令和3年(2021年)元旦

賀正

 米国大統領選挙で私は明白な「不正」の数々を知った。

 何十万票が一夜にしてトランプからバイデンにすり替えられてしまう投票マシーンの存在。民主党の予備戦でそれがサンダーズを追い落としにも使われていたこと、今後上院の決戦投票でこの後に及んでなお使おうとしていること、そのサーバーの奪い合いで銃撃戦が起こり、六人の兵士が犠牲となっていること。

 ジョージア州の開票所で議員を帰した後の深夜居残りの四人が机の下に隠していた大量の投票用紙をバイデン有利にスキャンしたこと、これが監視カメラに全部映っていて公開されたこと。居住人口より多い投票数、何千人という死者の投票、投票日過ぎてから有効となった郵便投票。

 それでいてCIAもFBIも動かない。州知事や司法長官が言を左右にする。

 米国は今や法治国家ではない。買収や脅迫が横行するベネズエラ並の選挙風景である。大手メディアは一切報道しない。権力構造の全体に異変が生じたのだ。ビル・ゲイツやジョージ・ソロスの名がその一角にあり、他方社会全体の左傾化は著しく、やがて「人民党」が台頭し、二大政党制はなくなるに違いない。(十二月十一日記)

「令和3年(2021年)元旦」への24件のフィードバック

  1. ☆彡!!

    幹二先生!!あけおめ!!

    ナイス暴露情報 トンクス !! !

    君は自由か?_をキンドルでDLしました、読みます。

    *

    R3.2021.1/6,15:22.

    子路

    .

  2.  久しぶりであります。

     明けましておめでとう御座います。

     どうやら今年こそはマトモな論文執筆に取り掛かれそうです。

     ここまで来るのに、実に20年の周り道をしましたが、その間に、得るものは沢山ありました。

     急がば回れと言いますからね。

     さて、アメリカ大統領選挙の不正問題についてですが、私は早い段階から情報を得ていました。

     ソースは「孫向文」という支那の漫画家のツイッタラーです(日本在住)。

     恐ろしく情報が正確で、「支那ウィルス」いわゆるコロナウィルスですが、これに関しても早い段階から正確な情報を発信していました。

     この情報は自民党の有力議員にも伝わり、官邸を動かすことで、国民をコロナの危機から救ったことがあります。

     そのツイッタラーから得た情報によれば、バイデンの水増し票(偽票)を大量に持ち込んだのは支那政府であり、また、オバマが設立した協会だそうです。

     支那政府が持ち込むことは考えられますが、まさかオバマがと思う人が、私の周りにも多くいましたけれど、ああいう善人面した奴ほど裏では悪いことしているものなのです。

     トランプ大統領は、まだ反抗しておりますので、最新の情報を知りたければ先程のアカウントを見て下さい。

  3. ;

    なら、日本の投票用紙を入れ替えているのは、二階の線ッスか?

    日本の報道は、世界情勢をキチンと伝え無いのに、

    池上彰がマウント取ってくるのは、可笑しくないッスかね?

    *

    R3.1/11,20:37,子路.

  4.  孫氏は日本の選挙の分析はしていませんので、詳しいところは分かりませんが‥

     私の感触からすると、二階は支那の指令で動いているわけではなく、親支那ナルシシズムが動機ではないかという気がします。

     つまり、支那に良いことをして自己陶酔している、うっとりしているという、ちょっと気持ち悪い感情ですね。

     それは贖罪意識もあるのでしょう。

     支那からすれば、勝手に負い目を持って、支那に都合良く動いてくれるのだから、まさに鴨が葱を背負ってくる以上の存在でしょうね。

     別に、そんな二階を、わざわざ駒として使う必要もないと思われますが。

  5.  それと池上彰ですね。

     彼はテレビを使ったプレゼンテーションが上手いらしいですよ。

     個人的な思想信条が伝わっているかは、また別の話ですね。

  6.  西尾幹二先生、新年のお祝いを申し上げます。

     さて、先生は本気で、大統領選挙の結果がひっくり返るほどの不正があったとお考えですか? 「大手マスコミが真実を伝えない」というのは、そのとおりに思います。しかし、それは「その逆に真実がある。ネットの情報が正しい」ことの理由にはならないはずです。

     仮に大統領不正があったのなら、なぜに裁判所はそれをもって、不正選挙を認定しなかったのでしょうか。トランプ陣営の起こした訴訟は50以上に及び、その殆ど全てで敗訴しています。買収されている、脅されているとの指摘もありますが、数十の裁判に関わるすべての裁判官がそうなのでしょうか?

     以下の動画は事実に基づいた大統領選挙の分析として極めて興味深いので、よろしければご覧下さい。
    https://youtube.com/playlist?list=PLfk4yuJcvgP41t0YnePtb9qfuX8RmeGVw

  7. 昨年の暮、畏友渡邊望さんが「鬱」だと聞いたので、その後どうしたかメールで尋ねてみたら、即座に返事が來た。以下、そのやりとり。

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    渡邊→池田

    いま最終ゲラ段階にまできている私の作品は、実は西部邁さんの長編評伝で
    す。
    待ちきれないようでしたら、池田さまにお見せしても構いません。
    ただこの本を記すにあたり、あまりに西部さんの裏面を知りすぎ、身心ズタズタ、あやうく入院の羽目にさえなりそうなほど苦しみ(苦しんで)ました。
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    池田→渡邊

    「西部邁さんの長編評伝」ですか。

    以前、日録で、西部さんの60年安保の時のことを、貴兄にしつこく質問し、丁寧にお答へいただいたにもかかはらず、結局、まつたく理解できなかつたことを思ひ出しました。西部さんの ”ニヒリズム” だの「泣き」だの、なんのことか・・・。

    けれども、西部さんをどのくらゐ重んじてゐるかといへば、小生と渡邊さん
    と、ほぼ同じではないかーーそんな風に感じられ、些か安心したこともたし
    かです。

    私自身は、永六輔といふタレントが60年安保でワッショイの側についただけ
    で生涯輕蔑し、 村上元三といふ時代小説作家が「安保(改定)に反對しなければ人間でないといふことはなからう。だから僕は反對しない」と言つただけで、終生敬意を抱くーーといふほど頑なにして偏狹で、その點は、これまで西尾先生とお話しても、先生の宏量・柔軟さについてゆけませんでした。

    しかし、死ぬまでそれでいいと思つてゐるわけではなく、少しはああいふ人
    たちの思ひを受け止めて、 親しみ乃至は同情を感じてみたいとも思つてき
    ました(一緒にデモをやるのは絶對にイヤですが)。

    その點、西部さんは我が佛でもなく、不倶戴天の敵でもなく、生前から、(ほ
    とんどがテレビでですが)微笑を以て、彼の言動に接する餘裕がありました。

    そして今囘、論者が渡邊さんとは!「少し」は「感じる」チャンスがあるかもしれません。冥途の土産にできればと、期待が膨みます。假に駄目でも、自身
    の、その方への鈍感さゆゑと諦められさうです。

    「西部さんの裏面を知りすぎ、身心ズタズタ、あやうく入院の羽目にさえなり
    そうなほど苦しみ」ですか。お大事に。でも、それは、渡邊さんが西部さんに
    愛情をお持ちだからこそですね。

    「愛情が持てない對象には、即座に關心がなくなる」といふ小林秀雄のやう
    になりたいと願ひつつ、輕蔑するものの方へ目を向け、相手にしがちの自分
    には、渡邊さんが尊敬してゐない西部さんを、どのやうな愛情を以て暖かく
    描かれるか、期して待たれます。
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  8. 舊友關野通夫さんからメールが來た。彼は我々(都立西高10期)の文集編輯委員である。私はその勞を謝し、すぐに返事を書いた。以下はその後のやりとりの一部。
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    關野→池田

    色々雑多な話題になってしまいますが、まずは貴兄の投稿についてです。Sさんが、貴 兄の投稿をワードに変換して編集委員にメールで送ってくれました。

    一方、私の著作も構成を変更して、前半に『このままだど衰退して滅亡する日本』(仮題)とし、現代の日本の危機を書きました、現在校正中で、もうすぐできると思いますが、その中の日本の軍の問題を取り上げた章に、貴兄の引用されたマッカーサーの言葉から、カ ール・レ―ヴィットの話の辺を引用させていただきました。

    また、最近の森バッシングの状況を見て、現代の日本人の問題として、子供なら『苛め』、大人なら、『尻馬に乗るバッシング、或いは医療関係者へのいじめな』どを書いてみようと思います。
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    池田→關野

    いやはや、嬉しいお便り。

    ①貴著に、(前半のみにしろ、假題であるにしろ)「このままだど衰退して滅亡する日本」と題して、〈現代の日本の危機〉をお書きになつたとは!これこそ我が life concern にして聲高に叫びたいことなのに、そのための十分な場も能力もないままに今日に及んだのは殘念だといふ思ひがずつとありました。勿論、貴兄の主張は貴兄獨自のもので、私の代辯をして下さるわけでは決してありませんが、着眼・捉へ方に共鳴をおぼえ、喜ばずにはゐられません。

    ②その中に、「マッカーサーの言葉から、カール・レ―ヴィットの話の辺を引用」とは、望外の嬉しさです。 どちらも、 日本の近代史の本質 (榮光と悲惨) を衝くものと感じるからです。

    私がこの考へを吐露し、世に弘めようと試みたのは、西尾先生との共著『自由と宿命・西尾幹二との對話』(平成13年・洋泉社)に於てでした。

    しかし、日清・日露の頃の日本は立派だつたが、大東亞戰爭の頃の日本は駄目になつたといふやうな司馬遼太郎流に似た考へ方を 西尾先生が大層お嫌ひになつてゐることを、私は夙に承知してゐました。

    私にしても、あの稀にみる勇敢にして精強な帝國陸海軍や、その大東亞戰爭に於ける奮戰をとやかく言ふつもりは斷じてないし、戰後民主主義に調子を合せた司馬史觀とは絶對に違ふ。已むを得ず猛スピードで進めた近代化のために、不可避的に生じた、社會全體の歪みにより、後繼の人々の感覺・智慧・能力が、かなりの部分で痲痺したり有效に働かなくなつたための頽落現象ーーと見るべきだと述べるつもりでした。

    しかし相當に長くなりさうで、それを滔滔と展開しつづける自信が途中でなくなり、しかも司馬嫌ひの先生の逆鱗に、いつ觸れるかもしれないと怖くなつて、マックとレーヴィットの名は出したものの、その先は中途半端で止めてしまひました。今、讀み返しても、煮えきらないな、自分が何を言ひたいのか、人にはとても傳はらないと感じます。

    その後、この問題について、先生とお話したことはありますが、「それは司馬史觀だ!」と叱られたことはないと思ひますが、こちらが言ひたいことを言ひ切つたといふ記憶もありません。その邊りを、貴兄がもつと詰めて論じて下されば嬉しいですね。

    「森バッシング」ですか。發言した方にも、 「バッシング」する方にも、私は全く興味がもてません。

    大東亞戰爭に敗北するまでも、 戰後も、如何に堕ちても、これほど下等な現象はありませんでした。

    森さんの後釜とされた川淵三郎さんがポシャッたのは、”反韓・反中の立場をとる、右派のオピニオン誌”の筆頭格『HANADA』を愛讀してゐるからとの由。同誌の編輯長花田紀凱氏は、川淵さんを擁護してゐるとか。

    反韓・反中だけで川淵さんを下ろすのは怪しからん?さうも言へるのでせうか。
    しかし、騷動とどうかかはりがあるのかはともかく、かく右派・保守のポーズをとりつつ、安倍さんの「戰後70年談話」「憲法9條3項論」などといふ、奴隸の詫び證文・屬國宣言を拳々服膺して、商賣で殷賑を極める輩こそ、眞の國賊ではないでせうか。

    西尾先生も、その邊の呼吸は十分御承知の上で、國賊どもを泳がせてをられるのだと、私は確信してゐます。國賊も國益のために使へることもあります(風向き次第でどちらをも向きます)から。
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    關野→ 池田

    話題が幾つかあって錯綜しますが、私の本も、初めの構想では、あまり面白くなかったのに、現代の日本の危機を書き、今また森バッシングが起き,書く題材が増えました。

    ほぼ書いて、この土日にコピーを取り、更にメモリー2本に記録して出版社に送るつもりで、本日郵便局からレターパックを買ってきました。

    最後に、森バッシングを、日本人の劣化につなげて書こうと思います。私の家族として は、父方の祖父が慶応生まれ、海兵13期、母方の祖父が海兵23か4期,母方の母方の父が海兵14期で鈴木貫太郎さんと同期なので、どの辺は良かったけど、どの辺に なるとダメだと言うとまずいのかもしれませんが。

    マッカーサーの話も具体的な例が分ったらもっと面白かったのですが、しかし、敵将にそういわれるのも悔しいですね。この話が出るまで、二階という人は大嫌いだったのですが、森氏擁護を知って、この人が自民党の中で力がある理由の一端が分かったような気がしました。
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    池田→關野

    御祖父樣はたしか、漱石より二歳年長で、慶應元年生れでしたね。
    その漱石や鴎外が乃木將軍の殉死に衝撃を受け、これを深く悼んだのに、志賀直哉や武者小路實篤が乃木さんを嘲つたことは、前に申しました。そしてつぎのやうに續けました。

    後二者(志賀ーー明治16年生れ、武者ーー18年生れ)がもの心ついた頃の社會は、ほぼ西洋竝みの外觀を呈してゐました(軍隊、議會、産業、學校、官廳ETCなど公的な施設は西洋にさして遜色のないものができてゐました)。それを見て育つた彼等には、西洋と日本の區別もつかず、まして殉死の意義など論外でした(12年生れの荷風は前二者と後二者の中間と位置づけるべきでせうか)。

    それは世界に於ける日本のpositionが分らなくなることですから、對外的には必然的に癡呆症状を呈します。

    後二者が文化面で齎したのが大正教養主義です。この根なしの徒花が政治・軍事の領域に咲いたらどうなるか。まづ間違ひなく亡國でせう。

    以上の區分けは、便宜上、無理やりやつつけたまでです。世の中は、線を引いたやうにはつきり變るものではなく、新舊入り亂れるのが普通でせう。人によつても違ひますし。從つて、御祖父樣が漱石と同年代であることは當然ですが、その他の方々については、どの邊がどうのと分けることは、時代背景を知ること以外にあまり意味がないのでは。

    切れ目は別にして、竹山道雄『昭和の精神史』の次の一節などを讀むと、
    途方もなく變つたものだとの感を否めません。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ・・・あの歴史を囘顧して怪訝にたへないのは、かつてはあれほども愼重
    周密だつた日本が、どうしてあのやうに大局の目途もなく作戰を擴大して
    しまつたのだらう、といふことである。
    陸奧宗光の「蹇蹇録」は、日清戰爭當時の苦心を記してゐる。あの頃
    の當局者は、外交においてはあくまでも日本が戰爭を欲しなかつた體勢
    をとり、軍事においては常に機先を制して、これによつて全體を有利に導
    くために經營慘怛した。成歡、牙山の役までは外交が指導し、まつたく戰
    爭となつてから事を軍の統帥にゆだねた。
    ところが今度はさういふことはまるでなかつた。ことに支那事變はてん
    でばらばらだつたらしい。ただ勢ひに乘り勢ひに引かれて、ずるずるだら
    だらと最初からおそれてゐた「ゲリラの泥沼」に足をふみこんで墓穴を掘
    つて行つた。
    あのころわれわれはしきりにニュース映畫を見て、奧地の縣城で髭を
    伸ばした日本兵が萬歳を三唱してゐる姿を見て、いつたいこれはどうな
    るのだらうと思つた。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    これに繋がるかどうか、森バッシング、トピックにはなるのでせうか。
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    關野→池田

    私としては、執筆の締めのタイミングとしては良いイベントでした。日本人の多くに裏が見えると良いですね。
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    池田→關野

    そのやうにも言へますね。

    右派・保守を支持する人々が、奴隸の詫び證文をおし戴くーー世界に例のない、天下の奇觀です。
    一方、偉い人を右派だから怪しからんと引きずり下ろす。

    國民が精神分裂症を患つてゐて、その支離滅裂なることに氣づかないのでせう。

    貴兄は「このままだど衰退して滅亡する日本」との仰せ。「衰退」は限度に達し、「滅亡」もほぼ實現、あとは外國軍の進駐・占領を待つのみーー今はそんな段階でせう。

    この次の御著が、Edward Gibbon にならつて、” The Decline and Fall of the Japanese Empire” などとなりませんやうに!
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  9. 大学の過去問で西尾さんを知りこのブログを知りました。ブログの更新お待ちしております。

  10. 杉 竝 區 に 於ける、つ く る 會 と 左 翼 の 武 鬪

    ~關野通夫さんとのメール往來(續)~
    ー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー關野→池田

    今丁度、出版社向けのレターパックの封をしたところです。
    私は、子供のころから喧嘩っ早い方でしたので、奴らと1戦交えてみたいものです。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー池田→關野

    今度はスムースに運ぶといいですね。
    自著ではなくとも、内容を伺ふ度に熱が入り、待ち遠しくなつてきました。

    御先祖について「どの辺は良かったけど、どの辺になるとダメだと言うとまずいのかもしれませんが」には可笑しくなりました。 時代が人を作ることはたしかでせうが、一つの時代が作る人物は一樣ではありません。志賀や武者と同じ時代に生きても、もつと敏感で、まともな人はゐた筈です。どんな時代を生きたにしても、乃木さんを嗤ふヤツなんて、こちらも心底から輕蔑するのみです。

    「喧嘩っ早い方で」、「奴らと1戦交えてみたい」ですか。見ものですね。御健鬪を。 私は性格は惡いのですが、腕力・口舌ともにに自信がなく臆病なので、喧嘩をこちらから賣ることは滅多にありません。でも、心中の高慢は表に出るらしく、自分としては意外なトラブル、喧嘩になることがあります。ラグビー協会ではありませんが、女の発言時間は気になりませんが、利いた風なことを言ふスポンジ頭が大嫌ひなので・・・。

    御出版の早からむことを祈ります。
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    關野→池田

    つくる会にはいってから、杉並区では、2度くらい、すんでに武闘になりかけたことがありました。区役所付近で一回と、高円寺駅前でと2回ですが、二度とも、睨みつけただけで終わりました。

    私の本、前半と言っても、量的に前半。後半均衡しておらず、前半対後半2対8くらいだと思いますが、印象は、がらっと変わった感じ(本人の欲目かも)がします。
    出版社には、来週早々には届いていると思います。森バッシングの裏の狙いは、女性天皇かもしれませんね。本には、森さん、女性天皇の生け贄にされたのかもしれないと書いておきました。でも、生け贄にしては、ちょっと年取り過ぎですね。
    明日から、文集の査読に力を入れます。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー池田→關野

    私は平成19年まで杉竝區に住みましたが、武鬪は知りませんでした。
    ただ平成12~13年頃でせうか、つくる會事務所が放火だか燒打ちだかにあつたとかで、西尾先生も警戒され、散歩の際、變裝のため、妙な帽子を被られたのを覺えてゐます。

    「森さん、女性天皇の生け贄にされたのかもしれない」とは面白いですね。勿論、その當否は私には分りません。言語道斷の妄説と怒る向きもあるかもしれませんが、案外、御明察!と喜ぶ向きもあるかもしれません。多分、私の嫌ひな”保守”の連中でせうが。なんでも構ひません。

    貴著が賣れて、その結果、近代日本の消長と、本來の日本人が如何に強く立派であつたかを一般がもつと知ることを切望します。

    「明日から、文集の査読」、御苦勞樣です。よろしくお願ひします。そし
    て、御出版の成功を!
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    關野→池田

    左右両派とも武闘だとか張り切っていたのは、教科書検定で拮抗していた当時
    です。
    今のつくる会活動は、私から見ると「お宅」の遊びのようになってしまった感じで、熱心さは感心しますが、お互いに〇〇部長などと呼び合って、戦略は?で、どうも違和感がありますね。ごっこをやっているようです。
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    池田→關野

    「教科書検定で拮抗していた当時」とは何年ごろでせうか。
    私に印象深かつたのは、平成13年(14年?)夏の採擇決定前の熱氣です。
    當時、西尾先生からいただいたお手紙を拜讀して、先生、かなり昂揚してをら
    れるなと感じました。

    それまで私は勝手に、先生の本質は學者・文人と決めて、かういふ(必ず政治
    色を帶びる)運動にかかはられず、書齋に留まられるべきだと考へてゐました。眞つ向から、それを申上げる勇氣はありませんでしたが、さういふ思ひは多少通じてゐるやうな氣もしました。

    しかし、手紙を讀んで、先生、やる氣だなあ、これだけ熱情を注いで、しかもそれが國のためになる。充足感も得られるなら、先生にとつても必ずしもマイナスばかりではない。書齋にゐるだけが能ぢやないかもーーと考へが變りました。當時名譽會長でいらしたと思ひます。やがて八木騷動。

    爾來幾星霜。

    昨秋、「ルポ百田尚樹現象―愛国ポピュリズムの現在地」といふ本(御存じでせう)を買ひ、先生に關する部分だけ讀みました。先生は「(こんなことを言つたら、他の人はアタマにくるだらうが、『國民の歴史』一册を殘して)つくる會は終つた」とおつしやいましたね。

    この點、貴見如何。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー關野→池田

    私が「つくる会」に関わったのが、サラリーマンを止めて日本に帰ってきた2001年、 それから数年経ち、近所の誰からかつくる会の存在を聞き、はじめは、よくわからず会費を納めるだけの準会員、或る時正会員があるのを知って正会員になったのが、2~3年後ですから2005年前後ではないかと思います。

    東京支部の会長が島崎さん、副会長が石原さんでした、一方、杉並区長が山田宏氏で、教育委員長がこちら側の人、副委員長的な方が宮坂さんと、面子がそろっていた時です。それで、つくる会と左翼系との争いも激しかったものと思います。

    その後、教育委員会は、委員長より、教育長の権力が強くなり、区長が今の左系の人になり、東京書籍に奪われてしまったと記憶しています。私が武闘をやりかけたのが、教科書が自虐系に移る頃です。それから、つくる会はずっと採択は取れていません。

    その頃、杉並区議の松浦さんの演説の応援に高円寺の駅前に行った時、うちの女の子が左翼にからまれていますという知らせがあり、飛んで行って、そいつの前に立ちはだからり、ぐっと無言で睨め付けたこともあります。いざという時は、タッチフットのボディータックルで相手をひっくり返す身構えをしていましたが、相手が退散しました。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー池田→關野

    2005年は平成17年ですか。
    仰せのほとんどは私の知らないことです。

    山田區長にしても、名前を知つてゐただけで、多少人物について
    聞いたのは轉出された後です。
    松浦芳子さんについても、名前や、持丸博氏夫人と知つたのは
    ずつと後です。
    「つくる会と左翼系との争いも激しかった」
    「委員長より、教育長の権力が強くなり、区長が今の左系の人に
    なり、東京書籍に奪われてしまった」
    すべて初耳です。

    「そいつの前に立ちはだからり、ぐっと無言で睨め付けた」
    「ボディータックルで相手をひっくり返す身構えをしていましたが、相
    手が退散しました」
    お見事!貴兄、ちよつと見ではさして強さうではなく、どちららかとい
    へばやさ男ですが、タックルの構へに相手はただならぬものを感じた
    のでせうか。文弱と言はれた西高OBにしては、お手柄!

    つくる會のシンポには、先生がお辭めになるまで、大抵行きましたが、
    會員ではないので、カンパはしても、會費を拂つたことはありません。
    先生から言はれれば、會員になつたことでせうが、先生は私の協調
    性缺如を見拔いてをられるのだと勝手に解釋してゐました。

    貴兄の苦勞を知らぬ非會員が勝手なことを申してすみません。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    1. 久しぶりにこの日録をよみ、お二人の羨ましい往復メールに接しました。私も都立高校出身ですがこれ程心の通じるクラスメートを持ちません。みな現状に満足・安住し、小生が關野様の自由社の2冊(日本人を狂わせた洗脳工作・いまなお蔓延るWGIPの嘘)を勧め、君らは洗脳されたまま墓場にいくことになると脅しても賺しても見向きもしません。關野様の今度の出版が楽しみです。

      メールに乃木希典が登場しましたので細川護貞(細川護熙の父)の乃木評と明治維新観を紹介します。小生も昨年末に『新彰義隊戦史』を上梓しましたが(書評https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64151)、この「陶庵随筆(西園寺公望)」を読んだのは今月です。擱筆前に読んでいれば引用していたのですが細川は「軍人でありながら戦争は糞下手で負けてばかりの人物を大将から伯爵にまで取り立て学習院の院長に起用」と切り捨てています。この評価は志賀らの大正教養主義に毒されたものではなく、「明治の元勲のなかで唯一垢ぬけているのが西園寺公で他は泥臭く洗練されていない。明治維新は我が国に伝承された大切な文化を破壊した」とする熊本藩主末裔の細川の維新観のなかから出てきた批判です(官軍についた熊本藩兵の上野戦争での誤射は官軍を傷つけ当時、故意であったと疑われています)。見事な殉死という側面からは鴎外や漱石のように見られ、出自、教養からは細川のように見られるというだけのことで、細川評などでは池田様が支持する乃木の価値は少しも損なわれないと思います。

      細川は「明治維新の害は今に尾を引いている」とまで云っています。確かに維新は戊辰戦争での長州兵の人道に反する野蛮のあと薩長藩閥、金権、芋づる人事でスタートしましたが、その後は曲がりなりにもオールジャパンで日本は国際社会で奮闘しましたので現在まで尾を引いているとはいえません。ただもし榎本軍の主力艦開陽丸が江刺で海難に会わなければ明治の日本は本州と蝦夷の連合国United Kingdom of Japanとなり少なくも蝦夷州は池田様が「自由と宿命」で紹介されたレーヴィットの謂う2階建てにならずに済み、武士の伝統文化と民族精神を温存した道義国家が生まれていたでしょう。

      西尾先生が「日本は地獄に堕ちる」、關野様が「このままだと日本は衰退して滅亡する」と叫んでも、大勢に順応するだけの現在の似非保守をふくむ日本の知識人、大衆、マスメディアは蛙の面。国際的恥辱を雪ぐことには無関心、同胞が拉致され、領土領海が犯されても平気な今の日本人の体質を遡れば、義を彰(あき)らかにしようとして立ち上がった彰義隊をニセ会津兵で壊滅させた不義の薩長政府、司馬遼太郎氏の追随した明治維新神話を捏造した明治政府から懐胎したともいえるのではないか、その意味では「明治維新の害は今に尾を引いている」のではないかと思われます。

  11. 大藏 樣

    お久しぶりです。
    大藏樣は都立高校(日比谷高校)16~18期くらゐでいらつしやいますか。小生が10期で、以前はその程度の差は大したことないやうに感じましたが、殘りが愈々少くなつてくると、大變な違ひのやうな氣がします。貴殿を若造扱ひするつもりはありま せんが、羨ましいとの思ひが強くなつてきました。

    『新彰義隊戦史』は御案内いただいたにもかかはらず、求めずじまひ、失禮しました。
    今、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64151を見ると次のやうなことが出てゐました。
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    『新彰義隊戦史』(大藏八郎著、勉誠出版)――。

    今から100年前に出版された『彰義隊戦史』(山埼有信著)に新しい知見を加え、200点 余りの写真や図版を掲載し、まさに「彰義隊を可視化」した永久保存版と言える700ペー ジ近い大作。

    『新彰義隊戦史』著者の大藏八郎氏は、渋沢栄一と「彰義隊」との関係について、こう語る。

    「渋沢ファミリーが彰義隊に深く関わった事実は殆ど知られていない。栄一の従兄・成一郎(喜作)は彰義隊結成時のトップ、従兄の尾高惇忠が理論的指導者、栄一の養子であ る平九郎は幹部だった」

    「成一郎は間もなく彰義隊と袂を分かち、『振武軍(しんぶぐん)』という別部隊を結成。平九郎もこちらに加わる。しかし、平九郎は新政府軍との闘いの末、20歳の若さで自刃。フ ランスから戻った栄一は、さぞ心を痛めたことだろう」

    「もし、渋沢栄一が平九郎からの手紙に応えてフランスからもっと早く帰国していれば、彰 義隊に加わって上野戦争を戦ったか、倅・平九郎と共に殉じた可能性がある。もしそうなっていたら明治の日本は資本主義を発起し推進する人材に欠け、拝金主義や私的独占が蔓延り、明治の日本近代化が相当遅れたことだらう」

    『新彰義隊戦史』の中には、渋沢平九郎が、フランスにいる父・栄一に宛てた手紙をはじめ、数々の貴重な史料や写真、錦絵なども収録されている。

    著者・大藏八郎氏のご先祖(新井貢)と、私(紹介文の筆者)の傍系先祖(佐野鼎)は、今 から161年前、万延元年遣米使節の従者として、互いに同じ船に乗り、アメリカに渡った仲間だつた。
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    さういふことですか。維新史に疎い私も興味をそそられます。

    細川護貞の乃木評と明治維新観なるものに初めて接しました。彼の『情報天皇に達せず』(上下2卷・昭和28年發行)を60年數年前に古本で買つて、今も持つてゐますが、殆ど記憶にないのは、積んどくだつたからでせう。

    開いてみると、ここで私が罵つた志賀直哉と武者小路實篤が竝んで序文を書いてゐるので、驚きました。そこだけ讀んでみると、「著者の會ふ人々のほとんど總てが戰爭反對で、早くから日本の敗戰を知つてゐる。それで、どうしてもつと早く戰爭をやめさせる事ができなかつたらう」「日本が負けるにきまつてゐる戰爭をなぜ始めたか、そしてどう言ふ風に無理な戰爭をつづけ、そして大きな犧牲を拂つて、逆に完全な敗北を喫したのか。この事情は僕達には、わかつてゐるやうで、實はわかつてゐないのだ」などと、誰にでも言へる、從つて、言つても意味のない、氣樂なことを言つてゐるだけ。なにも自分で考へたことがなく、西洋・日本について感じることもなかつたのでせう。二人は漱石・鴎外に比べると、全くの無感覺。自分の在學時の學習院院長たる乃木さんを、新時代の風潮に從つて嘲笑したのも道理です。かく、「考へない」ことは気楽で長生きする秘訣かもしれません。おつと脱線しました。

    貴文で、私によく理解できない二三について、御説明いただけませんか。

    ①「『明治維新は我が国に伝承された大切な文化を破壊した』とする熊本藩主末裔の細川の維新観のなかから出てきた批判」はだいたい理解できるやうな氣がします。「破壊」する要素があつたことは間違ひなく、だからこそ、それを敏感に感じ取つた鴎外・漱石が苦しんだのでせう。荷風は呪ひました(彼はしかし、一面の意義を認めてもゐましたが)。

    「明治維新の害は今に尾を引いている」の「害」とはなんでせう。西洋に呑み込まれないやうに、これに抵抗するためには、西洋文明を取り入れ、それに據るしかないーーといふのが、ほぼ共通の客觀的認識で、從つて、新日本を建設するためには、西洋の基準を己が基準にせざるをえませんでした。自己の基準を蔵から探し出して、それで測る暇はなかつたのです。明かな矛盾で、それが一時的に成功するにせよ、樣々な頽落現象が生じるのは當然です。その現象を「害」と呼んだのでせうか。それなら、私にも分ります。

    それとも、「維新は戊辰戦争での長州兵の人道に反する野蛮のあと薩長藩閥、金権、芋づる人事でスタート」といつたやうなことでせうか。あるいは、”新説・明治維新”といつた類の本のキャッチコピー「維新のヒーロー坂本龍馬に誰がカネを出したのか?海援隊という5~60人の働いてない男たち を養うカネはどこからでてきたのか?大量の武器を買うカネはどこからでてきたのか?軍艦を買う金は?全国各地に出張しまくるカネは? 一体、誰が何の目的でそ
    のカネをだしたのか?」といつたことでせうか。大藏樣の「現在まで尾を引いているとはいえません」との仰せは分りますが、護貞はどういふつもりで「害」と言つたのでせうか。

    ②開陽丸の壓倒的威力と、これを不必要に投入して沈めてしまつた榎本の愚を非難する論に接したことがあります。もしも開陽丸が健在だつたら、舊幕府軍のあれほどの完敗はあり得ず、新舊が穩かに繋がり、「明治の日本は本州と蝦夷の連合国United Kingdom ofJapanと」なつだらうといふのが御説ですか。その方に疎い私には分りませんが、さうなる可能性はあつたかもしれませんね。

    そして、それが「レーヴィットの謂う2階建てにならずに済み、武士の伝統文化と民族精神を温存した道義国家が生まれていた」となるのは、どういふ筋道でせうか。やはり「新舊が穩かに繋が」れば、主敵西洋に對しても餘裕が生れ、更に、その敵の文明を取り入れるにしても、あれほど血眼にならずに濟んだだらうといふ意味でせうか。それなら、2階は1階の自然な延長になり、2階に於ける癡呆症の心配は不要で、私にも分ります。

    恐れ入りますが、以上のやうな解釋でよろしいかどうか、もう一度御説明いただけませんか。

  12. 大蔵 様

    すみません。前のコメントは貴文「義を彰(あき)らかにしようとして立ち上がった彰義隊をニセ会津兵で壊滅させた不義の薩長政府、司馬遼太郎氏の追随した明治維新神話を捏造した明治政府から懐胎したともいえるのではないか、その意味では「明治維新の害は今に尾を引いている」のではないかと思われます」を見逃して書いてしまひました。でも、失礼ながら、できれば、もう一度
    御説明を。

  13. 池田様

    高校入学は昭和40年、70を超えたばかりの若造どころか洟垂れ小僧に辛辣な大先輩からの御下問ですので緊張しましたが、よく読むと同時に回答をご提示頂いており安堵しています。歴史から忘れ去られた彰義隊など浮世離れのテーマですが、腐った日本に何とか風穴を開ける手立てやヒント、鍵はないものかと考えあぐねているところに見つけたテーマです。柳原女史の書評を多くここに引用下さりましたが宣伝も混じり面映ゆいかぎり、恐縮しています。

    細川護貞を不用意に引用しましたが、その本格的著書の『情報天皇に達せず』に寄せた志賀と武者の序文がそうであれば細川自身も私が買い被った考えなどではなかったのでしょう。『彰義隊戦史』の著者山崎有信が序文を田辺太一に依頼していますが序を引き受ける者は著者のシンパであるのが通常です。細川も倅同様、戦後の時流に乗っただけのようです。ただ「明治の元勲のなかで唯一垢ぬけているのが西園寺公で他は泥臭く洗練されていない。明治維新は我が国に伝承された大切な文化を破壊した」という指摘は、もしこの「垢ぬけ・洗練」が維新で破壊された「文化」とつながり、国家の品格破壊に影響したというのであれば無視できないと考えます。

    今回、彰義隊という狭い窓から明治維新を眺めただけですのでご期待に沿える説明にはならないかもしれませんが回答を既に用意して頂きましたので説明が問わず語りになるのをお許しください。

    ① 細川の「明治維新の害は今に尾を引いている」の「害」は外発的で無自覚な西洋化、近代化に伴う樣々な頽落現象を指すと解釈しました。廃仏毀釈の愚行を推進した男だったと思いますがお雇い外国人に「日本に歴史はない。日本の歴史は今から始まる」と答えています。明治政府首脳もこの手合いだったと考えられます。

    20年以上前の西尾先生の『国民の歴史』21章は私のこれまで接した維新肯定論のなかでベストの論考です。しかし難点の一つは「幕末の花」と謳われながら、頑迷な抵抗勢力でアームストロング砲により蹴散らされたと官軍史観によって片付けられた彰義隊の存在と戊辰戦争の天王山となった上野戦争の意義が無視されていることです。2つ目は、「西洋の革命より革命的」だった、「武士階級が自ら特権を放棄した世界に類例のない内発的体制変革」だったのは確かですが、それは結果であって、訛が強く泥臭い薩長官軍勢力が「権力を奪取した局面」と「奪取後の政権運営の局面」を一緒くたにし、後知恵で明治維新神話を美化する薩長官軍史観に害されているように思えてなりません。もう一つの御著者、『江戸のダイナミズム』で先生御指摘の朝廷の権威と幕府権力の権権二元論の柔構造のまま、大政奉還のあと公武政体に移行していれば戊辰己巳の内戦は不要で、より効率的な日本近代化がより早期に達成されていました。幕府は万延元年に遣米使節を派遣し日本外交を本格スタートさせ郡県制や議会開設を目指し殖産興業の独自の近代化政策を実際に始めていました。それを攘夷のスローガンで、権力への野望から阻止し、幕府の日本近代化への歩武の足を引っ張ったのが薩長土三藩の討幕勢力で、そのための彼らの手段が日本の伝統ではない首都住民への悪辣なテロであり、成功の後は幕府の成果を横取りしました。慶応4年5月の上野戦争では官軍兵の屍は直ちに収容しましたが彰義隊の屍は見せしめのため5日間も野晒しに放置させ、会津戦争での暴行陵虐は、GHQの占領期間中の米兵犯罪が隠蔽されたのと同様に、正史で封印されました。また薩長幕府が実態の新政府の施策は全て江戸幕府の後追いでした。先生は「徳川御一門による主権国家体制」を認め乍ら幕末における幕府革新官僚の成し遂げつつあった仕事を見逃しておられます。これが難点の3つ目です。

    確かに政権樹立後には、「賊軍も朝敵も新体制に包摂し、藩主への忠義心が国家への道義心に転化した」という点は首肯されますが(但し藩閥の弊は厳存しました)、それは単に人材と国家統治のノウハウが賊軍、朝敵側に多かったに過ぎず、政権奪取時は、西の下級武士が東の上級武士の地位を偽勅や戯旗の汚い手で奪う簒奪が行われたのが歴史的事実と思います。奪われた上級武士の地位には彼らが体現した伝統文化と歴史が含まれます。「武士階級がリーダーの誇りを抱いていた事実が明治に倫理的方向性を与えた」ため後進諸国の革命につきものの大規模で恒常的汚職は発生しませんでしたが、その倫理的方向性は彰義隊の、明治初の反政府の乱である上野戦争で身を以て示した義による、同じ武士で義に背いた劣等感をもつ明治のリーダーたちへの薫陶が元になったと思われます。この視点が「国民の歴史」にないのは当然で、私のエビデンスのない憶測にすぎません。
    難点の4つ目として加えるなら、幕府側には近代日本建設への明確なビジョンがあり西や赤松がこれを文書化しているのに対して、討幕側には私の知る限り坂本の稚拙な船中八策があるだけなのを落していることです。大川周明の『日本二千六百年史』に「伊藤、井上の元勲すら、なおかつその回顧談中に、総てが無我夢中なりしと告白して、維新の意義に徹底していなかった」「当時の討幕党も、また決して明確なる将来の理想を有していたのではない」とあり、土佐の田中光顕は最後までまさか幕府が倒れるとは思っていなかったと語り残しています。ビジョンを文書で表明する余裕はなかったというよりビジョンその物が無かったのでしょう。
    伏見の敗戦後、慶喜公が大阪から東帰した行動をとらえて「怯懦」とか変節とされていますが渋沢栄一は「冤罪を伸雪」する目的で『徳川慶喜公伝』を発刊しました。”新説・明治維新”は一面の真理を衝いていると思います。西鋭夫氏は、史料を掴んでおられるようですが、英国が討幕派に資金と武器を提供した結果が明治維新であることはほぼ間違いないでしょう。慶喜公の東下の影に国際政治の謀略が隠されています。英国には劣りましたが米国よりも優位の海軍力と諜報の手強い幕府より扱いやすい長州を英国は操ろうとしました。「国民の歴史」はこれを無視しているのが5つ目の難点です。「日本の支配階級は明治維新で一変」しましたが、新支配階級の元勲らは、維新前は攘夷、維新後は和親(欧化)に豹変しました。細川もこの矛盾を「スローガンとは逆をやったではないか」と批判しており、福沢もこれを指摘しています。明治国家誕生のいかがわしさは、その後のオールジャパンで治癒されたものの、この「明治維新の害」を引きずった、それが自国の歴史伝統や文化遺産への無知と不信から鹿鳴館の狂騒となり2階建ての2階での痴呆となったのでしょう。

    ② 確かに「開陽丸を不必要に投入して沈めてしまつた榎本の愚」を非難する論があり、後から振り返れば何とでもいえ、日本海に出て新潟港に向かうのが戦略上は正解だったとも言えますが江差に投入したこと自体は戦術の誤りではありませんでした。不幸だったのは予見不能の暴風雨(タバ風)に見舞われたことです。この前後にも榎本海軍は暴風のためにやられています。この3度の天変の1度でも発生しなかったら蝦夷共和国が存続し明治の日本は本州と蝦夷の連合国United Kingdom of Japan(UKJ)と」なったらうと空想をめぐらすことができます。そうなれば幕臣達は自分たちが江戸国家で達成した文化に自信をもっていましたから「新旧が穩かに繋がり」、新天地でも、西洋近代文化に迎合せず、「主敵西洋に對しても餘裕が生れ、更に、その敵の文明を取り入れるにしても、あれほど血眼にならずに濟んだらう」、その結果それがレーヴィットの謂う2階建てにならずに済み、武士の伝統文化と民族精神を温存した道義国家が生まれていたと考えます。今、日本人の衣食住で世界に誇る和式、和風と言われる日本文化は武道を含め全て江戸の武士たちが体現したもので彼らはそれに誇りをもっていました。1860年の米国海軍工廠前記念写真は彼らのその気概、風情を伝えています。これ以上は長くなりますのでご興味があればお近くの図書館で拙書をご確認頂ければ幸いです。

  14. 大藏 樣

    御丁寧な御説明を拜讀しつつ、今さらのごとく、己の勉強不足を痛感しました。

    ①多分仰せの通りだらう。②それはどうか?少々疑問ーーと感じられる箇所もありましたが、③どちらとも感じないーー箇所も多い。文意は通じてゐるのですから、貴説を理解する能力が缺けてゐるのです。御迷惑でせうが、それらについて雜談を少々ーー

    ★「歴史から忘れ去られた彰義隊など浮世離れのテーマですが、腐った日本に何とか風穴を開ける手立てやヒント、鍵はないものか」ーーその可能性は十分ありさうですね。私がさう感じるといふだけでは意味がありませんが、目のつけどころが新鮮です。

    ★「日本文化は武道を含め全て江戸の武士たちが体現したもので彼らはそれに誇りをもっていました。1860年の米国海軍工廠前記念写真は彼らのその気概、風情を伝えています」ーーこれは貴論に鮮かな色彩と説得力を與へますね。もつとも昔、松川事件の被告の目が「澄んでゐる」と書いた廣津和郎が、それを以て、被告の無罪を印象づけることを意圖してゐるかのやうだつた時は、そんな見かけで・・・と違和感を覺えましたが、記念寫眞についての仰せは幕臣たちの頼もしさを感じさせます。我が持論に都合のいいせゐかもしれませんが。

    ★「『明治の元勲のなかで唯一垢ぬけているのが西園寺公で他は泥臭く洗練されていない。明治維新は我が国に伝承された大切な文化を破壊した』という指摘は、もしこの『垢ぬけ・洗練』が維新で破壊された『文化』とつながり、国家の品格破壊に影響したというのであれば無視できない」ーー元勲には品のないのが多かつたかもしれません。それは彼等の多くが舊幕藩體制下で、身分が低い〈下級武士〉だつたことと無關係ではないでせう。舊大名の雄 細川家當主たる護貞からすれば、我慢ならないほど野卑と感じることもあつたでせう。苦々しい思ひが傳はつてくる氣がします。

    西園寺公の品は公卿としての品で、武士の品ではありますまい。もし幕閣や大名が元老になつてゐたとしたら武士の品を維持したかもしれません。この最後の範疇に屬する者がゐず、公卿がオンリーワン(ツー? スリー?)、あとは全部下級武士ーーといふ構成が「国家の品格破壊に影響したというのであれば」、さうも言へさうですね。。元老の大部分は以後の國家指導者になるのですから。

    ★廃仏毀釈は毛澤東の文革のやうな奪權の性格があつたみたいですね。そしてこれが、寺が徳川幕府の保護を受け、幕府による支配の手先になつてゐたとして、民衆の抱く、反感に火をつけた・・・詳しくは知りませんが、相當ひどいところまで行つたのでせうね。明治天皇も崩御の直前に、それを嘆かれたとか。

    ★「西尾先生の『国民の歴史』21章」の「難点の一つは」「官軍史観によって片付けられた彰義隊の存在と戊辰戦争の天王山となった上野戦争の意義が無視されていること」ーーうーん。先生は彰義隊に觸れてをられませんか。私は遺憾ながら覺えてゐず、先生がどういふ理由で觸れられなかつたのか存じません。

    彰義隊を入れられなかつたとすれば、「無視」されたのではなく、あの通史の構成上、入れる必要がないと考へられたのだらうと、私は今、ここでは判斷します。どんなにインパクトの強い(そして意味のある)ことでも、敍述の展開上、觸れない場合もあるのではないでせうか。他の「難點」(3番目は『江戸のダイナミズム』ですか)も、すべて「無視」「見逃し」とされてゐますが、私には同樣と申すしかありません。

    ただし、先生の本當のお考へを知らないのですから、それ以上のことは言へません。まして、その件の記述の有無を記憶してゐないのですから、話になりません。讀み直して考へ、先生が觸れられなかつた必然性をしかと掴んで、これだと、「大藏史觀」との違ひを示せれば嬉しいのですが、私の能力では望み薄です。

    私などが考へてもあまり意味はなく、貴論が先生の目に入り、答へる價値ありと判斷された場合は、先生に御登場いただくのがベストですが、現在は全集が、最後の最後のつめに這入つてゐるのではないかと思はれ、當面それは期待できないのではないでせうか。渡邊望さんなどが現れてくれれば、有益な示唆を貰へさうですが、彼も今、自身の著作の最終作業で、そのヒマはなささうです。

    因みに、私は『国民の歴史』は一度通讀しただけで、あとは今日まで必要に應じて拾ひ讀みしてきました。『江戸のダイナミズム』は繰り返し熟讀玩味しました。私には、後者の方がインパクトは何倍も強い。昨年の暮、全集の作業の區切り目で、たまたま暇ができたらしい先生に、私が『江戸のダイナミズム』を如何に熱讀したかを縷々訴へ、お聞きいただきました。主として徂徠、宣長、太安萬侶についてで、明治維新のことは申しませんでした。

    さうさう、明治といへば、同論考が『諸君!』に連載されてゐる時、明治政府が契冲假名遣ひを學校教育に導入したことを、敗戰日本の政府が「現代かなづかい」を採用したのと同列に論じてをられるやうに感じられて納得できず、故萩野貞樹先生に相談しつつ、西尾先生に對してしつこく異議申立てをし、その度に誠實にお答へいただいたのは懷しい思ひ出です。ある時、先生は日録で「池田がこんな因縁をつけてきたので、かう答へておいた」と披露されましたが、當然ずゐぶんお忙しかつたのでせう、流石にかなり苛立たれた感じで、申し譯ないことでした。

    本になつてみると、假名遣ひについては、我々の立場からすると、雜誌連載時より改善されたと感じましたが、こちらの自惚れか。先生には何もお聞きしてゐません。

    先生に、『国民の歴史』の内容については、何も申しませんでした。ただあとがきにより、同書執筆が如何に苛酷な作業であつたかを知り、「ぞつとしました。いま思ひ出しても、拷問を受けてゐるみたいで、ぞつとします」とだけ申上げました。

    ★「先生は『徳川御一門による主権国家体制』を認め乍ら幕末における幕府革新官僚の成し遂げつつあった仕事を見逃しておられます。これが難点の3つ目です」
    ★「難点の4つ目として加えるなら、幕府側には近代日本建設への明確なジョンがあり西や赤松がこれを文書化しているのに対して、討幕側には私の知る限り坂本の稚拙な船中八策があるだけなのを落している」
    「大川周明の『日本二千六百年史』に『伊藤、井上の元勲すら、なおかつその回顧談中に、総てが無我夢中なりしと告白して、維新の意義に徹底していなかった』『当時の討幕党も、また決して明確なる将来の理想を有していたのではない』とあり、土佐の田中光顕は最後までまさか幕府が倒れるとは思っていなかったと語り残している。ビジョンを文書で表明する余裕はなかったというよりビジョンその物が無かったのだろう」

    この二點についても先生のお考へを存じません。大藏樣の仰せに多少關聯するかどうかーー
    大久保利鎌(大久保利通の孫。大久保家當主)といふ歴史學者に、明治のお雇
    ひ外國人について話してもらつた際、明治新政府は國家經營・外交についての經驗がなく、それを永年擔つた舊幕臣たちの智慧に頼らざるを得なかつたのは當然と言はれて、スッキリと納得したことを覺えてゐます。

    私は若い頃、舊遞信省の元高官で、庄内藩家老、米澤藩の沒落士族の血筋を引く二人(どちらも明治20年代の生れ)に私淑し、朝敵や朝敵からの俄か轉向生としての、明治政府への複雜な感情(西郷さんへの敬慕なども含めて)を、かなり感じて、考へさせられました。その話をお聞きいただくつもりでしたが、長くなり過ぎたので止めます。

    最後に大隈重信の囘顧録の一節を孫引きしようと思ひましたが、私が贅言を費やす手間を避け、それを引用・評價してゐる、竹山道雄の『昭和の精神史』の一節を丸寫しします。
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    「大隈伯昔日譚」に維新を囘顧してつぎのやうな感想が述べてある。
    ーー「一寸先きは闇の世の中とは是等の時機をいふならん。明治維新を去る僅に三四年前においては、天下の志士は啻に前途を觀察する能はざりしのみならず、大概皆紛亂の場に轉輾したるに過ぎざりし。・・・有りのままを言へば、かかる際に處したる人は、何れも破船の激浪怒濤の中漂ふに異らず、眼界汪洋として東西を辨ふ能はず、彼方へ泳がんと欲して此方に流され、北に向はむとして南に却き、遂には意外の方向に於て彼岸に達するが如し。唯其稱讚すべき所は氣力と忍耐と臨機の智能にすぎず。・・・僅々數年前に幕府を倒して大政を奉還せしむるに至るとは、夢想にも及ばざりし事ならん」
    そして、維新も結局はある抗しがたい時代思潮の力だつた、と感慨してゐる。ーー「余は前にも斷言せり。今又茲にも斷言す。維新改革の原動力は薩長の手に存したるにも非ず、公卿の間に出たるものにも非ず、又幕府の中に宿せしにも非ず、總て九州の端より奧羽の邊に至る迄、天下各地の青年書生の頭腦に煥發し、時勢と共に其力を養うて遂に我國空前の遺業を奏したりと。維新の歴史を描く者は之を特筆大筆すべし」。
    私には、これが歴史に對するセンスをもつた觀察だと思はれる。その歴史の中で活動してゐた人が後年になつて囘顧したとき、彼は事實を枉げて圖式の中におしこむには堪へられなかつたのであらう。
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    薩長でもない、公卿でもない、幕府でもないといふ実感には説得力がありますね。

    「賊軍も朝敵も新体制に包摂し、藩主への忠義心が国家への道義心に転化した」けれども、そのとどのつまりが今日ほどの絶望的な頽落であることは、避ける道が初期にあり得たといふのが貴論ですね。歐米列強との急な接觸による衝撃が齎した不可避の現象と考へてゐた私にはない視點でした。
    ありがたうございました。

  15. 池田様

    西尾先生の20年も昔の論文「西洋の革命よりも革命的であった明治維新」に、歴史のズブの素人が、生半可の知識から難癖をつけましたので盟友の池田様から相当顰蹙を買って無視されたと思いきや、意外な、示唆に富む「雑談」を伺い、その懐の深さに感銘しました。不遜にも拙書で幕末史に一石を投じたなどと自惚れましたがさざ波すら立たないなかで「目の付け所が新鮮」と評価を頂きましたので雑談に追随し、以下勝手な放談、漫談です。

    大隈重信といえば、上野戦争でアームストロング砲という大量破壊兵器を使用した佐賀藩の出です。所謂維新の主役とされた「薩長土肥」の4番目の肥前ですが、実は「薩長土肥」ではなく「薩長土」が主役でした。江戸城を官軍が接収し城内の宝物を片っ端から売りさばいて軍資金を調達しましたが、その中にヤクの毛があり、それが錦絵にもよく描かれる熊毛のような被り物で、能の「土蜘」で君が代に障りをなさんと頼光に襲い掛かる黒鬼の鬘に似た黒は薩、長は白、土は赤に加えて、肥前恐らく大隈もこれを望み薩長土(大久保・木戸・板垣)が拒み実現しませんでした。ということは官軍の正体は薩長土三藩だったということがこのエピソードで分かります。上野戦争の開始にあたり鳥取藩の隊長河田佐久馬は「敵(彰義隊)に負けざるは勿論、味方にも負けること勿れ、官軍は薩長を始め諸藩兵の競争である」と藩兵に檄を飛ばしています。戦功はその後の政治的立場につながり、討幕後の権力の分け前をめぐる(官軍を構成した)各藩の熾烈な闘争が既に始まっていました。

    竹山道雄「昭和の精神史」は私も読んだ覚えがありますが、今回の出版で聊か幕末史を知って、大隈伯談話に対する感想-“これが歴史に對するセンスをもつた觀察だと思はれる。その歴史の中で活動してゐた人が後年になつて囘顧したとき、彼は事實を枉げて圖式の中におしこむには堪へられなかつたのであらう”も、池田様の“薩長でもない、公卿でもない、幕府でもないといふ実感には説得力がありますね”も、ともに雄弁な大隈伯の弁舌に惑わされたように見受けます。明治維新は「我が国空前の偉業」という神話の図式のなかに、「事実を枉げた」つもりはなくとも、自説を押し込んでいます。明治維新の「権力奪取局面」では、維新改革の兆しは「公卿の間に出たるものにも非ず」つまり朝廷なるものの実態も関与もなく、初め「幕府(大久保・勝・高橋ら)の中に宿し」ましたが、明らかに「原動力は薩長の手に存し」薩長が主導し、土佐が補完し、肥前、鳥取、藤堂、大村などが取り巻き、慶応4年1月の青松葉事件で尾張の裏切りが確定したことで大勢が決まり、5月の上野戦争で甲信越の諸藩が官軍に靡き始め、戊辰戦争の帰趨が決定したのが幕末史の実態です。その過程で外様、譜代を問わず全国規模で藩内の佐幕と討幕の対立抗争が発生していますが、今では大隈のセリフのように「九州の端より奧羽の邊に至る迄、天下各地の(討幕)青年書生の頭腦に煥發し、時勢と共に其力を養うて遂に我國空前の遺業を奏したり」と恰も佐幕の存在が無かったかの如くに観念されています。“薩長でもない、公卿でもない、幕府でもない“オールジャパンのワンチームの日本になったのは内戦が終結した次の局面からでした。大隈は、この実態を知らないふりをして、土佐系が横死した坂本を使って新政府に食い込んだように、巧みにこの架空の図式をでっち上げ、自分自身も思い込み、薩長藩閥政権の一角に食い込み、そしてレトリックによって自己を正当化し美化するのに巧みだったのでしょう。それも保身として許されるでしょうが「知らないで言うウソ」よりはマシでした。「神話と歴史は相関関係にあり、神話が神話として歴史と区別して把握されなければ、歴史も歴史としてそれ自体において確立されることはない(江戸のダイナミズム)」は、維新神話と幕末の史実との関係においても言えることではないでしょうか。

    20年前の西尾先生も、大隈や竹山道雄と同じく、基本的に維新を「空前の偉業」と捉えています。明治維新を、薩長官軍勢力が「権力を奪取した局面」と、維新を遂げたあとの「政権奪取後の政権運営の局面」を分けて考えるなら、将にこの「奪取後の政権運営の局面」に焦点を当てたこの論文に10年前に注目し、賛同し、共感しました。いま彰義隊を通じて幕末維新史を研究したあとに再読してみると、維新の前局面と後局面を一緒くたにし、後知恵で明治維新神話を美化する薩長官軍史観に害されているとの印象をもちましたが、再考すれば、これは無意味な批判でした。この拙文が先生のお目に触れることはないと思いますが、万一お読みになれば、一知半解の青二才が片腹痛いと感じられるでしょう。維新のあとから振り返ってみれば、明治維新は大塚史学やマルクス主義的歴史解釈によっては本質を捉えることができず世界史的にみて日本独自の上からの革命が一層ブルジョア革命的だったと論じているもので、日本人による近代の達成を矮小化する論者への小気味のいい鉄槌でした。

    つまり私が僭越にも難点と指摘した論点は「叙述の展開上触れなかった」のであり、抑も論述の対象外だった、明治新政府の出生の秘密などどうでもいい、外国が関与しようが、下司下郎が天下を取ろうが、品格がどうのこうのと論う必要もなく、生まれた子がその後にどう成長したかが問題であって、孝明天皇の暗殺、偽勅捏造、山城屋やジーメンス事件等の汚職、今の中国共産党にも勝る言論弾圧や圧政など、生まれからくる弊害はあったものの、新政府が日本中から俊才を拾い集め、衆知を集めて近代国際社会の中でどれほど立派に戦い抜いたか、を日本人は誇りに思えればよく、彰義隊を論じなかったのは当然で、「大村のアームストロング砲で壊滅した」程度の知識が日本の知識人には一般で、よほどの幕末オタクでないかぎりその奥までは知りません。彰義隊の家族、子孫ですら明治の世を渡るためには、朝敵とされたことを恥じて、記録を隠滅しようとする者がいた位です。

    私は明治の元勲を一律に否定するものではありません。彼らは粗野でずいぶん悪を働きましたが、流石に武士で卑屈なところはなく、西郷は栄耀栄華に耽る嘗ての同志をみて「徳川に済まなかった」と素直に反省しましたし、大久保は旧幕の人材を可成り登用し、大隈は「新政府の施策はすべて幕府の後追い」と告白しました。「長州征討が成功していれば、若しくは遅くとも慶応3年末のクーデターを潰していれば、戊辰の内乱は無く、幕府主導の日本近代化施策によって、明治新政府によるより少なくも5年、或いは10年早く議会開設(彰義隊幹部の建白書では「集議所」)が実現し、英国の紐のつかない軍隊をもて、日本は西欧諸国に追いつくことが出来、しかもそれが主体的内発的に達成されただろう」というのが私の仮説ですが、これには「楽観的過ぎる、幕府内の守旧派の抵抗で相当もたついたであろう」ことも考えられ、明治2年の沼津兵学校生の手紙に「ただ今沼津のごとき人物揃ひ候へは滅亡は仕間敷哉抔人々口つさみ居候」からも分かるように優れた人材が登用されにくい事情はありました。しかし渋沢、西、勝、榎本らの俊秀が抜擢され驥足を伸ばし始めていましたし、実績も着実に積みあがっていました。「今日の日本の絶望的な頽落」は国民の間に彰義隊の義や新選組の誠といった倫理を思い起させ徹底させれば克服できるかと思いますが、彰義隊も新選組も剣の強さや滅ぶ幕府へ殉じる悲壮美のサムライ・ロマンティシズムに短絡しているのが現状です。日本の伝統文化、倫理道徳を体現しない下級武士による明治維新がその後の日本に齎した頽落や2階に於ける癡呆症とは別の話と思います。

    官軍史観の純粋なものは司馬遼太郎のように江戸を暗黒時代と矮小化し明治維新を必然として肯定します。佐幕史観を徹底すれば明治維新を誤りとした上で、明治大正昭和の対外戦争も天皇制軍国主義の所産として否定します。このいずれも極端で間違いであると拙書では論じてみました。私が幕末史に関わる前に他界した親族は薩摩藩士の娘と結ばれ、就職した会社では旧長州藩士の上役に引き立てられてドイツ留学しました。ぜひ逓信省元高官の複雑な感情と池田様の考察を伺いたいものと思います。

    日本は地獄に堕ちると最近仰る西尾先生が『国民の歴史』の跋文で書かれた「日本の次世代に期待する」お気持ちを今もお持ちかは存じませんが、「歴史を歪曲する観念論者へ挑戦する」意気には共鳴します。最近、先生が転んで怪我されたと伺いましたが、昨年高校の同級が自宅での転倒事故で亡くなりました。ご自宅の段差をなくされるなどして今後の無事故を切にお祈りいたします。

  16. 大藏 樣

    恐れ入りました。
    大隈に瞞されてゐたのでせうか。彼の調子のいいこと、大言壯語癖は承知して
    ゐるつもりでしたが、維新の實態を知らないので、「抗しがたい時代思潮の力」に眞實味を感じてしまひました(貴台の「自分自身も思い込み」では「知らないで言ふ嘘」になり、論理矛盾です。筆が滑つたのでせう)。

    私が「雄弁な大隈伯の弁舌に惑わされた」とは十二分にあり得ることですが、あの本多秋五をして「神のごとき、惡魔のごとき洞察力」と戰慄せしめた竹山先生(ヒトラーの本質など初めから完璧に見拔いてゐました)が、「惑わされ」るほどの「弁舌」があるのか、釋然としませんが、實態を呑み込んでゐない自分には何も言へません。

    「長州征討が成功していれば、若しくは遅くとも慶応3年末のクーデターを潰していれば、戊辰の内乱は無く、幕府主導の日本近代化施策によって、明治新政府によるより少なくも5年、或いは10年早く議会開設(彰義隊幹部の建白書では「集議所」)が実現し、英国の紐のつかない軍隊をもて、日本は西欧諸国に追いつくことが出来、しかもそれが主体的内発的に達成されただろう」といふ、貴台の「假説」には考へさせられましたが、殘念ながら、贊否を申上げるほどの意見は持ち得ません。すみません。

    また雜談を少々。

    私は、僅か十日ばかりの間をおいて亡くなつた大隈と山縣の二人をよく比べます。
    大隈の日比谷公園での「国民葬」の式には約30萬人の一般市民が參列、會場
    だけでなく沿道にも多数(大隈・憲政會系の『報知新聞』によれば100萬人)の市民が並んで別れを惜しんだとか。大變な人氣だつたのですね。

    その3週間後に「國葬」として行はれた山縣の葬儀は、「まるで官葬か軍葬」と揶揄され、新聞では「民抜きの國葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と書かれたとか。もちろん沿道に竝ぶ市民など殆どなし。「國葬」には誰でもが出られるわけではないといふ事情を考慮しても、山縣が國民からひどく不人氣だつたことは間違ひありません。

    私は、不人氣のゆゑを以て、山縣の方が好きです。信頼できるやうな氣がします。小泉信三の「山縣は民衆を信ぜず、民衆は山縣を信じなかつた。しかし、それは彼が國を思はなかつたといふことではない」と前置きした山縣有朋論に共鳴してゐました。

    山縣は一種の惡黨でもあつたでせう。涜職事件が有名なのは勿論、平素から
    子分を養ひ、その勢力を恃んで專横を極め、更にその專横により勢力を擴大し
    ーーを繰り返したのでせう。原敬日記に總理大臣の時、ある人への授爵の件で、山縣に押し切られた次第が「山縣例の通自己の子分のみに私する事今更の事に非ざれば・・・」と口惜しさうに記されてゐます。山縣の黨派根性・私心は相當以上だつたのでせう。

    鴎外が山縣のもとに出入りし忠勤を勵んだことは廣く知られてゐます。舊藩主のために、山縣に頼んだことが直ちに實現し鴎外が喜んだことも傳へられてゐます。退官の際、上院占席(敕撰により貴族院議員に列せられること)を切望したことも、そ後昇敍を望んだことも、親友賀古鶴人とのやりとりから明か。そして、どちらも叶へられなかつた。山縣がその氣にならなかつたからです。

    榮典を權力の源泉の一つとしてゐた山縣が、鴎外にそれだけの價値を認めなかつたーー山縣の權威維持に必須の存在ではなかつたのです。山縣閥の確乎たる一員を自任してゐた鴎外の心中はいかばかりだつたことか。そして、死の床(山縣の死から約半年後)で、賀古に書き取らせた遺書には「生死分ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒを辭ス・・・宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對に取リヤメヲ請フ」とあります。これは屡々 嘲笑されます。生前、勳一等などを平然と受けたではないか。今度は、見込みのないものを「辭ス」 !? なんたる慘めな變節!

    しかし、小心な官吏であつた鴎外を嗤ふ資格はそんなに多くの人にはないと思ひます。 官界の近くにゐた私自身の經驗からも、更に、あの三島由紀夫ノーベル賞欲しさにストックホルムをさまよつたり、川端康成に先を越されると、笑顏でお祝ひに驅けつけ ながら、その後急速に川端から離れたことなどを思つても、笑ふことはできません。

    おつと、何を言ひたいのか忘れてゐました。山縣がかく冷酷非情であつても、維新といふ修羅場を經て成立した、吹けば飛ぶやうな島國近代日本を永年に亙つて經營、育て上げて、列強の魔手から護り通した彼は當然、鋭い外交感覺を持つてゐました。兵を用ゐるに愼重で、機と見ればこれを果敢に繰り出すに躊躇せざるも、外と無用な摩擦を起すことは、彼の最も愼むところで、假に彼が死後20年間も、國家經營の實權を握り續けてゐたら、大東亞戰爭に於ける慘敗には至らなかつたと斷言したい思ひです。

    どうせ雜談なのですから、引續き勝手なことを言はせて下さい。舊友關野通夫さんと本田のこと。壓倒的な賣り手市場において、彼が敢て先進・安定的な日産や豐田を避けて、新興・後發の本田を選んだことを私は知つてゐます。そして彼はよく、本田を「いい加減」 と評して笑ひます。 技術者・”實 驗屋”を以て自任する彼を初代法規係長(!)にしたり、フランス語のフの字も知らな い彼に、フランス駐在を命じたりーーまつたく 「いい加減」 ですね。「しかし、それにはいい面もある。伸び伸びと働けた」とも彼は言ひます。

    私は彼に「明治の日本みたいだね。あの時期の興隆は、基本は江戸時代に蓄積
    された教養。そして、それに基いて、西洋に學んだ有能な人士が伸び伸びと腕を揮ふ場があつたこと。何も彼も未整備なので、風通しがいいし、首を廻せば、全體が見え る。自分の專門はーーなどと言ふことは出來ず、なんでも自分一人でやらねばならないが、そのかはり束縛がない。役人どもも、自分が國家を背負つてゐるつもりで、周りと切り結んだ。50年前に『白菊や明治の吏道今はなく』などと詠んだOBがゐたが、これは實感だと思ふ。あなたが活動した頃の本田は、その明治日本から江戸前の教養を拔いたやうなものだつたらう。あなたがたに、それをうめる教養がどの程度あつたかは知らないが」と言ひました。

    明治といふ時代は、從來の秩序を引つ繰り返し、麗しき傳統をぶち壞し、upstartどもがのさばつたひどい時代ではありますが、同時に若々しい活力と希望に滿ちた時代でもありました。ただし、後嗣ぎを養成する餘裕がなかつたために、急激に、著しく劣化が進み、福田恆存が言つた「滅びゆく日本」が愈々といふのが、私の實感です。

    60年ばかり前、福田恆存が中心になつて設立した、國語問題を考へ匡す團體から昨日屆いた講演會の案内を見て驚きました。スピーカーに、安倍提燈を專らにする ”文藝評論家”の名があつたからです。福田は保守反動と罵られ、自らもさう稱しました。その本家本元にまで、安倍晋三式亡國保守が進出してきたのです。どちらも「保守」であることが繋がりなのでせう。會に訊いてみると、むしろ、こちらから呼び込んだやうです。私は驚いたが、福田はこのくらゐのことは豫期してゐたのではないでせうか。

    いづれにしても、亡國近しと思はされました。貴台の「假説」のやうになつてゐれば、これほどではなかつたのでせう。嗚呼!

  17. 池田樣

    「自分自身も思い込み」はここでは不適切でした。文脈からも「知って言う嘘」でなければならず、「自分自身も思い込んだ風を装い」と言うべきでした。「九州の端より奧羽の邊に至る迄、天下各地の青年書生の頭腦に煥發し、時勢と共に其力を養うて遂に我國空前の遺業を奏したり」の麗しい言葉には、維新大業論のシンパに対して説得力がありますが、後付けです。前回ご紹介した慶応4年1月の鳥羽伏見、尾張藩の青松葉事件、上野戦争、奥羽越列藩同盟、会津戦争とつづく維新の経緯だけでなく、文久以降に起きていた諸藩の内紛を、大隈は佐賀藩ですから、薩長土の中核としてではなく、少なくも当事者の一員として、よく知っていました。「天下各地の青年書生」は見事な摩り替えのレトリックです。幕末には日本全国三百諸藩は外様も譜代も佐幕と討幕に藩論が分裂拮抗し、長州でさえ長井雅楽ら開国、公武一和の有力な幕府支持者が存在しましたが粛清され、土佐では吉田東洋が暗殺されています。薩摩藩士で彰義隊に加盟した者がいます。逆に、鳩山由紀夫の曽祖父和夫は彰義隊に参加した勝山藩(岡山県)の出身ですが、勝山藩も最終的には討幕派になりました。彰義隊の有力部隊だった卍隊の関宿藩にも勤皇派の家老が、佐幕最右翼の会津にも詰め腹を切らされた恭順派の神保修理がいました。つまり「天下各地の青年書生」のうち、はじめは少数だった討幕革命派の青年書生が、多数だった佐幕派の青年書生を権力闘争によって排除していったプロセスを大隈は覚知しながら、天下各地の青年書生すなわち討幕の志士とし、開国や公武政体を正義とする反対党が天下各地に存在しなかったことにしています。

    しかしここからは嫌味に聞こえるかもしれませんが、大隈はこの維新の現実を全て忘れたふりをしたのではなく、本当に忘れ、「天下各地の青年書生の頭腦に煥發した」と思い込んでの雄弁だった、だから竹山先生でさえ引っかかったのではないか、「抗しがたい時代思潮の力」というのも曲者で、時勢や時流は所詮人間が作り出すものと思います。「和親開国」を支持したのは佐幕派であり、「攘夷」を主張したのが討幕派でしたが、この攘夷が幕末の時流となり、明治にはひっくり返って開国が時流となりました。この両方に関わったのが大隈を含む維新の「元勲」らでした。元勲らの力が与った人為的な歴史の流れをあとから「時代思潮の力」であったと表現しているに過ぎないと考えられませんか。

    明治維新に限りませんが、日本の歴史も勝った者が書いており、彰義隊のように、敗者の側の歴史は抹殺されてきました。薩長官軍史観の歴史も真実の歴史の50%に過ぎず、残りの50%を加えなければ後世の人間が参考にできる、歪みのない価値ある本当の歴史にならないと考えます。ホンダには三現主義という考え方があり、現場、現実、現物を重視します。私はこの三現主義は歴史にも適用されなければならず、維新史でいえば慶応四年時点の現在地に立って、幕末日本の現場で、当時の人々とその環境の現実を弁えない歴史は論理に反するだけでなく、虚偽や洗脳に通じるという意味で倫理にも反すると思います。

    殆ど同時に亡くなつた大隈と山県の葬儀の対比は興味深く伺いました。土佐閥の流れを汲む吉田茂の国技館での国葬は高校時代ですが級友と学校から歩いて参列しました。当時の風潮は英雄に対する敬意の溢れるものでしたが、今から思えばマッカーサーの忠実な僕、戦後体制の勧進元としての国葬であり、且つ国民葬の雰囲気でした。大隈の国民葬に対して山県の国葬はひどく不人氣だつた、それ故に「山県の方が好き」というのは如何にも臍曲がりの池田様らしく伺いました。「山県は民衆を信ぜず、民衆は山県を信じなかつた。」しかし山県が國に尽くしたのであれば尊敬すべき人物ですが、「山県の黨派根性・私心は相當以上だつた」のであれば、国に尽くしたのではなく、西郷が憎んだように私腹を肥やし私の保身と私の栄耀栄華に汲々としたのではないですか。山県に「私心」がなく、たとえ冷酷非情な惡黨でもあつても、その人生を国に尽くしたと認められれば立派です。田中角栄の金脈は自己の政治信念を貫く方便でしたが愚かな世論は叩きました。上野戦争直前、吉原に繰り込んだ官軍兵の多くが娼妓から嫌われたのですが山県狂介もその一人で、彰義隊に通報され捕縛されそうになって救出されています。日本陸軍の源流となった長州の奇兵隊は東北の各地で悪行を働き恨みを買っていますがその頂点に居て悪行を許したのが山県でしたので余り良い印象を持ちません。そのほかに知っているのは明治後半から大正にかけ強大な権力を掌握したことぐらいで、彼が「近代日本を永年に亙つて經營、育て上げ」た事蹟は知りませんが、日露戦の勝利は山県ではなく、立見尚文や児玉源太郎などのレベルに人材がいて、戊辰の内戦で得た戦のノウハウを駆使したからではないでしょうか。軍令も軍政も、国家経営も山県独りの功績とは思えませんが詳細な伝記を知りませんので自分にはこれ以上何も言えません。

    「吹けば飛ぶやうな島国」というのは司馬遼太郎の江戸時代の「小さな国、日本」という認識と一緒ですが、英米の幕末時点での対日観は「日本脅威論」でした。これはある方の受け売りですが、英国の日本研究書「日本1852」、米国のパーマーの「日本開国提案書」は、「日本は東洋の英国になり、東洋の一等国に変貌する」と見通しています。全国を支配する江戸幕府と武力対決し、日本対英国の構図になると、侮りがたい日本全国の海軍力(軍艦は米国を圧倒する大小併せ137隻!)が幕府を中心に結束すれば日本を植民地化するのは不可能とみていました。長州は下関戦争の結果一時占領し英国との関係が深くなったので、長州に肩入れして傀儡政権を作るのが英国の利益に適うが、長州だけでは心もとないので薩摩を、グラバーの手下の坂本龍馬を使って、英国陣営に引き込み、アーネスト・サトウの『英国策論1866年』の翻訳出版などの諜報活動により、幕府の正統性を疑わせる情報操作を行いながら、武力行使を避け、武器を売って儲け、賠償金で借金漬けにして、日本をコントロールする、それには事情通の幕府は邪魔になるので、薩長に討幕させ、明治維新が達成されたのが事実のようです。しかし一方で明治維新には光と闇があり、闇の部分を認めつつも、「若々しい活力と希望に滿ちた時代」であったことも事実と思っています。

  18. 大藏 樣

    「明治維新には光と闇があり、闇の部分を認めつつも、『若々しい活力と希望に滿ちた時代』であった」といふ點で、貴台と私はほぼ一致してゐるやうですね。

    あとは、貴台の「假説」や「闇」についてのお考へを、私がどの程度理解するかだと思ひます。それがある程度進めば、貴論にほぼ同調するか、あるいは、はつきりと異議申立てができるかもしれません。しかし、それは私の基礎的學力と今の氣力ではあまり期待できません。「假説」は相當御研究になつた上でのものと思はれ、それにまともに反應できないのは申し譯のないことです。こちらは議論ではなく、雜談で濟ませることも樂しいのですが、貴台にとつては相手が惡く、御不滿でせう。いつでも打ち切つて下さつて結構です。

    取り敢へず、今囘感じた微かな疑問を申上げ、それについて御説明いただけれ
    ば、こちらは滿足です。

    今囘仰せの(A)と、前々囘の(B)(大川周明の説の援用でしたが)とは少々矛盾してゐるのではないでせうか。

    (A)「『和親開国』を支持したのは佐幕派であり、『攘夷』を主張したのが討幕派でしたが、この攘夷が幕末の時流となり、明治にはひっくり返って開国が時流となりました。この両方に関わったのが大隈を含む維新の『元勲』らでした。元勲らの力が与った人為的な歴史の流れをあとから『時代思潮の力』であったと表現しているに過ぎないと考えられませんか」

    (B)「『伊藤、井上の元勲すら、なおかつその回顧談中に、総てが無我夢中なりしと告白して、維新の意義に徹底していなかった』『当時の討幕党も、また決して明確なる将来の理想を有していたのではない』とあり、土佐の田中光顕は最後までまさか幕府が倒れるとは思っていなかったと語り残しています。ビジョンを文書で表明する余裕はなかったというよりビジョンその物が無かったのでしょう」

    「伊藤、井上の元勲すら」「総てが無我夢中なり」「維新の意義に徹底していなかった」のに、「両方に関わった」「大隈を含む維新の」「元勲らの力が与った人為的な歴史の流れ」といふものがありえませうか。「人為的な歴史の流れ」と言へば、兩方に與り、意識的に結びつけた元締がゐるといふ感じがします。そして、初めから、維新の意義を目指して、そこに持ち込んだのでせうか。田中光顯が「最後まで幕府が倒れるとは思つていなかった」のに?

    それとも、獨り大隈に限つて見れば、彼は當初攘夷を主張し、明治に至つて開國に轉じたのですか。當初の攘夷は、のちに開國に轉ずることを前提にした攘夷だつたのですか。あるいは、情勢が變つたので、轉じたのですか。とすればその情勢とはなんですか。時代思潮以外に何かあつたのでせうか。

    大隈が「青年書生の頭腦に煥發し、時勢と共に其力を養うて遂に我國空前の遺業を奏したり」と恰も佐幕の存在が無かったかの如くに、嘘をついたのは、後智慧で、大隈自身は本當は總てを見通してゐたのでせうか。

    伊藤、井上はどうだつたのでせう。二人も讀み切つてゐたにもかかはらず、「無我夢中なりし」などと、とぼけたのでせうか。どうも不自然です。正確に未來像を描いてゐた者がゐたかもしれません。しかし、「元勳ら・・・」と聞くと、そこに彼らがシナリオを用意し、それに從つて「流れ」たやうな印象を受けーー 一々の史實を知つてゐるわけでもないのに僭越ですが、違和感を禁じ得ません。そして「遂には意外の方向に於て彼岸に達するが如し」「時代思潮にシンジツミを感じてしまひます。(なほ、大隈は「元老」には算へられてゐなかつたのではないでせうか。彼の葬儀が國葬にならなかつたのは、そのせゐではないでせうか。爵位の問題もあつたかもしれませんが)

    以上、「無我夢中」の者がシナリオを持つてゐるといふことがあるかどうか、お考へをお聞かせ下さい。(あるいは、貴台のcareless  mistake による論理矛盾かもと思ひつつ)お訊ねします。それが少しでも貴論を理解する一助になるかもしれませんので、どうぞよろしく。

    私も、吉田茂を「戦後体制の勧進元」とずつと考へてきましたが、最近は、基本的にはさうであつても、もう少し同情的見方をしてもいいのではといふ氣がしてきました。田中角さんにそれほど確乎たる政治信念があつたか、金脈はそれを貫く方便だけだつたのか、疑問を感じてゐます。山縣が「頂点に居て悪行を許した」ことは否定できないとして、國家經營にどれだけの功があつたのかについては、岡義武『山縣有朋』に記されてゐることくらゐしか知らず、上記2點同樣、取り立てて申すほどのことを持ち合せてゐません。

    とは申したものの、同書の序の一節を引きたくなつたので、お許しを。
          ☆     ☆     ☆     ☆     ☆
    山縣が明治・大正史上において占める地位の巨大なことは、よく知られてゐる。幕末槍術の師匠として身を立てたいと考へた彼は、やがて「尊攘の志士」となる。維新後は近代的陸軍の建設に大きな役割を演じ、これを絲口として「陸軍の大御所」としての地位を築いて行く。政治の世界にも登場し、つひに元老の一人として伊藤博文と對抗する地位に上り、伊藤の死後は政界にひろく布置した派閥網とその手中にした軍とを背景に、元老のうち他の追隨を許さない勢威を擁して政界に君臨する。彼は名實ともに「内閣製造者」であり、また「内閣倒潰者」であつた。その一擧手一投足につれて山縣閥は動き、その吹く「魔笛」に政界はしきりに踊らされ、その一顰一笑に政治家たちは喜憂した。「閥族・官僚の總本山」「軍國主義の權化」「侵掠主義の張本人」として世上から非難され、憎まれながらも、痩躯鶴のやうなこの老人の巨大な影は、その死にいたるまで明治・大正の政界の上に掩ひかぶさつてゐた。
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    どうもぞくぞくしますね。「明治の元勲のなかで唯一垢ぬけている」、そして山縣の死後、最後の元老になつた西園寺公などより、泥臭く洗練されていない山縣の方がずつと好きですね。自分としては多くを學んだつもりの鴎外を冷たく扱つた山縣。そして、大藏樣が「余り良い印象を持」たない山縣。その爺さんが好きとは、仰せのとほり、處置なしの臍曲りですね。申しわけありません。

    1. 池田様
      元勲かどうかは定義の問題で、明治帝が板垣を元勲と呼んだのであれば大隈はそれ以上、という程度です。海舟までが明治の元勲とする説もあるようですが、これも新政府に功績のあった者が元勲と定義すれば妥当な気がします。

      AとBが矛盾ではないかという御指摘ですが、ケアレスミスの疑いも尤もですので、お答えします。確かにもしもAの『和親開国』と『攘夷』が確固とした政治思想や理念(将来へのビジョン)であれば、Bの『無我夢中で明確なる将来の理想を有していなかった』と表面上矛盾しますが、西郷でしたか、「『攘夷』も尊皇も討幕のための手段だった」と回想しています。理念や理想の裏付けのない反幕の便利なスローガンに過ぎなかったようです。幕末の攘夷も明治の和親開国も、攘夷は権力奪取、『和親開国』は権力維持のためだっとすればAとBは整合します。「維新の意義」は討幕そのもの、幕府の文明開化と殖産興業の日本近代化施策を知らず、幕府を無為無策とみなし、幕末の閉塞感を打開して、元勲らなりに明るい時代にするため天下をひっくり返したいという権力意志と野望が維新の大業の実態でした。攘夷と開国の「兩方に與り」、権力への意志を通じて、無意識的に結びつけた元締こそ池田様の考える元勲(木戸・西郷・山県・伊藤)だったのでしょう。それに待ったをかけたのが彰義隊でした。というのが私の現在到達した見方ですがまだまだ勉強不足で確固とした自信はなく、一知半解で独りよがり蘊蓄に過ぎない惧れが十分あります。

      時代の先端思潮を敏感に摂取したのは幕府留学生や知識人たちで討幕の志士ではありませんでした。日本初の公職選挙は蝦夷共和国で実施され榎本が総裁に選出されたとされますが、この民主主義の萌芽は彰義隊が先でした。渋沢成一郎(栄一の従兄)を頭に、天野八郎をサブに選んだのは幹部たちの選挙(慶応4年2月)です。

      話しが逸れましたが、「當初攘夷を主張し、明治に至つて開國に轉じた」元勲らの「當初の攘夷」は、のちに開國に轉ずることを前提にした攘夷などではなく、開国は政権を獲得した結果、外交の責任を自ら負うという情勢に変わつたからです。大隈も本当にそうだったかは彼の史料を子細に検証しなければ分かりませんが、元勲の一員ならば同じ穴の貉だろうという荒い推測にすぎません。

      伊藤、井上の二人もシナリオなしに「無我夢中」で討幕運動に狂奔・狂騒しているうちに、あっちへ転びこっちに転び、複雑な政治過程を経て「遂には意外の方向に於て彼岸に達した」のではないかとも思います。

      岡義武先生の政治学は学生時代に圧倒的な権威をもっていて学生に人気でした。今ではGHQの公職追放を免れた御用学者ではないかと法学部教授の皆さんを疑うようになっています。年は取りたくない、などと云うと笑われますね。戦後の著作『山縣有朋』が「軍国主義の権化」を採りあげたものとすれば反骨の学者だったかもしれません。引用された序は、池田様にはぞくぞくするかもしれませんが、「痩躯鶴のやうな」という喩は好意的な言葉で私にはご追従めいて聞こえます。山県贔屓の池田様には申し訳ありませんが、彼個人の見識と能力によってではなく、ライバルの前原、西郷、岩倉、大久保、大村、伊藤などが次々に死に、最後まで生き残ったが故に、老齢という特権も幸いして、偶然に手にした政治権力であって、マスメディアも未発達で愚かな「民意」を忖度する必要のない時代では、その実績も彼ならずとも成し遂げられたのではないかと思います。権力欲という私心ではなく国家の為という志が本当にあったのかは知る由もありません。

      この日録に投稿したのは、日本の亡国を止めるには国民が日本の過去を知ること、取り分け近代の出発点となった明治維新の正しい歴史を知ることが一つのよすがになることを前提に、彰義隊の研究で取得した知識を池田様はじめ日録の読者の皆様にも共有して頂くためでしたが最後まで一人よがりの放談にお付き合い下さりありがとうございました。維新の闇の側面にもスポットを当ててこそ真実の歴史が浮かび上がると申し上げて締めくくりとさせて頂きます。 

      1. 大藏 樣

        なるほど。「攘夷は権力奪取、『和親開国』は権力維持のため」とすれば矛盾はありませんね。政權を取つた途端、スローガンを裏返すなんて珍しいことではありません。といつて、人間のやること、全てが線を引いたやうに截然と分けられるものではなく 、「無我 夢中」「意外の方向に於て彼岸に」も、相當程度本當だつたと見るべきでせうね。

        毛澤東の文革は100%權力奪取のためのやうに感じられますが、その前の大躍進などは、彼にも壯大な、とんでもない理想があつたことを示してゐます。維新の志士たちの尊皇攘夷も單なる手段ではなく、外から迫りくる脅威を痛感しての理想でもあつた。だからあれほど狂奔したのだと思はれます。

        山縣について①「痩躯鶴のやうな」という喩は好意的な言葉で私にはご追従めいて聞こえます」とおつしやいますが、あれを書いた昭和33年において、その「追従」を 喜ぶ者の數は寥々たるものだつたでせう。山縣本人に「追從」しなければならない事情でもあつたのでせうか。②「軍国主義の権化」などと言ふーー自らの言葉としてではなく、 世評からの引用ではあつてもーーことこそ(さういふ評價が壓倒的な中で)「追従」を疑はせます。それを「反骨の学者」とおつしやるのは、逆でせう。①と②を
        取り違へられたのではないでせうか。

        「GHQの公職追放を免れた御用学者」たちの「御用」が、敗戰までの、戰爭推進勢力の「御用」、戰後の民主化風潮の「御用」のいづれであるにしても、岡義武の言葉のどこかと矛盾します。これは、昭和33年といふ時代を考へれば明かで、それを貴台もとうに御承知、ただ論理的な詰めが少し混亂しただけでせう。法學部教授の壓倒的多數が、戰前も戰後も(時のmain powerの)御用學者で、「反骨の学者」など少しはゐたのかーーといふ實態を、法學部出身者として知悉してゐる貴台が、かういふ表現をされたことはよく分ります。

        以上を、私の正しいと思ふ論理で書き直せば、次のやうになりませうか。
        ☆ 岡氏は法學部教授として、ほとんどの同僚同樣、時局便乘の「御用学者」であつた可能性が大なのに、戰後公職追放を免れた。うまく立ち廻つたか、インチキ、ゴマカシをしたのではと、「今では」「疑うようになっています」。
        ☆ 昭和33年といふ、山縣などを罵つてゐれば安全な時に、「痩躯鶴のやうな」という好意的な言葉を使ふとは「反骨の学者だったかもしれません」。
        ☆ 同上の時期に、「軍国主義の権化」などと時好に投ずる評語を使ふのだから、風潮 といふ主の御用學者だつたのだらう。

        山縣の寫眞(せいぜい10數枚ですが)を、私は時折見ます。そして惚れ惚れと見つづけます。山縣へのお「追從」のために、そのことを記さうと思つたのですが、上記の 本に、ある人の山縣の風貌描寫があるので、それを寫します。
        「公は丈高く痩形であるが、少年より武術修行で鍛錬したから骨格は頑丈で、老年に至つても腰が曲らず、人に接するに謹嚴に身を持して、打ち寛いだ折でも嘗て怠容を示した事がなかつた。顏は細長い方で、鼻梁が隆く、人を射る眼光鋭く、顴骨高く頬削 げ、鼻下に八字髭を蓄へ、齒は出齒の方で、自然に具る威嚴は凜々として人を壓し、公が軍服を着けて椅子に倚つた處は、靈鷲が巖角に止つて四方を睨んで居るやうで杜甫の所謂英姿颯爽來酣戰とは此事だらうと思はれた」

        よく描かれてゐます。「威嚴」は氣品を生み、それは西園寺などを遙かに凌ぐやうに見えます。山縣の惡黨たることを知りつつも、この男がずつと國を運營してゐたらと屡々思ひました。

        You Tubeでテレビドラマ「獅子の如く」を時々見ます(西尾先生のお嫌ひな、山崎正和の「鴎外ーー鬪ふ家長」や、その他を參考に制作されたらしく、かなり大仕掛けです)。 丹羽哲郎の扮するる山縣がいかにも輕く、江守徹の鴎外もあまり知性を感じ させず、私は不滿です。米倉齊加年演ずる乃木將軍はまあまあでせうか。

        小泉信三が原敬の「山縣公は・・・外國に對しては非常に懸念深い人である。いくら陸 軍の若手が騷いでも山縣公の存命中は大丈夫だよ」といふ言葉を引いてゐます。私は時々これを思ひ出します。コミンテルン、ルーズベルト、蒋介石等々がどのやうなこ とを仕掛けてきても・・・。

        鴎外の「かのやうに」について、小泉信三は「作中の五條子爵父子を山縣と鴎外とし、 さうして鴎外の近代思想解説を山縣が果してどのやうな氣持で聽くかを、幾分懸念しつつ語る鴎外を想像すれば」「鴎外は父の子爵を『明敏な人』といひ、・・・『頭のいい人なので』といつてゐる。それは或る意味で鴎外の山縣觀であつたと取ることが出來よう。鴎外は山縣を尊敬してゐたが、兩者の年齡と地位、境遇、教育の距離は如何ともすることが出來なかつた筈である」と誌してゐます。そして「大衆の賢さを信ずる
        ものと信じないものとを別けるとすれば、山縣は、さうして鴎外も、結局は後者に屬す る」とも。二人とも、”民意”が重さを増して来さうな國家の將來に決して安心してゐなかつた。當然でせう。

        大正10年11月4日原敬が暗殺された時の、山縣の受けた衝撃・懊惱・嘆きは甚しく 涙を流したとも。間もなく、山縣自身も病ひの床についたが、翌年1月のある夜、急に起き上がつて、醫師に「今原の殺された時の夢をみた。原は實に偉い男だつた。あのやうな人物をむざむざと殺されては、日本はたまつたものではない」と言つたと記されてゐ ます。

        その後も繰り返し、「維新以來わが日本は絶えず苦心を要する境遇に置かれ、殊に非常な國難にも幾度か際會して來たが、幸にも殆ど常に豫期しない國運の開展を見て來た。しかし、向後は困難は益々加はつて來るに相違ない。而も其國難は從前に比し數倍するものと思はれるが、それを如何に處理して行けばよいか。自分共は最早老年で國事に盡すことは出來ないが、將來局に當るものは十分の覺悟と決心とを以て事に當つて貰ひたい」と言つた由。山縣は二度總理大臣を務めた(その點、安倍さんと同じ)あと、日露戰爭は、陸軍參謀總長として戰ひました。關野さんの本田同樣、
        なんでもやるにしても、自己の權勢欲だけで動いたとは到底考へられません。

        そして、2月1日に死去。山縣の死は象徴的に言へば、陸軍の解體を意味し、更に國家 の解體にも繋がつたのではないでせうか。昭和史で屡々聞く科白は、「陸軍中央部には 出 先をコントロールする力がない」「この件は軍のどこに傳へ、どこをを押へたらいいのか分らない」etcです。山縣といふ重石がなくなつて、ばらばらになつたのです。たとへば、軍人たちは、ドイツに行けばナチスにかぶれ、モスカウに行けばスターリンにかぶれ、トルコに行けばトルコ革命に心醉して四分五裂。そして、國家全體もアモルフなものに。これは、私などが戰後に 教へられた ”ファッショ”
        (團結)などといふものとは正反對の、単なる解體四散でした。

        山縣も他の元老達も、陸軍全體をコントロールし得る後嗣ぎや、國難に處し得る(とまではゆかずとも、平時の國をまともに經營する能力を持つた)後繼者すら養成し得なかつた(そんな餘裕はなかつた)のだから、しかたありません。山縣は、將來に大なる不安を抱きつつも、決定的敗北・頽落を見ずに、瞑目したのはしあはせだつたと言へるかもしれません。

        大藏樣の「假説」のやうに維新が進んでゐれば、これほどの頽落はなかつたか。山縣が歿して、3年後に三島由紀夫が生れ、彼は45年間生きて割腹。それから去年で、50年が過ぎました。もし、頽落がなければ、三島の一生は違つた一生になり、96歳の彼は今も生きてゐるかもしれません。それなども含めて、少しづ つ勉 強してみます(私が賢くなつても、世を益することはないのですから、氣樂に)。 お附合ひありがたうございました。

        1. 『GHQ焚書図書開封』が全集にならないのは大変惜しい気がします。

          仁王門様
          「大きな絶望があってこそ、本物の希望もあるのでしょう。」に同意します。

          池田様
          もう議論は終わっていますので、以下は放談の蛇足です。

          1. 山県狂介あらため有朋が実は立派な人物だった、素性は兎も角、権力の座にありながら良く自己を磨き上げ国士まで成長したと、引用された原の評価、原への彼の評価を知って、見直しました。「自分共は最早老年で國事に盡すことは出來ない」の言葉には虚飾はなく、権勢欲、私欲だけの人物ではなかったことが伺われます。風貌写真は人間性をよく写しますので10数枚の肖像を確認された上での正しいご判断かと思います。東郷平八郎は晩年、海軍の軍政に干渉し晩節を汚しましたが山県は最後まで国家に尽くしたと知りました。泥臭く垢ぬけず洗練されていなかった山県も長く政治権力をもつことで備わる「威嚴」が氣品と貫禄を生み、生まれの良い西園寺の気品などを遙かに凌ぐことは十分あり得ることと思います。氏より育ち、と言いますが人間は出自や門閥ではなく自己鍛錬によって品格も恰幅も作り上げられるのでしょう。この日録でのご示教が無ければうっかり墓場まで山県への予断や偏見を持ち込むところでした。

          2. ただここで又私自身の臍曲がり、と言いますか偏屈の心から、池田様を憂国の同志とみる心安立てから、山県に入れ揚げ惚れ込むあまり彼を偶像視されていないかと心配します。大東亜戦争の指導者を「”ファッショ”(團結)などといふものとは正反對の、単なる解體四散」と評価されますが、これも後付けの結果論ではないでしょうか。司馬遼太郎の「明治はよかったが昭和は駄目だった」という議論と同じように聞こえます。昭和帝は、終戦直後、明仁皇太子へ手紙で、「明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があった」と述べたのも同様です。明治維新同様、日露役の勝利は偶然の要素が強く、辛うじて勝ったため無謀な戦争とは評されず、日米戦の敗北も、石原莞爾が指導していれば勝てたとか、山県という重しが存命なら抑々戦争しなかったという議論は「必然というものに対する人間のはかない復讐(小林英雄)」と思えます。小林は、「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と語りましたが、私も明治維新を齧ってみてこの意見に共感を覚えます。戊辰戦争も大東亜戦争も日本が世界史のなかに巻き込まれ日本の各階層の関係者が最善の努力を尽くしたが結果は必然の運命だったのではないか、明治維新という必然に異を唱える私見もはかない復讐かもしれません。以上、すべて私の勉強不足かもしれませんが。

          3. 「攘夷は権力奪取、和親開国は権力維持のため」と、これまで集めた知識から結論付けましたが、仰る様にこんなに簡単に割り切れるものではないかもしれません。国際情勢と日本の実力への無知からとはいえ、「攘夷」が外国勢力への危機意識をもつ愛国者の理想となりうるのは理解できます。坂本の「船中八策」以上の文献が出てくれば私見を修正する用意があります。西郷の「討幕の師は畢竟無益の労にして今日に至りては却って徳川家に対して申し訳なしとて常に慙恥の意を表したり」は福沢諭吉が「丁丑公論」で証言していますが、これも本心からの後悔ではないかもしれません。 

          4. 岡義武の追従をめぐる論理の整理は未だ不完全で私の真意とは違いますので若干修正させていただきます。戦前も、朝日新聞の如く、時局便乗の学者がいたであろうことは想像にかたくないのですが、硬骨の河井栄次郎と美濃部達吉しか知りません。
          ☆ 大学在学中は芦部氏、京極氏、岡氏など法学部教授の高説を畏まって拝聴しましたが、その後西尾先生の言説を知り今では戦後の時局便乘の御用学者たちではなかったかと疑うようになりました。
          ☆ 岡氏も時局便乘御用学者であつた可能性はあり、その場合は、うまく立ち廻つて、戰後公職追放を免れたのでしょう。
          ☆ しかし昭和33年といふ、「軍国主義の権化」とされた山縣などを罵つてゐれば安全な時に、罵らずにまともに採りあげ、しかも「痩躯鶴のような」という好意的な言葉を使ふとは反骨の学者だったのかもしれません。
          ☆ 岡氏が御用學者だつたのか、反骨の学者だったのかは、他の著作や戦前戦後の言動を検証しなければ不明です。

          5. 時局や時流への便乗については福沢諭吉の批判した榎本武揚を想起します。その人物像については新たに発掘した新史料を読んで子母澤寛に影響されていた私見は変わりました。時流に乗ることの方が困難で義に叶う場合もあり、榎本は多くの戦友を救うためにも二君にまみえ、二君にまみえることで自己の卓越した才能と最新の知識で薩長新政府ではなく新生日本に奉仕した、その風貌も数枚の写真しか知りませんが山県に勝る気品を漂わせているように思います。

          先月以来長く「大藏説」にお付き合い頂き、得る事も多く、感謝しています。西園寺、大隈、山県とつづく維新の元勲の月旦で幕末史の踏み込んだ議論になったのではないでしょうか。大東亜戦争をめぐる中村燦と林健太郎の誌上討論を思い出します。私も更に史料を読み解きながら少しづつ勉強しますが、人生百年の時代まだまだ先が長いので池田様も幕末史を勉強され(不勉強と謙遜・韜晦されているだけかもしれませんが)、小生と正面から議論することを願っています。異議申し立てではなく同調を期待しつつ。

  19. 最近、ブログが更新されないので西尾先生に御変わりはないであろうかということが気になります。私は地味に活動していますが、仕事が土日も忙しく政治について考える暇があまりありません。西尾先生は、左翼との闘いなどよりも「日本の西洋との対峙とは何だったのか」というような根源的問いに挑まれて成果を残されました。個人的には戦後直後の異様な空間に対する西尾先生の描写が特に圧巻であると、ときどき目にしては感動しております。現在、NHKの捏造に対してミクロの歴史の実体験を知る方々が立ち上がって闘っています。クラウドファンディングという仕組みで資金調達していますが、こういうことにささやかですが協力したいです。以下は、「【軍艦島は地獄島ではありません】 新聞に意見広告を掲載したい!!」への私の支援コメントです(いまさら新聞広告なんてという意見もありますが、それはひとまず置いといて)。
    (私のコメント)ご高齢にもかかわらず立ち上った方々に対して、心より敬意を表します。必ずや家族や子孫からも尊敬されることを信じます。これだけの身元のちゃんとした人や、それなりの業績を残した人々が声をあげているのにNHKはそれら方々の声を完全無視し、門前払いして開き直っています。その一方で、平然と庶民からあまねくNHK受信料を強制的に徴収しています。こんな無慈悲な不正義が許されていいものでしょうか。本テーマに関するNHKの過去のドキュメンタリーもひどいものだが、昨年だったかの取材もあまりに印象操作と歪曲がひどいもので「歴史の反省」という大義名分に隠れて、「過去の時代に無知な人々を食い物にして一方的で偏向したイデオロギーを押し付ける」という卑劣な行為を公共放送という名のもとに繰り返しています。そのため抗議や異論をまともに取り上げようとする良心もありません。こういった分野においてNHKには自浄作用が致命的に欠如しています。ネットなどで情報収集できる若い世代は覚醒しつつあります。多くの日本人や外国人さえも、この良心の闘いに対して後に続くと信じます。最後に啞然とするのが、学者を名乗る人々の異様な印象操作の手法です。西岡力氏が紹介されてましたが、当時の労務日記から恣意的につまみ食いして印象操作して奴隷労働のように歪曲しています。あまりに社会常識のない学者を名乗る者が、ひたすら日本をおとしめることを使命とし、イデオロギー闘争をやり抜いている中、真摯に働いて日本経済の驚異的な成長に貢献された立派な方々の名誉が汚され、おまけに国際的にも喧伝されていることにも本当に怒りを感じざるをえません。(以上、転載)
    全面怒りです。思想構築も重要ですが、具体的に社会の仕組みを変えたいです。NHKなんかもその中核です。西尾先生ほどの仕事をされた知識人でさえもNHKは一瞬たりとも紹介することはなく、露出が多いのはNHK贔屓のエセ知識人ばかりでした。
    皮相な形容ですが、日本人の思想の追及は今後も続きます。何かの折にふれて思い出す知識人は、いまだに岡倉天心や福沢諭吉、竹山道雄や小林秀雄、西尾幹二先生など(このなかでは西尾先生がもっとも晩年の絶望的トーンが大きいか。でも西部邁などに比べればずっと希望を持たせます。悪いですが病的知識人は生理的にダメです)。そういえば、ずっと昔に私がコメント欄に書いたものが、つくる会か何かのページに転載されていたのを思い出しました。そこには「これからの時代は知識人という偶像がなくなっていくだろう。それが良いことか悪いことかわからない」というような事を書いたのを思い出しました。著作物に対して、生きている姿そのものがプラスされて、その知識人の作品ですが、現代はそれが成立しづらい。政治家などもそうかもしれません。大きな要因は、人間の器が小さくなったことでしょうか。いえ、そうとも断言できない。なんでもリアルタイムに情報が可視化されて拡散され、その都度固定化された印象が確立してしまうので、社会の背後で、人間が活動し円熟していく姿や、その役割の意味が薄れていっているのが大きいような気がします。

  20. 前述の「西尾先生の晩年は絶望トーン」云々のところはアホ丸出しでした。大きな絶望があってこそ、本物の希望もあるのでしょう。

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