猪口邦子批判(旧稿)(十)

大沼保昭氏という“不可思議な観念論者”

 私は『正論』『諸君!』『週刊朝日』「NHK座談会」その他で、過去一年ほど外国人労働者受け入れ是非の問題について発言した。そして、その間に、大沼保昭、石川好という二人の新しい言論人を識(し)り、両氏と論戦も交わした。私は周知の通り受け入れ反対派だが、今ここで労働者問題を縷々(るる)再説する積りはない。正直いって私は、労働者問題よりも、私が出会った二人の言論人の姿勢、態度、体質の方にずっと興味があるが、今回は東大法学部教授の大沼氏を一個の問題として取り上げる。

 最近『諸君!』(昭和64年2月号)の座談会「〈人種間摩擦〉の時代」で、私は初めて氏の面識を得た。それ以前に、『毎日新聞』(昭和62年1月23~24日号)紙上で、氏が日本の人的鎖国政策を道義的理由からと、異民族に日本人を徐々に慣れさせる実際的理由からと、主にこの二理由から批判している文章を読んでいた。

 氏は日本の人的鎖国が西欧諸国の失敗と比べれば「成功」であったことを認めた上で、「全人種的観点からみれば単なる利己的態度でしかない」と述べ、日本人の排外意識という「精神の病い」と結びついている、と断じている。そして、豊かな国日本で働き家族を養いたい欲求を持つアジア人が多数いる限り、法の力でそれをやみくもに阻止するのは正しくなく、彼らが祖国で得る月給の何倍をも送金できるシステムに、日本はもっと協力すべきだと語っている。

 また、法の保護を受けない不法労働者の存在は、「近隣アジア諸民族に対する日本人のいわれなき偏見・差別感を助長」していると批判する。南北の経済格差がある以上止めようにも止められない労働者の流入の現実を認め、今後日本が徐々に本格的な多民族社会に移行する準備のために、「年々5万なり10万なり一定の人々を近隣アジア諸国から受け入れよ」と提言している。

 本稿は労働者受け入れ是非をめぐる問題の論争を目的としていない。私は別の個所で、この問題をヒューマニズムの見地で論ずる右のような見解の間違い、アジアからの労働力移入がアジア諸国の利益にじつはならない複雑な経済事情に関する認識、北米でもECでも域外の労働者の受け入れを停止し始めた現代における「ヒトの開国」は世界の潮流からの逆行であるという判断、等々、きわめて合理的な反論を、これまで十分に展開して来た積りなので、今さらここで繰り返したくはない。

 私の他にも、次のような重要な慎重論・反対論がある。手塚和彰「ちょっと待て外国人労働者の導入」(『中央公論』昭和63年2月号)、小池和男「〈ヒトの開国〉は慎重に」(『Voice』昭和63年5月号)、小野五郎「途上国を害する労働市場の開放」(『知識』昭和63年11月号)、室谷克実「〈ヒトの開国〉は日本の堕落だ」(『Voice』昭和64年2月号)、東京商工会議所『欧州労働・福祉事情視察団報告』(昭和63年7月号)その他があり、大沼氏のような単なる道義的見地からの受け入れ推進論は、この一年間で、いわば完膚なきまでに否定され、その幻想性、空想性が明るみに出された。

 そこで、座談会で会った大沼氏に、私はほんの小手調べに、次のような質問をしてみた。外国人労働者を日本に入れ、彼らの送金による援助という考え方は取るべきでなく、援助は労働力があくまで現地で生きる形で行うべきで、例えばフィリピンから看護婦さんを入れよという主張があるが、当のフィリピンでは大きな公立病院にさえ満足な看護婦さんがいなくなっている。

 富める国が金力にまかせて熟練労働者や中級技術者を引き抜くのは、この国の社会に大変なダメージを与える。先進国の自分一代限りのエゴイズムのために他国の若者を利用し、両国の末代にまで重荷を背負わせるのはヒューマニズムに反する行為ではないか、と、まず初歩的質問をぶつけてみた。すると氏は、「それはその通りです」「私もそれは否定していない」と終始、私の言い分を認めるような発言をする。

 『毎日新聞』で送金による援助の方式を推進していた前言には頬被りである。(注)それはまあ咎(とが)めぬとして、いったん正式導入に踏み切れば、言語や宗教の相違から来る混乱、子弟の教育という各国悩みの難問、新しい差別の発生、国内に植民地を抱えるに等しい二重労働市場の出現、彼らは文化的ゲットーを作り、国内国家を主張し、日本に同化しない未曾有の扱い難さ――我が国がまだ直面していない、予想される困難の数々が話題になると、驚いたことに大沼氏は、将来そのようなことが起こる可能性をまったく否定せず、危険は十分承知している、と再三言うのである。

 在日韓国・朝鮮人の人権問題の専門家である大沼氏は、日本における人種差別の実態については、私たちよりも厳しい局面を知っていて、座談会でも幾つもの証言をした。

 (注)大沼氏は私に対する反論(『中央公論』平成元年5月号)を書き、冒頭でこの点を捉え、自分は『毎日新聞』その他いかなる機会にも送金による援助を好ましいと述べたことはなく、西尾は「文章の正確な理解力の期待される職にある方として、情けないとしかいいようがない議論」をした、と私をはでに非難した。

 しかし『毎日新聞』(前出)で氏は出稼ぎ労働の拡大を一貫して支援し、ことに23日付では、フィリピン人女性の「送金」の持つ重みについて力説し、法の力で日本がそれを阻止することの間違いを、氏の言葉によると「全人類的観点」から批判している。これだけ明らかな証拠を残しているのに、後日敢えて虚言を用いて私を非難する口実となしたことは理解に苦しむので、一言書き加えておく。

 私がまったく理解の及ばない、未知の不可思議な観念の持ち主を目の前に見て、ある種の不気味さをさえ感じたのはこの瞬間である。

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