猪口邦子批判(旧稿)(六)

猪口氏の“内容空虚な大演説”

 私は昭和63年の秋、ポール・ケネディ『大国の興亡』についてある新聞から感想を書くように言われ、あの大著を読むと同時に、幾つかの書評にも目を通した。するとその中でおや、と首を傾げる書評が一つあった。『週刊朝日』(昭和63年9月23日号)の猪口邦子氏のそれである。

 氏は文章の末尾で、歴代の大国がナンバーツーに追い上げられて衰亡した中で、米国は「歴代の大国とは異なるある決定的な好条件に恵まれている」といい、その好条件とは、「軍事よりも経済が国力を規定するこの時代において、経済のナンバーツーが揺らぐ覇権国に全面的な協力を約束していること」である、というのである。

 「経済のナンバーツー」とはもとより日本だが、私はいったい何のことかと思った。日本が米国の覇権に挑戦する気力も用意もない脆弱(ぜいじゃく)な国家であることが米国にとり「決定的な好条件」だというのなら、話は良く分るが、どうもそういうことを言っているのではないようなのだ。ナンバーツーから仮借(かしゃく)ない挑戦を受けたハプスブルク家や大英帝国の場合と違って、米国は追い上げてくるナンバーツーが「最も献身的な友邦であるという数奇の構図を手にしている」という。

 すなわち「日本の親米主義の価値と歴史的意義」、いいかえれば米国の覇権を決して脅かさない日本の友情に、米国は幸運を見出すべきだというのである。ポール・ケネディも含めて、米国の論客がこのことに気がついていない、と猪口氏は残念がっている。

 右の文章は第一に、日本人としての自分の内部の悪の可能性に対する警戒心を欠いている。第二に、『大国の興亡』ブームの背後にある米国民の、日本に対する苛立(いらだ)ち、不快、悪意、それに加えて、軍事の代償として経済の犠牲を日本に強いて来ている現在の米国の政治的底意が、この書評ではまるきり読めていない。

 日本が払うべき経済の犠牲が今後ある限界を越えれば、親米主義などはたちどころに吹き飛んでしまうであろう。否、そういう兆候はすでにちらほら認められる。日本がいつまでも「最も献身的な友邦」でありつづけるなとどいうことは、誰にも断言できない。そのことを米国人は見抜いている。

 米国の識者は、猪口氏などよりはるかにリアルに日本人を観察している。自分の内部の悪が見えない氏の、薄っぺらな善意だけで米国人の未来を保証してあげようなどという感傷的でいい気な文章を、もし米国人が読んだら不愉快になりはせぬかと、気懸りでさえあったが、たかが書評のひとつくらいどうでもいい、と思って忘れかけていた。

 すると間もなく、ポール・ケネディが日本にやって来た。そして、雑誌『This Is』(昭和63年11月号)がこともあろうに猪口氏を対談の相手に選んだ。しかも、再び言うが、こともあろうに書評と同一内容の、米国に対する日本の「寛大」について、彼女はぺらぺらと喋(しゃべ)ってしまったのだ。私は日本人としてその個所を読むのが顔から火の出るほど羞(はずか)しかった。ケネディはお客さんだから言葉を抑えてはいるが、それでも感情が激して、かなりはっきりと語っている。

 すなわち、米国が英国から覇権を奪ったときには、米国は英国に経済的支援だけでなく、軍事的支援も与えた。「日本は米国の最も忠実な与(ママ)国」と貴女は言うが、「米国の認識はそんなものではありません」。「米国がリビアと対決している最中に、日本は一体何を与えてくれたか、米国民はいつもそのように考えているのです。――

 猪口氏がこれに対して、「日本は掃海艇をペルシア湾へ派遣するより、はるかに有意義な方法で米国と協力しようとしているのです」などと答えたものだから、ケネディ氏ももう我慢はできない。読者はケネディ氏の次の反論を読めば、米国滞在の長い猪口氏がいかに米国人の心を知らず、「国際化」を教導するこの女性がまったく「国際化」されていない事実を否応なく知るだろう。

  米国民は日本を最も忠実な同盟国だと思っている、と日本側が想定しているとしたら、きわめて重大な誤解だ、と言っているのです。英語でアライ(同盟国)といったら、軍事支援、軍事・戦略的な意味でリスクをも辞さぬことです。「日本は米国のツケを払っているようなものだ」とか、「日本のテコ入れがなかったら、米経済は没落するだろう」といったことを口にするのは、外交的にも逆効果だ。感謝どころか、反感を招くだけだ。

 米国民はこう反論するでしょう。――「日本人は金持ちになって、米国を金で助けているのだから、良く思われていいはずだ、と米側に説教している。だが、いったん戦争が起きたら、日本人はいったいどうするのだ」

 私はもともと言論人としての猪口邦子氏の仕事には関心がなかった。初めておかしいと気がついたのは、彼女が『朝日新聞』(昭和62年11月9日号)で、本当の国際化とは「社会の雑種化のこと」であり、「移民を平気で受け入れるとか異文化や未知なものを取り込むとか、勇気がいる」と当時の時点まで流行であった、俗受けする、恰好のいい発言をしていたときである。そのとき彼女が帰国子女であることも知った。自分の育った外国の基準で日本人をあれこれ叱る、ありふれた排外主義者と私には思えた。留学時代を語った文章を読んで、自分をさも偉いもののように考えているナルシシズムに哀れを覚えたこともある。

 米国通を自認しながら、ケネディとの対話に見たように、米国人の心が読めない――このことは、十代の前半から西ドイツで育って自分を確立しなかったためにドイツ文化が見えないあのインド人学生を思い出させる。彼はドイツに忠実で、ドイツを信仰(傍点)していた。しかしインド人としての自分というものがなかったから、ドイツを真に学習し、獲得することも出来なかったのではないかと思う。

 帰国子女は何ら誇るべき価値の標識ではない。場合によっては気の毒なくらいの疾患を背負い込む現代苦の一つである。猪口氏もまた自分の条件に謙虚でなくてはいけない。もともと移民国家である米国とは文明の前提を異にするわが国に「雑種化」を勧め、「移民を平気で受け入れる勇気」を説くほどに、慎重さを欠くのは、氏が日本人としての自分の目(傍点)を見ているのではなく、米国を信仰の対象にしてしまった何よりもの証拠であろう。対象を信仰してしまえば、対象は見えない。米国で国際政治を学びながら、国際政治に対する米国民の初歩的常識さえ彼女の念頭に浮かんでいなかった所以である。

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