西尾幹二の近況報告(読者の皆様にコメント欄もお願いします)

 西尾全集はその後一体どうなっているのか、との問い合わせが最近多くなってきたと版元から伝え聞きました。お答えします。

 西尾全集は余すところあと2巻になったとお伝えしてから1年有余、新情報が出せず、ご心配とお怒りはしごく当然のことでございます。

 集積された残りの原稿が余りに多く、2巻ではとうてい収まりがつかないことが判明し、読者の皆様へのご負担のお願いを予めお願いを申し上げることにも関連し、版元の英断により次のように決まりました。

第21巻① 現代日本の政治と政治家(印刷完了、目下再校正中)
 〃  ②  天皇と原爆(印刷中)
第22巻① 運命と自由(編集完了、4月には印刷開始)
 〃  ②  神の視座と歴史/年譜、その他、各種記録/

 この20年の著者65才~80才の最も力を発揮したシャープな文章が蒐められた26冊の評論集・単著・書き下ろしの単行本を解体し、第21巻~第22巻の4冊に組み替え、編成し直しました。例えば『平和主義ではない脱原発』は『運命と自由』の巻に所を得ています。先の大戦のテーマは『現代日本の政治と政治家』を経由して、『天皇と原爆』の巻で止めを刺しています。

 しかしながら大変申し訳ないのですが、多くの方から高い評価をいただいている『GHQ焚書図書開封』は全集には1冊も収録することができませんでした。

 まだ私は85才で、書きつづけていきます。収録できなかった作品を今後どうするかは、読者の要望のいかんで決まると、版元との相談会で語られています。残された私の時間は限られています。全集継続には大変な労力を要します。少しでも多くの新しい未知の作品を書いて、残された全集化の仕事は後世に委ねたいとの思いもあります。皆様はどうお考えになるでしょうか。コメント欄を版元も注目しています。

「西尾幹二の近況報告(読者の皆様にコメント欄もお願いします)」への27件のフィードバック

  1. ☆彡!

    幹二先生!ちわっす!

    先生のGHQ焚書図書開封 で、戦前・戦中の日本人は、アメリカの大陸への野望を鋭く見抜いていた!

    _って煽りが凄い好き!

    *

    R3.3/14, 11:52 子路 .

  2. トランプ支持にはショックと感動を覚えました。
    10年後のアメリカはトランプをどう評価するでしょうか。
    これまで書かれた作品の全集化やシリーズの続編の重要性は、私のような者にも理解できますが、国際政治やコロナやオリンピックや健康など、リアルタイムの諸問題における西尾先生の発言を渇望しております。

  3. 西尾先生

    是非、新しい作品のほうに勢力を傾注して頂きたくお願いいたします。
    漂流する日本に叱咤激励いただき、目指すべき方向をお示しください。
    お願いします。
     日本を諦めない78歳の青二才より

  4. >子路さん

    では、焚書図書開封は追加して全集に是非入れるべきというお考えですね。
    私もそう思っています。

  5. 西尾先生へ

    私は西尾先生の優れた翻訳の数々(特にニーチェ)に助けられて今も学を志しています。
    先生のこの度の呼びかけに、先生の一派に所属していない私も書き込んで良いものか迷いましたが、思うところがありますので述べさせてください。失礼を致します。
     
    私が先日に行った図書館は、行き場を失った老人が何人も、何をするでもなく椅子に座り、ただ呆っと、そのマスク姿はさながら病院の待合か、火葬場の参列者のようでした。その図書館の隅に、黒い墓碑のような全集が並び、そこは陰鬱として人の寄り付かない一角です。私はそれらを盗掘する時にいつも、言葉は生きる人間に受け継がれてこそ共に活きるものだと、感じるのです。
     
    先生の御仲間はどうして先生に御自身の墓石を磨かせているのでしょうか。
    出版社はいつから石屋になったのですか。
    御弟子さんたちはこれを酷く情けないことだと思いもしないのですか。
    私が何を言いたいのか分かる頭をみなさんはお持ちでしょう。
     
    先生。
    私が先生に願うものは生きる言葉です。今の冷え込む世界で老体だ病体だと言い訳をしている余裕はありません。若者さえ必死です。その若者が読むはずもない墓の都合などどうでもよろしい。墓もなく散る数十万の文士たちの前でまさか御自身だけ立派な墓へと逃げ込み万歳をするつもりはないでしょう。
    先生からの返信はないものと存じますが、私には先生と交わしたい言葉がいっぱいあります。

  6. 先生には
    (A)「全集継続には大変な労力を要します。少しでも多くの新しい未知の作品を書いて、残された全集化の仕事は後世に委ねたいとの思い」
    と同時に多分、
    (B)〈しかし、全集にはなるべく多くの作品を、 きちんと整理した形で收録したい〉
    とのお氣持がおありでせう。讀者も同樣です。

    「26冊の評論集・単著・書き下ろしの単行本を解体し、第21巻~第22巻の4冊に組み替え、編成し直」されたのは大變な手間と時間を要したことでせう。4册の新刊本を出す以上に心身のエネルギーを費やされたのではないでせうか。26册の全作品を讀んだ人が、全集の新しい構成に接すれば、きつと新しい發見があることでせう。さうだ、あの件とこの件は別々に考へてゐたが、實はかく繋がつてゐるのだと氣づいたり、思想がぐんと發展する場合もありさうです(私自身に、その恩典に十分浴せるだけの氣力と體力があるといふ自信は持てないにしても)。

    同時に私は、「新しい未知の作品」にもなるべく頻繁に接したい。たとへば、昨年の『正論』六月號「中国は反転攻撃から鎖国へ向かう」を私は胸躍る思ひで讀んで、えつ、鎖國か!?と、その意外さに驚きつつ透徹した讀みに納得しました。そして、久しぶりに自分も日本國民の一員たる自覺を感じ、年甲斐もなく血潮の滾る思ひがしました。

    昨今殷賑を極める”保守論壇”の常連なぞには、逆立ちしても書けるものではありません。 保守といへば反動と續き、惡の權化とされてゐた時代にも、その「反動」を曲げず、世の白眼に堪へてきた人にして初めて達した深みと瑞々しさ!『正論』には失禮だけど、他に竝んだ、千篇一律、同工異曲の論文がゴミのやうに感じられました。

    御自身の著作の中ではないが、「(かう言つたら、他の人たちはアタマにくるだらうが)『國民の歴史』一册を殘して、つくる會は終つた」といふやうな、鋭い觀察に基く、本質を衝く評言をも、もつと屡々發していただきたい。

    (A)と(B)は當然二律背反です。どちらに重きをといふ要望は讀者の年齡によつても違ふでせう。親馬鹿で恐縮至極ですが、我が子とその配偶者どもは、かなり西尾先生のことが分つてゐると感じ、その點、私はずつとしあはせでした。中でも、安倍前總理の中身のquite empty なることに、私より早く氣づいた一人に、自身の死後、『西尾幹二全集』を讓ることにしてゐます。

    彼の爲には、先生に、全集に力を傾注され、なるべく多くの作品を、組み替へも行き屆いた形でーーと希望します。そして、焚書図書開封も・・・。

    しかし、私自身としては、「新しい」方も・・・。ーー先生の體は一つです。結局、先生と版元で、多くの讀者の希望を汲んだ上、折合ひをつけていただくしかない。そんな當り前のことしか言へません。「残された私の時間は限られています」と仰せの先生より私自身の時間は、暦どほりなら、4年半多いことになります。そこが微妙で、複雜な心理があります。

    私が強く望むのは、多分22卷②に載る總索引の充實です。作品のタイトルのみならず、登場人物名、論評對象の名稱、あるいは、使はれてゐるユニークな言葉等々。例へば、ヴァイツゼッカー大統領、神社右翼、鴎外・ナウマン論爭、勞働鎖國、繩文・森林と岩清水etc。それらを能ふ限り蒐め分類して、讀者の便宜に供していただければありがたい(大層煩はしい作業ですが)。

    先生が○○といふ言葉を使つてをられた、魅力的なので、その前後を含めて引用したいのだが、論考のタイトルを忘れたーーそんなことがよくあります。昨年、あるブログに、鴎外の「ぢいさん ばあさん」のことを書かうとして、先生もこの作品を論じてをられたことを思ひ出し、それは多分扶桑社の『西尾幹二の思想と行動』全3卷で讀んだつもりだが、一通りめくつても出てきません。先生に質問するのは失禮だし、甘つたれるなと叱られさうな氣がして、さうはせず、どうせ、マイナーな場なのだからと、先生のお名前を出さず、記憶によつて、こんな風な説があるといふ程度の記述に留めました。きちんと引用すれば、もつと迫力が出たことでせう。そんな時、もしも全集の索引に「鴎外・ぢいさん ばあさん」といふ項目があればなどと期待するのは、贅澤も度が過ぎるのでせうか。

    故萩野貞樹先生の本には大抵、索引がついてゐて、私はこれを重寶しました。例へば、『旧かなと親しむ』で、 たしか私の、過去の助動詞「し」論に觸れて下さつたはずだと懷しくなつた時には、索引を見れば〈池田俊二 187・235〉と出てゐて、235ページを開けば、「・・・池田俊二氏は・・・完膚なきまでに批判してをられます。・・・」といふ目當ての記述に行き當ります。

    福田恆存の「乃木將軍と旅順攻略戰」の載つた單行本はほぼ見當がつくのですが、完全には覺えてはゐないので、2~3册を調べなければならない。それよりも全集最終卷の索引を見た方が早く出てきます。

    しかく、索引はこちらのニーズとうまく合つた際は、實にありがたいものですね。要望もその程度のものしかないので、以下雜談です。

    角川文庫判「こころ」(漱石)の、福田恆存による解説は私の大好きな文章なので、屡々引用しますが、全集の編輯者佐藤松男さんが、それを氣にして、私に「あれは全集に這入つてゐないね」と言はれたことがあります。

    全集といふものを考へるよすがとして、戰時下に福田恆存が書いた「荷物疎開」から數節を引用します。
    「書物はあきらかに一つの物品であります。が、同時に心をこめて讀んだ書物は僕の追憶そのものであります。一定の時期に一定の場所で讀んだ書物は、もとより傍線や書込とともに僕の精神の一部であり、僕の眼や指先を通じて僕の肉體と一定のかかはりをもたされてゐるものだといへませう。買つたまま讀んでゐない書物についてさへ、この種の關係がいつのまにか保たれてゐるのを發見致しました」
    「人の精神が緊張し、積極的に働きださうと動いてやまぬとき、僕たちは物質を必要とせず、物を邪魔にしはじめるのです。精神の激しい營みには物が不必要であるばかりでなく、障碍にさへなるのでありますーーと、かう僕は一應考へたわけでした」
    「書物を疎開するに當つて、僕はこの原理に從ひ片端から分類を始めました。のみならず親しい友人の藏書を含みに置いて、たとへ貴重であらうとも友人もまたこれを所藏せるものは、まづ最初に執着を斷つて然るべしとなし、疎開はおろか賣却の暴擧に出たのでありました。漱石全集、鴎外全集などはもちろんこの賣却目録の筆頭に擧げられました。必要とあらばいついかなるときにも手近に發見しうるからであります。申すまでもなく僕の行爲は輕薄きはまる過失であつたといふほかはありません」
    「書物は單なる物品ではないといふ平凡な眞理の發見がここに來るのであります。秋風落莫とはまさにこのことであります。漱石や鴎外の作品を僕が讀んだのはそれらの全集によつてではなく、大部分學生時代に文庫本や友人の全集によつて讀んだものであり、のちに仕事の便宜の上から一度に買ひ求めたのであつて、賣り拂つた舊版全集はほとんど僕の手垢のついたものではありませんでしたが、すくなくとも十年間僕の部屋の一隅に立ち竝んでゐたもので、それはもはや商品としての全集でないことはもとより、内容としての物ですらなかつたのであります。すなはち、それらは僕にとつて漱石その人であり、鴎外その人であつたわけです。僕といふ人間が僕の部屋の主人公であり、書は讀むべく用ゐるべく、僕の精神の部下であるなどと考へてゐたのは實に大それた偏見であつたといへます。『精神の糧』などと申す言葉がそもそも過ちのもとだつたのです。僕の如き凡下にあつては、精神が書物の價値判斷をなし、その存在を證明するのではなく、まさにその反對であつて、書物が僕の證しを立ててゐてくれたのでした。まづ僕といふ人間が存在してその精神が發展するために、書物を糧としたなどと思ひこんだらとんでもないまちがひで、その證據に僕は漱石全集や鴎外全集を失つてはじめて、それらの書物が僕を支へ形づくつてゐたものであることを知つたのでした」

    我が家は3DKの陋居ではありますが、西尾全集が全部揃つたら、なるべく上等な場所に鎭坐ましまして、私を支へて下さるやうに仕へるつもりです。

    因みに、私は漱石全集も鴎外全集も持つてゐません。それぞれバラで何册かあるだけです。文庫本がかなりありますが、一番多いのは古本の單行本。それらを次々と買ひ足してゆき、擧句はケチつて、全集を揃ひでは買はなかつたのです。大部分の作品は既に持つてゐるからといふ理由です。同じ作品が3册に出てゐたりして、結局は不效率で損をしたのでせう。

    自分が持つてゐる全集は、全部古本だが、上記の福田恆存全集全8卷のほかは、福澤全集(明治30年・時事新報社)全5卷、永井荷風全集全24卷(中央公論社版。岩波版は高いので、避けました)、小泉信三全集は買ひたかつたが、懷事情と、上記のケチ根性で諦めました(私のやうにケチだと、あの作家は大好きで、本が出る度に買つた。全集はそれとほとんどがダブる。だから買はないといふことになつてしまひますね)。西尾全集は、私には四つ目。新品では最初にして恐らく最後になるでせう。

    漱石全集には、漱石の藏書の中の書込みをも收録してゐて、その本の著者に對する漱石の手嚴しい批判は滅法面白い。例へばL .F.Ward:Dynamic Sociology.vol.1には、こんな書き入れがあるさうです。
    ○ 斯樣に門構の廣く玄關の立派な本は滅多になし。
    ○ 著者自身の廣告に釣られて段々奧の方へ這入つてみると、奧行は存外淺いものである。
    ○ 前置はえらいが、いざといふ場合になると大抵中途半端で已めて仕舞ふ。何處といつて肝心な處に徹底した處は少しもない。賣藥の廣告と同じく飮んでちつとも效目がなく見て大變えらさうである。
    ○ よくこんなに材料を竝べたと思ふ。さうしてよく是丈の事を何遍々々も重複して平氣でゐられると思ふ。普通の人が是丈の事を云ふならば少く(ママ)とも此十分の一の紙數で澤山である。

    こんなものが世に出ようとは、漱石自身は夢にも思はなかつたでせう。西尾先生の仰せのやうに、「後世に委ね」るのが本筋かもしれませんね。全集とは何か、少し考へてみるつもりでしたが、何の結論も出せませんでした。申し譯ありません。

  7. 西尾先生はじめまして。
    私見ですが全集にする作業は「全集」と「GHQ焚書図書開封」で揃えれば良いかなと思います。
    編集作業に時間を割されるよりも
    西尾先生が後世に伝えたいこと
    新しい言葉を、私は求めています。

  8. 初めまして、西尾先生。
    2年前、保守の真贋から読み始めた26歳の未熟者です。西尾先生の熱に触れ今や全集をゆっくりと今必要な事柄があったら該当する巻を買い読んでいます。国民の歴史は何巡も読み返しています。それほどに西尾先生の言葉は私が学生時代に疑ってきたことを如実に文字化して明確にさせています。

    今、懐疑の精神を拝読しております。
    読めば読むほど西尾先生も言っておられますが、100年以上前に語っていたキルケゴールの言葉が現になっていることを痛感させられため息が出ます。
    昨年、コロナという悪鬼のために亡くなられた方もいますが虚無感が身を襲い自ら死に至らしめた方はどれほどいるでしょう、自由は悪魔ですね。
    そんな只中で今回の西尾先生の書き続ける気概に平服いたし脱帽し涙しました、軽々しく言いますが、希望は自ら生み出さ無ければなりませんね。

    私は毎日エッセイを書いています、全集第9巻文学評論で書くとはどういうことかを学ばせていただいております。

    身を動かして得たものは本当の教養で経験だと自分の人生に思い馳せた時に心から思い、それを臆せずエッセイに毎日認めております。

    これからも書き続けて我々を未知に誘ってくれますよう、杜の都より希っております。

  9. >石田さま
    早速のコメントありがとうございます。
    今後トランプ氏は何をどうしていくのでしょうか。
    気になりますね。

    >森下廣さま
    78歳の青二才とはすばらしいですね。
    今後ともコメントよろしくお願いいたします。

    >サイト「批評界」の管理人さま
    全集が墓場とはちょっと悲しいですね。
    遺跡のようなものでしょうか。

    >池田俊二さま
    相変わらず、深く掘り下げたコメント、
    本当にありがとうございます。
    期待通りです。

    >鷹さま
    お若いのに、西尾先生の読者とは、
    うれしい限りです。
    どちらの場所で、そのエッセイを発表されているのでしょうか。

    1. ▶日録管理人様
      返信ありがとうございます
      西尾幹二先生の著書は学生時代から読まなければならないと思っておりました、うれしい限りと仰られておりますが西尾先生の気概に感謝しているのは私の方であります。
      これから社会を独りで歩く上での覚悟を見いだせるのではないかと思っていたのです。
      26年間生きてきて、周り抱く自由の考えと私が抱く自由の考えが全く違い前者は無秩序を求めてなんでも許されようとする態度が節度無く呆れますし後者は制約の中にこそ生に対する溌剌さがあると信じています。
      私より下の世代はもはや、遠い宇宙から降りてきた宇宙(そら)人ではないかと思う時があります。

      エッセイは本屋で買った中型のシルクのノートと安い万年筆で毎日書いているものですが、どこにも発表していません。
      現代のサブカルや硬い話題まで今日一日なんでも良いから思ったことを綴っています。

      全集第9巻文学評論で「プロの作家は何気なく生き話題がなさそうでも書けるものだ」とあり、拙劣ながら書いてみようと精進しているのです。
      ただ、ひとつ掟があります。
      それは人の愚痴を書かぬこと。
      書きたい時にはなぜ言われたかを客観的に見てそれを綴る日もあります、仕事の日なんかはそうですね。

      些事なエッセイに興味抱いていただき感謝致します。

  10. 世界擾乱 数年でチャイナの覇権になるのだろうか 日本は属国となり 魂は抜かれ(言語も失い) 孫、曾孫の時代にはウイグル、チベット、内モンゴルのように、同化されてしまうのか。コロナ化在宅にて日々そんなことを感じているこの頃です。

    GHQ焚書図書開封シリーズは 今日の世界情勢を考察するうえで大変重宝しているところです。7巻 「戦前の日本人が見抜いた中国人の本質」(長野朗) シナ人をみるの鋭い観察は その後出版された先生の「中国人国家ニッポンの誕生」(2014年)「中国人に対する労働鎖国のすすめ」(2013年)と、繋がり、昨年の正論6月号「中国は反転攻勢から鎖国へ向かう」~矛盾した4つの蛇頭(現在のシナ)~『この怪獣を倒さなければならない。これは米国の使命ではなのではない。日本の使命なのである。』(35頁) その警鐘にも納得します。倒すどころか 飲み込まれそうというのが現実でしょうが(怒)

     8巻、9巻「日米百年戦争」「アメリカからの宣戦布告」 台頭したアメリカ、それを見抜いていた日本人もいた(松岡洋右の国連での大演説)にもかかわらず、現在の日本ときたら、胆力のない腰砕けばかり。 政治も官僚も経済界も・・・ 

    ~~~
    池田さんの
    (A)「全集継続には大変な労力を要します。少しでも多くの新しい未知の作品を書いて、残された全集化の仕事は後世に委ねたいとの思い」
    と同時に多分、
    (B)〈しかし、全集にはなるべく多くの作品を、 きちんと整理した形で收録したい〉
    とのお氣持がおありでせう。讀者も同樣です。

    ~~~略~~~
    (A)と(B)は當然二律背反です。
    ~~~略~~~
    しかし、私自身としては、「新しい」方も・・・。ーー先生の體は一つです。結局、先生と版元で、多くの讀者の希望を汲んだ上、折合ひをつけていただくしかない。そんな當り前のことしか言へません。「残された私の時間は限られています」と仰せの先生より私自身の時間は、暦どほりなら、4年半多いことになります。そこが微妙で、複雜な心理があります。仰るとおりで 悩ましい。
    ~~~~~

    焚書図書開封は チャンネル桜 水島社長 徳間書店 編集 力石幸一さん 溝口邦夫さん 多くのみなさんの協力があったと。 さらに 
    2009年7月の別冊正論「遥かなる昭和」に 澤 龍氏のコメントを発見。西尾氏は熱心に閲覧を希望され・・ コピーされていたと・・この頃、澤氏 4千700冊ほど収集していたと。

    何が言いたいかというと 焚書はまだまだ 開封されていないものもあって(先生は誰かが引き継いで欲しいとも仰っているが) 収録するとなると 新たな書き足しの欲求?は容易に想像できると思います。 勝手にきめつけてはいけないのですが、  中途半端な作業とはならないでしょうから 枚数も相当になるかと。

    したがって 結論ですが、今野さまのご意見に賛同しつつも
    「後世に委ねる(池田さんか)」取り組みをお願いしたいと思います。

  11. 平成25年7月号 『正論』 創刊40周年記念連載

    戦争史観の転換 ―日本はどのように「侵略」されたのか
    第一章 そもそも アメリカとは何者か?

     平成27年3月号 近世ヨーロッパの新大陸構想 があります。
    私の手元にはこれしかありません。 

    これに続く 論稿(書籍)は あるのでしょうか? 
    全集に纏められていて 見落としとならば どなた様か ご教示頂ければ幸いです。

  12. 小池 樣
    先生による「GHQ焚書図書開封シリーズは 今日の世界情勢を考察するうえで
    大変重宝している」、そして、その續きが出る(できれば、全集にも收録)ことが望ましい。しかし、先生御自身がその作業に取り組まれると、「焚書はまだまだ開封されていないものもあって」「収録するとなると 新たな書き足しの欲求?は容易に想像できる」、つまり、相當長引く恐れがある。

    「先生は誰かが引き継いで欲しいとも仰っている」のだから、この件は「後世に委ねる」ことにして、「新しい未知の作品」に重點を置いていただきたい。ーー

    そのやうに貴意を受取つてよろしいでせうか。とすれば、この際、私は謹んで同意します。 先生の「開封」への熱意は存じてゐるつもりでしたが、「新たな・・・欲 求」ーー下世話に言へば、先生の「血の騷ぎ」までを深くは考へませんでした。流石に、先生の信頼厚く、先生をよく知る人の言と感じ入りました。

    ところで、貴論の冒頭「数年でチャイナの覇権になるのだろうか 。日本は属国となり 魂は抜かれ(言語も失い)・・・」に乘じて、勝手な方に進ませていただきます(お叱りは覚悟の上で)。

    私が恐れるのは、飯を食はせてもらへない(酒が駄目なことは勿論)で、餓死することです。李斯が始皇帝Juniorから受けた、恐るべき方法による死刑は知つてゐますが、私のやうに無害・無力の者がそれをやられる筈はありません。

    「魂」は既に拔かれたも同然です。「言語」も、今や、「現代かなづかい」などといふ、私からすると非日本語に附合はされてゐます。西尾先生が、「現代かなづかい」で書かれる文章が非日本語であると申してゐるわけでは、決してありません。

    この日録で觸れたこともありますが、私は過去に、先生の假名遣ひ論に異議申
    立てをしたことがあります。そのことを先生御自身がここに書いてをられますので、以下にそつくりコピペします。誠實にお答へ下さつてゐますが、流石にお忙しかつたのでせう、あまり御機嫌がよくありません。

    今、讀み返すと、よくぞこれほどポイントを押へてをられると感服します。先生の御意見は「明治政府が契沖を受け入れて、歴史的仮名遣いを『正則』としたことがそもそもの間違い」、それは「いっぺんに奈良朝にもどるというのですから」ーーといふことです。

    私は、契冲假名遣ひはもちろん完璧ではない、しかし、いかにもよく出來てゐる。そして、奈良朝以降の音韻變化にも對應してゐる。その意味では一種の「現代假名遣ひ」でもあると考へます。

    それだけの違ひで、先生も私も非日本語を目指してゐるわけではありません。
    假名遣ひなるものの定義では完全に一致してゐます。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    近況至急報告
               西尾 幹二  H16/04/17(Sat)23:28 No.85

     私はいま「江戸のダイナミズム」第18回の〆切り日直前で、睡眠時間は削れないので散歩時間をゼロにして、風呂に入る時間も惜しんでいる毎日であるため、気になりながら「橋本進吉」(二)が書けないままで20日近くが流れました。

     「江戸のダイナミズム」はあと3回で、体操競技でいう着地寸前にあり、着地に失敗すると大幅減点になりますので、いたく緊張しているのです。『古事記』と本居宣長と日本古代の文字表記をめぐる本に毎日没頭していて、イラク人質事件は人並みにバカらしいと思っただけでやり過しました。

     3人の人質は帰国後、自作自演が裏づけられたら、あるいは犯人側と密約をして行動したと判ったなら、逮捕されるでしょう。そう期待しています。報道ステーションの古舘は醜悪の一語です。(久米さんが懐かしい。オヤ?)

     間もなく紹介しますが、この20日の間に5月と7月に出す2冊の自著の整理と準備が入りました。5月から9月までに4冊の自著が出版される予定なので、たしかに異常な時間欠乏状態なのです。(日録本の第二弾もあります。)

     これとは別に、産経が7月から来年4月までに長期連載する「地球日本史」の執筆者39名と各人の論文のタイトルの選定が2月頃から私のコーディネーションに委ねられていて、今週これもようやく最終決着をみました。

     私の知友に池田俊二さんという方がいる話は前に何度も書きましたが、彼が旧仮名論者で、拙論「万葉仮名・契沖・藤原定家・現代仮名遣い」について、現代仮名遣いの原理的容認は原理的に不可能ではないか。なぜなら現代仮名遣いには、自己完結の原理はないのだから、という意味のことを言ってきました。私は時間がないさなかですが、大急ぎで彼にファクスで箇条書きの文章を回答しました。以下にご参考に供します。

    ===========
     池田様

     お察しのとおり時間がないときなので、略記します。私の考え方のうち一番肝心な点をあなたは故意に見落としています。

    1)現代かなづかいは仮名遣いに非ず、と私は言っているのです。

    2)現代かなづかいに仮名遣いの原理はない、ということを私も認めています。

    3)現代かなづかいは「はーわ、へーえ、おーを」を除いて音符に近づいている、と私は言っています。音符としても不正確ですが、ともかく仮名遣いであることをやめようとしているのです。

    4)万葉仮名の「音仮名」は音符に近い。先祖返りではないか、と言っているのです。(これは誰もまだ言っていないし国語学的に正しいかどうかも私には分りません。しかし橋本進吉理論を追及するとそうなります。)

    5)仮名遣いは、乱れ、不正確、不統一が宿命なのです。橋本氏の言うとおり、音は動き、文字の書き方は簡単に動かないからズレが生じる——それが仮名遣いだからです。

    6)どこまで「乱れ、不正確、不統一」を許容するかの問題なのです。

    7)漢字仮名交り文では、仮名の表意性の必要は平安より鎌倉へ、鎌倉より江戸へとどんどん減っていきました。漢字が表意性を守っている現代において仮名の表意性はどこまで必要か。

    8)もう一つ今まで言っていませんでしたが、明治末年生まれの私の母は変体仮名を多用し、私が読めなくて困ったことを『わたしの昭和史』で書きました。母はえを「江」ともかき、には「尓」とも、のは「乃」とも、他にもいろいろありました。一音一字の定めが政令できめられたのは明治三十三年でした。

    9)あなたは戦後政府に反感をもっていますが、私は明治政府も同じくらいおかしい統制狂だと思っています。仮名遣いは江戸時代の不統一のまま、21世紀まで放置すべきでした。そうなれば落ちつくところに落ちついたはずです。

    10)仮名遣いは「乱れ、不正確、不統一」が『常態』であるという認識が世間一般の常識でありつづけるべきでした。

    11)明治政府が契沖を受け入れて、歴史的仮名遣いを『正則』としたことがそもそもの間違いだったと私は漠然と予感しています。無理強いは破れるのです。いっぺんに奈良朝にもどるというのですから。

    12)福田先生とはまるきり考え方を異としています。私は福田氏に盲從する弟子ではありません。

    13)ただ私は、仮名遣い問題は考え始めたばかりで、徹底して勉強していません。これから残りの人生で考えを煮つめるかどうするか、今の処分りません。

    14)『諸君!』6月号では仮名遣いの問題はもう出てきません。

    ご無礼いたしました。
    不一

  13. (前項に追加)前項の最後に、肝腎の全集のことを書き忘れました。

    先生の私に對するお答は、『諸君!』連載中にいただいたものでした。今、全集第20卷を丸ごと占めてゐる「江戸のダイナミズム」は、この連載からストレートに移されたのではなく、主として2007年1月に發行された單行本に基いてゐると思はれます。從つて、もし、あのお答に興味をお感じになつた方は、第20卷の

    第十七章 万葉仮名・藤原定家・契沖・現代かなづかい(335ページ)

    を再讀していただければさいはひです。

  14. 月刊「Hanada」編集長花田紀凱氏が、令和元年(二〇一九年)七月刊行の「西尾幹二全集」第十九巻月報に「未来の年表」という文章を寄せている。二〇〇八年頃、「西尾さんが、鞄から嬉しそうに一枚のコピーを取り出した。見ると『私の計画(残りの人生の)』と書いてある」というエピソードが紹介され、その「私の計画」の内容は次のとおりである。
    「国民の歴史 現代篇」
    「ニュルンベルク裁判と東京裁判比較研究」
    「江戸のダイナミズムからの継承テーマ」
    (1) 日本の天皇と中国の皇帝
    (2) 柿本人麻呂論
    「ゲーテとフランス革命」
    「昭和のダイナミズム」
    「ニーチェ 第三部」
    それぞれの計画について西尾氏の補足的な言葉が付されていたことが花田氏の文章で分かるが、ここでは省略する。ただ、「国民の歴史 現代篇」の「基礎作業」として「GHQ焚書図書開封 2月よりTV文化チャンネル桜で放送開始」と書かれていることには触れておきたい。同シリーズ第一巻の刊行は二〇〇八年六月である。
    「妻に見せたら、あなた、齢も齢なんだから無理しないで下さい、と言われましてね」と西尾氏は言い、対する花田氏は以下の言葉で一文を締めくくる。
    「いつまでもお元気で、ぜひ、この計画をすべて実現していただきたいと切に願う」。
    西尾氏の読者は等しく同じ思いであろう。これはなんとも魅力的かつ刺激的なリストである。ただ、今回の西尾氏の呼びかけに応じて、一読者として優先順位をつけてお答することは許されるであろう。当方は「柿本人麻呂論」と「ゲーテとフランス革命」を同着首位とさせていただく。
    ちなみに「ゲーテとフランス革命」について妻の意見を徴したら(当方以上に無学である)、「『ゲーテとフランス革命』はみんな読みたいと思うはず。ゲーテがいかにフランス革命を見ていたか興味津々だし、日本でフランス革命を崇めている人たちへの教育効果はとても高いと思う」という趣旨の推薦理由であった。日頃の当方の発言への感染が認められる。西尾氏はエドマンド・バークと違う論理の展開を示すことだろう。エッカーマンの「ゲーテとの対話」は氏の愛読書だったはずだ。
    当方が「柿本人麻呂論」にも惹かれるのは、今まで書かれることのなかった西尾氏の詩人論、詩論が、古代のこの日本最高の詩人を相手取り、「詩と古語と文字と音のテーマ」(上記西尾氏メモの補足文)をめぐる書物として出現することに蠱惑(こわく)的なものを感じるからである。
    確か、西尾氏はチャンネル桜でもこの話をされたと思うが、奥様はその計画達成には二百歳までの長寿を必要とすると卓抜なことをおっしゃったと記憶する。

  15.  20冊まで出て、その後はどうなっているのだろうかと、思っていました。本棚の一番上に2冊分のスペースを空けて待っていました。4冊になって発売されるのですね、安心しました。「焚書開封」は収めないということですが、それで結構かと思います。「開封」シリーズは3冊まで買って、あとは購入してません(チャンネル「桜」でずっと視聴はしていました)。1冊目の総論部分はいいとしても、残りはほかの著作と比べて異質だからです。
     私は、西尾さんの最高傑作は「ヨーロッパ像の転換」だと思っています。月刊誌に連載されているときは、よく理解できませんでしたが、1冊の本になって通読すると、そのすごさがよく分かりました。三島由紀夫が「日本人が初めて書いた『ペルシャ人の手紙』だ」と推薦文を書いた理由が理解できました。
     西尾さんの著作はほとんど買って読んでいますが、若いころは本が出るのが待ち遠しいものでした。しかし、年をとるにつれて、そいう情熱もなくなりました。これもいたしかないのかと思います。

    1. 「 憲法改正とは何か」

      「筆は一本。箸はニ本」の齋藤緑雨先生の穩當な御意見が載つてから二十日近く、後が續きませんね。
      私自身は疾うに責めを果したので、この隙に、別種のものを潛り込まさせていただきます。お許しを。

      最近、關野通夫さんから、前宮崎大學准教授 吉田好克氏を紹介され、その著『續・言問ふ葦』を贈呈されました。關野さんは、吉田先生と私が、舊假名を使ひ、カール・レーヴィットに觸れたといふ二點で共通することに興味を感じたらしい。その後、吉田先生とはメールのやりとりはしてゐるが、最近やたらに俗用が殖えたために、肝腎の御著書の方はさつぱり進まない。拾ひ讀みして、斷片的感想を一度お送りしたのみ(渡邊望さんの『西部邁ーー「非行保守」の思想家』も入手したものの手つかず)。

      昨日、關野さんから次の、標記の題のメールが小生にも(CCとして)きました。以下、その後のやりとり。

           ☆        ☆        ☆

      吉田好克先生

      先生のご著書のこの辺まで読みましたので、私の日本国憲法観をお送りします。
      日本にあるほとんどの憲法改正論は、「似非改憲論」で、それらを実施すれば、日本は永遠に属国状態になります。現状は、まだ無作為に何もしてないから属国状態でも、「何もしてないから、まだ属国状態なのだ」と言い訳できますが、間違った改憲をしてからでは、自ら選んだ道ということになり、属国状態は自分が選んだ道ということになります。今の日本人で、降伏から「日本国憲法」成立までの過程を正確に把握している人は、ほとんど居ないのではないかとのではないかと想像します。ポツダム宣言が出て、日本から、せずもがなの質問をし、バーンズ回答が出てしまい、日本は天皇陛下以下全員、独立国民として憲法を制定できる権利などなく、30項目の報道規制があって、言論の自由もないときに制定されたと称する、ハーグ陸戦条約43条にも違反した「日本国憲法」など、どうして、合法的に制定できるたことになるのでしょう。9条以前に無法なものです。1項がどうした、2項がどうしたなどと論じるのは、いかにも多神教論者
      の民が考えることで、すべて一神教の欧米国民には考えられないことです。長く日本に在住するモーガン・ジェイソン(Jason Morgan)氏も、「9条が悪いだけではない全部悪いのだ、さっさと破って捨てろ」と言っています。なお、私は、宗教的には、多神教です。

      また、「憲法改正」という、内容お構いなしの話も雑な話です。属国法ベースに少々いじっても、真の改正にならないのに「憲法改正」と叫ぶ「憲法改正」なら、私は反対です。

      関野通夫

              ☆         ☆        ☆

      關野 樣 吉田先生

      關野さんの憲法論はよく承知してゐるつもりで、ハーグ陸戰條約違反→無效→破棄すべしに完全に贊成です。ただし、「似非改憲」でも、瞞し瞞しやつてゐるうちに、破棄→純國産と完全に同じものになるやうな道があれば、紆餘曲折を必ずしも避ける必要 はないかもしれませんが、そんな道や構想が示されたのを見たことがありません。モーガン・ジェイソンが「さっさと破って捨てろ」と言ふのが當然です。一神教だらうと多神教だらうと、狂つてゐない限り、それ以外にありません。そして、「間違った改憲をしてからでは、自ら選んだ道ということになり、属国状態は自分が選んだ道ということになります」は理の當然です。

      吉田先生の御著の第一部「安倍首相の加憲は改惡である」の「そんなことをすれば、自 衞隊を改めて『矛盾の存在』として位置づけてしまひかねず、それは九條の『改惡』になりかねない」は、上の關野説の延長線上にあるやうな氣がします。

      餘談ですが、私は産經の「正論」は、西尾先生の文章以外讀みませんが、百地章氏の「誤解している向きもあるようだ」は微かに覺えてゐて、筆者に輕蔑を感じたやうな氣がします。恐らく全文を讀んだのではなく、その數行を見ただけだつたのでせう(吉田先生の尊敬する百地氏をこんな風に言つて申し譯ありません)。

      第二部 第10囘「どうかしてゐる安倍政權」の「第二項を削除しないのなら無意味どころか却つて自衞隊を『矛盾の存在』として、固定してしまふ・・・」「眞の改憲のために安倍政權や自民黨は9條制定の經緯を國民に知らせるべきなのだが、さういふ努力を全くしな い。移民受け入れについても、勞働意欲のある日本人の就勞を促進する方策を追及せずに外國人勞働者に頼らうとする。加憲論と同じ構造ではないか。やるべきことをやらずに、短兵急に事を運ぶ」には勿論完全に贊成ですが、就中「同じ構造」はよくぞおつしやつて下さつた、我が意を得たりの思ひです。

      本質を必ず避ける、もしくは逃げるのが、安倍さんの性向です。人口が減つてくるのだから、それに應じた社會構造・産業構造にしなくてはならない。その青寫眞を描くのが政府の役目ではないか。それをせずに、昔どほりにやれ→人手不足→當面外國人で補へ→日 本人の賃銀は上らず、異分子を抱へた社會は變質してぎくしやくとーー有史以來、日本人だけで、時々の人口規模に見合つて適正な社會を形成して生きてきて、奴隸や外國人を使つた經 驗が ない日本といふ國の政府として、あまりにも無責任で、亡國を促進してゐることが安倍さんには分らないのでせう。我が長女の旦那は、三代目として特養ホームを經營してゐて、元來外國人勞働者受け入れ絶對反對でし たが、よそが皆入れてゐるのに、自分のところだけ頑張つてゐては、確實に潰れるので、この數年ヴィエトナム通ひをしてゐます。當面はつぶさずにすみさうだと安堵してゐるやうですが、先の話になると苦しさうな表情を見せます。まあ、私としても、身内のことに觸れたくないし、メインテーマではないので、省きます。

      一事(二事?)が萬事、本質を見ない、考へない、手を觸れないのが、安倍さんに代表される自民黨の基本姿勢です。その由來は關野さん發掘のWGIPでせう。その猛毒にやられてゐる安倍さんと、同じく猛毒に痲痺してゐる國民だからこそ、3項論だの戰後70年談話だのが出てくるのでせう。どちらかがまともなら、あんなふざけた話になるはずがない。假に出ても、國民の半分くらゐがまともなら、烈火の如く怒り、安倍さんは八つ裂きにされるに違ひありません。どちらも狂つてゐればこそ・・・。

      安倍さんに拔き難いのは、戰後70年談話に出てくる「普遍的價値」で、「日本人の價値」の上に、さういふ絶對的ものがあると信じ込んでゐて、一々そちらにお伺ひをたてなければ何も決められず、何もできない。それが憲法の「人類普遍の原理」からきてゐることは言ふまでもありません。

      かういふ中毒患者に效く藥や治療法はないのでせうか。覺醒劑中毒から脱け出すのが如何に大變か多少聞いてゐますが、あれ以上に難しいのでせうね。だつて、覺醒劑の方には中毒の自覺があるのに、安倍さんには自覺皆無なのですから。

      「陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない」といつた文言が自國憲法に這入つてゐると意識したら、屈辱にワナワナと揮へるのがまともな國民でせう。そこに理屈はいりません。外から押し附けられただけならともかく、今や捨てようといふ意志すらない。國民總中毒、總發狂状態で、世界無比の現象でせう。

      西尾先生の主宰される坦々塾でも、大勢は似たやうなもので、先生の裏方を自認する人が、ブログで「2項で ”保持しない” といふ戰力と、3項で規定する自衞隊の關係は・・・」などと眞劍に考へてゐるのを見て吹き出したことがあります。これでは、西尾先生も「こんな國は地獄に墮ちるだらう」との御託宣を下さゞるをえないでせう。

      どうすればまともになるのか、私には分りません。關野さんの正論を倦まず弛まず訴へるのが近道か、それとも、他に、奇策でも虚假威しでも、有效な手があるのか。お二人の御意見を伺ひたいものです。

      安倍さん(自民)も、國民も狂ひ、その間にあつて商賣する言論も當然狂ひ(前二者に合せなければ商賣にならないのですから、しかたがないのでせう。私は彼等を賤業保守と呼んでゐますが)、3項論をおし戴き、襃めそやす。西岡力、櫻井よしこ、etc-ー ”保守 ”の99%までがさうだつたのではないでせうか。西尾先生、吉田先生以外で、あれを非議した人を御存じでしたら、お教へ下さい。

      次は、昨日、石原萌記についての資料として『自由』平成20年2月號の座談會コピーを送つてくれた坦々塾の仲間(年齡は多分、吉田先生と同じ)に出した禮状の一部です。
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      私がもの心ついた頃は、岩波の『世界』が全盛でした。穢らはしく
      て一度も手に取つたことはありませんが、新聞廣告で見ると、何か
      の特輯があると、10名も20名もの進歩的文化人が蝟集して、如
      何にいい商賣なのかがよく分りました。『世界』から變化・發展した
      のが、今の『正論』』『 WiLL』『HANADA 』で、これに寄
      生する連中は、進歩的文化人から保守派言論人と看板を塗り替へたの
      でせう。

      貴兄はそれを「ヒマに任せて拾ひ讀み」? お疲れさまです。千篇一律、
      同工異曲、中身は讀まずとも分るのではないですか。私は西尾先生以
      外は讀みません。先生は滅多に登場されなくなりましたが、あの腐れ保
      守と決定的な喧嘩はなさいませんね。相手にしても意味なしとお考へな
      のでせう。昨年暮、私が例によつて、櫻井よしこを罵つたら、あんなもの
      讀む必要ないよとはおつしやいました。
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      まあ、連中(嘗ての進歩的文化人、今の保守派言論人)は基本的には魯鈍だし愛國心もありませんが、なにしろ生活がかかつてゐるので、世の趨勢にはとても敏感です。風向きの變化を察知すると、さつと反應し、左→右でも右→左でも、自由自在に移動します。そこに躊躇、羞恥といつたものは全くありません。進歩的文化人の民族大移動もさうですが、戰後の平和運動のリーダーのほとんど(全員と言ひたいくらゐ)は、大東亞戰爭の理論的指導者たちの横滑りでした。名前が變るだけで、基本的構造はずつと同じです。

      ですから、關野さんや吉田先生が彼等に働きかけることはあまり意味がないのではないでせうか。彼等は風向きを決めるのではなく、風向きに忠實に從ふのですから(ただし、一旦決まつた風向きを加速することには、彼等も力を發揮します)。

      風向きを決定するのは、最後は民衆です。彼等が怒濤のごとく動き出したら、それで決まりです。ヒトラーはそれを心得、「民衆は馬鹿だから、同じことを何度も繰り返して教へてやらねばならない」とうそぶいて、それを實行しました。私はドイツ語ができませんが、ヒトラー演説の字幕を見てゐると、彼がその信條を忠實に、巧みに實踐したことが、よく分ります。そして、演説に醉ひしれ歡喜する民衆の表情、感激のあまり泣き出したり卒倒する御婦人・・・。ヒトラーは大成功を收めました。

      アジテーターを自任せられる關野さん、如何でせう。貴兄に今更ヒトラーになれとは申しませんが、最後に向きを決める主體を見極められた上で、吉田先生とも協力され、そこが雪崩を打つて變化するやうな、決然たる働きかけを期待します。

      最後に、「日本國憲法」についての私事をーー
      吉田先生がお生れになつた年に、私は(關野さんも)高校を受驗しました。あの頃は、試驗問題(社會科)に、次のやうな問題がよく出ました。
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
      次の日本國憲法前文中の□に正しい文字を入れよ。

      日本國民は、(イ)□□の平和を念願し、人間相互の關係を(ロ)□□□□崇高な理想を深く自覺するのであって、平和を愛する諸國民の公正と(ハ)□□に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、專制と(ニ)□□、壓迫と偏狹を地上から永遠に除去しようと努めてゐる國際社會において、名譽ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の國民が、ひとしく(ホ)□□と缺乏から免れ、平和の内に生存する權利を有することを確認する。

      答 (イ)恒久 (ロ)支配する (ハ)信義 (ニ)隸從 (ホ)恐怖
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
      從つて、私は受驗前、前文や9條を暗誦しました。おかげで、忌ま忌ましいことながら、今でも9條は宙ですらすらと言へます(流石に、前文全部は無理ですが)。今なら、顏を赤らめずにはゐられない文言も、反撥なく言へました(「深く自覺するのであって」などは調子をつけて覺えました)。

      そして、5年後の60年安保では、私はあのワッショイワッショイを憎惡と輕蔑の目で見てゐました。みんなが同じふやけ面で、同じ歌をーー死んでも、連中には加はらないぞと決心しました。この5年間が自我の芽生えと定着期だつたのかもしれません。西尾先生と比較するのは僭越ですが、先生が、サルトルは絶對に讀まないーー何故なら、他の人々が皆讀むからといふだけの理由でーーと決められたのと似た部分もあるかもしれません。とにかく、自他の違ひについての意識が全てと言つてもいいほど強かつたですね。

      ですから、あの頃の西部邁さんが演説したり、聽衆と共に泣いたが、自分の言葉を信じてゐなかつたといふニヒリズムなどと説明されても、今でもさつぱり理解できません。永六輔といふタレントがワッショイに加擔したゆゑに、彼が死ぬまで輕蔑しましたし、村上元三といふ時代小説家が「安保(改定)に反對しないから、人間ではないといふことはなからう。だから、自分は反對しない」と言つただけで、尊敬しました。

      9條讚歌合唱隊にも決して加はりませんでした。あんな連中と同じ歌がうたへるかといふ思ひですが、あの、とても國語とは言へない歌詞の醜惡さにも完全に氣づいてもゐました。そして、昭和40年頃、新米編輯者として、ある評論家と對談した際「大江健三郎とかいふ作家は、” 主權在民”だの” 戰爭放棄 ” だのが自分の日常生活の最も基本的なモラルである、と言つてゐるが、僕らから見れば、
      氣違ひの寢言としか評しやうがないですね。時流に媚びようといふ氣持もあるのだらうが、それよりも、繰り返し吹込まれるとほんとうにそんな氣持になつてしまふのでせうね」と言ひ、評論家は「本氣の連中が多いことは間違ひない。本氣が一番困る。それを改定にまでもつてゆくのは、氣の遠くなるやうなことだね」と相槌を打つてくれてゐます。つまり、世の中も私の考へも、50餘年後の今と全く同じです。序でながら、大江ほど世間の風の吹くままに動き、氣障と嫌みで練り固めたやうな男は珍しかつたですね。

      自分のことに戻ると、まあ、素直でなかつたのでせう。母が「お前が子供の時、何かさせようとしたら、その反對を言ふことにしてゐた」と申しました。たしかに、人が右と言へば左、左と言へば右と返すひねくれ根性は自覺してゐます。坦々塾で、何かの記録を私にやらせようといふ提議がなされた時、西尾先生が即座に、「いや、池田さんは素直でないから駄目だ」と却下された時は、流石に嬉しかつたですね、先生よく私を見拔いて下さつてゐる!

      その先生と轉向論を交したことがありますが、先生は私の何倍も宏量です。まあ、さうでなければ、有象無象も雪崩込んできた「つくる會」の會長など務まらなかつたでせう。60年のワッショイはともかく、三島由紀夫が割腹した翌年の松本樓燒打ちに加はつた、過激派のチンピラですら、今害をなさなけば・・・。

      まあ、もとは歪んだ根性のせゐでも、「日本國憲法」をありがたがる人々よりも、これに拒絶反應を示す私の方がまともな日本國民だと確信してゐます。私が如何に偏頗であるにしても、この件に關する限り、狂つてゐるのはあちらです。「われらの安全と生存を保持しようと決意した」なんて烏滸がましい、「保持させて下さい」と言ふべきだと指摘した福田恆存の言語感覺が正常なことは申すまでもありません。護憲論者には、もともと狂ふほどの感覺があつたのでせうか。

      關野さんは今、我等高校同級生の文集編輯委員です。本來、4年前發行される筈で、その任を引き受けてくれた人から、私の原稿にクレームがつきました。テーマは關野さん發掘のWGIPと、その前段の、日本の近代が西洋文明の輸入をあまりにも急いだため、目も眩まんばかりの成功を收めた反面、社會に歪みが生じ、本來の日本人の能力・感覺を鈍らせたり狂はせたことを、あのレーヴィットの1階(個人の日常)・2階(公的な場)論で説明しようとしたのです。ところが、擔當者と議論してみると、その人は「世界に誇る平和憲法」との意見で、60年以上前に習つた説を堅持してゐて、私の言ふことが不屆きとの仰せ。なにしろ、同窓會長も務めた立派な人だけに、こちらはボツの宣告を甘んじて受け入れました。

      その際、擔當者と關野さんを比べて、更に、我が父と叔父を比べて可笑しくなつたことがあります。擔當者は造船學科。關野さんは航空學科。我が父は造船學科。叔父は航空學科(しかも關野さんと同じ本田技研勤務)。拙稿をボツにした擔當者よりは關野さんの方がマシだ。そして、言ひたくないことだが、私は父よりも叔父が好きでした。父にはいいところもあつたが、どうも分らず屋だつた。根源的な議論にまともな反應をしない傾向があつた。分らず屋は造船屋の性か。そして、飛行機屋は常に理解力があるのかーーそんなことは言へませんね。造船屋の擔當者が體調を崩されたとかで、それはお氣の毒ながら、發行が大幅に遲れ、關野さんら數名が後を引き繼いでくれた結果、拙稿がボツを免れる可能性も出てきたのかもしれません。

      それはどうでもいいことですが、關野さんは、憲法についての、文章を主とする活動で、この舊擔當者のやうな、積年の9條信者をも對象とされるのでせうか。御自身でお決めになることですが、小學3年の時、既に日本國憲法は戰時國際法違反だと知つてゐたといふことによつて、私を驚かせた關野さんだけに、その盡力が最も效果的に働くやう祈ります。

      池田 三寸

             ☆        ☆        ☆

      池田俊二様

      「似非改憲」は、一度やってしまったら、日本人は二度と憲法を論じないのではないでしょうか。それくらいなら、イギリスのような不文法のほうが良いのではないかと思うことが度々あります。

      「日本国憲法」については、父に国際法違反を小学校3年で教わって、中身のいちいちを問題にしなくなりました。それより、日本人が、日本語を大事にしないのにはあきれます。「両性婚」などという言葉は日本語として成り立ちません。そんな言葉を、よくしゃあしゃあと使いますね。

      私は、前のブックレットにも書きましたが、工学部の実験屋なので、思想が元より、事実がベースで物をいうので、つくる会内の共産党アレルギーの人とは結構ぶつかります。

      関野通夫
            ☆        ☆        ☆

      関野通夫先生    池田俊二先生

      かなり重い主題でメールを戴きましたので思はず考へ込んでをりますのと、短いものですが某所に出す原稿を推敲中であるところに、当地で仲良くさせて戴いてをりますMさん(熊本幼年学校48期、宮崎偕行会前会長、91歳)の奥様が昨日逝去され、今夜が通夜、明日が葬儀となり、Mさんのご年齢もあり、私が色々とお手伝いをせねばなりません。従ひまして、頂戴したメールへのご返事は今しばらく猶予をお願ひ致します。
      吉田好克

               ☆               ☆                ☆

      吉田好克先生(CC・池田)

      大変重要な話題ですから、ごゆっくりどうぞ。

      一つ付け加えますと、これは京都の弁護士さんが目の敵にする人でありますし、私も
      この論に賛成するわけではありませんが、この論が出てきた事情は理解できるのは、
      今回先生にお送りした論を理解していれば、他のどんな護憲論も、まったく論理的に
      成り立たないことを理解して、論理的に成立するのはこれしかないと考えたのが、宮
      沢俊義の8月15日革命論だと思います。東大法学部を一時期支配した宮沢学派を目
      の敵にするゆえに、関西の人は宮沢理論を目の敵にするように見えてしょうがありま
      せん。

      なお、私は、理工系の人間なので、文系の方が持つ素養は非常に少なく、文系の方
      が、世界的な文学や哲学の本を読んでおられる間、私は、微分・積分だとか熱力学を
      勉強していたので、皆様のような分野では浅学菲才であることご理解ください。

      関野通夫

  16. Wikipediaで西尾先生の代表作として以下が挙げられており、なるほど、こういったものが多くの人々の心に残ったかと個人的にも同感で納得しました。
    『ヨーロッパ像の転換』(1969年)
    『ヨーロッパの個人主義』(1969年)
    『ニーチェとの対話――ツァラトゥストラ私評』(1978年)
    『人生の価値について』(1996年)
    『国民の歴史』(1999年)
    『江戸のダイナミズム』(2007年)
    『GHQ焚書図書開封』(2008年)

    上記以外に印象に残ったのは以下です。
    『悲劇人の姿勢』新潮社, 1971
    『懐疑の精神』中央公論社, 1974
    『ソ連知識人との対話』文藝春秋 1979、中公文庫, 1986
    ★『日本の教育 ドイツの教育』新潮選書 1982
    『戦略的「鎖国」論』講談社 1988、講談社文庫, 1992
    『全体主義の呪い 東西ヨーロッパの最前線に見る』新潮選書 1993
    ★『異なる悲劇 日本とドイツ』文藝春秋 1994、文春文庫, 1997

    個人的に繰り返し読んだのは★印でした。
    扶桑社から2000年に出た『西尾幹二の思想と行動』は以下の3つで構成されます。
    「1.ヨーロッパとの対話、2.日本人の自画像、3.論争の精神」
    まさに、この3つに西尾先生の作業は分類されると感じました。1はソ連や韓国、米国(強い異議?)などとの対話?につながります。西尾先生の国際性を象徴していると言えるでしょうか。

    2は古代から現代までをターゲットにしており興味深いです。他国を自国を映す鏡としながらも、自国を映すべき真正の鏡は自己の中にしかないというような力強い意志を感じる著作の構成です。本業といってよいのか、ニーチェの作品も翻訳含めて素晴らしいものです。
    私などでは到底一筋縄でいかないのが、最後の「3.論争の精神」。
    少しでも期待できそうな保守のホープ(政治や経済、社会の分野で特に限定しませんが)を冷静に育てるという西尾先生の意欲を中曽根時代から(中教審報告から大学改革へ等)感じられましたが、途中から、もう匙を投げられて、舌鋒鋭く自称保守を糾弾しながらも、多くの日本人にその声が届かなくなってしまいました。
    (たとえば普通の社会人は、「反米の気概は理解できるが、北朝鮮や中国に対抗するには米国と現実的に提携しなければならないという目の前の現実政治を優先するため、西尾先生の微妙なニュアンスは実践しがたいと考えるのでしょう)
    ですので、大変恐縮ですが、三嶋由紀夫が最後に謎を残したように西尾先生も晩年に謎を残そうとされているのかと感じたほどでした。

  17. 關野様

    「間違った改憲をしてからでは、自ら選んだ道ということになり、属国状態は自分が選んだ道ということになります」と仰いますが、「1952年から改憲をしないで属国状態69年」も日本国民とその代表する政府が自分で選んだ道ではないでしょうか。本質的な違いはないと思います。苟も民主国家の看板を掲げていますから、少なくも外国からはそう見られるのではないでしょうか。自民党憲法改正推進本部長だった保岡某が、辻本清美との仲良し対談で、「17年間ずいぶん長い時間をかけて議論してきた」と自慢していましたが、GHQが1週間で書いた憲法の対案を69年間もまとめられなかったのです。この対談で辻元が3項追加の矛盾を突き優勢な議論を展開していました。

    池田様

    松本楼焼討は覚えています。左翼系の事件と報じられていましたが、意外でした。

    「政治は国を滅ぼし文学は人を滅ぼす。誤らずんば幸いなり」と確か緑雨が言いましたね。本質に手を付けないで9条加憲などの弥縫策でお茶を濁す、賤業保守が追従し、売国リベラルがほくそ笑むといった現実が政治であり、ガラガラポンの明治維新以来、山県公の政治も含め、全て「政治」が罷り通り、挙句に日本を滅ぼした、一旦滅んだ日本は、占領軍により、二度と立ち直れない猛毒によって未だに亡国のまま。米国は北の核を敢えて除かず、その核に日本を怯えさせ、日本駐在の米軍に膨大な経費を貢がさせ、日本国民はこれに満足し、「行かないで。守って。」と懇願する国柄になっています。憲法論議はもう一度ガラガラポンのクーデターでも起こさない限り決着をみないでしょう。

    4年前のプライムニュースで保守派代表百地章、東大の憲法学者で護憲派代表石川健二と井上達夫の3人が「憲法9条自衛隊明記を問う」で討論したのを思い出します。この番組で石川は井上にその護憲論の化けの皮を剥がされましたが、百地も同様に井上に、「いまやらなければならないことは自衛隊を「憲法上認知する」のではなく、憲法上「戦力として認知する」ことである。たとえ憲法上認知されてもそれが戦力としてではなく警察力として認知されるに過ぎないなら、海外での戦闘では交戦法規適用の対象となる自衛隊は敵と互角に戦うことができない。すでに自衛隊はスーダン、イラクに派遣されており国際法上、交戦法規が適用される団体であり、多国籍軍の指揮官の指揮命令下に入りながら、警察だと主張すること自体おかしく、これが問題の一番の根幹である。朝鮮半島有事には国内戦をも想定しなければならないが、その場合も軍隊として戦うことが出来ない。自衛隊員の名誉を重んじるなら「戦力=軍隊」として認知しなければならない。安倍改正案では武器使用が限定されたままである」と論破されていました。井上は石川を批判して、「自衛隊を専守防衛・個別的自衛権に限定して認めるが、存在そのものが違憲だと烙印を押し続け、正統性を剥奪することによって自衛隊の肥大が止められる、というのは憲法論ではなく、政治論そのもの。自分の望む政治的選好を維持するための方便として憲法を使っている。違憲の自衛隊もこのレベルなら丁度いいから凍結しろと言っているに過ぎない。これは憲法を守ることではない。憲法論として意見を徹底するなら、「自衛隊の廃止」を要求し、または「武装解除し災害救助部隊に改組しろ」と主張すべき。違憲の烙印を押すならビタ一文国家予算を自衛隊に使うなと言うべき。烙印を押し続けながら予算がGDP1%以内ならいいというのは本気で自衛隊廃止を望んでいないことになる。欺瞞ではないか」これに石川は反論出来ませんでした。

    井上は、「現行憲法は泣いている。右の改憲派に虐められ、左の護憲派にも裏切られている。政治家や知識人の欺瞞を振り払って日本の立憲民主主義を国民が取り戻すべき。小難しい憲法解釈論に終始して実質的安全保障政策の議論が進まないのは時間の無駄である。改憲派が政治的欺瞞だとすると、護憲派は憲法論的欺瞞。憲法を擁護しているように見えて実際は形骸化させている。改憲派よりも護憲派の欺瞞の方が根深い。9条は1項も2項も削除。1項の侵略戦争禁止は国際法で規定され、憲法98条で国際法と条約遵守が謳われ、前文にもあるので不要。侵略戦争が出来ないのは当たりまえ。問題は日本の自衛のためどのような安全保障体制を採るかである。この安全保障政策は憲法で固めてはならず国会で決めるべき。どのような安全保障政策であれ濫用されるから、戦力の設置、組織編制、戦力の行使手続きを統制する制度的統制規範を憲法で固めなければならない。安全保障のあり方は、国民全体の利害に関わる政策課題であり、憲法で先決せず、民主的プロセスのなかで討議すべき問題。 国際状況は予測不可能な仕方で激変し、専守防衛を維持したほうがいいのか、集団的安全保障までは認めるのか、集団的自衛権にまで踏み出すのか、どれが今後の日本にとって最適なのかは誰にも確言できない。そうしたなかである特定の安全保障観を憲法によって固定化することはできない。筋の通ったベストの改憲案としては、「文民統制」、「開戦決定の国会事前承認」、「外国軍基地設置の際の住民投票」、「良心的兵役拒否権を認める徴兵制」を規定すべき」などと論じていました。議論のスタートに「変動する国際環境のなかで日本の安全保障をどうするか」という問題意識を据えたのはいいのですが、好漢惜しむらくは「変動する国際環境」という認識が甘く、日本は既に、北の核ミサイル、尖閣、拉致被害者、竹島、北方4島という喫緊の具体的危機、今ここにある危難に対処する有効で的確な憲法的対応を論じるべきでした。井上は集団的自衛権に反対するなど、所詮は護憲派の仲間であり、我が軍隊の手足を縛り続けることに汲々でした。

    彼もまた、WGIPの毒が沁みついているのでしょう。無効論が正解であることをこの賢明な井上に理解させることは可能でしょうが、無効論を突き詰めれば、日本にクーデターを起こさざるを得ず、これは現状では西村慎吾氏に40年若がえってもらうしかなく、不可能でしょう。友人の人権派弁護士たちが政府から勲章を貰ったり拒否したりしました。彼らも又堅固な戦後体制に組み込まれ、体制護持しか観念にありません。国際社会では今も軍事力が発言力の源泉となっている冷厳な現実など見たくもないのです。

  18. 大藏 樣

    早々のコメント忝く存じます。

    仰せの「一旦滅んだ日本は、占領軍により、二度と立ち直れない猛毒によって未だに亡国のまま。米国は北の核を敢えて除かず、その核に日本を怯えさせ、日本駐在の米軍に膨大な経費を貢がさせ、日本国民はこれに満足し、『行かないで。守って。』と 懇願する国柄になっています。憲法論議はもう一度ガラガラポンのクーデターでも起こさない限り決着をみないでしょう」が結論でせうね。贊成します。

    私には「憲法論 」「 政治論」をたたかはす能力も氣力もなく「日本にクーデターを起こさざるを得ず」に同調しますが、「西村慎吾氏に40年若がえってもらう」は如何でせうか。西村氏の聲は、その若い時からよく耳にしました。西尾先生も「西村慎吾」の名を 出されたことがあります。口ぶりからして、明かに好意をもつてをられると私は判斷し ました。けれども、西村氏のファンはゐても、民衆をして雪崩を打たしめるほどの威力があつたでせうか。

    今から56年前の昭和40年5月3日(憲法記念日)に、NHKテレビ「憲法意識について」といふ座談會を視聽しました。福田恆存が劈頭冗談を言ひました。「憲法前文に『これは人類普遍の權利であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び敕令を排除する』とあり、これは改正條項 96條に優先し、無效にしてゐる。自分も嘗ては改憲派の一人だつたが、今度讀み直して、それが分つた。現憲法は破棄すべきだが、これは私の力に餘る事だから、今の處『改憲派』から『無關心派』に 脱落することを宣傳しておく」と。

    他の4名の出席者(小林直樹、大江健三郎、高坂正堯、佐藤功)は全員護憲論者で、その意味が理解できず、ぽかんとしてゐました。續いて福田が「個人としては、この憲法を可能な限り無視し、自分にとつて空文化するやう努める。刑法を無視すると、刑務所に行かなければならないが、憲法なら、その恐れはあまりなからう」と言ふと、4人は呆れかへつたといふ顏をし、多分何も言ひ返さなかつたと覺えてゐます。

    世間のムードは今とほとんど同じですね。この5年後、三島由紀夫が割腹しても(少くとも表面は)何も變らなかつた。55年前、評論家が私に言つた「氣の遠くなるやうなことだね」も同樣でせう。今から55年後も變らないかもしれません。となると、やはりヒトラー竝みの超弩級の超天才の出現を俟つ以外にないのではないでせうか。

    「ドイツは1兆マルク収奪された」と言ふ場合、ヒトラーは千マルクから始めました。そして、1万、100万、1000万、1億、10億、100億、1000億と10くらゐに区切つて、ゆつくりと進んでゆきます。最後に、「1兆!」と叫ぶと、聴衆は沸き立ちます。民衆は初めて、「1兆」を実感したのです。

    「日本國憲法」の本質を、民衆に身に沁みて分らせるには、これくらゐの工夫が必要で、それは天才の仕事ではないでせうか。

    大藏樣、こちらから持ち出しておいてナンですが、、憲法の話は憂鬱で、酒が不味くなりますので、松本樓燒打ちにまつはるお笑ひを一席。

    あれはは昭和46年11月19日で、〈日比谷暴動事件〉とも言はれてゐるやうです。その暴動に、今坦々塾の面倒をみてくれてゐるSさんも加はつてゐたといふのです。

    こちらから訊ねたのではありません。御本人の方から、なんといふこともなく、平然とおつしやつたのです。恥かしくもなんともなかつたのでせうし、こちらも何も感じませんでした。過激派でも、つくる會でも、、坦々塾でも、なんでも似合ふやうな人ですから。大蔵様が「松本楼焼討は覚えています。左翼系の事件と報じられていましたが、意外でした」の意味が分りません。何が「意外」なのでせうか。

    私に印象が深いのは、自分が高みの見物をしたからです。私は霞が關の郵政省12階の記者クラブで、麻雀パイを使ふビンゴといふ遊び(博奕)をしてゐました。5人でやることが多く、一囘千圓を賭けました。うまくいくと、一瞬で、他の4人を丸裸にし、4000圓轉がり込んできます。勿論負けがこめばひどいことになり、月ごとの精算でしたが、我が月給を上廻る敗北を喫して、女房に頭を下げて出してもらつたこともあります。

    あれは、午後9時近かつたのではないでせうか。血眼で、パイを引いてゐると、突如、目の前がぱつと明るくなりました。一同手を止めて見ると、メラメラと言ひたい炎上! まあ見事でしたね。美しくもあつた。こちらは60年安保と違つてノンポリですから、一時の三島由紀夫よろしく藝術至上主義に徹し、心おきなく鑑賞しました(金閣寺を聯想することはなかつたと思ひます)。その日、その月の勝負までは覺えてゐませんが、自分には鮮やかな記憶です。

    そのことをタネにSさんのブログで何度かじやれ合ひました。

    Sさんーー日本はなぜスパイ防止法を制定できないのだろう。

    池田ーー有本(香)さんやSさんのやうな方々が、社會の壓倒的多數を占めてゐるからではないでせうか。「安倍さん素敵!」と「スパイ防止法なんて惡法だ」とは同根です。ムードだけで、人々が信じ込んでゐるといふ點で。そこを温床に、言論統制・自己規制はいつの世にも絶えません。
    Sさんは松本樓燒打ちに參加された時も、○○トリエンナーレ(?)阻止に立ち上がられた時も、本氣でいらしたのでせう。月光假面!
    西尾先生曰く「他人を瞞すことは時には生産的でさへあるが、自分で自分を瞞すことには救ひはない」。つまり、本氣ほど御しがたいものはないのです。「自分を瞞」してゐるのですから、自分では決して氣づきません。正しいことかどうか分らないが、取り敢へずムードだからーーといふところまで意識してのことなら、十分救ふ餘地はありますが。
    でも、先生は寛容ですし、一方では冷徹で、「救ひ」がたい相手に意見をするといふやうな無駄は省かれます。通じないと分つてゐる話を、性懲りもなく持ち出す私が最も度し難いやうですね。失禮しました。

    Sさんーー松本楼の時は本気ではありませんでした。
    その証拠に、そのとき以来、二度と参加しませんでした。
    何かがおかしいと思ったのです。
    理想のために手段を選ばないのは間違っていると思いました。
    あさま山荘事件をテレビで見ながら、
    内ゲバの恐ろしさを感じていました。

    池田 ーー「そのとき以来、二度と参加し」なかつたことが、「松本楼の時は本気で」なかつたことの證據に!?實に卓拔な論理ですね。私は子供の頃、親の財布から拔いた金で、友達にアイスキャンデーを奢つていい氣分でゐました。何度めかにバレて、お灸を据ゑられ、懲りて「以来、二度と」やりませんでした。友達の間でハバを利かすのは實に快く、自分では十分「本氣」のつもりでしたが、たつた一囘のお灸で變心するとは、本當は本氣ではなかつたのでせうか。それとも、精神構造がSさんほど高級でないせゐでせうか。いづれにしても、私のイマジネーションからは説明不可能です。
    「理想のために手段を選ばないのは間違っている」とは立派なお考へです。
    私は不屆きにも、三島由紀夫の「僕はこれまで暴力反對などと言つたことは一度もない」「眞に大事なことを成し遂げるには暴力しかない」といふ亂暴な説に深く共感してゐます。ただ弱蟲の自分には暴力に訴へるやうな場面は滅多になく、下手に事に及べばひどい目に遭はされるにきまつてゐるので、それが怖くて、控へてきただけです。
    「あさま山荘事件」の銃撃戰は、固唾を呑んで、「テレビで見」ました。彼等の「理想」にはてんで無關心でしたが、あの活劇は見ものでしたね。
    ”連合赤軍”では永田某といふ女が力を持つて頻りに「總括」したやうですね。「内ゲバの恐ろしさ」などに思ひを致したことはありませんが、我々記者仲間では、なにか問題・對立があると「總括!」と叫ぶのが流行りました。
    以前申したとほり、私が高みの見物をした松本樓炎上は今も瞼に燒付いてゐますが、あれをやつた人々の「理想」は何だつたのですか。ネットには「1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し(日比谷暴動事件)、その中で中核派の投げた火炎瓶の直撃を受け、2代目建物も焼失の憂き目にあう。3代目松本楼のオープンは1973年9月26日と再建に約2年を要した。これを機に10円カレーが始まる」などと記されてゐますが、Sさんが「本氣でなかつた」理由は何ですか。 「返還協定反対」といふ趣旨に疑念を抱かれたのですか。手段が暴力的だつたことに釋然としなかつた?周囲の連中に好意が持てなかつた?それとも、何も覺えてをられない?ーー さうであつても不思議はありません。60年安保で何故ワッショイを?といふ質問にまともに答へた人はゐないのですから。
    餘談ながら、三島由紀夫が自決、あと6日で一周忌といふ時に、あんなことを!と泉下の三島は驚いたらうと普通は言はれさうですが、彼は十分豫想してゐたと、私は考へます。アッカンベーをしてゐたのではないでせうか。
    手段は選ぶべきですね。Sさんはどこまでも正しい。やはり天上の存在です。だからこそ、西尾先生に飛んで來る批判の矢が「痛い」とお感じになるのです。私のやうな、不逞の輩とは斷然選を異にしてをられます。當り前ですね。

    大藏樣、折角眞面目に應じて下さつたのに、下らない話にしてしひました。お詫び申上げます。

  19. 池田様

    お尋ねですが、意外に思ったのは、「三島由紀夫が割腹した翌年の松本樓燒打ちに加はつた、過激派のチンピラですら、今害をなさなけば・・・」がご自身を云うと早とちりからです。興味深い池田様の「くだらない話」を引き出したとすれば怪我の功名です。この融通無碍で行動派のS氏も面白い方のようです。

    4,5年前までは国内の憲法論議をテレビ番組や雑誌を通して検証していましたが不毛なため止め、近年は毎晩美味い酒を、テレビ桟敷で屋久島へ行ったり、タイロン・パワーの西部劇を見たり、5代目志ん生の貧乏物語を聞いたりしつつ独酌しております。毎晩の消毒で武漢ウイルスも寄り付きません。

    ヒットラー待望論ですが、確かに民衆が雪崩のように動けば現憲法破棄もあり得るでしょうが、①日本は一神教ではないので一人の超天才が弁舌で世論を作り出す土壌になく、②1930年台の大衆よりも今の大衆は知識や情報を大量に掴んでおりお馬鹿なようで相当賢く、③今はラジオ一辺倒の時代ではなく、マスメディが多様化し、アジへの免疫があることから、ヒットラーではなく、マスメディ支配による間接的世論誘導が唯一現実的で、現に今の日本のマスメディアは米中韓の外国勢力による浸食が進んでいるように思います。異常な中韓のテレビドラマの跋扈や交通機関の中韓語の蔓延もその一例です。ヒットラー待望論は本気ではなく御冗談でしょうか。マスメディアを取り戻すには気の遠くなる道程があり、賤業保守も邪魔するでしょうし。

    では現実的な方策はといえば、西村慎吾氏や田母神俊雄氏、小山常実氏ほか、憲法破棄を理解し支持する愛国者、論者は国内に多いのですから、ヒットラー型の独裁者風ではなく、頭山満風の日本的調整者が出て、彼らを一つにまとめ上げれば勝機が生まれる気がします。不真面目になる余裕がなく、これは冗談ではなく本音です。

    昭和40年はまだ高校生でこのNHKテレビの座談會は見ていませんが、福田恆存以外みな護憲派とはこの当時からNHKが偏向していたことが人選でわかります。中村燦氏が批判していたのではないでしょうか。会田雄二、大島康正、西義之、村松剛らその頃の保守の論客を佐藤功の代わりに加えていれば福田氏も孤軍奮闘ではなく、冗談や逃げ腰の発言で誤魔化さずにまともな論争が盛り上がり論破できたのではないでしょうか。彼らと論争せず煙に巻いたところで全く「生産性」はありません。左右両翼が国民いな民衆の面前で真剣に議論し、大江健三郎などはすぐに馬脚を現すでしょうし、視聴する民衆の雪崩を期待できるかもしれません。

    関野様が帰国されたあとの北米で当局と多少論争し折伏した経験の連想から蛇足を加えました。お許しください。

    1. 大藏 樣

      ははは。「早とちり」ですか。私は博奕に忙しく、沖繩返還協定などには無關心、一錢にもならない燒打ちなんぞに參加する筈がありません。偶然高みの見物をすることになつたのです。炎上は凄い光景で、それまで殺氣だつてゐた ”賭場 ”も靜まりかへり、全員が見惚れました。まあ、ああいふ機會は一生に二度はないでせうね。

      あれに比肩し得るのは、大東亞戰爭の末期(といつても、敗戰時には疎開してゐたので、正確にいつとは分りませんが)、アメリカの大型爆撃機めがけて、日本の小型戰鬪機が次々と突つ込み體當たりしては、木の葉のやうに舞ひ落ちる。悠然としてゐた米機もやがて尻尾から火を吹き始め、きりもみ状態に・・・。4~5歳だつたので、記憶が怪しいかもしれませんが、もの心ついたあと、屡々思ひ出しました。あのやうにして、多くのパイロットが、國を護るために命を捧げたのだと感慨を催しました。そして、彼等になんとか報いることはできないか(時には仇討をとの思ひも)などと考へました。”反戰”だの ”平和”だのといふイデオロギーに馴染んだ ことは一度もありません。

      S氏は仰せのやうに、行動派で我々の面倒をよくみてくれ、先生の御用も勤めてゐるやうです。けれども、「融通無碍」はS氏に限つたことではありません。前囘申した やうに、大東亞戰爭の理論的指導者→戰後の平和運動の指導者兼進歩的文化人→保守論壇人といふ人事異動は、同一人物の横滑りでしたから、その基本構造は、國家的規模で、戰前も今も同じく、融通無礙を旨としてゐます。

      これはどうも、レーヴィット理論の2階における頽落現象で、明治にはこんな珍人事はなかつたのではないでせうか。そこまで調べがついてゐませんので、大藏樣、御存じでしたら、お教へを。福澤諭吉は「痩せ我慢の説」で、勝海舟、榎本武揚の「横滑り」を嚴しく難じましたね。本來の日本社會はもつとスツキリして、節操もあつたのではないでせうか。

      つくる會副會長の藤岡信勝氏が灣岸戰爭時まで、日共黨員だつたことを知らない人はゐないでせう。私の大好きな、もう一人の副會長 石原隆夫さんは公けの場で、「60年安保には、ポケットに石ころをしのばせて參加した」と言つてゐます。それが 普通で、少しも珍しいことではありません。上がさうなのですから、一般は出たり這入つたり又出たり自由で、垣根はありません。

      「近年は毎晩美味い酒を、テレビ桟敷で・・・」ですつて!? 呆れ返りました。それぢや、私と選ぶところなしではありませんか(もつとも私の場合は、「美味い酒」を「安酒」に、屋久島、タイロン・パワー、志ん生などをもつと低級なものに變へなければ嘘にな りますが)。貴台は國士とされて、晝も夜も國を憂へ、その未來のために、戰術・戰略 を練つてをられるものとばかり思つてゐました。尊敬して損をしました。「武漢ウイルスも寄り付きません」なんて自慢になりませんよ。越後の原發に勤める(近く退職?) 石松親分とは「我々は西尾先生から地獄行きの指定券をいただいてゐる。それまでの間は、つまらんことに煩はされず、せいぜい旨い酒を飮まう」といふことになつてゐ ますが、 大藏樣まで、天下國家をお忘れとは困つたものです。

      「ヒトラー竝みの超弩級の超天才の出現を俟つ以外にないのではないでせうか」と申し たのは滿更冗談ではなく、私自身はほぼ絶望してゐるといふほどの意味のつもりでした。

      「ヒットラー待望論」!?への貴台の異論には、殆ど何も申せません。
      ① 日本は一神教ではないので 一人の超天才が弁舌で世論を作り出す土壌になくーー
      關野通夫さんも同意見のやうです。曰く「ヒットラー並の天才というのは、ほとんど不可能ということですね。私は、一神教、多神教にこだわりますが、その考え方の違いは、 目立たないようで、非常に異なると思います」。
      私も、イスラエルの沙漠で、ぎらぎらと燃える太陽の下に立つた時は、なるほど、ここの住民はヤハヴェなる唯一神を戴くわけだと分つたやうな氣がしました。そして、それは、 森林と岩清水(西尾先生のお言葉)といふ優しい環境に暮らす我等日本人の「八百萬の神」とは全く異質。あちらは一神、こちらは多神と納得したつもりでした。

      ところが、數年前、You Tubeで、紀元2600年紀念觀兵式において、白馬を召した大元帥陛下が登場され、行進する兵たちに擧手の禮を賜る場を見て、もしも自分が兵として參加し、あの榮譽を受けたなら、間違ひなく、明日にも陛下の爲に死せむことを願つ ただらうと思ひました。そして、我等にも唯一絶對の神を求める心はあるのではないかといふ氣がしました。さういへば、三島由紀夫の描く天皇像は一神教的だとされ る・・・なんだか分らなくなつてきました。丁度、關野通夫著『一神教が戦争を起こす理由』を讀んでゐる途中のことでしたが、そのために、まともな感想文が書けず、彼に詫びました。その後も、こんな初歩的なことについて、考へがまとまつてゐません。不勉強の極みで申し譯なく、 お許し下さい。

      ②1930年台の大衆よりも今の大衆は知識や情報を大量に掴んでおりお馬鹿なよう で相当賢くーー
      ③今は・・・マスメディ支配による間接的世論誘導が唯一現実的で・・・マスメディアは米中韓の外国勢力による浸食が進んでいる・・・マスメディアを取り戻すには気の遠くなる道程ーー
      さうですか。「馬鹿なようで相当賢」い「大衆」も、マスメディアが中韓にやられてゐることに氣づかず「誘導」されてしまひ、中韓を驅逐しようとしない。氣づくのは「気の遠くなる」先? 天才が 繰り返し教へても 駄目ですか。さうではなく、日本にそん な天才は現れないのですね。 分りました。

      そして、「現実的な方策は」は「憲法破棄を理解し支持する愛国者、論者は国内に多い のですから、ヒットラー型の独裁者風ではなく、頭山満風の日本的調整者が出て、彼ら を一つにまとめ上げれば勝機が生まれる気がします」。
      さうですか。頭山満といへば、 孫文に肩入れしたことくらゐしか知りませんが、その頭山満風の方に勝機が? さういふ人 は今どこにゐるのですか。どうやつて見つけ、御出馬願ふのですか。「日本的調整」に 「氣の遠くなる」ほど時間がかかることはないのですか。

      昭和40年のNHKは格別偏向してゐたわけではなく、當時の全國民を護憲、改憲と分 ければ、10對1くらゐだつたのではないでせうか。ですから、出席者を4對1にしたのは餘裕綽々、敵に鹽だつたのでは。その中で、福田の論理は冴えわたつて、護憲派を存分に飜弄し、私は4人の馬鹿ヅラを見て溜飮を下げました。人間の知能程度にはこれほどの差があるのか! けれども4人はあわて ません。なんといつても、磐石の「日本國憲法」の上にどつかと坐してゐるのですから、 福田になんとからかはれても、聞き流してゐればいい。現實はこつちのものだ。ーー
      私は福田の健鬪に感歎しつつも、口惜しかつた。

      55年後の今日、事態は變らぬどころか、惡化してゐるのではないでせうか。5月3日 (憲法記念日)に4對1で討論するとして、1には、福田に代るべき人がゐるのでせ うか。そして、論理的に、この代物を木っ端微塵にしてくれるのでせうか。今から55年後も同じと屡々想像します。自分は何もせぬのに、くたびれました。お許し下さい。

      大藏樣、引續きお教へを。

      1. 池田様

        この場は西尾先生の全集が話題ですが、大先輩から小僧へ「お教へを」のお声がかりですので、池田様以外どなたが読んで下さるかは存じませぬがいま暫くお邪魔します。愚生の評価が上がったり下がったりしますが、小学5,6年生のときに親の側で赤玉ポートワインを舐め乍ら、白黒テレビで特攻隊のゼロ戦が米艦に突っ込む記録フィルムを偶然見て、驚きとも感動とも何とも言いようのない気持ちになったことをはっきり覚えており、池田様の4~5歳のご記憶にこれが匹敵します。以来、パトリオットで一貫しているつもりですがいい加減、長じて国士を気取っていますがこれも中途半端、夕方疲れ果ててテレビの録画を肴に飲み始め「天下国家を忘れて」酔いつぶれる始末。昨夜は「映像の世紀」でしたかアメリカのB29に体当たりして成功した飛行機乗り、確か「荒」という姓だったと思いますが酔っており定かではありませんが、生前後輩達に突つ込むときの要領を授けていました。彼はこの後に見事率先垂範に成功しましたが、このフィルムは60年前に見たフィルムなのでしょう。令和の頭山満については別の場所でお話しするとして、勝海舟と榎本武揚の「横滑り」について少しだけ論じます。まず「大東亞戰爭の理論的指導者→戰後の平和運動の指導者兼進歩的文化人→保守論壇人といふ人事異動」の実例を多くは知りませんが、恐らく幕府旗本の孫、清水幾太郎を含むと思います。清水氏は教科書の徳川将軍の諱を全て院号に書き直したと伝わります。氏や「大東亜戦争肯定論」の林房雄らの人事異動は知識人の転向であり、明治維新の幕臣の「横滑り」は主君と録を失い失業した男の再就職の問題で基本的に次元の違う話です。しかも「西洋のどの革命よりも革命的、根源的」な維新革命は世界史的にみて極めて特殊な事件で(西尾先生が『国民の歴史』で指摘された「内発的、倫理的な体制変革」には必ずしも賛同できませんが)、300年近く続いた徳川一門による主権国家体制を支えていた武士貴族の支配階級たちの処世がはっきり4つに分かれました。1.主命にも抗して武力抗戦、2.大人しく帰農や武士の商法、3.高橋泥舟や木村芥舟のようにひっそり隠遁、4.薩長政府の朝臣として新体制に包摂され帰順。第1のグループが江戸市民から江戸の華と持て囃されましたが、結果は悲惨で戦死か家族と路頭に迷うか挙句は自由民権運動に加わるなど。このなかにも要領の良いものがいて渋沢成一郎(栄一の従兄)のように第4のグループに鞍替えする例外もありました。第1が次男と第4が長男の二股もありました。第3は資産があったから可能で、食うため、家名を残すには第2、第4しかありませんでした。徳川政府が明治新政府に政権交代した以上、新政府に勤めて国のために働くのが当然という第4も可成りいました。鳥羽伏見の役で幕軍副総督だった塚原重五郎は日本の歴史上空前絶後の政治亡命をした人物ですがやがて静岡藩の東京藩邸に自首し大久保利通から明治政府にスカウトされました。ロシア革命を舞台にしたパステルナークの「ドクトルジバゴ」のようなドラマが旧幕臣それぞれの家で起きていますがその殆どが歴史に埋もれています。御指摘の福沢諭吉の「瘦せ我慢の説」は福沢の敬愛する木村芥舟の清々しい生き方が福沢の念頭にありましたが、福沢は江戸無血開城を「一時の兵禍を免れしめたが、立国の大本である万世の士風を弛め傷つけた」と非難し、「一片の痩我慢は立国の大本として重んじることが緊要であり」これが国家の「風教」であるとしました。司馬遼太郎はこれを、「口舌の徒の臭いが頻りにする。勝の幕府始末は命を張った実務家のもの」と反論しましたが福沢の思想は生涯をかけて終始一貫するもので、その意見のある部分は尊重しある部分を毀貶できるなどというものではありません。徳川家の末路に及んで、「家臣の一部(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟ら)が敵(薩長土肥)に向かって抵抗を試みずひたすら和を講じた」のは、日本の「経済」には「一時の利益」をなしたが、数百年にわたって培われた「日本武士の気風」を損なった不利益は少々ではなく、「得をもって損を償う」には足らない、と。始めから只管和を講じ新政府で高官となった勝を福沢は当然批判しましたが、榎本は敵に抵抗を試み、最後まで戦い敗北、降伏、帰順というプロセスを辿っていますので福沢は「その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞」と一応は敬意を表し「敵に降りその敵に仕えうるは古来稀有に非ず」と理解を示したうえで、自決しなかったことを戦死者に顔向けできないと批判しました。福沢は榎本が五稜郭で割腹出来なかった事情を知らず、また榎本が明治政府で達成した業績と日本国家への志を十分認識出来なかったのでしょう。林房雄の「肯定論」を読みますと、左から右への転向を理解出来ますし、清水幾太郎の人事異動も変節といえるのかどうか。榎本や勝の「転身」は裏切り、二股二心、不義、不節操といえるかどうか。勝だけでなく榎本も、明治にその地位に就くことで、多くの失業した旧幕臣を救済しました。ほんの一部でしたが、これでお答えになったでしょうか。

        1. 大藏 樣

          御講義忝く存じます。
          「徳川一門による主権国家体制を支えていた武士貴族の支配階級たちの処世がはっきり 4つに分かれました」ーーこれだけで十分です。正常・健全なな動きですね。

          對するに、大東亞戰爭の理論的指導者は、敗戰後、一人や二人は引退・隱棲したかもし れませんが、ほとんどは打ち揃つて、自動的に平和教の教祖乃至は傳道師に横滑りしま した。とても、正常とは言へません。WGIP以前に、レーヴィット理論に言ふところの2階は、これほど變質してゐたのですね。

          貴台が、後者の人事異動の「実例を多くは知りません」と仰せになるのは、口惜しいことに、私 との年齡差のせゐでせうか。こちらは大して違はないつもりですが。貴台が「日本よ國家たれーー核の選擇」(清水幾太郎・昭和55年)を讀んで、立派な意見だと感銘を受けたと、以前、この欄でおつしゃつた際に、たまげながら、年の違ひかとがつくりしたのと同樣です。

          その際も申したかもしれませんが、私がもの心ついた頃は平和教の全盛期でした。從つて、私はその教祖・傳道師たちの生態に興味をおぼえて ”研究”しました。そして彼等の99%が、嘗て戰爭指導者であつたことを知りました。特に、教祖清水幾太郎のことはよく分りました。(參考:『學者先生戰前戰後言質集』ーー昭和29年・全貌社。『進歩的文化人』ーー昭和 32年・全貌社。『進歩的文化人』ーー昭和40年・全貌社)

          中には、さうスムースにゆかなかつた人もゐたやうです。本多顯彰『指導者』(昭和30年・カッパブックス)は
          「私は戰爭でさんざん痛めつけられてゐた。私は戰爭に協力しなかつた。だから、戰爭が終つたら、とうぜん私の時代だと思つた。戰爭協力者は、どいてもらはう」
          「○○が、追放されて悄然として訪問してきたことがあつた。その時私は、『君は、戰爭中さかえたのだから、いま、さうなつてもあきらめもつくが、僕は、戰爭中も屏息だが、いまも屏息だ』といつたことがあつた。とにかく、終戰のとき東京にゐて、まつさきにしやべりだした人がトクをしたのである」
          「歸つてきた私は、無視され、過去の人として葬り去られようとしたとき、絶望と憤りと嫉妬に、心がみにくくよじれ、眞黒に焦げてしまつた。私こそ平和國民ではないか、その私をおきざりにして、なんの平和があるか。しかも、戰中、軍に協力した人が平和論の指導をしてゐる。私の胸のうちは煮えくりかへつた」
          「なぜ、あちらの岸からこちらの岸へ、なんの斷りもなしに、ひらりと飛び移つて、まつたく別の聲で、まつたく別の歌をうたひだした彼らを、とがめようとしないのか、私には腹立たしかつた」
          といふ動機から、多くの人々(勿論清水も含む)の「戰前戰後」の言動を暴露してゐます。

          ほとんどは以前、ここに、しかも大藏樣に向つて書いたつもりなので、重複を避け、簡單に申します。竹山道雄『昭和の精神史』(昭和31年)に次の一節があります。
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          昭和十二三年ころから以降の雜誌類を讀みかへすと、つくづく思想家とか評論家とかいふものは、そのときによつてどうにでも理窟をつける愚かしいものだといふ感を禁じ得ない。いまカーテンの内の國々について「言論の自由はある。ただしある枠の中で」と説明されてゐるが、あのころには日本でも人々はさういふ自由を滿喫してゐた。そしてこの枠も、ほとんど自分で作つたやうなものだつた。あのやうな説を唱へた人々はみな自發的にいひだしたので、日本ではさう言はねばならぬといふ強制はなく、默つてゐてもすんだ。しかし、あの説はつひに世論として壓倒的な力を得ることになつた。
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          これが書かれた時は勿論、平和・進歩がオールマイティでしたが、それを越えて、後の安倍提燈行列の樣子や、『正論』『WiLL』 『HANADA』の誌面まで目に見えるやうな氣がします。竹山氏の恐るべき洞察力です。

          「核の選擇」によつて、清水幾太郎は”平和”から、今でいふ”保守”へと方向轉換を圖つたのでせうが、どのくらゐ成功したのか知りません、こちらはすつかり興味をなくしてゐましたから。

          それと全く同じ昭和55年の四ヵ月前に、福田恆存は「今は、左翼的な『進歩的文化人』の言動の方が村八分にされかねない世の中になつた。そして私は二十年前と同樣、厭な世の中だなと憮然としてゐる」(「言論の空しさ」)。今から41年前ですが、これも、當時のムードの變化だけでなく、今日の状況をも見通してゐますね。

          私には、以上で十分ですが、折角の御講義「清水幾太郎の人事異動も変節といえるのかどうか。榎本や勝の『転身』は裏切り、二股二心、不義、不節操といえるかどうか。勝だけでなく榎本も、明治にその地位に就くことで、多くの失業した旧幕臣を救済しました」に一言。

          清水の場合、家系は旗本でも、變節とまでゆかないやうな氣がします。單なる條件反射でせうか。朝日新聞記者「あなたの『核の選擇』。スポットライトを絶えず浴びたい、との評もありますが」
          清水「さうぢやなくて、ぼくの立つてゐる所に日が當つてくるんだ。日なたを求めて、日蔭に生きてきたわけぢやない。そこに行けば日があたつてくる」は愉快ですね。

          失業者の救濟はそのとほりでせうね。岩倉使節團の留守政府は、そのための政策でもある「強兵」「志願兵」構想の調整を誤つたとも言はれてゐますね。

          福澤諭吉と木村攝津守、勝海舟の間柄について、小泉信三が數ヵ所に書いてゐる筈で、そのベストと思はれるものを引用して終りにしたかつたのですが、それが出てこないので、別のもの(ラヂオ放送の草稿)を。
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          福翁自傳全體を通じて人間といふものが温かく、好意を以て取り扱はれてゐますが、その間に若干の例外がある。その一人は勝海舟である。福澤が有名な「痩せ我慢の説」を以て、明治維新に際し、また維新後に於ける勝の進退について嚴しい批判を加へたことは有名でありますが、この福翁自傳に於ても、彼れはよくは取り扱はれてゐない。萬延元年、即ち1860年、徳川幕府が軍艦咸臨丸をアメリカへ派遣したとき、福澤は、軍艦奉行の木村攝津守の從者を志願して、その一行に加へてもらつたのであるが、今の言葉でいへば、木村はアドミラル、勝はその下の艦長であつた。俊敏なる勝が木村を凌ぐやうな言動でもあつたのを、福澤が快よしとしなかつたものか、福澤は勝のことをほめてゐないのです。即ち勝麟太郎といふ人は、木村の次ぎにゐて指揮官であるが、「至極船に弱い人で、航海中は病人同樣、自分の部屋の外に出ることは出來なかつた」といひ、サンフランシスコ入港の際、艦内に禮砲を打つ打たぬの爭ひがあり、勝が嘲つて、無事に打てたら首をやる、といつたところが、擔當の士官は見事に應砲を打つたので、威張り出して、勝の首はおれのものだ、しかし航海中、用も多いからしばらくあの首を當人に預けて置くといつて大いに船中を笑はしたことがある、と福澤は語つてゐますが、その語り方に福澤の氣持が感じられるやうに私は思ひます。
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          ベストの文では、この二つのことは、福澤が勝に好意をもつてゐれば、ここでは觸れなかつたらうとも言つてゐたと思ひます。なほ後に、勝が福澤に「君はまだ下宿屋のやうなこと(慶應義塾を指す)をやつてゐるのか」と言つたとも、小泉は紹介してゐます。これも好意を抱く相手に言ふことではないでせう。二人はお互に嫌ひあつてゐたのでせう。私は、その小泉の文により、更には、「氷川清話」などを讀んで、勝には徳がないと感じて嫌ひになりました。なほ、小泉自身は、「勝は嫌ひだ」と言つてゐた由、その死後、近い人によつて披露されました。

          ここにベストのものを引けなかつたのは小泉信三全集を持つてゐないからです。やなり、ケチは祟ります。そして、西尾幹二全集の總索引の充實を切に願ひます。

          大藏樣、「四つに分れた」「處世」に興味を覺えました。厚かましいお願ひですが、飮んだくれる暇の一部を割いて、留守政府のことも含め、もう少し詳しく講義していただけませんか。

          1. 池田様

            友人から「出過ぎず、ほどほどに」という声がかかりましたので今回で終わりとしますが、小生の長年の年長の知友が次々に物故し気軽な雑談ができなくなった昨今、池田様との対話は貴重です。

            日本人は明治の始めに薩長政府によって、昭和20年にGHQによって、徹底的に洗脳されました。戦後の洗脳の尻馬に乗った日本人知識人、評論家の言動は似非保守の今につながりますので池田様は拘っておられるようですが、晩酌の酒がまずくなりますので浮世離れの幕末史の方にいまは興味が向いています。お尋ねの幕臣の四つの処世ですが、ことば足らずでした。
            1.武力抗戦派、2.帰農商、3.隠遁、4.朝臣化のどれにも属さない「5.慶喜公のあとを慕って無禄移住」が多数派でした。地元静岡で「お泊りさん」とも称されたこの人々は駿河藩庁の地方公務員として土着した以外は殆ど故郷の東京に舞い戻り第2のグループや第4のグループとなり、海外留学組も多くいました。竹柴其水の歌舞伎作品「皐月晴れ上野の朝風」は彰義隊がテーマですが確か隊士の子弟の留学噺で幕を閉じています。第1のグループの最右翼が彰義隊で、江戸を舞台に華々しく戦いましたので最も著名ですが、実は他にも幕府陸軍の流れをくむ大鳥圭介の衝鋒隊、歩兵隊、砲兵隊、草風隊、回天隊、貫義隊、伝報隊など多くの旧幕臣組織が江戸を脱走して関東各地で反新政府武装闘争(社稷の回復)を繰り広げ屍を山野に晒し、生き残りは佐幕の本拠が江戸から会津に移ったため多くが会津を目指し、会津降伏後は蝦夷を目指しました。これらの殆どが幕末史から消されています。

            「留守政府」の強兵政策と失業武士のことは殆ど知識がありませんがこれには勝海舟も多少関わっています。

            勝海舟は子母澤寛の「父子鷹」で長く尊敬する人物でしたが、幕末史研究に深入れするにつれ御指摘の「氷川清話」のいかがわしさに気付き、芥舟木村喜毅の縁戚が書いた「咸臨丸の絆」でその人物評が逆転し、川村清雄の描く「江戸城明渡の帰途」の勝像の迫真性を納得するようになりました。以下、暫く遠慮なく「咸臨丸の絆」の講釈を垂れます。

            明治維新の8年前、日本開闢以来初の遣米使節、日米修好通商条約の批准にワシントンを訪れた幕府使節団77人を乗せた米国船「ポーハタン号」護衛の別船として伴走した日本船「咸臨丸」の浦賀とサンフランシシコ往復83日、2万キロの航海の実相が本書で手に取るようにわかりますがその航海中、徹頭徹尾ただ一人悪役を演じ続けたのが勝海舟です。小泉信三の挙げた有名な「船酔い」「バッテイラを降ろせの駄々」「礼砲云々」の3点セットだけでなく、艦長として無責任で殆ど役に立たず、部下の士官たちからの人望が全くなく孤立し、上席の木村摂津守に終始嫌がらせをして困らせたのが実態でした。感情の行き違いから人間関係が壊れる話は世間によくありますが、ここに暴かれた勝の数々の不名誉なエピソードは勝という人物の武士らしくない卑しい人間性を彷彿とします。西郷と並ぶ幕末の英雄、維新の三舟などと功績が持ち上げられているのは得意の法螺話で自ら持ち上げている気配もあり、となれば薩長の革命人士と気脈を通じて幕府を裏切った、それ故に明治新政府に重用され、明治政府の維新史には善玉として登録された可能性が拭えません。福沢の勝嫌い、勝批判の深層心理に、咸臨丸に同乗して見分した勝の言動と勝観があったと推測されます。明治初期に旧幕臣グループの集まりに遅れて参加しようとした勝に、小栗忠順の片腕だった栗本鋤雲が「勝!下がれ!」と一喝したエピソードも伝わります。勝は乱世の梟雄として捉え直すべきかもしれません。この咸臨丸での勝の「行蔵」の事実は明治維新の善玉悪玉、維新史そのものの書き換えをも迫りかねません。ひきかえ、著者が木村の縁につながる身贔屓を多少差し引くとしても、主役の木村喜毅の人間性は完璧なほど高潔で非の打ち所がありません。人格が清々しいことは、同じ幕臣の高橋泥舟と並び、新政府の任官の誘いを最後まで拒み生涯清貧を貫いたことで知られますが、加えて、咸臨丸トップの提督として軍艦全体の統率、人事、管理に優れた指導力、決断力、実務能力を発揮し、且つその容姿、立ち居振る舞い、人間的魅力で米人を感動させるほどの外交官の能力があったことがわかります。その木村への恩義を忘れず、終生敬愛して仕えた福沢諭吉の誠実もこの本で彰らかとなりました。本書の主題である二人の友情と絆がまことに美しく、徳川将軍に近かった木村が優れた人傑であり、その縁故を頼って渡米できた福沢が「下宿屋」を営んで多くの優れた人材を養い、「西洋事情」などで明治の日本人を啓蒙し日本を近代化に導き、それを評価した木村との間で、二人が相次いで物故する明治34年まで、対等な友情が継続しましたが小泉信三はこの事情をよく知っていたのでしょう。木村が路頭に迷わず隠遁できたのは福沢の援助があったためでした。福沢が木村への恩義に報いた経済的支援のおかげで木村の長男は海軍軍人として立派に成長し日清戦争(黄海海戦)に貢献し、次男は海軍技師として36式無線を開発して日露戦争(日本海海戦)に寄与しました。福沢の木村に続けた金銭支援を中佐に昇進した長男が断りに行って福沢からこっぴどく叱られた逸話はこの絆の強さを物語り感動的です。勝や山県有朋とは対極の木村の処世は、三世柳亭種彦こと高畠藍泉の彰義隊士生き残りを描いた小説「巷説児手柏」に見られるように、旧幕臣に少なからずあった処世でした。

  20. 仁王門さんが、印象に残った本として挙げられている7冊について、私も同じ受け止め方をしています。特に「悲劇人の姿勢」は繰り返し読みました。それに「異なる悲劇、日本とドイツ」です。この7冊は1971年から1994年までの著作で、共通点があります。国内であれ国際であれ、政治には直接、言及していない点です。文学、思想、歴史、哲学といった分野です。ところが、記憶に間違いがなければ、1990年代の後半になって、西尾さんは政治について論じ出します。それに気が付いたのは、米国のベーカー国務長官の構想を批判した文章を読んだ時でした。非礼を承知で言えば、よせばいいのにと思いました。危なっかしさを覚えたのです。最近の例で言えば、「保守の真贋」はあまり評価しません。しかし、「歴史の真贋」は興味深く読めました。論評する対象がすぐ消え去るものについては、論じる言葉もしばらくするとなくなります。福田恆存さんが戦時中に書いた「荷物疎開」という題の文章が紹介されていました。なぜ、今でも味読に耐えるのでしょうか。。

  21. 大藏 樣

    最終講義樂しく拜聽しました。

    子母澤寛の「父子鷹」はたしか私が子供の頃、新聞に連載されてゐました。私は讀みませんでしたが、母が愛讀してゐて、屡々その話をしましたので、その中身は殆ど覺えてゐないのに、勝父子は立派だと思ひ込み、好意を抱いてゐました。小泉信三によつて、それが訂正されたことは、前囘申しましたが、我々仲間うちでは、「勝は才氣はあるが、徳がない」といふ評價が定まつてゐました。「遞信省の役人でいふと、下村海南(後、朝日新聞へ)」などと言ふ人もゐました。

    福澤諭吉が好意を持たなかつた、もう一人 大村益次郎(緒方塾の同窓生)へ
    のイデオロギー上の疑念はもつと深刻だつたやうですが、ここでは省きます。

    木村攝津守と福澤の麗しい關係については、小泉が何度も書いてゐる(金錢
    援助のことも含めて)ので、木村の長男(?)の日清戰爭出征に當つて福澤が「お討ち死になどなされた場合は、御父上のことは老生が責任をもつてお世話致す所存にて御懸念なく奮戰されたし」と手紙に書いたことは知つてゐましたが、その長男の中佐が福澤に叱り飛ばされたことは初耳でした。

    私は木村の心事を思つたことが何度かあります。舊恩をいつまでも忘れぬ福澤を勿論快く頼もしく思つたことでせう。そして金錢援助はありがたく、感謝するけれど、(自らの意志で「新政府の任官の誘いを最後まで拒み生涯清貧を貫いた」とはいへ)できればそれを受けずにゐられる境地にゐて、福澤とは、そのやうなもの拔きで、「対等な友情」を貫きたかつたのではないかーーそんな想像をしました。福澤はその援助のことを他に吹聽したりしなかつたのは當然として、恩人の心の負擔にならぬやう細心の注意を拂つただらうけれど。商賣柄、タダ酒、お車代などを、よほど勘に觸らない限り拒否しなかつた私ですら、施し、お惠みとなると、さう素直にはなれないのだからなどと、安つぽい類推もしました。

    この場合の福澤には當てはまりませんが、西尾先生の「人間は他人に同情せ
    ずにはいられない状況にぶつかるものだが、そういうときには、できるだけ相手に氣づかれないように、遠いところからそっと同情したいものである」といふ人生論の一節を思ひ出したりしました。福澤は、木村の長男に對して「馬鹿者!そつちの都合ぢやねえや。こつちの都合だ。さうでもして、恩を少しでも返しておかなくつちや、今度あの世で會つた時、附合ひができねえんだよ。勘違ひするんぢやねえ」とでも言つたのでせうか。

    とにかく、舊幕臣たちが第1~第5まで分れた、あの頃の世の中はまともでしたね。貴台が「酒がまずくな」ると仰せになる(そして私も同感の)テーマにこそ、日本にとつて致命的なことがあるのでせう。しかし、就中、私などが考へても、いい智慧が出るはずはないので、酒を旨く飲む工夫の方に專念します。お若い大藏樣はもう少し國士を續けられたらとも思ひますが、自分のやらないことを人樣に強制はできません。お大事に。また機會がありましたら、「川村清雄の描く『江戸城明渡の帰途』の勝像の迫真性」などの御講義を。ありがたうございました。

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