大国にふさわしいエゴイズムの表わし方
そもそも自分というものがなくては、他者もまたこちらを理解してはくれない。個人にしても、国家にしても、同様である。そう考えると、竹下首相(当時)が「世界に貢献する日本」などといい、何を貢献するのか分からぬままに、国民も漠然と「大国の責任」だの、「国際国家の確立」だのと唱え、いい気になって、世界に自分を打ち出した積りになっているのは、何という間の抜けた、おめでたい光景であろう。
昭和63年の外交白書には、日本のODAの特徴が取り上げられている。米国は米国民主主義を、ソ連は国際共産主義を、欧州各国はそれぞれの文化を世界に普及する宣教意識で開発援助を行なっているのに対し、日本のODAは日本文化の普及のためではなく、あくまで相手国の立場に立って、各国の国益に適うような無私の精神を貫いている点が喜ばれ、歓迎されている、と自画自賛している。
勿論日本文化の普及などという見え透いた自国宣伝――フランスに例の多い――などは、慎むにしくはない。ただし、わが国対外援助のそのような慎ましさが、真の自信から出ているのではなく、何を世界に貢献してよいのか本当はよく分からない方向喪失、内容不在、自己混迷の現われでなければ、まことに幸いである。
序(つい)でに言えば、自国文化の普及をも抑制する東洋的羞恥感はいいとして、その揚句(あげく)、日本にもないオペラ劇場をエジプトに献上し、欧州文化の普及に日本人の血税が使われている珍無類の錯誤は、世界に何を貢献して良いのかさっぱり分からない外務当局の呆然自失をありありと映し出している象徴例である。
自分の願望、欲望が見えてなければ、他者の願望も、欲望も、本当には分かるわけがない。となれば親切の押し売りを小奇麗な言葉、空疎な概念で飾るばかりに終わる。それは意識せずして恩を着せる行為、偽装された新しい帝国主義である。
どんな国もエゴイズムを持つ。ナショナルな自己拡大衝動を持つ。大国だけでなく、小国には小国のエゴイズムがある。小国があらゆる国の平等、国際的民主主義、協調協和を唱えるのは、大国の支配を逃れたいとする小国のエゴイズムに外ならない。もし日本が、大国たらんと欲するなら、大国なりのエゴイズムに立脚した、小国とはまったく別種の世界経営のプログラムを示さなければならない。
モース氏が言ったように、いつまでも小国の唱えるのと同じような内容の、あるいは無内容の形式主義を提唱しているなら、日本は世界各国から、偽装されたエゴイズムの真意を疑われ、薄気味悪く思われるのが落ちであろう。
誤解のないように繰り返して置くが、私は軍事力を過大視しているのでも、平和維持の努力を軽視しているのでもない。平和維持の努力は外交上の最重要項目だとさえ言って置く。しかしそれだからこそ、平和は国家理念にはならないし、またなってはならないのである。日本は何を実現したいのかという政治的目標、世界に何を求めていくのかという政治的欲望、それと無関係なところに国家理念は成り立ちえず、しかもその点が不明瞭だから、日本は平和維持を真剣に考えている国だとさえ判断されてはいないのである。
平和こそが国家理念だというようなことばかり言って、日本が現にやっていることはアグレッシブな経済拡大であるから、何年か後には平和を脅かす国に逆転するのではないかと疑われるのも無理はない。その疑いを解くには、平和とか国際協調とか世界への貢献とか、いつまでもそんな無内容なことばかりを言うのではなく、他国の理性が納得する、大国にふさわしいエゴイズムの方式を明確化することが、まずもって必要なのである。
日本のエゴイズム発揮の合理的プログラムがある程度外から透けて見えて初めて、日本は一人前のプレイヤーとして諸国から遇され、その平和意図を安心して理解し、歓迎してもらえるようになるのであろう。
全く同感です。
「エゴイズム無き、日本外交」!
この一言「感銘」。
感銘とは、深く自己の記憶にとどめ、我が心に刻んでおきたく想います。
黒船来航以来、さらには日露戦争終結時点の講和処理等々、どうも、かのアメリカ政府の日本に対する「秘めたる願い」を解読できず、熟慮できず、対応できず、反応できず、ひいてはズルズルと、かの太平洋戦争の泥沼に突入した経緯がある、との包括的な歴史の認識で、間違いないか。と、考えます。
こうして振り返れば、ことごとく外交戦略に敗退しているのですか。
敗戦後60年。
与えられた「仮の日本国憲法」は、そのまま放置し続け、今尚、あるべき国の位置関係は明確に出来ないまま、21世紀の世界をさまよう日本外交と、その政治のあり方等を察するに、あまりにも主体性の無さ過ぎる、さらに国家国民的自我に目覚めていない我国の現状たるは、あまりにも無様過ぎます。
おっしゃるとおり、国家国民から、本来所持すべきエゴイズムを除去すれば、何も残らない。他の国家民族からは、何も見えない国と評されても、致し方ない。
ますます国の体をなさない我国は、帆船で例えれば、帆の張っていない(元々帆柱も無いか?)、漂流するしか術(すべ)の無い巨大帆船としか、他国には映らないでしょう。
我国日本の凛とした「エゴイズム」を整理し、世界に発信しなければならぬ時が来ている事、理解できます。
うやむやに終わらせることをよしとする「村社会的発想」と「立ち居振る舞い」は、とっくに世界で通用しないこと、これ、諸外国で丁々発止の商業戦争を知っている人たち、すなわち経験と良識ある日本企業内組織人の一部には理解可能か。と、考えます。
この記事の理論展開に、「エゴイズム」という語彙を引き出された西尾先生の機知には改めて敬意を表し、ますます尊敬の念を深めます。