「ルポ百田尚樹現象―愛国ポピュリズムの現在地」を読んで

令和2年7月17日
坦々塾会員 松山久幸

 最近、西尾幹二先生からこれを読んでみなさいと手渡されたのが「ルポ百田尚樹現象―愛国ポピュリズムの現在地」(令和2年6月22日発行、小学館)である。

 まず著者石戸諭(いしど・さとる)氏を簡単に紹介しておきたい。1984年生まれで立命館大学卒業後、毎日新聞社に入社。2016年に退社後2018年からフリーランスとなりジャーナリストとして活躍。

 著者の立ち位置と当著作の動機については序章で次のように述べられている。アメリカのフェミニズム社会学者A・R・ホックシールドの言葉を引用しながら、「橋の向こう側に立ってこそ、真に重要な分析に取りかかれる」として「川のこちら側」(左派)から「川の向こう側」(右派)へと敢えて足を運んだと。

 従って、我々にとって著者石戸諭氏は「川の向こう側」の人だ。「川のこちら側」には西尾先生や百田尚樹氏、藤岡信勝氏、小林よしのり氏(当時)などの「愛国」グループがおって、それぞれベストセラーとなる本を出している。はっきりした右派なのに何故そんなに読む人がいるのだろうかと石戸氏には不思議でならないので「川のこちら側」に来て分析をしてみたくなり、代表的な各氏に精力的にインタビューを試みて書いたのがこの本である。

 第一部では百田尚樹氏に焦点を当て、「百田尚樹現象」とは、百田氏が『永遠の0』や『海賊とよばれた男』で大衆から人気を獲得し大衆の思いを汲み取ることでベストセラー作家の地位を確立し、そして歴史本でまた大いに売りまくっていることを指す。その大衆とは「ごく普通の人々」と石戸氏は規定しているが、百田氏のサイン会に来ていた読者達はインタビューの受け答えから判断するに「ごく普通の人々」よりレベルは上だったように受け取れる。また多くの人々に感動を与えた映画『永遠の0』の中で、『大東亜戦争』ではなく 『太平洋戦争』という言葉が平然と使われていることに石戸氏は疑問を呈し、何故なのかと質問をしていて、「映画は娯楽だから」と百田氏があっさりと受け流したことに驚き、百田氏の大衆迎合の感を強くしたのだろうか。

 また次のように書かれた興味を引く箇所もある。石戸氏が南京事件の否定論などは「歴史修正主義」と呼ばれてもおかしくないのではとの質問をしたのに対して、「僕は歴史修正主義者でもなんでもありませんよ。それまで事実を捻じ曲げてきたことが歴史修正であり、私は『日本国紀』で普通の歴史的事実を書いています。南京大虐殺があった、日本の強制による従軍慰安婦がいた、というほうが『歴史修正』だと思いますよ」と百田氏は明解に答えている。因みに、『日本国紀』は2冊の関連本と合わせて100万部を突破しベストセラー街道を驀進していると石戸氏は記している。

 第二部はつくる会発足の経緯が一般人にも手に取るようにはっきりと理解できるほど詳細に語られている。つくる会のことに関して色眼鏡を付けずに殆ど主観を交えず恐らく事実に対して忠実に淡々と記述されていると思われ、ここはジャーナリストとしての石戸氏の面目躍如たるものがある。このように第三者的立場で書かれたものは他に見当たらない。嘘の従軍慰安婦問題を契機に立ち上げたつくる会は出鱈目な歴史教科書の存在を多くの国民に知らしめた。当時私もその禍々しきことを初めて知った一人であり、これは酷い、何とかしなくてはという強い思いに駆られ直ぐさま会員になることに決めた。それまでの私は唯のサイレント・マジョリティーで、日々の営業の仕事に明け暮れるばかりであり、もしつくる会運動がなければ死ぬまでずうっと無為に日を送っていたかも知れません。昭和45年11月25日の三島由紀夫の死が余りにも衝撃的で、我が人生はそれ以降まさに放心状態であったと言っても過言ではない。そのようなことがあってつくる会の発足は私にとっても実に画期的なことであった。
 
 この運動のお蔭で教科書から従軍慰安婦が消えて運動の成果を喜んでいたのも束の間、学び舎なる極左グループによる教科書出現によって従軍慰安婦は復活し、今度はあべこべにつくる会の教科書は不合格に。嗚呼。前川某というトンデモナイ輩が官僚トップになる体たらくの文科省は腐臭が漂うほどに腐り切っている。良識派だと期待を寄せていた大臣萩生田も見掛け倒しでどうにもなりませぬ。西尾先生も初代会長として大いに尽力されたあのつくる会運動は一体何だったのだろうか。今は虚しさだけが漂っております。

 石戸氏のルポに戻りますが、百田尚樹現象とつくる会現象をニュアンスの差はあるにせよ、どちらもポピュリズムの社会現象と石田氏は捉えているが、これは間違っている。ポピュリズムを大衆迎合主義と規定するならば、少なくともつくる会運動はそんな低レベルの問題ではない。日本国家と日本国民の将来を見据え、世に蔓延った自虐史観を糺そうとした崇高なる国民運動ではないか。その結果が多くの国民を覚醒させて、そして既存教科書会社も従軍慰安婦を削除せざるを得なくなった。どうしたことか今はまたその記述が復活してつくる会の努力は無になって仕舞いましたが。

 このようなことから石戸氏がつくる会現象と、ベストセラー作家たる百田尚樹氏の人気現象とが同一のポピュリズム現象であると論ずることには無理があると私には思われます。

 蓋し、ポピュリズムやポピュラリティーという用語を右派自身が使うことはない。この用語は専ら左派が右派を否定的に捉え揶揄する時に使っているのではないか。唯、この左派用語「ポピュリズム」を良識派の新聞たる産経までもが何の疑問を差し挟まずに使っている。一体これはどうしたことか。

 最後に細かいことですが、石戸氏は左翼用語の交ぜ書き「子ども」を使わず「子供」と表記をしている。今は亡き東京都議古賀俊昭氏に倣って古き良き日本文化を守る為、普通に「子供」と書いてほしいと願う私には実に嬉しいことである。(令和2年7月記)

「「ルポ百田尚樹現象―愛国ポピュリズムの現在地」を読んで」への12件のフィードバック

  1. 「ルポ百田尚樹現象」愛国ポピュリズムの現在地

    西尾先生もインタビューを受けてこの本が書かれたというので、読もうと思っていた本だ。先生から向こう側から「つくる会」のことが客観的に書かれたのは初めてなので、読んでみなさいと私も言われた。

    リベラル側にいるという石戸氏だが、丹念に百田氏、藤岡氏、小林氏、西尾先生、それぞれの著書などを大量に読み込み、そしてきちんと多方面にもインタビューをして書いていて、ほとんど「悪意」?「敵意」?を感じない。さらさらっと面白く読めた。前半の百田氏が50歳で文壇デビューする前の来歴はとても面白かったし、「つくる会」が結成される前の様子もよくわかった。

    石戸氏は百田氏や「つくる会」が大衆側だと判断している。百田氏はそうかもしれないが、「つくる会」は当初は熱気があったが、今でも弱小団体だ。だが、石戸氏に言わせれば、教科書採択は進まなかったけれど、一面では「自虐史観」という言葉の広がりと、慰安婦記述が減ったことをもって勝者だったという。

    著者石戸氏は「自虐史観」も「慰安婦は性奴隷ではない」という「つくる会」側右派の主張は事実ではないと考えている。WGIPも陰謀論だと断じている。GHQがそういう施策をほとんど実行していないという名古屋大学賀茂教授の論を紹介している。

    私はその教授がどのような研究をしたかは調べていないが、GHQが占領中に日本に対して行った様々な施策は事実である。神道指令、教育指令、焚書、NHK番組での洗脳、マスコミに対するプレスコード・・・・。戦争終了後、その洗脳は戦中派世代には効かなくても、戦後世代には強烈にインプットされたはずだ。プレスコードが未だに日本を縛っているかのように思えることも多い。日教組など教育機関が未だにそれを守っていることは、君が代反対、日の丸掲揚反対の多くの学校現場がしめしている。

    つまり、「自虐史観」「反日」は単なるレッテルではなく、今までの日本が陥っていた歴史観を表す事実の言葉なのだ。だからこそ大衆がそれに気づき、自国を愛する当然の心情から多数派に広がっていったのだ。

    だが、大衆に広がった「自虐史観」ではだめだという右派的主張を始めた「つくる会」は新しい時代の扉を開いたけれど、教科書の採択率という点では敗者となっている。

  2. 最初に断わっておくと、申し訳ありませんが、私はこの本を読んでいません。横から口出ししますが、図々しい飛び入りが入ったと思って大目に見て頂ければ、と思います。

    長谷川樣(奥様)がご自分のブログの載せられた文章は、日録の方に書くべきだったのではないか、と思っていた矢先だったので、ここにも掲載され、本当によかったと思います。松山氏と奥様の論考を読めば、この本の大体の内容が把握できて、日録の読者の方々には、相当理解の助けになるはずだからです。

    先生は石戸氏のインタビューを受けられたということですが、流石に先生、懐が深い。それでも私は、お金を出してこの本を読みたいとは、まだ思いません。

    第一「つくる会」が興した風、その後の動向や今この瞬間、その歴史的意義を「総括」するのは、早すぎると思うからです。お二人のお話を伺うに、石戸氏は「つくる会」の成り立ちに関わる事情を、調べられ得る限り、職業意識を以て真面目に調査し、かつ冷静に書かれているそうです。でも松山氏や奥様が仰るように、この著作のプラス面、つまり「事実を淡々と記述している」点を差し引いても、結局は「向こう側の人」が書いたものである事実を越えることはできなかった、という訳です。そう思うと、どうしてもお金を出して読もうと思えないのです。

    お話によれば石戸氏は、先生や藤岡氏、小林氏や百田氏の本を大量に読んで書くという努力をされていながらも、最後には名古屋大学の賀茂教授という方の意見を取り入れているという・・・
    つまり先生方の本は、石戸氏の考えを変えるところまで行かなかったということです。そうなると、この先石戸氏が今後いくら先生方の本を読み足して行っても、彼の考え方は変化しないに違いありません。

    私自身以前、考え方の違う同級生と話したり、いわゆる「反対側」の人の本や雑誌記事を読んで、あとに何も残らなかった経験を幾度かしているので、「反対側」の方の人々も、私と同じ気持ちだったろうと思いました。それで私は、自分と対極にある人たちとは、何ら生産的な関係を持つことはできないだろうという諦念を持って、これまで過ごしてきました。結局人生は、考え方を到底共有できない人々と共生していくものです。

    しかし今回、松山氏と奥様の論考を読んで、この本は、単に「反対側」から「こちら側」を書いた本なのだろうか、と疑問を持ちました。

     なぜならお二人とも、石戸氏が「つくる会」設立の事情などについて、「悪意」も「敵意」もなく淡々と書いている点に、むしろ「好意」さえ感じる、みたいに書かれている。それなのに、石戸氏は肝心の「慰安婦は性奴隷だった」や「WGIPは陰謀論」などという考え方に簡単に組している。「つくる会」を巡る客観的事情やそれに関わった人々については、「事実」を追いながら、その「つくる会」が問題にした「慰安婦」や「WGIP」については、「事実」なんかどうでもいい、という態度はジャーナリストとして一貫していないと思うからです。

     石戸氏がどう考えようが、「慰安婦」や「WGIP」については、様々な史料が出てきて、幾人かの研究者によって検証されているのだし、石戸氏のこの著作は、上記の問題について語る場ではないとはいえ、ジャーナリストとしては、あまりにも知的誠実さに欠けるのではないでしょうか?

     私は、この本が石戸氏が先生に直接インタビューして書かれたことが気になりました。まるで少し前に問題になった、上智大学の院生だったミキ・デザキ氏の映画『主戦場』のようだと思いました。
    聞くところによると、デザキ氏は、卒業制作と言い商業映画にはしないと約束しながら、藤岡信勝氏や櫻井よしこ氏、ケント・ギルバート氏らにインタビューしました。その後、慰安婦強制連行があったという自分の主張を裏付ける材料として、それらを編集して活用し、しかも商業映画として世界中で上映したということです。つまりわざわざ敵を騙して近づき、彼等から得た収穫を糧にして、その反論作品を作った訳です。敵自身が材料を提供してくれているのだから、これほど敵に打撃を与える効率的な方法はないでしょう。

     石戸氏の本を読んでいない者としては、僭越な言い方かもしれませんが、私は、この本の出現自体、石戸氏個人のみならず、「反対側」勢力からの大規模な商業的反撃なのではないかと思います。

    というのも「つくる会」の流れを汲む人物として、百田尚樹氏を扱っているのが、その一つの証拠です。百田氏はベストセラー作家ですから、彼の名を出せば、多くの人が立ち止まって見る訳です。百田氏には失礼かもしれませんが、これほど便利な名前はない。しかも百田氏をポピュリズムと同一視することによって、「つくる会」に関わった先生方も、「愛国ポピュリズム」の「大衆」という系列に引きずり下ろすことが出来る訳です。

     それに対し、「大衆」とは違うインテリとして、自らを一段高く位置付けることが出来るという仕掛けです。「つくる会」成立の事情に関しては、出来るだけ感情を交えず記述することで、読者を引きつけ、奥様の表現を借りれば、「つくる会」の側の勢力は、「『自虐史観』という言葉の広がりと、慰安婦記述が減ったことをもって勝者だった」と持ち上げるのも、読者に、なるほど公平な見方だと感心させる一つのポーズだと、私は思います。

     しかしよく考えると、石戸氏が先生や藤岡氏、小林氏や百田氏を「つくる会」にまつわる人々として一括りにすること自体がおかしい。いくら「つくる会」といっても、先生方一人一人の考え方も相当違うし、その後、会が分裂したことについても触れられているかどうかは知りませんが、「李春光」という外国のスパイも関わっていた事を無視するのでしょうか?

    思うに、先生を「つくる会」初代会長などという名前で括るのはあまりにもお粗末です。
    小林氏はむしろ石戸氏の側に行ってしまったのだし、「つくる会」の影響を受けた人は百田氏に限らず、まだまだ沢山います。思想的に「つくる会」に近い人々を扱うなら、別にもっと適当な人がいるはずです。その証拠に先生ご自身、百田さんの『永遠の0』や『日本国紀』を批判しているではありませんか。

     石戸氏が「つくる会」について調べ、かつ書いたことは、すべて「愛国ポピュリズム」「大衆」というキーワードの、単なる材料として使われているのではないでしょうか?
     しかし私に言わせれば、愛国心や先祖を思う心は、ポピュリズムとは何の関係ありません。そしてそれらをポピュリズムと見なす態度も、知性とは何の関係もないと思います。

     松山氏と奥様の論考を拝読して、私は、石戸氏の中に、先生が昔から主張されている「社会科学的知性」、言い換えれば、戦後我々を長らく支配してきた、古い型の左翼思想家の臭いを感じました。
     長い歴史のある我が国の遠い記憶と現在の自分を繋げる意識に目覚めた人々は、この著作に代表されるように、あたかも自分の手足などの身体をも、解剖の材料として切り刻み、しかもそれを外国人と並んで、笑いながら議論するような知性に屈するべきではありません。
    私達「大衆」は、この書物は「つくる会」の意義を客観的に論じた史料的価値のある本である、という評価を定着させたいであろう「あちら側の人々」の、甘い誘惑の罠を見抜かなければならないのです。

  3. >黒ユリさま

    凄い!凄すぎます。

    私は甘っちょろいですね。

    Amazonのレビューに、リベラルの劣化を証明している本だ・・・・というのがありました。
    リベラル側からも、批判されているようです。

  4. 松山さんと長谷川さんの文章を讀んでも、その論旨が私にはほとんど理解できません。 これは、その方の知識を缺く私の一方的な責任で、お二人にはかかはりのないことです。從つて、私にはお説にコメントを加へることはできず、ただ、それぞれの言葉の端 々に續けて、脈絡のない、斷片的なことを、自身のヒマ潰しのために、竝べたくなつた だけです。すみません。

    11~12年前、坦々塾に入れていただいたあと、當時の事務局長大石朋子さんによる 口答試問を受けました。テーマは保守論壇でしたが、當時の斯界の趨勢や主要論客について、 私は殆ど答へられず、彼女は呆れ、匙を投げました。でも、除名・退會處 分にしなかつ たのは、役には立たないが、さして害にもなるまいと見たからでせう。以 下、害を及ぼさないやうなことを少々。
    (一)
    「ポピュリズムを大衆迎合主義と規定するならば、少なくともつくる会運動はそんな低レベルの問題ではない」(松山さん)
    「大衆に広がった『自虐史観』ではだめだという右派的主張を始めた『つくる会』は新しい時代の扉を開いた」(長谷川さん)

    どちらも正しいが、それは半面の正しさです。あの運動の本質は、先生のお考へを大衆 に弘めることだつたのではないでせうか。そして、さういふことを思ひつかれたのは、10年前、
    20年前に比べれば、世の中の雰圍氣が多少變つてきて、苦しくても大いに努め れば、「世に蔓 延った自虐史観を糺そうとした崇高なる国民運動」も、100%不可能と決まつたものではないと判斷されたからではないでせうか。

    昭和37年に、26歳の先生が『新潮』にお書きになつた「雙面神脱退の記」といふ短文を、私が偶然讀んで受けた電撃的ショックについては、以前ここに書きましたが、あの頃の 先生の周邊は完全にイカレ切つてゐて、全く救ひやうがありませんでした。流石の先生も、それを「糺さう」などとは夢思はず、「脱退」を以て抗議の意思表示をされるにとどまりました。

    私がもの心ついた頃は保守と言へば、うしろに反動と續き、極惡の代名詞で、それと目 された文筆家は、表通りでの營業を許されませんでした。先生の評論家開業時も、さうだつたと思ひます。

    つくる會を始められたのは、上述のやうに、時が過ぎ、たまには表に出ることを認められたあとでせう。 そして、これなら、大衆に呼びかけられるかもしれないとの判斷は正解だつたのでせう。 相當の反響があり、人も集まつたや うですね(私も遠くで、喜びました)。

    その代り、有象無象も一緒くたになつて雪崩れ込んできました。60年安保、70年安保でワッショイワッショイをやつた連中は勿論、三島由紀夫が割腹して一年經つても、過激派で暴れてゐたトンチキさへ混じつてゐました。トンチキであつても、入會の際に、トンチキでなくなつてゐればいいのだし、過去のことを一々調べるわけにはゆかない。

    先生と共に、會の運營を擔ふ幹部たるべき人々については、先生が鑑識されたことでせ うが、先生も神樣ではないのだから、時に見損ふことがあるのは當り前です。相當な才能のある人々ですが、その全員の裏も表も見拔くことなど、誰にもできません。人には豹變といふこともあります。そのために、あとで先生の舐められた辛酸苦勞は筆舌に盡くせず、日録に表はれたのはごく一部でせう。

    八木事件が起つた際、畏友伊藤悠可さんは「水増し。保守がそんなに ゐるわけがない」 と評しましたが、これがことの本質で、先生御自身もかねて相當程度 覺悟してをられたのではないでせうか。發會の記者會見を藤岡さんと共になさつたことからも、それは窺へます(政治家でも映畫スターでもない者の記者會見なんて、藤岡さんに言はれるまで、知 らなかつたと、先生はユーモラスに囘顧されますが)。

    水増しこそ禍のもとですが、他方、水増しなしでは、會は成立せず、あそこまで伸びもしなかつたでせう。一番むつかしいところで、この二律背反に先生はずゐぶん苦しまれた のではないでせうか。

    松山さんも長谷川さんも、「大衆」を好まれないやうですが、これを避けた運動に意味がありませうか。迎合はよくなくても、大衆に必死に働きかけてこそ、目的が達せられるのでせう。「大衆」の力が、最後に事を決めるので、根本の精神を曲げずに、こちらに引き寄せることがポイントで、そこに最大の苦勞もあるのでせう。

    その成功例の典型がヒトラーで、「民衆は馬鹿で忘れつぽいから、同じことを何度も繰り返して教へてやらなければならない」とうそぶいて、それを實踐し、見事に大衆を捉へました。その力に支へられたからこそ、あれほどの大事をやらかしたのです。
               (二)
    私は勝手に、先生を學者(文學者・哲學者)と決めてゐて、なるべく書齋に留まられることを望みました。勿論、そのことをあからさまに申上げるほど、お側にゐたわけではありませんが、さういふ思ひはなんとなく傳はるらしく、先生に、「私がマスコミで活躍すること自體にこの人(池田)は反對なのである」と書かれたことがあります。

    平成13年に先生との對談本のあとがきに「この會(つくる會)の内部のことは何も知らないが、どんなに崇高な目的を持つてゐても、運動と名がつく以上、必ず内に樣々な頽落 現象が生じるといふ一般原理は知つてゐる。先生がそれに惱まされることはないのだらうか」「先生がその思想や感情を活き活きと、のびのびと、存分に表はせるやうな自由な立場と時間を得られることを私は切に祈つてゐる。それが日本文化のためだと確信する からだ」と書きました。まるで、一刻も早く、つくる會をおやめくださいとお願ひしてゐるみたいです(のちの騷動など全く豫想してゐませんでしたが)。

    でも、さういふ捉へ方は、ことの本質・核心から逸れてゐました。その翌年の夏だつたか、
    檢定の眞つ最中にいただいた手紙を讀んで、「先生、かなり昂揚してをられる。充實してをられるのだな」と嬉しくなつたことをはつきりと覺えてゐます。一昨年に出た全集第17卷を見て(全部を精讀したわけではありませんが)、あの運動は十分國のためになつたし、 先生御自身も、それを實感してをられると安心しました。

    この感想は、檢定一發不合格になつても、つくる会支援MLが勝手に、西尾先生を初め「か なり有名な方々も退会」(私に問ひ合せてきた友人の言葉)としてしまふやうな亂れぶりを見ても變りません。もちろん、先生のあまりにも多くのエネルギーが、つくる會のために消費されたことを惜しむ思ひも殘りますが。
               (三)
    だらだらと書いてゐるうちに、一見論文風になつてしまひました。まとめるつもりはありません。斷片を竝べるだけにします。

    ※ 最近、3rdman なる人の投稿に「西尾先生。かつての盟友、よしりんの対コロナ論に目を通してみてはいかがでしょうか」とありましたね。皮肉のつもりでせうね。小林よしのりさんがつくる會にゐた頃、私は何度も、シンポで彼の發言に拍手を送りました。あの時期の前後に、壇上にゐた人々を思ひ出すと懷しくなります。先生は、その何人と袂を分 つことになり、誰と誰が、つくる會に後足で砂をかけて出て行つたことでせうか。

    その後、先生はよしのりさんのテレビ番組にお出になりました。そして、そのことに觸れ、訣別以來の思ひ・過ぎにし月日について、お書きになりました。淡々とした名文で、先生の風格がよく表はれてゐると思ひました。

    つくる會や先生を裏切つたあの人、この人について、まとめて、先生に質問したことがあります。どうして、あんな人と對談本を出したり、全集の月評に登用したりなさるのですか、などといふ疑問も含めて。ひよつとすると、彼等の裏切りを忘れてをられるのではないか。

    ところが、とんでもない。「裏切り」の詳細を覺えてをられるのです。「でも、もう許した」とおつしやいました。「それに、彼等には、それぞれ使ひ道もあるし」とも。

    先生の器の大きさを、つくづく思ひ知りました。私としては實は、「なんであんなヤツを近づけられるのだらう」といふ不滿もありました。これを口外すると叱られるかもしれません
    が、あの八木さんについても、「許すかもしれない」とおつしやいました。私としては、もう何も申せません。

    先生には全てが見えてゐるのです。それでゐて、騷ぎ立てたりなさらない。

    つくる會の會員にして、今なほ先生のお側にゐる人々についても、先生はそれぞれの本質を見拔いてをられると感じました。そして、嘗て過激派のチンピラだつた人だの、教 科書運動などアクセッサリーに過ぎず、「自虐史観を糺す」などといふイデオロギーを嬉しさうに振り囘すものの、風向き次第でどうにでも轉びさうな人がゐても、今の行動に問題がなく、「使 ひ道」があれば、何もおつしやらないーー實に大人の態度です。

    假に、私が先生の立場で、先生と同じ頭腦、眼力があれば、即刻つくる會との縁を切ることでせう。創業者としての愛着があつても。あの、奴隸宣言ともいふべき、總理大臣の「戰後70年談話」に抗議聲明すら出さないほど、安倍さんにおもねり、結果は舐められただけで、檢定不合格。しかも、自分に無斷で、MLにより退會報知を流す。そんな腑甲斐ない、無禮千萬な會と關係をつづけることは、私の神經では堪へられないでせう。

    ※ 5年くらゐ前でせうか、先生は坦々塾での講話で「安倍總理大臣は教養がない」とおつしやいました。そこで少し間があいたので、私はフロアから、「あの人の教養は、百田尚樹の小説を讀むくらゐでせう」と半疉を入れました。先生は即座に、「なに、百田尚樹!?」と反應されました。そして續けて「あの ”永遠のゼロ”といふ小説は讀んでゐないが、映畫は見た。なんだ、あれは!」とおつしやり、あの作品を罵倒されました。

    私は ”永遠のゼロ”といふ名前を知つてゐるだけだつたので、驚きました。間違つてゐるかもしれませんが、あの頃、NHKの百田經營委員のことが世の話題になつてゐたの で はないでせうか。これまた、あやふやですが、NHKの籾井勝人會長も同樣だつたので は。

    その少し前、先生の紹介により、私の指南役になつてくれてゐた女性から、安倍さんに ついて講義を受けてゐました。安倍さんは、戰後民主主義の申し子。WGIPの毒が骨の髓まで廻つてゐる。時に、右翼風のアクセッサリーをちらつかせるが、惑はされてはいけない、と。 また、上記百田・籾井兩氏については、 安倍さんの、一見右翼風の思ひつき人事で、きはめて有害とも。

    そんなことが頭にあつたので、先生の講話の途中で口走つたのですが、さいはひ、私が 叱られることはありませんでした。

    叱られるといへば、先生は、保守はみんな安倍さんが好きだよ。あなたがたもさうぢやないの? 「ボク、お腹が痛い」なんて可愛いぢやないの。どう?と、我々をからかふやうな、挑發されるやうなことをおつしやいました。事務局長に指名されて立つた鈴木敏明さんが「さう好きでもないが、代りの人がゐないので・・・」といふやうな答をしたところ、「それは自民黨幹事長の考へるべきことだ。幹事長でもなんでもないあなたが、餘計な心配をしなくてもいい」と、先生から叱りとばされました。氣の毒でした。あとで、鈴木さんに「あなたが叱られてくれたので、こちらは助かつた」と、禮を言つておきました。

    ※ 「川のこちら側」「川の向こう側」といふ分け方は、當否は別( 「『川のこちら側』には西尾先生や百田尚樹氏」と言へる場合もないとは限りませんね)にして、面白いですね。
    私も、正にさういふ感じを抱いたことがあります。

    何度もここに書きましたが、坦々塾でのことです。先に、つくる會は、奴隸宣言ーー「戰後 70年談話」に抗議聲明も出さなかつたと書きましたが、坦々塾でも、談話をテーマに討論をしました。ただの勉強會たる塾に聲明は不要ですが、反應は、つくる會と似たやうなものでした。

    6~7名の指定スピーカーの内、談話を眞つ向から批判したのは、渡邊望さんだけで、 他の人はなんとかかとか言ひつつ、結局談話支持・安倍擁護でした。フロアの發言も同樣。すべて、あの頃の世間の風向きのとほりです。60年安保に、ポケットに石をしのばせて參加したといふ老紳士・舊鬪士は、談話の内容にいろいろと怪しからんところはあるが、表現に 工夫の跡が見られ、その點は評價できると結びました。

    坦々塾もつくる會同樣、西部邁さんの盡力のおかげ(?)で、「保守」が市民權を得たあとにできたのですから、ごく普通の、まともな人々が安心して參加してゐるのでせう。私 がもの心ついた頃の保守のやうに 變人、奇人ばかりではありません。ほとんどの人が 素直で、風向きに從つて歩みます。

    それだけに、逆風を怺へて、ぢつと立つ・考へるといふ習慣がなく、從つて、その言動は融通無礙で す。昨日まで、安倍さんの惡口を言ふ私を怖い顏で、にらみつけた人が、今日は自ら、 安倍さんを罵る。自身は、それで矛盾を感じないのです。考へ拔いた末に心の内奧から出たことばではないのですから、取り替へ自由なのです。羨ましいほど氣樂です。

    談話をめぐる討論を聞いてゐて、ああ、「川のこちら側」は渡邊さんだけだと、つくづく思つた次第です。「考へる」といふことをあれほど重んじられる先生の膝下にも、ほんとうに考へる人は減りましたね。ほとんどの言動は條件反射に過ぎません。

    序でですが、渡邊望さんの近著『パンデミックと漢方 日本の傳統創藥』の廣告は1ヵ月 ばかり前に、産經に載つたさうですが、私は本を持つてゐても、廣告の件は今日まで知 りません でした。著者に、「この廣告は見落しました。上の方の、ケント・ギルバート、加瀬英明兩氏の寫眞を見て、ぞつとし、顏を背けて、そのままになつたのかもしれません」 と言つてやつたところ、 「実は、 私自身も、全く同じ理由で自分の広告を見落としました(笑) 忙しい出版社なんで、掲載してしばらくしてからようやく連絡がありまして、気づいた次第です(笑)」と返事がきました。

    彼氏も、殷賑を極めてゐる保守業といふ賤業を見ると、むかむかするやうです。その上、 かたくなに「川のこちら側」にへばりついて離れない。どうも、かういふ頑固な人はつき合ひにくい。60年前の保守反動の輩を思ひ出しました。呵呵。

    (松山樣)御所論を勝手に、ダシに使つて申し譯ありません。
    30日は缺席します。關野氏も、申し込んだが、不安になつ
    た。近くに駐車場があれば、車にしたいのだが、と迷つてゐ
    るやうでした。
    ところで、「アイルランド紀行」と題する、貴兄の講演の豫告
    を貰つてからずゐぶん時が經ちます。小生、アイルには思ひ入れがあり、待ちかねてゐますが、どうなつたのでせうか。
    ウィルス禍が去り、懇親會もやれるやうになつてからだと、
    ゆつくりと話ができて、ありがたいですね。お元氣で。

  5. 池田様は直前のコメントで、「あの運動の本質は、先生のお考えを大衆に広めることだったのではないでせうか。」と書かれましたが、私も全く同感です。

    「つくる会」は先生だけでなく、当時の日本の歴史教育、世間一般に広く流布している歴史観が、正視に耐えられないくらい酷い状態にあるのを見かねて、立ち上がった他の研究者の方々の努力によって成立したのでしょう。
    それでも先生の『国民の歴史』がなかったら、「つくる会」の活動も、広く一般国民に知られることは難しかったろうと思います。小林よしのり氏の漫画『戦争論』の影響力も大きかったとはいえ、活字だけのしかも分厚い歴史書がベストセラーになったのは、初めての事だったと言われています。そのことは、当の小林氏自身も「これはひとえに、西尾先生の筆力によるものだ」と語っていることからも分かります。
    私は当時どこかで、中高生位の若い西尾ファンが、「西尾先生がやっているのだから、いいものなんだろう」ということで「つくる会」に賛同した、と書いてあるのも見たことがあるので、西尾先生の影響力は推して知るべしです。

    『国民の歴史』や「つくる会」の活動が、当時から現代に至るまで、数々の方面に与えた影響は、目には見えないけど計り知れないほど大きいと私は思っています。もちろん世間のあらゆる方面を牛耳っている勢力は未だ「あちら側」にあるけど、彼等は「こちら側」の影響力なしには、TV番組を作れない程になっているからです。
    例えばNHKの歴史番組も、よくよく見ると「つくる会」の主張や『国民の歴史』のエッセンスを微妙に意識し、取り入れているのが分かる・・・もちろん彼等はそれとは気付かれないようにしていますが。或は、「こちら側」に、あえて大っぴらに反発するような立場で、戦前悪玉説を振りかざし、南京や慰安婦を取り上げ、かつ「中国から伝わった・・・」を連発する。
    今回の石戸氏の著作も含め、「つくる会が下火になった」ことを絶えず確認せずにはいられない所は、彼等がまだ「つくる会」が持つパワーに怯えたパラノイアそのものであることを物語っています。
    もう一つ、教科書の老舗と言われる山川出版社が出した「大人のための教科書 もう一度読むシリーズ」は市販本「新しい歴史教科書」の完全パクリです。このシリーズが出始めたのを見た時、高校で山川出版の日本史を使った者としては、何か自分のことのように恥ずかしくなりました。教科書会社でも商売のためにはパクリでも何でもするんだな~、と。

    さてこの場で図々しい限りですが、奥様のブログのコメント欄で書かせて頂いた『国民の歴史』についての文章を部分的に披露させて下さい。これは今年3月8日、日録でもよくコメントされるあきんどさんへの返信として書いたものです。以下引用

    2000年前後(平成の中頃)というのは、ちょうど『国民の歴史』が出た頃で、「つくる会」の活動も活発だった時です。考古学分野には新しい動きが出て来たにも拘らず、我が国の歴史教科書は、「日本の文物は皆、中国朝鮮半島から伝わったものです」「その先輩格を、数十年前の日本は侵略し、それに対し中国朝鮮の人々は必死の抵抗をして、ついに日本をやっつけたのです」・・・といった、「中韓の子供向け読み聞かせ昔話」になっていたのです。もちろん、我々大人は、「え~っ」と驚きと怒りのあまり腰を抜かしました。

    さて、上記のような狂った教育界に対抗した『国民の歴史』は、従来の歴史書とは全く違っていました。私個人の立場から書くと、一番印象的だったのはトリデシリャス条約。「地球をおまんじゅうのように二つに割る」と先生が表現された時は、「ヨーロッパ人というのはとんでもない奴らだな」と思いました。もう一つは秀吉の朝鮮出兵はスペインをにらんでの事だったというもの。成程あの秀吉が、ただの「殿ご乱心」なはずがないと、胸をなでおろしました。とにかく色んな意味で『国民の歴史』は多くの日本人の心に何らかの衝撃を与えたに違いありません。そして歴史の事象は表面だけを見ていてはダメということで、西尾先生のような見方が出来るようになるべく、向学心ある人々は、心の手綱を引き締めた事でしょう。

    幸い「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」については様々な研究者の血の滲むような努力によって、嘘っ八であることが明らかになっています。でも『国民の歴史』の凄い所は、上記二つの問題とは異なる、別の重大なある事を我々日本人に突き付けたことだ、と私は思っています。

    つまり極端に私流に言わせてもらえば、先生は読者に向かって「歴史の中に入って、(誰とは言わないが)その時代の登場人物になりかわり、考えて見ろ」と言うのです。ここまで来たら、『国民の歴史』はもはや教科書ではなく、あきんどさんが書くように「聖書」になってしまうかも知れません。
    言い換えれば「どうこうせよとは言わない、しかし記述された事を読んで、そこから暗示されるものを感じろ!」という訳です。病気のあきんどさんが、『国民の歴史』を読んで、底知れぬエネルギーを得たのも、そういうことかもしれません。

    こうした『国民の歴史』の真意(と私が勝手に思っている)を、世の秀才たちは素早く察知して「これはヤバイ!」と思ったでしょう。なぜなら日本人の立場に立つ子供に「中韓の子供向け読み聞かせ昔話」をする訳にはいきませんからね。それに大概の知識人にとって、知識とは客観的なものであり、何年も大切に自分の懐で育ててきた財産であって、それを侵されたように感じたに違いありません。私のように、もともと大した財産のない者にとっては関係ありませんが・・・
    だから、ともかく先生の意図とは別に、先生への風当たりは物凄く、「そんなの学問じゃない!」の大合唱だった訳です。ここからは私の想像ですが、『国民の歴史』を読んだ後、知識人と自認する人たちはどうしたか?
    ① 西尾先生の道に習って歩む
    ② 本の中のエッセンスを一部頂いて、これまでの自分の研究に生かすが、他人には気付かれないようにする、
    ③ 真っ向から西尾先生を否定する
    以上三つが、代表的なタイプでしょうか。
    中でも質が悪いのは、『国民の歴史』からヒントを得ながら、自分の研究は、客観的な資料に基づいてなされたもので、しかもこれまでに確立された学問の中に位置づけられるものである、などと言い張る人たちです。
    ・・・
    我々一人一人にとって、人生は決して長くはない。やりたいことを半分もできないのが普通の人間です。教科書やその他の本を読んでも、すぐに忘れてゆくのが我々です。
    こうした我々のような一般人に対し、西尾先生は『国民の歴史』は、どこから読んでもよいと仰ったと思います。もともとこの本は、普通の教科書みたいに古代から現代までの時系列にはなっていません。しかも書かれた内容を覚える必要は全くない。大切なのは、読んだ内容から何かを掴む事、自分で考えるきっかけを見つけること。例えば千年以上前に大陸から文字と仏教が伝わったが、大切なのは伝来したという事実ではなく、先祖たちが如何様にそれらを受け入れたかを知ることなのです。先生は、歴史を学ぶということは、「お前はどう思う?」と絶えず問われることと同じだと、教えてくれたのです。
    ・・・
    穏やかな我々日本人の常として、重い責任から逃れるように、「いやいや我々日本人が(様々な文化文物の)起源であるはずがない」などと言っていたら、「武漢肺炎も日本肺炎にされてしまいます」。
    相手に丸め込まれたら、蜘蛛の巣にかかった虫のように、身動きが出来なくなってしまのです。丸め込まれないためには、出来る限り相手の目的や心理を、最大の想像力を駆使して見抜く必要があります。どんな学問も、人間がやってるのですから・・・
    こうしたことを最もよく教えてくれているのが西尾先生ではないでしょうか。
    以上

  6. 令和2年7月26日
    松山久幸
    コメント
     
     まず当該書籍も読まずにコメントを寄せられる「黒ユリ」氏とは一体どんな御方なのだろうかという思いを強くします。氏は石戸氏が「川の向こう側」から「川のこちら側」に敢えて近づいて来たからには何か意図を持っている筈だから警戒すべきとのコメントを寄せられていますが、私も同感です。著者はつくる会のことを淡々としかも第三者的に書いてはいるが、その実つくる会運動を百田尚樹氏と同じ大衆迎合のポピュリズム現象と同列に捉えており、それは無理があるという意味のことを私は書いた積りです。
     昔たしか「週刊大衆」という通俗的な週刊誌が有ったと記憶しているが、「大衆」という表現はどうも私には馴染まない。ディズニーランドやユニバーサルスタジオでキャーキャー、ピーチク騒いでいるミーハーの臭いがプンプンするからなのでしょう。しかしそうした彼ら彼女らも何と1票の投票権を持っているので侮れず、そら恐ろしい。
     「黒ユリ」氏のご指摘の如く、もしかしたら石戸氏は西尾先生や他の先生方に第三者を装いながら近づき直接インタビューを実行して、結論としてはつくる会運動を、悪意を持って「愛国ポピュリズム」の大衆運動に貶めようとした。恐らくそれであろう。本の副題を「愛国ポピュリズムの現在地」としているのが何よりもその証拠である。「黒ユリ」氏がこの本を買う気にならなかったのは正に正解だと言えます。石戸氏は「黒ユリ」氏も指摘しているように、自らを一般「大衆」とは違うインテリ(左派の)として「愛国ポピュリズムの現在地」よりも一段高い所に位置づけている。典型的な左翼の論法ですね。
     ここでちょっと私的なことを申し上げますと、私は鄙びた田舎の進学高校を卒業して上京し既に50年以上も過ぎております。たまにその高校の在京同期会などをやっている団塊の世代で、その同期会には大体15名くらいは集まる中で、「川のこちら側」の人間は悲しいかな私ただ1人、あとは皆インテリ面した「川の向こう側」の輩ばかりだ。つくる会の練馬分科会はつくる会発足当初から毎月欠かさず勉強会を行っていますが、この会のO氏(同じ団塊世代)も同期会で誰1人味方はおらず全く酷いと言っておりました。斯様に「川の向こう側」の輩が多くては偽憲法を廃棄することすら叶わない。直近では北朝鮮スパイの中前某がつくる会教科書を一発不合格に葬っても、「アサヒ芸能」以外の左派たるマスコミはその事実を全て無視。また先日愛娘に再会も出来ず逝かれた横田滋さんの無念さは如何ばかりか。多くの日本人が拉致されようともその後何も出来ないこの国は一体どうしたことか。偽憲法を死守しようとする「川の向こう側」の連中が多過ぎるからではないのだろうか。
    (池田様)「アイルランド紀行」は別の所で講演の依頼は有ったにも拘わらず、その後依頼者からは一向に音沙汰が有りません。資料だけは残して有りますが、齢ですから記憶が段々薄れて来ているようです。

  7. 黒ユリ樣の文章を讀んで、かなり氣持が少し輕くなりました。

    「『国民の歴史』や「つくる会」の活動が、当時から現代に至るまで、数々の方面に与えた影響は、目には見えないけど計り知れないほど大きい」ことは、私多少知つてゐ ます。でも、それが黒ユリ樣のおかげで、具體的に一歩進みました。「中高生位の若い西尾ファンが、『西尾先生がやっているのだから、いいものなんだろう』ということで『つくる会』に賛同した」などといふ話には、ホントかい?と思ひつつ、嬉しくなります。

    前囘、先生と私との對談本の自分のあとがきから、同書に關する部分を引用しま した が、恐縮ながら、もう少し。

    「少しでもいい教科書をといふ先生のお氣持は痛いほどよく分る。しかしこの問題にこれほどの精力を使はれることが、先生御自身のためにもいいこ とだらうかと考へると、とても簡單にはイエスと言へない。最高の知性のエネルギーをこの件のみに消費させることが日本にとつて得なのかと考へても同樣である。教科書が如何に重要な問題であるにしてもである」

    つまり私は、先生御自身と、日本といふ國の損得といふ二點で、疑問を呈してゐるので す。 けれども、先生の文筆にはかなり親しんだつもりでも、その學問のことは殆ど分らないのですから、當時教科書に投ぜられてゐた力をこちらに廻せばどうなるであらうといふ、明確な豫測は立てられません。ただ、これでいいのだらうかといふ不安を拭ひきれ なかつたのです。つくる會會長として、政治家に會ふなどといふ俗務も全部 マイナスといふわけでもなく、先生がそれを樂しまれたこともあつたかもしれないなどと、計算しつつも。

    ことが濟んだ今になつても、それは變りません。あれがなければかうなつただらう、それは教科書での成果と比べてプラスだつた、いや、マイナスだつたと總括する能力は、私 にはありません。ただ、實際の既往のよかつたことを知れば嬉しくなり、よくなかつたことを知ると、口惜しいだけです。黒ユリ説には、ホッとさせて貰ひました。

    當時、次のやうにも考へてゐました。同じものからの引用です。長くてすみませんーー

    「私が自分の雑誌連載を中断して、ほかにもいっさい断筆宣言をし   てこの仕事に入ったのは平成十年四月の頃だった。それより半年ほ   ど前に専門研究家の文献を集め始め、集めるのに一年以上かかっ    た。ほぼ集め終わったときには、十分に学習もしていないうちに書   き出さないと、約束の出版に間に合わない時間の限界がきた」ーー   平成十一年九月に完成した『国民』の歴史』の、このあとがきを読   んで私は 胸を衝かれた。

     何といふ苛酷な作業であるのか。それが御自身のための勉強になつ   たといふ面もなくはなからう。しかし心身の消耗を初めとする損失   はその何倍にもなるのではないか。

     私はエッカーマンに對するゲーテの次の言葉を思ひ出した。
     「あまり大作は用心した 方がいいね」
     「どんなにすぐれた人たちでも大作で苦勞する。私もそれで苦勞し    たし、 どんなマイナスを經驗したか! よく分つてゐる。そのお    かげで、なんとまあ何もかも が水泡に歸しちまつたことか。私    がまともにできるだけのことをちやんとみなやつてゐたとした     ら、そりや、百卷でも足りないくらゐになつただらうよ」
      「現在には現在の權利がある。その日その日に詩人の内部の思想    や感情につきあ げてくるものは、みな表現されることを求めて    ゐるし、表現されるべきものだ」
      「しかし、もつと大きな作品のことが頭にあると、それと竝んで    他のなにも浮んでこな くなり、すべての思想はしりぞけられ、    生活そのもののゆとりまで、その間はなくなつてしまふ。ただ一    つの大きな全體をまとめあげ、完成するのに、なんとまあたいへ    んな努力と精神力の消耗が必要なのだらう」

    『國民の歴史』の果した役割の大きさは測り知れないが、同書のために西尾先生の如何に多くの「思想や感情」が「しりじけられ、」「水泡に歸しちまつたことか」これもまた測りし知れない。

    以上には、誇張はあつても、嘘は少いつもりです。
    先生が原稿に責められてゐる時の電話のお聲を知つてゐます。なんとも苦しげで、息も 絶え絶えの感じです。それに對して「さつき原稿を終つた。ビールの栓を拔いたところだ」などとおつしやる時の伸びやかさ、晴れやかさ、解放感!こちらまで嬉しく、輕口を叩きたくなります。そして、いいなあ、自分も文筆家になつて、あの氣分に浸つてみたいものだ
    などと思ひます。しかし、すぐに、いやいや、あれは、永い苦しみのあとゆゑの安らぎだと氣づき、マッピラゴメンといふことになります。

    就中、上記の『國民の歴史』のあとがきの印象は強烈、拷問を受けてゐるみたいで、今 でも、あれを思ひ出すとゾッとします。同書は100%先生の意志・慾求から書かれたのではなく、つくる會の活動の一環でもあるので、餘計に、それを感じるのでせう。

    上に、『國民の歴史』についての、自身の屈折した思ひを長々と引用したのは、私にとつて搖がせにできない問題が同書にあると感じたからです。先生が西洋と日本を論じられ た『ヨーロッパの個人主義』は、永い間私にとつてバイブルでしたが、それと『國民の歴史』とは明かに調子が違つてゐます。最初、論調の變化に氣づいたのは、それよりもかなり前、昭和57年にドイツの八都市でなされた、先生の講演の記録を讀んだ時でした。

    論理的な問題は一つもありません。それは違ふのではなどと感じたことは一度もありません。ただ、”バイブル”や先生の他の文明論に比べると、厚みや深みがなく、圖式的で平板。以前の所論と矛盾するわけではないが、しつくりと、滑らかにはつながらない。極端に言へば、木に竹を接いだ感じもしました。その論理の冴えや知識に感服しても、沁々と心の奧にしみ込んでくるものがない。

    ドイツでの講演は、日本については自動車、コンピュータ、半導體くらゐしか知らない外國人が相手なのだから、調子を落とされたのだらうと想像しました。けれども、『國民の歴史』でも、講演ほどではなくても、調子はあまり高くない。これも、つくる會の大衆運動に合せて加減されたのかもしれない。しかし、さういふものがいつまで續くのだらう。

    先生の、あの肌理の細かい思索・論述が今後荒れてゆくことははないか。『ヨーロッパの個人主義』は既に、私の血肉になつてゐて、これを捨て去ることはできない。そのままにしておいて、そこに、『國民の歴史』で得た知識を足せばいいので、實際それを試み、一部成功したやうな氣もするが、不器用な自分の中では、滑らかに融合することは難しいといふ感じは拭ひがたい。先生はさういふことを十分に意識されてゐるのだらかといふ不安もありました。

    その點を對談でぶつけてみました。私の讀み間違ひの可能性もあり、その場合、先生の 逆鱗に觸れることになつて、退場を命ぜられるかもしれない・・・。ところが、とんでもない。先生は一々誠實に、眞面目に答へて下さいました。私がしつこく擧げる、兩書の調子の違ひについて、時に考へ込まれ、言葉を選びつつ、お考へを述べて下さいました。

    のみならず、本が出たあとにも、そのことをテーマに、雜誌にかなり長い論文をお書きになりました。「最近、最も重要な思想上の根幹において、私に『変節』ないしは『変質』が あったという批評的指摘があり、いま自分の人生を振り返り、あらためて再考を余儀なくされている」といふ大袈裟な言葉で始まり(私は變節だの變質だのと失禮なことばを使ひませんでしたが)、『ヨーロッパの個人主義』の著者にして、『國民の歴史』の著者を兼ねる辯が縷々述べられてゐます。

    嬉しかつたですね。滿更自分の讀み違ひではなかつたことと、『ヨーロッパの個人主義』から得たものは、ずつと持ちつづけ、依據していいのだといふことの確定したことが。
    (この對談と、それについての先生の論文は全集14卷・17卷に收められてゐるので、お 讀みいただければ嬉しい)

    懷しくなつたので、申し譯ありませんが、對談本での私の發言をもう一つ引用させていただきます。60年安保のことを述べてゐるが、日本の社會は、あの頃も今もほとんど同じだといふことを言ふためです。ただ、流行するものは當然變り、それに合せて、群は移 動するが、流行に乘つたり、乘せられたりする人々の本性・習性・姿態は全く同じだといふことです。カール・レヴィットの1階・2階論を借りて説明しようとしましたが、それには成功してゐません。

    ここで、二階にかけ上つたために階下が見えないでゐる日本の知識人の例を擧げるならば、私の當時の經驗では、目の前で、ーー60年安保の際ーーワッショイワッショイをやつてゐた連中のことが思ひ出されます。彼等の中には私の友人もゐましたが、平素個人として附き合つてゐる時は誠實であるし、ものの道理も分り、勉強ももよく出來る立派な人間である。然るに、一旦安保といふやうな社會的なことになるとガラッと變つてしまふ。理屈も何も分らなくなつて、ただまはりと同じことをし、同じ
    ことを叫ぶだけだ。安保は戰爭につながるなどと平然と嘘をつく。私は、これは一階と二階の違ひだと感じました。あるいは、八紘一宇から平和教その他なんにでも宗旨替へ自由なのも、二階だからこそできる話で、一階にゐればそんなことはさう簡單に許されませんよね。

    日本はあまりにも近代化を急いだので、その社會(二階)は、個人生活(一階)の自然 な延長になつてゐない。そのために、二階では、混亂、頽廢、癡呆化その他あらゆるマイナス現象が起り、そこから亡國に至ることもあるーーと言ひたかつたのです。

    ’60年(昭和35年)には反安保が大流行しました。そして「やがて雲散霧消する烏合の衆」といふ福田恆存の言葉のとほりに、新安保成立と同時に消え去りました。彼等はその後、流行を追つていろいろなところに行つたでせう。そのかなりの部分が、36年後の ’96年(平成9年)に創設されたつくる會が盛んになると流れ込み、さらには坦々塾にも這入りました。

    前囘記した、石ころを持つて60年安保に參加した老紳士も、70年安保の翌年になほ過激派として、有名レストラン燒打ちに參加した人もゐます。彼等に共通してゐるのは、勢ひのあるものが好きなことです(逃げ足の速いことも特徴で、つくる會を出て、安倍總理のブレーンになり、そこも出たか追ひ出されたかで、「さらば安倍晋三  もはやこれまで」といふ文章を書いた人がゐましたね。3~4年前だつたでせうか)。

    もちろん、36年間に、この世を去つた人も多いことでせう。でも必ず、そのあとは、同種の人が跡を継ぎます。

    ですから、つくる會や坦々塾の人々の動きを判斷する際、安保の時の「烏合の衆」を思ひ出すと、參考になります。彼等は日常恥知らずではありません。昨日の約束を今日破つたりはしません。でも、昨日讚へた安倍さんを今日罵ることは平氣です。奴隸宣言たる70年談話は擁護しなければならないと決めてゐます。日常を離れると途端に、自分の感覺が痲痺し、ひたすら周圍と同じたることを期するだけです。

    日本を亡ぼすのは彼等とその多數の親類でせう。そんな彼等が愛國者を自任して、徒黨を組んで嬉しさうに活動する(中には自分は群れるのが嫌ひと言ふ者もゐて、吹出したこともあります)のを、ずうつと、笑つて見てきましたが、年を取るにつれて、段々鬱陶しくなつてきました。

    前囘の、渡邊望さんとやり取りにあるやうに、保守で商賣してゐる人を見るのがイヤになりました。以前は可笑しがつたものですが。西尾先生のやうに寛容になれないだけでなく、逆に狹量になりつつあります。嗚呼。

  8. 『ルポ百田尚樹現象―愛国ポピュリズムの現在地』を買つて、西尾先生のインタヴィウ部分だけを讀みました。先生から「買つて讀め」と勸告されたからです。普段、先生の勸告・指示にはすべて從ふことを原則としてゐますが、買ふのは少々癪です。松山さんや長谷川さんは先生からもらつたらしいのに、私だけ「買ふ」のは不公平です。

    そこで、圖書館に問ひ合せたところ、「その本はあるが、貸し出し7人待ち」との答。「こちらは借り出さなくてもいいのだ。別に、そこでの閲覽用のものがあるだらう」「それはない」「一ヶ月ばかり前に出たのだ。圖書館で購入後、一定期間は貸し出さないといふ決まりがあるのではないか」「雜誌についてはあるが、それ以外の書籍についてはない」「ではしやうがない」。私にしては珍しく、嫌みも言はず、そこで打ち切りました。

    そして、築地の弘尚堂書店に電話すると、「ある」とのこと。鴎外の「澀江抽齋」に築地・弘尚堂書店が出てきます。そこで鴎外が古文書を買つたのだつたか。

    實は二週間ほど前、弘尚堂書店のおかみさんにそのことを語り、つながりを尋ねると「うちは、先代が終戰後に、ここに店を開いたのだ。鴎外さんとの御縁とは光榮だが、時代が違ふ。殘念ながら、多分關係ないと思ふ」とのこと。

    「直接のつながりはなくとも、名前はそちらから傳はつたのかもしれないではないか」
    「店名は○○寺の住職につけていただいたと聞いてゐる」
    「○○寺と、明治・大正の弘尚堂とは縁があつたのかもしれない。命名者は既に亡くなつてゐても、次の住職が何か知つてゐるかもしれない。あとで御主人に訊いて寺などから、縁が分つたら、知らせてくれないか。自分は勝鬨橋を渡つた向う岸に住んでゐる。番號を知らせておくから、電話を貰へないか。すぐに飛んで來る」
    「承知した。何か分つたら、電話する」

    そんなやりとりをしたが、未だ電話はない。鴎外との關係はなかつたのだらう。でも、序でにその確認もしよう。それなら、本代の出費もさして苦にならない。

    先生は別のことも話されました。坦々塾の小川哲生さんと伊藤悠可さんが、先生の『歴史の眞贋』をめぐつての評論文を、『饑餓陣營』といふ雜誌に書いた。それをも「讀め」とおつしやる。 しかし、それも「買つて」では、流石に氣の毒だと お思ひになつたのでせう。コピーをFAXで全14枚送つて下さいました。

    もう一つ嬉しかつたのは、『西尾幹二全集』の殘り2卷(21・22卷)が年内に出ると知らされたことです。實は私には、最終號が私の嫌ひな安倍内閣の潰れないうちに出て欲しいといふ、個人的事情による、妙な希望があり、待ちかねてゐるのです。今春、出版元の國書刊行會の編輯者に尋ねたところ、「先生の健康次第だが、22卷は來年中に出したい」との答。内閣は多分來年までもつだらうが、コロナ以降、豹變して安倍さんを罵り始めた輩もゐるので、少々おぼつかない。そこへ、「來年中」が「年内」に早まつたのだから、朗報です。

    更に、もう一つ。「國書刊行會」も「澀江抽齋」に出てきます。西尾全集の版元との關係は「國書刊行会會は、1905年(明治38年)に設立された、日本の古典籍の編輯・刊行團體である。會員制で古典籍の翻刻・頒布を行い、1922年(大正11年)に解散するまでに『國書刊行會叢書』全8期・75部・260冊を刊行した。 解散後、實質的な後繼企業として續群書類從完成會が設立された。同社が2006年(平成18年)に倒産した後は、 八木書店が出版事業を繼承してゐる。 なほ、1971年(昭和46年)に設立された株式會社國書刊行會は、この團體から名前を借用しただけの無關係な企業である」といふ程度の調べはついてゐます。「無關係」といふ關係も樂しいではありませんか。

    抽齋は短命だつた(多分虎列刺=コレラのパンデミックにやられたのでせう)ので、その洋學について鴎外の記すところは多くはないが、決して洋學と無縁ではありません。そして、鴎外・西尾先生・・・。先生はドイツ留學中、常に鴎外(と荷風)を意識してをられました。ですから、私は抽齋・鴎外・西尾先生と竝べてみることがままあります。

    そんなよしなしごとを思ひつつ、弘尚堂から該書を買つて來て(鴎外との關係は何も分らず)、冒頭に記したやうに讀みました。この書については多分、お二人の

    「石戸氏がつくる会現象と、ベストセラー作家たる百田尚樹氏の人気現象とが同一のポピュリズム現象であると論ずることには無理がある」(松山さん)

    「石戸氏が『つくる会』について調べ、かつ書いたことは、すべて『愛国ポピュリズム』『大衆』というキーワードの、単なる材料として使われているのではないでしょうか?」(黒ユリ樣)
    「私達『大衆』は、この書物は『つくる会』の意義を客観的に論じた史料的価値のある本である、という評価を定着させたいであろう『あちら側の人々』の、甘い誘惑の罠を見抜かなければならない」(黒ユリ樣)

    といふ評價が正しいのでせう。著者は怪しからん人かもしれません。私も全部讀めば、さういふ感想を持ちさうで、それを記すのが義務であり、お二人への禮儀でもありませう。しかし、申し譯ないことに、先生以外の人々に興味を感ぜず、今のところ讀む氣がしません。

    先生の部分だけの感想は簡單です。よく書けてゐる。我等のやうなsynpathizer乃至はadmirerの書いたものでないことは、すぐに分る。べたべたしてゐない。 客觀的にサラッとしてゐて、別段の反撥を覺えないーーそんなところです。

    すみません。本全體については「甘い誘惑の罠」 にかからないやうに、嚴に注意します。また、人に推獎もしません。お許し下さい。

    そこで、さきほどの『饑餓陣營』を思ひ出しました。これは佐藤幹夫さんといふ人がずゐぶん永くやつてをられる雜誌で、吉本隆明の系譜に連なるのださうです。吉本隆明は世間では普通左翼と言はれてゐるのでせうか。私は殆ど知らないながら、少し興味を感じ、大昔西尾先生に「吉本隆明つて、どんなものですか」と質問しました。先生が、その全集とかを持つてをられると聞いての質問だつたやうな氣がします。「○○だよ」。先生のお答は二文字でしたが、私は、これはとても自分には齒が立たないと思ひ、一切近づきませんでした。從つて今も吉本隆明のことはよく知りません。

    上記の佐藤幹夫さんは、吉本隆明を奉じてゐるのださうです。そして、その親友小川哲生さんも同樣らしい。

    私は小川さんとはかなり親しくさせて貰つてゐるつもりです。最初は西尾先生に紹介されたのでした。三人だけの酒席でしたが、洋泉社編輯部長たる小川さんが先生に對して、無遠慮にズケズケ、ガンガンものを言ふのには呆氣にとられました。こちらは小さくなつて、お二人のやりとりを聞いてゐるだけでしたが、そのうち ムードに慣れ、少しは會話に加はれるやうになり、ずゐぶん長時間を過しました。

    ああ愉しかつたといふ思ひを覺えてゐます。終つて先生は私に、小川さんについて、「どうだ、快男子だらう」とおつしやり、さらに「左翼だけどね」とつけ加へられました。

    少々意外でした。當時私は右翼・保守反動を以て自任し、かなり黨派性が強かつたつもりですが、小川さんの言に、自分とのイデオロギーの違ひがあつても、反撥は感じませんでした。私とは違ふが、彼がさう考へるのは尤もだといふ氣になるのです。私にしては珍しいことです。「自分はnationalistではあるが、 royalistではない」と言つたのは、その時だつたか、あとだつたか覺えてゐませんが、そんなことは自由だ、咎めだてするやうなことではないと思ひました。

    ただ、ずゐぶん極端な表現をする人だと思ひました。昭和天皇を「あの野郎は」と言つたとか、西尾先生が面白さうに、どこかにお書きになつたと思ひます。怪しげな天皇主義者よりマシと評價されたのではないでせうか。後(平成18年・2006年)の、この日録に、先生の次のやうな文章が載つてゐます。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    「諸君」4月号論文はいまの言論界に熱っぽい天皇論がおおいので、あえて声なき声をチラットだし、皆さん、ほんとうに天皇の存在をそんなに大事に思っているのは、 それ本気ですか、って聞いて見たかったのです。
    あの論文には少し意地悪がこめられています。江戸前期の「大日本史」が古事記も日本書紀も認めていなかったのを知っていますか、なんてキザな知識をふりまわして、いまどきの保守派をからかって、ほんのすこし戦後の進歩的知識人めいたことをいって、おどかしてやりたいのです。これからもこの手を使ってみます。今の保守派はほんとうにダメです。戦後の進歩的知識人がダメだったのとよく似た意味でダメなのです。

    つまり、みんな正しいことを言いすぎるのです。正しいことは犬に食われろです。正し いことの範囲が言論誌ごとに定まっていて、みんなその枠のなかで優等生です。編集者が悪いのか、読者の好みに原因があるのか。
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    これを讀んで、小川さんのことを思ひ出し、彼は優等生でないなと思つて、可笑しくなりました。

    小川さんについての私の評價は、初對面の頃と變りません。何より安心なのは、昨日の言と今日の言が違ふといつたことの絶對にないことです。その點、そこいらの「保守」 とは違つて信頼できます。

    「川の向こう側」「川のこちら側」といふ表現は石戸氏の發明でせうか、面白いですね。 普段、イデオロギー的にとんがりがちな私も、さういふ分け方をよくします。そこで、小 川さんはどうか。そんなことは考へたこともありませんが、彼は「こちら側」にゐるやうな氣がします。「左翼」だとしても、同じ側に私もゐたいやうな氣もします。イデオロギーによる「向う側」「こちら側」の區別にはあまり意味がないやうな氣もしてきました。

    そこで、吉本隆明はどうか。私は絶對に反對側にゐなければならないのでせうか。小川さんは、私に、吉本隆明を語つたことは一度もありません。 無意味だと思ふからで、多分それは正しいでせう。一度、私が60年安保のデモに參加した人たちの樣を「ワッショイワッショイ」と評したところ、小川さんは珍しく、少し不快げに、「それは侮蔑的な表現だ」と言つたことがあります。隆明が逮捕されたことがあるからでせうか。

    しかし小川さんは、吉本隆明ーー西尾幹二對談を企畫し、先生も贊成してだいぶ進行したやうです。それは隆明の體調不良と死により、結局實現しなかつたとか。もし實現して自分が讀んだら、少しは理解できただらうか、できたとしたら、自分はどつち側に・・・考へても意味はありませんね。

    テレビで以前、西尾先生の安倍批判を散々妨碍した人が、最近は安倍さんを惡し様に罵るのをよく見かけます。あの人たちを保守といふのでせう。保守業とは賤業だとつくづく思ひます。もし、あの人たちが、「川のこちら側」にゐるのなら、私は急いで「向う側」に移りたい。

    そんなことを考へながら、ダイニングキッチンで晩酌を始めました。燒酎を二口呷つて 立ち上り、背中の右うしろの壁にかかつてゐる額を仰ぎました。ガラスの中には、便箋 三枚の手紙と、表裏を一面にした封筒が竝んで掲げられてゐる。ペン書きだが、骨法の正しい達筆が美しい。「平成二十六年十二月二十二日 福田敦江」とあります。福田恆存未亡人です。私は福田恆存にも未亡人にも面識はありませんが、西尾先生の御配慮により拙著をお送りしたところ、鄭重な禮状をいただいたのです。「西尾樣からお 聞き及びかとも存じますが、私も卆なかばにさしかかりました」とあり、續けて、ユーモ アを交へた的確な、優しい感想がヴィヴィッドにつづられてゐます。字にも文にも寸分 の亂れもない(未亡人は瀬戸内寂聽と女子大で同級だつた由、西尾先生から教へられました)。

    それをゆつくりと讀んでから、席に戻り、三口めの燒酎を飮みました。心身とも、ふはつとしてきて、愛國ポピュリズムだの、立ち位置だののことは忘れてしまひました。

  9. 失礼します。保守とリベラルの妥結点を模索しています。こんな提案は、いかがでしょうか。「共同体感覚」と言います。アドラーという人が考案した内容なので、欧米とも妥結出来ると思っております

    教育基本法前文への採用を提案しています
    http://jalsha.cside8.com/diary/2011/06/07.html

    私たち日本人の先祖が国を始めたのは、はるかに遠い昔のことでした。それから代々、国民一人ひとりが力をあわせ心を一つにして国を築いてきました。そのようにして世々にわたって美しく立派な成果をあげてきたことが、わが国のすぐれたところであります。教育の目的はこれからもそのような暮らしを続けてゆけるようにするところにあります。

     どうか日本の子どものみなさん、家族や友人を尊敬し信頼して、いつも助けあい分かちあって暮らしてください。大人になったら、愛しあう夫婦を作り、子どもを大切に育ててください。人々とはお互いの違いを認めあって、競争するのではなく協力しあって暮らしてください。いつも、自分を大切にするのと同じように、他人のことも大切にしてください。そうして、世のため人のため貢献できる人になってください。もし万一、国の非常事態がおこることがあったら、人々を助け国を救うために自分のできることをして手伝ってください。

     そのために、学問を学ぶのです。知識を増やし、技能を身につけ、道徳を磨いてください。そうして大人になって、しっかり仕事をし、法律や約束を守り、人々の役に立つ人になってください。このように決心して暮らすことで、日本のよい国民になり世界のよい一員になれるというだけはなく、私たちの祖先の遺した美しい伝統を受け継ぐことができるのです。

     このような道は、私の先祖が残された教訓なのですが、代々の日本の国民はそれに賛同しそれを守って暮らしてきました。またこれは、昔も今も変わらず、国の内と外を問わず、人であれば誰でもが守らなければならない道理です。私もこの教えを心に刻んで守っていきますので、国民のみなさんもぜひこの教えを守り、皆が一致協力して、世のため人のため、国のため世界のために、立派な行いをして生きていってくれることを心より願っています。

    (解説)
    上に書いた程度の勅語を国民が抵抗なく受け入れられるようになれば、日本文明の前途は大丈夫だと思う。
    上に書かれているのは、共同体感覚なのだ。それは、古代からの人間の知恵だと思う。そういうものを「皇祖皇宗の道」ととらえる「物語」を復興したいのだ。ある国家が存在するということは、その国家の「物語」が存在するということだ。日本の存在が危ういのは、日本の「物語」が削除されてしまったからだ。
    われわれの「物語」を取り返すのも大切だ。

  10. 山崎正和さんが亡くなつた。

    私の想像だが、西尾先生の最もお嫌ひな數人の中に、多分山崎さんは這入つてゐただらう。

    この欄では今まで、つくる會の崇高な運動を百田尚樹氏のやうなポピュリズムと同列におくとは怪しからんといふ議論がされてきた。百田氏がポピュリズムなら、山崎氏もポピュリズムである(もつとも、山崎氏は、政治家やマスメディアによるポピュリズムを批判するとともに、ポピュリズムとポピュリストについての定義までしてゐるさうだが、それと、その人自身がポピュリストであることは、全然矛盾しない)。

    しかも、まづ權力に取入り、そこを基盤にしたポピュリズムであることも、百田・山崎両氏に共通する。私がもの心ついた頃のポピュリズムは反權力でなければ、少くとも、そのポーズなしでは成り立たなかつたやうに思ふが、いつから變つたのだらうか。まさか、山崎氏が、その新型一號・嚆矢ではなかつたらうが、その邊のことを御存じの人がゐたら、教へてもらひたいものだ。

    權力を基盤にしたポピュリズムであることは、百田氏、山崎氏に共通しても、見掛けはずゐぶん違ふ。前者はあつけらかんとしてゐて、陽性である。後者はずゐぶん手が込んでゐて、陰性である。戰歿者追悼のための國立の施設をつくるべきか否かの論議の中での山崎氏の詭辯の、御念が入つてゐることに、私は呆れかへつた。もつとも最初は自分ではなんのことか分らず、どう詭辯なのかを、西尾先生に説明していただいたが、三百代言も三舍を避けるほどの非凡・厚顏な詭辯だつた。

    西尾先生にお訊きしなければ分らないことだが、同じポピュリズムなら、陽性の方をまだマシとされるのではないだらうか。

    二年前、たしか、どこかのブログに「あの山崎正和さんが文化勳章を受けた」と書いた(最近の文化勳章は山崎氏のやうな人が受けるにふさはしいものになつた、といふコメントはあとでつけるだつた)ところ、すぐに「さう。文化勳章は西尾先生もおもらひになつたのでよね」と應じてくれた人がゐて、驚き、二の句が継げなくなつた。最近は右を見ても保守、左を見ても保守、前を見ても保守、うしろを振り返つても保守で、微妙なニュアンスを含んだ話は傳はらなくなつた。文化勳章だの一般の敍勳の等級などが、人の心に起す小波について語ることも難しくなつた。大昔の保守反動同士なら、かなり微妙な、際どいことも理解し得たやうな氣がするのだが。

  11. https://www.youtube.com/watch?v=-jCxBRxrxUQ

    コロナの影響で在宅勤務(それほどの仕事はないのですが)さらに酷暑もあって、外出は避けています。YOU-TUBE検索で見つけました。今から25年前 戦後50年(題名不明)の朝まで生テレビでの西尾先生(59歳時)の発言です。理論整然として、こちら側も 向こう側も沈黙、辛淑玉など頭を抱えています。(気持ち良い~) つくる会 発足の頃ですが、このころは敵もはっきりしていて元気があったなぁ~と。現在?敵の姿どころか味方も、何も見えない空虚な時代となったものとつくづく感じます。中共も危ういようですが、中国人はもっとシブトイ、飛蝗のように日本を浸食するのでしょうね。長野朗のみた中国観察(焚書図書開封)を再読しながら、ここ数年で何が起こるか考えています。

    酷暑のおりご自愛ください。

    小池

  12. 石松 親分

    たしかに、熱氣がありましたね。
    つくる會に「有象無象も一緒くたになつて雪崩れ込んできました。60年安保、70年安保でワッショイワッショイをやつた連中は勿論、三島由紀夫が割腹して一年經つても、過激派で暴れてゐたトンチキさへ混じつてゐました。トンチキであつても、入會の際に、トンチキでなくなつてゐればいいのだし、過去のことを一々調べるわけにはゆかない」などと失禮なことを書きましたが、あの頃、私も毎囘のシンポを、前の方の席で熱心に聽講しました。就中八木さんは若く、すらりとスマートで、目許涼しく、辯舌爽かで、私はすぐにファンになりました。そして懸命に拍手を送りました。

    あの頃が懷しい。同時に、トンチキは何年経つてもトンチキ、人間は一生さう変るものではないといふことも、分つて来ました。

長谷川@日録管理人 にコメントする コメントをキャンセル

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