『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(二)

 一冊の本を出したときいつも思うのは、著者と読者との関係とはいったい何だろう、著者が読者によって理解されるとはどういうことだろう、という問題である。勿論立場を変えれば私も毎日のように誰かある人の読者である。

 同窓会などで旧友に会うと、「僕は君の考えを支持するよ」とわざわざ言っていくれる人がいる。好意で言ってくれるのだから、私は黙って笑顔で応じる。しかし私のどの本の何ページのいかなる言葉をどう支持するのかは勿論言わない。私の書いたものを漠然と支持するという意味である。私はこのとき政治家のように扱われているのである。

 私は「君の考えを支持するよ」とは言われたくない。「君のこの間の本は面白かったよ」とむしろ言ってもらいたい。『男子、一生の問題』のような本は「支持する」という調子で遇することはきわめて難しいに相違ない。さりとて「よく分ったよ」「理解できたよ」ということも恐らく簡単には言えないのではないだろうか。

 最初に私の目に触れる批評は、本を差し上げた知友からの返書の中の片言と、インターネットにあがってくる未知の方の短い反応である。いつもと違って、今度の本の反響は少し複雑であった。というより、読者の戸惑い、あるいは一瞬ショックを受けあわてて口走ったような文言が混じっていた。

 国語学者の萩野貞樹さんは、こんな言い方をなさっている。

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 御著『男子、一生の問題』拝受いたしました。二章拝読したところで家内に奪はれてしまつてゐますが、いろいろと刺戟・驚き一杯です。

 先生の多くの御論著は当然、「ある問題について語る」ものであるわけですが、この度のもののやうに、「語る自分について語る」といふものがここまで怖い本になるのかとあらためて驚きます。残りは恐る恐る読むことになりさうです。

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 私はウーンと唸って、萩野さんの心中を量りかねて、私の内心に複雑な波動が生じるのを抑えがたかった。読売新聞国際部の三好範英さん――最近『戦後のタブーを清算するドイツ』という好著を書いたー―は、葉書の走り書きの返礼に、「先生の激しい生き方は私にはとてもかなわない、などと感じつつ一気に読了いたしました」と書き添えてあった。

 あの本が私の知友の心の中にも小さな嵐を巻き起こしているらしい。大抵の本の読者は、本がなにかを「説明」していることを期待して読む。そして知的に了解すればそれで読書の目的は達成される。けれども『男子、一生の問題』はなにかを「説明」している本ではない。その程度のことで終わってはいない。それはたしかにそう言える。読者の心になにほどかの衝撃波が伝播しなければ、あの本を書いた意味はないともいえる。

 返礼の文章は礼儀正しく、型通りの挨拶が多い。衝撃はその中に大抵埋もれてしまっている。むしろインターネットの書きこみに、いわば心が心を受けとめた正直な反響があった。

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712 西尾先生の新刊を読んで 一読者 2004/06/21 22:36
男性 33歳

今夜地元の書店の店頭にて『男子、一生の問題』を購入し、今読んでいる途中です。
ここ五年くらい人生がうまく行かず半ば惰性で生きていました。前の職を辞めてから、不安定な職を転々としているのです。とはいえ自分の研究を同人誌に出すなどして自分らしさをいくらかでも主張しようとはしてきました。ただここ最近は土日もただ寝ているか食べているような状態で、自分を見失っていました。
しかし、今回の先生の新刊を少し読んでみて、何か奮い立つようなものを感じています。

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 前にも一度ご紹介だけはさせてもらったが、恐らく書きこみも初めての、まったくの未知のかたであろう。何に奮い立たれたかは、勿論分らないが、私の本を私の本にふさわしく正面から受けとめて下さった本当の読者である。読者とは何だろう、理解とは何だろうという私のあの疑問が少し解けかけてくる。

 そういう意味で、たびたび 山椒庵  に投稿されている「吉之助」さんが、短いのだが、言わく言いがたい思いを不図片言にお漏らしになった次の一文もなぜか私の心にひっかかっている。

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題:インターネットなるもの(3)   /氏名:吉之助 /日:2004/06/29(Tue) 19:30 No.1027

男子、一生の問題」はとにかく刺激的である。ある個所では勇気を与えてくれるし、別の個所では落ち込ませる。それがどこかは読み手によって違おう。そんなことをネット上で書いても仕方がない。いったい他人と共有できる思いなどにどれほどの価値があるのか。自分にとって最も重い経験は自分にしか分からない。

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 「勇気を与えてくれる」だけでなく「落ち込ませる」ところがある、という言い方は、多分そうだろうな、どこの個所がどう作用するかは分らないが、私にはあの本の著者としてなぜか納得いく表現だった。簡単に感想なんか言いたくない、と怒ったような調子で短く打ち切ったこのかたのもの言いに、むしろ私は著者としての虚栄心をくすぐられたことを正直告白しておこう。

 東中野修道さんは

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 昨日、御新著『男子、一生の問題』を頂き、後の方から前の方へと読み進んで、なるほど、そうだそうだと導かれながら、そしてウーンと唸りながら、最後には16頁のA氏に釘づけになりながら、ただ今拝読を終えました。

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と書いて下さった。後から前へ読んだというのにも吃驚したが、「16頁のA氏」は私の側に記憶がない。はてな、何の話だったかな、とあわてて自著のページをくった。

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 自分の型を破れないでいると、五年もすれば飽きられてしまうだろう。

 現に私の近くにも、そのタイプであるA氏という優秀な人がいるのだが、すでに雑誌の編集長にもそのことは見抜かれている。

 彼によれば、「A氏は、書いていることは安定していていいのだが、最初の何行かを読むと終わりの見当がついてしまう」と言うのだ。恐ろしい批評だ。本人はそんなことを言われているのに気づいてもいない。

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 わざわざ引用するほどのこともないが、最初の方にでてくる実例である。これは大雑誌の編集長が私にふと漏らした実話である。私も今まで恐らくこういうことをどれくらい言われてきたか、知らぬが仏で、自分は気がついていないが、恐ろしい世界を潜り抜けて来たものだとあらためて思う。

 年をとったので、どこかの編集長から、「あれはもうダメだな。本人は文章力が落ちたことに気づいてもいない」ときっと言われるときが近づいているのである。

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