ヨーロッパを探す日本人(三)

第二節

 私はバーゼルのレストランの女主人に礼を言って、ふたたび探索に出発した。

 秋の空には雲ひとつない。

 中世の城門シュパーレントールは、澄んだ青空に、特徴のある三角の彩色の尖塔をつき立てていた。人通りは少い。だが、自動車はひっきりなしに通る。並木の葉はまだ九月だというのにすでに黄ばみ、落葉が明るい通りをかさかさと風に運ばれていた。バーゼルにも意外に観光客が多いのに気が付いた。城門にカメラを向けたのは私ひとりではなかった。しかし、日本人の姿はこの日は町中どこにも見掛けなかった。

 いろいろたずねて、古い「学校」をシュッツェンマット・シュトラーセに見つけた。大きな四辻の一角に立っているこの学校は、黄とくすんだ赤の帯模様に塗られた明るい、派手な建物だった。

 「古い学校ならあれですよ。でも、ニーチェが住んでいたとか、そういうことは知りませんわ。聞いたことないですよ、そんな話。」

 ある中年の婦人がそう言っていた。

 「この辺りに、哲学者が住んでいた建物なんてい言うのはほかに御存知ありませんか。」
 「ありませんね。」

 学校のあたりをぐるぐる歩いていたが、どうもそれらしい様子はない。ニーチェは当時、大学を教えるかたわら、ギムナジウムで語学の先生もしていた。非情に厳しい教師であったので、生徒に人気がなかったと語り伝えられている。このギムナジウムが、いま私の前に立っている建物だろうか?だが、詳細を調べずにバーゼルに来てしまった迂闊さから、確認するすべもないのである。

  「あれが学校ですよ。でも、あんなもの見て何になるのです?なにも価値のない建物ですよ。」

 もうひとり別の婦人は、そう言って不思議そうな顔をして行ってしまった。ミシュランのスイス版を手にしているフランス人夫妻をつかまえて調べてもらったが、記載されていない。私のもっているポリュグロットには勿論載っているはずもない。私はシュッツェンマット・シュトラーセを綿密に、幾度も行き来してみた。インテリらしい人もつかまえてきいてみた。大抵知らない。この辺りに住んでいる人でなければいけない。そうは言っても、前にも述べた通り、日曜日なので、シュッツェンマット・シュトラーセの住人に話し掛けるチャンスがないのである。この通りはみなかたく扉をおろして、窓から顔を出したり、玄関口から出て来たりするような人さえひとりもいない。

 丁度、自動車が一台、四辻のガソリンスタンドの前に停った。ガソリン屋の女の子がとび出して来た。私も飛んで行った。

 「知らないわ、そんなの。」

 彼女は肩をすくめて、それから私の方を見て、うすら笑いを浮かべた。いかにも、なんてつまらん事を聞く人だろうと言わんばかりの様子である。

 乳母車を押して散歩しているインテリらしい若い夫婦がやって来たので、これはいい、とばかりに待ちかまえていて訊ねた。夫妻は、私がすべてを言い終わるまで黙ってきいていた。そして、私がこれまで多くの人に訊ねても分らなかった苦心の有様まで語り終ったとき、若い夫の方が、じっとわたしの顔を見て、じつは自分達はフランス人なのでドイツ語が全然わからないのです、とたどたどしい英語で答えてきた。それから困ったような笑いを浮べて、妻をうながすようにしつつ、乳母車をまたゆっくり押しはじめた。

 私はもうすっかり苛々してきた。どうせ訊ねるなら老人の方が良いかもしれない、なにせ若いひとはもうニーチェのことなぞ知らないのだ、そう思ったから、小肥りの、人の好さそうなおっさん風の老人をつかまえて同じことを訊ねてみたが、交番へ行って聞けばよいなどと言う。なんとも付合いの悪い答え方である。

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