猪口邦子批判(旧稿)(九)

 

ブルーム氏は現代の米国人をここに見るが、現代日本の行き詰まりもまたここに映し出されているといっていい。氏は知的嗜好をまったく持たない新しい型の若者の出現に危機感を抱いている。彼らは本を読まない。ウォークマンを耳にかけロック音楽に終始身を委ねる。狭い意味の自分にしか関心がない。セックス革命とともに性の神秘は失われ、愛の情熱も持ち得ない。ツァラトゥストラの「末人」の時代にふさわしい新しい大学文化の実態である。言うまでもなく、状況は驚くほど日本に似ている。

 日本でも偏見と差別が間断なく廃され、自由と平等が避けがたく進歩していくという神話が信じられている。自民族中心主義は何よりもいけないこととされ、外国人嫌悪や人種差別は道徳上の最大の悪である。もしそれを批判し、疑問を口外するようなら、ニーチェの言うように進んで精神病院にでも入るよりほかに行き場がない。

 しかし、無知や迷蒙(めいもう)が取り払われ、人間がみな怜悧になった分だけ、生きることの情熱は失われている。魂はある創造の緊張を持続し得なくなっている。人が何かを憧れたり、信じたりする前に、いち早く、それはさして意味がないのだという賢い知識を与えられてしまう。そうなるともう何かを起す気にもなれない。

 私は本稿で自分というものを持つことの必要性について書いた。それは個人についても、国家についても当て嵌まると述べた。しかし、現今の状況で、そんなにそれが困難かというわけには、いっさいの偏見や束縛から人が解放される――実際には未解放でも、意識だけが解放される場合も含めて――につれて、人間の魂が加熱するあの微睡(まどろ)み、「舞踏する星」を産む「混沌(カオス)」状態は消えてしまい、白々と開かれた明るい砂漠が広がって、人間の意力も気力も失せてしまうからである。

 だとすると、日本が国家として何をして良いのか分からない方向喪失、自己混迷の状態にあるというのも、日本の特殊性だけで説明できず、米国や欧州をも含む現代世界全体の宿命といえる一面があるであろう。

 私は日本が平和とか国際協調とか世界への貢献とか、そんな無内容な形式主義ばかりを振り廻すばからしさを責めたが、考えてみると、他面では国家に対する大変に酷な要求かもしれない。なぜなら、日本は自分を盲目にする偏見とか束縛とかが本当は欲しいのだからである。それによって初めて世界観的見方(ヴィジョン)が得られるからである。

 しかし平和とか自由とか平等とかの領域を広げていけばいくほど、つまり自分を明るくする路線を歩み続ける限り、目標は定め難く、創造的「混沌(カオス)」状態は遠のくばかりである。だから日本のやっていることは、元来が大変に矛盾している。自分というものを成り立たせることには、何らかの柵囲いが必要であるが、平和とか自由とか平等とかの国家理念はそれに役立たず、必然的に方向喪失、自己混迷の度合いを次第に高めて行くことになるほかないからである。そして最後には、無意味な虚無の中へ転落するばかりであろう。

 で、私はいま問いたい。日本だけでなく、世界全体に広がっているこの方向喪失の不安をみると、差別や偏見はあった方がいい、不平等や束縛は人間をもっと豊かにする、というためらいがちの疑問や希望を胸中に抱いている人は少なくないのではないか。ブルームが問題を提起した教育の現場などには、まさにこの問いを突きつけられている。

「猪口邦子批判(旧稿)(九)」への3件のフィードバック

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  3. ピンバック: なめ猫♪

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