スイスから見た日中紛争

 お知らせ

《シンポジウム》
サマーコンファレンス2005道徳力創造セミナー
7月23日(土)15時30分~18時
名古屋国際会議場(名古屋市熱田区西町1-1、Tel 052-583-7711)
基調講演: 西尾幹二
パネリスト: 兼松秀行、陰山英男、水野彌一
参加費: 入場無料  
主 催: 日本青年会議所
代表連絡先: Tel 090-8991-7123(宮崎修)

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スイスから見た日中紛争

平井康弘
バーゼル在住、30代男性

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 スイスのバーゼルで暮らしていますが、インターネットで日本の出来事はいつもみています。なかでも4月に起きた中国の反日デモは、こちらでもどうなっているのとよく尋ねられました。そしてその後の、日本の中韓対応の経緯については憂慮しています。

 去年に今回の内閣が布陣されて以来、町村外相や中山文部科学大臣が竹島・尖閣問題や、歴史認識、教科書の記述を巡り中韓各国を牽制し、日本の立場をそれなりに主張してきたことは、今までの内閣に見られなかったことで、少しずつ日本も前進していると心強く思っていました。そしてこのような契機は、西尾先生やつくる会が各方面で着実に注意を促し、意識を向上してきたことも大きく寄与していると思っています。

 しかし私が分からないのは、これだけ中国ともめているにも関わらず、自国中心の利己的で非寛容な行動がこれだけあからさまに展開されているにも関わらず、大事なのはお互いの将来の発展だ、話せば分かるなどと、説得力のない薄っぺらい声明を日本政府が能天気に出し続けていることです。それでわかるような相手であれば最初から苦労しないし、分からないような第一級の反日国家だからこそ、こちらもそれにふさわしい戦略、行動を展開していかなければならないのではないでしょうか。

 霞ヶ関の知人と話していても、日本が世界から尊敬されるような国になるには、と幻想めいたことを本気で国家目標の第一に掲げるようなことがあり、あまりにも現実離れした、小学生がみるような世界観で他国と渡りあおうとしているようで、愕然とすることがあります。相手国の悪意・エゴが見えず、善意で臨めば相手も分かってくれ、皆が平和に仲良く暮らせるだろうという、型にはめられた一定の思考パターンが特定の世代の特定の層に浸透しているようで、ちょうど政府が、話せば分かると考えているのと通底しているようで、彼らの世界をみる目の甘さに空恐ろしくなります。一体世の中のどこにそのようなことを考えている国があるのでしょうか。どの国も生きるのに必死なのに、このような幻想を後生大事に掲げる日本はつくづくお人好しだと腹立たしくもなります。

 なぜ日本は相手に対して強くでることができなくなってしまったのでしょうか。お互いの対話や協調、将来の発展が大事という綺麗な社交辞令をいつまでも繰り返し、安易な妥協と謝罪を積み重ね、強い日本国家を創る活動を怠っていると、世界に占める日本の位置はいずれ覇権国家中国にとって代わる日も遠くないと危惧します。こちらでは、日本は中国と比べるとプレゼンスも民度も高く評価されていますが、それは物を言わない無害な国だからポジティブな評価しか返ってこないことの裏返しでもあるかもしれません。たとえ相手を敵に回しても国家として生き延びるほうが国家にとっては大事なことで、評価が高いからといって素直に喜ぶ気持ちにはなれない複雑な思いです。自分の国は自分で守る。これしかないのに、繁栄の絶頂にいる日本人にはこの原則が見えないことが多い気がしてなりません。

 バーゼルで多くの同僚と、今回の反日ニュースについて話す機会がありましたが、中国の覇権思想が日本の歴史問題を利用していると見ている人もいましたが、大半は経済の先行きが不透明になるから、つまりとばっちりがこちらに及ぶから心配だ、というごく普通の感想が一般的でした。私は日本の今後の対応如何で向こう50年の国家の進路が決まる、日本人は今、試されている時期にあると答えていました。

 共通の歴史認識を持つことの複雑さは、ヨーロッパ人は誰よりも肌身で実感しているようで、ドイツ人やフランス人、イギリス人の友人とそれぞれ話すとそれがよく分かりました。同時に、彼らは自国の立場からみた歴史観があってあたりまえの感覚を持っていて、他国の歴史観を強要されてきた日本の実情を話すと驚いて聞いていました。ドイツの友人だけが同情(同志?)の意を込めてよくわかると言い、ドイツも同様に将来を語ることができなくなってしまった、完全にあの戦争で国は潰れたと言っていました。しかし彼は彼でドイツのほうが日本よりよい歴史の解決の仕方をしたと思っている節がありましたので、ドイツのやったことと日本のやったことは違うし、ドイツは講和条約すら結んでいないから国家賠償は行っていないでしょう?とまぜっかえす場面もありましたが、今回の件で、欧米の世論を味方につけるにはそれなりにコミュニケーションの量と質が求められますが、その価値はあるのではないかと感じました。

 バーゼルの春はゆっくりとやってきました。サマータイムで夜もまだ明るい庭のテラスでゆっくりしたり、週末、庭で子どもを遊ばせながら家族と時間を過ごすことができ、日本にはない長閑な時間を楽しんでおり、自分の幼少時代に帰ったような錯覚を覚えます。子供が子供らしく遊び、大人と子供に明確な境界があり、社会には一定の秩序があるところなど、古い日本の姿をみているようで、少し考えさせられています。

「スイスから見た日中紛争」への2件のフィードバック

  1. ドイツにいらっしゃるとのこと。お仕事ご苦労様です。

    >あまりにも現実離れした、小学生がみるような世界観で他国と渡りあおうとしているようで、愕然とすることがあります。相手国の悪意・エゴが見えず、善意で臨めば相手も分かってくれ、皆が平和に仲良く暮らせるだろうという、型にはめられた一定の思考パターンが特定の世代の特定の層に浸透しているようで、ちょうど政府が、話せば分かると考えているのと通底しているようで、彼らの世界をみる目の甘さに空恐ろしくなります。一体世の中のどこにそのようなことを考えている国があるのでしょうか。どの国も生きるのに必死なのに、このような幻想を後生大事に掲げる日本はつくづくお人好しだと腹立たしくもなります。

    おっしゃられることはもっともだと思います。

    あくまでも私見ということで実社会を見ていて考えていたことを書いてみます。

    日本人の日常行動パターンには興味深い点が指摘できます。

    ①江戸時代の武士でさえ「喧嘩両成敗」というともかく争うこと自体がいけないことなのだという封建法で規制されていた。
    ②まず相手に強く言われたらまず引き下がる習慣がある。
    ③信用や責任を重視する習慣がある。
    ④まず自分が悪いのじゃないかと考える習慣がある(自己反省癖)。
    ⑤最後はすべて自分へ転嫁して精神的に問題を解決したことにしてしまう(自己への転嫁癖)。
    ⑥混乱より秩序の重視。
    ⑦多神教の性質からか教義のない、逆に容易に他文明と習合する癖がある。
    ⑧儒教的秩序維持や大乗仏教的平和主義の伝統がある。
    ⑨言葉にすること自体に忌諱がある。
    ⑩相手の心情を考慮しすぎてしまう。

    こういう習慣があれば確かに争いは少なくなるし、世の中の秩序は保たれるでしょう。もともとこういう習慣があるので当時世界有数の大都市であった江戸の警察機構が数百名以下の警察官相当の官僚で治安が保てたのでしょう。日本の絶対平和主義者の論説を読んでいると①から⑩のパターンが背景にあることに気付かされます。

    絶対平和を達成するのは容易であって、江戸後期に存在した真宗の信徒教育本にあった『妙好人伝』のような思考パターンを体得すれば出来ます。どういうパターンかというと現代的に言い直せば足を踏まれたら踏まれた所に足を置いた自分が悪いと考えろというすべての原因を自分へ転嫁して精神的な安定を得るパターンです。盗賊に出会ったら前世で金を貸りていたのを返すのを忘れたからだというパターンです。真宗という激しい行動を特徴とした絶対一神教類似の宗教でこういうパターンがあるべき信徒の姿だと教育したのが実に興味があります。

    官房長官が従軍慰安婦と自称する女性が日本の戦前を非難したら相手に心情を移転してしまって国家のことや事実を無視して相手に同意をしてしまうのも背景には「⑩相手の心情を考慮しすぎてしまう」があると見ています。もっともこれも一概に悪いわけじゃない。相手が喜ぶものをコストを下げて商品化したからこそ戦後の繁栄があったわけです。戦後の繁栄はこれらの総合的な結果でもあったわけです。

    私はこのようなパターンが現代日本人を規制しているのは理由があるだろうと考えています。というのは日本語の敬語を考えてみたらいいでしょう。日本語の特徴は幾つかあるようですが、その一つに敬語があるようです。敬語は「尊敬語」、「謙譲語」、「丁寧語」からなるようですが、謙譲語なんか私から見ていると上記のパターンの行動様式が背景にあって、それが敬語の一種として普及したように見えるからです。いつ頃から敬語が生まれ、出来上がったのかは言語学をやったわけじゃないから想像もつきませんが、おそらく背景に長い歴史があるのでしょう。

    もしもそうだとするとご指摘の弱肉強食の世界規準から見ればバカげたものだと私も思いますが、背景に文化があるのでそう簡単には是正出来ないでしょう。広島の某左翼教師が自分は敬語はバカげたことだから使わないといって生徒の親をびっくりさせたという伝説がありますが、私もそういう広島の左翼教師のようなパターンの世界は勘弁して欲しいと思います。

    比喩で云うと植物の育成です。植物は土壌、水、栄養、太陽がないと育ちませんが、それ以前に種がないと育つわけがないのです。もともと文化の中にご指摘のパターンがあって、それが敗戦のトラウマやGHQの教育やまた米国の傘によって冷戦に参加しないで済んだ状況は土壌や水や栄養や太陽に相当するものなのでしょう。そしてそこにもとから文化的に存在した種があるから、いまのようになったのではないかと私は考えています。

    すると問題はむしろ自己を日常で規制する種は何だろうかを意識化するのがまず第一歩であって、次に他者認識の問題、すなわち自分の文化から相手を見ないという努力をすることが二歩目ではないでしょうか。

  2. コメントありがとうございました。
    おっしゃるポイント、よく理解できます。

    過日、友人への手紙に以下のような関連する点を書いた記憶があります。
    ヨーロッパの余裕ある生活テンポと日本の忙しい日常生活があまりにも違う別世界であることに驚きを覚えた一方で、日本はあの人口で昼夜を問わず働き続けたからこそ、消費者ニーズを満たすバラエティにとんだ商品を世の中に出し、現在の繁栄があることも事実で、それがあったからこそ今の我々があるわけで、その前提を都合よく忘れて安易に競争の手を緩めろということもできません。

    今の日本人に必要なのは自己確認をくぐり抜けることなのかもしれない、というようなことを書きました。それは他者を知り、己を知るということではないでしょうか。どちらが先というより両方必要な作業で、それらの循環が大切なのだと思います。そして他人の悪意(あるいは自己の内部の悪)を見抜く意識を、日本人は得てして欠落しがちであることは、意識しておかなければならないと、ヨーロッパの生活を通して感じている次第です。

    暑さ厳しき折り、お身体ご自愛下さい。

    こちらの夏は今年は異常気象のようで、6月中旬に真夏の暑さが二週ほど続いたかと思うと、7月に入ってからは肌に涼しい心地よい爽やかな青空の気候が続きます。地形といい、気候といい北海道にいるような感じです。

    不一
    平井康弘拝

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