昨日、「猪口邦子批判(旧稿)(一)を掲げたところ、二人の友人からメイルが入った。ご覧の通りの訂正と昔の思い出である。
西尾幹二先生
日録のほうに出ていた猪口孝氏の件、正確には酒場ではなくて東大の研究室です。
当時、ちょっと注目されていたので、どんな人だろうと思って会いに行ったところ、
突然「こんな目次でどうでしょう」と単行本の目次メモ(構成案)を出されて、
曖昧な返事をしていたら、
「そういえば、おたくの会社は西尾の本を出したところじゃないか!
人の女房をさんざん悪口書きやがって!」と怒り始めたのでした。
しかし私としては、あまり売れそうもない本の目次の話を打ち切る、
ちょうど良いタイミングだったので、かえって幸いだったのですが(笑)。西尾先生の『日本の不安』が出たのは1990年ですから、もう15年も前になるでしょうか。
今なら猪口氏に会いに行くはずもないのですが、当時は彼の情報があまりなく、
よく知らないままに会いに行ったときの出来事で、もちろんそれ以降、会うことはありませんが。
(ましてや酒場での同席など、ごめんこうむりたい最たるものです 笑)。猪口孝氏は私が『日本の不安』の担当編集者だと知らないでいきなり怒りだしたのですから、会社の同僚が彼に会って同じ目にあっていなかったかと心配したものです。
夫婦揃ってよほど腸が煮えくりかえる思いをしたのでしょうね。
PHPソフトウェア 丸山 孝
尚、丸山氏は間もなく刊行される私の小泉政権の非軍事的ファシズム体制への批判の書も担当した方である。
つづいてバーゼルからも反応があった。
西尾先生、
今、私の手元に古い論壇誌のコピーがあります。先生のお書きになった「当節言論人の自己不在」です。もうすっかり紙も傷み、日焼けした紙はすっかり黄色くなり、過ぎ去った年月の重さを感じます。
先生が今日日録にこれからこの論文を掲載されるとおっしゃって早速書棚のファイルに保存してあった当時のコピーを抜き取り、かばんに入れて、会社に来る途中のトラムの電車の中で読んできました。当時この論文を読んで高校生だった私が大きな衝撃を受けたのを覚えています。自己を偽ることなく、自分自身を徹底的に見つめ、自分の弱さ、臆病、傲慢、虚栄、心に宿る自分の嘘に対して意識をもち、謙虚であり、強い確かな自己をもってはじめて、他者や社会に潜む悪も見え、社会との対峙が始まると問いかけられた強烈な論文でした。
そして論文に挙げられた人達が、その心胆を練る訓練、経験、努力をしていないことから、他者や社会の本質を見抜く力に欠けていることを闇を裂くように断じられたことに大きく共鳴したのは、私が毎日青春を燃やした空手の稽古によって得た感性と互いに大きく共鳴しあったからだと思っています。
ニーチェの末人の描写や、先生の考察に影響をされたことも思い出しています。この論文は自分の生き方を問われる大きな力を持ったものでした。
古くて新しい、外国人労働者受け入れ問題が15年以上も前に既に論じられ、先生の意見が大きく世の中を動かされたことを知らない人も多いかと思います。今また同じような論調で昔の愚問を繰り返す人も多いかと思いますので、大沼保昭氏の個所も是非ご掲載されてはいかがかと存じます。昨日、3人のフランス人に囲まれて昼食をしましたが、今回のフランスの暴動事件にふれ、その後一人が日本はフランスから何人の移民を受け入れてくれるのか、と真顔で冗談を言われました。我々はそのかわりに日本製品を買うよ、と言っていましたが、この対話の前提には、移民政策によって問題を背負い込み、今後は門戸を広げるつもりはまったくないという意思の表れで、ヒューマニズムでもなんでもなく、国益の観点から論じる姿に健全性を見ました。私はもちろん一人もいらないよ、と真顔で応酬しました。隣にもう一人、ドイツ人がいて、彼は静かにしていましたが、その後ドイツのトルコ人の問題に話題が飛び火し、フランス人の冗談が続きましたが、ドイツ人はそこを突かれるのが嫌で黙っていたのか、と一人で想像していました。
バーゼルより先生の名論文を再読するのを楽しみにしております。
お身体どうかお大切になさってください。
不一
平井康弘拝
上記の示唆に基き、「当節言論人の自己不在――猪口邦子氏と大沼保昭氏と」(『中央公論』1989年3月号)は、大沼保昭氏の分も省略せず、少し長い引例になるが、全文を掲載することとしたい。
途中で別の稿を必要挿入する場合もあることをお断りしておく。
私もこの文章には痛烈で鮮やかな印象があります。この号の中央公論は、論争の特集だったと記憶しますが、西尾先生の強烈さに他がかすみました。
ここに書かれる猪口氏、大沼氏は、今もって日本のアカデミズムやジャーナリズムに盤踞する軽薄な知性の二つの典型だと思います。西尾先生は論の最後に文学教養の有無について言及されています。平井様のスポーツ体験も同様と思いますが、人生や人間に対する様々な経験、特に避け難いコンフリクトのようなものを経験しなければ、人間は深い認識には達しない、その代替として、平和な時代や日常生活の安定した人間には、優れた文学やスポーツなどがある、とも(そういったものの存在理由の一面として)言えるように思います。
戦後の日本での政治や歴史問題に対し、厳しく鋭い見識を示す方々がことごとく専門を異にする文科系の識者であることの理由も、この論文により改めて明確に認識した次第です。
批判といえば、近くは山崎正和氏に対するものもあったかと記憶します。あれも非常に良く解るもので、共感しましたが、何処かの単行本に納められているのでしょうか?全部買っていればいいのですが、次々出るので追いつかないのです。
神戸人さまへ
遠い日の拙文を覚えていてくださってありがとうございます。
山崎正和批判は、「日本の根本問題」(新潮社、2003年)に「観念の見取図」という原題のまま、無修正で収録されています。まだ新本で手に入るかもしれません。
書いたのは「新潮」1973年4月号です。
西尾幹二 先生 神戸人
早速のお返事、大変有難うございます。直々のお返事に、恐縮し、嬉しく思っております。但し、私の読んだ山崎正和氏批判はもっと最近のものでした。申し訳ありません。これ以上お手を煩わせてはいけませんので、今、雑誌のバックナンバーをひっくり返して捜しましたところ、「諸君」2002年10月号所収の「なぜ『国家』から目を背けるのか」でした。読み直すと既にこの中で「観念の見取り図」も言及されていました。私は昭和34年生まれですので、48年にこれを読むほどには成熟しておりません(中学生ですからいくらなんでも)。下って外国人労働者問題からの先生の言論のファンですが、その時点で古いものも集めましたので、大抵の御著書は存じているつもりです。しかし「~見取り図」は未だ読んでおりませんでした。
「日本の根本問題」は未購入でしたので、早速購入いたします。
あの手の、如何にも文化人風で、芸術にも政治にも理解と一家言がある風で、時に勇ましげな発言をしながらも、結局「この世」で全く安泰で「権威」のある地位に上手く立ち回って身を置いている、という実に通俗な輩はそこここに居るように感じます。だから著述も発言も、全く面白くない。芸術に携わる人間は、そんな安泰と権威に座するなど、恥じなければいけないのに。芸術家は政治に疎く、政治関係者は芸術に疎いため、そのニセモノ性がなかなか暴きにくいのだと思います。猪口氏、大沼氏とはまた違うパターンですが、こういった無内容な言説が権威を持っていることは、確かに「日本の根本問題」です。