令和3年9月17日 産經新聞【正論】欄より
評論家・西尾幹二
自民党総裁選に出馬する高市早苗氏は、次のように語っていた。
「日本を安全で力強い国にしたい、という思いです。経済が相当弱ってきているのに、五年先、十年先に必ず起こる事態に向けた取り組みが、何一つ手つかずであることに相当な危機感を持っています。一刻の猶予もないと思っており、ものすごい焦りがあります。今着手しないと間に合いません。だから、何が何でも立候補したいと思いました」(月刊「正論」10月号)
≪≪≪ 国難の中、日本を守れる人に≫≫≫
私の胸に真に突き刺さった言葉で、共感の火花を散らした。21世紀の初頭には技術産業国家の1、2位を争う国であったのに、平成年間にずり落ち、各国に追い抜かれた。ロボット王国のはずだったのに、今やAI(人工知能)ロボット分野で中国の後塵(こうじん)を拝している。世界的な半導体不足は日本のこの方面の復活のチャンスと聞いていたが、かつて円高誘導という米国の謀略で台湾と韓国にその主力は移った。実力はあっても今ではもう日本に戻りそうもない。
毎年のように列島を襲う風水害の被害の大きさは国土強靱(きょうじん)化政策も唱えた安倍晋三内閣の公約違反であり、毎年同じ被害を繰り返すさまは天災ではなく、すでに「人災」の趣がある。
台湾情勢は戦争の近さを予感させる。尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺のきな臭さを国民の目に隠したままではもう済まされない限界がきている。少子化問題は民族国家日本の消滅を予示しているが、自民党の対策は常におざなりで本腰が入っていない。
そもそも国会では民族の生死を懸けた議論は何一つなされないし、論争一つ起こらない。余りの能天気ぶりに自民党支持層の中から今度の選挙ではお灸(きゅう)をすえようという声さえあがった。横浜市長選挙の自民党惨敗は間違いなくその「お灸」だった。それでも総裁選挙となると、飛び交う言葉は、蛙(かえる)の面に水だった。ただ一つ例外は高市氏の出現だ。氏の新刊書『美しく、強く、成長する国へ。』(ワック)を見るがいい。用意周到な政策論著である。私が冒頭にあげた日本人の今の怒りと焦りがにじみ出ている。同書はアマゾンの総合1位にかけ上った。
≪≪≪目立たぬ努力に政治家の本領≫≫≫
高市氏は十分に勉強した上で「日本を守る。未来を拓(ひら)く」を自らのキャッチフレーズにした。日本を守るは抽象論ではなく、「領土、領海、領空」を守ることだと何度も言った。世界各地域の戦争の仕方が変わってきたことを説明し、今の日本の法的手続きを早急に超党派で議論し、用意しておかないと、すべてが間に合わなくなると言っている。従来のような憲法改正一本槍(やり)の観念論ではない。
私は高市氏と2回雑誌対談を行っている。私の勉強会「路の会」で講話していただいたこともある。最初は10年以上前だが、その頃すでに北海道の土地が外国人の手に渡っていることを憂慮し、これを阻止する議員立法に工夫をこらしている話をされた。一昨年行われた2度目の対談では「安全保障土地法案」(仮称)が準備中であることを教えられた。国土が侵されることへの危機感に氏が一貫して情熱を燃やし続けておられる事実に感動した。
人の気づかない目立たぬ努力に政治家の本領は表れる。戦時徴用をめぐり、昭和34年時点の在日朝鮮人60万人余といわれていたが、徴用令によって日本にきたのは245人にすぎなかったことを外務省の資料から証明し、政府答弁書に残したのは高市氏だった。大半が強制的に日本に連れてこられたなどという誤解を正し、影響のすこぶる大きい確認作業である。
日本の政治の偏向危惧する
総裁選に出馬表明した岸田文雄氏は9日、安定的な皇位継承策として女系天皇を認めるかを問われ、「反対だ。今はそういうことを言うべきではない」と述べた。対抗馬と目される河野太郎氏が「過去に女系天皇の検討を主張しており、違いを鮮明にした」(読売新聞10日)。一方、10日に出馬表明した河野氏は、政府有識者会議の女系天皇ためらいに配慮し、軌道修正した(産経新聞11日)。
前言を堂々と翻して恥じない河野氏にも呆(あき)れるが、「違いを鮮明にした」つもりの岸田氏も風向き次第で態度を変えると宣言しているようなもので、両者、不節操を暴露し、外交・防衛・経済のどの政策も信用ならないことを自らの態度で裏書きした。なぜなら「万世一系の天皇」という国の大原則に、フラフラ、グラグラしているのが一番いけない。
議会制民主主義統治下の世界全体のあらゆる政党政治の中に置いてみると、日本の自由民主党は決して保守ではない。ほとんど左翼政党と映る。日本のメディアは左翼一色である。
高市氏が一般メディアの中で自分が右翼として扱われることに怒っていたが、怒るには及ばない。もし中道保守の高市氏を右翼というなら、世界地図に置くと公明党も立憲民主党も政党以前の極左集団と言われても不思議ではない。(にしお かんじ)}
大藏 樣
さいはひなことに、貴台と私の間に意見の違ひは殆どありませんね。
「彼女の出自が自民党であることで、彼女を支持する保守の星と誰もが期待した安倍氏に安倍談話その他の公約違反で裏切られたことが彼女の場合に再び起きる可能性が強いことを懸念すべきではないでしょうか」ーー御尤もです。西尾先生も、その懸念が皆無とは考へてをられないでせう。ただ他に有資格者がゐないのですから、今は・・・といふことでせう。ただし、もしも高市さんが安倍さんの轍を踏んだ場合のことは、早めに考へておいた方がいいかもしれませんね。
渡邊 樣
これもコロナですか。私にはコロナの國家社會に占める重さが實感・理解できてゐません。句會がほとんど中止になる以外、自身の日常生活にあまり影響がないせゐでせうか。
さういへば、安倍政權がコロナ禍で右往左往してゐる際、大嫌ひな安倍さんに少し同情しました。私自身がコロナのことがさつぱり分らず、まして、その對策など思案の外。政治家といへども、對處はさぞむづかしからうーーと気の毒になつたのでした。
ところが、安倍讚美を專らにし、西尾先生が安倍さんを輕く批判すると、「センセイ、左翼みたい」と野次つた、チャンネル櫻の水島社長が、コロナに惱まされてゐる最中の安倍總理を、まるで人間ではないかのやうに、口汚く罵り始め、ああ、やはりと思はされました。水島氏の賤しい根性はかねて感じてゐたからです。
安倍さんが體調を崩して退陣したのも、コロナのダメージかもしれませんね。9条3項の反省が出来るやうな資質があるはずはありませんから。菅さんもコロナでへとへとになつたのかも。
「專門家による政治支配は、軍人でも労働組合でも哲学者でも等しく、誤った方向に政治を誘導します」、これはよく理解できます。ワクチン萬能論は尾身會長の專行ですか。危ふいですね。まあそれをコントロール出來る政治家がゐようとは思ひませんが。
コロナ(引いては、疫病)と國家社會、政治などについて、もう少しお教へいただけませんか。
(コメント再送)西尾先生の新聞論文、池田さんのご感想、拝読いたしました。大分において西尾先生よにも池田さんにも同意で、総裁候補の中で高市さんを支持する西尾先生の理由はよくわかるし、反面、安倍さんとくっついている高市さんに一言いいたい池田さんのお気持ちもよくわかります。お二人の意見をミクスチュアしたところで高市さんを基本的に支持するというのが私の立場といってよいでしょうか。
けれどそれを前提にしまして、わたしは高市さんの政策論、西尾論文、池田感想文のすべてにほとんど抜け落ちているある重要な論点をあえて指摘したいと思います。それは感染症(コロナ対策)のことですね。
この一年半、世界政治も日本も新型コロナウイルスに振り回されてきました。このコロナ問題がほとんどワクチン問題に移行し、史上初のワクチン担当相なんていう大臣まであらわれています。私は感染の増減を繰り返しながら、国民の不安感の大半は、今後かなり長い間、このコロナ問題に集まりつづけると思っています。「コロナが解決しなければいろんな現実が身動きをできない」正直、国民はそう考えていますね。たとえ収束・沈静化しても、その「後遺症」は5年も10年も国民に続くでしょう。
たとえば憲法改正についても、現段階なら、意外にうまくいくはずです。ただし国防問題的な改正はまったく国民の関心の外です。ロックダウンその他を可能にするような、感染予防のための私権制限、非常権限を政府に与えるような改正ですね。国民は確かに、戦後今までないほどに「強い国」を政府にある意味求めています。しかしそれは、あくまでコロナ感染予防のためだけという「私への閉じこもり」のための「強い国」論に過ぎない。
これはコロナ禍が生んだ、たいへんな「逆方向」だと私には見受けられます。残念ながら高市さんにもこの逆方向への危機感みたいなものはほとんど感じられません。
一例をあげましょう。「昔・陸軍、今・総評」という言葉が1960年代に流行りました(流行ったそうですね)これは1930年代の一時期、陸軍内の一組織に過ぎない軍務局が内閣の選定権限を実質的に有したり、また1960年代は、労働組合に過ぎない総評が日本の大衆運動を裏で牛耳っていたことを伝えるものです。私はこの言葉に「21世紀・感染症分科会」と付け加えたいです。
いま、政府の最大の課題のコロナ対策は、感染症学者グループに握られてしまっている。会長の尾身さんなんて、総理や大臣を何とも思わないでどんどん思うがままの感染対策を実現させて、たとえば酒類規制なんていう根拠薄弱なすさまじい政策をあっさり実行させてしまう。そして自分の理論の現実での誤りにはまったく触れない。酒類制限と感染の増減はほとんど関係なかったですよね。
専門家は政治方針に大切です。しかし日本はときどき、専門家に乗っ取られてきた過去があることを忘れてはいけません。政治家が専門家をコントロールしなければいけないのに、感染症分科会の静かなるしかし恐るべきコントロールのもとにおかれているのが今の日本です。
私は哲学は好きだけど、しかしプラトンがいったような哲人政治が実現したら世界はすぐに崩壊すると思います(笑)専門家による政治支配は、軍人でも労働組合でも哲学者でも等しく、誤った方向に政治を誘導します。
国民は(政治家ではなく)感染症分科会の意見に従い、コロナを恐怖し、ワクチンを渇望し、ロックダウンも厭わない。その延長に今の国民の「強い国」論のかなりの部分が存在していることを忘れるべきではないということですね。どんどん「私」すなわち個人主義と「強い国」論が接近している。言うまでもなく感染症学者に国家論も経済論もまったくありません。この方向を何とかするためには、感染症学者たちをコントロールしていける政治家、総理が必要です。
ワクチンにしてみても、たとえばインフルエンザワクチンで何人かの死者が出たら大騒ぎですが、コロナワクチンは少なくとも数百人の死者が出ている問題を内閣も国会もほとんど論じない。あるいはインフルエンザやコロナのような変異の早い感染症では、ワクチンは変異株になればなるほど聴かなくなる。こうしたワクチン限界論をいう政治家もいない。
ワクチンがいけないということではないんです。ただこうした問題をかかえたワクチン国策、ワクチン万能論を誰が決めているかということですね。たぶんわたしは菅総理でなく、尾身会長じゃないかと思います。私はここに、何か恐ろしい、新しい(歴史で繰り返されてきたともいえる)危機を感じます。
かろうじて救いがあるなあと思ったのは、高市さんがコロナ論で、国産のワクチンや創薬をすすめるべきだといっていることです。国産ワクチン論や創薬対処論は、感染症学者では少数派で、高市さんは「政治家としてのコロナ論」をきちんと議論提出していると思えるからです。こうした議論提出を重ねることで、コロナ禍と政治の初期設定をなるべく崩していき、「私」と「強い国」論の奇妙な接近を拝してほしい。その実現可能性を候補者の中でなんとか感じられるのはやはり高市さんだけなのでしょうか。
(池田さまへのコメント返し)私はコロナ禍中心主義にとらわれすぎているのかもしれません(笑)ただ、実際、菅さんが退陣、支持率低下に直面したのは、コロナ対策の失敗、非常宣言の乱発にもかかわらず感染者が減らずにオリンピックを迎えたことが最大の要因ですよね。 反面、河野さんの候補としての強みの一つは、(私はおかしいと思いますが)ワクチン担当相をこなしているからですよ。 正しいかどうかは別にしてこの国は当面、コロナ禍に支配されつづけるはずです。 高市さんが総理になったとしても、感染波がまた押し寄せてきて感染増加を招いたら、それは本当は政治問題とはいえないのに、責任を被せられるでしょう。 コロナ禍の要素は思っている以上に、政治の世界を変えてしまっている。それは憲法改正にも及ぶと私は考えているわけです。
渡邊 樣
「コロナ禍中心主義」ですか。
コロナ騷ぎが始まつて色々とあり、そのうちに、ワクチン論爭がありましたね。私はよく分らないながら、自分はそれを受けまいと決めました。少くとも主治醫と相談しようと思ひました。ところが、時が經つにつれ、その意志は薄れ、どちらでもいいと思ひ始めました。そして、老人として、若い人より早く接種の案内がくると、それに乘つかり、二度受け、それでよかつたといふ氣できました。主治醫からは、二度めのあと、2週間で、ほぼ免疫ができるから、外出の際はなるべくマスクを外した方がいいと言はれ、そのやうにしてゐます。
勿論、この主治醫のことが好きで信頼してゐるからですが、自分で調べたり考
へたりすることが面倒くさく、どうでもいいやーーで濟ますことが多くなりました。オリンピックの選手村は我が家の近くですが、私には何も分らぬまま、オリンピックは始まりました。終つても、やつてよかつたのか惡かつたのかさつぱり判断がつきません。それでゐて、開催中に、パソコン遊びのために、南ゲート附近の寫眞を撮りに行つたり、今日もオリンピック道路(環状2号線)を濱離宮まで散歩したのだから世話はありません。殆ど考へず、腹も立てずーーこれは精神衛生にいいやうです。でも、老化は進むでせうね。
「コロナ禍の要素は思っている以上に、政治の世界を変えてしまっている。それは憲法改正にも及ぶ」にはさもありなむと思はされました。私の目の黒いうちには、憲法なんてどうにもなるわけがない(唯一のチャンスは安倍さんにつぶされた)と諦めてゐましたが、事と次第によつては引つくり返ることもあるのでせうか。こんなどんでん返しもないとは言へないよといふ貴見がありましたら、論據は不要ですから、お示しいただけませんか。
安倍さんの3項論が出た時、坦々塾のジャンヌダルクのやうな人が、ブログで、ええと、2項はそのままで、3項が加はると・・・と檢討してゐるのを見て吹き出しました。この人は普段から考へるといふことをしない人ですが、ここでも考へたわけではありません。ただ大好きな安倍さんの説によると・・・と、先が知りたくなつたのでせう。そして何も分つた筈がありません。
3項などと言はれて、激怒しなければ日本人ではありませんね。そして私は、こんな非日本人と御一緒することは御免蒙りたいと思ひました。その非日本人が「日本を守る!」などと嬉しさうに叫ぶーー全て逆さですね。
たとえば、いま感染予防でおこなわれている営業統制は、憲法の人権どころではない、たいへんな私権制限です。これを憲法に記載改正すると提案したら国民はどう反応するか?コロナ感染に怯えきっている大半は大いに賛成でしょう。
ワクチンを打たないと入店や旅行が不可能になるワクチンパスポートだって、さしたる抵抗意見があがっているようにはみえません。これはたいへんな私権制限にあたりますよね。
こうした憲法における私権制限、それを可能にするための非常権限を政府や自衛隊警察に与えるための憲法の人権条項の改正なら、国民は受け入れどころか積極的に求めているかもしれないと感じます。だけどもそれは、「私」を感染症から守るために国に頼りきる、という閉じられた「私」からの憲法改正と思います。
果たしてこれは歓迎してよい「憲法改正」なのでしょうか?
本来的(といってよいかどうか躊躇しますが)なナショナリズム、保守派的見解なら、これだけのウイルス騒動を引き起こした元凶の中国にたいしての国防力の行使、という面からの憲法改正論であるべきです。しかしそのレベルの「強い国」論はほとんど起きる気配がない。なぜかといえば、感染症の恐怖があまりに肥大したため、国民が「私」「個」を守ることに引きこもったさらに小さな国家論しかもてなくなったからではないか。「公」はますます微小化した。その先に発せられる憲法改正なり法律論が、現代の日本の国家論であり、憲法論なんではないでしょうか。
あるいはこういうこともあります。
コロナ感染は浮き沈みを繰り返しながらいつまでも終わる気配がない。緊急事態が出る度に、飲食業や旅行業、その周囲は「仕事やめろ」といわれているようなもんです。私の馴染みの都内の居酒屋さんは一店を除きすべて閉店廃業(その一店も休業中)経済分野によっては(特に飲食業や食品関係がひどい)壊滅的打撃を受けている。
経済不安が強くなると、人間は政治的・社会的関心にヒステリーをきたします。この居酒屋店主(いまは自宅待機)と電話で話をしたら、あれだけ保守主義的なことをいっていた彼が、政治的にはともかく、経済的には極左になっていました。いわく、ベーシックインカム、国民全体に生活保障をしろ、と。
気持ちはわかります。緊急事態の度にどんどん追い詰められているんですからね。補償金は確かに絶対に必要です。けど、補償金頼みでこの国が進んでいったら、それこそ共産主義になりますよ。この店主は憲法を改正してベーシックインカムを記載しろとまでいってました。さすがにこうした改正論は多数ではないでしょうが、今後のコロナ禍ではあり得る見解といえます。つまるところ、左翼的な憲法改正論の台頭ですよ。
コロナ禍でこんなふうな急激な変化、専門語を使うなら憲法改正論のパラダイムが一変してしまったのではないか。悪いことは重なるもので、このコロナ禍が20年前に起きればまだしも良かったものを、こうした状況に提言する論壇など紙の媒体の衰退のときに起きてしまった。だかられた解決策のオピニオンがなかなかあらわれない。なし崩しに現実が推移し、その背後にいて権威権力を行使しているのは今までまったく国民に未知だった「昔陸軍、いま(かつて)総評、21世紀分科会」感染症学者の面々ですよ。ここらあたりの設定を崩さないと、奇妙な憲法改正が起きて日本はますますおかしくなるなではないですかね。
もちろんコロナ対策は必要ですよ。国民を苦しめているたいへんな奇病です。ワクチンだって必要でしょう。だけど、その対策を誰が決めているのか、そして対策の迷走で、憲法をひっくるめた日本全体がおかしな方向に向かっている事実は私は心底、憂慮しきっているんです。政治家の力不足次第では「コロナ崩壊」が全面化していくでしょうね。
河野さんあたりはこうした「憲法コロナ禍改正」「憲法ワクチン改正」を真剣に狙っているかもしれません。「憲法改正」というだけで嬉しそうに飛び付く水準の低い右派の面々を抱きこんで長期政権つくれるかもしれませんからね。
池田様、渡辺様
結論の違いは然程ありませんが、西尾先生と池田様のこれまでの、例えば地獄に堕ちるなどの悲観論や慎重論のトーンに比べ今回の論調が余りにあっけらかんと私などには響きましたので一言コメントしました。我々先の短い高齢者からみれば最後に政界に躍り出た希望の星に惚れ込む心情は同じです。
恐らくどう転んでも岸田か河野でしょうが、万が一髙市さんに転んだら面白くなるでしょう。官房長官以下閣僚を保守系なでしこジャパン軍で揃えれば、憲法改正ではなく、男どもが寄ってたかっても難しい自主憲法が本当に実現するのではないかと夢想します。これは偶然見つけた興味深い対談で河野だけはNOといっています。https://www.youtube.com/watch?v=3W5weo_UN8M
コロナ禍中心主義には同調できませんね。コロナを過大評価していませんか。パンデミクスの過去をみれば、ワクチンだとか変異だとか騒いでいるうちにやがては終息する一時的現象です。渡辺様は事情通らしき方のようですが、菅退陣は、コロナ対策の失敗(非常宣言の乱発)などよりも、保身のため中途半端な内閣改造人事に手を付けたことが主たる原因と聞いています。真相は勿論知る由もありませんが。コロナで大儲けした財閥と有利な立場に立った中国が共同で、または勝手に、ウイルスをばら撒いて恐怖を煽った、いなインフルエンザ程度に過ぎない、ワクチン不要論、有害論などなどネット上で情報が飛び交っていますが真相は素より知る由もありません。重過失か故意を有し支払能力のある中国に天文学的損害賠償請求を世界がすれば共産党は壊滅するでしょう。
国民が真相に近づけるには、ワクチン限界論と万能論を武田氏・藤井氏と尾身氏その他でテレビ公開討論させるのが有効ですが、それをさせないで裏で世論をマスメデイアに作らせているのが政治家でしょう。いま万能論が幅をきかせているとすれば背後で、尾身氏ではなく、政治家がきかさせているからでしょう。渡辺様のような事情通ではない半可通ですので、常識からの推測に過ぎませんが。政党は世論に、世論はマスメディア・ジャーナリズムに、マスメディアは政権に依拠する三竦みが日本社会の実態ではないでしょうか。
管総理の話しに戻れば、オリンピックを無事に終えたことは寧ろ評価されていたのではないか。彼女が総理になったとしても感染増加を招いたら、政治問題とはいえないのに、責任を被せられるということはコロナという不可抗力が収まらない裡は誰が総理になっても、責任を取らされる。ということは抑々コロナ禍中心主義は成り立たないのでは。
「昔・陸軍、総評、今・感染症分科会」という喩も可成り無理があります。確かに昭和に陸軍が国政を壟断し、戦後に総評が左翼運動を操りましたが、分科会や尾身氏は政府のコロナ対策を牛耳るほどの力はなく、政府が聞き耳を立てている程度でしょう。分科会の科学的判断に従っていると見せかける方が恐怖に陥った国民に受けるからです。またコロナ対策は国政の一部に過ぎません。飲食業と病院業以外の基幹産業、金融業への影響は限定的です。専門家による政治支配とは到底いえません。
政治家と専門家の対置も疑問です。封建時代と違い、政治家などという職業が確立しているわけでも専門家以外の出身の政治家がいるわけでもありません。河野、岸田、安倍は3代か4代続いた世襲政治家ですが、彼等に専門家を凌ぐ判断力はありません。世襲政治家以外は殆どが専門家出身です。むしろ池田様ご贔屓のプロの軍人出身の山県や弁護士など法律の専門家出身の政治家が頼もしく、彼らが「誤った方向に政治を誘導」するとは言えないでしょう。
渡辺 様 大蔵 様
「河野さんあたりはこうした『憲法コロナ禍改正』『憲法ワクチン改正』を真剣に狙っているかもしれません。『憲法改正』というだけで嬉しそうに飛び付く水準の低い右派の面々を抱きこんで長期政権つくれるかもしれませんからね」ーーとは意表を突かれた思ひで、「水準の低い右派」とは耳の痛いお言葉
ですが、案外そんなところかもしれませんね。
「菅退陣は、コロナ対策の失敗(非常宣言の乱発)などよりも、保身のため中途半端な内閣改造人事に手を付けたことが主たる原因」ーーそのやうに言はれてゐますね。内閣だけでなく、党人事にも・・・。でも、最近の菅さんの表情の変化を見ると、失敗か成功かはともかく、コロナも相当こたへてゐたのではないか、間もなく、その肩の荷が下りると柔らいだやうな気もします。
とにかく、私はコロナの影響といふことを餘り感じ取らず、真剣にも考へずに
きました。毎日、銀座、佃島、深川、豊洲、豊海などに一万歩程度の散歩をしますが、飲食店に「テイクアウトできます」「アルコールの提供はできません」といふ標示の多いことに気づくくらゐで、店に用のない自分には問題ありません。
ネットで、屋形船がノンアルコールで運行すると聞いたので、黎明橋の袂に、取材(パソコン遊びのタネ取り)に行つたところ、船長・乗組員が喜んで、親切丁寧に応対してくれました。出発直前になつても、アルコールのみならず、何も出た様子がないので、「料理は出航してから出すのか?」と訊ねたら「いや、料理も出さない」との答。「ぢや、自分で持ち込むのは?」「それは酒・食物すべてOK。今日はすいてゐるので、お乗りになりませんか」「乗りたいが、酒を用意してきてゐないので、今日は遠慮する。ノンアルコールは苦手なので」といふことで、出船の写真を撮つてきました。酒屋で買つた酒なら、へべれけになるまで呑んでも、大した出費ではないので、近く試みよう・・・
先月末、次女一家と茅ヶ崎に遊びに行き、寿司屋に這入りました。座敷に上つたものの、酒類がないので、しかたなく、生れて初めてノンアルコールのビールを頼みました。口当りはいいけれど、さつぱり酔ひません。店のお姐さんに「全然気持よくならないよ」と苦情を言つたら、笑ひ飛ばされました。
さしむき、私の場合、コロナの影響はその程度で、新聞、テレビもあまり見ないので、コロナ禍と国家社会・政治のことは分らず、考へず(申し訳ありません)、渡辺説に驚いたり感心するだけです。
一万歩散歩は好きでやつてゐるわけではありません。鍛錬のためです。10数年前、自転車で転んで右肩骨挫傷、一時中断のつもりだつたテニスの復活ならず、その後も、ホルモン療法、釣り船での右足踵骨骨折等々によつて、出歩くことをなるべく避けてきましたが、人に勧められて、3月から理学療法士の指導による歩行訓練と大食ひを慎むことによりダイエットに努めてきました。17㎏減りましたが、歩くことは、さう楽にはなりません。2~300㍍ごとに休むのですから、一万歩は難行苦行です。
なほ、西尾先生も最近、足腰の強化・鍛錬に励んでをられるとお聞きしました。私の関心もそちらに向きがち。高市さんから話題を逸らし、すみません。
「日本言論界を動かす『地下水脈』」
西尾先生(『Hanada』」11月號)について
全體について感想を書くつもりでしたが、長くなると自分も疲れ、讀んで下さる人(ゐるのかしら?)も飽きるでせうから、途中で打ち切ります。あとは現物に當られればいいのだし、愚感を申しても、益もなささうなので。
以下に先生が擧げられる三例は、どれもかなり前のことのやうだ。
①前横濱市長の林文子さんが(市長になるより前)西尾先生に「自分は日本舞踊であれ、日本画であれ、歌舞伎、文樂のたぐいであれ、古い日本の伝統文化を学ぶことはなぜかしてはならないことのように思いなし、永い間ためらいつづけ、罪責感を抱き、近頃は息苦しくなって少しずつそこから脱却するように心がけている」と言つた。先生と林さんとはかなり永年の知り合ひとか。蛇足だが、先般の市長選擧の候補者の中で一番まともなのは彼女だと私(池田)は感じた。IR導入論も筋が通つてゐた。
②黒岩佑治神奈川縣知事は、西尾先生が「民主主義の反対概念は専制国家体制、あるいは独裁主義である」と言ったのに対し、「自分は民主主義の反対概念は軍国主義と教えられてきた」と、(先生に)訂正を求めた。
③西尾先生が保守系メディアから皇室のあり方についてインタヴィウを受けたあとのこと。物腰、言葉遣ひ、美貌において申し分のないインターヴィウアーに、先生は逆に皇室觀を訊いた。
「わたし、天皇のことは考えないようにしているのです」
「なぜですか?」
「ヤバイから・・・」
これらを先生はつぎのやうに總括される。
「日本の社会のある意味での指導層、ハイレベルに生きる、どちらかといえば保守的な人々の予想に反した反応(というよりも考えてみれば予想したとおりの応答であったであったのかもしれない)であって、裏声であり、本音の吐露と解すべきものかもしれない」
「いま表面の言論の地下水脈となって轟々と音を立てて日本の社会を背後で動かしているのはまさにこの裏声であり、残念ながらすべての正論、理筋の通ったすべてのオピニオン、国家として日本を良くしようと背筋を立てて、叫んでいるわれわれの声はこの地下水脈によって空しくかき消されていくばかりなのかもしれない」
そこで、先生方の聲をかき消してゐる裏聲、地下水脈とは何か。
西尾幹二著『自ら歴史を貶しめる日本人』(元は先生、福地惇、福井雄三、柏原竜一の四名による討議のまとめ)がこの度新裝版として再出版された。同書において、四人が徹底的に批判したのは「半島一利、加藤陽子、保坂正康、秦郁彦、北岡伸一の諸氏であって、われわれが見る限り、彼らはいわゆるGHQ史観をひたすら墨守し、日本をいわば永久に占領下に置く敗北史観を固定化しようとする政治主義的背景から歴史を語りつづけている懲りない面々である」。
面々の總代ともいふべき半藤一利氏の『昭和史』は大ベストセラーになつた(今も)。以下は同書に對する福地惇氏の批判。
「半藤氏は戦争を好む『悪い勢力』と平和を望む『善い勢力』との鬩ぎ合いが、戦前の昭和史の主旋律だったと主張します」
「『悪』は『善』を威圧し排除して、シナ大陸侵略の『無謀な戦争』を推進し、挙句の果てに『世界の平和と安定』を希求する英米ソと激突する馬鹿な道に嵌り込んで、国家滅亡へと誘導したと叙述します」
「平和と民主主義の使徒である『正義の連合国』に懲罰されたのだと説教します」
安倍前總理の戰後70年談話、憲法9條3項論なども、その線に忠實に沿つてゐます。つくる會なども、それに異議を唱へたりせず、お利口にしてゐます。抗議聲明を出すことを主張して却けられた福地先生がつくる會を脱會したのは當然です。西尾先生主宰の坦々塾ですら同樣で、談話をテーマにした討論では、7~8名の指定スピーカーの中で、これを眞つ向批判・否定したのは渡邊望さんだけでした。あれに逆へない人々は、要するに、他の考へ方ができないのです。60年安保以來、同種の場面を無數に見てきました。今は西尾門下のつもりでも、60年の鬪士や71年の沖繩返還協定反對・松本樓燒打ち組の精神構造は變つてゐません。彼らが別の場面で、威勢よく、嬉しさうに、「日本を守る!」などと叫んでゐるのは愉快です。
さういふ状況は先生も御存じでせうが、塾のことは別にして、先生の分析はかうです。
「なぜこれほどスキだらけのいい加減な独断の書(昭和史)が世評も高く、穏健な読書界に幅広く迎えられたのか、その謎を解かねばならない」
「日本の読書階級の心の謎に目をこらしていただきたい。なにしろ、半藤しはたびたび皇室に招かれ、秋篠宮家の悠仁殿下にもご講話を申し上げる立場であった由、報道されている。将来の天皇になられる方に、戦争は一国だけで起こせるものと決めつけ、相手国にも戦意があって初めて戦争は起こるものでありーーこれはあまりにも自明の理ーー米英ソにも日本に勝るとも劣らない不正と悪の積み重ねがあったことを教えない半藤氏の面白おかしい一知半解な日本懲罰の歴史マンガを一方的に親王殿下の前で語りつづけたに違いないシーンを思うと、まことに由々しいことだとも、空恐ろしいことだとも考えずにはおられない」
まことに御尤もですが、私は今さら、「空恐ろしい」とまでは感じません。西尾先生と故萩野貞樹先生から「天皇に徳を求めてはならない。天皇は血統によつてのみ尊いのだ」と嚴しく教へられましたので、氣をつけながら書きますが、私は今の上皇樣が皇太子時代から好きになれませんでした。
私の古い俳句仲間に、ロンドンの日本大使館勤務の御主人とともに、昭和28年エリザベス女王の戴冠式に來られた皇太子殿下と小泉信三(隨員には非ず)をお迎へしたといふ御婦人がゐて、彼女はまた小泉信三の末娘タエさんと女學校同級生で親しく、その父たる信三とも多少の接觸がありました。彼女とは皇太子さんや小泉信三を屡々話題にしましたが、私が常に言つたのは「小泉信三や安倍能成がついてゐながら、皇太子さんはどうして、あんなになつてしまはれたのだらう」といふことでした。彼女からは勿論まともな答はありませんでしたが、こちらは不滿がたまつてゐました。
その小泉信三を三島由紀夫が大逆臣と罵つたのはショックで、考へてみれば、戰後の皇室を今のやうな姿にしてしまつた責任の多くは小泉にあるといふことで、それを認めないわけにはゆきませんが、ややこしくなるので、その話はこれ以上しません。
ずつとのちに、天皇に即位された際の「日本國憲法を遵守し・・・」との仰せも、天皇は憲法などを越えた存在であるべきだと面白くなく、更に、度々「象徴としての務め」などと言はれるのも、象徴とは何か、どんなお務めなのか、さつぱり分らず、心服できませんでした。一度、酒の席でしたが、「・・・を遵守し・・・」の聲色を使つて、西尾先生にこつぴどく叱られたことがあります。不敬だし、あまりにしつこかつたのでせう。
そんなくらゐですから、悠仁殿下に誰がどんな御進講をしようとあまり關心がありません。天皇・皇室の大切なことは、西尾・萩野兩先生のお訓へにより、理論的に深いことは分らないながら、肝に銘じてゐます。でも、現象面のことを一々氣にすると、精神衞生に惡いので、なるべく見ないことにしてゐます。申し譯ないながら『皇太子さまへの御忠言』も拜讀しませんでした。
お濠の中も隔絶してゐるわけではなく、外と繋がつてゐませう。先生のおつしやる讀書階級を含む全國民のムードと無縁ではあり得ないでせう。半藤が親王殿下に御講話ーー明かにそのムードの反映でせう。とすれば、問題はこちらにあります。私などに智慧がある筈がありませんが、思ひつきを申すなら、皇室におかれては「祕すれば花」を旨とされては如何でせう。紀元2600年紀念觀兵式のヴィディオを見てゐて、行進する兵らの前に白馬を召した大元帥陛下がお出ましになつた(どこから、どのやうにかは分りません)時は、どきりとし肅然としました。そして、もしも自分が兵としてあそこに參加してゐたら、間違ひなく、明日にも陛下の爲に死することを願つたらうと思つたことでした。
美智子さんの結婚前の記者會見「御立派で、御誠實で・・・」あたりから、自分としては、違和感をおぼえ、シラケ始めたやうな氣がします。記者會見なぞ必要なのでせうか。「開かれた皇室」なんて誰が言ひだしたのでせう(小泉信三がそんなばかなことを言ふわけはないと思ひますが)。民主化風潮で、しかたなかつたのでせうか。
さて、さういふ社會を背景にして、これからどうなるか、どうすべきか、先生の文章は續きます。
「社会は言論によっては決して動かない。言論は基本的には無力である。私たち四人の反論の書は味方を少しずつ増やすことはあっても、日本社会の世界像を大きく転換させる力はもっていなかった。日本全体のものの見方を大きく変えるのは日本の外の世界の、現実全体の大きな変化である。冒頭に掲げた三人のエピソードはおよそ十~十五年前の出来事で、いまは同じ世代の人でもあの話を聴いて昔とかなり違った反応をしているはずである」
「私は自分の言論の無力を噛みしめるペシミストだが、未来の変化を信じるオプティミストでもある」
頼もしい宣言ですね。ここから佳境に這入るので、皆樣が御自分で當られることをお勸めします。私が逃げたいのではありません。
(追記)10數日前に先生に電話してみました。この5~6年、こちらから電話したことはありません。どうしてもお願ひしたいことがある場合はFAXにしてきました。理由は、原稿に責められてをられる時の先生の、あの息も絶え絶えのやうな、情ないお聲を聞くのがつらいからです。原稿を了へられた時の晴々としたお聲は、こちらまで樂しくなり輕口を叩きたくなりますが、今どちらか分らない・・・
2ヵ月か3ヵ月か前でせうか、管理人の長谷川さんによる、先生の御健康についてのお知らせが掲載されたのは。あの文の趣旨が私にはよく分らず不安でした。しかも、すぐに消し去られ、なんの説明もないので、愈々不安がつのりました。 それでも、電話かFAXか、入院でもされてゐて通じないかもーーなどと迷ひつづけました。どうしても不安が抑へられず決斷したのが十數日前でした。
案ずるより産むが安し、先生は御自分で(携帶なので當り前ですが)お元氣なお聲で出られ、「足腰が弱つて、しばらくリハビリのために入院した。退院後も自分でリハビリをしてゐるが、明日から器具を使つた特別の強化鍛錬を受ける豫定」と明快にお答へ下さいました。
そこまではよかつたが、後がいけません。飛んで火に入る夏の蟲でした。「日録に『全集の索引の充實を』なんて書いたね。あなたの言ふやうなことは20年かかつても、できるわけないよ。できもしないことを書いてーー」と散々油を搾られました。
その他、こちらが餘計なことを口走つたせゐもあり、3點ばかり、たつぷりと叱られました。
「今、全集の殘務整理を一人でやつてゐる。誰も手傳つてくれないのだから、しかたがない」とも。私が非難されてゐるやうに感ぜられ、なんともお答へのしやうがありませんでした。なほ、全集が2册殖えることは周知濟みですが、21卷ー1、2,22卷ー1,2から21卷ーA,B 22卷ーA,Bと呼稱が變ることを傳へられました。
丁度、例の高市早苗論をこれから書く、斷乎支持するとのことで、私が「高市さんの言ふのと同じことを安倍さんも言つてゐました」と申したところ、「違ふよ。安倍さんはそんなことを言つてゐないよ」と猛反撃を食らひました。こちらも正確には覺えてゐず、猛攻に押されて、「さうですか」と折れざるを得ませんでした。ただし、安倍さんは女の腐つたやうな男といふ點で一致したのは欣快。
時間の經過を、傍らの家内が氣にして、「もう55分話してゐる」といふメモを差出す始末。お元氣なのが分つて何よりですが、毎度のことながら、格の違ひから、いいやうに ”可愛がら”れました。
20日夜に、今度は先生の方からお電話を頂きました。家内に御用がおありだつたのですが、終つて、私が代りました。
「足腰の強化は如何ですか」
「あまり進まないね。そちらはどう?」
「こちらも思つたやうにゆきません」
と健康については、そこまで。
上掲の論文を今書いてゐるとのお話だつたので、こちらは醉つ拂つてゐたせゐもあり、「毎度申上げてゐるとほり、私は”Hanada” ”WiLL” ”正論”といふ雜誌が大嫌ひです。先生と渡邊望さんのお書きになつたものは讀みますが、他のものは絶對に讀みません!」とリキんだところ、「僕なんかは藝者だからね。お座敷がかかれば、好き嫌ひは言つてゐられない。自分で雜誌を經營するわけにもゆかないし」との仰せ。
「保守系のメディアはまったく安倍批判を載せようとしない。干されるのを恐れているのか、評論家たちもおかしいと分かっていながら批判してこなかった。 しかし、本来なら保守の立場こそ、偽りの保守を名乗る安倍政権を批判しなければいけないのです。私の論文はもう保守系雑誌には載りませんが、何も恐れてなどいない。 覚悟を決めて声を上げるべきなんです」(先生の『週刊ポスト』ー平成29年9月8日號ーへの談話)とはだいぶ調子が違ひます。「さやうなら」と言はれるお聲も淋しげで、ちと言ひ過ぎたかと後悔しましたが、なに、時と場所のムードのせゐで、氣に病むことはありませんね。
先生の論文と池田さまのご批評、拝読いたしました。
先生が御指摘される地下水脈論やアメリカ・中国論については、すべて的確なものと思います。しかし的確であればあるほど、私自身には精神的徒労感が深まります。グローバリズムの進展を破砕しそれに代替するような今後のナショナリズムのパワーというものがみえてこないからですよね。
地下水脈についてですが、この中でたとえば半藤さんについていいますと、半藤さんの歴史論の根っこにあるのは、彼が長年、編集担当をした司馬遼太郎と松本清張の世界でしょう。読者が司馬、松本、半藤といった面々に惹かれてきたのは、歴史観の「観」よりも、そこに至る推論の文章の巧みな読ませ方に過ぎないというべきです。陸海軍の善玉悪玉史観についても、たくさんのエピソードをひたすら盛り込んで、ミステリー小説のように歴史を語る。話としては面白い。だが読者はこの面白さを「観」と混同して、それが地下水脈の実体へと姿を変えたということでしょう。この混同に、皇室や政治家のお墨付きがつけば、虚構の実体は、真実の仮面へと姿を変えていってしまう。
ここからが肝要なんですが、この国では、国全体のマネーの量は数十年前の何倍にもなっていますが、活字世界でのマーケットは恐ろしく縮小している。編集者は目の色を変えて「売れる活字」を供給したがっている。歴史論からすれば司馬、松本、半藤あたりの本はまず順当に編集者に売れ行きを満足させる。かくして「ミステリー小説的歴史観」はさらに一方的に供給されていきます。本を読む人はどんどん少なくなっていますが、そんな中で、半藤の本を読んでいるだけで「たいした読書人」と言われてしまう現状があります。これはそうした出版世界のマーケットのやり方に大きな理由があるんではないかと思います。
このことはグローバリズム全体とも関わりがあるように思います。「言葉を失った民」たちがどこに向かうかといえば、マネーという記号の世界ですよ。いま、バブル時期以来の株価になっている投資の状態ですが、現実にはバブルなんて何も起きていないですよね。これは人々がマネーゲームに人生の意味を見いだすようになった成れの果てではないのでしょうか。先生が以前に、日本は職人資本主義の気質で、金融資本主義の気質はない、といわれたことがあります。しかしその気質が急激に変動しつつある。株式投資のマネーゲームを現実にやればわかりますが、あの世界はグローバリズムそのもので、世界中をつなげて考えて投資先を誰しも考えていかなければ成り立ちません。ナショナリズムの「ナ」の字もない世界です。
こうしたマネーゲームの世界が出版活字の世界も独占することが、「地下水脈」をますます固くしていくこととどこかで結び付いているのではないでしょうかね。私達が本を読む、「考える」ということが、ますますマネーゲームの供給に支配されるようになっていく。
打つ手はないように思います。ないどころか、これに拍車をかけているのが感染症騒動です。私はコロナ禍が始まった最初期は「世界の交流がすくなくなれば、民族文化やナショナリズムの見直しに向くだろう」と楽観視していました。ところが事態は、感染症の恐怖が社会に固定化されて人々は知への関心の余裕を失い、「個」に引きこもり、マネーゲームすなわち投資=グローバリズムゲームにどんどん傾いている。これから日本の知がどうなるかは、私はまったく恐ろしくて想像もできません。
蛇足ながら、保守系だって、この傾向と無縁ではないですよ。かなりいかがわしいものでしたが、一昔前には、福田和也とか八木さんとかその他、保守のヒーローをフィクションしていく動きの力がありました。今はそんな力もない。やっていることは「ポスト安倍万歳.」騒ぎさがしだけですよ。
安倍万歳で、安倍支持でマーケットの一角を起こそうとした面々のかなりが、高市さんで同じことが起きることを夢みて動いている。これは真正の高市さん支持とはまったく別のものですね。「地下水脈」という西尾先生の表現は実に巧みですが、それは思っている以上に深く広がりを持ったものであるように私は感じます。繰り返しになりますが、打つ手は見当たらない。何かが起きるのをひたすら待つのみ、というべきように思われます。
渡邊 樣
うーん、半藤式歴史とは、司馬遼太郎と松本清張のラインですか。さう言はれてみると、よく納得できます。といつて、私は後二者については、映畫も含めて精々2~3讀んだ(見た)だけ、問題の半藤ものは一行も讀んだことがありません。西尾先生やその他の人々による論評により、あるイメージを描いてゐるだけです。
かく本を讀まない自分(どうしたことか、長谷川管理人さんから「活字中毒」といふ尊稱を賜つたことがありますが、お世辭が過ぎたか、日本語を御存じないかのどちらかでせう)には發言の資格はないはずですが、以下のお説はビンビンと胸に響いて、沁み込みます。
曰く「『観』よりも、そこに至る推論の文章の巧みな読ませ方に過ぎない」。
曰く「たくさんのエピソードをひたすら盛り込んで、ミステリー小説のように歴史を語る」
曰く「読者はこの面白さを『観』と混同して、それが地下水脈の実体へと姿を変えた」
それに違ひない、それ以外にあり得ないといふ氣がしてきました。渡邊さんの洞察力の凄さ!そこまで教へていただけば、その先、當然「皇室や政治家のお墨付きがつ」くこと、「虚構の実体は、真実の仮面へと姿を変えていってしまう」ことには、私でも容易に考へ及びます。ーー以上を掴み得たことで、私には十分な氣がしますが、先生の御説には、その先がありますね。
「活字世界でのマーケットは恐ろしく縮小している」のですか。今から50年近く前、初めて西尾先生にお會ひした時も、先生が「今は本の賣れない時代」とこぼしてをられたのを覺えてゐます。本を讀まない、買はない自分には實感がありませんが、「編集者は目の色を変えて『売れる活字』を供給したがっている」とすれば、「司馬、松本、半藤あたりの本はまず順当に編集者に売れ行きを満足させる」ことは自明の理。「かくして 『ミステリー小説的歴史観』はさらに一方的に供給されていく」のは自然の勢ひでせう。
「半藤の本を読んでいるだけで『たいした読書人』と言われてしまう現状があ」るのですか。まあ、やんごとない方面(もちろん、濠の外の下々の影響を受けてゐるのですが)の御墨付を得てゐるのですから不思議はありませんね。20~30年前、司馬遼太郎を讀んで、いつぱしの讀書家面をしてゐる人に輕い輕蔑をおぼえたえたことを思ひ出しました。
「『言葉を失った民』たちがどこに向かうかといえば、マネーという記号の世界です」か。そしてマネーゲーム。「あの世界はグローバリズムそのもので、世界中をつなげて考えて投資先を誰しも考えていかなければ成り立ちません。ナショナリズムの『ナ』の字もない世界」、なるほど、經濟音癡の自分には實感は持てないものの、筋道はよく理解できます(蛇足ながら、嘗て自分のテリトリーとも言ふべき郵政が民營化される際、これに激しく反對された西尾先
生の主張の論據「郵貯・簡保資金がアメリカに吸ひ取られ、やがて支那大陸に消える」が、当時よく理解できませんでした。私が思つたのは「神聖な信書を素町人にやらせるとは何事ぞ」といふことだけ、經濟音癡もここまでくると救ひがないですね。慙愧に堪へません)。
「マネーゲームの世界が出版活字の世界も独占することが、『地下水脈』をますます固くしていくこととどこかで結び付いて」「私達が本を読む、『考える』ということが、ますますマネーゲームの供給に支配されるようになっていく」、それが自然の流れでせうね。
そして、これには「打つ手はない」。止むを得ませんね。「これから日本の知がどうなるかは、私はまったく恐ろしくて想像もできません」ですか。昨日も越後の小池さん(石松親分)と電話で「我々は西尾先生から地獄行きの指定券を頂いてゐるのだから、ジタバタは止めよう」と笑ひ合ひました。と言ふとまた、「孫がどうなつてもいいのか」と眞面目な人から難詰されさうですが、もう、かかはつてゐる餘裕はありません。眞面目な人はどうぞ眞面目に・・・
「蛇足ながら、保守系だって、この傾向と無縁ではないですよ」ーー當り前ぢやないですか。これこそ、本當に蛇足です。今どきの左翼なんて可愛いものです。なにしろ今は保守が一番商賣になるので、そこに、惡しきものの全てが集まつてゐます。「安倍万歳で、安倍支持でマーケットの一角を起こそうとした面々のかなりが、高市さんで同じことが起きることを夢みて動いている」。
そのとほりですね。今度西尾論文が載つたので、大嫌ひな”保守オピニオン誌”「Hanada」を身錢を切つて初めて買ひましたが、先生の6ページ以外の穢らはしさ!觸れるのも嫌ですが、こんなところに、安倍さんなどと竝べられる高市さんが可哀さう!
毎度のことながら、渡邊さんの眼力、見識、論理には舌を卷きました。實にいい勉強をさせていただきました。幾重にも御禮を申上げます。また教へて下さい。
(訂正)前掲の拙コメントの後ろから五行目の「先生の6ページ以外の」は
「先生の12ページ以外の」の誤りにつき訂正させて下さい。
日本消滅の道筋と消滅阻止の条件
1.はじめに
Hanada11月号の西尾幹二先生の論文で論ぜられた、日本の言論界をも動かす「地下水脈」の強固さと日本消滅に至る毒性について、私も先生や渡辺望氏と同様の絶望を感じています。
確かに、近年のトランプ潰しやブレグジット推移やGAFAの反国家行動などから多くの人々が「地下水脈」の危険性に気付き、問題(グロ-バリズムとディープステイトなど)がある程度明確になってきたことは光明かと思いますが、前途多難を思うと気が遠くなります。そして、一昨日の自民党総裁選の結果、特に党員票の行方を見ていて、予想はされてはいましたが、更に絶望感が深まりました。
党内のしがらみや人間関係・権謀術数の影響を受けやすい議員票と異なり、党員票の動向は自民党の、いや日本国民大半の政治的思想的現実を明確に示しています。
2.自民党総裁選
総裁選で投票した自民党員約76万人のうち、約51%の党員が女系天皇容認や夫婦別姓推進等々保守といえない河野太郎と野田聖子を支持したのです。しかも、明確にそれらを否定する高市早苗という選択肢がありながら。(どっちつかずの岸田文雄への投票約30%も含めると実に80%がリベラル的ということになります。) 自民党員は一般国民より「地下水脈」の危険性への嗅覚が鋭くなければならないですが、今回の投票行動からは「地下水脈」に親和性の高いリベラルということが明白です。日本を守護すべき最後の砦の自民党の草の根の人々の意識がこのようでは絶望的です。一般国民は推して知るべし。日本は消滅の坂を転がり出し、それを止める者がいない状態だと非常に危惧します。
3.日本消滅の道筋
日本消滅の道筋としては、①グローバリズム完全浸透と皇室崩壊による日本文化の自滅 及び、②中国の日本浸透侵略による扼殺的消滅 の2ルートが喫緊の脅威だと思います。 固より、両者は相俟って迫りつつあり非常に危機な状況です。他の経済問題、自然災害、疫病などの脅威・危機はそれだけであれば日本は何とか乗り越え対処できますが、この①②については、「地下水脈」の政治的思想的問題が核心であり、現状は絶望的情況です。草の根の自民党員の80%(約60万人)は、「地下水脈」に呑み込まれておりこのような国難を全く認識していないということがはっきりしました。
4.「地下水脈」の源流
ここで、「地下水脈」の源流はどこにあり、その強固さはなぜなのか考えました。
先ずその源流については、多くの人が人間観・社会観として【負荷無き自己】≒コスモポリタンを真実として誤信し、無意識にグローバリズムに染まったことにあるのではないかと思いました。
ハーバード白熱教室のM・サンデル教授が言う、「具体的状況を欠いた抽象的個人【負荷無き自己】は現実には存在せず、そのような個人の権利や正義は存在せず普遍ではない。あるのは生活する地域や国など、各個人が属する共同体の具体的状況に責任を負った【負荷ありし自己】のみで、そのような個人がその負荷に応えることが本来の正義=「善」である。言い換えれば、抽象的普遍的な責務・正義が自己のコミュニティーに対する責務・善より優先するとするのは誤りである。」という現実・真実を無視して、自己の権利は不可侵だと錯覚していることに「地下水脈」の源流があると思います。
これに関して思い出すのは、眞子内親王と小室圭氏の婚姻問題での街の声「眞子様にも結婚の自由という基本的人権があるのだから良いではないか。」です。サンデル流に言えば、日本の皇室に生まれ育まれた眞子内親王は、皇室の尊厳の維持・日本の礎というご自分の分担を何より優先して全うするのが正しく、皇室を日本を危うくする小室圭氏との結婚は不善、ということになります。眞子内親王が負われているものは彼女の人権より重い。お救いしたい気持ちに駆られますが・・・・・
また、難民・移民問題に関して、「たまたま内戦国などに生まれたのは不運で、難民・移民に責任は無い。人間は自分が住む場所を決める基本的人権があるのだから、国境に正義はない。全ての国は全ての難民・移民を受け入れるべき。」の主張が考えられます。この主張を認めると国境≒国家は不善であり消滅することになりそうでもあり、これについても難民・移民に「己の運命を受け入れ、自国の再建に努めよ。」とサンデル流に諭せるか。これは・・・・ちょっと躊躇します。これは「地下水脈」の強固さに関係ありそうです。
5.「地下水脈」の強固さの理由
次に「地下水脈」の強固さの理由を考えました。
「地下水脈」、グローバリズムの主張は次のように単純明快です。 基本的人権は普遍であり、居住権も絶対であり国境は不義であり、国家が無ければ戦争は起こらず平和である。国境がなければ経済活動は完全に自由で人類は繁栄できる。地球環境も世界政府であれば維持管理は確実・効率的で遺漏はない。
グレタ・トウーンベリ嬢を始め、若者には特に分かり易く熱狂します。多くの啓蒙思想以降の哲学も親和的です。教育・メディアの関係者はこのヒューマニズム風主張に逆らえず、推進します。多くのミュージシャンもこれを讃美する甘美な楽曲で情動的に賛同を求めます。チャップリン、ジョンレノンのイマジン等々。そして国連は既に軍門に下っています。固より金融資本・国際企業は大賛成です。自由に研究したい学者・学会も。そして、なにより交通技術情報通信技術が世界を現実に繋げています。
6.ナショナリズムの情況
方や、「地下水脈」を断つ対案となるべき国民国家を主張するナショナリズムはどうか。
20世紀は国民国家群の戦争の連続でその記憶も生々しい。ナショナリズムでは国際協調・調整が平和の条件になりますが、その確実性はかなり低く、これを劇的に改善する妙案はまだ見えていない。
そして、ナショナリズムの思想的根拠は、民主主義の基礎論や上記のサンデル哲学など少なく、それも上述の通り躊躇する部分もあり、若者からすれば老人のノスタルジーを支えるだけと一蹴されかねません。
一方、グローバリズム完全世界が現出し百年も続けば、動乱の20世紀の悲惨以上の人間否定の悲惨の現出は間違いないでしょうが、今はそれを明確に表現できていないので、多くの人はナショナリズム以上にグローバリズムが危険であることを理解していません。中国に千年蹂躙されたベトナム人や、世界を千年彷徨し迫害されやっとイスラエルを建国したユダヤ人なら、明確にナショナリズムを選択しグローバリズムを唾棄するのは確実なのですが。
7.情況打開の条件・方向
以上の様に、「地下水脈」に関わる状況は、正に渡辺望氏が言うように、グローバリズムの進展を破砕しそれに代替するような今後のナショナリズムのパワーというものがみえてこない危険な情況です。
嘲笑を恐れず、この情況を転換打開する条件・方向を順不同で急ぎ項目羅列してみると以下の通りです。
(1)ナショナリズムの思想的根拠を明確にすること。
(2)グローバリズムの思想的破綻を明確にすること。共産主義の黒歴史明確化含む
(3)ナショナリズム国家群の国際協調・調整の画期的システムを考案すること。
(4)グローバリズム世界の悲惨予測を万人が理解できる映像的手法で周知すること。
(5)歴史の中のナショナリズムの役割とグローバリズムの弊害に関する解釈を正すこと
(6)保守の孤高癖を排し大同団結で、思想組織、政治組織を構築すること。
(7)気候変動人為(CO2)原因説を科学的に否定すること。
(8)難民の救済方策と移民対処策をより明確に高度化すること。等々
以上、長くなり申し訳ありません。浅学非才の蟷螂之斧はこれで力尽きました。
(7)については、弊ブログ記事 http://rakuaki.blog.fc2.com/blog-entry-136.html をご笑覧下さい。
申し訳ありません。
7.情況打開の条件・方向に、次項を追加し忘れました。
(9)そして『ふるさと』の様な美しい楽曲を数多く世に出すこと。
楽秋庵様
秋篠宮ファミリーには皇室の自覚と責任感がありません。日本に有害無益です。
「基本的人権は普遍であり、居住権も絶対であり国境は不義であり、国家が無ければ戦争は起こらず平和である。国境がなければ経済活動は完全に自由で人類は繁栄できる。地球環境も世界政府であれば維持管理は確実・効率的で遺漏はない。」➡これこそ、姿を変えた共産主義思想であり、真鍋氏が日本を捨て米国籍に移った理由であり、多くの理系学者が共有する傾向です。「グローバリズム完全世界が現出し百年も続けば、動乱の20世紀の悲惨以上の人間否定の悲惨の現出は間違いないでしょうが、今はそれを明確に表現できていないので、多くの人はナショナリズム以上にグローバリズムが危険であることを理解していません。」➡これも喫緊の重要ポイントです。
福地惇氏は「保守―第9号」誌に、西尾先生がHanada論文で指摘した地下水脈の源流もしくは正体を「奴等」と呼び、国際社会の悪の根源をシオン長老議定書に帰して、主権国家撲滅勢力、影の世界支配権力者を解説しています。両論文を併読すると面白いのですが、シオン議定書は既にロシア官憲の捏造と証明されており、「奴等」の現在の正体はユダヤなどではなく中国共産党に他なりません。我々の主敵が判明した以上、執るべき手段は明白で、ご提案の9項目がすべて正解と思います。2と4は合体できます。特に2の共産主義の黒歴史の明確化が重要で石平氏の功績が大です。具体的には6に全てを収斂させ保守統一戦線を構築しなければなりません。髙市氏に期待したいところですが、自民党の制約のもとでは荷が重すぎます。真の保守政党実現の露払いを今後も立派にやってくれることを期待します。男どもはなにをしているのでしょう。
(1)ナショナリズムの思想的根拠を明確にすること。
(2)グローバリズムの思想的破綻を明確にすること。共産主義の黒歴史明確化含む。
(3)ナショナリズム国家群の国際協調・調整の画期的システムを考案すること。
(4)グローバリズム世界の悲惨予測を万人が理解できる映像的手法で周知すること。
(5)歴史の中のナショナリズムの役割とグローバリズムの弊害に関する解釈を正すこと
(6)保守の孤高癖を排し大同団結で、思想組織、政治組織を構築すること。
(7)気候変動人為(CO2)原因説を科学的に否定すること。
(8)難民の救済方策と移民対処策をより明確に高度化すること。
(9)そして『ふるさと』の様な美しい楽曲を数多く世に出すこと。