この写真は、ちょうど二年前の今頃公開された映画「シン・ゴジラ」の中で、東京のど真ん中を歩き回る、遠景のゴジラそっくりですね。 この「シン・ゴジラ」という作品の脚本・編集・総監督を務めたのは、現代の若者なら、知らぬ者がいないと言われるほど有名なアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」(内容は私もよく存じません)の監督庵野秀明(あんのひであき)氏です。 昭和29年に始まった、数ある「ゴジラ」シリーズの中で、新しい技術をいくつも使いながらも、どっしりとした伝統的ゴジラの姿を、あえて尊重したというのですから、それだけで、この庵野氏はなかなかの人物だと、私は判断しました。 実は平成10年に、アメリカ版「GODZILLA」が製作されました。しかしこの外国製ゴジラが、大きな足の裏とティラノサウルスのような尻尾で、意外にも身軽に動き回る予告編を見ただけで、観る気が失せました。なるほど外人が考えるゴジラというのは、要するに「気色悪い怪物」でしかないのだな、と納得しました。 ところが日本人の多くが独特の愛着を持っている伝統的ゴジラ像を描くのに、庵野氏は、その動きを、何と狂言師の野村萬斎氏に任せました。 細身でありながら、歩き方を始め、すべての所作が美しい野村氏の動作を、モーションキャプチャーという技術を使ってデータ化し、コンピューターグラフィックス(CG)のゴジラの画像に反映させるという訳です。 東京湾から姿を現し、呑川を伝って蒲田に上陸し、品川に向かって前進して行くゴジラを見て、観客の多くは、恐怖を感じながらも「次はどこへ向かうのかな?」と、自身をゴジラに重ね合わせて観ていたはずです。 私などは、あの恒例の、国会議事堂を豪快に壊す場面を期待したのですが、どうも見当たらなかった(記憶が判然としません)のが残念でした。 ともかく「牛久大佛」とゴジラを同列に論じるのは、不謹慎ではありますが、野村萬斎氏がゴジラを演じたとなれば、お許し願えるのでは、と思います。 ところでこの「シン・ゴジラ」、巷の感想では「あのゴジラは、侵略して来る中国だ!」とか、至極真っ当な内容もあったようですが、海外では不評だったようです。そのせいか、この作品の意義を徹底して論ずるという空気は、残念ながら、意外にも早くしぼんでしまいました。 特にゴジラを外国からの侵略の象徴として捉える見方が、ネット上では少なくとも私の見た限りでは、意外にも少ないのは、論じる方の自己規制か、或はもしかしたら、最近流行りの、ネットの運営側の規制によるものではないかと疑っています。 その他海外でヒットしなかった別の理由の一つは、この映画の最後のシーンで行われる、ゴジラを倒すための神技的な「ヤシオリ作戦」の意味が、外人には理解不能だったためだろうと、私は思っています。 ヤシオリとは、スサノオノミコトが八岐大蛇を退治した時、大蛇を酔わせるために飲ませた「八塩折之酒」から取った名前です。 ともかく映画というのは、昭和20年代娯楽があまりなかった時代に、一時代を築いたように、日本人自身が楽しめればそれでよいのであって、「分からない者は、分からなくていい」のではないでしょうか。 「牛久大佛 5」の、岡田様のコメントの中で、「霞み具合が距離感をよく表している」と書かれたのが、「なるほど!」と膝を打つ思いで、その表現に触発されて、ついつい調子に乗って、長々と書かせて頂いた次第です。 返信
黒ユリ様 調べてみたところ、シン・ゴジラの体長は118.5m。 牛久大仏の大きさは台座付きで120m。ほぼ同じです。 連想されるのもご尤もと思いました。 以下、余談です。 小生が住む地域では、日曜の夜にウルトラマンシリーズ 初期の作品を再放送しています。 昨年はウルトラマン、ウルトラセブンを放送し現在は 帰ってきたウルトラマンを放送しています。 牛久大仏の翌日は、第27話「この一発で地獄へ行け! 」 という作品でした。 信州(という設定)に3体の巨大観音像があり、それを 怪獣が破壊するというシーンから始まります。 あまりの偶然に思わず声を上げてしまいましたが、 その観音像は作りが雑で、見ていて有難みがありませんでした。 むしろ、ちょっと不気味。 前回にも書きましたが、牛久大仏は、そのお姿がお優しいので 不気味さを緩和しているように思いました。 返信
岡田敦夫 様 「牛久大佛」の話題に対して、ゴジラを引き合いに出すという少々不謹慎なコメントに対して、丁寧なご返信を頂き有難うございました。 牛久大佛のHPを見ると、想像以上の大きさに加え、胎内には納骨堂もあるそうで、確かにこれは岡本太郎の「太陽の塔」を遥かにしのぐ像だと思いました。 岡田様が大佛の「横から見た印相がとても優しい」と書かれたのは全く同感です。特に(2)と(4)は、手をかざす姿が柔らかい印象を与えているのは確実です。 以前、仏像の手が長いのは、「衆生を救うため」だと聞いたことがあります。そういえば手の短い仏像は見た事がないし、短かったら様にならないかもしれません。 ついでに、全く関係のない話をさせて頂くと、日本語では「女に手が早い」などと言いますが、中国語では、「手が長い」と言うのだそうです。 ところで(2)の写真に写っていらっしゃるのは先生でしょうか? ウルトラマンシリーズが再放送されているとは、羨ましい感じがします。でも本物と見紛うくらい精巧な映像が作れる最近のコンピューターグラフィックスに慣れた今の子供たちは、昔の「特撮」をどう思うのでしょうか。 私などは、ウルトラマンの「衣装」がよじれて「しわ」が出来る所が手作り感一杯で、製作者の努力が感じられて感動したものです。逆に、今の作品は、まるで気違い博士が、度を過ぎた研究をして地球も何もかもダメにしてしまうような「狂気」を感じて、あまり好感が持てません。 お書きになった、信州の巨大観音像を怪獣が壊すシーンですが、舞台が大都会でないのは、特撮のセットを用意する時に、山や巨大観音の方が、複雑なビル群の模型を作るより簡単だからでしょうか。 それとも、大人口を抱える都会を破壊すると、当然人間も沢山殺すことになることに配慮してなのでしょうか。 いずれにしても、現代のコンピューターグラフィックスの技術を使えば、必要に応じて、映像を加えたり削除したりできるので、そんな余計な心配は要らないのでしょう。 因みに岡田様が調べて下さったゴジラの身長ですが、ネットで検索すると確かに118.5mとなっています。さらに調べると、シリーズ全29作品のゴジラは、15作目までが50m、16作目から80mとなって18作目から100mとなり、今の大きさになったようです。大きくなったのは、「原子力潜水艦の核エネルギーを吸収した影響によって、体の大きさやパワーがアップした」とあります。でもこれ以上大きくなると、流石に動きも鈍くなるだろうから、この辺が限度かな、と思いました。 それに反して、大佛の方はまだ抜かれる可能性がありますね。何せあの古代に出来た出雲大社も、平成12年、巨大な宇豆柱(うずばしら棟持柱 むねもちばしら)が発見されて、高さ48mの巨大神殿の存在が浮上したくらいですから、日本人の技術と根性を以てすれば、有り得ると思います。ただし地震対策を加味しての話ですが。 再び横道に逸れてしまいました。これ以上続けるとお叱りを受けそうなので、この辺で失礼致します。 返信
黒ユリ 樣 岡田 樣 お二人のやりとりを興味深く、樂しく讀ませていただいてゐます。 ゴジラにもウルトラマンにも全く無縁で、知識も皆無ですが、お二人のゴ氏とウ氏に對する思ひには共感できさうな氣がします。 「野村萬斎氏がゴジラを演じた」「(牛久大仏は)不気味さを緩和している」「ウルトラマンの『衣装』がよじれて『しわ』が出来る所が手作り感一杯で、製作者の努力が感じられて感動した」など、實際を知らないながら、「ヘー、さうなのか」と自身が新發見したかのごとく・・・。 私がこの欄の差配をしてゐるわけではないので、「どんどんお續け下さい」とは申しかねますが、自分が愛讀してきた、できれば、ゴ氏・ウ氏談義をもつと聞きたいといふ希望を申上げておきます。 返信
池田様 仰る通り、皆様お忙しいご様子ですね。 でも写真だけが次々にアップされると、映像・画像とか、イメージみた いなものが好きな私は、つい口を挟みたくなり、厚かましくもコメント させて頂いています。 牛久の方へ行かれたメンバーに、池田様がおいでないのを不思議に思っ ていましたが、大変な目に遭われたとの事、お大事になさって下さい。 さてこの牛久大仏のある茨城県ですが、毎年発表される「都道府県魅力 度ランキング」で5年連続最下位を記録しているそうです。しかも昨年度 は、全47都道府県のうち、何と群馬、栃木、埼玉の関東勢がすべて40位 以下という結果に終わっています。 私の知る茨城在住の方は、「やはり、他県の人には多少『きつい』と感 じられる方言のせいもあるのか、いい所も一杯あるのに、自分としてはと ても信じられない」との思いだそうです。 こうした結果に対し、ブランド総合研究所・田中章雄社長は、「ブラン ド力」とは「多くの人が同じイメージとして共有できる力」だと言い、 茨城も「統一イメージ」を作るべきだ、例えば茨城を南北で「筑波国」と 「常陸国」に分けて前者は科学技術を、後者は「豊かな自然」を打ち出す などのアイディアはどうか。「何でもあるよ」と応えるのは「何もないよ」 とイコールなんです、とアドバイスしています(産経ニュース2018.1.3)。 ところが茨城県はもともと「何もない」どころか、皇室の本来の起源で ある鹿島神宮を始め、縄文時代の遺跡や城跡が沢山ある所だと、私は、 最近知りました。 「つくる会」の会長もなさったことのある田中英道さんの『天孫降臨と は何であったのか』と『日本の起源は日高見国にあった』を、今読んでい るのですが、田中先生によれば、日本神話というのは、関東地方の日高見 国の歴史であって、ファンタジーでも何でもないそうです。実際、最近の 生物学や考古学の研究成果から、3千年も前から、関東や東北には、稲作 や造船を含めた高度な縄文文化があったと考えられる、ということです。 一般には三重県の伊勢神宮ばかりが注目されていますが、もし茨城県の 鹿島神宮と千葉県の香取神宮が、古代日本の中心地として環境整備されれ ば、もっと認知され、それこそ茨城県の「統一イメージ」となるに違いあ りません。 実際、茨城県には「高天原」という地名がいくつかあるそうです。また 宇宙飛行士の向井千秋さんが、スペースシャトルに乗って、宇宙から地球 を眺めた時、「日本に光の柱が立っていて、その場所を調べてみたら日立の 山の中だった」のは有名な話で、具体的には御岩神社だということです。 また田中先生は、関東は神道系の「かたち」の文化、関西は仏教系の 「言葉」の文化だと言います。つまり「かたち」の文化は、土器であれ何 であれ、その表現そのものが大切だということです。 このように考えると、古代日本の中心地だった茨城県に、世界一大きな 大佛ができたのは偶然ではないのかもしれないな、などと私は思いました。 そして牛久大佛が地上を見下ろしているように、巨大な身体で地響きを 立てながら大活躍するゴジラやウルトラマンも、日本人が伝統的に持って いる想像力と造形力の産物ではないかと思いました。 返信
黒ユリ 樣 色々とお教へいただき、忝く存じます。 「『都道府県魅力度ランキング』で5年連続最下位を記録」とは初耳。 きつい方言のせゐとか、あるいは、これを脱するために「筑波国」と 「常陸国」に分けよとの説などはピンときません(こちらの無知のた めですが)。 田中英道さんの本は讀んでゐませんし、その他書物による知識は 殆どありませんが、20年くらゐ前、こんなことがありました。 筑波山に吟行した際、一切の世話を燒いてくれたのは、我々の俳 句結社の幹部であり、土地の有力者でもある I 氏でした。至れり 盡せりの扱ひをしてくれましたが、全員が感心したのは I 氏の愛 郷心の旺盛なことでした。 稻荷山古墳の近くに住む、本業 考古 學者は「I さんを見習つて、我々も郷土に誇りをもたなければなら ないな」と述懷しました。 私が、I 氏において最も驚いたのは、その語る、天孫降臨を初め とする記紀の世界のできごとのほとんどが、ここ筑波のこととされ てゐて、それがさして不自然に感じられなかつたことです。 あとで、少しでも調べてみればよかつたのですが、生來の不精か ら、そのままできました。「日本神話というのは、関東地方の日高 見国の歴史であ」るといふ説は、現在、どの程度認められてゐる のでせうか。不勉強ゆゑの依頼心丸出しで恐縮ですが、てつとり 早く御教示いただけないでせうか。 句會終了後の宴席では、餘興として、女藝人による蝦蟇の油の 口上實演がありました。それを見てゐた私は、昔、荻窪驛の近 くで、蝦蟇の油賣りから、それを一個(メンソレ型の丸い金屬製 の容器入り)買つたことを思ひ出し、たまたま鄰り合せた I 氏に それを語りました。 ーー高校生でした(60年安保より數年前)が、自分では、批判 精神十分にありと思つてゐました(現に、當時盛んだつた平和運 動とかには胡散臭さを感じて、その本質をほぼ理解してゐたつも りです)。 インチキ物賣りなぞに引つ掛かるものかと、自身滿々でした。賣つ てゐた男は、ネクタイを締めてゐないサラリーマンといつた感じで、 綱渡りなどの大道藝は一切しませんでした。、「一枚が二枚、二枚 が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚……」といつた口上もなかつ たと思ひます。 私に最も印象的だつたのは、「これは賣物ではない。あとで、賣つ てくれなどと言ふな。絶對に賣らないよ」といふ科白でした。もう一つ は、自分の腕に刃物で傷をつけて、血が滲んだ(ダラダラと流れる ほどではなかつた)ところに、件の油を塗りつける。それを布で拭ふ と、あとは元どほりの、何もなかつたやうな健全な皮膚。 香具師のやりかたの解説には「刀の切れ味を示したあと、切れない 部分を使って腕を切ったふりをしながら、腕に血糊を線状に塗って 切り傷に見せる。偽の切り傷にガマの油をつけて拭き取り、たちま ち消してみせ、止血の効果を観客に示す。また、ガマの油を塗った 腕は、刃物で切ろうとしても切れず、防護の効能があることを示す というもの(刀にガマの油を塗る場合もある)」とありますが、ほぼ それに則つたやり方だつたかもしれません。今にして思へば。 何度か、これを繰り返したあと、男は「これは絶對に賣らないが、 どうしても欲しい者には、特別の道がないでもない。こちらは奉仕 でやつてゐることだが、費用がかかる。その何分の一かを負擔し ようといふ殊勝な氣持のある者には、今だけ200圓でくれてやる。 どうだ!賣るのではない。イヤならいいんだよ」と現物を鼻先に突 附けられたとき、私は、ここでこれを手に入れなかつたら、大損だ と確信しました。そしてポケットから200圓を出しました。 その貴重な蝦蟇の油を、一度でも使つたか、記憶にない。ーー この思ひ出話は I 氏を喜ばせました。「立派だ! さういふ素直な 氣持が尊い。あつさりと騙されるところに、あなたの人柄が現れて ゐる。俳句も同じだよ」。 牛久には50年ばかり前、郵便局の取材に行きました。一泊したの で時間は十分あり、先方では、牛久沼に案内しようと言つてくれまし たが、こちらの體調が惡く、斷りました。そして、芋錢と接する機會 をも逸してしまひました。 返信
池田様 田中先生は近年、日本神話やそれに関する歴史の本を書かれています が、私は全部読んでいる訳ではなく、完全に読了したのは『天孫降臨と は何であったのか』だけなので、その範囲内で申します。 田中先生は基本的に、人類は古代から太陽に向かって移動してきたと いう考え方を採ります。以前、人類はアフリカの一人の女性から生まれ、 そこから出発して全世界に散らばって行ったという説が話題となりま したが、こうした考え方がベースにあると思います。内容の概要は以下 の通りです。 最近の研究によれば、日本列島の縄文遺跡は、関東東北を中心とする 東日本に集中して、西日本には、殆ど人が住んでいなかった。それは、 人々が太陽を求めて東へと進んだからである。 例えば、約1万2千年前に大陸から切り離された後の縄文早期 (約9500年前~6000年前)、全人口は2万人前後。その後寒冷化が 始まり、人々は南や西に移動し、西日本の人口が増加するが、西日本の 人口は東日本の5分の1以下。水田耕作が普及した弥生時代(約1800 年前)は、全人口約60万人となるが、それでも東西の人口比は、 100対68。 もとより青森県では世界最古(16,500年前)の土器が発見されている。 また茨城県の鹿島神宮付近の遺跡には、2万年以上前の旧石器時代の石器が 発見されたのみならず、縄文時代のあらゆる時期の土器も見つかっている。 他にそんな地域はない。つまり関東地方が何万年にも亘って、他国からの 侵略による断絶もなく継続し、文化の中心だったことが分かる。 上記の内容を踏まえた上で、それならなぜ「日本書紀」や「古事記」 には、関東の事が書いてないのか? このなぞを解き明かすべく、記紀に記された神々の名前や、それらを祀 った神社や地名に注意しながら、神話を読み解いていくと、実は神話のス トーリー自体が、関東地方(日高見国=高天原)の歴史的事実を描いた 物語であることが分かる。 例えば関東・東北に多い熊野神社や、長野県の諏訪大社に因んだ神社が 九州に沢山あることは、「天孫降臨」メンバーが鹿島から鹿児島に向かった ことを示している。 「天孫降臨」とは以下の話である。 アマテラスを始め、関東の日高見国を統治していた高天原系の神々は これまで気にする必要がなかった日本列島の西側が、大陸の秦や漢など の大帝国からの圧力や、それに伴う移民の増加などに対処するため、列島 全体を支配下に置く必要を感じる。 そこでまずは出雲のオオクニヌシ系の勢力に国譲りさせるなど、各地で 平定事業を行いながら、西日本の防衛の要諦である大和を支配下に置こう と考える。この場合、西端の九州から上陸し、次に東に回り込み、大和に 向かうという作戦に出る。これが「天孫降臨」の意味であり、後の「神武 東征」である。こうした出来事が起こったのが、いわゆる弥生時代だと考 えられる。 記紀があたかも関東を無視しているかのように見えるのは、大和のすぐ 東側はすでに関東の高天原勢力の支配下に置かれていたからである。つまり 関東の日高見国は述べる必要のない「前提」としてあるから、神武天皇は列 島の東半分の援護を受けて、安心して大和への東征を行ったのであり、だか らこそ、日本統一は大和で終わるのである。 文字による記録がないからといって存在しない訳ではない。これまでの ように文字としてある文書だけに頼っていては、日本の本当の歴史は分か らない。最近の生物学や考古学の研究成果は、「神武東征以降が本当の歴史 であって、それ以前は神話というファンタジー」だという従来の説を覆す ものである。 以上、十分とは言えませんが、私が読み取った限りでの概要です。 我々が習った歴史や、よくあるTVの歴史番組にあるように、未だに「魏志 倭人伝」にこだわる風潮、あげくは天皇の起源は半島にありなどの奇説は 田中先生の著作によって、強烈な一撃を食らうでしょう。 特に戦後世代がしつこく教えられてきた「文明は大陸半島経由で伝わっ た」という考え方は、同じく田中先生の著作『日本の起源は日高見国に あった』にある以下の資料によっても、疑問符が付きます。 本州に住む現代人のDNA調査の結果 朝鮮人に多い特徴を持つ ・・・24% 中国人 〃 ・・・26% アイヌに近い ・・・ 8% 沖縄人に近い ・・・16% どれにも属さない特徴を持つ・・・26% (宝来聰 『DNA人類進化学』岩波科学ライブラリー 1997年 「また、世界に12系統存在するというJCVと呼ばれるウィルスの 分布から日本人の起源を解析する試みも、2000年代に始まりました。 東大医科学研究所の余郷嘉明氏をはじめとする研究グループの発表 『JCウィルスから見た日本人の起源と多様性』(2003年)がその代表 的なものですが、それらの研究によれば、ヨーロッパやトルコでしか 見られない系統のJCウィルスを持つ日本人が弘前、秋田、仙台など 北日本の一部に、1~2割の確率で存在するのです。 さらに、これはアジアの近隣諸国には見られない日本特有の事象で あることもわかりました。日本人の血は、世界の各地から集まって成立 しており、それら多様な血が、日本列島の風土の中で、日本人という ひとつの民族をつくりあげたのです。 そして、このことは、日本語の研究、また、神話の研究の側面からも 明らかになってきます。」(以上P38,39) 池田様が書かれたように、「天孫降臨も常陸で起こった事」と主張 されるI氏は概ね正しいことを仰っていたと思います。また「この説は どの程度受け入れられている」かに関してですが、田中先生自身、これま での説を唱える大学の歴史学者たちは、絶対に従来の説を曲げないだろう と書かれています。 それでも「科学的データ」には絶対の信頼を置く日本人ですから、 田中先生の考え方は、じわじわと浸透していくだろうと私は思っています。 さて池田様の「ガマの油」の話は、小説を読むように楽しませて頂き ました。でも反面、耳の痛いことです。 自分も過去、商売人の口車に乗って、200円どころか大金を散財した ことがあるからです。騙されない自信がついたのは、つい最近です。 それでも以前デパートの実演販売の口上を聞いて、感心したことが あります。薄焼き卵ができるフライパンですが・・・ 「あなただからできるんでしょ。奥さん、今そうおっしゃいましたね。 でも騙されたと思って一度使ってみてください。こうやって、ほら 誰でもできるんです・・・」 そのうち一人一人と中年女性が集まってきて、皆熱心に聞いていま した。誰かが「うまいこと言うね」と言ったのが聞こえました。 でも私みたいな素人が真似して実演販売をしても絶対に売れない と思いました。というのは、口上だけでなく、表情とか道具の使い 方とか、自信とか安定感みたいな、人を引き付ける雰囲気がその人 にあったからです。プロにはかなわない、そう思いました。 また牛久大仏の話題と離れてしまいましたので、失礼します。 返信
黒ユリ 樣 簡潔なるsummaryと立派な解説、忝く存じます。 これだけのものを仕上げるには、相當な時間がかかつたでせう。その何分の 一かの勞力で、かかる知識を得、ありがたくも申し譯のないことです。 「『天孫降臨』メンバーが鹿島から鹿児島に向かった」「関東の日高見国は述べる必要のない『前提』としてあるから、神武天皇は列島の東半分の援護を受けて、安心して大和への東征を行ったのであり、だからこそ、日本統一は大和で終わるのである」。うーん、理に適つてゐますね。その先は、自分で・・・。ありがたうございました。 「口上だけでなく、表情とか道具の使い方とか、自信とか安定感みたいな、 人を引き付ける雰囲気が」決め手で、當然「プロにはかなわない」ですね。 「牛久大仏の話題と離れてしまいました」が、牛久大佛論の發展版といふこ とでお許しを得ませう。もしも叱られたら、岡田さん以外の參加者はこれか ら書かれるのでせう、眞打ち登場までのつなぎのつもりでしたと釋明しませ う。 返信
黒ユリ 樣 『日本國史學』といふ學會誌(平成28年 第8號)に「『高天原』は『日高見國』であつたーー繩文・彌生時代=天津神、古墳時代=國津神の時代」 (田中英道)といふ論文を、昨日見つけました。 黒ユリ樣が讀まれた『天孫降臨とは何であったのか』は、あるいは、この 論文を基に成つた著書かもしれませんね。論文の最終章は「『天孫降臨』 とは何か」で、「瓊瓊杵尊は、鹿島から立って九州の鹿児島に船団で『天 下ったことを意味し・・・」「『天下り』として鹿児島に到着したことは、天(あま)は海(あま)と同音で、海から到着したことを強調したい。当時は、天と海は合一したものと思われていたはずだからである」などの記述があります(まだ、拾ひ讀みしただけですが)。本でも同樣でせうか。 この學會誌を下さつたのは、坦々熟の俊秀 渡邊望さんで、御自身の「日 中の蓬莱傳説・東方幻想の比較考察」といふ論考も載つてゐます。 これが滅法面白く、私はわくわくしながら、讀みました。といつて、漫畫や 大衆小説のやうに荒唐無稽な筋が展開されたり描寫するわけではなく、 犀利な分析を含む、緻密にして堂々たる學術論文です。御承知でせうが、 渡邊さんの學識は、私などには底が見えませんが、その難しい中身を優 しく説明する名人で、しかも讀者を惹きつけて、ぐんぐん引つ張つて行く 大變な筆力の持ち主です。私はこれまで彼にどれだけ教へられたか、計 り知れないものがあります。所持する彼の舊著6册も、屡々書架から拔 いて讀み直します。 この學會誌での論考も、あまりにも見事なので、コピーして、黒ユリさん にお送りしたいほどですが、ネットの上だけのお附合ひでは、それはで きず、といつて、ここに短い梗概にまとめる(お返しの意味で、さうすべ きですが、こちらは今日から三日間、佃・住吉の三年に一度の大祭で、 孫どもが來てゐて、急かされます)時間がないので、いづれ著書に輯録 された際にお讀みいただくとして、論考の二三箇所の斷片的な引用に 留めます(渡邊さんも、概ね高天ヶ原=常陸説に立つてゐるやうですが、 その部分は引用しません)。 最初の方に、「私は中国人の日本人への高慢な態度、思考の根源は、 中華思想ということとは別個のところに存在していると考えなければな らないと思っている」とあります。えっ、何!?と思ひますね。 その展開とは關係なくほぼアットランダムにーー 「(漢民族の対外的状況において)『余裕と優位の時代』の中で、無垢 の形を裝っていた徳化思想=前期中華思想が、『危機と喪失の時代』 にあって切り崩され、観念を事実より優先する陰鬱なイデオロギー= 後期中華思想に裏返ってしまった」「時代を経れば経るほど、中華思 想というイデオロギーは自己中心性だけでなく歴史改竄を伴うように なっていく」 「不思議に思えて仕方がないのはこれほど強固な中華思想を振りま わしている中国が、一度も彼らにとって東夷の一つである日本への 征服侵略に成功したことがないこと、それどころか、それを企てた痕 跡すらないことである」「『王道支配』支配を自称しながら中国の歴代 王朝がなしてきたのは、『覇道』すなわち暴力的な軍事侵攻と軍事支 配で、有史以来、数百回の侵攻を受けてきた朝鮮半島や、同じく数 十回の侵略を受けているベトナムなどは、『中華思想』の実際、『中 華思想』なるものが実は幻想に過ぎないことを散々に味あわされて きている」 「古代中国人の精神にぴっしりと根をおろした道教的神秘主義、そ の中でまるでヨーロッパ人のジパング幻想のように培われていった 蓬莱島への探求が、倭=日本列島を、単なる華夷秩序の一地域 でない場へと高めていき、歴代皇帝の軍事侵攻を忌む地という認 識にもなっていったのだろう」 「日本人が道教によって感受した『蓬莱』=『とこよ』・『常世』なる地 は、不老不死というような欲望的・生々しいものではとうていない異 郷であることも明らかになってくる。死そのものを薬物のような現世 的手段で克服しようなどという思想は、日本人にとってあまりにおこ がましいものだ。そのような形ではない形での死の克服、それが日 本にとっての理想なのであり、その理想郷が蓬莱であり常世の世界 である」 「日本列島に住む人々がある程度のまとまり、共通項を有した繩文 時代のいずれかの時期、日本列島のどこかに、文字ではなくて文 化的遺伝子の形で記憶されている、何かしら決定的な意味をもつ 過去の時間と場所があって、祖霊と言い換えていい我が国の死者 の魂がその時と場所にやすらいでいる、これが日本人にとっての 蓬莱であり常世の国なのだ」 「現代中国人はもちろん、冊封体制的な意識でもって日本人を軽 蔑している。だが、中国人の対日意識はそれのみではない。中国 皇帝が、そしておそらくいまだに中国人の大多数が蓬莱・常世の島 として日本のことを感受しつづけてきた。彼らが消費や乱行の限 りを「大いなる未来」に向かって蓬莱・常世の島で尽くす。「不老不 死」とはそのような中国人の消費や乱行の極限なのである。中国 人は伝説の島、憧れの島に来たと観念的に信じこんでおり、ゆえ に狂乱的な歓喜にひたりきっているといえる」 ここで、御神輿が近づいてきました。いい加減な引用ですみませ ん。筆者の渡邊さんにも失禮ですね。お詫び申上げます。 返信
池田様 『日本国史学』に、田中先生の日高見国についての論文が掲載され ているとの事、教えて頂いて有難うございます。渡辺様にも、お礼 申し上げます。私は、普段こうした雑誌を目にする機会がありません。 渡辺様の著作は『未完の大東亜戦争』を拝読しただけですが、誰も が一度は頭をかすめるであろう問題を、あえて徹底して追及されてい る所、私も引き込まれるような思いで読ませて頂きました。 さて池田様が引用された、田中先生の論文の最終章「『天孫降臨』 とは何か」の中の一節は、私が読んだ『天孫降臨と何であったのか』 の内容と同じです。 特に「天と海は合一したものと思われていたはずだからである」と いう部分は重要です。そこの事情を田中先生は以下のように説明します。 記紀の時代、「天」は、ほとんどすべて「あま」「あめ」「あも」など の変化形で読んでいた。「空」の意味で使う時は、わざわざ「そら」と 読ませていることから、「天」を「あま、あめ、あも」などと読んだ時 は、むしろ「空」の意味でない場合がほとんどである。 しかも「あま」と発音する言葉に日本語には沢山あり、中でも最も 重要なのが「海」である。一度も海辺に行ったことのない人はほとんど いないであろうと思われる我々日本人にとって、水平線を臨んだ時に 見えるのは、空と海が一線上に合体して見える光景だ。そこで天と海 は同一だとの感覚を持つのは自然なことである。 つまり「天降る」は「海降る」に置き換えられる可能性が十分ある。 さらに日本人は、都つまり中心へ向かうことを「上る(のぼる)」 地方へ向かうことを「下る(くだる)」と言ってきた。 したがって、あらゆる点から考えて、「天孫降臨」は「海を使った 移動」以外にはありえない。 日 本 「下る」西 ← 列 → 東「上る」 島 上の図のように、関東に鹿島から、九州の鹿児島へ船で向かうのが 「天孫降臨」で、中心の東日本から、西日本へ下りて平定を行うことが、 つまり「高天原からの天降り」なのである。実際鹿児島県の霧島市には 「天降川(あもりがわ)」という川がある。 なぜ東西という関係が大切かというと、人類は太陽を求めて東へ と移動してきたからだ。 ところで池田様は、渡辺様の論文『日中の蓬莱傳説・東方幻想の 比較考察』の中の一部を引用されました。その中で、「不思議に思え て仕方がないのは・・・中国が一度も彼らにとっての東夷の一つであ る日本への征服侵略に成功したことがないこと、それどころか、それ を企てた痕跡すらないことである」。 この部分に関係する文章が、『天孫降臨とは何であったのか』の 最後にあるので、一部転記します。 「人類は日の上る方向、結果的に日本列島を目指して移動してきまし たが、止まってしまう人々は中国で止まってしまし、日本の縄文とは 別の文化文明を築きました。彼らには太陽信仰が強くないために、日 の上る地を目指してもうひと押し、進んでみようなどとは思わなかっ たのです。 あくまでも歴史的事実としてですが、これが少なくとも今現在まで、 かつて中国の漢民族が一度も日本を本土侵略したことがないことの 理由と考えられます。モンゴル人は、十三世紀の元寇というかたちで、 その意思を見せたことはあります。しかし、漢民族にはそれがありま せん。 中国にとって、精神活動的に、日本列島はあまり魅力がなかった ようです。漢民族にとっては、太陽が上る地など、余り興味を持たな いのです。中国の神様は太陽を崇敬する気持はありません。太陽とい うものは盤古神話では、後から造られたものとされています。 ところが日本は、エジプトやギリシャなど、そうした世界の方が 実は早くから親しみがありました。人々はそちらの方から日本列島へ、 海を渡り、陸を歩き、島伝いに移動し、渡ってきました。 文化文明の研究で、今まで致命的に間違っていた理解の仕方があり ます。太古の人々は陸上でしか移動しないと思い込んでいたことです。 人類は大陸を歩き、或は馬に乗ってしか移動しないと考えるならば 日本などは最果ての国であり、日本列島にたどりつく人々は稀だという ことになります。しかし船があったのです。 最果ての島国に船でたどりつくことは比較的容易でした。日本が 世界の端の国であり中心ではありえないという考え方の背景にはこ の、人々の移動に対する思い込みがあります。 大陸から文化文明のやってきたのではありません。近年の考古学的 発見からわかるのは、もっと自由の往来があったということです。 世界中から人々が日本列島を目指して集まり、縄文の一大文明を築き それが韓国にも行き、中国にも行き、アメリカ大陸へも行ったという ことを考えることが可能です。 最近はインカ文明も日本人が大元だと議論され始めていますが、 そうした問題は、そういった話を耳にしたとき、日本人自身がたじろ いでしまうという事実です。多くの日本人は、そういう世界的視野に 慣れていないからです。 われわれが住む日本列島の、数万年にわたる文明の歩みや日本神話 の歴史的意義と価値を日本人は知らなさすぎました。かつて書かれな かったことこそが今の私たちには重要であるような気がします。そして それこそが日本の深く沈んだ伝統であり強さと美しさであると思われ ます。本書はそれをさぐる上で大切な本になるだろうと自負しており ます。」(完) 蛇足ですが、茨城県在住の私の知人に、田中先生の『天孫降臨とは 何であったのか』の話をしたら、自分は、その「天孫降臨」のメンバー の一人であったアメノコヤネ、つまり後の中臣氏・藤原氏ゆかりの者 であると告白しました。でもそうした人は全国に沢山いるので、特別 でも何でもないと付け加えましたが。 お忙しい所、毎度失礼しました。 返信
この写真は、ちょうど二年前の今頃公開された映画「シン・ゴジラ」の中で、東京のど真ん中を歩き回る、遠景のゴジラそっくりですね。
この「シン・ゴジラ」という作品の脚本・編集・総監督を務めたのは、現代の若者なら、知らぬ者がいないと言われるほど有名なアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」(内容は私もよく存じません)の監督庵野秀明(あんのひであき)氏です。
昭和29年に始まった、数ある「ゴジラ」シリーズの中で、新しい技術をいくつも使いながらも、どっしりとした伝統的ゴジラの姿を、あえて尊重したというのですから、それだけで、この庵野氏はなかなかの人物だと、私は判断しました。
実は平成10年に、アメリカ版「GODZILLA」が製作されました。しかしこの外国製ゴジラが、大きな足の裏とティラノサウルスのような尻尾で、意外にも身軽に動き回る予告編を見ただけで、観る気が失せました。なるほど外人が考えるゴジラというのは、要するに「気色悪い怪物」でしかないのだな、と納得しました。
ところが日本人の多くが独特の愛着を持っている伝統的ゴジラ像を描くのに、庵野氏は、その動きを、何と狂言師の野村萬斎氏に任せました。
細身でありながら、歩き方を始め、すべての所作が美しい野村氏の動作を、モーションキャプチャーという技術を使ってデータ化し、コンピューターグラフィックス(CG)のゴジラの画像に反映させるという訳です。
東京湾から姿を現し、呑川を伝って蒲田に上陸し、品川に向かって前進して行くゴジラを見て、観客の多くは、恐怖を感じながらも「次はどこへ向かうのかな?」と、自身をゴジラに重ね合わせて観ていたはずです。
私などは、あの恒例の、国会議事堂を豪快に壊す場面を期待したのですが、どうも見当たらなかった(記憶が判然としません)のが残念でした。
ともかく「牛久大佛」とゴジラを同列に論じるのは、不謹慎ではありますが、野村萬斎氏がゴジラを演じたとなれば、お許し願えるのでは、と思います。
ところでこの「シン・ゴジラ」、巷の感想では「あのゴジラは、侵略して来る中国だ!」とか、至極真っ当な内容もあったようですが、海外では不評だったようです。そのせいか、この作品の意義を徹底して論ずるという空気は、残念ながら、意外にも早くしぼんでしまいました。
特にゴジラを外国からの侵略の象徴として捉える見方が、ネット上では少なくとも私の見た限りでは、意外にも少ないのは、論じる方の自己規制か、或はもしかしたら、最近流行りの、ネットの運営側の規制によるものではないかと疑っています。
その他海外でヒットしなかった別の理由の一つは、この映画の最後のシーンで行われる、ゴジラを倒すための神技的な「ヤシオリ作戦」の意味が、外人には理解不能だったためだろうと、私は思っています。
ヤシオリとは、スサノオノミコトが八岐大蛇を退治した時、大蛇を酔わせるために飲ませた「八塩折之酒」から取った名前です。
ともかく映画というのは、昭和20年代娯楽があまりなかった時代に、一時代を築いたように、日本人自身が楽しめればそれでよいのであって、「分からない者は、分からなくていい」のではないでしょうか。
「牛久大佛 5」の、岡田様のコメントの中で、「霞み具合が距離感をよく表している」と書かれたのが、「なるほど!」と膝を打つ思いで、その表現に触発されて、ついつい調子に乗って、長々と書かせて頂いた次第です。
黒ユリ様
調べてみたところ、シン・ゴジラの体長は118.5m。
牛久大仏の大きさは台座付きで120m。ほぼ同じです。
連想されるのもご尤もと思いました。
以下、余談です。
小生が住む地域では、日曜の夜にウルトラマンシリーズ
初期の作品を再放送しています。
昨年はウルトラマン、ウルトラセブンを放送し現在は
帰ってきたウルトラマンを放送しています。
牛久大仏の翌日は、第27話「この一発で地獄へ行け! 」
という作品でした。
信州(という設定)に3体の巨大観音像があり、それを
怪獣が破壊するというシーンから始まります。
あまりの偶然に思わず声を上げてしまいましたが、
その観音像は作りが雑で、見ていて有難みがありませんでした。
むしろ、ちょっと不気味。
前回にも書きましたが、牛久大仏は、そのお姿がお優しいので
不気味さを緩和しているように思いました。
岡田敦夫 様
「牛久大佛」の話題に対して、ゴジラを引き合いに出すという少々不謹慎なコメントに対して、丁寧なご返信を頂き有難うございました。
牛久大佛のHPを見ると、想像以上の大きさに加え、胎内には納骨堂もあるそうで、確かにこれは岡本太郎の「太陽の塔」を遥かにしのぐ像だと思いました。
岡田様が大佛の「横から見た印相がとても優しい」と書かれたのは全く同感です。特に(2)と(4)は、手をかざす姿が柔らかい印象を与えているのは確実です。
以前、仏像の手が長いのは、「衆生を救うため」だと聞いたことがあります。そういえば手の短い仏像は見た事がないし、短かったら様にならないかもしれません。
ついでに、全く関係のない話をさせて頂くと、日本語では「女に手が早い」などと言いますが、中国語では、「手が長い」と言うのだそうです。
ところで(2)の写真に写っていらっしゃるのは先生でしょうか?
ウルトラマンシリーズが再放送されているとは、羨ましい感じがします。でも本物と見紛うくらい精巧な映像が作れる最近のコンピューターグラフィックスに慣れた今の子供たちは、昔の「特撮」をどう思うのでしょうか。
私などは、ウルトラマンの「衣装」がよじれて「しわ」が出来る所が手作り感一杯で、製作者の努力が感じられて感動したものです。逆に、今の作品は、まるで気違い博士が、度を過ぎた研究をして地球も何もかもダメにしてしまうような「狂気」を感じて、あまり好感が持てません。
お書きになった、信州の巨大観音像を怪獣が壊すシーンですが、舞台が大都会でないのは、特撮のセットを用意する時に、山や巨大観音の方が、複雑なビル群の模型を作るより簡単だからでしょうか。
それとも、大人口を抱える都会を破壊すると、当然人間も沢山殺すことになることに配慮してなのでしょうか。
いずれにしても、現代のコンピューターグラフィックスの技術を使えば、必要に応じて、映像を加えたり削除したりできるので、そんな余計な心配は要らないのでしょう。
因みに岡田様が調べて下さったゴジラの身長ですが、ネットで検索すると確かに118.5mとなっています。さらに調べると、シリーズ全29作品のゴジラは、15作目までが50m、16作目から80mとなって18作目から100mとなり、今の大きさになったようです。大きくなったのは、「原子力潜水艦の核エネルギーを吸収した影響によって、体の大きさやパワーがアップした」とあります。でもこれ以上大きくなると、流石に動きも鈍くなるだろうから、この辺が限度かな、と思いました。
それに反して、大佛の方はまだ抜かれる可能性がありますね。何せあの古代に出来た出雲大社も、平成12年、巨大な宇豆柱(うずばしら棟持柱 むねもちばしら)が発見されて、高さ48mの巨大神殿の存在が浮上したくらいですから、日本人の技術と根性を以てすれば、有り得ると思います。ただし地震対策を加味しての話ですが。
再び横道に逸れてしまいました。これ以上続けるとお叱りを受けそうなので、この辺で失礼致します。
黒ユリ 樣 岡田 樣
お二人のやりとりを興味深く、樂しく讀ませていただいてゐます。
ゴジラにもウルトラマンにも全く無縁で、知識も皆無ですが、お二人のゴ氏とウ氏に對する思ひには共感できさうな氣がします。
「野村萬斎氏がゴジラを演じた」「(牛久大仏は)不気味さを緩和している」「ウルトラマンの『衣装』がよじれて『しわ』が出来る所が手作り感一杯で、製作者の努力が感じられて感動した」など、實際を知らないながら、「ヘー、さうなのか」と自身が新發見したかのごとく・・・。
私がこの欄の差配をしてゐるわけではないので、「どんどんお續け下さい」とは申しかねますが、自分が愛讀してきた、できれば、ゴ氏・ウ氏談義をもつと聞きたいといふ希望を申上げておきます。
;
米粒に、仏像を描く人がいる時代ですよ!!
今日は、涼しいですね! !
https://twitter.com/Dellcano
*
18/07/26 , 20:09 .
子路。
池田様
仰る通り、皆様お忙しいご様子ですね。
でも写真だけが次々にアップされると、映像・画像とか、イメージみた
いなものが好きな私は、つい口を挟みたくなり、厚かましくもコメント
させて頂いています。
牛久の方へ行かれたメンバーに、池田様がおいでないのを不思議に思っ
ていましたが、大変な目に遭われたとの事、お大事になさって下さい。
さてこの牛久大仏のある茨城県ですが、毎年発表される「都道府県魅力
度ランキング」で5年連続最下位を記録しているそうです。しかも昨年度
は、全47都道府県のうち、何と群馬、栃木、埼玉の関東勢がすべて40位
以下という結果に終わっています。
私の知る茨城在住の方は、「やはり、他県の人には多少『きつい』と感
じられる方言のせいもあるのか、いい所も一杯あるのに、自分としてはと
ても信じられない」との思いだそうです。
こうした結果に対し、ブランド総合研究所・田中章雄社長は、「ブラン
ド力」とは「多くの人が同じイメージとして共有できる力」だと言い、
茨城も「統一イメージ」を作るべきだ、例えば茨城を南北で「筑波国」と
「常陸国」に分けて前者は科学技術を、後者は「豊かな自然」を打ち出す
などのアイディアはどうか。「何でもあるよ」と応えるのは「何もないよ」
とイコールなんです、とアドバイスしています(産経ニュース2018.1.3)。
ところが茨城県はもともと「何もない」どころか、皇室の本来の起源で
ある鹿島神宮を始め、縄文時代の遺跡や城跡が沢山ある所だと、私は、
最近知りました。
「つくる会」の会長もなさったことのある田中英道さんの『天孫降臨と
は何であったのか』と『日本の起源は日高見国にあった』を、今読んでい
るのですが、田中先生によれば、日本神話というのは、関東地方の日高見
国の歴史であって、ファンタジーでも何でもないそうです。実際、最近の
生物学や考古学の研究成果から、3千年も前から、関東や東北には、稲作
や造船を含めた高度な縄文文化があったと考えられる、ということです。
一般には三重県の伊勢神宮ばかりが注目されていますが、もし茨城県の
鹿島神宮と千葉県の香取神宮が、古代日本の中心地として環境整備されれ
ば、もっと認知され、それこそ茨城県の「統一イメージ」となるに違いあ
りません。
実際、茨城県には「高天原」という地名がいくつかあるそうです。また
宇宙飛行士の向井千秋さんが、スペースシャトルに乗って、宇宙から地球
を眺めた時、「日本に光の柱が立っていて、その場所を調べてみたら日立の
山の中だった」のは有名な話で、具体的には御岩神社だということです。
また田中先生は、関東は神道系の「かたち」の文化、関西は仏教系の
「言葉」の文化だと言います。つまり「かたち」の文化は、土器であれ何
であれ、その表現そのものが大切だということです。
このように考えると、古代日本の中心地だった茨城県に、世界一大きな
大佛ができたのは偶然ではないのかもしれないな、などと私は思いました。
そして牛久大佛が地上を見下ろしているように、巨大な身体で地響きを
立てながら大活躍するゴジラやウルトラマンも、日本人が伝統的に持って
いる想像力と造形力の産物ではないかと思いました。
黒ユリ 樣
色々とお教へいただき、忝く存じます。
「『都道府県魅力度ランキング』で5年連続最下位を記録」とは初耳。
きつい方言のせゐとか、あるいは、これを脱するために「筑波国」と
「常陸国」に分けよとの説などはピンときません(こちらの無知のた
めですが)。
田中英道さんの本は讀んでゐませんし、その他書物による知識は
殆どありませんが、20年くらゐ前、こんなことがありました。
筑波山に吟行した際、一切の世話を燒いてくれたのは、我々の俳
句結社の幹部であり、土地の有力者でもある I 氏でした。至れり
盡せりの扱ひをしてくれましたが、全員が感心したのは I 氏の愛
郷心の旺盛なことでした。 稻荷山古墳の近くに住む、本業 考古
學者は「I さんを見習つて、我々も郷土に誇りをもたなければなら
ないな」と述懷しました。
私が、I 氏において最も驚いたのは、その語る、天孫降臨を初め
とする記紀の世界のできごとのほとんどが、ここ筑波のこととされ
てゐて、それがさして不自然に感じられなかつたことです。
あとで、少しでも調べてみればよかつたのですが、生來の不精か
ら、そのままできました。「日本神話というのは、関東地方の日高
見国の歴史であ」るといふ説は、現在、どの程度認められてゐる
のでせうか。不勉強ゆゑの依頼心丸出しで恐縮ですが、てつとり
早く御教示いただけないでせうか。
句會終了後の宴席では、餘興として、女藝人による蝦蟇の油の
口上實演がありました。それを見てゐた私は、昔、荻窪驛の近
くで、蝦蟇の油賣りから、それを一個(メンソレ型の丸い金屬製
の容器入り)買つたことを思ひ出し、たまたま鄰り合せた I 氏に
それを語りました。
ーー高校生でした(60年安保より數年前)が、自分では、批判
精神十分にありと思つてゐました(現に、當時盛んだつた平和運
動とかには胡散臭さを感じて、その本質をほぼ理解してゐたつも
りです)。
インチキ物賣りなぞに引つ掛かるものかと、自身滿々でした。賣つ
てゐた男は、ネクタイを締めてゐないサラリーマンといつた感じで、
綱渡りなどの大道藝は一切しませんでした。、「一枚が二枚、二枚
が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚……」といつた口上もなかつ
たと思ひます。
私に最も印象的だつたのは、「これは賣物ではない。あとで、賣つ
てくれなどと言ふな。絶對に賣らないよ」といふ科白でした。もう一つ
は、自分の腕に刃物で傷をつけて、血が滲んだ(ダラダラと流れる
ほどではなかつた)ところに、件の油を塗りつける。それを布で拭ふ
と、あとは元どほりの、何もなかつたやうな健全な皮膚。
香具師のやりかたの解説には「刀の切れ味を示したあと、切れない
部分を使って腕を切ったふりをしながら、腕に血糊を線状に塗って
切り傷に見せる。偽の切り傷にガマの油をつけて拭き取り、たちま
ち消してみせ、止血の効果を観客に示す。また、ガマの油を塗った
腕は、刃物で切ろうとしても切れず、防護の効能があることを示す
というもの(刀にガマの油を塗る場合もある)」とありますが、ほぼ
それに則つたやり方だつたかもしれません。今にして思へば。
何度か、これを繰り返したあと、男は「これは絶對に賣らないが、
どうしても欲しい者には、特別の道がないでもない。こちらは奉仕
でやつてゐることだが、費用がかかる。その何分の一かを負擔し
ようといふ殊勝な氣持のある者には、今だけ200圓でくれてやる。
どうだ!賣るのではない。イヤならいいんだよ」と現物を鼻先に突
附けられたとき、私は、ここでこれを手に入れなかつたら、大損だ
と確信しました。そしてポケットから200圓を出しました。
その貴重な蝦蟇の油を、一度でも使つたか、記憶にない。ーー
この思ひ出話は I 氏を喜ばせました。「立派だ! さういふ素直な
氣持が尊い。あつさりと騙されるところに、あなたの人柄が現れて
ゐる。俳句も同じだよ」。
牛久には50年ばかり前、郵便局の取材に行きました。一泊したの
で時間は十分あり、先方では、牛久沼に案内しようと言つてくれまし
たが、こちらの體調が惡く、斷りました。そして、芋錢と接する機會
をも逸してしまひました。
池田様
田中先生は近年、日本神話やそれに関する歴史の本を書かれています
が、私は全部読んでいる訳ではなく、完全に読了したのは『天孫降臨と
は何であったのか』だけなので、その範囲内で申します。
田中先生は基本的に、人類は古代から太陽に向かって移動してきたと
いう考え方を採ります。以前、人類はアフリカの一人の女性から生まれ、
そこから出発して全世界に散らばって行ったという説が話題となりま
したが、こうした考え方がベースにあると思います。内容の概要は以下
の通りです。
最近の研究によれば、日本列島の縄文遺跡は、関東東北を中心とする
東日本に集中して、西日本には、殆ど人が住んでいなかった。それは、
人々が太陽を求めて東へと進んだからである。
例えば、約1万2千年前に大陸から切り離された後の縄文早期
(約9500年前~6000年前)、全人口は2万人前後。その後寒冷化が
始まり、人々は南や西に移動し、西日本の人口が増加するが、西日本の
人口は東日本の5分の1以下。水田耕作が普及した弥生時代(約1800
年前)は、全人口約60万人となるが、それでも東西の人口比は、
100対68。
もとより青森県では世界最古(16,500年前)の土器が発見されている。
また茨城県の鹿島神宮付近の遺跡には、2万年以上前の旧石器時代の石器が
発見されたのみならず、縄文時代のあらゆる時期の土器も見つかっている。
他にそんな地域はない。つまり関東地方が何万年にも亘って、他国からの
侵略による断絶もなく継続し、文化の中心だったことが分かる。
上記の内容を踏まえた上で、それならなぜ「日本書紀」や「古事記」
には、関東の事が書いてないのか?
このなぞを解き明かすべく、記紀に記された神々の名前や、それらを祀
った神社や地名に注意しながら、神話を読み解いていくと、実は神話のス
トーリー自体が、関東地方(日高見国=高天原)の歴史的事実を描いた
物語であることが分かる。
例えば関東・東北に多い熊野神社や、長野県の諏訪大社に因んだ神社が
九州に沢山あることは、「天孫降臨」メンバーが鹿島から鹿児島に向かった
ことを示している。
「天孫降臨」とは以下の話である。
アマテラスを始め、関東の日高見国を統治していた高天原系の神々は
これまで気にする必要がなかった日本列島の西側が、大陸の秦や漢など
の大帝国からの圧力や、それに伴う移民の増加などに対処するため、列島
全体を支配下に置く必要を感じる。
そこでまずは出雲のオオクニヌシ系の勢力に国譲りさせるなど、各地で
平定事業を行いながら、西日本の防衛の要諦である大和を支配下に置こう
と考える。この場合、西端の九州から上陸し、次に東に回り込み、大和に
向かうという作戦に出る。これが「天孫降臨」の意味であり、後の「神武
東征」である。こうした出来事が起こったのが、いわゆる弥生時代だと考
えられる。
記紀があたかも関東を無視しているかのように見えるのは、大和のすぐ
東側はすでに関東の高天原勢力の支配下に置かれていたからである。つまり
関東の日高見国は述べる必要のない「前提」としてあるから、神武天皇は列
島の東半分の援護を受けて、安心して大和への東征を行ったのであり、だか
らこそ、日本統一は大和で終わるのである。
文字による記録がないからといって存在しない訳ではない。これまでの
ように文字としてある文書だけに頼っていては、日本の本当の歴史は分か
らない。最近の生物学や考古学の研究成果は、「神武東征以降が本当の歴史
であって、それ以前は神話というファンタジー」だという従来の説を覆す
ものである。
以上、十分とは言えませんが、私が読み取った限りでの概要です。
我々が習った歴史や、よくあるTVの歴史番組にあるように、未だに「魏志
倭人伝」にこだわる風潮、あげくは天皇の起源は半島にありなどの奇説は
田中先生の著作によって、強烈な一撃を食らうでしょう。
特に戦後世代がしつこく教えられてきた「文明は大陸半島経由で伝わっ
た」という考え方は、同じく田中先生の著作『日本の起源は日高見国に
あった』にある以下の資料によっても、疑問符が付きます。
本州に住む現代人のDNA調査の結果
朝鮮人に多い特徴を持つ ・・・24%
中国人 〃 ・・・26%
アイヌに近い ・・・ 8%
沖縄人に近い ・・・16%
どれにも属さない特徴を持つ・・・26%
(宝来聰 『DNA人類進化学』岩波科学ライブラリー 1997年
「また、世界に12系統存在するというJCVと呼ばれるウィルスの
分布から日本人の起源を解析する試みも、2000年代に始まりました。
東大医科学研究所の余郷嘉明氏をはじめとする研究グループの発表
『JCウィルスから見た日本人の起源と多様性』(2003年)がその代表
的なものですが、それらの研究によれば、ヨーロッパやトルコでしか
見られない系統のJCウィルスを持つ日本人が弘前、秋田、仙台など
北日本の一部に、1~2割の確率で存在するのです。
さらに、これはアジアの近隣諸国には見られない日本特有の事象で
あることもわかりました。日本人の血は、世界の各地から集まって成立
しており、それら多様な血が、日本列島の風土の中で、日本人という
ひとつの民族をつくりあげたのです。
そして、このことは、日本語の研究、また、神話の研究の側面からも
明らかになってきます。」(以上P38,39)
池田様が書かれたように、「天孫降臨も常陸で起こった事」と主張
されるI氏は概ね正しいことを仰っていたと思います。また「この説は
どの程度受け入れられている」かに関してですが、田中先生自身、これま
での説を唱える大学の歴史学者たちは、絶対に従来の説を曲げないだろう
と書かれています。
それでも「科学的データ」には絶対の信頼を置く日本人ですから、
田中先生の考え方は、じわじわと浸透していくだろうと私は思っています。
さて池田様の「ガマの油」の話は、小説を読むように楽しませて頂き
ました。でも反面、耳の痛いことです。
自分も過去、商売人の口車に乗って、200円どころか大金を散財した
ことがあるからです。騙されない自信がついたのは、つい最近です。
それでも以前デパートの実演販売の口上を聞いて、感心したことが
あります。薄焼き卵ができるフライパンですが・・・
「あなただからできるんでしょ。奥さん、今そうおっしゃいましたね。
でも騙されたと思って一度使ってみてください。こうやって、ほら
誰でもできるんです・・・」
そのうち一人一人と中年女性が集まってきて、皆熱心に聞いていま
した。誰かが「うまいこと言うね」と言ったのが聞こえました。
でも私みたいな素人が真似して実演販売をしても絶対に売れない
と思いました。というのは、口上だけでなく、表情とか道具の使い
方とか、自信とか安定感みたいな、人を引き付ける雰囲気がその人
にあったからです。プロにはかなわない、そう思いました。
また牛久大仏の話題と離れてしまいましたので、失礼します。
黒ユリ 樣
簡潔なるsummaryと立派な解説、忝く存じます。
これだけのものを仕上げるには、相當な時間がかかつたでせう。その何分の
一かの勞力で、かかる知識を得、ありがたくも申し譯のないことです。
「『天孫降臨』メンバーが鹿島から鹿児島に向かった」「関東の日高見国は述べる必要のない『前提』としてあるから、神武天皇は列島の東半分の援護を受けて、安心して大和への東征を行ったのであり、だからこそ、日本統一は大和で終わるのである」。うーん、理に適つてゐますね。その先は、自分で・・・。ありがたうございました。
「口上だけでなく、表情とか道具の使い方とか、自信とか安定感みたいな、
人を引き付ける雰囲気が」決め手で、當然「プロにはかなわない」ですね。
「牛久大仏の話題と離れてしまいました」が、牛久大佛論の發展版といふこ
とでお許しを得ませう。もしも叱られたら、岡田さん以外の參加者はこれか
ら書かれるのでせう、眞打ち登場までのつなぎのつもりでしたと釋明しませ
う。
黒ユリ 樣
『日本國史學』といふ學會誌(平成28年 第8號)に「『高天原』は『日高見國』であつたーー繩文・彌生時代=天津神、古墳時代=國津神の時代」
(田中英道)といふ論文を、昨日見つけました。
黒ユリ樣が讀まれた『天孫降臨とは何であったのか』は、あるいは、この
論文を基に成つた著書かもしれませんね。論文の最終章は「『天孫降臨』
とは何か」で、「瓊瓊杵尊は、鹿島から立って九州の鹿児島に船団で『天
下ったことを意味し・・・」「『天下り』として鹿児島に到着したことは、天(あま)は海(あま)と同音で、海から到着したことを強調したい。当時は、天と海は合一したものと思われていたはずだからである」などの記述があります(まだ、拾ひ讀みしただけですが)。本でも同樣でせうか。
この學會誌を下さつたのは、坦々熟の俊秀 渡邊望さんで、御自身の「日
中の蓬莱傳説・東方幻想の比較考察」といふ論考も載つてゐます。
これが滅法面白く、私はわくわくしながら、讀みました。といつて、漫畫や
大衆小説のやうに荒唐無稽な筋が展開されたり描寫するわけではなく、
犀利な分析を含む、緻密にして堂々たる學術論文です。御承知でせうが、
渡邊さんの學識は、私などには底が見えませんが、その難しい中身を優
しく説明する名人で、しかも讀者を惹きつけて、ぐんぐん引つ張つて行く
大變な筆力の持ち主です。私はこれまで彼にどれだけ教へられたか、計
り知れないものがあります。所持する彼の舊著6册も、屡々書架から拔
いて讀み直します。
この學會誌での論考も、あまりにも見事なので、コピーして、黒ユリさん
にお送りしたいほどですが、ネットの上だけのお附合ひでは、それはで
きず、といつて、ここに短い梗概にまとめる(お返しの意味で、さうすべ
きですが、こちらは今日から三日間、佃・住吉の三年に一度の大祭で、
孫どもが來てゐて、急かされます)時間がないので、いづれ著書に輯録
された際にお讀みいただくとして、論考の二三箇所の斷片的な引用に
留めます(渡邊さんも、概ね高天ヶ原=常陸説に立つてゐるやうですが、
その部分は引用しません)。
最初の方に、「私は中国人の日本人への高慢な態度、思考の根源は、
中華思想ということとは別個のところに存在していると考えなければな
らないと思っている」とあります。えっ、何!?と思ひますね。
その展開とは關係なくほぼアットランダムにーー
「(漢民族の対外的状況において)『余裕と優位の時代』の中で、無垢
の形を裝っていた徳化思想=前期中華思想が、『危機と喪失の時代』
にあって切り崩され、観念を事実より優先する陰鬱なイデオロギー=
後期中華思想に裏返ってしまった」「時代を経れば経るほど、中華思
想というイデオロギーは自己中心性だけでなく歴史改竄を伴うように
なっていく」
「不思議に思えて仕方がないのはこれほど強固な中華思想を振りま
わしている中国が、一度も彼らにとって東夷の一つである日本への
征服侵略に成功したことがないこと、それどころか、それを企てた痕
跡すらないことである」「『王道支配』支配を自称しながら中国の歴代
王朝がなしてきたのは、『覇道』すなわち暴力的な軍事侵攻と軍事支
配で、有史以来、数百回の侵攻を受けてきた朝鮮半島や、同じく数
十回の侵略を受けているベトナムなどは、『中華思想』の実際、『中
華思想』なるものが実は幻想に過ぎないことを散々に味あわされて
きている」
「古代中国人の精神にぴっしりと根をおろした道教的神秘主義、そ
の中でまるでヨーロッパ人のジパング幻想のように培われていった
蓬莱島への探求が、倭=日本列島を、単なる華夷秩序の一地域
でない場へと高めていき、歴代皇帝の軍事侵攻を忌む地という認
識にもなっていったのだろう」
「日本人が道教によって感受した『蓬莱』=『とこよ』・『常世』なる地
は、不老不死というような欲望的・生々しいものではとうていない異
郷であることも明らかになってくる。死そのものを薬物のような現世
的手段で克服しようなどという思想は、日本人にとってあまりにおこ
がましいものだ。そのような形ではない形での死の克服、それが日
本にとっての理想なのであり、その理想郷が蓬莱であり常世の世界
である」
「日本列島に住む人々がある程度のまとまり、共通項を有した繩文
時代のいずれかの時期、日本列島のどこかに、文字ではなくて文
化的遺伝子の形で記憶されている、何かしら決定的な意味をもつ
過去の時間と場所があって、祖霊と言い換えていい我が国の死者
の魂がその時と場所にやすらいでいる、これが日本人にとっての
蓬莱であり常世の国なのだ」
「現代中国人はもちろん、冊封体制的な意識でもって日本人を軽
蔑している。だが、中国人の対日意識はそれのみではない。中国
皇帝が、そしておそらくいまだに中国人の大多数が蓬莱・常世の島
として日本のことを感受しつづけてきた。彼らが消費や乱行の限
りを「大いなる未来」に向かって蓬莱・常世の島で尽くす。「不老不
死」とはそのような中国人の消費や乱行の極限なのである。中国
人は伝説の島、憧れの島に来たと観念的に信じこんでおり、ゆえ
に狂乱的な歓喜にひたりきっているといえる」
ここで、御神輿が近づいてきました。いい加減な引用ですみませ
ん。筆者の渡邊さんにも失禮ですね。お詫び申上げます。
池田様
『日本国史学』に、田中先生の日高見国についての論文が掲載され
ているとの事、教えて頂いて有難うございます。渡辺様にも、お礼
申し上げます。私は、普段こうした雑誌を目にする機会がありません。
渡辺様の著作は『未完の大東亜戦争』を拝読しただけですが、誰も
が一度は頭をかすめるであろう問題を、あえて徹底して追及されてい
る所、私も引き込まれるような思いで読ませて頂きました。
さて池田様が引用された、田中先生の論文の最終章「『天孫降臨』
とは何か」の中の一節は、私が読んだ『天孫降臨と何であったのか』
の内容と同じです。
特に「天と海は合一したものと思われていたはずだからである」と
いう部分は重要です。そこの事情を田中先生は以下のように説明します。
記紀の時代、「天」は、ほとんどすべて「あま」「あめ」「あも」など
の変化形で読んでいた。「空」の意味で使う時は、わざわざ「そら」と
読ませていることから、「天」を「あま、あめ、あも」などと読んだ時
は、むしろ「空」の意味でない場合がほとんどである。
しかも「あま」と発音する言葉に日本語には沢山あり、中でも最も
重要なのが「海」である。一度も海辺に行ったことのない人はほとんど
いないであろうと思われる我々日本人にとって、水平線を臨んだ時に
見えるのは、空と海が一線上に合体して見える光景だ。そこで天と海
は同一だとの感覚を持つのは自然なことである。
つまり「天降る」は「海降る」に置き換えられる可能性が十分ある。
さらに日本人は、都つまり中心へ向かうことを「上る(のぼる)」
地方へ向かうことを「下る(くだる)」と言ってきた。
したがって、あらゆる点から考えて、「天孫降臨」は「海を使った
移動」以外にはありえない。
日
本
「下る」西 ← 列 → 東「上る」
島
上の図のように、関東に鹿島から、九州の鹿児島へ船で向かうのが
「天孫降臨」で、中心の東日本から、西日本へ下りて平定を行うことが、
つまり「高天原からの天降り」なのである。実際鹿児島県の霧島市には
「天降川(あもりがわ)」という川がある。
なぜ東西という関係が大切かというと、人類は太陽を求めて東へ
と移動してきたからだ。
ところで池田様は、渡辺様の論文『日中の蓬莱傳説・東方幻想の
比較考察』の中の一部を引用されました。その中で、「不思議に思え
て仕方がないのは・・・中国が一度も彼らにとっての東夷の一つであ
る日本への征服侵略に成功したことがないこと、それどころか、それ
を企てた痕跡すらないことである」。
この部分に関係する文章が、『天孫降臨とは何であったのか』の
最後にあるので、一部転記します。
「人類は日の上る方向、結果的に日本列島を目指して移動してきまし
たが、止まってしまう人々は中国で止まってしまし、日本の縄文とは
別の文化文明を築きました。彼らには太陽信仰が強くないために、日
の上る地を目指してもうひと押し、進んでみようなどとは思わなかっ
たのです。
あくまでも歴史的事実としてですが、これが少なくとも今現在まで、
かつて中国の漢民族が一度も日本を本土侵略したことがないことの
理由と考えられます。モンゴル人は、十三世紀の元寇というかたちで、
その意思を見せたことはあります。しかし、漢民族にはそれがありま
せん。
中国にとって、精神活動的に、日本列島はあまり魅力がなかった
ようです。漢民族にとっては、太陽が上る地など、余り興味を持たな
いのです。中国の神様は太陽を崇敬する気持はありません。太陽とい
うものは盤古神話では、後から造られたものとされています。
ところが日本は、エジプトやギリシャなど、そうした世界の方が
実は早くから親しみがありました。人々はそちらの方から日本列島へ、
海を渡り、陸を歩き、島伝いに移動し、渡ってきました。
文化文明の研究で、今まで致命的に間違っていた理解の仕方があり
ます。太古の人々は陸上でしか移動しないと思い込んでいたことです。
人類は大陸を歩き、或は馬に乗ってしか移動しないと考えるならば
日本などは最果ての国であり、日本列島にたどりつく人々は稀だという
ことになります。しかし船があったのです。
最果ての島国に船でたどりつくことは比較的容易でした。日本が
世界の端の国であり中心ではありえないという考え方の背景にはこ
の、人々の移動に対する思い込みがあります。
大陸から文化文明のやってきたのではありません。近年の考古学的
発見からわかるのは、もっと自由の往来があったということです。
世界中から人々が日本列島を目指して集まり、縄文の一大文明を築き
それが韓国にも行き、中国にも行き、アメリカ大陸へも行ったという
ことを考えることが可能です。
最近はインカ文明も日本人が大元だと議論され始めていますが、
そうした問題は、そういった話を耳にしたとき、日本人自身がたじろ
いでしまうという事実です。多くの日本人は、そういう世界的視野に
慣れていないからです。
われわれが住む日本列島の、数万年にわたる文明の歩みや日本神話
の歴史的意義と価値を日本人は知らなさすぎました。かつて書かれな
かったことこそが今の私たちには重要であるような気がします。そして
それこそが日本の深く沈んだ伝統であり強さと美しさであると思われ
ます。本書はそれをさぐる上で大切な本になるだろうと自負しており
ます。」(完)
蛇足ですが、茨城県在住の私の知人に、田中先生の『天孫降臨とは
何であったのか』の話をしたら、自分は、その「天孫降臨」のメンバー
の一人であったアメノコヤネ、つまり後の中臣氏・藤原氏ゆかりの者
であると告白しました。でもそうした人は全国に沢山いるので、特別
でも何でもないと付け加えましたが。
お忙しい所、毎度失礼しました。
黒ユリさま
いつもコメントありがとうございます。
勉強になります。