国家崩壊の感覚(一)

 小泉首相の今国会の冒頭の、さして長くもない施政方針演説に、「国民」ということばが何度もくりかえし用いられていると、フジテレビの解説者が指摘していた。

 誰か数える人がいたら面白いからやってみて欲しい。予見を自慢するわけではないが、私はこのことをある意味で予知していた。「ハイジャックされた漂流国家・日本」(正論11月号)という最新の評論で、自民公明党も民主党もともに「国民政党」に脱皮したがっているという新しい局面の変化をすでに取り上げているからである。

 自民公明党は特定郵便局、医師会、農協といった支持基盤を、民主党は官公庁や大企業の労働組合という支持基盤を、それぞれ振り捨てるか、あるいはそこと距離をもつことで、真中の曖昧にして不確定な「国民」の概念をつくり始めている。

 今度の選挙で「無党派層こそ宝だ」と首相がはしなくも言ったように、「国民」とは与党が選挙で勝たせてもらった無党派層、浮動票の主である大衆社会のことである。私の考える国民の概念とは異なる。

 国民は元来、歴史や伝統に根ざしたものでなくてはならない。『国民の歴史』が描き出した国民は日本の民族文化と切り離せない。しかし自民公明党を勝利に導いた「国民」は、改革ということばに踊らされ、変化だけを求め、足許のふるさとの土を忘れる現代の大衆社会の人工的な進歩的未来主義の別名といっていい。

 「これは大変に不安定なことになった」と私は書いている。大衆にたえず変化の種子を与えなければならないからである。たえず改革案を提出しなければならないからである。さもないと大衆はついてこない。これは困ったことになった、と私はあの論文で嘆いている。

 何に困ったか。「与野党どっちにとっても革新が善であり、保守は悪となる。能率が価値であり、習慣は敵である。ふるさとは切り捨てられ、競争がすべてに優先する。」と私は書いた。あゝ、いやな国になる、いやな時代が来るとしみじみ思う。

 小泉氏の自民公明党も、前原氏の民主党も、目指している方向は基本的に同じであろう。「国民」の概念は多分共通している。

 「すでに国鉄は民営化されて地方に廃線が多く、郵便ネットワークも将来は危い。農業も、医療も、初等教育も、公平から競争へと移り、日本人の生活全体が“市場原理主義ニヒリズム”とでもいうべきかさかさに乾燥した、薄っぺらに底上げした、味もそっけもない無内容なものに変わり果てて行く。」と私は書いた。

 だから私はあゝ、いやな国になる、いやな時代が来ると慨嘆したのだ。“市場原理主義ニヒリズム”は井尻千男さんがこの意味で使っていた的確な表現だったので借用した。

「国家崩壊の感覚(一)」への3件のフィードバック

  1. 資本主義自体が、利潤を生み出すために、既成の「もの」や「慣習」の価値を否定して、それとの差異(価格であったり、便利さだったり)を含む新製品をつくり、消費者の歓心をそそり続ける必要のあるシステムだと思う。資本主義は、その黎明期から、地域文化を改革(見方によっては破壊)しながら、資本を蓄積し、徐々に人々は地域文化、歴史よりも資本とそれを生み出す文化に依存して生きるようになってきたのではなかろうか。資本主義は根本的に、保守主義とは相容れない。
     国民が資本の奴隷になりきらない余地・権利を確保するための、資本主義に対する原理的な批判と限界づけが、今こそ再度必要なんじゃないかと思う。最近、空気や水、森林や文化、言語などを「コモンズ」と称して、その資本主義システム内への無自覚な収奪を、自覚的に行うようにしようという動きがあるようである。資本は、コモンズを崩すことで、自己増殖しながら運動していくわけだから、この資本という癌に侵されつつある社会と自然を救うためには、この崩壊に自覚的になるような仕組み(環境税的なものになると思う)を積極的に取り入れるべきだと思う。資本が、コモンズの限界を超えて増殖しており、コモンズからのフィードバック抑制を受けないことが、さまざまな問題の根本にあるのではなかろうか。市場原理主義における価値は、資本に集中しすぎている。政治は資本主義と貨幣価値を支えるために限りない努力を積んでマネタリストにとってのみ、ニヒリズムでなくてもいい社会といえまいか。

    P.S. 西尾先生、ショーペンハウアーの翻訳ありがとうございました。昔、古本屋で200円!で買って、愛読しておりまた。価格と価値は別物としみじみ思った買い物でした。

  2. 多数国民が望んでいるのは行政のスリム化。

    この国の不幸は自治体が運営する医療施設が多過ぎること。

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