なにかの事柄を「説明」している本は知性に訴えるが、著者の生き方を語っている本は知性を超えたものに訴えている。読んでよく分ったとか、分らなかったとか、そんなことは起り得ない。分ったなんて簡単に言ってもらいたくもない。
『男子、一生の問題』は文章は平易で読み易いが、理解に及ぶのは予想外に容易ではないはずである。私は出版出来ずっとそう思ってきた。だから大衆的人気を博すのはむつかしいと予感していた。先週から大型書店のあちこちでベストセラーリストの端っこに顔を出していると聞いて、私自身が吃驚している。
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拝啓 西尾幹二先生
初めてお便りさせていただきます。私は山形県にある県立の短大で教師をしている者です。今年厄年の42歳を迎え、少しずつ肉体の衰えと人生の悲哀を感じ始めております。先生のご著書には20年余り前に某地方国立大の学生だった頃に感銘を受け、それ以来、入手可能なご本や、「インターネット日録」には大体目を通させていただいて参りました。先日出版された『男子、一生の問題』も早速注文して拝読いたしましたので、今回はその感想などを認めさせていただきたくお便り申し上げる次第です。
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以上のような礼儀正しい書き出しで、高石宏典さんという未知の方から6月末に一通の手紙が届いた。ご本人の承諾をいただいたので、以下に全文を公開する。
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さて、『男子、一生の問題』は、西尾先生を近くに感じられてとても元気が出る本ですが、決して油断して読んではならない本でもあると思います。ある程度の覚悟をして読まないと後が恐いのです。実際に私は、一気に読了した後しばらく様々な言葉が頭の中を駆け巡って落ち着かず、思いがけずも一時的に悪かった体調をさらに悪化させてしまいました。先生のご本は薬にもなれば、“毒”にもなりえるということなのかもしれませんね。
新刊書の中では、「行動は虚無から逃げることではない。真っ直ぐに虚無に向かっていくことが行動なのである。」(162頁)という言葉が特に印象に残りました。この父性に満ち溢れた雄々しい言葉こそ、表題に通じる核心的アフォリズムではないかと感じたのですがいかがでしょうか。何か後者の意味で行動することが男子たる者の本質であると言われているようで今の私の胸に突き刺さるのですが、先生が言われるように男子たる者、スケールの大小はともかく後先を考えず「大勝負」に出なければならないことがあるのは確かだと思います。この言葉には人の心を突き動かさずにはいない毒と人生の真理が含まれており、あれこれ考えさせられてしばらく落ち着かない日々が続いたのでした。
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まず私の方が襟を正す思いで読みつづけた。この方は人生の大きな転換期にぶつかっておられるらしい。
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先生のご著書にはこうした忘れられない衝撃的な言葉が散りばめられており、ちょうど20年前に『ニーチェとの対話』を拝読した時も同じように気分が高揚したのを覚えています。私が今諳んじて言えるその言葉は、「教育について」の中にある「私は人に道を尋ねるのがいつも気が進まない。―それは私の趣味に反する!むしろ私は道そのものに尋ねかけて、道そのものを試すのだ。」(131頁「重力の霊」)という最後の箇所のニーチェの言葉です。当時、公認会計士2次試験を独学で突破することを目標(掟)にしていた私は、この言葉によって随分励まされたと共に、何度か試験に失敗する度に自分の能力を超えた無謀な賭だったのではと幾度となく辛酸をなめる羽目に陥りました。結果的には何とか“初心貫徹”でき10年ほど某監査法人で会計監査等の仕事を経て今に至っていますが、今思うと先生の『ニーチェとの対話』を手にしないでこの言葉が心にひっかかっていなければ、今の私はいないと思います。私のごく小さな体験にすぎませんが、先生のご著書には毒にも薬にもなりえる言葉の魅力があり人を行動に駆り立てる力を持っていることの一例であるかと言えるのかもしれません。
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そういえば『ニーチェとの対話』はよく読まれた本だった。今でもよく読まれている。「人に道を尋ねるのではなく、道そのものを自分で試すのだ」は私が『男子、一生の問題』では「行為」という言葉で言っていたことに通底するだろう。
今はマニュアル本を求め、人に道を尋ね、教えられた通りに生きようとする人が多いのだと聞く。ますますそういう人が増えているので、自分の心で本を読まない。本が売れなくなった最大因はインターネットや携帯電話のせいではなく、「人に道を尋ねる」ことですべてが終わってしまう人が多くなったからだと私も思う。
高石さんは次のようにつづける。
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手垢で汚れ背表紙が擦り切れそうになっている『ニーチェとの対話』で上記の言葉を確認したついでに、手塚富雄先生訳「ツァラトゥストラ」(世界の名著57)を何気なくパラパラとめくって眺めていたら、以下の箇所にふと目が止まりました。『男子、一生の問題』の先生の問題意識と関連する箇所とも考えられるので記させてください。
「ここには真の男性が少ない。それゆえここの女たちは男性化する。つまり十分に男である者だけが、女の内部にある女を―救い出すことができるのである。」(257頁「卑小かする徳」)
これはまさに今の日本社会のありふれた現象であり、ほとんど達成不可能に近くなりつつある現代の男女関係の逆説的現実そのものですよね。120年前にこの現実を予言していたニーチェはやはり偉大な天才ですが、男と女は違うのだという当たり前のことを小さい子供の時から今からでも繰り返し教えていかないと、日本の社会秩序がさらに混乱すると危惧します。この悲しい現実を作り出したのは、私の出身高校の大先輩である我妻栄らによる戦後民法の改悪のせいであるに違いないと認識しつつ、今の職場で女子学生と接触する度に苦々しい思いをすることが多い今日この頃です。
以上、ただ思い浮かんだことを大した脈絡もなく認めさせていただき失礼いたしました。私はこれからも西尾先生の思想と行動には陰ながら応援させていただきたく存じます。『男子、一生の問題』を読んで改めて、西尾先生はやっぱり凄い人だなぁと思わずにはいられませんでした。最後になりますが、西尾先生のご健勝とますますのご活躍をお祈りし、できれば先生の翻訳で『ツァラトゥストラかく語りき』が出版されることを期待して(すみません。昔大学で教わったドイツ語をすっかり忘れてしまいました!)、ペンを置きたいと存じます。くれぐれもご自愛下さいますように。
敬具
平成16年6月28日 高石宏典
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一冊の本を書いて、未知のこういう読者の方に出会えるのは幸運であり、稀有に属する。私は高石さんのこの手紙を三笠書房の清水篤史さんに送った。
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さて、今日は、読者の方からの素晴らしいお手紙をお送りいただき、誠に有り難うございました。重ねて御礼申し上げます。
担当編集者として、このような含蓄深いお手紙を拝読させていただくのは、感慨深いものがございます。僭越ではございますが、先生と一緒に頑張った甲斐があったものだと、大変うれしく思います。
それにしても、本に読まれるのではなく、『男子、一生の問題』をご自分の本として読み込んでいらっしゃること、さらにはお手紙の端々に感じられる諧謔性など、高石様のお手紙を拝読しながら、まさに「自分のいる読書」とは、こういうことではないか、と痛感させられた次第でございます。
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清水さんのこの文章はそっくり高石書簡への私の感想と同じである。『男子、一生の問題』の中に「自分のいないような読書はするな」の一章がある。身近な人でも、評論家や学者の仲間でも、このことが分った上で本を読んでいる人は案外に少ないことを私はいつも苦々しく思っている。
この記事へのコメント
高石さんという方のお手紙を読ませていただき、大変感銘いたしました。世代も私と一緒であり、おそらく悩みなども私と似たようなところにあるのではないかと思いました。
確かに高石さんが仰る通り、『男子一生の問題』は薬と毒の両方を兼ね備え、普通の読書では味わえない独特の読後感を感じ取ります。しかもそれは各読者が共通する部分で頷きながらも、心に浮かぶものはそれぞれ違うのだろうなという事が思えるのです。
たぶんそれは個人個人の生活がそれぞれ違うように、読者の背景が千差万別だからなのでしょう。
しかしその事は先生も十分予測できていたはずだし、その覚悟の上でこの本を書かれたということは、かなりの決心と勇気が必要だっただろうと今更になって思うのです。
おそらくこの本を読んだ方は「行動せよ・・・と言われても自分は何をすべきなのだろうか」と迷いも感じたはずです。
答えが安易に出せないもどかしさとふがいなさに苛まれる方は多かったはずです。
しかし敢えて言うならば先生はこの本でそれ以上の前進を希望している。迷いは必ずある。だからこそ生きていく上で自分の道を見つけ出すべき価値を探せと仰っているのではないでしょうか。
そうした行動により生まれる新たな迷いこそが真の迷いだろうと思います。
私はいつも思うことがあります。
一般人が迷いに陥り具体性を欠いた時は、それなりに収入もあり将来も安定しているのであれば、迷わず自宅を購入すべきだと。その結果伴う苦しみは生きていく上で充分価値があり、迷いの解消にも繋がる行為ではないかと。
ちょっと浅はかではありますが。
Posted by 北のあきんど at 2004年07月08日 13:21