太郎飴のやうな安倍信者が全てではない。これほどの見識・眼力を備へた人もゐるのだと知つて、頼もしく嬉しくなりました。
宇井山さん、また御教示下さい。 御健勝を祈ります
(追加)
「毛並みで擁護するなら麻生の時にも言えよ」との宇井山さんのお言葉、御尤もです。
私は「毛竝みは重要」との考へには必ずしも反對ではありませんが、安倍さんの毛竝みだけを言ふ宮崎さんは、明かにフェアぢやありませんね。
高山さんも「麻生なんかぢや話にならない」と言ったのなら、「安倍なんかぢや話にならない」とも言ふべきです。それとも、麻生は駄目だけど、安倍は立派だと、その理由をきちんと上げて、説明したのでせうか。もし、それがないのなら、高山さんも、こすい、卑怯者といふことになりさうですね。
私は高山さんの言説にかなり注意してゐるつもりですが、さう言へば、高山さんによる安倍批判にもお目にかかつたことはありません(見落しの可能性も否定できませんが)。
宇井山さん、どうなのでせう。お教へいただけませんか。
そして、「最後に残ったのが西尾さん(と、青木直人さん)です」といふことになるのですね。私も他には知りません。信頼できるのはたつた二人だけとは寂しくはありますが、さつぱりしていいですね。さういふものだと思へば、有象無象の言動に一々癇を立てることもなく、精神衞生にもよろしいですね。
空気の読めないカキコで恐縮です。
あとがきの
>「保守」は元来、人気のない、嫌われ言葉でした。
について思い出したことがあります。
90年代の選挙制度改革(いわゆる中選挙区から小選挙区へ)の際、
小選挙区に反対する派閥や個人を、小沢一郎が「守旧派」というレッテル貼りを行いました。
テレビの討論番組で、小泉純一郎が「守旧派の代表、小泉さんです」と紹介されて怒って
いたのを覚えています。
このころ小生にはひとつの疑問がありました。なぜ保守派と呼ばずに守旧派と呼んだのだろう?
「守旧派」という言葉が耳慣れなかったせいもあり、気になったのです。
誰かに答えを教えてもらったわけではないのですが、当時の小生の結論(推測)は、当時は既に
「保守派」という言葉に市民権があり、より嫌われそうな言葉を選んだ結果「守旧派」に
なったのではないか、と。
言い換えると、このころの日本には「保守」という言葉はある程度認知されていたのではないかと
思っていました。先生が仰る「元来」とは、もっと昔のことなのでしょうか。
小生、正直に言って「保守」という言葉は苦手です。ついでに、「リベラル」という言葉は大嫌いです。
理由は、リベラルと呼ばれる人たちはちっともリベラルではないからです。
先日、体調を崩して会社を休んでいた日の昼食後に何となくテレビを見ていたらワイドショーに
大塚耕平さんが出ていました。どういう話の流れだったか忘れましたが「リベラルと保守は元々
相反する言葉ではなかった。政治をリベラル対保守という対立構造で語るのはよくない。」という
ようなことを話していました。小生の理解より深い話をしているのだと思いましたが、リベラル対
保守という対立構造がしっくりしないことには同意してしまいました。
(リベラルを標榜している彼らが、もしかしたらリベラルと呼ばれることに恥ずかしさを感じている
のだとすれば素敵な話ですが、、、、、、)
勇馬様
お気になさらないでください。
鈴木敏明さんという方は存じ上げませんでしたが「日本では権力から独立した知識人は、極端に少ない これは日本の悲劇です。むしろ、権力によって認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流」
この文には全く同感です。
八木秀次、屋山太郎、亡くなった岡崎さんらの顔が次々に浮かびました。
アマゾンで、鈴木敏明さんの本を注文してみようと思います。
ご紹介いただいて、どうもありがとうございます。
余談ですがアマゾンと言えば、今回の西尾さんの本を購入した後に届くようになったメールの、「この本を買った人には次の本もお勧め」が小川栄太郎の著作なのは何の冗談でしょうか
本書が出版されたあとも北の異常行動は益々エスカレート。 安保理でのトランプ大統領と安倍さんの
スピーチに(申し合わせたのか)拉致についての言及があった。トランプ発言には横田早紀江さんの驚き
のコメントも寄せられたが、安倍さんの言葉にはなんと思われたことだろうか? 政治利用とまでは言わないが
15年、なんら進展のないこの国の政治に憤りを感じておられるのではないかと思ってしまう。
今、状差しを整理していたら、「蓮池薫さんと奥戸祐木子さんと再会をめざす会」(拉致問題を理解するための
国際情勢学習会)の案内状が出てきた。平成10年10月28日付 二人のご両親、同級生ら10名程度の
会合だった。蓮池氏の母君が「北朝鮮の寒さは日本とは比較にならないというが、健康的な生活をおくれてい
るのだろうか」子を思う母の言葉になにもできない我が国の対応に空しさを覚えた。 私にもなにもできることは
なく、家族の言葉に寄り添うしかできなかった。
15年前、二人は帰国できたが5人生存、8人死亡 との北の発表をそのまま、受け入れた日本政府に家族会は怒り、
飯倉の公邸(待機していた)では蓮池氏の
母君が、福田赳夫に「北の発言を信じて良いのか?」と詰め寄ると「あなたの子どもは帰ってきたのだから黙りなさい」
横田さんご夫妻の会見を今も思い出す。
安倍さんは当時、副官房長官として小泉総理と同行し、家族の辛い思いを一番近くでみていた政治家の一人では
ないか。 本書「置き去りにされた拉致問題」 安倍さんなら、と確かに国民は思ったはずだ。
ところで、安倍さんが拉致に言及したのなら、一発触発の際、拉致被害者の救出の戦略をもっているのだ
ろうか? トランプは同情してくれても、それで終わり。決して米軍が戦略もって救出というわけにはいかない。
まさか、米軍がなんとかしてくれると思っているのではあるまいな!
それそれとも北を窮地に追い込めば拉致被害者が日本に戻ってくる?それならその水面下での交渉が
行われているのだろうか? 素朴な疑問ばかりなのだが、結局なにもやらないだろう。
池田様
今私の手許に、2001年10月20日初版発行の、「自由と宿命・西尾幹二との対話」があります。
本が読みづらいので私はカバーや帯を捨ててしまう癖があったのですが、帯には「本書は21世紀版、ゲーテとエッカーマンだ」といったようなことが書かれていたと記憶しています。
これは、大袈裟な売り文句でなく、読んだ後、全くその通りだと思ったから覚えているのです。
お二人の間柄がとても羨ましく思える本でした。
私は自分を保守派だとは思っていますが、保守標榜団体に入ろうと思ったことはありませんので、そうした付き合いを持たない中では「池田俊二」という書き手を認識したのは早い方だと思います。
ですから今回のようなやり取りは非常に光栄で、同時に花恥ずかしい気分です。
高山正之さんに関しては一つ覚えていることがあるのですが、今はちょっと時間が取れません。
上に書いたようなことだけはまづお伝えしておきたかったのです。
連休明けの平日にでもまた書き込めると思います。
石 松 親分
あの頃の我々は福田官房長官に激怒しましたね。
そして、「安倍さんなら、と確かに国民は思」ひました。
「信頼できるのは安倍さんだけだ」とも。
そして今、「結局なにもやらないだろう」と私も思ひます。
もし、なにか(たとへば、毆り込み・救出隊の派遣)をや
つた場合は、たとへ失敗しても、二人で安倍さんに謝りま
せう。
宇井山 樣
そのやうな御縁があらうとは存ぜず失禮しました。忝いことです。
高山正之さんの出版祝賀會に、一度だけ、坦々塾の前々事務局長に
強要されて出たことがあります。安倍さんも、政權復歸の前でしたが、
出席して祝辭を述べました。時間超過の警告ベルを鳴らされ、「政治家
の話は長い」と言つて笑はせたのを覺えてゐます。乾杯の發聲は西尾
先生でした。
オール保守といつた感じでした。それよりかなり前に、人から「保守が
そんなにゐるわけがない。99%が水増しだよ」と注意され、そのことを
常に意識してゐたつもりですが、その會の出席者について、これは本物、こいつはインチキと區別した記憶はありません。
本物は「二人だけ」との御説に呆氣にとられたり、腹の皮がよぢれたり
しましたが、上記祝賀會を思ひ出し、あそこでは「一人だけ」!?と、ま
た笑ひが止まらなくなりました。
「一つ覚えていること」、よろしくお願ひします。
(追加)宇井山さんの勇馬さんへのコメントに今、氣づきました。
「アマゾンと言えば、今回の西尾さんの本を購入した後に届くように
なったメールの、『この本を買った人には次の本もお勧め』が小川
栄太郎の著作なのは何の冗談でしょうか」ーー冗談か洒落か、とに
かく秀逸ですね。我等凡百の頭腦では思ひつかないことです。
序でながら、この人の出版祝賀會にも、「首相に再任された安倍が
出席した」さうですね。安倍さんも忙しい。
池田様
政治家がその政策や政見ではなく、人格や資質が疑わしい場合、その政治行動の一部ではなく全てが疑われ不審や不安の材料となります。
今、日本の首相がトランプと北に関してどのような密約を交わしているのか、民族の生存が係る日本の外交も危ういかぎりです。米国の足を引っ張っている、米国にたかられている、日本に不利な裏取引をしているかどうか、気掛かりです。
田母神氏の一昨日の講演で、自衛隊の対米自立のため30年かけて戦闘機の「ライセンス国産」を昭和50年にF1で実現したが、中曽根など自民党政権が米国の圧力で日米共同開発にしたこと、そのため日本独自の最先端レーダー技術が盗まれたこと、最近はFMS方式で益々軍事技術の決定権限が制服から素人へ移っていることを暴露していました。北朝鮮で類似のことが起きていないか心配されます。
任侠越後の石松様
この馬鹿野郎、最悪の世襲代議士は福田赳夫ではなく康夫でしたが、この男は、河野洋平同様、まだ死なずに毎日新聞で以下のたわ言「日中韓、結束固めよ」を述べています。長くなりますが自民党多数派の政見をある程度代弁しており、安倍首相も結局はこれと大きくは違わないのではないでしょうか。現状認識の甘さと非論理思考、幼稚な平和主義で。これを肯定的に紹介した左派に、突っ込み所満載ですが1点だけ、「金正恩は国家の維持のためにどうしても核が必要だと考えて、身を賭す構え」なら「核計画をまず凍結させ、時間をかけて話をしていく」ことは矛盾ではないかとコメントしたら黙ってしまいました。日本の真の敵は革新ではなく寧ろ保守、就中自民党の贋保守なのではないでしょうか。田母神氏は彼がクラスター爆弾の禁止を唱道し自分で自分の手足を縛る愚か者と名指ししています。
“2002年の日朝平壌宣言は、拉致、核、ミサイルを3点セットで解決する枠組みだった。三つが解決したら、平和条約を締結し、日本の植民地支配時代の補償をする。その補償で北朝鮮が国際社会に入れるような協力をしようという構想だった。核とミサイルを入れたのは「今解決しないと核開発は確実に進む。進んだ後は解決はより困難になるだろう」と考えたからだった。また、金正日が、拉致を謝罪し、宣言に署名したのだから、当時はまじめに核放棄を考えたのだろうと思った。その後、拉致を巡る国内での北朝鮮への反発などから合意は実現には至らなかった。6カ国協議など、さまざま努力したが、今や核の脅威は現実のものとなってしまった。あのときの、またとないチャンスを逃した責任を感じる。
今はもう一度、北朝鮮が核放棄を約束し、関係国が北朝鮮の復興に手を貸すという合意にもっていくことが望ましい。核計画をまず凍結させ、時間をかけて話をしていくしかない。ただ、金正恩は国家の維持のためにどうしても核が必要だと考えて、身を賭す構えだろう。そこは見誤ってはいけない。まかり間違って軍事衝突になれば、最悪の事態だ。けしからん、というだけでは解決にはならない。 日本がこれから外交的に努力すべきこともある。北朝鮮情勢も含めて、近隣国と率直に話ができるような環境を常に作っておくことが重要だ。安定した日米同盟が基軸であり続けることを前提に、近隣国との関係を固めることが先決だ。言うまでもなく日中関係は極めて重要だ。日中関係が改善すれば、韓国とも日本は良好な関係を築けるはずだ。日中韓がまとまっていない今のような状況は北朝鮮にとって好都合で、勝手なことをしやすい環境にある。逆に、日中韓が結束していたら、北朝鮮が現在のように挑発を繰り返すような行動を取らなかった可能性もある。北朝鮮を誤解させた上に、「平和的な解決もある」と思わせることができなかったことは残念だ。
北朝鮮の核危機を前に、「非核三原則」の見直しの議論も出ているが、ちょっと軽い。唯一の戦争被爆国として、核について特別な国であるという意識を持ち、対外的に主張し続けるべきだ。だからこそ、北朝鮮の核の脅威を取り除きたいと主張していけばよい。敵基地攻撃能力に関する議論も、抑止力の増強ということなのだろうが、抑止といっても相手側もそれに備えようとする。そうなれば軍拡競争そのものだ。「日本は軍拡をリードしている」と言われないよう注意しなければならない。
さらに言えば、このように事態が動いている時に、憲法を改正することには反対だ。安全保障関連法の整備で、必要なことは今の憲法でできるようになった。憲法改正は落ち着いた静かな環境の中でやるべきだ。今はその時期ではない。”
宇井山様
鈴木氏は私もお会いしたこともなくブログを通じて知った方ですが、信頼でき且つ人間的に魅力のある方です。人間的に信頼できる者が、人間的に信頼できない保守のニセ者を敏感に鑑別できるのでしょう。時間が許せば「米国が悪い」も英文で読むつもりです。小川栄太郎氏は、気鋭の論客ということですが、9条2項削除論者で安倍首相も最後はそうなると主張していました。今後どう庇うのか見ものです。好漢、願わくば権力の提灯持ちに終わらないことを。
勇馬 樣
さうですか。30年かけた戰鬪機の「ライセンス國産」がパー!
私には窺ひ知ることのできない世界ですが、我々が感じてきたムードから
してあり得 ないとはとても言ひ切れません。
「日本の首相がトランプと北に関してどのような密約を交わしているのか、民族の生存が係る日本の外交も危ういかぎりです。米国の足を引っ張っている、米国にたかられている、日本に不利な裏取引をしているかどうか、気掛かり」、御尤もです。
安倍さんの能力・資質はお粗末の限りだが、それだけに、善惡いづれにし
ても、大したことのできる人ではないと多寡を括つてゐました。
ところが、昨年末の日露首腦會談以後、賣國奴!と叫びたい場面が何度
もありました。もちろん、あの場合、安倍さんは意圖して國を賣つたわけではない。
プーチンに、赤子の手をひねるやうに、してやられただけですが、そのこ
とを誤魔化さう、國民を騙さうと必死でした。そして、騙し了せたと思つたのでせう。安倍さんはずゐぶん驕慢になりました。國民なんてチョロイ・・・。
それを見て、この男は保身のためには、賣國をも敢てするかもしれない
と不安になりました。 我等國民がそこまで成長 ・ 増長させたのです。
「トランプと北に關して・・・」、私も勇馬さんと同じ心配をします
(追加)勇馬さんの御心配には含まれてゐないかもしれませんが、
トランプと金正恩の間で、既に話がついてゐる可能性もあります
ね。
「それで合意した。北として、どうしても ” やつた ” といふことを
示す必要がある場合は、日本列島に核爆弾を。グァムは勿論、米本土
は完全に埒外とする」といふ密約があつた場合、安倍さんがそれを見
拔き、阻止してくれるとは、とても期待できません。
かういふ、ひねくれた見方しかできない私が馬鹿なのか、未だに安倍
シンパをやめない人々がをかしいのか。
任侠越後の石松様のコメント
「本書が出版されたあとも北の異常行動は益々エスカレート。 安保理でのトランプ大統領と安倍さんの
スピーチに(申し合わせたのか)拉致についての言及があった。トランプ発言には横田早紀江さんの驚き
のコメントも寄せられたが、安倍さんの言葉にはなんと思われたことだろうか?」
が気になったので、トランプ大統領と安倍首相それぞれの演説を読んでみました。
(ただし小生は英語が苦手なのでトランプ演説は日本語訳の力を借りました)
まずトランプ演説から。
40分以上に渡る演説の中で拉致に関する言及は以下の1文のみです。
“We know it kidnapped a sweet 13-year-old Japanese girl from a beach in her own country to enslave her as a language tutor for North Korea’s spies.”
たったこれだけ。拉致被害者を奪還するんだという意気込みは無し。それどころか、拉致された当時13歳の少女(横田めぐみさん?)がその後どうなったのか、現在はどうしているのかについての言及は一切なし。
というのも、この1文の前に喋った内容が、
“We were all witness to the regime’s deadly abuse when an innocent American college student, Otto Warmbier, was returned to America only to die a few days later. We saw it in the assassination of the dictator’s brother using banned nerve agents in an international airport.”
一度死んだ人を生き返らせることはできません。上記2例は人が死んだ話です。これらの話をめぐみさん拉致の話とセットで喋っているのです。
つまり、トランプ演説は拉致問題のことを、今さら解決のできない、取り返しのつかない問題だと扱っているのです。全文を通してみると、これら3件の問題は「北朝鮮はこんなひどいことをする国なんだぞ。そんな国に核やミサイルを持たせていいわけないだろう。」という話のネタにされているとしか思えません。(こういうの、テレビを見ているだけじゃ伝わりませんね)
次に、トランプ演説を受けての安倍首相の演説。
北朝鮮の核・ミサイル開発について経緯をだらだらと話す中で次の文言を挟んでいます。
「議長、同僚の皆様、横田めぐみという、13歳の少女が、北朝鮮に拉致されて、本年11月15日、ついに40年を迎えます。
めぐみさん始め、多くの日本人が、いまだに北朝鮮に、拉致されたままです。
彼らが、一日も早く祖国の土を踏み、父や母、家族と抱き合うことができる日が来るよう、全力を尽くしてまいります。」
で、すぐにまた核・ミサイルの話に戻し、それで終了。
確かに拉致問題が現在進行形の事件でることを説明してはいるものの、いつもの通り抽象的な意気込みを話すのみで、拉致問題解決に向けて協力を求めるような話は一切なしです。
せめて「先日のトランプ大統領の演説では北朝鮮の非人道的な行いについて3例を挙げていたが、3件のうち拉致問題は現在も進行中の事件なのだ。拉致被害者の家族は高齢化が進んでおり、我々に残された時間は多くありません。」くらい言ってほしいものです。
また、演説の前後の流れがおかしい。この個所だけ言葉が浮いています。
単なるアリバイ作りで喋っているとしか思えません。(ボク、ちゃんと喋ったよ)
これをテレビで放送するとそういう不自然さは伝わってきません。でも全文に目を通すと
とても不自然です。
横田早紀江さんがトランプ演説を好意的に受け止めたという報道がありますが、
横田さんにとってみれば米国の大統領が少しでも拉致問題に触れてくれたのなら
希望を感じるというのは無理なからんところだと思います。見方を変えると、
彼女に斯様な感想を抱かせたのは他に希望を見出す機会が減っているからでは
ないでしょうか?
勇馬様
福田赳夫→福田康夫 でした。 引退会見で「私は客観的に物事をみることができるんです、あなたとは(質問記者に対して)違うのです」 笑ってしまいました。
池田様
安倍さんがなんらかのアクションを起こして失敗しても誤りましょう、、
え~~土下座でもなんでもしますよ
岡田敦夫様
詳細なレポートをありがとうございます。トランプ大統領発言はTVでのテロップのみでした。
安倍氏の発言
「議長、同僚の皆様、横田めぐみという、13歳の少女が、北朝鮮に拉致されて、本年11月15日、ついに40年を迎えます。
めぐみさん始め、多くの日本人が、いまだに北朝鮮に、拉致されたままです。
彼らが、一日も早く祖国の土を踏み、父や母、家族と抱き合うことができる日が来るよう、全力を尽くしてまいります。」
私も承知していました。不愉快、怒りを覚えました。
土下座などありえないですね、池田さん!(苦笑)
岡田 樣
精緻な分析ありがたうございます。
すべて納得しました。案の定ーーです。
(ボク、ちゃんと喋ったよ)が全てですね。
小池さん、アクションがあつた場合は、安倍さんに謝つた上で乾杯しませう。
隨喜の涙がこぼれることでせう。
高山さんの言動について覚えているのは、御当人はTPP反対論者なのですが、「安倍さんの何が凄いかって、
安倍さんはアメリカとのTPP交渉をわざと決裂させるためにやっている」とチャンネル桜の番組で言っていたことです。「安倍さんは凄い」と「自分はTPPに反対」を両立させるためには、いま一見成立に向けて推進しているかのように見える交渉に安倍さんは乗り気ではないと自分と周りに言い聞かせねばなりません。
これは安倍さん追従「知識人」の典型症例のようなもので、代表戸締りとかいう自称経済評論家は、平成27年末の日韓慰安婦交渉について、当初「韓国との手打ちなど有り得ない、安倍さんは決裂させるために岸田外相を送り込んだ」と言っていたのが、10億円を払い岸田が「軍の関与」を不用意に認めた後には「10億ぽっちで韓国の歴史カードを無効にした安倍さんは凄い」と言い出し、さらに「今回の事は来年(平成28年)の3月にアメリカを立会人にして調印式を行うから、韓国が蒸し返してきた場合には韓国はアメリカからも相手にされなくなる」などと吹聴していました。平成27年末の時点で来年の3月と口走ったのは人のウワサも75日と思ったのかもしれませんが、私のような人間は覚えています。そんな調印式は今も行われていませんし、歴史カードは無効どころか今もタカリの材料として使われ続けています。
この人や宮崎さんや石平さんの著作を真に受けると、チャイナは北京オリンピック以降毎年崩壊し、習近平は毎年失脚していなければなりません。
石平さんの名前を挙げて思い出したことがあります。それは安倍さん大好き人間に限った話ではなく所謂保守論壇には、「外人(石平さんは帰化しました)に言って貰う枠」があることです。西尾さんはそのような傾向についても、あれはたしか呉ゼンカさんとの対談本だったと思いますが「外人の日本賛美の言説に心地よく酔ってはならない」と釘を刺してをられました。
安倍批判を繰り広げているニーチェ研究家の適菜収という人は、外人枠とは別に「保守論壇にはババア枠がある」(下品な言い方ですが)と文春新書の鼎談本で言っています。
これは櫻井よしこが重宝されている現状を念頭に言っていたのですが、そういえば、「外人枠」でもあり、なおかつ「年配の女」枠でもあった金美齢さんも最近は安倍さん大好き人間としてしか見かけることも無くなってしまいました。
宇井山 樣
至れり盡せりの御教示忝く存じます。
高山さんの手口、手がこんでゐるといふか、見事です。ずゐぶん知惠があるのですね。(序でに教へていただきたいのですが、「自分はTPPに反対」は、高山さんが自分で考へたり勉強した結果の信念・確信でせうか。それとも、「反對」といふことにしておいた方が都合がいいから?)
これが、安倍追從の典型的症例ですか。自稱經濟評論家の、日韓をめぐる輕業師のやうなヒラーリ、ヒラーリも初めて知りました。鮮かですね。「10億ぽっちで韓国の歴史カードを無効にした安倍さんは凄い」ですか。それを覺えてゐる宇井山さんのやうな人がゐては、この人、おちおちできませんね。もつとも、指摘されても、蛙の面に水でせうか。一々氣にしてゐたら、ああいふ世渡りはできませんね。
類似の曲藝は、もの心ついた頃から、たくさん見てきました。『學者先生戰前戰後言質集』といふ、あまり品の良くない本を高校生の頃に讀んで以來、學者とか言論人とかはそんなものだと思つてきました。
聖戰の完遂を叫んでゐた人が敗戰と同時に平和教の教祖や傳導者になり、更に、のちには核武裝論を唱へるのも見ました(まあ、高山さんや自稱經濟評論家の、瞬時に身を翻す早業に比べればロングスパンですが)。
「宮崎さんや石平さんの著作を真に受けると、チャイナは北京オリンピック以降毎年崩壊し、習近平は毎年失脚していなければなりません」には笑ひましたが、思ひ出したこともあります。
昨年の6月、坦々塾の有志10數名で、「青葉を愛でる會」と稱して、戸外でいつぱいやつたことがあります。
私が「共産黨支配の支那なんてすぐに潰れると言はれて、もう何十年になるか。北朝鮮もさうだ。金日成の頃から、あんなものすぐに消えると聞かされたが、まだやつてゐる」と言つたところ、向ひにゐた Hさん(近衞文麿論等で知られる氣鋭のライター)が、「あっ、つひにそれを言つたか」といふ顏(笑つてゐましたが)で、私に目配せしました。
私も慌てて口を噤み、目配せを返しました。どちらも、宮崎さんのことを思ひ浮べ、ここで、その批判は好ましくないと暗默に合意したのです。それくらゐ、その支那論の評價は、我々の間でも定つてゐました(有益な情報も含まれてゐることも)。
以前、宮崎さんは坦々塾にはほとんど毎囘出席され、休憩時間には、當時ヘビースモーカーたりし私と、ロビーで煙草吸ひ竸爭のやうになり、忽ち灰皿を溢れさせました。そんなことも、その場で思ひ出してゐました。
石平さんには、坦々塾の懇親會で「ぶん毆るぞ」と怒られたことがあります。別の場で、西尾先生が祖國を捨てるといふことについて、石平さんを批判されたと聞いてゐたので、その續きのやうな事を言つたのです。翌日、事務局長に叱られました。
「所謂保守論壇には、『外人(石平さんは帰化しました)に言って貰う枠』がある」やうですね。つくる會20周年記念集會での、西尾先生の挨拶(代讀)でも、石平やヘンリー・ストーク(その名を先生が出されたかはつきりしませんが)に「言つて貰ふ」こと喜ぶやうな心理を「あざとい」と評されたやうに記憶してゐます。
「安倍批判を繰り広げているニーチェ研究家の適菜収という人は、外人枠とは別に『保守論壇にはババア枠がある』(下品な言い方ですが)と文春新書の鼎談本で言っています」。
この人は橋本徹批判で賣出したとか聞いてゐますが、安倍批判も「〇〇〇枠」も知りませんでした。面白いことを言ふ人ですね。
今日の産經には、『WiLL』と『HANADA』の廣告が出てゐますね。安倍翼贊の ために、よくもかうイカサマ師・ペテン師の書き手を集めたものと感心しました。
そして、50~60年前のことを思ひ出しました。岩波の『世界』は買つたことはないが、新聞廣告をみて、よくぞ、これほど進歩的文化人をかき集めたと呆れたものです(更に、上記の『學者先生・・・』から、戰前の綜合雜誌の中身を想像したりもしました)。
あの頃の『世界』の役目を果す存在が、いまの『WiLL』,『HANADA』,『正論』などなのでせう。さういふ中で、これまで活動されてきた西尾先生は、さぞ息苦しかつたことでせう。
私も保守派のつもりで、接するのも同類が多い。そして、どうもしつくりゆかず、さうか、今は「保守」でも、昔なら、この人たちは『世界』の讀者になつたのではないかと思つたりすることもあります。60年安保の頃の鬪士と、いまの安倍シンパと、表情まで似てゐることがあります。
安倍さんが没落した場合、彼等はどうするか。60年に「やがて雲散霧消する烏合の衆」と福田恆存に預言され、そのとほりになつた人々のことを思ひ出します。
『Will』に呉善花vs高山正之對談が載つてゐますね。
呉善花さんに坦々塾で講演してもらつた翌日、彼女について、西尾先生と電話でかなり長時間話した、といふより、先生のお考へを聞きました。
先生はかなり呉さんを買つてをられるやうでした。彼女が眞劍に考へてゐることは疑へない。じつくりと觀察して、豐かな感受性で吸收する。それを優れた頭腦で、分析・整理する。その結論・描寫は正確であり、瑞々しい。見事と言つてよい。
しかし、彼女が自國を計るスタンダードは、すべて日本(といつて、彼女は既に日本に歸化してゐたが)。日本以外は存在しない。我々日本人は自國をアメリカと、あるいはヨーロッパと、場合によつては古代支那と比べる。
しかし、彼女は、日本ではかうなのに、韓國では・・・、韓國人がかうするところを、日本人は・・・そればかりだ。彼女の頭には日本以外存在しない。
先生はさう述べたあと、氣の毒だなあと言はれました。前夜の講演に感銘を受けた私は「全くですね」とだけ答へました。
宇井山さんの呉善花観は如何ですか。因みに、私は西尾先生と彼女の對談本は讀んでゐません(バレたら叱られるかな)。
また教へて下さい。
勇馬様
言動の一貫性に対する誠実さをどこかに忘れて来たのではないかというのが、偽保守の一つの特徴だと思います。
「人間的に信頼できる者が、人間的に信頼できない保守のニセ者を敏感に鑑別できる」 全くその通りです。
自分もそうでありたいと心がけます。
池田様
まづ、池田様のお尋ねによって一つ気付かされたことがあります。
それは、高山さんのTPP反対論にいかなる確信があったのかは私にも分からないのですが、民主党政権時に始まったTPP交渉について反対したのは勉強の結果の信念か(中野剛志という人の反対論は確実に信念でした)、それとも、反対しておくことが何となく当時「保守素振」に適うからにすぎなかったのか、どうも引っ掛かる人が大勢いたという事です。
こういう傾向は「従軍」慰安婦について、何故か「当時はどこの国でもやっていた(にもかかわらず、日本だけがいつまでもグズグズ言われ続けるのが気に食わない」式の反論をする人が少なからず存在する時にも感じたことです。
兵隊相手の商売女は世界中いくらでもありましょうが、それでも軍が楼主をやって官憲が女衒をやっていた女郎屋なんぞ、聞いたこともありません。世界中どこにもない方式で日本だけが強制連行してきた女を置いていたという出鱈目で責められているにもかかわらず、「当時どこにでもあった」はいかにも拙いのですが、金大中以降の韓国の主張に反論するのはいかにも「保守」風ではあります。不勉強でも反論は出来るのです。「あんたらの言うような従軍慰安婦なんか無いよ」が、突っぱね方として正しいのでしょうが、これは取り立てて「保守であろう」などと考えなくても、当時の仕組みさえ知っていれば言えることです。世代によっては勉強も要りません。「兵隊さん、うちのむすめも使ってやってくれないか」と頼みに来る朝鮮人がいっぱいいて、俺に言われても困るんだよと追い返していた、従軍慰安婦って何のことかと思ったらピー屋の事だった、と父親の仕事上の知り合いの方から聞かされたことがありますが、その方も所謂保守論壇には全く興味を持ってはいませんでした。
意固地になって「韓国の言い草の向こうを張ってやろう」などと微塵も思ってなくとも、当時の歴史に誠実でありさえすればそれはニセの保守派よりもよっぽど正しく日本に対する不当な主張に抗することが出来ますし、まさに保守の拠って立つところの一つは歴史だという事のあかしでもあります。
「TPPに反対しておく方が都合がいい」立場というのは何年か前、文筆業や政治中心に確実に存在していました。
池田様のご指摘で上のようなことを考えてしまいましたが、まだ上手くまとまりません。
ご返事が細切れになって心苦しいですが、続きはまた日をあらためて書こうと思います。
此処のコメント欄に向かっていきなりキーボードで書き込み始める方式はどうも文章をまとめるのに不向きな感じがしますので、以降は家で紙の原稿に縦で書いた後にそれをここにタイプするという方式に改めたいと思います。
石平さんに殴ってやろうかと怒られたというお話、一瞬驚きましたが、すぐに、なるほど、無理もない事だと感じました。
西尾さんの「祖国を捨てるという事」、石平さんの胸には「惨めさ」のようなものが突き刺さったのではないでしょうか。
石平さんはこんなことを言っていたようですね。
「中国人の楊敬さんという人は、米国在住のアジア系住民の見分け方についてこう語る。目が澄み切っているのは日本人、狡猾な目をするのは韓国人、そして目つきが凶暴なのは中国人、というところであるという。なるほど、実に言い得て妙である。」
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敵はあくまでも共産党支配、というわけでもなさそうです。何に阿っているのか。このような書き込みに喉をゴロゴロ言わして喜ぶ低劣な読者に狙いを定めてこれからはやっていくぜと舵を振り切ったのでしょうか。
養子に行った先でも、産みの親や兄弟の悪口などペラペラと喋るものではないでしょう。
日本が帰化申請を受理した瞬間に、凶暴な目つきは澄み切った目に変わったのでしょうかね。
わたしは呉善花さんの、まとまった本をそう何冊も読んではいませんので、お聞かせできるような「私の呉善花観」といったものは無いのです。
西尾先生の、「日本人は自国をアメリカと、あるいはヨーロッパと、場合によつては古代支那と比べる、しかし呉さんには日韓しかない」という鑑識を超えるものはありませんが、呉さんの値打ちは、「帰化日本人」ではなく、「元韓国人」ならではの目を持ち続けているところにあると思います。
彼女の、韓国は漢字を廃止して抽象概念の理解が難しくなりバカになったのではという説などは、あくまでも元韓国人として、御自身の出自である民族のありさまに忸怩たる思いを抱いての分析だと思います。
「自分は名誉日本人」というような了見は持ってないのではと推察します。西尾さんの「祖国を捨てるという事」をお聞きになっても、呉さんには殴ってやろうかという感情は湧かないのではないでしょうか。
近頃、「外人枠」のすっかり常連となったケントギルバートという男がいますが、この人なんぞは
ちょっと前までは関口宏の日曜朝の番組に出演し、日本国憲法は変える必要が無いという本まで出していました。
簡単に変わった人間は、次もまた簡単に変わるだろうと西尾さんが何かに書いていたのを思い出しますが、
今のうちはこの路線で稼いでおこうというところでしょうか。
WGIPについても何か言っているようですが、もしも信念によるものなら、日本国内の事は日本人に
任せて、どうか本国に戻って、それが叶わないならせめて英語でアメリカに向かって、
日本に引け目を感じさせ、位負けさせるために飲ませて続けた毒を解いてやろうではないかという活動を
始めてはくれないかと言いたくもなります。
アマゾンで著作を検索してみますと、「日本はいい加減自虐史観を止めろ」「東京裁判は茶番だ」「日本国憲法は押し付けだ」等々、、、
アメリカ人でなければ書けないものなど一つもないどころか、「諸君!」や「正論」のコピーを配っているのと変わりません。
その男の「持ちネタ」に、慰安婦問題に関して次のようなものがあります。
「韓国の人に慰安婦で責められたら次のように言い返してやればいい、あなたたちは目の前で近所の女が
引っ張られて行こうというのに、只指をくわえてみていた意気地なしだったんですか」
これには「韓国人にそう言ってやったら相手は黙ってしまった」という発展版もあるようです。西洋人はこういう言い回しが好きですね。
しかしこれも昔から慰安婦問題に関心を持っていた身からすると「あ、渡部昇一がよく言っていたな」と
すぐに気づきます。渡部さんの言い回し自体も、秦郁彦が吉田清治の話を確かめるべく
さいしゅう島で聞き取り調査をしているときに「そんなことがあったら俺たちが黙ってない、
お前は朝鮮の男がそんな臆病だと言うのか」と土地の人間に言われたという話から思いついたのでしょうが。
とにかく、外人ならではの着想どころか、同じ「業界」にいる日本人のそっくり引き写しの言い草であっても、それこそ今度の西尾さんの本にあるように「大新聞とテレビと中韓が憎い、裏返しでそれらの反対にいると思しき人間には甘くなる」保守水ぶくれ現象のおかげで右派から「愛い奴じゃ」と捨扶持を貰う営業活動を行っている外人が多い中で、呉善花さんの、日本と韓国しかない、という限界はあるにしても、
元韓国人ならではの着想に基づく言論活動には価値があると思います。
「いかにもその国の人間らしい」と言えば、今ちょっと名前を思い出せないのですが、昔「南ドイツ新聞」の肩書でたまにテレビに出ていた、手の悪い男がいました。
あの人などは全ての発想が「自分の国だけが『国際前科者』であるのはいかにも受け容れ難い、どうにか日本も巻き込まなくては」という動機に満ちていました。まさにドイツ人ならでは、ではありますが
あんなのに居てもらっても困りますね。
最後に、ケントギルバートといえば彼は近年「放送法遵守を求める会」という団体の役員をやっています。
これは実状、「安倍さんを扱うのなら僕らの考えに適うような扱い方以外は許さないぞ会」でしかないのですが、そこには上念司という経済評論家も名を連ねています。WILLやHANADAの広告でよく見かけるようになりました。まさに池田様の言う安倍翼賛イカサマ、ペテン師の一人として売り出し中なのですが
最近の傾向として、この経済評論界からの安倍茶坊主の誕生が相次いでいるのです。WILL、HANADAのインチキっぷりと絡めて今度考えるところを書きたいと思います。
「中国人の楊敬さんという人は、米国在住のアジア系住民の見分け方についてこう語る。目が澄み切っているのは日本人、狡猾な目をするのは韓国人、そして目つきが凶暴なのは中国人、というところであるという。なるほど、実に言い得て妙である」。ーー「このような書き込みに喉をゴロゴロ言わして喜ぶ低劣な読者に狙いを定めてこれからはやっていくぜと舵を振り切った」とまで、私は斷言できませんが、それがメイン・ターゲットで、不思議はないでせう。
いづれにしても、石平さん、そこまで日本人に媚びなくてはやつてゆけないのでせうか。
私が石平さんに紹介されたのは、「ぶん毆るぞ」よりも大分前、西尾先生の『江戸のダイナミズム』の出版祝賀會の席でした(壇上で、花束を先生に渡す役が呉善花さん、先生の奧樣に渡す役が石平さんでした)。
懇親の場で、石平さんとかなり親しいらしい故・萩野貞樹先生が私を「俳人」と紹介して下さいました(未だ歸化する前だつたのではないでせうか)。石平さんから、「俳句をやるにはどうすればいいですか」と訊かれ、愛想よく興味を示すところは、在日外國人らしいなと感じつつ、かなり眞面目に答へました。どこのどういふ句會に出るといい、必要なら自分が紹介する、結社には、ややこしいことが多いので、這入らない方がいい・・・。萩野先生も傍らから補足説明して下さいました。途中で、名刺の住所が神戸になつてゐることに氣づいた私が「それぢや、東京の句會にさう簡單には出られないですね」と言つたあとのことは覺えてゐません。ざわざわと人が移動するので、そのままにになつてしまつたのではないでせうか。
「呉さんの値打ちは、『帰化日本人』ではなく、『元韓国人』」ならではの目を持ち続けているところにある」。
同感です。韓國人のattributeとのかかはりは知りませんが、とにかく、ひたむきですね。
「彼女の、韓国は漢字を廃止して抽象概念の理解が難しくなりバカになったのではという説などは、あくまでも元韓国人として、御自身の出自である民族のありさまに忸怩たる思いを抱いての分折」でせうね。
彼女が「漢字假名交り文の卓越性に驚嘆し、つねづね韓國語の表記にもあらゆる漢字の韓國語讀み、つまり訓讀みを導入したい」と言つてゐるいふ、西尾先生の紹介を拙著に引用したこともあります。
とにかく、眞劍なのに打たれ、日本以外にも比較對象を持つてはどう? と忠告したい衝動に驅られます。
「『自分は名誉日本人』というような了見は持ってないのでは」、同感です。ただし「元韓國人」として、我等日本人に對してかかる感想を漏らす胸中は複雜だらうなとの思ひは拭へません。歸化した經驗がないので、本當のところは分りませんが。
ケントギルバートは「日本国憲法は変える必要が無いという本まで出していました」か。パソコンで、彼の30~40分の講演を聞いたことがあります。ずゐぶん粗雜な荒つぽい話だなと感じましたが、腹は立ちませんでした。テーマは覺えてゐませんが、「日本はいい加減自虐史観を止めろ」「東京裁判は茶番だ」「日本国憲法は押し付けだ」などを、ごちゃまぜに竝べ立てただけだつたかもしれません。要するに、すべて何かのコピーですね。オリジナリティは一切ありませんでした。かうふアメリカンにいいやうに商賣されてゐるのですね。
まあしかし、これなど可愛いものではないでせうか。日米とも、言論は融通無礙が原則でせう。昨日は昨日、今日は今日ーーでなくてはやつてゆけないでせう。
ジェラルド・カーティスとかいふ、元コロンビア大學教授で、日本の政治が專門とかいふ男、頻繁にやつて來て、したり顏で日本人に説教してゐましたね。マジメに拜聽する者がゐて、よほど居心地がよかつたのでせう。テレビにもよく出ましたが、空疎・無内容でバカバカしいので、すぐに切りました。最近は日本に住んでゐるやうなことも聞きました。こいつの方がケントより偉さうにします。
ケントには愛嬌があります。
「あなたたちは目の前で近所の女が引っ張られて行こうというのに、只指をくわえてみていた意気地なしだったんですか」 やその發展版「默つてしまつた」には、何度お目にかかつたことか。さういふ經緯があつたのですね。ずゐぶん賣れたネタですね。
南ドイツ新聞 特派員、クリストフ・ナイトハルトですか。髯面の男ですか。
「卷き込みたい」も「頭を撫でて食ひ物に」のどちらも、願ひ下げにしたいものですが、我等日本人の、安倍さんのお粗末も見拔けない鈍感さでは、やられ放題でしかたなしでせうね。
「安倍茶坊主の誕生が相次いでいるのです。WILL、HANADAのインチキっぷりと絡めて今度考えるところを書きたいと思います」。
追々、お教へを。
先般の「二人だけ」との御託宣のおかげで、ずゐぶん氣が樂になりました。ほとんどは、まともにとり合ふ必要がない・・・。更に、私の周邊にも多い安倍シンパないしは(他に人がゐないからやむを得ずといふ)追隨者の聲や表情も氣になら
なくなりました。どうぞ御自由に旗をお振り下さい・・・。
宇井山さんにお近くも多分同樣でせう。安倍退陣の際の彼等の顔つきなどについての觀察記なども、お寄せいただければさいはひです。
池田様
「日本語を知らない俳人たち」の中で、西尾さんの「江戸のダイナミズム」を引用する形で
「漢字仮名交じり文の卓越性に驚嘆し、つねづね韓国語の表記にもあらゆる漢字の韓国語読み、つまり訓読みを
導入したい」と言っている「エッセイストの呉善花」が紹介されていましたが、この本を最初に読んだ時(巻末には2005年3月9日 第1版第1刷1発行とあります)には呉善花さんの存在を知らず、これが今の呉善花さんとは結び付いていませんでした。土曜日に読み返しました。もう間違っても「外人枠」などと呼ぶことはできません。
萩野貞樹先生の事は、最初に何で知ったかは覚えていません。2004年発行の「歪められた日本神話」が手許にあります。最近も、「化物の鵺というのはレッサーパンダだったという説があるらしいよ」とラジオで言っているのを聴きました。ソクラテスの時代から、「当節の風潮」は全く変わらないようです。
チャンネル桜の番組だったでしょうか、「日本語の乱れに対して、言葉というものは時代に従って変わっていくのが当たり前なんだから目くじらを立てる方がおかしいという連中がいるが、台所にゴキブリは付き物だと言って増えるに任せて家中ゴキブリ御殿にするのか」と言っているのを見て大笑いしました。
日比谷の、皇統の男系護持の集会を見に行ったこともあります。
萩野さんは、「天皇は、男でさえあればいい、男なら、字が読めない人でも構わない」と言っていました。
相変わらず凄い言い回しをする人だと思いましたが、間違ったことは言ってないなと、また笑いました。
今回、「日本語を知らない俳人たち」を読み返して感じたことがあります。
武蔵坊弁慶も弁護士も同じ字で書くようになり、雷が稲を実らすという考えを元に稲妻という言葉が出来たのに、仮名で表すときは「いなずま」にしないとペケが付く、これは、呉善花さんが言うような、「韓国では漢字を全廃して馬鹿になった」ほどのインパクトは無いにしても、韓国の例が横綱なら、小結くらいの力で日本を馬鹿にしてしまったのではないかという事です。日本人を馬鹿にして、馬鹿にしたというべきでしょうか。
最初の馬鹿は鹿に、後の馬鹿は馬に力を入れて読みます。
なんとも間抜けな話なのですが、これは私が20代の頃だと思いますが、松原正という小言幸兵衛のような人が、「西尾幹二が贋物なのは西尾が現代仮名遣いで活動していることからも判る」と書いているのを見て
「ほう、なるほど、人物の真贋に仮名遣いは関係ないことの証明だな」と、アホのような反応をして、自分が日本語をどう書くかの問題を放置していました。
福田恒存の「私の國語敎室」は、所謂「積ん読」で本棚にありました。
萩野さんの「旧かなを楽しむ」も今回注文しました。
このような機会を頂いてありがとうございます。
追伸
「心ならずも全く異質な言語から文字を借りなければならなかった我ら日本人の宿命を考えさせられ」る、という文章を拝読して思い出したものがあります。それは高島俊男さんという、チャイナ文学の研究家の書いたものなのですが「日本の隣にあったのがチャイナではなく例えばイギリスで、最初の外来文字がアルファベットだったら、日本はdogと書いて『いぬ』と読むようになっていた」というものです。
そう言われればそうなのか、と新鮮に感じました。
宇井山 樣
チャンネル櫻でゴキブリに例へたのは萩野先生ですか、他の人ですか。誰にしても、秀逸ですね。俳句仲間にも時折「言葉は變化する」などと、したり顏で言ふ者がゐますが、 私は萩野先生の請賣りで「10年や20年で變るのを變化とは言はない。單なる間違ひ、混亂に過ぎない。200年、300年かかつて變るのが變化だ」の一言ですませることにしてゐます。それで分らない人に、それ以上のことを言つても無駄だと思ふからです。
『歪められた日本神話』は、萩野先生の著書の中でも特にシャープですね。私自身、この書にどれほど教へられ、痛快な思ひをしたか計り知れません。西尾先生も『江戸のダイナミズム』で、同書を「快著」と讚へられました。
日比谷の集會に私は行きませんでしたが、萩野先生の演説については西
尾先生から何度か聞きました。萩野先生を偲ぶ會でも、西尾先生は、この
時のことを話され、萩野先生が途中で慌てて口を噤んで「しまつた! 言ひ
過ぎたか」といつた顏をされたことまで、愉快さうに披露されました。
昨年末に10數名の集まりで、天皇の血統・男系の話になつた際、私が西
尾先生に「萩野先生は面白いことをおつしやつたのですよね」と水を向けたところ、すかさず反應、再演して下さいました。西尾先生にはよほど印象が強かつたやうです。
なほ、萩野演説には、「天皇は、男でさえあればいい、男なら、字が読めない人でも構わない」よりももつと過激な言葉が含まれてゐたのではないでせうか。
松原正さんといふ福田恆存門下の第一人者を自任し、西尾先生を目の仇に
する人がゐましたね。
以前、現代文化會議は年一囘のシンポに、西尾先生と私をペアで招待してくれましたが、松原さんが講師の時は、松原ー西尾の關係を考慮して、私だけを招待し西尾先生には案内しない旨、前以て、聯絡を受けました。西尾先生と御相談の上、一人で出かけました。
講演で、なるほど西尾先生を罵倒しましたが、松原さんは輕い腦卒中を患つたとかで、言語・動作がやや緩慢。懇親會にも加はり、松原さんと言葉を交しましたが、愛嬌のある、憎めないをぢさんといつた感じでした。歸つて西尾先生に報告したところ、「なんだ、まだ僕のことを氣にしてゐるのか」とおつしやいました。
松原さんが、「歴史的假名遣ひで書かれてゐる憲法が改正されると、現代仮名遣いにされるから、改憲反對」と言つたとか聞いた事がありますが、眞僞は知りません。また論壇から干され、『月曜評論』といふマイナーな場以外に執筆しなくなつた事情を聞いたことがありますが、忘れました。
「日本語をどう書くかの問題」を勉強される必要はないのでは? 歴史的假名遣ひ(舊かな)の方がいいのかなと、少しでもお感じになつたら、 即刻切り替へるのがベストです。
我々は高校で古文を習つたのですから、 舊かなの基本は知つてゐますし、
ほぼ書けます。今から書く文章はすべてそれにするのです。迷つたり、分らなくなる場合もありますが、その時だけ辭書などで調べればいいのです。面倒は全くないことを保證します。林房雄は「新カナとか舊カナとか言つても、1ページで二三箇所しか違はない」と放言しましたが、そんなものです。
その程度のことで、斷然たる正統性・合理性が得られ、古典に通じる王道を歩むことになるのですから、いち早い改宗をお勸めします。
またお教へを。
安倍さんが解散表明会見をした翌日の9月26日、産経一面には、「なぜ今、解散なのか-。記者会見では、むしろ消費税の使途変更に言葉を費やしたが、首相の決断理由は一にも二にも北朝鮮問題がある」といふ
記事が載つていました。憲法九条改正の話も、軍備増強の話も一切無く、自分でも書くやうに消費税増税分の予算組み換えの説明に終始した会見を指して、首相の解散決断理由は対北鮮だと言ひ切るのは、
たまに広告の載る宗教団体教祖のやうに、安倍さんの守護霊を召喚したのかと思ひました。「表向き、首相の振舞ひが決して自分の満足出来るものではい場合でも、首相の真意は我が意と同じである」、
毎度おなじみの典型症例です。
トランプ大統領と昵懇の間柄で「今やトランプ氏の考へを世界でもつともよく知る」安倍さんのところには、米国が来年北朝鮮を攻撃するというシグナルが到達済みの筈。来年12月までの衆院任期を待つてゐては、
極東大混乱の時期に選挙を強行することになりかねない。「なぜ今解散するのか」の批判は的外れで、むしろ首相が状況を冷静に分析判断したからこそ今なのだ。
文末に目を移すと、案の定阿比留瑠比の署名がありました。
26日と言へば、WILLとHANADAの広告が載る日です。
2つの雑誌は、いま店先に並ぶ号の1つ前あたりから急に石破、岸田叩きを始めましたね。
両議員が世論調査でポスト安倍の上位になつた途端、森友問題での安倍さんの「天敵」前川次官と同じやうに誌面で叩かれ始めるのですから、
僕らの安倍さんの地位を脅かす奴は誰であつても許さないぞという取り巻き連中の健気さは流石と言ふ他ありません。
WILL11月号、「安倍政権嫌いは何が何でも安倍首相のせいにする。人呼んで、アベノセイダーズ!それでいいのか!」
お前らが呼んでるだけだろ! でお終ひです。
毎月の26日が発売ですから、投票日の22日までは新しい号が出せません、今頃は、ああ、石破や岸田を叩いてゐる場合ではなかつた、
小池百合子を槍玉にあげておくべき場面だつたと歯噛みして悔いてゐるでせう。
28日の1面では阿比留が「しがらみ抱へてどこへ向かうのか」という、小池に当てつけた文を載せました。「しがらみのない」を結党会見で8回も連呼しながら、
しがらみまみれの民進党を丸呑みして何をするつもりなのか、といふものです。
そこでも阿比留は「確かに加計学園の獣医学部新設に対し、既得権益を守りたい業界団体や文部科学省が頑強に抵抗したことをみても、しがらみにがんじがらめでは改革は進まない」と、
朝日や文藝春秋の騒ぎ方がおかしいんだ、安倍さんはちつとも悪くないやい!という一文を混ぜ込んでゐました。正論欄の西尾さん論文に対してやつたのと同じ手口です。
まさに安倍幇間記者筆頭の面目躍如といつたところですね。
29日社会面には、有識者に「○○解散」と命名して貰うといふ、恒例の企画がありました。
合計4人が載る中、田原総一朗「説明なき」解散の隣には、花田編集長「国難突破」解散。曰く「安倍首相の選んだネーミングがしっくりくる。」「世界的に混乱する時代の中、国難に対応し、
決断できる政権を選択する選挙」。注目される希望の党に「政権を担うに足る人材はいるのか、風に流されずに判断してほしい」
もはや驚きやしません。
毎号毎号あのやうな雑誌が出来上がるのも納得です。
池田様
言葉の乱れ放置論者とゴキブリ屋敷の例への主は萩野先生です。
経済評論界隈の安倍翼賛出来については今まとめてゐます。
早速改宗しました。変換ソフトの都合で本字が出ないのが残念です。
載せた後に3つほど間違ひに気付きました。
ご勘弁ください。
「安倍幇間記者筆頭の面目」についての解説、興味深く拜讀。
WILLとHANADAで、「急に石破、岸田叩き」が始まつてゐることも初めて知りました。
「安倍首相の選んだネーミングがしっくりくる。」「世界的に混乱する時代の中、国難に対応し、決断できる政権を選択する選挙」と花田編輯長は宣ふのですね。「毎号毎号あのやうな雑誌が出来上がる」ことに、當方も納得しました。
宇井山 樣
>早速改宗しました。
重疉。もはや、誰が止めても、元には戻ることはありませんね。
>変換ソフトの都合で本字が出ないのが残念です。
小生は、歴史的假名遣ひ・正字對應の「契沖」といふソフトを使つてゐます。
>載せた後に3つほど間違ひに気付きました。
間違ひが少いし、氣づくのも早い! 私も散々間違へた筈ですが、改宗しなければ、もつと間違へたことでせう。新かなが舊かなよりやさしいとは勿論迷信。新かなの方がずつと難しいーーその理由は宇井山さんには、説明の要なしですね。
「契沖」ですか。ありがたうございます。
昔、「諸君!」を購読してゐた頃に、よく本文の横に広告があつたのを思ひ出しました。
;
北朝鮮の、金体制が半島の歴史で異質であり。
恐らく、米帝がテーブルに載せたいのは、
金以前の王朝とラインを結ぶ事。
;
もう、ミサイル云々の話は遅い!!
如何に、北の第二・第三勢力に切崩し、懐柔工作を行なうかで或り。
そういう工作は、日本は遣っておらズ。
半島の権力シフトは、またしても米帝に握られる。
以上。
*
17.10.06
18:03
子路
。
先週放送した朝生の録画を漸く見終わりました。
「安倍首相は憲法改正をやりたがっている」でほぼ満場一致。
特に三浦瑠麗さんの煽り方が気になりました。この人、前回も
同じことを言っていたと思います。少なからぬ有権者が
この番組を見て選挙に行きます。これでいいのかな?
また、河添恵子さんが中国企業による北海道の土地買収について
福山哲郎さんに突っ込みましたが福山、田原、福島の3氏に
フルボッコにされ撃沈。
論破されたというより揉み消された感じでした。3氏の
必死さがよく伝わってきました。
敗因は河添さんが(本人も認めておられるようですが)準備不足で
ノーガードで突っ込んだから。おまけに河添さんが問いかけをした
瞬間にコマーシャルが入ったので結果的(?)に反論者側へ
シンキングタイムを提供したから。
宇井山 樣
5日の貴文2行、歴史的假名遣ひは私の見る限り、完璧です。
ただし、「現代仮名遣い」との違ひは、「ありがた(と)う」、「ゐ(い)た」、「あつ(っ)た」、「思ひ(い)出」の4箇所だけですね。
たつたこれだけで、徹底的な合理性を得られるのみならず、古典に通じ先人とつながることになるのですから、安いものですね。
歴史的假名遣ひ(舊かな)は難しいと避けてゐる人たちが知つたら驚くことでせう。
そんなことなら、自分もやつてみたいといふ人が現はれたら、どうしますか。私はなるべく快く、仲間として迎へ入れたいのですが。
岡田 樣
「『安倍首相は憲法改正をやりたがっている』でほぼ満場一致」でしたか。
人それぞれに見方が違ふので、なんとも言へませんが、私には安倍さんが「~したがつてゐる」のは「今の座にしがみつき、居坐ること」以外にあらうとは思へません。改憲の情熱、そんなものは露ほども感じられません。
三浦瑠麗さんは時折テレビで見かけますが、どういふ人なのか知りません。どんな「煽り方」をしたのですか?
池田様
「煽った」というのは適切な表現ではないかもしれません。
すみません、撤回します。
三浦さんが話した内容は、「これは私個人の仮説ですが」と前置きしたうえで、安倍首相が今回の解散をした理由を、国会での論点をモリカケ問題から安全保障の問題に移すことであり、安全保障の問題とは即ち改憲を意味する、と。
三浦さんは常に穏やかに話す人です。決して口角泡を飛ばしアジるということはしません。
ただしその口調は常に断定的で、意見が対立する人に対してはたとえ年長者であっても頭ごなしに否定することもしばしば。
小生には彼女の姿が2000年代の桜井よしこさんと被ってしまいます。
先ほどの話も、最初は「私の仮説」と断わっておきながら徐々に話に真実味がおびてきて、パネリスト全員が「へー、そうなんだ」という空気に変わってきました。で、その後は「安倍総理は信念をもって憲法改正をやろうとしているんだ。」という賛成派と「安倍首相は憲法改悪への野望に満ち溢れているんだ。」という反対派が同じ土俵でバトル。
その方がテレビ的には面白いのでしょうが、小生は「違うよなー。」という思いで見ていました。
岡田 樣
なるほど、雰圍氣がよく分ります。
そして、小生も、「『違うよなー。』という思い」がします。
ありがたうございます。
遅ればせながら『保守の真贋』を読んだ感想を、『保守はエゴイズム?』と題して以下のように記してみました。 長文になってしまい恐縮です。
*******************
西尾先生の近著『保守の真贋』で、安倍晋三総理始めとする自民党的保守(以下括弧付きの【保守】とさせて頂きます)の覚悟の無さ、主張する勇気の欠如が指摘され、【保守】は贋物との結論が下されています。
【保守】の覚悟の無さ、主張する勇気の欠如の大きな原因は、【保守】の不勉強や胆力の弱さや惰弱な性格そして種々のしがらみ損得なども関係するとは思いますが、保守思想の普遍的裏付け道徳的裏付けがそもそも明確でなく、自信が持てないことが根本にあるのではないかと思います。
西尾先生は、保守の主調低音として ①天皇 ②国土 ③民族 ④(反共)反グローバリズム ⑤歴史 を挙げられ、反保守(革新)の主調低音として (a)人類 (b)地球 (c)移民 (d)グローバリズム (e)歴史の希薄化 を挙げられていますが、まさに覚悟無き【保守】は、反保守から(a)~(e)に基づいてポリティカル・コレクトネス(以下PC)で言い募られ、道徳的な攻撃を受けると怯んでしまい、①~⑤の保守の主張を引っ込めてしまうのではないかと思います。
例えば、ロヒンギャなどの移民難民問題を念頭に置けば、人間が平等であるならばなぜ移民難民を追い返すのか? たまたまロヒンギャに生まれた子女の命と尊厳はどうなっても良いのか? 追い返すのは酷薄ではないか? 不道徳ではないか? そしてこのPC攻撃は移民難民排斥の元凶である国土や民族や国境の非道徳性への攻撃に転嫁してゆき、国民国家の非道徳性への非難になり、結局グローバリズムの正当性の主張になり、その主張に反論できる【保守】はいないと思います。
また例えば歴史に関しては、①~⑤の国民国家的志向が戦争と残虐と荒廃をもたらしてきた数百年に亘る歴史上の汚点、そして極め付きのナチスの暴走を論い、ここでも国土や民族や国境の非道徳性への攻撃となり、これへの反論も難しく【保守】は沈黙してしまうと思います。
なぜ、①~⑤の国民国家志向(以下【ナショナリズム】とする)は非道徳的に見られ、(a)~(e)のグローバリズム(以下【グローバリズム】とする)は道徳的に見えるのか? 人類が目指すべきは【グローバリズム】なのか?
西尾先生は『保守の真贋』で【グローバリズム】は、故郷の喪失、起伏の無い世紀の永遠の繰り返し、各民族文化の喪失と均質化、時間的空間的に茫洋と広がるニヒリズムの荒野をもたらすとされ、今後何世紀にもわたりニヒリズム=【グローバリズム】により歴史の喪失の方向に傾くことは避けられないが、経済やエネルギーなどの条件の変化で、【ナショナリズム】が抵抗し、自らの共同体を守ろうとするエゴイズムを臆面もなく披瀝するだろう、とされています。 そして、それら【ナショナリズム】の抵抗は、共同体への集合意志は、大抵の場合ニヒリズム=【グローバリズム】の大波が全てに勝る大波で襲い掛かり、死滅するか変質を余儀なくされ、空しく終わるとしています。 しかしそれでも、保守は【ナショナリズム】は人は生きるために、自らの歴史の中核を残し、領土を死守し、民族文化の弱体化を阻止し、【グローバリズム】の虚偽を指摘して、【グローバリズム】と戦っていかなければならないと、西尾先生は強調されています。
ということは、西尾先生でさえも【ナショナリズム】にエゴイズムを見て、【グローバリズム】の優勢を覚悟されており、保守思想の普遍的裏付け絶対的道徳的裏付けを断念されているように見えます。
一方、トルコ出身の経済学者ダニ・ロドリック(現プリンストン高等研究所教授)は、2011年の著書『グローバリゼーション・パラドックス』の中で、グローバリズムには極めて深刻なトリレンマがあり、政治経済学的に、人々は世界は次の3つの選択肢の中から1つを選択せざるを得ないとしています。
(1)世界連邦制(グローバル経済と人類民主主義を選択)=国民国家の放棄
(2)ネオリベラリズム(グローバル経済と国民国家を選択)=民主主義の放棄=全体主義?
(3)賢いグローバリズム(国民国家と国民民主主義を選択)=グローバル経済の大幅な制限
ダニ・ロドリック氏自身は、グローバル経済より民主主義と国民国家を優先すべきとして、(3)を選択すべきとしています。
この分類で行けば、冒頭の【保守】は(2)に近い(3)なのかもしれません。反保守はもちろん(1)を目指していると思われます。
しかしこの状況分析でも冒頭の道徳性=PCの観点からすると、(1)の道徳性が高く、全体主義に陥る(2)はもちろん、(3)でさえも旗色が悪そうに思えます。 そして、ダニ・ロドリック氏の(3)選択でも普遍的裏付け道徳的裏付けの確信がないように思います。
私自身も、【ナショナリズム】=(3)が正しい道と直観していますが、その道はロヒンギャの難民子女を追い出すことに繋がる道だとの【グローバリズム】=(1)からの非難に明確に反論することができません。
で、試みに以下の様に“道徳性”について検討をしてみました。
問題は、平等と博愛の見地からロヒンギャの難民子女を受け入れる正義と、自由の見地から自らの共同体を維持するために彼らの受け入れを拒否する正義と、どちらを優先すべきかの問題に帰着するように思われます。
平等+博愛と自由とどちらを優先すべきか? 多分西尾先生は拒否する自由の正義の主張にエゴイズムを見たのだと思います。 いずれが道徳的かを判定する絶対的基準はあるでしょうか?
また極端には、豚の命の尊厳に思いを致して平等と博愛の見地から豚を食べない正義と、自由の見地から豚を食べる正義のどちらを優先すべきでしょうか。
さらに極端には、地球環境の保全という平等と博愛の見地から人間活動を一切禁止(=人類抹殺)する正義と、自由の見地から地球を穏やかに消費する人間活動の自由を是認する正義とどちらを優先すべきでしょうか。
これらを道徳的に判定する絶対的基準はあるでしょうか。
たぶん、自然法則的な自動的な絶対的基準は存在せず、どちらの方が個々人を幸せにするか、因果関係を吟味するしかすべはないと思われます。
結局、【グローバリズム】=(1)世界連邦制(グローバル経済と人類民主主義を選択)で平等と博愛を追求した結果は、国境を消去して人々は故郷を喪失し、起伏の無い世紀を永遠に繰り返し、各民族文化を喪失して均質化し、時間的空間的に茫洋と広がるニヒリズムの荒野となる醜い世界が推論されます。
一方、【ナショナリズム】=(3)国民国家と国民民主主義を選択すれば、様々な共同体が切磋琢磨する多様で豊かな美しい世界の推論が可能で、明らかに後者の方が個々人を幸せにして、善いと比較判断されます。 そして、幾多の困難はあるでしょうが、共同体間の戦争を抑止しロヒンギャの子女を救う工夫も、その中で少しでも取れるし、改善してゆくことは可能と思われます。
やはり西尾先生のおっしゃる通り、人は美しく生きるために、【グローバリズム】の大波に常に抵抗して、自らの歴史の中核を残し、領土を死守し、民族文化の弱体化を阻止し、【グローバリズム】の虚偽を指摘して、【グローバリズム】と戦っていかなければならないようです。
そして【保守】にこの理を理解するよう言い募るしかなさそうです。
池田様
歴史的仮名遣ひを自分も綴つてみたいといふ人が身近に現はれたら、私はまづ萩野さんの
「旧かなづかひで書く日本語」を渡して、「日本語を学ぶ多くの外国人から、新かなはおぼえにくい、歴史的仮名遣の方がはるかによくわかる」と聞かされると書いてあるあたりまでを読んで貰ひます。
「歴史的仮名遣はお母さんのやうなもの」「アメリカの副大統領でも簡単な英語のスペルを間違へる、完全などといふことは、どうせ一生かかつても無い」「谷崎の『吉野葛』の2ページ目、旧仮名が新仮名と違ふのは
680字分の17字」
かうした文章が敷居を下げ、背中を押してくれるでせう。その後、池田さんの「日本語を知らない俳人たち」を12章、10章の順で読んで貰へば「ダメ押し」になると思ひます。
ここで既に「布教」は完成ですが、その上で、「私の国語教室」を、「これがバイブルだ」と渡せば、西尾さんがかつて何かで言はれた「簡単に変はる人間は、また次も簡単に変はる」といふ心配も消し飛ぶでせう。
私は今回歴史的仮名遣ひについて考へている時、ふと「遣ひ手」の一人だつた遠藤浩一さんの事を思ひ出しました。遠藤さんは第一次の安倍政権の時分、「『安倍さんは○○だから、○○をやつてくれさうだから良い』
と言ふが、実際○○ではないのが知れた後でも何故支持するのか」と言つてゐました。遠藤さんが御存命なら、安倍追従の列に並ぶ事は決して無かつただらうと思ひます。
宇井山 樣
「歴史的仮名遣ひを自分も綴つてみたいといふ人が身近に現はれら」ーーそこまでお考へですか。
十二分でせうね。なんと頼もしい! 私としては「即刻改宗」を勸告する以上のことは考へたことがありません。
以後、ある筋に「布教」の必要ありと感じたり、あるいは入信の相談を受けた場合は、貴台にお廻ししたく、よろしくお願ひ申上げます。
遠藤浩一さんの立派さを、私は、お亡くなりになるまで、殆ど知りませんでした。
西尾先生がしきりに悼み、讚へられるので、それによつて、それほどの人だつたのかと氣づいた次第です。第一次安倍政權の時、そんなことを言つたのですか。勿論、初耳です。
歴史的假名遣ひ論者にして、救ひやうのないバカ(例へば、70年談話萬歳を叫ぶが如き)はかなりゐます。遠藤さんのことを知らなかつたことが、改めて悔まれます。
ところで、今囘の貴文の ”舊かな”を入念に點檢しましたが、一點も不都合は發見できませんでした。「布教」する側に廻られたのだから、當たり前ですね。
本字が遣へるといふ辞書ソフトの導入に四苦八苦してゐました。
http://www.vector.co.jp/soft/winnt/writing/se479336.html
無料版の悲しさか、出てくる字は新旧混合のやうです。
いつかは「契沖」。
宇井山 樣
「無料版」があるのですか。
萩野貞樹先生を偲ぶ會で、市川浩さん(「契冲」の開發者)にお會ひしたら、「どういふわけか、萩野さんは『契冲』を使つてくれなかつた」とこぼされました。私は「さういへばさうですね」と答へ、萩野先生からのメールが歴史的假名遣ひ嚴守でありながら、漢字は正字ではなかつたことを思ひ出してゐました。お二人は親しかつた筈なのに、「どういふわけか」、もちろん私にも分りません。
現代文化會議主宰の佐藤松男さんは、福田恆存全集を編輯されたくらゐ
ですから、勿論メールも舊かな・正字ですが、全く別のやりかたをしてゐる旨聞いたことがあります。ただし、中身は忘れました。ただし、奧樣が横から、「全部、私がやつてゐるんです」とおつしやつたこと、我が家と同じだと思つたことは覺えてゐます。
ありがたうございます。
いろいろなやり方があるのですね。
本字に関しては、「読めれば書けなくてもいい」などと思つてゐた事もありましたが、
ある程度は書けなければ、と練習を始めました。
勉強の種は尽きません。
宇井山 樣
既にお氣づきでせうが、パソコンでの私の本字は完璧ではありません。
これは「契冲」のせゐではなく、「契冲」の決まりをきちんと守らない私の責任です。たとへば、「遠近」は之繞(しんにょう)が正字のそれではありません。その氣になれば、「邂逅」のやうに正しいしんにょうを出すことができますが、普段はサボって、「新字体」のしんにょうですましてゐます。
假に私が正しく打つても、それを日録が受け付けてくれるかといふ問題もあります。こちらの文字ではなく、文字に附された番號が向うに行くのだ、相手にその文字がない場合は、番號の近い文字になると教はりました。印刷機との間でも同じ問題があります。畫面とは違ふ字が出ることがよくあります。
まあ、私のやうな不精はしない方がよろしいですね。
なるほど、文字が送られるのではなく、對應する番號が送られるのですね。
相手側に受け付ける用意が無ければそのままでは傳はらないといふのは、人の話を聴くのでも読書でも似たところがあるなと
思つてしまいました。
;
ふむふむ
*
22:28
。
宇井山 樣
10數年前、「契冲」を初めて買つた時のインストラクターからの請賣りです。なるほど、話を聽くのでも讀書でも同じやうですね。
貴文、正字が這入り始めましたね。
3行の漢字を點檢すると、
正字はーー「對應」、「(番)號」、「傳」の4字
略字はーー「送」、「聴」、「読(書)」の3字
でせうか。
私は、先述のやうに、「契冲」によりながら、「送」は略字ですましてゐます。
宇井山さんは、原理原則を重んじる人とお見受けし、遠からず、完璧な歴
史的假名遣ひと正字をお示しいたゞけるものと豫想・期待してゐます。
(追伸)この日録のコメント欄は「契冲」を認めてくれません。私はメールとして打つたものを、コピペして凌いでゐます。
未だ綴りが未熟でお恥かしい限りです。
折よく角川の新字源が23年ぶりの大改訂ださうで、早速予約をしました。
宇井山 樣
新字源が大改訂、早速豫約、結構ですね。
私が改宗して約57年、宇井山さんに出會つたのは、その間で最も欣快なことの一つです。御發展を切に祈ります。
若かりし頃、教員を志しました(すぐに挫折・斷念)が、頻りに思つたのは、「教育の要諦は教へぬことにあり」でした。よい先生は決して、手取り足取りして教へてはくれない、自分で考へろと冷たく突つ放す、といふ、自身の經驗に基いてのことです。
生まれ變つたら、やはり教員になり、この信念の下、歴史的假名遣ひの復権に努めたいものです。
「現代仮名遣ひに疑問を感じたならば、先づ今日からでも總て歴史的假名遣ひで書き始めればいい」といふ
池田さんのアドバイスは當に私にとつて「よい先生」でした。
どうもありがたうございます。
「教育の要諦は教へぬことにあり」、学生時代を憶ひ出せば、まさしくその通りです。
宇井山 樣
御贊同いただき、嬉しく存じます。
私は、高一の一學期、田舍で過し、二學期に東京の超有名進學高校に編入されることを目指しました。
その頃、高校の數學は解析・幾何と別れてゐました(次の年から數學Ⅰ・
數學Ⅱに變りました)。
田舍で、幾何の先生は、黒板一杯に圖を何度も描いて、至れり盡せりの説
明をしてくれました。よく理解でき、優しい、親切な先生だと思ひました。
これに反して、解析の先生は、質問しても、そんなことは自分で考へろと突つ放すのみならず、のべつ幕なしに、「試驗をするぞ」と脅かすのでした。なんといふイヤな先生だらうと思ひつつも、脅迫には對處せざるを得ず、もがいてゐるうちに、徐々に進歩し、解析(代数?)が大好きになりました。
東京での編入試驗では、これが大きな力になりました。編入後にも、天下の秀才を自任する連中も、この科目では私に一目置き、こちらも得意でした。
後にこのことを屡々思ひ出し、「教へぬこと」の大切さ確認しました。
宇井山さんの學生時代の似た思ひ出を一つでも、おしらせいただければさ
いはひです。
私が「教へぬこと」で生徒の身に付く教へ方をした先生で思ひ出すのは、偶然ですがやはり高校時代の数学の先生です。
教科の授業そつちのけで、夏目漱石の小説の話から殉死と云ふ事について語り始めたり、グラマンの機銃掃射で
弟さんを亡くしたお話などをされる人でした。そしてやはり教科の質問に対しては「なんでお前はそんな質問をするのか、それを考へれば聞かなくても答へは判る」と言ふのでした。
同じ問題のミニテストを違ふクラスで違ふ時間にやるのを何べんか繰り返すうちに、先にテストされた教室の連中からカンニングペーパーが同学年に出回つたことを察知し、問題は同じでも問いの順番を入れ換へたテストを実施して、先にやつたクラスの答へのままの答案を出した連中を落第させるといふ「曲者」でもありました。
宇井山 樣
數學の先生が漱石の小説から・・・殉死、といへば「こころ」・乃木將軍ですか。
グラマンの機銃掃射は、私は知りませんが、數年年長の人たちの經驗談を何度も聞きました。射手の顏が見えたといふのが定番ですが、例の慰安婦狩りの、「あんたたち男は默つて見てゐたのか」に類する話と考へるべきでせうか。
興味深いお話をありがたうございます。舊かなも完璧で、御同慶の至り。
この欄は、既に二囘幕が降り、別のテーマが論じられてゐるので、これ
にて失禮します。また新しい場でのおつきあひをよろしくお願ひします。
宇井山 樣
もう一度だけ失禮します。すみません。
西尾先生が『諸君』に「江戸のダイナミズム」を連載されてゐた時、その假名遣ひ論に、私が異議申立てをしたところ、先生はこれに丁寧に答
へて下さつたと、拙著『日本語を知らない俳人たち』に書きました。そのやりとりについては、詳しくは覺えてゐませんが、先ほど、この日録
〈2004年4月17日〉に、先生御自身が「現代仮名遣い」と題して、そのお答を載せてをられるのを見つけました。これは、私の記憶によれば正確です。よろしければ、御覽下さい。
その前の私の「異議」、また、このお答に對する、私の再度の異議については、記録が殘つてゐません。
どうもありがたうございます。
探して読みます。