「九段下会議」から「坦々塾」へ
西尾幹二
私は「路の会」と「坦々塾」という二つの勉強会に関与していた。二つとも政治や社会問題や歴史研究に関心のある方々から成り、月一回の会合に進んで参加して来られた方が多い。「路の会」はプロかセミプロの言論人で、「坦々塾」は私の愛読者が主だったが、やがて噂を聞きつけて集まって来た一般人もおり、会社勤めを終えたいわゆる定年組が多かった。日本では今この層が一番本も読み深く知識を求めている人々で、頼りになる階層である。
二つの会はどちらも会費を頂かず、会員名簿も作らない。熱心に来て下さる方は歓迎され、去るものは追わず、この自由がかえって会を長続きさせた原因だった。「路の会」は二十年余の歴史があり、この内部から「新しい歴史教科書をつくる会」(以後「つくる会」と略称する)が誕生した。西尾幹二全集第17巻の後記にその経緯が説明されている。「路の会」のメンバーの中心の座にいたのは宮崎正弘氏で、この会から新人として世に出てその後存在感を示した馬渕睦夫氏のような例もある。
ここでは「坦々塾」成立の経緯とその政治的背景を語っておきたい。私は「つくる会」の会長を2001年9月に退任し、それから2006年1月まで名誉会長の位置にあり、現場の指導は田中英道会長に委ねていた。
時代は小泉純一郎政権(2001年4月~2006年9月)下にあり、私が「つくる会」名誉会長の名において最も激しく時代に挑戦した最後のこの局面は、小泉首相が世間を騒がせていたあの時代とほぼぴったりと一致することになる。野党の党首菅直人までが、腹を立て私に直接電話を掛けて寄越し、そんなに大きな影響力を発揮したいなら、大学教授を辞めて代議士になって発言せよ、と腹立ちまぎれに言って来たこともある。野党から見ても私の発言はよほど目障りだったに違いない。自民党が箍の外れた水桶のように締まりのない緩んだ状況であったことは今と変わらない。自民党にはより保守的な右の勢力からの批判や攻撃が必要だった。嘗ての民社党のような勢力が必要であった。自民党は左からの批判や攻撃には十分に耐えて来たが、右からの圧力が無く、風船玉のようにフラフラと左右に揺れて来たのはそのためだろう。右からの要求は或る力が代わりをなしていて、自民党を背後から操っていた。それはアメリカだった。アメリカが右からの圧力を省いてくれ、自民党を身軽にしたということは、自民党を甘やかし無責任政党にしたということだ。それがアメリカの政策だった。
二次占領期が訪れていた。私は思い立った。伊藤哲夫、中西輝政、八木秀次、志方俊之、遠藤浩一、西尾幹二、以上6名を代表代理人にして急遽、「九段下会議」と名付けた保守決起のグループ活動を始め、その先頭に立った。九段下にあった伊藤氏の事務所会議室を借りて運営し始めたので、この名を採用したのである。そして皮切りに月刊誌『Voice』(2004年3月号)に「緊急政策提言」という初宣言を私が書いて発表した。勿論代表代理人の討議を経て、内容は外交、国防、教育、経済ほかの各方面を見渡したものである(西尾幹二全集第21巻Aの630ページ参照)。しかも特徴的なのは、この提言を読んで関心を喚起された一般の方々の文章を募集し、独自のオピニオンを持つ方々を同会議のメンバーに加えるという会の方針を明記した。人数は忘れたが、選ばれて集まった方々は数十人を数え、会議室はいつも満杯だった。
会議は何度も開かれ、これを聞きつけて安倍晋三、中川昭一を始め、当時勉強熱心で知られる「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」などに参集していた自民党内の若い保守勢力が次第に関心を高めるようになった。安倍晋三に会議の情報を伝えたのはたぶん伊藤哲夫氏と八木秀次氏だったが、とくに伊藤哲夫氏は政治的フィクサーの役を演じ、安倍政権の成立に情熱の全てを注ぐ立場の人だった。八木氏は安倍とは妻同士が親しく昭恵夫人とツーカーの仲であることが自慢で、周囲にも吹聴していた。
伊藤哲夫、八木秀次に中西輝政を加えた三氏はやがて安倍政権成立の前後に、「ブレーン」の名でメディアに取り上げられ、関係の近さは秘密でも何でもなく公然の事実だった。政治家も不安で、よりはっきりした思想上の拠点が欲しかった時代だった。
「朝日」が後日これを嗅ぎつけて、私と安倍との繋がりを調べに来た。調査は公平で、好意的ですらあったが、出た記事内容は私にも「つくる会」にも悪意に満ちたものだった。
この頃、小泉純一郎は靖国にこれ見よがしに参拝し、またこれを止めたり、また近づいたり、私には靖国を愚弄しているようにさえ見えた。首相と名の付く人が来て下さるだけで有難いと、靖国側の人々が卑屈に耐えているのがまた哀れで、腹立たしかった。小泉の姿勢が不誠実であり、「自民党をぶっ壊す」との暴言は知性を欠き、政策は郵政民営化一本槍で、五分もスピーチすれば話の種子は尽きるほど、郵政問題にすら深い省察を欠いている虚栄の人、から威張りの無責任男に対する不信感は、心ある人々の間で次第に高まっていた。ただ大衆は逆に小泉の煽動に操られ易く、大言壮語に付和雷同した。
そのピークは2005年9月の「郵政選挙」だった。党内の至る所の選挙区に刺客を立てるなど、徒に恐怖を煽る小泉の手口は社会全体を不安定にした。日本は国家としてあの時少し危うかったと思っている(西尾幹二全集第21巻A461~538ページ参照)。私が『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』(2005年12月刊)という思い切ったタイトルの本を刊行したのはこの時だった。
私には恨みもあった。「新しい歴史教科書」をダメにしたのは小泉だった。検定までは容認するが採択はさせない、という腹積もりで彼は韓国を訪問し、立ち騒ぐ韓国政府との妥協を図ったと私は見ている。また教科書採択に当たった全国の教育委員たちが、波打つように小泉政府の無言の指令を忖度して、同一行動をとった動きを私はソフトファシズムの徴候と見て、そう書きもした。「民主主義の危機」と左翼が使うような表現をすら私はついに書いた。
しかし日本は習近平やプーチンのように自分の任期を勝手に無期限にする独裁国家ではなかった。「郵政選挙」から1年後の2006年9月に小泉は安倍に政権を禅譲して、国民は明るい性格の安倍に新たな期待を抱くようになった。私も千代田区立公会堂で「安倍晋三よ、『小泉』にならないで欲しい」と題した市民公開講演を行い、満席の会衆を迎えた。
それに先立つ少し前、まだ小泉時代が続いていた末期に、私は小泉から「ただでは済まさない」という脅迫のメッセージを受け取った。メッセージを私に伝えたのは何と八木秀次氏だった。知らぬ間に何か異変が起こっていた。私の権力を恐れない性格をはた迷惑と冷たい目で見ている人々が私の周辺を脅かし始めていたのに、私は気づかなかった。権力に媚びてでも利益を得たい―それが人間の本性である。勿論誰もそれを非難することは出来ない。
私はその頃、十日ほどの予定でニュージーランドに観光旅行に出かけた。短い留守中に異変は拡大していた。安倍政権擁立のための運動が具体的に進んでいて、伊藤氏はもとより水島総氏なども旗振り役に加わり、保守運動家たちの大同団結が企てられていた。その後安倍も集会などを主催し、私も一、二度呼ばれて顔を出したこともあった。そのとき分かったのは、安倍は嘗ての政治家に例のないほどに知識人や言論人を必要とし、彼らから知識や統計上の数字を知ろうとしていた。当時南京虐殺事件が国難の一つだった。事件はなかったという主張が保守側に渦巻いていた。安倍は専門家に何度も問い質し、反論のロジックの筋道や数字上の事実確認を繰り返し聞いている場面を私は目撃している。伊藤哲夫氏がその頃役に立つアドバイザーであったことは間違いない。
その間に「九段下会議」は何処かへ行ってしまった。同じ会議室を使って伊藤氏や八木氏が密議を凝らしていたに違いない。安倍のために全てを投げ打って一致団結する人々から私は敢えて距離を置いていた。「九段下会議」で唱えた理想が継承されるという保証は何処にもなかったからだ。
ある講演で伊藤哲夫氏は、従軍慰安婦問題について国際社会で日本が抗弁する情勢にはなく、「日本が悪い」の圧倒的な声に我が国は頭を垂れ、謝罪し続ける以外にないと語ったことがあり、私は心密かに反発していた。
その間に「つくる会」の周辺や内部に不穏な空気が漂い始めた。理事たちの一部が藤岡信勝排斥運動を始めた。藤岡氏は「つくる会」の柱だった。これを倒そうという動きは、理事たちの一部が「日本会議」に通じている面々であることが次第に明らかになったが、それは「日本会議」による「つくる会」乗っ取り事件の様相を呈し始めた。私は慌てた。この場面でも伊藤哲夫氏は暗躍している。
間もなく「つくる会」そのものも分裂した。内紛が起こった。いまさら内紛の歴史を語るつもりはない。しかし外から大きな力が働いたことは間違いない。「つくる会」運動の内部に、力ある人が外から手を突っ込んだのだ。それは小泉ではなく安倍晋三だったと私は今は考えている。あるいは小泉に命じられて安倍が動いたのか、いろいろな推論が成り立つ。しかしその後保守系言論人は雪崩を打ったように安倍晋三シンパになりたくて、一斉に走り出した。今まで黙っていた人の名も、急に安倍、安倍、安倍と叫び出した。小田村四郎氏を筆頭に、岡崎久彦、櫻井よしこ、西部邁、渡部昇一 ……の各氏。
その頃書いた私の文章「小さな意見の違いこそが決定的違い」(西尾幹二全集第21巻A580~609ページ)を見て頂きたい。当時の保守系言論人の心の動きが手に取るように分かるだろう。
最初のうち私も安倍を否定していなかった。むしろ肯定していた。「文芸春秋」の次の首相に誰がいいのかのアンケートに私は安倍と書き、巻頭に揚げられた。安倍自身があるパーティで私にそのことのお礼を述べたほどだ。私は安倍に媚びていたのだろうか。そう言われれば言われても仕方がない。しかし「小さな意見の違いこそが決定的違い」なのだ。私は安倍シンパではない。
「日本教育再生機構」とやらを作って安倍のブレーンとして名を連ねたのは八木秀次氏であり、中西輝政氏、伊藤哲夫氏も含めて三人である。「九段下会議」が見事に分断されたわけだ。「九段下会議」に参集した総勢60人の一般人のうち、分派活動をした安倍シンパの側に回った者は少なく、約八割が私の側にとどまった。
そこで彼らをどう遇するのかに迷い、「坦々塾」がこの残った反安倍勢力を中心に形成された。政治活動ではなく歴史や政治思想をもっと勉強したいとの声につられて、講演会形式の勉強会として始められ今日に至っている。その活動の実際を伝える講師・演目の一覧表(伊藤悠可氏作成)をここに掲示する。
安倍政権が実際に開始されてしばらくの間異様な動きがあった。「真正保守」とか「保守の星」と呼ばれていた安倍が期待に反し、村山談話や河野談話をすぐに認めると公言し、祖父の岸信介の戦争犯罪も認めると言い出した。「安倍さん、いったいどうなったのだろう?」と世間は首を傾げたものだった。
「左に羽根を伸ばす」が伊藤氏たちブレーンの差し金による戦略であったらしい。政権の座に就く何か月か前に安倍は靖国に参拝していて、首相になった時には「靖国に行ったとも行くとも言わない」というあいまい戦術を展開した。不正直で姑息なこういうやり方に私は首を傾げた。ブレーンという名の謀略家たちは得意だったかも知れないが、安倍は評判を落とした。
保守は正直で率直であることを好む。安倍は本当に自分の頭で考えているのだろうか、そういう疑問を抱くようになったのは、むしろ長期政権と言われるようになってからだった。
2017年5月3日に、安倍は憲法九条の二項温存、三項追加という後に大きな問題を招きかねない加憲案を提起した。しかもこの案は安倍が自ら考えたのではなく、これまた伊藤哲夫氏の発案によるアイデアだった。伊藤氏自身がこれを告白している(「日本時事評論」(2017年9月1日号)。ブレーン依存はまだ続いていたのである。国家の一大事であり、安倍の存在理由でさえあった憲法改正の肝心要の発想の根源が他者依存であり、借り物であり、首相になる前から同じ一人の人間の助言に支えられているとは! 安倍ほど評価が二つに大きく分かれる政治家はいない。
「九段下会議」の「緊急政策提言」については先に見た通りで主に私の筆になるものであるが、これを今読み返すと、如何に安倍政治にこれが反映されたか、安倍晋三の政治はむしろ彼が後日「九段下会議」の立案を下敷にして政治を行っていたのではないかと邪推したくなるほどである。「朝日」の記者が後日密かにさぐりに来たのも正にむべなるかな
である。
例えば「外交政策」の「開かれたインド・太平洋構想」は言葉まですっかり同じ内容を踏襲している。安倍は私たちから如何によく学んだかが今にして分かるのである。しかし彼は政権を得てからほどなく、「九段下会議」の精神とは全く逆行する行動を繰り返すようになるのである。その最も早い行動は、安倍が従軍慰安婦問題で米国大統領ブッシュ(子)に謝罪するという筋の通らない見当外れな行動に討って出たことだった。これは私がこの「確信なき男」の行方に不安と混迷とを予感し始めた決定的な出来事だった。
(令和4年9月12日 記)
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私西尾幹二は入院中ですが、二つの勉強会を振り返って「『九段下会議』から『坦々塾』へ」を綴りました。その足跡をたどるようにして、伊藤悠可氏が私の文に対して感想を寄せてくれました。読者諸氏に読んでほしい一文です。(コメント欄への皆様の投稿を希望しています)
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西尾幹二先生の「『九段下会議』から『坦々塾』へ」を読んで
伊藤悠可
「九段下会議」は、若い頃から一度は会ってみたいと願っていた西尾幹二先生に、実際に会うことが出来た場所という点で、自分にとって大変、意義深い集いでした。また、著作や記事を通じて遠くから見ていた中西輝政さん、福田逸さん、西岡力さん等もいて、その他に各方面の専門家としてときどき媒体に登場する知識人も揃っていて、こういう席に座らせてもらうのかと胸が躍りました。
一躍有名になられた馬渕睦夫さんの初の講義を自分は聴いています。
先生の『voice』の「緊急政策提言」が2004年3月とありますから、自分の初参加はもっとあとの2005年の秋か冬ころだったと記憶しています。ちょうど、小泉純一郎の慢心ぶり、悪ふざけに腹が立っていたおりで、前後して『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を先生が出されたことを知って、誰か小泉を諫めてくれないのか、と思っていた自分の気分が晴れました。小泉の奇態をゆるしているのは、自民党議員であり、国民である。拍手喝采する国民はどうしようもないが、国民をちょろいと見下しながら煽動し踊らせている小泉は嫌いなタイプでした。子ブッシュの前で、プレスリーの物真似をしてふざけて帰って来た日本国の宰相は品位を貶めた罪が深い。
書いておられるように小泉が「ただでは済まさない」と間接的に先生に言ってきたことは、あの性格なら、さもありなんと思いました。彼なりに現代版の信長になったつもりでいたのかもしれない。たぶん図星だと思う。本で急所を突かれたから、信長だから、相手を恫喝くらいしないといけない。そう思って使いを出した。その役割を果たしたのが八木氏だったと思います。
個人的体験や記憶だとお断りしますが、八木という人は、挨拶する人と、全く挨拶しない人とに人間を分けていると国民文化研究会の友人から聞いていました。九段下の事務所に向かうとき、彼と信号待ちで出くわし、挨拶したところ、無視されたことがある。一言も返さなかった。ああ、本当だと思いました。彼は大学時代、国文研を退会するとき、先輩諸氏を前にして「あなたたちと付き合っていても自分(の將來)に何の価値もない」と言い放ったことは有名で今でも酒の肴になっているようです。
一方で当初、伊藤哲夫さん、それからすぐ下の名前は忘れましたが、後輩のなんとかさんの二人は親切で、非常に気持ちのよい人たちだと思っていました。部屋のテーブルをカタカナの大きな「コ」の字でかこむようにして、垣根は低く自由な空気感があって、どこからだれでも発言できる会議場、討論場で、物怖じしやすい自分も、最初から何度か気軽に発言できたことをおぼえております。そのころ先生が、「伊藤哲夫さんは無私の人だ」と褒められたことをよく覚えています。
当時、〈国家解体阻止宣言〉というスローガンもあって、自分もある種、高揚感を味わっていました。テレビでも流された「つくる会」発足の記者会見に次いで、この人たちが、ひどい国に成り下がっていた日本に覚醒の檄をとばすだけでなく、政治、外交、行政、教育、文化の他方面の領域にわたって数々の提言を行っていくのだろうと思いました。
小泉から安倍晋三に政権の禅譲がおこなわれた2006年9月は、自分はいろいろと鮮明な記憶がある時期です。15日には、悠仁親王の誕生がありました。前年の暮れには、小泉が面倒臭そうに皇位継承に関する有識者会議をつくって、さっさと女系でも何でも決めてしまえばいいんだと、彼は考えていたと自分は見ています。政権最後のお土産程度に感じていたと自分は見ています。有識者会議のメンバーにロボット工学の博士なんかが居るのですから。
予算委員会の中継で、安倍晋三が小泉にそそと近寄って耳打ちをしたのをおぼえています。同年2月に紀子さまご懐妊のニュースがありました。ちょうどその第一報が安倍官房長官に届けられ、小泉に知らせたのです。小泉は一瞬、息をとめて驚いたような表情をしました。安倍の功績のうち、あまり取りあげられないが、進行中の皇位継承の議論を中断せよと、きっぱり小泉に迫ったことは評価されてよいと思っています。このときの電光石化の安倍の動きは偉いと感じたものです。あの頃の小泉は、ふんぞりかえって我が世の春を謳歌していましたから。
しかし、小泉から禅譲される前後から先生が感じておられたように、保守系言論人はそうです、雪崩を打ったように安倍、安倍と言うようになりました。政界の現場、自民党内部の求心力というものではなく、まさに外部の、それも言論人、知識人の側から、安倍大合唱が始まったのではないかと思います。
中西輝政、伊藤哲夫、八木秀次の諸氏はご指摘どおり首相のブレーンを自他ともに認めていたと思います。公然の事実で、産経以外の大手紙や雑誌も、首相と距離が近く、重要なブレーンであると当たり前に報じていた。そのほかにも、安倍を応援する保守論壇で名の通った人々、岡崎、桜井、田久保といった人は、いくらでも数えることができます。
「首相動向」に登場する人たちのほか、安倍晋三と会った、安倍さんが事務所に来てくれた、安倍さんの誕生会に出席して祝った、安倍さんの自宅に呼ばれた、銀座のステーキ屋で歓談した……。金美齢さんという人はテレビでしかしりませんが、熱烈なファンであることを公言していましたね。しかし、アグネス・チャンなども夫人の親友として自宅に呼ばれているというのだから、それなら、芸能人、学者に似たタレントも何人もたくさんサロンにいるのだろう。我れ先にと安倍さんとの距離を自慢していた感があります。
そんな中で、清潔でいいな、と思ったのは曾野綾子さんでした。この人は実際安倍氏と親しかったのかどうか知らないが、大事はそっと一人でやる。フジモリ元大統領が窮しているとそっと助けてやっている。家にかくまってやったと思う。フジモリ氏が正しいか正しくないかは私は知らない。でも、だいたい、曾野綾子という人はこういう時の所作は気持ちがよい。何にも伝わってこない。曾野さんは上坂冬子さんとの開けっ広げの親交も、ユーモアと清潔感があって好ましかった。「私はこの間、安倍さんとああしてこうして」などとは、節操の問題として口にしない人であろう。
立ち戻りますが、九段下会議が崩壊してゆくなかで、伊藤哲夫さんはなぜ、西尾先生とあらためて肝胆相照らすというか、はらわたを見せて、語るという機会を持たなかったのか、とうとうそれが謎として残っております。政治的な助言者としてやりがいや義務を感じているなら、会議よりそちらが重いというなら、その道に行きたいと打ち明けることもできたはずです。
安倍が生きがいだと言い放っている小川榮太郎のような人もいるわけです。なんで文芸評論家を名乗っていながら、安倍を応援することが精神の仕事になるのか。どうバランスがとれるのか。そこは理解できないとしても、伊藤哲夫さんなら西尾幹二の心の中に訴えることもできたはずです。
それとも、やはり総理大臣の相談相手となって、単に舞い上がってしまったということなのでしょうか。たとえば田崎史郎を見ていると、何でも首相の毎日をよく知っているが、首相が日本を良くしているのか、日本を損なっているのかについては、一般の人より眼識は劣っているのではないかと思うことがある。「日本は中国に刃向かってはいけない。勝てるわけがないんだから」とテレビで言っていたことがあるが、その程度なんだと認識しました。
会議を存続するか否かという判断は別にして、伊藤さんには自分はこういう考えであるから、先生とはこのまま一緒にやっていけない、という割り切りもあるのです。
わかりませんが、それとも出自母体とされている生長の家、その脱退後の有力な人々との見えにくい絆、日本会議との距離間のような彼にとって大事な価値観までさらしたくない何かがあったのでしょうか。
おそらく、この場面では、私などにはわからない“雪だるま”が出来ていたのだろうと想像するのです。最初はチラチラと小雪が降っていた。小さな問題(この場合、前を向くと官邸、後ろを向くと西尾先生)も巻き込んで、拳ほどの雪玉を転がしていた。放っておくと、大きく重くなるので、その前に溶かしておくか潰しておくか、しておかなくてはならない。が、ついつい腹のうちを見せる機会を失って、雪玉は大玉転がしの大きさに育ってしまった。
もっと勝手な邪推をすると、八木氏は八木氏で自分が安倍の最も重要な右腕だと思いたいし、自負もしている。伊藤哲夫とはまたちがう。一緒にされたくはない。しかし、政治家安倍にとっては、皆同じ大切な人くらいに、みえるし、またその形で頼りにしている。優劣はない。中西輝政氏はそういうタイプではないから、そこまで個人的交際はしたくないと考えていた。こんな関係性を肩に背負っていると、結構煩雑である。
安倍晋三には子供がいない。子供がいない人は歴史がわからない。歴史というより、本当の歴史がわからない、と言いかえた方がいいかもしれない。歴史がわからない人は、「次代を担う子供たち」「後世を託す子孫たち」と叫ぶとき、熱い何かが欠けてしまう。或いは、熱い何かの半分が欠けてしまう。従軍慰安婦問題で、さあこれが一番大事だというとき、安倍はアメリカで間違ってしまった。これは取りかえしがつかない。決して譲ってはならない態度と言葉。それを冒してしまった。謝罪するべきは韓国であって、日本ではないのに。
なのに、彼は謝ってしまった。彼は、「もう後世の子供たちに謝罪を繰り返させたくない」というような演説を行った。辻褄が合わない。
日本国内では、そうとうに安倍という保守シンボル像が建立されていたため、このとき自分のように驚いたり怒ったりしている人は少なかった。みんな、安倍にすがっているんです。信じているわけではない、すがっている。
「子供たちに謝罪を繰り返させたくない」といいながら、日本も悪かったと言って頭を下げてしまった。彼の心の中には、想像の上でも、子供たちの表情や姿は映らなかったんだと思う。将来の子供たち、というとき、彼には教科書の挿絵のような印刷の子供がうかんでいたのかもしれないと思う。子供のいない人を差別しているのではありません。ひりひりした心配は理解できないだろうと言っているのです。子供のいない人は歴史を半分しか感じないでいる。
西尾先生は麻生太郎が首相の折りにも、手紙で大事を進言されたことがあると聞いたことがあります。具体的なことは忘れましたが、麻生は大事な一点を守れなかった。それで退陣してしまった。安倍はたくさん人を回りにつけながら、西尾先生は敬して遠ざけていたのだと思います。それは苦いからですし、恐いからだと思います。それでもって、少し甘い、心地のよい、やさしい伊藤哲夫、中西輝政を近づけたのかな、と思います。八木に関しては、なんだかわかりません。
ほんとうは政権なんて短命でいいのに、短命だから言いたいことが言えるのに、だいたいは、長期だけを目指す。こういうことも先生は言っておられました。
また尻切れ蜻蛉の感想になりましたが、ここに書きつらねました。
今日は安倍元総理の国葬儀の日。
西尾先生はまだ入院中で、病床から電話がありました。
ご自分から見た元安倍総理のことを
どうしてもこのタイミングで発表したかったようです。
今日という日を逃さずにアップしてほしかったようです。
西尾先生は何も恐れない。
何にも誰にも迎合しない。
自分の判断で今まで生きてこられた。
わざわざ生きずらい道も歩んでこられた。
欲得ずくの人生とは無縁だ。
小泉純一郎が最ももてはやされていたころ、
普通の人はそれに対抗するのはやめておけと思っただろうが、
ご自分の評価を曲げられることはない。
そうして、今になって
あの小泉さんを「狂気の宰相」と表現した先生の言葉が、
本当だったとやっとわかる。
今なら実感できる。
そんな風に、
安倍元総理のことも
なんにも飾りをつけず、
ご自分で感じられた
本当の姿を表しておきたいと思われたのだろう。
今日の日録はそういう内容です。
西尾先生1日も早くご快癒され皆さまと美味しい食事を囲まれますよう。
日本会議と勝共連合とは組織として繋がりがあるのかないのか。あるいはあったとしても個人レベルに過ぎないのか。というのも、勝共連合が改憲の優先課題として掲げる緊急事態条項の創設から家族条項の創設、9条への自衛隊明記まで自民党の改憲案と全く同じ、という指摘があるからだ。
先生、そして伊藤氏が寄せられた内容、時代の証言として大変興味深く読んだ。さりげなく曽野氏の気持ちよさについて触れられた伊藤氏の痛烈な一撃に頷かされた。国葬儀で自己喧伝に余念のない取り巻きの面々はまことに人間の軒が浅い気がした。曽野氏には必ずしもよい印象を持っていない。だが氏のような折り目と居住まいをあの面々に望むのは、自民に国民政党としての矜持を望むより難しいだろうと思った。
小泉元首相と八木氏にはそれぞれ1度会ったきりだ。小泉氏の話に同席のまわりから盛んな拍手が沸くなか、納得できずに腕組みしていたら、小泉氏は真正面にいるこちらを睨むでもなく訝るでもなくじっと見据えて話を続けない。そういう間が2、3度あった。あとから震えがきた。あれはホンモノのアレだと思った。対して八木氏は話していてもどこか違うほうを見ているような人だった。
第2次安倍内閣誕生前の、あの秋葉原での麻生と安倍の演説を見るまでは、安倍にも自民にも期待があり、チャンネル桜の会員になってもいいような気がしていたが、安倍が「皆さん、一緒に頑張りましょう」と締めくくったのを見て、耐えられないほどの違和感を覚えた。おかしい。わたしがあそこに立ったら、国民の皆さんはもう頑張らなくていい、私が自民党が皆さんの代わりに頑張ります、と言うよ。安倍は自分のことばを持っていないんじゃないか。横にいる家内にそう話し、話しながら夢が覚めてゆく気がした。ブルドーザーよろしく安倍を全力で推し出す水島氏にも氏の政治運動にもまもなく納得できなくなっていった。
コロナ禍以降、ひらかれなくなってしまいましたが、私は西尾先生のご推挙もあって、何年も前から「路の会」に参加させていただきました。せっかくのご推挙にもかかわらず、自分は決していい会員とはいえず、出席率は50%くらいの駄目メンバーでしたが、そんな私が参加したある日の「路の会」で、ちょっと不思議な光景を目の当たりにしたことがあります。
ここで参加されたことのない方のために説明を少ししますと「路の会」の出席状況はだいたい、会議室の椅子の7割くらいが埋まるくらい、といっていいペースでした。会のメンバーを外部からの講演者、スピーカーが囲んで話を聞いて質疑応答する。ときどき、会のメンバーが講演スピーカーになるということもありました。
私がその日参加した理由は特になく、「あまりに欠席つづきでは、西尾先生たちに失礼だろう」というくらいの心境で足を向けました。愚鈍な私らしく、その日のスピーカーが誰かということも意識しないで、ただひたすら時間に遅れまい、の一心でむかいました。確か2018年あたり、いずれにしても時世は安倍政権真っ只中ですね。
いつもの広い会議室にたどりついてまず私が首を傾げたのは、7割どころか室は完全満室状態、早くついたはずの私が座る椅子はなく、徳間書店の社員の方が他部屋から調達してくれた椅子にやっと座れる有様でした。
「なにごと?」という私の疑問は、スピーカーの方と、スピーカーの方との質疑応答ですっかり判明することになります。その日の「路の会」のスピーカーに招かれたのは産経新聞政治部の阿比留記者、有名な安倍総理側近です。
私は自分や知人が広告その他で新聞に載るときにコンビニで買う以外は、新聞を読む習慣ももちろん定期購読することもしないので、阿比留さんがどういう記事を書いているか、さっぱり知りません。ただ彼が産経新聞の中で安倍さんにいちばん親しい記者だというくらいの知識はさすがにありました。阿比留さんのスピーチは、ありきたりといえばありきたりの時局論でしたが、質疑応答になり、なぜ私は「路の会」が、(私にとって)前代未聞の満席だったか、実によくわかりました。
阿比留さんへの「質疑」の時間になり、会の皆さんが彼に集中しはじめたことは「質疑」なんかではまったくなし。みんな、まさに争うようにして(こうした光景も私は「路の会」ではじめてみました)「安倍さんにこれをいってくれ、あれをいってくれ」の言葉の嵐が集まっていく。阿比留さんの方をみると、別にそれをいちいちメモしてはいません。もしかしたら阿比留さんは記憶力で発言を安倍さんに伝えたのかもしれませんが、その可能性はやはりほとんどなかったといっていいでしょう。
驚いたのは、「安倍さんにこれこれをいってくれ」の面々が、かつてつくる会運動で安倍さんに痛い目にあった藤岡さんだったり、私は非政治的な人物と思い込んでいた小浜逸郎さんだったり、もう親安倍も反安倍も、政治的も非政治的も関係なく言葉の嵐を形成していたことです。私には異様な光景と雰囲気に感じられました。けれどこの光景と雰囲気こそ、2010年代の日本の言論風景を示すものだったとしていまなお目に焼き付いています。
自分の言葉や存在が、ときの政治権力とどこかで関係したい、というのは、言論人いや人間一般のおそろしい本能なのですね。だけれども、政治というのは本質的にはおそろしい非言論的世界なのであり、安易に言論人も一般人も深入りしてはいけない。いけないんだけれども、その厳しい敷居を低くして、少なくとも言論人と政治的権力者を親類みたいに思わせる時代、権力者の例はありました。戦前で思いつくのは近衛文麿ですが、2010年代は安倍さんだったのでしょう。
西尾先生はブログ記事で、小泉さんとの闘いや、安倍さんの転向、というより思想希薄化の中での失望の深まりを丹念に描かれていますが、これは「政治的なるもの」との交わりで、純粋を貫こうとすれば必然的に陥る孤独だ、と僭越ながら言わざるを得ません。ブラッドベリは「政治の只中にいれば人間は自然と何も考えなくなる」といい、ニーチェは「政治家は、人間を敵か道具のどちらかに使いこなす」といいました。西尾先生は「敵」になって、伊藤哲夫さんたちは「道具」になっただけ、ということでしょう。
こんな政治の恐ろしさは、一定の知力をもった言論人なら誰でもわかってるはずです。だけど安倍さんが低くした敷居に、多くの人が、先述の本能を隠せなくなってしまった。八木秀次さんや小川栄太郎さんは、あまりに本能むき出しでむしろ微笑ましいくらいですが、私は「路の会」で平生は反安倍や非政治的をみせていた方々の「安倍さんへ伝えてくれ」の言葉の嵐の方が、ずっとおそろしく感じられたものです。
そんなこという自分だって、安倍さんや岸田さんが自分が載せた同じ雑誌に載ったりするとちょっと自慢したい気持ちになったりする(笑)誰だってある本能ということなんですね。だけどそこにストイシズムがやっぱりなくてはいけないし、「健全な時代」「健全な文化人」「健全な常識人」はそのストイシズムをもってきたのではないでしょうか。
ではストイシズム、とはなにか。たとえば三島由紀夫さんは繰り返し自身を「反政治的人間だ」といいました。それは政治が妥協の技術の塊で、理想主義と何の縁もないからだ、というのが三島さんの理由です。だから三島さんは政治へのストイシズムを固守した。安倍さんという政治家を甘く見てはいけないのは、彼は3代にわたって政党の最高幹部あるいはそれに近しいポジションを保った、根っからの政治的人間だったということです。こうした政治的人物に対抗できるストイシズムを有した文化人が、果たしていまどれくらい残っているでしょう。
西尾先生は安倍さんの左傾化という妥協を細かくみていますが、もっとずっとあからさまで、それこそが彼の生命を終わらせた統一教会グループへの「妥協」だったのではないでしょうか。「何も考えなくなる」というブラッドベリの言葉の内実は、この妥協という政治的人間の性質をあらわしていて、安倍さんは徹底した政治的人間で、それを徹底したがゆえにああした最期まで招いてしまったのではないでしょうか。私には暗い喜劇にしかみえない。それを英雄的悲劇とかなんとかオマージュを語っている保守系や右派の文化人がいたら、もうこれはストイシズムどこじゃない、自分の本能の自覚や恥じらいを忘れ去った政治の提灯持ち、単なる下僕でしょう。
繰り返しになりますが、安倍さんは敷居を低くし、それは近衛も顔負けだったかもしれないほどだった。この十数年、言論界と政界が共闘して保守陣営を形成できたかのような幻想を与えた。けど気づいてみれば、憲法改正も北方領土も北朝鮮拉致も教科書問題も(今や育鵬社も採択は激減している)何一つ実現してはいませんよね。けど、妥協と敷居の低さ=ムードの消費をつくりだす政治的人物の権化たる安倍さんの魔術は、その未達成を決して自身のせいにしない術も伴っていたといえます。アホな左派の国葬反対の理由が、安倍さんが右派やファシストだので、右派やファシストなら、もっと形になる成果をこの日本にもたらしているはず、と思います(笑)
私は一人の人間として安倍さんの死には深い弔意と悲しみを感じるし、国葬にも反対ではありません。ただ、もし、安倍さんの死に、空虚感を感じるなら、その空虚の意味は、政治的なるものに近づきすぎて見てしまった幻想がなくなったという意味、ということを自覚してほしいです。政治がいかにおそろしく、「何も考えない人間」たちの妥協しかない世界ということは、ブログでの西尾先生の闘争記を一読すれば明らかでしょう。多くの人たちは安倍さんの死で幻想から覚めた、ということです。もちろん、覚めた人たちが、無関心というより由々しき世界に陥ってしまうかどうかは、また別個の恐ろしい問題ですが。
政治哲学そして思想あるいは政治理論がない政治家は、短命であろうと長期政権になろうと、たいした仕事は出来ません。
小泉にも安倍にもそれはなく、小泉は変人で自分の思い込みを押し通しただけで、余談だが父と小泉は高校が同窓で、その時から、いつも一人でいて何を考えているのか分からない奴だったそうです。
安倍は妨害が大きかったので、何か凄いことをやった総理のように思われ勝ちだが、実際はたいしたことでもない。
憲法改正にまで着手したなら別だが、期待させるだけさせて、結局、やらずじまいで、私は密かに「やるやる詐欺」と呼んでいましたね。
もっとも、誰も政治哲学を持っていないのに、憲法だけ作っても、まさに仏作って魂入れずにしかなりません。
これから支那の中共とたいじしなければならないのに、政治哲学のある政治家がいなくて大丈夫なのか。
「信念」ではない、それは「やる気」と同じだ。
例えばオーウェルの「ニュースピーク」を知っていますか。
新しい「造語」みたいなものです。
皆さんは中共の軍隊を「人民解放軍」と呼んでいませんか。
どこに「解放」などありますか。
これは「解放」という造語であり、実態は「人民弾圧軍」てすよ、言葉のまやかしです。
「大躍進」は「大失敗」、「文化大革命」は「文化大破壊」と、それが現実です。
なぜ、敵の目眩ましに、わざわざ付き合う必要があるのか。
「南京大虐殺」を持ち出してきたら「天安門大虐殺」を持ち出せばいい。
南京は戦時中の話ですよ、いつまで持ち出す気か。
天安門はいつの話ですかね。
このような「ニュースピーク」は欧米では常識です。
日本は政治哲学そして思想あるいは理論に非常に弱い。
これでは支那には勝てません。
小生も先考の死んだ歳を超えそろそろお迎えが来るのでしょうが、それまで暫く存命の間、幸いまだ足腰が立ちますので、無駄なお喋りは止めて、機会さえあれば、89式ライフルの操作を覚えスナイパーくらいの戦力としてお役に立ちたいと願っています。団塊の世代で暇を持て余す元気な者が1000人でも立ち上がれば国土防衛の国民軍も夢ではなく、全員が銃卒になり離島に散れば、日本はウクライナの憂き目には会わずに済むはず。あきんどサン、池田さん、悠可さんも加わりませんか?故坦さんは飛行機操縦のライセンスを米国で取得し特攻の覚悟でした。病中の西尾先生が敢えて実名を明かして保守陣営内の真相を暴露した真意は矢張り日本の将来を憂いてのことでしょう。この後の悠可さんの文章と相俟って、岡目八目で、安部氏とその取り巻きの愚かさ狡さが手に取るように分かりました。昭和の日本陸軍の皇道派と統制派の内訌、慶応の彰義隊の天野派と渋沢派の内紛、明治の薩長と反藩閥の闘争。日本人には兎角内輪もめがつきもので、歴史の中でどちらがまともだったかは既に決着がついています。安倍氏の国葬が無事に挙行できたのは、世界に向け日本の尊厳を高め、国内に向け、儀仗や礼砲によって、国民に国家の存在を知らしめる効果はあり、幸いでしたが、安倍氏の掲げた「戦後レジームからの脱却」を安倍氏が本当に弁えていたのか疑問でした。憲法9条の「戦力不保持」と「交戦権否認」を残す二項温存、三項追加と言明したり、70年談話で村山・河野談話を継承することを明言したり、・・・お喋りはこのくらいに。問題はどうするか?保守の星と期待された安倍氏には期待が大きかっただけ失望も又大きいものがありましたが次に現れたホンモノの保守の星として、髙市氏が、安倍氏を惑わした者らに煩わされずに、自らの信念に則り真っ直ぐの道を歩めば本物の同志が集まり、日本の明るい未来が展望でき、ウクライナのような地獄に日本を堕とさず、日本の子や孫を幸せにすることができるはずです。漸く西尾先生の出番です。入院してる暇はありませんぞ。
まずは、昔読んだ本の中で、今でも印象に残っているものを引用させて下さい。
「もはや、誰一人伴うことが出来なくなった、あなた自身の成長を、お喜びなさい」(アランの『幸福論』だったかもしれませんが、覚えていません)
私にとって、ここで見識ある方々の文章を読めるという事は、大変有難いことです。そして一定の期間、ブログを更新されなかった先生が、何を書かれたのか、皆さんも興味津々だったことでしょう。
しかし(期待に反して?)安倍元首相の暗殺事件に関しては、言及されなかった、その事自体が、先生の言論人としての厳しさをよく表していると思います。
私がまだひよっこで、自分の親の世代以上の方々が言論の世界で、現役として活躍されていた頃、当然インターネットもありませんでしたが、もし現代も、そんな方々がいたとしたら、安倍元首相に対する評価は、もっと多様だったに違いありません。
一般国民も、そうした知識人が何を言うかに、一斉に注目したのであって、現在のようにタレント化した一部の人間が、国民を一定の方向に誘導するような風潮は、少なかったと思います。
特に先生が書かれた、「野党の党首菅直人までが、私に直接電話を描けて寄越し」、「小泉から『ただでは済まさない』という脅迫のメッセージを受け取った」という事実を、事情を知らない人が知ったら、大変な驚きではないでしょうか?
何せ、ライオンヘアなどと持て囃され、靖国参拝に行くかどうかで国民を一喜一憂させ、ワンフレーズがいいとか、「敬宮愛子さま、いいねぇ」なんて国民の前で言っていた小泉元首相が、陰ではヤクザまがいの言い草をしていたのですから。
私みたいな一般人は、政治家がどんなものかは知りません。しかし昔なら、政治家は学者や評論家の言う事に、いちいち反応しなかったのではないでしょうか?政治家と学者や言論人とは、役割が全く違うからです。国民の方も、政治家でも学者でも、それぞれの場で実力を発揮すればいいと、考えていたはずです。
ただ少なくとも、学生運動家たちは、「政治力があるかどうか」を自慢の種にして、人の悪口を言う時は、「あの人は学者だから」というのが口癖でした。
もし学生運動家のように、行動であろうが言論であろうが、「論理」というものを無視していいのなら、学問も言論人も不要であって、大多数の国民を納得させる理屈でさえ必要ないということになります。塩野七生さんは、我々が「ちから」と訳す“power”は「権力」と訳するのが一番分かりやすい、といったことを書いていました。「権力」が、「人をねじ伏せることができる力」ということなら、成程納得です。
西尾先生は、他にも過去、何度も危ない目に遭っておられるそうです。では、現代
きれいなスーツを着て、頭もセットし、大衆受けする用意周到に設定された「言論人」が、堂々とマスコミに登場し、しかも愛国的なことを言えるのは何故でしょう?彼らは危険な目に遭わないのでしょうか?
安倍元首相も、首相を辞めてから暗殺された訳ですが、安倍氏が本当に危険人物だったのなら、何故現役の時ではなかったのでしょうか?
暗殺事件の真犯人は、アメリカだ、中国だ、という説があります。したがって統一教会にからむ山上容疑者は重要ではなく、真の問題は台湾問題に関わる話云々という訳です。
しかしその考え方自体が、日本国が、意思を持った有機体というより「ただの舞台」でしかないことを反映しているのではないでしょうか?
安倍元首相の「日本を取り戻す」という言葉に、しびれた人は多かったでしょう。
その「安倍さんの他に誰がいる?」と言い、彼がいるうちに早く憲法改正しなければならない、そのためには多数を集めて法案を通さねばならないし、多少の妥協も仕方がない、とにかく野党に政権を渡してはならず、早くしなくては、とガチガチに構える。
しかしよく考えると、以上のように、「広く国民を動員して、多数派を形成し、社会を変える(変えたい)」—これこそ左翼のやり方です。
彼らにとって、それに「待ったをかける」先生のような人物ほど、邪魔な存在はないでしょう。
そして当然ながら、「もう一つの左翼」は、全マスコミを挙げて大々的に宣伝しなくても65万部も売れた『国民の歴史』と「つくる会」に脅威を覚え、力ずくで一斉につぶしにかかったのです。
さてもし妾が、堂々と「自分は○○の妾だ」と言う代わりに、「私は○○のおかげで食べているのだから、その事は言わないことにしよう。その事を意識するのもやめておこう」と考えたら、その妾は完全に「奴隷」です。
先生が『国民の歴史』で書かれたことの一つは、少なくとも戦前の日本人は「奴隷」ではなかったということです。一つ短文を引用させて下さい。
「当時は支那事変が長引き、ビルマルート云々と言って仏印に陸軍が進駐してから、アメリカは日本の南進を憂慮し、日本は支那・仏印から無条件に撤兵せよ、さもなくば石油や鉄鋼を送らず、在留日本人の資産も凍結するというような態度に出て、野村吉三郎大使が交渉に行っているその状況は毎日、新聞で報道され、当時はアメリカに対して歯ぎしりして敵愾心を燃やしていた時期でもあり・・・」
これは私の父が書いたものですが、「その時期」父は、20歳そこそこの若い身空でした。当時の若者の多くは、こうした祖国の危機を感じ取ったのです。個人的には「男であれば、一生のうちに自分の名を上げたい」という欲望はあったにせよ、「国のため」と思い、軍隊に身を投じた訳です。もし今の若者が当時の若者と違うとすれば、自らの身を投じるに値する「国家」がないということです。
そんな現代日本の状況を、じっと見ているのが外国勢です。
日本はもはや「昔の日本」ではない。人は「国家」を信頼しないなら、「カネ」で動くしかない、日本人は何と御しやすい民族だろう?一部の者が「外国人の土地を売る」のをいくら反対しても、政治がそれを奨励している(しているも同然)以上、雪崩を打って、日本人の土地が失われるだろう、と楽観しているはずです。
他方、今この瞬間にも、「生物兵器」だと言われる「新型コロナワクチン」で、世界中の多くの命が失われているそうです。「人口削減のため」、「邪魔な人間は、虫けらのように踏みつぶしてもかまわない」と思っている連中がいる・・・そんな信じられないような事実が、平和教育を受けてきた日本人の上に降りかかっているのです。
さらに、治験も行われていないアメリカの在庫ワクチンが、この秋から日本で使われるそうですから、あの「原爆の人体実験」の再現です。こうなると、「核の傘なんて何の意味もない」ことが、これまでと違ったやり方で浮かび上がって来ます。昔とは違った状況ではあっても、祖国の危機を感じ取っている一定の人々は、今、我が国にも確実に存在します。
しかし身をささげる「国家」があるのかどうかも分からない、それなのに、いつ弾が飛んで来るかも分からない、おまけに信頼できる政治家もはっきりしない・・・
先生の表現を借りると、「日本が丸裸にされ」かかっている今、日本国民はどうすべきか、今ほど、過去から現在に至る先生の言論の数々が必要とされる時代はない、と私は思うのです。
いささか支離滅裂になり、失礼しました。
〈先生は散々苦勞され、私なら堪へられさうもない不快な思ひもされた〉ーーかねて 、十二分に辨へてゐたつもりだが、今囘の御文章を拜讀して、その思ひを新たにした。
先生に對する私の平素の態度について、先生はかう評されたことがある。
「池田さんは私に『蠅たたきになるな』と言って下さっているのである。私がマスコミで活躍すること自体にこの人は反対なのである。そういう友人である」(『西尾幹二のブログ論壇』P155・平成22年)。
お言葉は、ニーチェなどを持ちだされて優しいが、私の偏見をしかと捉へてをられる。もつと碎けた、亂暴な言葉に飜譯すれば、「餘計なお世話だ」といふことになるかもしれない。
先生の御文章に最初に出合つた60餘年前以來、私は、意識、無意識のうちに、先生を學者・文章家、即ち「書齋の人」と、勝手に決め込んでゐることが多かつた。先生のシャープな論理と、暖かい、清かな血潮の通つた、フレッシュな感覺は、書斎の中でこそ、活き活きと働くと思つたのだ。書齋のやうに夾雜物のないことが、心の純粹な動きに最適だらう・・・。しかし、そこに留まつてゐては、他の能力が消されてしまふ。先生がその外での活動にも精を出されたのは當然だ。世の浅ましさ、魯鈍さに觸れてこそ、研ぎ澄まされた感覺が最も鋭敏に、低能どもにも見えるやうな形で反應することだつてあるだらう。
それにしても、先生の眞理への情熱・知的不正直を惡む反骨精神に感銘を受けながら、よくも勝手に「書齋の人」などと定義したものだ。先生の緻密犀利な分析力に感じ入つた結果だが、贔屓の引き倒しもいいところだ。 先生は決して、それだけの人ではない。
九段下會議、坦坦塾、路の會、つくる會について、先生の御眞情が要領よく披露されてゐるが、私はそれについて、一々觸れる氣にはならない。プロでもセミプロでもない私が、當然路の會のメンバーにして貰へず、粗筋しか知らないことも、その理由だが、それよりも、先生の苦鬪の後を辿ることが、私に苦痛であることの方が大きい。
先生は淡々と語られ、「保守は正直で率直であることを好む」とされ、その二點こそ、この御文章の身上でもあるが、私には、それを理解しつつも、靜かに蹤いて行くことは難しい。そこで、自身の感情が昂ぶらないやうに配慮しつつ、ここには勝手な感想をいくつか斷片的にに竝べるだけで、自分の責めを果した事にしたい。
【安倍シンパ vs 西尾支持者】
「保守系言論人は雪崩を打ったように安倍晋三シンパになりたくて、一斉に走り出した。今まで黙っていた人たちも、急に安倍、安倍、安倍と叫び出した」
「『日本教育再生機構』とやらを作って安倍のブレーンとして名を連ねたのは八木秀次氏であり、中西輝政氏、伊藤哲夫氏も含めて三人である。『九段下会議』が見事に分断されたわけだ。『九段下会議』に参集した総勢60人の一般人のうち、分派活動をした安倍シンパの側に回った者は少なく、約八割が私の側にとどまった」
と先生はお書きになつてゐるが、ここで私は首を傾げた。
これまで何囘かここに書いたとほり、世間一般では當然安倍シンパが壓倒的だが、西尾門下の集まりたるここ(坦々塾)は非・安倍が壓倒的であるべき筈だ。然るに、ここも世間も、人數の割合はあまり變らないといふのが、私の觀測であり、塾への失望の大きな要因だつた。なんだ、馬鹿な世間と同じか・・・。
そこで考へてみた。今囘寄稿されてゐる伊藤悠可さんと渡邊望さんからは、安倍さんの安つぽく、中身ゼロの實態について、何度も懇切丁寧に講義してもらつた。實に分りやすく、さういふ安倍さんのシンパになるのは馬鹿だけだと確信した。それにしては、塾全體の傾向はどうも好ましくない・・・。暫く經つて、自分があれこれ忘れてゐるのに氣づいた。
また同じことを書くのは氣がひけるが、坦々塾で安倍さんの戰後70年談話を論じた際の印象が強過ぎたのだ。あの時、指定スピーカー6人の中で、談話を眞つ向から批判・否定したのは、渡邊望さん一人だけだつた。他のスピーカーは皆、「中身に一部怪しからん言ひ種もあるが、それを弱めるべく、文章・表現の上での配慮・工夫のあとが顯著で、評價できる」といつた調子で、談話を擁護した。
引つ込み思案の自分も、この時は流石に腹が立つて、フロアーから、發言を求める擧手をした。そして許されると、理論構成もせぬまま、「こんな談話を出すくらゐなら、日本などといふ國は解散してしまつた方がマシです!」と叫んだ。
もう一件。ずつと後、この欄で、”虎の門ニュース”が話題になつた。私が、番組は御他聞に洩れずに、安倍シンパ(とまではゆかない場合も、安倍批判は絶對にしない)だと斷じたところ、自分にはさうは感じられないと言つた人がゐた。若い人らしかつたが、この印象も強かつた。アベ、、アベと一齊に靡いてゐる姿が、この人には見えないのだ・・・。
しかし、Oさんはどうだ。安倍さんの外遊好きを皮肉り、地球儀俯瞰外交とやらの虚しさを教へてくれたぢやないか、シンポの合間に。 Aさんは安倍提燈がいつまで續くかと笑つてゐたぢやないか。Kさんとは、いつもメールや電話で安倍さんを罵り溜飮を下げてきた。お互ひにアケスケな口をきき合つてきたので、竹馬の友のやうなつもりでゐるが、あの人とは、そんなに長い附合ひではない。坦々塾で知り合つたのだーーなどと、次々に思ひ出してきた。
そして、比率が世間も塾も同じといふ觀測が誤りであつたと氣づいた(何割對何割とまでは掴めないが)。安倍シンパ即馬鹿といふ斷定については、もう論じたくない。彼に腹を立てつづけ、飽きたので。スナイパーの大藏さんからは、本欄で「安倍批判を愼め」とたしなめられたこともあつた。
【安倍さんに傳へて】
渡邊望さんの描く、路の會の次の一齣は興味深い。
「阿比留さんへの『質疑』の時間になり、会の皆さんが彼に集中しはじめたことは『質疑』なんかではまったくなし。みんな、まさに争うようにして(こうした光景も私は『路の会』ではじめてみました)『安倍さんにこれをいってくれ、あれをいってくれ』の言葉の嵐が集まっていく。阿比留さんの方をみると、別にそれをいちいちメモしてはいません。もしかしたら阿比留さんは記憶力で発言を安倍さんに伝えたのかもしれませんが、その可能性はやはりほとんどなかったといっていいでしょう」
「驚いたのは、『安倍さんにこれこれをいってくれ』の面々が、かつてつくる会運動で安倍さんに痛い目にあった藤岡さんだったり、私は非政治的な人物と思い込んでいた小浜逸郎さんだったり、もう親安倍も反安倍も、政治的も非政治的も関係なく言葉の嵐を形成していたことです」
その場が目に浮かんでくる。かの有名な安倍提燈專門記者を講師として招いた西尾先生の眞意は何だつたのだらうか。かういふ場面になることを豫想されつつ、それを確認してやらうといふいたづら心も、いくらかあつたのでは。
藤岡さんの反應には、今の私は驚かない。なんとなく、藤岡さんの習性が分つてゐるつもりだからだ。つくる會教科書が一發不合格になつた際、藤岡さんは(つくる會も)、安倍政權の安倍總理には何も言はずに、專ら文科省(大臣は萩生田光一)に抗議したり、文句を言ふだけだつた。一番の責任者の責任は問はないのだ(しかも、この場合、安倍さんと教科書とは因縁が淺くないにもかかはらず)。いかにも頽落期のつくる會らしいと思つた。
小浜逸郎さんが、それに加はつたとは少し意外だつた。もつとも、私は小浜さんについては多くを知らない。テレビでの發言を聞いて、穩當だし、時流に乘せられてゐないと感じたことはある。チャンネル櫻で、小浜さんが安倍批判をし、水島社長が「安易な批判は無責任だ」と、目を吊り上げて怒つた場面を視聽した。小浜さんと親しい西尾先生や元・洋泉社の小川さんから、若干の好意的噂を聞いた。先生から、小浜さんは若い頃進歩派だつたと聞かされて私は、理由も事情も知らないのに、批判したこともある。先生は小浜さんを擁護された。ーーその程度の知識で構成した小浜像と「安倍さんに傳へてくれ」がマッチしないといふだけのことだ。渡邊さんによる「非政治的な人物」との評とはマッチするのかもしれないが、この言葉の意味が私にはよく理解できないので、なんとも言へない。
【「敵」と「道具」と】
渡邊さんの次の評言はなんともシャープだ。
「ブラッドベリは『政治の只中にいれば人間は自然と何も考えなくなる』といい、ニーチェは『政治家は、人間を敵か道具のどちらかに使いこなす』といいました。西尾先生は『敵』になって、伊藤哲夫さんたちは『道具』になっただけ、ということでしょう」
一刀兩斷!。二人の言葉をどちらも知らなかつた私は、讀んでスカッとした。いい氣分だつた。
でも、少々心配になつたこともある(渡邊さんには一切責任のないことだが)。上記は、主として「安倍さんに伝えてくれ」の面々を對象にしたものだが、二度めに讀んでゐる途中で、西尾先生までが政治家に、そのやうに「使いこな」されたと誤讀する向きもゐるのではないかーーそそつかしい人がゐるからなあーーそんな氣がしてきた、自身のことは棚に上げて。
もちろん先生も神ならぬ身、見通しを誤つたこともあらう。就中、(先生が)悔恨を込めて、「政治家の方からこちらへ近づいて來べきだつた。然るに、採擇の成果を焦る我々は、こちらから、政治家の方へ近づいてしまつた」と語られた先生には、苦い、口惜しい思ひにつながる經驗があるに違ひない。けれども、それは先生が安倍さんに「使いこな」されたといつた類のことではないと、ここで詳述したいところだが、粗忽な自分がやると、一層ややこしくなる恐れがある。ここは、お手數ながら、渡邊さんに再登場、いつもの平明な言葉で、説いてもらふのがベストだらう。
渡邊さん、よろしくお願ひします。
【 坊ちやん保守 】
つくる會についての、先生の囘顧は苦いものが多いが、私は、當時先生がここにお書きになつたものは全部讀んだので、今囘初耳といふものはない。伊藤哲夫さんなどは、その姿さへ見たことはないが、その人物には、先生の御文章を通じて、かなり親しい。もちろん好意は持つてゐないが、今となつては懷しい名前だ。
『西尾幹二全集 第17卷(歴史教科書問題)』をざつと讀み了へた時、私はホッとした。苦しいこと、遺憾なことは多かつた。しかし、それらをマイナスとして差し引いても、プラスーーやつてよかつたといふ思ひが、先生の中に、ずゐぶん殘る、つまり充足感があると思はれたからだ。「書齋の人」だけでなくてよかつたと、私は先生のために喜んだ。就中、後記や帶に印刷された次の一節に、私は滿足した。
「ある時期鳩山由紀夫氏を評して『坊ちゃん左翼』という言葉が使われていた。私がそれをもじって『坊ちゃん保守』と称した相手は福田和也氏である」「彼の名前を最初あえて出さなかったのは、若い、論壇への登場直後のもの書きを守る立場に私がいたからだ、私の勉強会『路の会』にも彼は顔を出していた」「それから二十年の歳月が経った。私の下した人品評価が正鵠を射ていたことは、昨今の福田の文章家としての評価と力量に現われている」(後記)
「日本の歴史には、目に見えない処で、何十年も前に黙ってやっていた先覚者の仕事が、次の時代を切り拓くということがよくある。思想家は常に捨て石でなければならない」(帯)
【投票日の1週間前】
先生には珍しいことだが、小泉總理には敵意を剥き出しにされた。『狂氣の首相・・・』などといふタイトルの本は、安倍さんの場合だつたら、どこの本屋も怖がつて逃げるのではないか。私も先生に傚つて、靖國の繰上げ參拜(8月15日 →8月13日)に怒つたりしてゐたが、例の郵政選擧の1週間くらゐ前に、先生から電話をいただき、「郵政民營化反對の講演をした。USB(?)を送るので見よ」との仰せ。もう一度電話をいただき、「で、どうする?」とのお尋ね。私は狼狽して、「どうしやうもありません。ああいふことは、分る人には分つてゐます。でも、世間がかうワーッとなつてしまつたら、もう、そっちへ行くしか・・・」と辛うじてお答へした。「どうにもならないと言ふのだな」と怒氣を含んだ聲を先生は出され、電話が切れた。ガチャンといふ音がしたやうな氣もする。
先生は私のことを郵政(總務)省の官僚と言はれたことがあり、この件について、使へることがあるかもと考へられたのかもしれない。實際の私はその近くにゐるが、役人ではない。省の幹部とはだいたい親しいが、かういふ政治問題について、彼等に指示したり頼んだりできる立場にはない。申し譯ないが、私には「どうにもならない」以外の言葉はない。
それに、お恥かしながら、當時の私には、先生の「民營化されれば、郵貯・簡保資金がアメリカに吸ひ上げられ、やがて支那大陸に消える」といふ、一番大事な正論が十分には理解できてゐなかつた。正統派役人と共に、神聖なる信書の取扱ひを素町人に任せるとは言語道斷といふ程度の考へしかなかつた。日ごろの不勉強の報いだ。嗚呼! 今も思ひ出すと、穴に這入りたくなる。先生、その節は大變失禮致しました。
【「確信なき男」ほど・・・】
渡邊さんの結びには全面的に贊成だ。曰く
「もし、安倍さんの死に、空虚感を感じるなら、その空虚の意味は、政治的なるものに近づきすぎて見てしまった幻想がなくなったという意味、ということを自覚してほしいです。政治がいかにおそろしく、『何も考えない人間』たちの妥協しかない世界ということは、ブログでの西尾先生の闘争記を一読すれば明らかでしょう。多くの人たちは安倍さんの死で幻想から覚めた、ということです。もちろん、覚めた人たちが、無関心という、より由々しき世界に陥ってしまうかどうかは、また別個の恐ろしい問題ですが」
西尾先生は「確信なき男」と評され、私にはただのボンクラにしか見えない安倍さん(「敷居を低く」するくらゐのことで、ボンクラでないとは言へないでせう)。そして、その「ボンクラ」ほど恐しいものは、世にないと考へてよろしいのでせうね、渡邊さん。お答が ”Yes” なら、我が意を得たりとなるのですが・・・。
池田さんのコメント文章の中で私への問いかけもあり、また前回の短文で言い尽くせなかったこともありますので、今一度、付け加えを記させていただきたいと思います。
私は、つくる会運動にほとんどというか、まったく関わりがなかったので、採択がどういうものかはよくわかりません。ただ、多くの歴史や公民の教科書の採用に、日本共産党や旧社会党左派(現在は立憲民主党左派にだいたいが移行しているようです)の労組や教育委員が関与していて、つくる会の教科書がなかなか採用採択されない、この既得権益的な構造に挑むためには、どうしても、強化書運動に理解のある右派の政治家に圧力をかけてもらう必要がでてくる。そこで、つくる会運動が政治家色というか、政治家依存というものをせざるを得なくなる。そういうことがあったことは予想できるし、その中心人物に、安倍さんの存在があったことも、つくる会にかかわりのない私にもよくわかります。
小泉さんのことを前回記し忘れてしまいましたが、安倍さんがいろんな面で保守層や右派に期待を抱かせる演技に巧みだったのに比べて、小泉さんは正真正銘の二流政治家といえるでしょう。だいたい、西尾先生に脅迫めいたダイレクトメッセージを送りつけるなんていう、感情論的行動をするのはお話にならない。言論人が敵を増やすのは才覚の証の一つになりえますが、政治家が無益に敵を増やすのは間違いなく無脳の証といえましょう。ゆえに小泉さんは総理退任後、ばったりと影響力もシンパも失って今に至ってます。まだしも101歳まで一定の影響を自民党にもちつづけた中曽根さんの方が役者が多少は上、といえるのかもしれません。
「小泉人気」と「安倍人気」というのはまったく質がことなる。魯迅がおもしろいことをいっていて、「君主や支配者に愚民政策があるように、民衆にも「愚君政策」というのが存在するものなのだ」といっているのですが、ポピュリズムと一言にいっても色々あり、小泉さんは、無思想的芸能人を楽しむような軽い感性で、彼が総理であることを国民が良しとしていた、という気配があったと思います。小泉さんは「愚君」を楽しむ民衆の側の政策だったんですね。
小泉さんは知識人をも取り巻きにできなかった。というより、あまりにも無学過ぎて、知識人が何をいっているか理解できない政治家だったならです。だいたいの政治家なんて右派も左派も小泉さんのレベルで、左派の方がまだしもマルクス主義や人権論の文献を読むだけ(読まざるを得ないだけ)読書家の政治家の割合は高いかもしれません。ただ、自民党にも、かつては大平正芳さんや前尾繁三郎さんのように、知識人とも対等に議論できるくらい本や思考を好む「哲人政治家」というのはいて、右派知識人も、そうした知識人に近い知力をもってくれる人物の台頭を熱望していた。だけれどもこのなかなか果たされない熱望が、実は右派知識人の重大な欠点になってしまったともいえると思います。
西尾先生の批判論も効力あり、小泉さんという人の無思想振りに国民が次第に愛想をつかし、その間隙をついて一気に総理の座についたのが安倍さんです。「愚君政策」は終わりをつげたかたのようにみえた。安倍さんは52歳という若さもあり、そして何より重要なのは、右派知識人の政治家への欠如感=渇望を満たすのに、ドストライクという俗語がまさ如くあてはまる知力を伴った(かのようにみえる)登場をしてくれたということです。かくして、安倍さんが教科書運動の君主のような存在にもなっていくわけです。その辺りのくだりについては、西尾先生の回顧は実に詳しく、為になります。
だけれども、つくる会も、つくる会から分派した教育再生会機構も、その大半の面々が、安倍さんの正体を見抜けなかった。今でも大半が見抜いていないからかもしれません。安倍さんは血統もよく、話し方も上品で、知識人も厚遇してくれるようにみえる。しかし彼が知識人を理解し対等に議論できるということはまずあり得ないことで、もちろん対等に議論できなくてもよいが、けれども、教科書運動ならその運動の重要性の意味を理解しなければ、運動の君主であるとはうえないでしょう。結局、教科書運動で増えたのは、安倍シンパだけで、いったんは微増した再生会機構の採択も、安倍政権末期にはふたたび激減していきました。
よく考えればこの事態の展開の解釈は難しいことではない。安倍さんの方が小泉さんより何倍もいや何十倍も役者が上で、右派言論人は彼の権力層に早々に取り込まれたということです。現役の総理がバックアップして結局採択数が元に戻ってしまった再生会機構=育鵬社の現状をみるに、安倍さんが本当は教科書運動の理想的実現になんの興味もなく、彼は、右派言論人たちを自分の支持層に入れることだけが目的だったといえます。理想実現のリスクダメージより、「理想実現の運動の君主」でいた方が安定して支持基盤を維持できる。スローガンは、実現の対象でなく、集会や選挙での「消費」の対象になる。これは憲法改正も北朝鮮拉致問題も北方領土問題もみんな同じです。小泉さんよりはるかに政治的にしたたかで絶対本音を言わない安倍さんからすれば、簡単に取り込んでいけたことで「言論人なんてちょろいもんだ」で終わりでしょう。「ちょろい」面々には、八木秀次さん小川栄太郎さんを筆頭に、もうほとんどの右派・保守系の知識人、ジャーナリストがいるといって過言ではありません。だいたい、安倍さんの死をヤマトタケルと(私からするとあまりに信じられない)形容をする保守派有力知識人もいるくらいですから。魯迅の言葉に戻れば、安倍さんは、右派知識人への「愚民政策」に大成功し、冥途の土産にヤマトタケルの形容までいただいたことになるのでしょう。
リンカーンのおそろしい言葉に「政治的な敵と友人になってしまえば、その政治的な友人を滅ぼしたのと同じである」というくだりがあります。リンカーンがいかに権力者の闇を自身に宿していたかがよくわかるくだりです。リンカーンの言葉は、安倍さんの知識人取り込みに最大に生かされます。「私はときの総理、安倍晋三と友である」この言葉の力によって、言論人も、もちろん教科書運動も、「安倍派」の一分派に転落し、そのままで終わり続けているんですね。八木さんとあれほど激しく対立した藤岡さんの「安倍さんにこれこれを伝えてくれ」の必死な姿を「路の会」でみたとき、私はそのことを痛切に感じました。
そしてこれからは、失礼を承知でいいますが、西尾先生の立場のむずかしさ、苦しさも、安倍さんをめぐるこの言論界状況で生じた、といえるということです。西尾先生は優しさと論理性を完備されている知識人です。しかし反面、「政治家の友人」などという言葉の政治策に安易に乗るはずのない個人主義も完備している。西尾先生が安倍さんの無思想性を見抜いた次の瞬間に、安倍さんね側も西尾先生の「扱いづらさ」を直観したのでしょう。二人が相容れないのは当たり前というべきです。しかし藤岡さんたち(水島聡さんや花田紀凱さんももちろんおなじ)「安倍さんの友人力」に埋没している人たちとも西尾先生は付き合わなければいけないし、「安倍とつきあうな」ということは西尾先生の個人主義からは決していえない。かくのごとき「安倍時代」は西尾先生にとってむずかしく苦しいものだったのではないか。周囲があまりに安倍さんの「道具」と化してしまった中で発言し行動しなければならない辛さ。これが私の勝手で失礼な一つの憶測です。
私は統一教会と自民党·安倍さんとの歓迎は由々しき問題だとは思いますが、それよりも、憲法改正も北朝鮮拉致も教科書運動も北方領土問題もほとんど進展しないまま、2022年という時代、世界核戦争の国難に直面しているということの方がはるかに難儀なことではないかなと感じています。北朝鮮は拉致問題など遠い過去の話のようにミサイルを每日、日本近海に撃ち込み、ロシアは北方領土交渉打ち切り、北海道の領有までいい出すありさま、自衛隊が相変わらず憲法の制約で両国に対して防衛行動の制限を受けているのはいうまでもありません。このあまりの無変化について、まったくといっていいほど(2010年代のほとんど総理の座で過ごした)安倍さんの責任をいう右派言論人がいないことは、あまりにも安倍さんの「政治家の友人」戦略が成功した証といえるのではないでしょうか。安倍さんの術がすごすぎたのか、言論人の眼力と知力が低すぎたのかは、もう少し時間をかけないとわからないことのような気が私にはするのですが。
渡邊 樣
お教へ忝く存じます。さして意味のないことにお附合ひ下さり恐縮です。仰せの全てが正論で、理論的にそれに服します。ただ私の感覺が鈍く(いろいろなケースに觸れることによる、ブラシュアップがないために)、感じとして、必ずしも貴説をピッタリ受け止められなかつた部分もあります。貴兄には問題にならないことで、御迷惑でせうから、簡單に三三を申上げるだけで、御教示への御禮に代へます。
「安倍さんの方が小泉さんより何倍もいや何十倍も役者が上で・・・」。この點が、私のそれまでの受取り方と違ひました(もつとも、貴兄の反語を私が理解できないのかも)。
役者としての小泉さんの技倆を評價してみたことは屡々あります。もちろん名優とは言へない。なんとも泥臭いし安つぽくもある。でも、ドサ廻りの劍劇くらゐなら、やれる。客を醉はせるころまでは行かずとも、程度の低い觀客を、筋立てに從つて、ある程度引つ張つて行くくらゐの力はある。
これに對して、安倍さんの演技については、殆ど感ぜず、考へてみたこともあまりありませんでした。勿論、なるべく良く見られたい、あまり頭が惡いとか、無智だとか、氣持が冷たいだとか、女々しいだとか見られたくないのは誰も同じで、その反對に見られるやうに振舞つたーーといふ程度のことはありませうが。
小泉さんの場合、郵政解散で、「民營化に贊成か反對か。國民に聞いてみたい」と言つた時、話しぶりや表情を見て、小泉さんの勝ちだと確信した。しかも彼自身が、國民は必ず蹤いて來ると確信してゐることも明かだつた。「如何なる國民も、自分たちのレヴェル以上の政治家をもつことはできない」といふ箴言を思ひ出し、しかし、ここは踊らされる國民よりも小泉さんの方が少しだけ上だとも思つた。
渡邊さんの「小泉さんは正真正銘の二流政治家」との評には、私も同感です(勿論役者といふ意味も含めて)。そして「中曽根さんの方が役者が多少は上」どころではなくて、桁違ひに上だと私には映りました。中曾根さんも一流とは言へませんが、ひょつとすると、なにやら、歴史、哲學に學んだ哲理のごときものも持ち合せてゐるかもといつた雰圍氣を漂はせるやうなperforming abilityもあつた(本人がそれを意識してゐるのがミエミエで、かなりマイナスですが)やうな氣がします。小泉流ドタバタ劍劇とはかなり質が違つたのではないでせうか。
「小泉さんは、無思想的芸能人を楽しむような軽い感性で、彼が総理であることを国民が良しとしていた」には完全に同感でした。渡邊さんの比喩は巧みで、本質を衝いてゐます。しかし
「小泉さんという人の無思想振りに国民が次第に愛想をつかし」は如何でせうか。彼には民營化の餘勢がまだかなり殘つてゐる、あれを支持した國民に、さまで見放されてはゐないと、私には見えました。そして、總理をもう1年といふ欲を出すのではないかと思ひました、でも、彼は「規定の總裁任期が切れるところまで」と明言し、實際そのとほりに辭めました。案外潔いと感じました。
「小泉さんは知識人をも取り巻きにできなかった。というより、あまりにも無学過ぎて、知識人が何をいっているか理解できない政治家だったからです」はどうか。彼が無學なのは確かですが、故に、知識人を取卷きにできなかつたのか、それとも、あんなものは必要ないと考へたのか、私には判斷できません。郵政大臣時代の彼が、事業局はもちろん、官房の勉強會にも、殆ど出なかつたことは省内では公然たる事實でした。出ない理由は分りません。
西尾先生が觀察されたとほり、「安倍は嘗ての政治家に例のないほどに知識人や言論人を必要とし、彼らから知識や統計上の数字を知ろうとしていた」ことはたしかでも、だからいつて、安倍さんは小泉さんほど無學ではなかつたとは決められないのでは。
「(安倍さんが)本当は教科書運動の理想的実現になんの興味もなく、彼は、右派言論人たちを自分の支持層に入れることだけが目的だった」も、私には疑問。彼はそれほど冷徹で醒めてゐたらうか。もちろん言論人の取り込みが主目的でも、他に、それを「いいことだ。國にとつてプラスだ」と考へたいふ理由も多少あるのでは。教科書以外にも、途中で投げ出すのが彼の癖だが、それには、飽きた、忘れた(頭の惡い證據かもしれない)、疲れたといつた要因もあるのでは。
さう現金に、態度を變へたのでは、たとへば西尾先生から「拉致を政權浮揚に100%活用したくせに、あとは放つたらかし」と叱られたごとく、いろいろと不利になることは必定。冷嚴に利害を計算できる人なら、ポーズだけでも、もう少しなんとかするのではないでせうか。どうも私自身の思ひこみが強いのか、彼をただのボンクラ以上には見られないのです。
といふものの、「現役の総理がバックアップして結局採択数が元に戻ってしまった再生会機構=育鵬社の現状をみるに、安倍さんが本当は教科書運動の理想的実現になんの興味もなく、彼は、右派言論人たちを自分の支持層に入れることだけが目的だったといえます。理想実現のリスクダメージより、『理想実現の運動の君主』でいた方が安定して支持基盤を維持できる。スローガンは、実現の対象でなく、集会や選挙での『消費』の対象になる。これは憲法改正も北朝鮮拉致問題も北方領土問題もみんな同じです。小泉さんよりはるかに政治的にしたたかで絶対本音を言わない安倍さんからすれば、簡単に取り込んでいけたことで『言論人なんてちょろいもんだ』で終わりでしょう。『ちょろい』面々には、八木秀次さん小川栄太郎さんを筆頭に、もうほとんどの右派・保守系の知識人、ジャーナリストがいるといって過言ではありません」とまで言はれれば、大部分、贊成せざるを得ないやうな氣になります。
あの議會でのしどろもどろ、支離滅裂の答辯も、”チョロイ”議員やマスコミを安心させるためのものかもしれませんね。委員会で、質問者を「嘘つき」と呼んだのも、同じ目的かもしれませんね。私が安倍さんなら、もう少し整然と喋り、頭がいいと思はせたかつたでせうに。
ただ、「言論人なんてちょろいもんだ」は、それに安倍さんが驚いてゐるか、彼らがどのやうに寄つてきたか覺えてゐないために感想なし、そして教科書、憲法、拉致、北方領土なんて、そんなものあつたのかと、首をひねる場合もある得るのでは。八木秀次さん、小川榮太郎さんの方が自らを”ちょろかつた”と感じることはなく、善戰したのに惜しかつた、今度はどんな「君主」に蹤かうかと思案してゐるーーこれは間違ひないでせうね。
その上で、「西尾先生の立場のむずかしさ、苦しさも、安倍さんをめぐるこの言論界状況で生じた、といえるということです。西尾先生は優しさと論理性を完備されている知識人です。しかし反面、『政治家の友人』などという言葉の政治策に安易に乗るはずのない個人主義も完備している。西尾先生が安倍さんの無思想性を見抜いた次の瞬間に、安倍さんの側も西尾先生の『扱いづらさ』を直観したのでしょう。二人が相容れないのは当たり前というべきです」には全面的に首肯します。私には思ひつかない筋道で、立派に總括して下さり、感謝に堪へません。
「北朝鮮は拉致問題など遠い過去の話のようにミサイルを每日、日本近海に撃ち込み、ロシアは北方領土交渉打ち切り、北海道の領有までいい出すありさま、自衛隊が相変わらず憲法の制約で両国に対して防衛行動の制限を受けているのはいうまでもありません。このあまりの無変化について、まったくといっていいほど(2010年代のほとんど総理の座で過ごした)安倍さんの責任をいう右派言論人がいないことは、あまりにも安倍さんの『政治家の友人』戦略が成功した証といえるのではないでしょうか。安倍さんの術がすごすぎたのか、言論人の眼力と知力が低すぎたのかは、もう少し時間をかけないとわからないことのような気が私にはするのですが」には恐れ入らざるを得ない。嗚呼、言論人の眼力と知力!
(附記)どうでもいいことだが、自身のブログで「 安倍元総理が暗殺されてしまいました。日本で。昨日まで、今日、こんなことが起きるなんて、誰も思いもしなかった。殺してやろうと思っていたという。そういう考えがなぜ心の中で正当化されるのだろう。自分で改造銃を作る狂気」「また安倍総理のことが気持を暗くさせる。残念で仕方ない」と恭々しく ”安倍オマージュ”を拂つた、日録の長谷川管理人が「安倍元総理のこともなんにも飾りをつけず、ご自分で感じられた本当の姿を表しておきたいと思われたのだろう。今日の日録はそういう内容です」と我々を先導・解説して下さるのは愉快。外部の人が兩方を讀んだら、「自分は分裂症に罹つた」と頭を抱へるかもしれなが、私などはしかつめらしく投稿する自分を憐れんだ。呵呵。
何か池田さんとの書簡のやり取りみたいになってしまい、西尾先生や長谷川さんに申し訳ないですが、今一度だけ、池田さんのお話に拙論で以って文章化をここでいたしたく思います。
池田さんのご意見は、「安倍さんがそれほど冷徹に計算を尽くして動いていたようにみえない」ということにたとえばあるように思います。なるほど、当初は旗振り役だった拉致問題を途中からほったらかし、とまでは言わないまでも、実質的に無韓心状態にすれば、それは政治家としてはマイナスイメージになるのは明らかでしょう。
安倍さんあるいは小泉さんの拉致問題への関わりへの評価はいったんおいて、「拉致問題の解決」と安倍さんをはじめたくさんの保守系政治家が言っていきました。でも「解決の方法論」については、ただの一度も議論を彼ら政治家が深化させたことはないですね。理由はむずかしいことではないです。北朝鮮の拉致被害者の奪還なり被害の全貌を明らかにするには、究極的には宣戦布告までの決意が伝わらなければ、北朝鮮はびくともしない、ということが本当の「解決方法」だからです。北朝鮮なんて、交渉の平和的パイプをつくればつくるほど金丸信さんや田辺誠さんのような北朝鮮歓迎外交で終わるのがせいぜいでしょう。
でも北朝鮮拉致に怒る国民も、そこまでいえば支持をしなくなるかもしれないリスクがある。そんなリスクに踏み出すくらいなら、「北朝鮮に抗議する」というスローガンを消費的に繰り返した方が、政治家としての身は安全でありましょう。途中から投げ出したのか、それとも計算づくでこの「スローガンの消費」状態を創り出したのか、それは確かに解釈の別れるところです。しかし少なくともいえるのはこの北朝鮮拉致問題での唯一の進展は2002年の小泉訪朝で、だから小泉さんは安倍さんよりこの問題でマシだったといえるかもしれませんが、内実は小泉さんがリスクとベネフィットの計算をしていなかった、ということでできたことだと思います。もちろんそこには裏方の動きはあったのだろうけど、小泉さんは計算無しで飛び込める蛮勇さがあったとはいえるでしょう。
政治家は哲学者でないのだから知性はいらない。役人的な事務処理力はすぐれた秘書がいれば足りる。政策の実現にはどんな大政治家でも妥協術が必要なので、妥協することは政治家として二流の証ではない。じゃあ政治家って何なんだろう、となれば、リスクとベネフィットを飛び越えた無私の蛮勇さをもてるかどうか、ということにあると思います。池田さんが小泉さんを評価する面がある気持ちはわからないわけではありません。たしかに彼は、ちょっと常人離れした行動力があったといえます。だから西尾先生だって一時期は小泉さんを評価していました。でもそれが完全に裏返ったのは、小泉さんの蛮勇的行動力が、いくらかのビジョンや思考も伴わない芸能人的パフォーマンスだったからで、だから北朝鮮問題は訪朝以降は進展は消えたし、靖国神社参拝は話を大げさにしただけでこれはむしろ靖国神社を愚弄するだけだった。飽きっぽさ、というなら小泉さんの方がよほど安倍さんよりひどいのではないですか。致命的なのは知識人の西尾先生を脅すメッセージを送ることで、こんな共産党委員長でもやらないベネフィット無視ができたのも、小泉さんの無思考的ポピュリズムの為せる業といえるでしょう。
そもそも「優れた政治家」がいるとしたらそれはどんな政治家をいうのでしょう。たとえばイギリスのウォルポールは、賄賂政治の総理で有名だった。しかし彼の時代こそ、彼の力でイギリスの議会政治は確立された。マックス·ウェーバーだったかが、「ウォルポールは、腐敗したが堕落しなかったのだ」と評しましたが、要するにあらゆる蛮勇な手段を通しても、理念を実現しつくしてしまう、これが「腐敗」と「堕落」の違いなのでしょう。小泉さんにはあるようにみえたこの理念がなく、故に無意味な脅迫もやってしまい、各種課題も尻切れトンボにおわったのではないでしょうか。堕落していないかのようにみえた小泉さんは「堕落」していたのです。
私がどうしても安倍さんをしたたかと思うのは、この理念を完備して総理として登場したことに見せたことです。まず、彼には小泉さんのような蛮勇さ、すなわち「腐敗」の面はまったくみられません。ベネフィットがリスクを常にうわまわるように立ち回る。これを計算しないでやっていたとしたら、それこそ悪しき意味での才能というべきでしょう。彼は拉致問題以外のあらゆる保守派右派の課題を理念として掲げ、右派知識人や右派の世論を味方につける。しかし北朝鮮に乗り込むこともなければ、北方領土問題は進展どころかプーチンとの友好のみで停滞、憲法改正は9条のヘンテコな解釈をいいだし、教科書問題は瓦解になんの支援もしなかった。しかし右派の言論人や国民はますます安倍さんに傾く。ウォルポールの真逆「安倍さんは腐敗しなかったが堕落した」が正しいことになるのではないでしょうか。
なるほど、安倍さんがそれらの保守派的理念に関心や善意をもっていたのは事実かもしれません。けれど、これほど完全に「実現度ほぼゼロ」の結果的現実を前にして、私はどうしても、ベネフィットとリスクの計算がそのたびにしつくされ、その計算は「ちょろい」右派知識人や大衆に対してもなされていたのではないかな、と思ってしまうのは自然ではないのでしょうか。
私はたまたま、2014年だったか、タモリの「笑っていいとも」に現役総理としてはじめて出演した安倍さんをテレビでたまたま観て、この人はある意味おそろしいと思ったのをおぼえています。タモリと対等に話できるなら、小泉さんはじめいろんなポピュリズム政治家もできたでしょう。安倍さんがそれらと違うのは、その芸能番組のど真ん中で和やかや雰囲気をつくりながら、一寸たりとも「総理」の雰囲気を崩さないで、聴衆をなだらかに虜にしてしまっている会話の巧みさです。あんなレベルの聴衆だって、安倍さんには「理念」があると思わせる力が彼には備わっているのだ。私はそう思いました。
政治家に欠かせない蛮勇とかならず実現してしまう理念、ということなら、祖父の岸信介さんは、安保改定のために、蛮勇を貫き、自らの進退をぜんぶかけて実現したわけです。国会騒乱以外にも、民社党を抱き込み民社党首班の政権をつくろうとまでして理念実現に徹した。「堕落しなかった」わけで、だから岸内閣は比較的短命だったが歴史に残る内閣、総理になった。業績をほとんど残せなかった安倍さんが、超長期政権の果てに「ヤマトタケル」とまで言われ惜しまれる背景には、「腐敗(もはや蛮勇と言い換えてもいいかもしれない)」と「堕落」を取り違えている私たちの国の知識人と国民の政治家を見る眼のあやうさがあるのではないか、私はそう思います。
渡邊 様
仰せの全てを拳々服膺致します。
この歳になつて、かくも全身に沁みこむやうな名文に接せられるとは、この上もないしあはせ。
私以外の誰方がお讀みになつても、有益と存じますが、往復「書簡」のやうになるこしかに好ましくありませんので、私もここで打ち切ります。重ねて御禮申上げます。
私はつくる会会員 となって23年となりました。西尾先生とのご縁頂いたのも「つくる会会員」となってのもの、 思い出も併せて書き込みます。
つくる会設立から25年、令和2年の検定では一発不合格(翌年再申請で合格)となり現在損害賠償請求訴訟を提訴。 とんでもないことになっていますが、メディアはほとんど取り上げません。初回検定時は外務省から出向、教科書検定官、野田英二郎がつくる会教科書の一発不合格とするよう指示、産経のスクープで、大騒ぎになったのにことが懐かしい(苦笑) つくる会? もう、終わっているし? 従軍慰安婦記載の教科書(山川他)が復活する等、どうしてこんなことになるのか腸煮えくりかえる思いです。 結局は戦後70年代以降でしょうか?中韓に阿る政治家多数(しかも自民党)ということなのでしょう。
(西尾先生との出会い)
私は23年前、地元柏崎で藤岡信勝氏の講演を聞く機会をもち、歴史教科書問題を知しりました。講演後、当時中三だった長男の歴史教科書(教育出版)を読んで驚愕、藤岡氏の仰る「自虐史観」。これでは愛国心など育まれるわけがない、憤りを覚えました。
当時 地元で教科書問題に感心をもつ数人のメンバーと勉強会を立ち上げ、つくる会の会員となりました。
(このメンバーの大半が日本会議柏崎支部を立ち上げるのですがそれは後述)
1999年11月「国民の歴史発刊記念」シンポジウム@(於:東京ベイN.K.ホール)に一人で出かけ西尾先生を2階席から拝見できました。(豆粒のよう)会場には5000人を超える聴講者、若い人もかなり参加していて大盛況だったことを鮮明に覚えています。
2000年、新潟県内(上越市、新井市)で二度、西尾先生の講演にでかけそこで初めて先生とお話することができました。当時私は原子力発電所の企業協議会という任意団体の事務局長で(講演会などの企画もあり)柏崎での講演も快諾して頂きました(2000年10月17日。13日に野田英二郎報道あり、際どいタイミングでした)
前置きながくなりましたが、もう少しです。(体調バッドで、ここでアップ)
ツー ビー コンチュニード
(拉致問題について)
初回アップから 追記版がアップできません。 過激すぎることで?DELETE
されるのか わかりませんが 長谷川さんへの問い合わせも繋がらず、承認待ちです。 話題を替えて 拉致問題について情報を
拉致被害者5人が帰国し、今年で20年になります。
佐渡の曽我ひとみさん、柏崎の蓮池薫さん夫妻が 今週、地元ローカル放送でインタビューに答えました。 昨日は蓮池さんが20年経過した現在の心境を語りました。帰国以降、周囲の方々にお世話になったことへ感謝を述べたあとで 拉致問題の解決に向けた国の対応に段々と苛立ちを感じていると率直に意見を述べていました。
「5人の拉致被害者を戻せば「北」の思うつぼ、謀略国家への甘い認識を捨てる時」
平成14年(2002)12月12日の産経「正論」の西尾先生の記事ですが、
一旦 家族を帰国させ、、子どもたちと話あって永住帰国かどうかを決めさせたらどうかといった言論人(早野透氏 木元教子氏 高樹のぶ子氏 他) 批判されたあと、北を西洋諸国と同一視する愚かを批判されたあと「日本政府が永住帰国を決定した以後、5人は「もう北には戻りたくない」と言い出した。 日本政府が無理やり言わせているのではなく政府決定でようやく 不安が消えたのだ。そう、お書きになっています。(私もそう思っていました)
ところが、先日の蓮池氏の発言によると 話はまったく逆で 帰国後家族や関係者と議論を重ね、北も子どもたちに手を出すような行動は起こさないだろうと(不安もあったが)帰国しない!意志を中山参与に伝えたとのことです。そのことを「政府が政治利用」したとまで 断言していました。 そう、北の恐ろしさを知りながらも洗脳などなかったということです。
日本人を助けない、それよりも国交回復優先? 自民党も野党もどうしようもない! 忘れないようにアップします。
越後の石松(小池)親分
”to be continued” のあとが續かず、體調惡し?と心配でしたが、さうでもないやうで、安心しました。例の「承認待ち」ですか。
とすれば、私の場合も、長谷川さんは故意ではなかつたのかも。でも、疲れます。
「5人の拉致被害者を戻せば『北』の思うつぼ、謀略国家への甘い認識を捨てる時」(西尾先生・平成14年(2002)12月12日の産経「正論」)を當時讀んで、感銘を受けた記憶が蘇つてきました。
ただし、5人が歸つてきた際の日本政府の對應については、詳しくは知りませんでした。
蓮池薫さんによると、「帰国後家族や関係者と議論を重ね、北も、子どもたちに手を出すような行動は(多分)起こさないだろうと判 斷し(不安もあったが)、帰国しない意志を中山参与に伝えた。北の恐ろしさは十分に知っていたが、この件については、洗脳な どなかった」のですね。しかし順序としては、政府の「帰さない」という決定に5人が同調、従つたと理解していましたが、実際は逆で、5人の意向を政府が政治利用したのですね。
當時の産經の報道では、福田官房長官は「”約束”に從つて、一旦5人を北に歸す」ことを主張し、安倍副長官は「國家意志として、絶對に歸してはいけない。自分は體を張つて阻止する」と言つたとか。これを讀んで、安倍さんのなんと立派なこと!と感激し、福田たあ怪しからん奴だ。國賊だ!と憤慨したことを覺えてゐます。
數年後、安倍總理になつて間もなく、安倍副長官がマスコミ向けでない、政府内で、「阻止する」なんてことを言ふはずがない。あれは、阿比留記者が關與したかどうかは兔も角、安倍提燈新聞によるでつち上げだつたのだと確信しました。今囘、渡邊さんからお教へを受けた10數年前でも、そのくらゐのことは感じ取りましたよ。
小泉訪朝に同行した安倍副長官は、日本側の待機してゐる部屋で、北に盜聽されてゐることは百も承知の上で、「今からの會談で北が、かういふ態度だつたら、即刻會談を打ち切つて歸國しよう」と敢て、大きな聲で言つたーーといふ記事もありましたね。安倍といふヤツは、ずゐぶん智慧があるなあと感心し、私の安倍崇拜は愈々熱を上げましたが、數年後、これも、インチキ新聞の創作に決まつてゐると氣づきました。
ところで、蓮池薫さんの兄の蓮池透さんは一時、「救ふ會」の事務局長を務めましたね。「透さんの本業は何でせう。救ふ會から月給は出ないでせう」と西尾先生に質問したところ、「彼は東京電力の社員だ。そのままの身分で、救ふ會の(ほぼ)專從を認めてゐるらしい」とのお答。理解のある會社だなと感心しました。拉致問題と東電との關係は他にもお聞きしたやうな氣がします。先生ずゐぶんお詳しいな、と感じました。
先生が原發にお詳しいことも私には驚異でした(先生は他の分野でも、あれこれとお詳しいけれど、それにしても、です)。そして、石松親分は永年東電勤務で、原發にかかはられました。更に、先生とお話してゐると、頻繁に親分の名前(小池さん)が出てきます。原發・拉致ーー東電と、西尾先生が結びつくのには、當然親分の任侠の精神がかかはつてゐることは明かです。先生は一々具體的におつしやることはありませんが。
そこでお願ひ。上記のかかはりについて、お差支へのない範圍で、お教へ願へないでせうか。もちろん自慢話と取られることは不本意でせう。しかし、後世のためにも、歴史的事實をなるべく詳細に傳へることは大切です。況んや、原發、拉致といふ國家の大問題に於いてをや。何分の御高配を。
(つくる会 新しい歴史教科書 検定不合格 日本会議支部での講演)
本年8月 日本会議柏崎支部の依頼を受け 以下の項目を説明しました。
(2度目の危機 八木一派による 分断などまったく知りません、支部としての活動実績つくりと懇親会が目的ということで承諾したものです)
1. 新しい歴史教科書をつくる会 25年の経緯
つくる会趣意書 自虐史観(東京裁判史観)からの脱却
歴史教科書は中韓の修正要求を反映? 近隣諸国条項
教科書検定 教科書採択まで (柏崎刈羽地区は?)
2. つくる会教科書の危機は 三度
3. 柏崎刈羽の歴史 雑感 子どもたちに伝えたい柏崎刈羽の歴史
4. まとめ(坦々塾で学んだこと 紹介)
三度目(一発不合格)の危機は、萩生田元大臣の無責任 文科省にあっては組織的悪意、教科書検定官にあっては北朝鮮のスパイ(徳間書店発行 週刊誌 アサヒ芸能報道)等、藤岡副会長にお願いし、関係資料を送って頂きたものを活用しました。
ちなみに 最初の危機は西尾先生が「つくる会」25周年集会で「秘話」として紹介されています。 以下、で検索してください(URLに問題あり?)
「つくる会」25周年2001年 外圧事件 西尾幹二初代会長が「秘話」を公開
三度目の危機が 令和元年の検定一発不合格です。
(つくる会HP) URL 削除しました。
(文科省 「不正検定を正す会」 HP) URL削除しました。
(投稿の承認がおりませんので本日 令和4年10月14日の産経新聞社会面に関連記事があります、 他社も大量修正があり「不合理な制度」との見出しです。
さて、講演資料作成にあたり、20数年の私自身の採択活動ほか 先生のご著書「全集17巻」『新しい歴史教科書「つくる会の主張」』 「国家と謝罪」を読み返し、
懐かしさ、怒り、虚しさを思い出しながらの作業でした。 そして、
二度目の危機こそ、(「つくる会」分断)が、三度目に繋がっていると確信したのです。つまり、萩生田元大臣は安倍さんの派閥でもあるし、「つくる会」を敵視していたのではないかと。(「国家と謝罪」Part3に記載あり)『言論人は政局評論家になるな~安倍晋三氏よ「小泉」にならないで欲しい~「教育再生会議」無用論 まで』
萩生田元文科大臣 はそもそも 教科書問題など関心もなく先生の安倍さん批判にのみで「つくる会」憎しのバイアスがかかり、現場(検定)を傍観していたにすぎないと。萩生田氏は2003年当選ですので「九段下会議」の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員」に参加していたかは不明ですし、そして安倍ブレーンとして奔走した八木氏や伊藤哲夫氏とコネクションがあるのかも承知しませんがそう思えてなりません。
私は 現在の「つくる会」の正会員ですが、名ばかりで活動はしていません。しかし、つくる会で幹部のある方からお聞きした話によると(その方は 桜井よしこ氏が代表の国家基本問題研究所にも所属)
桜井よしこ氏と萩生田氏は度々コンタクトをとることもあるようで(国家基本問題研究所のシンポに何度か登壇している) 偶々 二人の架電最中に つくる会(○○氏)をあからさまに批判していたとの由。 当時は 驚きましたが、三度目の騒動(裁判沙汰) を考えると 理解できました。 虚しさ、怒りですね。
このようなタイミング(国葬)で 西尾先生の
「九段下会議」から「坦々塾」へ 今回のメッセージに驚きを感じました。
小泉の「ただでは済まさない」という脅迫のメッセージを伝えたのは八木秀次氏だた。~ 権力に媚びてでも利益を得たい~ それが人間の本性である。
こんな 人間に日本の将来を託す 教科書問題にかかわることが許されるのだろうかと。
だらだらと綴りましたが、日本(人)は ダメになりましたね。日本をリードする政治家、官僚、財界人 戦後つまりは 私と同世代(昭和30年代~それ以降)ですがもう手遅れと感じました。
追記 『国民の歴史』発刊記念 東京ベイNKホールの冊子 西尾先生
この教科書で学んだ中学生が社会に実際に影響を与えるようなるのは2030年代以後である。もう、私は地上に存在していない。「つくる会」もまたとうの昔に消滅している。
(「新潮45」平成9年11月号掲載 「われわれは30年後の日本に賭けている」)
池田さま
10月15日 拉致被害者5人が帰国して20年 今日の産経 一面は「 拉致 進展なき 20年」のタイトルで 蓮池薫氏の単独インタビューが掲載されていました。
そこに 薫氏の思い「親世代 存命中が期限、強調を」が書かれています。ローカル放送で発言していた内容にそっていましたね。そして、社会面には 北へ帰らないとした 「決意の会見」被害者5人の意志であることも書かれています。流石に「政治利用」とはありませんでしたが。 私が「政治利用」と聞いたのは兄の透氏からで、具体的なことというより、ことあるたびに「拉致問題は安倍(○○)政権での最重要課題」といったうたい文句ばかりで 結局具体的打開策など手にも付けない(やる気もないからなんでもあり) 米国大統領に家族会を弾き合わせた等、(これもバカにしていると思う)そのような認識でした。 メディアもそうでしょう、「メディアは死んでいた」元産経記者の阿部雅美氏の著書に詳しいです。
兄の透氏は柏崎高校、そして会社(東電)の2年先輩です。この頃平成11年~ 青森県六ケ所村の日本原燃に出向していましたが(本社は青森県六ケ所村)、透氏は家族会(救う会は西岡氏)事務局長として奔走していたため会社の計らいもあって勤務地は日本原燃の東京本部、霞が関でした。
平成14年は 拉致被害者帰国 という 衝撃的なニュースがありました。「拉致」北朝鮮は怖い国、(被害者は)可愛そう、許せない、、、、自分とは無縁のこと。 こんなかんじでしょうか? しかし、地元柏崎では 昭和53年 蓮池夫妻の拉致事件よりも前から 謎の失踪事件がありました。 そして、それが北朝鮮による人さらいということを 薄々感じていたのです。
池田さんの質問からズレてきたので、戻します。
平成14年12月26日 「新しい歴史教科書」(西尾幹二名誉会長) 主催による「拉致被害者から話を聞く対話集会」緊急シンポジウムが開催されました。横田さんご夫妻、透氏、政治家は平沢勝栄氏、多数メディア、会場には緊急(告知は2週間前)にもかかわらず、1200名の参加者があり、登壇者の発言も来場者に響くも素晴らしいシンポだったと記憶しています。そこで、西尾先生に透氏を紹介でき、参加者からのカンパも70万円ほど集まり、透氏も感謝していました。
蓮池氏が当時 会社員として勤務につき、家族会事務局長で奔走するには幾つかの障害があったのですが、会社の規定にある休暇が足りなく、欠勤となるとこれは給与のみならず、その後も厄介なことになります。 そこで、小生が会社幹部を通じて「西尾幹二の日録」2002年10月24日の投稿(蓮池氏の行動を絶賛する書き込み)当時の東電社長、日本原燃社長に「特別措置、計らい」をお願いしたところ、会社(日本原燃の社長は東電OB)「君(蓮池氏)の行動は、国家の大事、特別措置で対応する」 そういった話を透氏から聞き、嬉しかったことを思い出します。
後日、不愉快なことがありまして(先生もご存じなのですが)ここで、一区切りとします。
原発の件はのちほど・・・
越後の石松(小池)親分
平成14年のつくる会主催のシンポ、あのとき、親分が透さんを西尾先生に紹介したのですね。もつと前かと思つてゐました。
あのシンポ、盛会でしたね。私も洋泉社の小川編集部長と一緒に聴講しました。小川さんがカンパするので、私だけ知らん顔といふわけにゆかず、珍しく千円出したことを覚えてゐます。
「君(蓮池氏)の行動は、国家の大事、特別措置で対応する」ーーには、やはり親分が陰でかかはられたのですね。 重畳!流石に親分。これぞ任侠!
でも、親分の書き方は遠慮がちであり、端折られてもゐて、もの足りなくも感じました。
次は原発。これは国家の重大事。しかも相手は天下無双の西尾幹二! 遠慮なく、シャープに書いて下さい。よろしく。
長谷川さま
お疲れ様です。 小池です。 日録 愚職の投稿を策剰お願いします。
10月13日 12:48 12:44 11:55 11:47 10:52
10月14日 8:59
不適切な表現や 個人を特定できる 文面があるため。
何卒よろしく よろしく ・・・
小池 拝
長谷川様 宛て(ブログ)にも 削除依頼をいているのですが、レスもなし。
なにか 不都合でもあるのですか? 書き手の 小生のバカさ
加減はともかく、日録を見ている人たちには 繋がりなく、迷惑だと思います。
管理人として 如何お考えでしょう!
長谷川さんには、一方ならぬお世話になつてゐるので、申しにくいのですが、小池さんのこのコメントには是非答へてもらひたいですね、。
シツコ過ぎるかもしれませんが、念のため、下に再録します。
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長谷川様 宛て(ブログ)にも 削除依頼をしているのですが、レスもなし。
なにか 不都合でもあるのですか? 書き手の 小生のバカさ
加減はともかく、日録を見ている人たちには 繋がりなく、迷惑だと思います。
管理人として 如何お考えでしょう!
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これは日録の存亡にかかはる。重大な問題です。小池さんのコメントは1囘づつ讀めば、意味が通じるのですが、コメントとコメントの間に、變な文が這入つたり、掲載の順序がをかしく、小池さんも、つひにオツムをやられのではと即断する向きもあるかもしれません。しかし、これは明かに、管理人の不手際、不作爲が原因です。
御存じの方もをられるかもしれませんが、私も最近似たやうな、しかも、もつとひどい目に遭ひ、私はこれを長谷川さんの故意による犯罪と斷じました。そして、ここに、「SNS犯罪」なる一文を草し、またある方面にも擴散させました。法的な爭ひになつた場合に備へ、長谷川
さんにより隱蔽される恐れのあるメールなどの證據は保存につとめました。また、私のコメントは長谷川さんにブロックされるので、渡邊望さんにまづ送つて、「池田から、かういふメールが來た」といふ形で、彼に日録へ送り込んでもらひました。それでも、前後がダブつたり、
相當な不都合が生じました。彼女は、他のブログで「私はそれほど意地惡ではない」との一言のみ。詫びもなく、ケロッとしたもの。蛙の面に水とは、かういふのを指すのでせう。彼女には、問題の性質よりも、自身の性質(の良さ)が問題なのでせう。
そんな文句があるなら、自分で管理人をやれなどといふ買ひ言葉も豫想しつつ、以上感想を申しましたが、私にそんなむづかしいことができないことは、西尾先生が疾つくに御存じ。彼女のことだから、ケロッとして、無爲・不作爲の管理人をつづけるかも。いづれにしても、神
經の太い人は強い。
小池さん。西尾幹二・原発・東電ーー国家の消長を左右する大問題。その解説の舞台が大乱れではやりにくでしょう。舞台が整つてから、慌てず、落ち着いて、シャープなもの書いて下さい。その為の地ならしなら、老生も労を惜しみません。フレーフレー、親分!
池田様
小池さまの要望にお応えするのに時間を要してしまいました。
小池さまにはその旨個人的にお詫びしました。
私宛になっていますが、toshiuehとは誰方なのか、何をおつしやつてゐるのか、さつぱり分りません。小池さんに続いて、小生もオツムに故障かーーまあ、年齢的に自然な現象かもしれませんが、普通の日本語もチンプンカンプンとあつては、小生など、この世にゐる意味がありませんね。
池田様
申訳ありません。
これは古いハンドルネームで、
このブログの管理人のアカウント?です。
で、ログインしたままコメントを書いたのでこういうことになりました。
混乱させてすみませんでした。
管理人(toshiueh様
お世話さまです。
1,careless mistakeは誰にもあります。 Don’t mind.
2,小池さんに、個人的に? 日録には、投稿者と読者がゐるといふ前提ではないのですか?
(原発 お前はもう死んでいる!)
福島事故以降 西尾先生は原発反対派にシフトしたことは みなさまご存じのとおり、福島事故以降 WiLL 等 言論誌で発言されていますね。事故直後、先生から私にもいろいろと問い合わせを頂きましたが、感情的な議論ばかりで詳細は忘れてしまいました。今回、池田さんの罠にあえて嵌り、当時の先生の主張を読み返し、事故から10年以上たった現在の我が国のエネルギー事情についてお話を進めていきます。 理解して頂きたいのは西尾先生を批判することが目的ではありません。日本のエネルギー政策は大きな間違いを犯し、取り返しのつかないところまできてしまったということです。 (後述)
(西尾先生が原発反対派に転じた理由)
WiLL 2011年7月号から(P49)
原発事故が起こってから、私は原発賛成派から反対派に転じた。経済的、合理的で安全だから反対する理由がないだけで、無関心派に近かった。格別そこに道義や理念もない。『たかがエネルギーの問題で、国家の価値観や歴史の尊厳とは関係ない』中略 人は選択肢を変えることに躊躇すべきではない。『人間は経験から学ぶべきものである。』
(私の意見)
→ エネルギーは国家の存続にかかわる最重要課題、エネルギーがなければ人は生きていくことはできない。エネルギーが無ければ食料も生産できない。(エネルギーとはもちろん電気だけではない、ガスもあれば石油等々)
→人間は経験から学ぶものではなく歴史から学ぶものである。有史上の戦争はすべてと言っても過言ではない、エネルギーの争奪である。土地の確保(食料生産) 植民地化(労働力の確保) 歴史から学ばなければならいでしょう、先生には釈迦に説法ですが。嗚呼~
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(あまりも悲しい)
P53
われわれは『「計画停電」で脅迫された』が、夏の盛りは別として、原発を停止しても休止中の火力発電を復活すればそんな危機はすぐこないという数字の証明も各方面でなされている。
→ 現在需給逼迫で今冬も供給不安は避けられいが(発送電分離 電力会社解体) 当時の情況から言ってそれはありえない。なぜなら、東電管内の火力発電も相当の被害を受けており、大口需要家の工場など停止し、電気料金を下げる契約(デマンドレスポンスという契約)にて乗り切った。
『「計画停電」で脅迫された』~悲しいですよ、これは。電力会社の使命は停電させないことが使命なのですから、 以下、思い出の日記
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私は 震災以降 会社側、組合側の要請を受けて福島事故の情況説明に各支店、支社を奔走した。福島事故後原因、事故対応など、今後どうなるかは不透明、できるだけわかりやすく丁寧に説明した。何処の職場も死を覚悟しながらも事故対応にあたった 後に、『Fukushima50』と呼ばれた社員の現況が知りたかったようだ。事故後、東電社員は批判の対象になり(原発だけではない)社員はみな辛い思いをしていたから。
(社員の心は繋がっているんだと 若手社員を激励)
『僕のお父さんは東電社員です』という本も出版された、家族も同じように苦しんでいた。福島の人たちの苦難とは比較しないで欲しい。決して社員が悪いわけではないのだから。。。
各職場では、説明会のあと 会社側も組合側一緒になっての懇談会(食事会)が用意されていた、 そこで若手社員に「何かといやなことばかりだろうけど、何が一番か辛かった?」と問いかけた。
どこの職場で同じなんだ「お客様に計画停電のお願いに伺うことでした」と。停電させないことが電力社員のDNAだ、涙が止まらない(当時の日記)
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P53
~再生可能エネルギー(ドイツでは発電量の25~30%) それは買い取りシステムが確立されている。
(私の意見・事実)
~民主党政権時 日本で再生可能エネルギーの買い取り制度が閣議決定されたのは2011年3月11日、(震災の当日AM)法が施行されたのが翌年の8月、菅直人が総理を辞める条件だった。
他にも放射線(脳)に関するあきらかな事実誤認などなど。
今回、「九段下会議」の「緊急政策提言」をみて、「エネルギー安全保障」がないなぁ~!しかし、今回先生の主張で納得、もともとエネルギー問題には関心がなかったのだから、残念。
ここからは、現在起きている電力供給危機について書きます。
(菅直人がつくった原子力規制委員会)
『たとえ、政権が代わってもトントントンと元に戻るかといえば、戻りません。10基も20基も再稼働するなんてありえない。そう簡単に戻らない仕組みを民主党は残した。その象徴が「原子力・安全保安院」を潰して原子力規制委員会をつくったことです。』
「菅直人:2013年4月30日、北海道新聞」
原子力反対の専門家をトップにすえ、審査も進まない情況。詳細割愛、米国規制委員会(NRC)も日本の規制には問題ありと警鐘?まではないか(科学的な合理性がないということで呆れていることは事実)
ところで、このトンデモ規制庁なのだが、この規制委員会を「三条委員会」としたのが、安倍さんのオトモダチ?塩崎恭久氏、いったいどうなっているの。実は(民主党さえ 八条主張していたのに。 これでは、憲法改正と同じ?手の施しようがないではないのか!?
(経産省が仕掛けた発送電分離)
電力不足、自由化による電気料金の高騰、日本のエネルギー政策は取り返しのつかない政策を決定しました。
それが経産省官僚による、発送電分離です。 以下は故
仙谷由人の『エネルギー・原子力政策の大転換』からの一文です。
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仙谷由人著『エネルギー・原子力大転換(講談社)』から抜粋(P182~183)
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東電は原発が停止した以上、(略)もはや「どんぶり勘定」の発送電一貫体制は改めざるを得ない。これは原賠機構の嶋田隆理事兼事務局長とも連携して進めたことで、東電は2013年4月以降「火力・燃料」「送配電」「小売り」の社内3カンパニー制へ移行する。当面は社内組織に分離だが、送配電部門の中立性・透明性が確保される。
この東電組織改革が同社を中核としてきた“幕藩9社体制”の電力業界に伝搬しないわけがない。電力システム改革、すなわち、電力自由化の拡大ははじめから視野に入っていた。(略)
経産省には旧通産省時代の1990年代から電力自由化を進めてきた歴史がある。(略)旧通産省の電力自由化のDNAは残っており、その制度設計の蓄積を利用することは有効だった。のちに“仙谷3人組”と呼ばれる1982年同期入省の経産官僚3人、すなわち、嶋田隆君、日下部聡君、今井尚哉君とは密接に連携してきた。
【企業再生プロ集団の人選】~P100
わずか半月の間に第3者委員会(企業再生)の一気呵成に決まったのだ。焦点はむしろ実働部隊となる事務局の責任者の人事だった。~企業財務、倒産法制の知識をもち東電と渡り合える役人はいないかと頭を巡らせたがなかなか浮かばない、困っていると通産省出身の松井孝治参議院議員がこう持ちかけてきた「後輩に面白い奴がいますよ」それが経産省の西山圭太君だった。
発送電分離をしかけたのは、経産省官僚(嶋田隆 元事務次官、西山圭太 今井尚哉(安倍氏の補佐官))この人達が民主党に入れ知恵して現在の システム破壊すなわち安定供給の崩壊(停電しない、安定した周波数、電圧)が 確保できなくなった。 政治は電力システムを知る由もなし、これらの現場を知らない連中にやられた。 (東電守旧派のメンバーは退場させられた!)
私は原子力発電で部門で43年でしたが、電力系統にもかかわっていました。1987年東電はある原因で大停電を起こしてしまいました。 発電設備だけではなく、送電線網の強化、停電を極力回避できるシステムを構築したのです。(技術的なことは割愛) 2011年3月11日、あの震災で、福島の原子力発電は全台停止(福島第一、第二で7基)そし東京湾岸にある多くの火力も停止しました。しかし、東電管轄から西側にある柏崎刈羽は4基480万kWが電気を送り続けていたのです。柏崎刈羽が停止していたら と思うとぞっとするのです。
6年前、発送電分離すれば、電気料金の高騰、安定供給は崩壊するだろうと。「東京が停電になればいい」
どうせ、地獄行きの切符は手配されているのだからと、吠えましたが、覚えているのは池田俊二さんだけでしょうか。 日本は本当にダメな国なりました。
失礼しました!!
小池広之様 渡邊 望樣
小池さん、お疲れ樣でした。力作をお寄せいただいて恐縮至極、厚く御禮申し上げます。
にもかかはらず、申し譯なき次第ながら、私の知能と、(極端に勉強不足の)知識では、何分の一も理解できませんでした。恐らく一番肝腎なポイントや筋も掴みきれてゐないと感じます。
全體として、日本といふ國はもう駄目だといふ嘆き、depressiveな氣分は傳はつてきます。東電には嘗て命を賭けて原發と國民の安全を護らうとした勇士がゐたが、今は、ほとんどが逃げ腰で、未來へのヴィジョンも、突破せんといふ氣概もなし。經産省のひどさは言語道斷ーーそんな風に感じられますが、それを自分の中で、理論的に整理することもできません。
西尾先生の原發反對論にしても、原子力村のでたらめさを見れば、原發を進める資格も能力もない。抑々原發推進といふ國家意志があるのならば、これは軍(自衞隊)が護るのが當然。それを民間の警備會社に任して平然としてゐるのだから、國にはその氣がないと言はざるを得ない(これは100%理に適つてゐませう)ーー私が知つてゐるつもりなのは、その程度で、きちんとした道筋は頭に這入つてゐません。
そんな私に感想を書く力はありません・・・。そこで、ムシのいい、しかし素晴しい考へが浮びました。渡邊望さんにお願ひすることです。
渡邊さんなら、專門家たる貴兄の説を讀み取り、私のやうなド素人にも理解できるやう、噛み碎いて説いて下さるでせう。彼氏に、難しいことを易しい言葉で整然と解説して頂いて、目から鱗の思ひをしたことが、私には無數にあります。
それに、渡邊さんなら、原子力・原發に關する知識も豐富で、立派な見識を備へてをられるに違ひない。小池説を越えた先まで、發展することも期待できる。讀むのは私だけではないので、廣く世を裨益することにもなる。Good idea! 今、一人でほくそ笑んでゐます。
私がお願ひするのですから、貴兄の許可は不要でせう。逃げたのではありません。天才的發想が湧いたので、それに從つたまでです。
渡邊 樣
上記の次第にて、ここは貴兄にお出ましいただくことが、日録にとつてベストと考へます。何分の御高配を願ひ上げます。
池田さんにバトンを渡されましたので、ふたたび短文を記させていただきます。
池田さんは誤解されてますが、私は原子力についても原発についても、特に詳しくはございません。ですから素人論になってしまうのは避けられませんが、だいたい10年くらい前の、西尾先生の原発論はぜんぶ目を通したし、世間で話題になっている原発論や、文系的な面からが多くなってしまいますが、原子力論のすくなからずもかつて読んだことはございます。
小池さんのいわれる通り、エネルギー問題と国家(この場合、「近代国家」と言い換えてよいでしょうか)の存立は不可分です。親しい歴史的実例でいえば大東亜戦争が日本の石油締め付けで追いやられたことが想起しやすいですが、実はほぼ同時期、イギリス(アメリカ、ソ連がまだ参戦していない段階)も一大窮地に陥っていました。エネルギー問題です。
1960年以降の北海油田の開発で現在は7割以上の石油自給率のあるイギリスですが、世界大戦時は全面的に中東やアメリカに輸入依存をしており、このイギリスの石油シーレーンの弱点を猛攻撃したのがドイツの潜水艦艦隊です。ドイツは最大時、1月80万トンのイギリス輸送船舶を撃沈していたといわれます。この危機をイギリスがなんとか回避できたのは、イギリスが日本の4倍(約2000万トン)にあたる一般船舶とりわけタンカーを保有していたこと、レンドリース法(武器貸付法)でアメリカから50隻以上の旧式駆逐艦(対ドイツ潜水艦防御用)を緊急贈与されたこと、こうした理由などによります。しかしそれでも島国イギリスのエネルギー供給はギリギリに追い詰められており、もしアメリカ参戦があと半年遅れてドイツの潜水艦対峙を本格化しなければ、イギリスのエネルギー資源は枯渇し降伏ないしはカナダなどへの政府拠点の海外移転を余儀なくされていたでしょう。このように国運とエネルギー問題は切っても切れない関係にある。これは間違いないことだと思います。
エネルギーがなくなれば動かなくなるのは発電所だけではありません。たとえば物流はすべて自動車や航空機などを使っているのだからストップするし、農業だって機械に依存しているのだからこれも止まり食料自給は崩壊する。つまり、国のインフラの何もかもが駄目になってしまう。昨今の世界情勢の緊迫や、アメリカの身勝手なドル高政策で日本国内の物価があがっていること、あるいはロシアがあれほど戦局劣勢なのにもかかわらず依然として西ヨーロッパに対して強気でいられるのは、石油や天然ガスなどエネルギー供給の切り札をもっているからで、この切り札は、原発依存度が低い国ほど強烈な脅威となっています。
だから、というのはやや短絡的かもしれませんが、私は二者択一を迫られれば原発賛成派を選びます。西尾先生の本では、水力発電や地熱発電などの自然エネルギー転換の可能性が日本では高い、とあったように思いますが、それに理はあるとしても、その根本転換のためにかかる時間と費用はどれくらいのものか、その計り知れなさを考えれば、原発を全稼働させることがまず近道でありましょう。私はまずはそう考えます。ただここからは私は賛成派は賛成派でも、単純な賛成派でなくなります。
原発の全稼働には絶対的な覚悟が必要です。原発は安全かどうか、という議論がよくされていますが、私には大半が「安心の共同体」幻想の周囲でフラフラしてる日本人の無意味な議論に感じられます。日本人はとにかく安心したい。安心を与えてくれるものが善であるという思念が至るところに見えかくれします。けれども「安心」と「安全」はほぼ完全に別物です。「日本人は安心と安全を取り違えている民族だ」というのが私の持論ですが、原発保有というのは、ある意味、核兵器の保有と同じなので、北朝鮮や中国、ロシアの通常兵器やテロリストの攻撃を受けて破壊メルトダウンを起こせば、これは自国内で核兵器が炸裂したことと同じ被害が発生する。あるいは福島原発周辺でいまだに除染作業がつづいていることを知っている日本人がどれだけいるのでしょうか。
原発を保有るすることは間違いなくハイリスクなことなのです。ゆえに原発には最低限、自衛隊の数百人単位での常駐警戒が必要になる。この危惧は、西尾先生も、たぶん小池さんも共有されて同意見ではなかったかな、と思います。ただ、その防備コストを用いたとしても、やはり原発稼働は必要であり、私達日本人は「覚悟」を有して原子力発電と共有さなければならない、というのが私の賛成派論です。ですから原発全稼働でまずやらなければならないのは自衛隊の増強と改革ということになる。「原発をもっているからエネルギー供給は安心だ」というのは観念論で、コストと覚悟を有してこそ、「安全」を得ることができるわけです。この安心と安全の取り違えは反対派についてもあてはまり、「原発は危ない」という安心感を得たい気持ちから、「原発なしでも問題ない」と、エネルギー供給の「安全」を軽くみる面々が多くなる。無限定に安心できる文明の力、文明段階などこの世界のどこにもない。「安心」と無縁な形の「安全」は、常に努めて作り出していかなければならないもの、この覚悟がない限り、いかなる原発賛成派論も原発反対論も空論、観念論にすぎないといっていいでしょう。だから私は日本の原発論の賛否二分論自体に不満を強く感じてしまってます。
「賢さよりも大事なことは、問題にいつまでも付き合いつづける忍耐である」というアインシュタインの言葉があります。人間は核融合可能の段階に到達してしまってから、原子力や核の存在と付き合いつづけなければならない命運をもってしまったんではないでしょうか。その命運を、単純な賛成論反対論で割り切るのは非常に観念的で非生産的な話になります。原発から少し離れますが、同じ原子力問題の範疇である日本の核兵器保有論についても私は不満があります(このこともどこかで既述しました)日本が核兵器を保有するのは好ましい。しかし、保有したのちの管理の問題はもちろん、万が一、核兵器攻撃を受けた場合の退避計画や放射能除染その他のソフトウェア面での核兵器保有の実際はどうなるのか、そうした議論はほとんどみられません。「保有した方がいい」という観念論だけでは、「核兵器と付き合う」ことは到底かないません。核兵器を保有するのは、抑止力や均衡力の面からの「安全」を確保するためで、「核兵器をもてば国防に不安がなくなる」という安心感確保のためではありません。先進国では核保有国どころか非保有国でも、退避計画その他の数々の緊急計画をもっている。日本人には、原発問題でも核兵器問題でも、どうもこのリアリズムというべき問題が賛否両派閥に欠如しているようにみえてきます。もちろん西尾先生の反対論にも小池さんの賛成論も、こうした次元の高くないものではとうていない真摯なものだということは私は理解しています。ただ、それが多数の日本人には伝わっていないこともまた、確かではないでしょうか。
それとこれは蛇足的な話になり、小池さんの不快を招くかもしれませんが、福島原発事件の際の東電社員の方々の英雄的行為、国民の方々からの偏見、これをいわれるお気持ちはわかりますが、こうした個人的体験談は、賛否両論を戦わせる上で、必ずしも必要でない、とあえていわせていただきたいです。これも10年前になりますが、確か、「木魚の会」か坦々塾の会で、小池さんが、原発所員の勇敢行動を涙ながらに発表されたことがあり、そのあとの懇親会(小池さんは懇親会には参加されなった)で、編集者のOさんが小池さんの発表に猛烈に激怒して、西尾先生や私がびっくりしたことがあります。びっくりしたけど、Oさんの話を聞くうちにだんだん激怒の理由がわかってきました。「国難を語る内容で一会社の内部の情緒を論理の味方にしてはいけない」ということで、これは激情家のOさんらしい怒りだと感じましたが、一理あるなとも思いました。いろんな悲喜劇が小池さんにおありだったと思います。けど悲喜劇が正論への道だとしたら、左翼や過激反対派にも、それなりに個人的悲喜劇はあふれているはず。私のような弱気な人間がいう資格はないかもしれませんが、情緒を必死でおさえながら語ることが、「原発問題とつきあう」ための「賢さをこえたもの」をつくりだしてくれるのではないか、と私は思います。失礼お許し下さい。
小池さんのその涙、よく覺えてゐます。といふより、後々、何度か、本人に「小池さん、あの時泣いちやひましたね」と言つたことがあるほど、あの印象は強く殘つてゐます。たしか、あの時、スピーカーは三人でしたが、小池講話のあと、鄰りの鈴木敏明さんに、そつと「今の涙はどう?いけませんか」と訊いてみました。
といふのは、鈴木さんが平素から、「男は人前で泣くものではない」といふ持論を屡々説いてゐたからです。たしか「野菊の墓」で、民子の死を知つた政夫が、床の中で、泣き聲が洩れないやうに、口に枕だかを押しあてつつ必死に怺へる場面を引いて、「これが日本男児だ!」と強調してゐました。しかし、小池さんの場合については「ああいふ涙なら差支へない」との御託宣で、ホッとしました。私自身も貰ひ泣きしさうな状態だつたからです。鈴木さんは優しい。この話は、柏崎の原發見學のあとの懇親會で披露したことがあります。
編集者のOさんが激怒ーー初めて知りました。この時は私も懇親會に出なかつたのでせう。Oさんとは誰か、ほぼ察しがつきます。多分、私もかなり親しくさせて貰つてゐるつもりの、あの人でせう。Oさんがさういふ正論を吐く場面は容易に想像もできます。今、渡邊さんから、それを傳へられて、Oさんの説は尤もだと思ひます。私の母が、やはり「男は人前で・・・」といふ嚴しい説を持してゐて、テレビなどに映る「泣く」男を屡々叱り、私はだいたい共感してゐました(自身で實踐することは難しいが)。「情緒を必死でおさえながら語ること」が、たしかに大切なものをつくり出してくれるのでせう。
でも、あの時、釣られて泣きさうになつた自分をも辯護すれば、怺へきれなくなつたことに、むしろ同情しました。あの状況を涙なしに語るのは困難だ。乃木さんでさへ、人前で、堪らず「ポロッと落涙した」場面が櫻井忠温の「將軍乃木」に描かれてゐるではないかーーなどとゴタゴタ竝べたくなります。しかし、最終的には、Oさんや、渡邊さんの説が正しく、人前の涙が男にとつて禁物であることを認めます。
渡邊さん、毎度のことながら、貴重なお教へ忝く存じます。今囘は特にありがたく、今日から原發に對する態度を100%貴兄のそれと同じにすべく心がけます。「西尾先生の本では、水力発電や地熱発電などの自然エネルギー転換の可能性が日本では高い、とあった」のですね。私は不勉強のゆゑに、さういふことなのか、それとも、國家意志もないくせに、原發などの生意氣をやることは許せない、意志がないのなら、亡國の道を行け、地獄に墮ちよとおつしやつてゐるのか判然とせず、もやもやした氣分でゐました。
後者なら、一理も二理もあり、地獄墮ちの覺悟を決めなければならないが、前者なら斷然反對だ。ーー「根本転換のためにかかる時間と費用」「その計り知れなさ」などについては、渡邊さんに言はれるよりずつと前から、想像してゐました。とすれば、ここは西尾先生と別の道にはなるが、
「防備コストを用いたとしても、やはり原発稼働は必要であり、私達日本人は『覚悟』を有して原子力発電を共有しなければならない、というのが私の賛成派論です。ですから原発全稼働でまずやらなければならないのは自衛隊の増強と改革ということになる・・・」
の方に蹤きたい。私がどんな意見を持たうと、天下の形勢には影響皆無だが、少くとも、自身の内で、精神的にスッキリしました。勿論、實際に國がどちらの道を選んでも(選ぶ氣力さへなささうだが)、地獄墮ちの可能性はあるが、そこまで考へてもしかたありません。
第二次大戰中、米國の參戰前、「島国イギリスのエネルギー供給はギリギリに追い詰められて」ゐたことなども、例によつて不勉強のために、正確には知りませんでした。その他、あれもこれも、擧げればきりがないので、省かせていただき、これで打ち切ります。
三拜九拜。次囘もよろしく。
両親を今年亡くして、心のざわめきや不安や後悔などの思いをどうにか抑えようとしたとき、西尾先生の著作をむさぼるように読むようになりました。
「皇太子さまへの御忠言」には感銘と戦慄を覚えました。
「陛下はこの著作をご覧になっている」のは最近の皇室を見ても明らかなのではないでしょうか。
先生にはこれからもっともっと教えていただかなくては私自身が困ってしまいます。