「自由」を脅かすものは一体何か 

評論家・西尾幹二
令和2年(2020)11.19産經新聞正論欄より

≪≪≪日本学術会議をめぐり≫≫≫

 日本学術会議のあり方が問われ出して以来、「学問の自由」という言葉が飛び交っている。しかし「自由」は果たして根本から問い質(ただ)されているだろうか。

 一方、米国と中国の対立が深刻化して以来、日本のメディアはそこに必ず覇権争いの一語を添える。覇権争いは喧嘩(けんか)両成敗の意味を含む。日本のような中小国はどこまでも中立だという意識を伴う。自国の経済と安全保障の損得だけ考えていればいい、と。自分自身の問題をそこに見ない。だがそんなことで果たして「自由」の本質に立ち入れるだろうか。

 そこで私はまず自由を脅かすものは一体何かという問いを掲げてみたい。日本では自由を脅かすものは国家だと頭から信じ込んでいる。だが自由を脅かすものは第一に自分自身であり、今の我々の享受している自由の内容である。
 第二に国家の外にある何か強大なイデオロギー、宗教体系、合理的な仮面をつけた世界説明の闇、その他である。しかし先の大戦の敗北以来、大半の日本人は自由の敵は国家であり、自国の歴史であると単純に捉えがちである。こういう国民は実は少数である。

 ごく大雑把(おおざっぱ)な図式になるが、イスラム圏やインドでは宗教の権威が政治より上位にあった。東アジアの歴史では逆に政治が宗教より上位にあった。それに対し西欧では宗教と政治の力が均衡し、絶え間ない衝突と葛藤が生じ、そこに近代的自由の必要が生じた。

 即(すなわ)ち中世からずっとローマ教会は世俗の権力でもあり、領土を有し、武力を備えた、国家にも似た一大パワーであった。近代的な市民社会の自由の概念-「学問の自由」もその中に入る-は封建貴族や王権を倒せば直ちに得られるというものではなかった。その前に宗教権力が立ちはだかっていた。「自由」のための戦いは三つ巴(どもえ)の構造を示していたことになる。

 例えばイタリア王国とローマ教皇ピウス9世の争いは長期にわたり、有名なラテルノの和解で一応の妥協が図られたのは何と20世紀に入ってからの1929年のことであった。

≪≪≪自由の敵は国家ではない≫≫≫

 西欧では自由の敵は決して国家ではなく、まず宗教であった。宗教の武力に脅かされるというこの観点はわが国の近代史ではオウム真理教までみられなかった。「政教分離」はだからわが国では、国家の悪から宗教を守って、宗教に自由を保障するという根の浅い、甘っちょろい概念であった。自由の側に戦いの試練もなく、血塗られた経験もない。

 西欧の精神は時代が変わってもその本来の精神は変わらず、今では米国がその衣鉢を継いでいる。近代世界では宗教は次第に穏健になり、代わりに共産主義という現代の宗教がしつこい挑発を続けている。同時に自由は過剰であるという自己批判の精神も鋭敏になった。米国政府が中国共産党と全面対決の意志を示している最中、本年10月に米司法省が、巨大富を集中させるグーグルを反トラスト法(独占禁止法)違反で提訴した。外では共産主義と戦い、内では公正な競争を阻害する資本主義のマイナス面と戦う-これが西欧の文化伝統から出た「自由」の発露である。いずれも目前の現実と戦いそこから目を逸(そ)らさない。

 一方日本学術会議の言う「学問の自由」とは敗戦の日の思い出漂うムードを頼りにした消極概念で日本の現実に立脚していない。そもそも誰がどのようにしてメンバーに選ばれているか、はっきり分からない秘密集団だ。草創期には人名を出し組織解剖した桶谷繁雄東工大名誉教授による「日本学術会議は日本共産党の下部組織だ」という明確な証言もある(「月曜評論」昭和52年10月24日)。

≪≪≪自由の本義に立ち還り議論を≫≫≫

 最近ではノーベル賞学者も並べカムフラージュしているが、司令塔はあるに違いない。国会論争で共産党があれほどむきになるのは最後の利権だからだ。論戦は大いに結構だが、やるなら「自由とは何か」の本義に立ち還(かえ)ってやってもらいたい。いつまでも自由を脅かす敵は国家だ、という認識のレベルなら打ち切るにしくはない。

 それに比べてみるなら菅義偉首相の多様性を尊重し、既得権益を排し、出身大学に偏りのない、民間にも目を配った、前例主義に捉われない、公正な競争を前提とした組織であってほしいというのは日本の今の現実に合っていて的確な「自由」の概念の表明である。

 一方米国の大統領選の始末に目をやれば「自由」が見境もなく乱舞した混乱と見えるが、人種や州権による「分断」はあの国の歴史の必然から出ていて現実である。トランプ氏は実にシェークスピアの『コリオレイナス』を思わせる千両役者である。われわれはしばらく推移を見守るがいい。今やロングランの大劇場だ。米国人らしい「自由」の自己表現であって、集票の不正で地に落ちた米国民主主義の信頼の回復は、見えない巨大悪に立ち向かうこの人の無私の情熱、恐れを知らぬ行動の如何(いかん)にかかっているといえよう。(にしお かんじ)

「「自由」を脅かすものは一体何か 」への2件のフィードバック

  1. 「自由」、リベラルの果てにあるもの。
    あなたは悠仁殿下が黒人の外国籍の女性と婚約、あるいは結婚するとなったとき、それを容認しますか?それとも反対しますか?

    「『ミス・ユニバース』日本代表に千葉県代表の杤木愛シャ暖望さん「やっと夢がかなった」 父がガーナ人で、母が日本人で10歳のころに日本に来たという。」オリコンニュース

    多民族共生社会を目指している茂木外相が喜びそうな結果である。
    真子内親王殿下が小室K氏と結婚しようとして、世間が騒いでいるが、もし悠仁内親王殿下が黒人女性と結婚しようとしたとき、所謂保守派はどうするのか?英王室で起きていることは他人事では済まされない。
    わが国でも移民はどんどん増え続け、国際結婚も増え続け、帰化も増え続け、あいのこも増え続けているが、これらの問題と皇室も無関係ではいられないだろう。
    いま小室K氏のことで世間が騒いでいるが、さらに皇室で上記のような問題が起きたとき、どうするのかという準備や対策があまりに希薄。 多文化共生、多民族共生、ジェンダーフリー、夫婦別姓、戸籍廃止、LGBT等を進める反日極左やポリコレ連中の最終ターゲットは皇室であり、これらを進めて最終的に皇室を解体、皇統の断然、あるいは皇室の背乗りにつなげようとしている。
    反日極左が、皇族方の意識を変え、皇室を変質させ、皇族自らが伝統や血を放棄してリベラルになっていくように鼓吹し、そういう社会の風潮や「国民の総意」や世論を作ろうとしているのは明白。
    そして万が一にも悠仁殿下の妃となられるお方が、そういう人物となったとき、われわれはどうするのか。近未来の在り得る現実をしっかり受け止め、想定し、その対策を講じなければいけない。所謂保守派はこの問題をほとんど指摘しない。目を逸らし続ける。
    國體のみならず日本民族が瀬戸際にある。「アイヌ新法」によって先住民族なるものも捏造され始めている。
    日本は有史以来経験したことのない危機にある。

  2. 雑誌「WiLL」2月号 西尾幹二・岩田温対談「今も昔も問われるアメリカの法と正義」を読む。

    大事なことが語られている対談である。標題は大統領選挙のもたらしたアメリカの混乱を指すものだが、対談の冒頭部分に過ぎない。それを飛ばし、本論の部分の西尾氏の発言を順に引用しながら解釈を試み、読み込む作業をしてみたい。以下、括弧内は引用者注。

    「その(第二次大戦の)転機はいつか。私は、一九四三年だったと思います。それまでは軍も国民も、これは限定戦争だという意識で戦っていました」。「一九四三年を境に、アメリカが無慈悲になったのです。無尽蔵の砲弾を前方に大量にばらまく巨大な物量作戦に出て、火炎放射器や絨毯(じゅうたん)爆撃をお手のものとした。(中略)戦争の規模の変化、その象徴がB29でした」。「戦争のたびに変わる国。独立戦争、一八一二年の米英戦争、米墨戦争、南北戦争、第一次大戦と、過去の戦争においてその都度みられたことです。戦争真っただ中で変わる国、戦争が終わったとき巨大国家になっている国、そして次の時代に役立てる国。第一次大戦後もそうで、すでにヨーロッパが追いつけなくなっていました」。「日本も、軍事国家アメリカの急激な変化についていけなかった。そのことは第二次大戦後、宇宙空間にまでつながった空軍の出現についていけないことにも通じます」。
    この辺の指摘は西尾氏独特の創見ではないだろうか。卓見であろう。しかし洞察はここでは終わらない。明治維新から七〇年後、すなわち戦後から七〇有余年という現在と変わることない期間で、オランダだけを相手にしていた日本が、アメリカという劇的に変化する理解を超えた他者とぶつかる。「何しろ時間が足りなかったのだから、日本人が自らを卑下してはいけない。どこに日本を責める理由があるか」。
    まして、愚かな判断などと言ってはならない。ここで、言い古された小林秀雄の言葉を引用するのは牽強付会で西尾氏に失礼かも知れないが、やはり谺(こだま)してくるのである。
    「大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心から起ったか、それさえなければ起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」。「必然性というものは図式ではない。僕の身の上に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受入れる。どうにもならんものとして受入れる。受入れたその中で、どう処すべきか工夫する。その工夫が自由です」(座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」昭和二一年一月)。
    「アメリカは相手国を悪魔(サタン)とみなす。いまだに中世のキリスト教が顔を出してくるのです」
    「第一次大戦が始まる前から歴史の進行は決まっていて、あとは運命の神にみいられたように動いていくわけですが、日本が中国大陸を引きずり回された後(シナ事変のことと思われる)は問答無用でした。幣原外交がいけないとか、統帥権干犯がどうだと言ってみたところでどうにもならない。こうしておけば良かったという議論は、すべて無駄話です」。
    なるほど、「第一次大戦が始まる前から歴史の進行は決まってい」たというわけか。偶然のアクシデントから始まりすぐに収束すると皆が思っていた紛争が予想もしない長い大戦争へと至ったのは、「歴史の必然」が働いていたからなのだ。そして、太平洋を挟んで新たに登場した二つの国の激突は運命づけられており、アメリカの意志と悪意の発動は容赦のないものであった。その脊髄にはマニフェスト・デスティニイという厄介な独善が通っているのだ。確かに幣原外交、統帥権干犯などと言ってどうなるものでもあるまい。
    「そして第二次世界大戦が終わって以来、地球支配の構造は日米戦争のなかから作られてきました。ドイツではなく、太平洋でアメリカが日本に対してやったことです。人工衛星の打ち上げから宇宙開発に進む全ての方向、無人ロボット機の攻撃まで、すべてB29から始まっている。アフガニスタンの上空に無人機を飛ばして爆撃している間、攻撃者はアメリカ本土で計器をいじって遠隔操作しているだけ。この遠隔操作というのが、アメリカの本質の一つであることを思い出してほしい」。「アメリカの場合、領土欲から解放された脱領土的他者支配、つまり遠隔コントロール支配なのだということは前に(以前の号の両者の対談でということだろう)指摘した通りです」。「遠隔操作は戦争のゲーム化ともいえる。資本主義の金融工学における数理計算の恐ろしさ、最近では5Gもそれに近いのでしょうが、抽象的な人間の在り方、人間の阻害(疎外か)、虚無の露呈と呼べるような状況がアメリカの対日戦争によって引き起こされたのです」。
    恐るべき洞察力と言ってよい。金融工学や通信(5G)の本質を見透していることもさることながら、今日までのアメリカの原理がB29に発し、展開されているとする説得力に富む明察が凄いのである。
    知見は軍事史に及び、「戦争初期には、動いている戦艦を航空機によって撃沈することはできないという」定説を覆したのがマレー沖海戦であり、「イギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが日本に撃沈された」後、「アメリカは、(中略)戦争のやり方を変え、戦艦よりも航空機を重視するようになった」ことが確認される。
    相手の岩田氏が「占領期を通じて、アメリカが『日本人は倫理的に劣っていた』という世界観を植え付け」、そのために敗れたという「善悪二元論」が流布されたと指摘したのに対し、西尾氏は「左翼の思想が忍び込んできたとか、マルクス主義がどうのという以前の、生命力を持っているか持っていないかの問題です」と断じる。アメリカによる工作があったにせよ、その意を迎え自己否定などという自己欺瞞を弄する戦後日本から現在に至る自我の弱さの峻拒であり否定である。
    「ここで大事なことを言っておかなければなりません。日本はただ強大なものに追い込まれて善悪の見境もなく戦ったのではなく、米英の掲げる正義の観点を根本的に否定し、倫理的・道徳的に自らの戦う根拠を確立していたと言うことです」。「大事なこと」は後で語られる戦時中の京都学派の座談会のことのはずである。
    そして、開戦の日昭和一六年一二月八日に何を思ったか、文学者を中心に一二名の文章が引用される。そのほとんどで「白人文明から圧迫されていたものが解かれ、迷いの気持が晴れて、落ち着くところに落ち着いたという安堵」が語られている。
    同時に、「とはいえ、日本は半分しか目が開いていなかった。英米がソ連と手を組んだヨーロッパ戦線と支那事変は、一体となってつながっています。日本も大陸で主役たり得なかったし、どこに本当の戦争の主役があるのかわからなかった。その謎にぶつかっていなかったし、ぶつかっても解明できないまま行動したから、準備が間に合わず泥沼に入ってしまったのかもしれません」。
    同じ「WiLL2月号」に石平・北村稔・宮田昌明三氏による「『日中戦争』―中国共産党が漁夫の利」と題する鼎談が掲載されている。西尾氏の「英米がソ連と手を組んだヨーロッパ戦線と支那事変は一体となってつながっている」とは、たとえば北村氏の次の発言をイメージすればよいのだろうか。「日中戦争当時、中国軍の中核は、ドイツ製の武器で武装しドイツ式の防衛陣地に立てこもる部隊であり、作戦はドイツ人軍事顧問が指導しています。一方、ドイツ側は武器製造に不可欠なタングステンなどの希少金属を中国軍が提供することを望んでいました。『日本の侵略戦争』と戦った中国の国民政府がナチス・ドイツの軍需産業の発展に大きな貢献をし、これがドイツのヨーロッパ侵略の原動力となっていたとしたら、歴史の皮肉ではありませんか」。
    あるいは福井義高氏が「日本人が知らない最先端の世界史」で描いた次の一節。「極東においては、スターリンの完勝といってよい。日本を中国での泥沼の消耗戦に引きずり込み、ノモンハンで(日本)陸軍に対ソ恐怖症を植え付けたうえで、その後も、日本人エージェントを使った謀略を続け、日本の対外政策を反ソから反英米に向けさせることに成功する。それに呼応して、米国内でも、対日戦実現に向けたスターリンの工作が展開され、好都合なことに、ルーズベルト大統領という『パートナー』の存在もあって、スターリンの思惑どおり、日米は激突することになった」。それにしても、スターリンが日本を指して言った次の言葉に平静でいるのは難しい。「歴史というのはふざけるのが好きだ。ときには歴史の進行を追い立てる鞭(むち)として、間抜けを選ぶ」。
    また、「どこに本当の戦争の主役があるのかわからなかった」とは、蒋介石か毛沢東、あるいはスターリンかルーズベルトか、日本は見抜くことができなかったという意味だろうか。
    「日本は欧米から長い時間をかけ、忍耐強く学んで、公明正大に競争してきました。中国や韓国は他国の技術を盗んで自己開発を怠ってきたため、自国内の発展が遅れたままで、いびつになり急速に失速し始めている。日本はこの点では自信を回復してよいのです」という西尾氏の最近の中韓情勢の認識はさすがだが、ごく最近12月22日に報じられたAppleの2024年自動運転車生産開始というニュースを見ると、トヨタやベンツ、BMWの覇権への挑戦の号砲が鳴り、カウントダウンが始まったと思わざるを得ない。TESLAはもとより、Googleもつとに自動運転に取り組んでいると伝えられており、アメリカの巨大ハイテク企業の関心が車に向かっていると見える。日本の財界トップが、なぜ日本にはFAANGのようなハイテク産業が育たないのかなどと慨嘆している場合ではあるまい。既存産業での日本の強みであった「すり合わせ技術」は、今後の自動車開発では競争力の源泉とはならないはずである。わが国最大の裾野を擁する基幹産業にアメリカの照準が当てられ、単なる言葉ではない国家規模(ネーションワイド)でのイノベーションが実現できるかに日本の浮沈が懸かっているとみなければなるまい。
    対談の終盤は「GHQ焚書図書開封」第六巻第十一章「世界史的立場と日本」をなぞる発言が展開される。京都学派の高坂正顕、西谷啓治、高山(こうやま)岩男、鈴木成高による戦時中の座談会を論じ、その書物名を標題とするが、アメリカから、また日本のマスコミから「軍国主義の哲学」として葬られた本を西尾氏が埃を払って甦らせた意義は極めて大きいはずである。「(彼ら学者たちは、大東亜戦争は)国家と国家の戦いではなく、秩序と秩序の戦い、文明と文明との戦いであるというのです」。その上で四人の哲学者が提唱した「誤った英米を指導するという概念はその通りだと思うし、それを洞察していたのはさすがだと思います」。
    ところが「戦争に負けた結果、(中略)日本人がアングロ・サクソン的秩序に巻き込まれ、逆に『指導』されるという事態になってしまった。だから、これを打破しなければならないということが、私が一番言いたいことです。日本人は心の底で『指導』されることに納得していないからです」。
    最後の一文は西尾幹二氏らしい一撃のもとに読者に感得させる指摘である。
    「アメリカは日本に自分たちの『秩序』を押しつけ、『指導』してきたという事実―それはいま読んだ哲学者たちの思想にリアリティがあったことを証明しています。彼らの思想は現実的で、決して空想ではなかった。そういうことを再認識、再評価していいのではないかと思います」。それは「軍国主義の哲学」どころか、高度に知的な思索と行動の言葉であることを読者は思い知るのである。
    岩田氏が「戦前・戦中の皇国史観と戦後の自虐史観は、『日本特殊論』という点で共通しています。半藤(一利)氏は相手側の資料を読んだことがあるのでしょうか」と言うと、西尾氏は「考えたこともないでしょう。彼ら(半藤氏、保阪正康氏、加藤陽子氏)は戦争、世間、そして人間を知らないのです」、「まったく頭が悪いとしか思えないけど、まだそれがわかっていない」と一刀両断にしている。岩田氏が引用する半藤氏の愚劣な文章と、戦前の京都の四人の哲学者の高度な考察に富む発言とは比較を絶している。
    2017年に西尾氏は、中西輝政氏と「日本の『世界史的立場』を取り戻す」という対談本を出されている。西尾氏にとって何度強調しても足りぬモチーフと言うべきなのだろう。当方もAmazonに書評もどきを投稿し、今年6月24日付けで本「日録」に転載させていただいたが、最後に両氏が織り成す重要なポイントに再度言及することをお許しいただきたい。
    アメリカの占領は、悪性憲法を強い、民族の根幹の皇室と神道の弱体化の仕掛けを施し、真珠湾、慰安婦、南京大虐殺等々の歴史の捏造で日本人の誇りを傷つけ、北方領土・竹島・尖閣諸島と近隣との紛争の種を蒔き、今に至るまで肥料を絶やすことはない。さらに、江戸期から明治にかけての「儒学から国学への展開、そして水戸学へと」いう日本の近代思想の自己発見のドラマは焚書という手段で徹底的に隠蔽された。「なぜアメリカが、あれほど水戸学的なるものを否定したか。それは、江戸期の日本が『古代』を取り戻しているということは、そこに日本のひとつのアイデンティティの軸ができている。この軸に沿って明治以来の日本の、アメリカに匹敵しためざましい興隆があり、そして将来、アメリカに対抗する日本が再生するかもしれない。何があっても、これはこの機会に完全につぶさなければ、日本人を金輪際、無害な『アメリッポン(アメリカ+日本)人」に変えることはできない。こういう戦略がアメリカの側に明確にあったからでしょう』。「ですから、この文明的な『アメリカの傘』の下にあるかぎり、中華に対抗しうる日本の『近代』を取り戻すことはできない」。
    「日本も、この多極化する世界で『一極として立つ』、つまり日本としての『世界史的立場』を取り戻すためには、明確に脱アメリカ・脱中国の方向性を意識することが大切」であり、「精神的に両方を超克することが必須不可欠なのだ。これが現在における『近代』の超克、われわれに課せられた使命」である。「日本がアメリカ、中国、あるいはロシア(中略)、とにかくそういった国々と渡りあうときに必要な普遍性を主張しうる精神の拠りどころ、これを発見し直し、明確に自己主張すること、それがいまも日本としての『世界史的立場』を取り戻す営みなの」だ。「大東亜戦争がなぜ起こったか・・・、満州事変、シナ事変、いろいろ個別の紛争があったけれども、一貫していたのは明治以来、日本人の側に『文明の自己主張としての“世界史のゲーム”をやろう』という意識があったから」に他ならないというのは本書の鍵となる重要な指摘である。
    「日本は再度、文明的な立脚点を築きあげないと、アメリカとも中国とも対峙して自己主張できない。・・・それがいま、決定的に明白になってくる時代に入りました。そのとき、われわれがもう一度、踏ん張って、世界史的な精神と文明の自立をめざす国民的勇気を奮い起こせるか。ここが、これからの日本の生存をめぐる最大の問題点ではないかと思います」。
    「日本の歴史を取り戻すことです。日本の歴史というものを、自己本位主義をもって再興することです」。
    かくて、西尾氏の前書きのキーワード「世界史の中の『日本』、日本史のなかの『世界』」をこそわれわれが自ら掘り起こす必要性に立ち至る。そのために、本書には両氏が獲得してきた歴史認識の精髄が語られ、われわれの自覚と行動を促す示唆に満ちているのである。

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