猪口邦子批判(旧稿)(十一)

 

在日韓国・朝鮮人の問題は、日本の犯した過去の罪の遺産だから、われわれ日本人はこれを末代まで耐え忍んでいかねばならないだろうし、その点のコンセンサスはほぼ出来ていると思う。ただ、文化や行動様式の面でも日本人と近いだけに、かえって微妙な差が厄介な対立になる在日韓国・朝鮮人の苦しみについて、実態をよく知っている大沼氏は、普通のセンスの持ち主なら、もう二度と同じ過ちを他の民族においては繰り返したくないと考えるのが人間としての常識であろう。

 フィリピンやパキスタンやバングラデシュから何十万何百万の移民を新たに受け入れて、在日韓国・朝鮮人と同じ憂(う)き目を彼らに味わわせることは何としても避けたい、だから労働者導入には反対だ、そう判断するのが、人間としてごく普通の感情の動きであろう。ところが大沼氏はそうではないのである。

 座談会に同席したブリティッシュ・コロンビア大学の鶴田欣也氏が、「ただ大沼さんの話を伺っていて私が分からないのは、そういう問題(在日韓国・朝鮮人問題)に取り組まれながら、どうしてこの国を開き、同化の方向を望まれるのかということです」と疑問をぶつけられたのは、至極当然であった。私も同じ疑問を抱いていたので、「そうそう、普通なら逆になるはずなんだ」と、相槌を打っている。

 外国人受け入れの具体的是非は私にはもはやどうでもよい。ある説明のできない観念の妄執に取り憑かれた、大沼保昭という一人の人間――日本の近代文学が本来ならその観念の内部を腑分(ふわ)けし、構造究明をしておくべき型の人間なのに、残念ながらまだなされていない――に、私は尽きせぬ興味を覚えた。

 在日韓国・朝鮮人は文化と行動様式の面で日本人と近いだけに、かえって微妙な差が厄介な対立になる、と私は先に書いた。最も近い者同士の橋は最も懸け難い、という古人の言葉は、常識ある人間には自明の真実と思われようが、大沼氏はまったく逆に考える。日本人とそんなに変わらない人間に就職差別や婚姻の差別を強いる日本社会の道義責任を繰り返し激しく問責し、日本人に社会教育を施すことで、民族的体質を変えていかなければならない、とあくまで自分の考え方のみ潔癖かつ純粋という主張を展開する。

 その際韓国人社会の側にも若干問題があるのではないか、とはまったく考えない。悪いのはすべて日本人である。また就職差別や婚姻差別はだんだんに減っているではないか、という現実の変化も認めない。悪いのは日本人の不道徳である。私は生まれて初めて、想像はしていたもののまだ見たことはない異質の人格、硬直した単純観念への信奉者を目の前に見て、信じられない思いだった。

 氏は物腰の穏やかな紳士だが、そのことと頭脳の中のファナティズムとは別である。毎年5万なり10万なりの移民を実現せよ、と氏はいうが、氏のような人格が言論界に一定の発言権を持っている限り、日本の門戸はますます強固に鎖(とざ)さなければならないとの確信を私は強めた。

 なぜなら氏は、日本の社会に少数民族問題が一つでも多く殖(ふ)えることを今か今かと待っていて、在日フィリピン人問題、在日バングラデシュ人問題、在日パキスタン人問題、等・・・・・・・が新たに発生すると途端に元気づき、自分のファナティックな正義の旗を振り回す機会到来とばかりに、あちこちで大活躍をするに相違ないからである。

 在日韓国・朝鮮人問題の底深い困難を氏は知っており、西ドイツのトルコ人労働者の惨状も研究していて、その点での私の報告文を評価に値すると公言しながら、なおかつアジアからの移民導入に賛成であるというのなら、氏の主張が自己の単純正義感を満たすための、人類愛の仮面を被った倒錯心理だと規定されても、反論の余地はあるまい。

 座談会に関する限り、氏は自分が石川好氏風の乱暴な開国論者ではなく、入国管理法をどんなに厳しくしても外国人が流入する現実は残り、一定枠の合法化を認めないと労働法上の保護が働かないことを問題にしている。不法入国者の増加の既成事実に乗った、最近よく指摘される論点である。いかにも少数民族擁護派らしい議論といえるが、ここで日本の読者によく立ち止まって考えてもらいたい観点が一つある。

 外国人単純労働者に対し今正式に門戸を開くとどうかという国家百年の計に関わる高度に政治的な決断を要する問題と、現に流入した人間をどう扱うかという既成事実処理問題とは、問題の本質を異にするのである。前者は日本の国家的運命に関わる政治政策論であり、後者はあくまで道徳論ないし技術論である。

 政治と道徳・技術は別である。大沼氏はそこを混同している。われわれ言論人が今責任をもってこの件で広く討議を尽さなければならないのは、前者であって、後者ではない。少なくとも後者は単独に、切り離して、別個に討議さるべきである。

 念のため私は大沼氏の思想的原点ともいうべき著書『単一民族社会の神話を超えて』を拝読した。指紋押捺制度の撤廃等を主題にしている、この方面の重要文献であろうが、たった一つの正義の感情が全文を蔽(おお)っていて、単調で、専門家以外には、あるいは信条を同一にする人以外には、読むのに気骨が折れる本である。

 要点は、在日韓国・朝鮮人を日本社会に同化するのではなく、彼らの「朝鮮民族的なるもの」を承認し、育成し、なおかつ日本の国内で日本人と同等の権利資格を彼等に保証せよ、ということらしい。一種の「国内国家」是認論である。日本の歴史的罪過に問題が起因している以上、私はこの点に関する限り、大沼氏の主張の正当性を否定しない。だからといって、最近の新しい不法入国者にまで「国内国家」論を認めよ、というのは自虐的誤謬だということを付け加えて置く。

 それはそうとして、私は以下、氏がその人生で恐らく今まで出会ってもいなかったであろう氏への道徳批判を披瀝(ひれき)することとする。わが国の歴史に責任のある朝鮮人問題は、日本人の誰もが抗弁できない、有無を言わせぬ性格の問題である。

 朝鮮人の立場に立ってこれを論ずる人は、つねに安心して、「絶対善」の中に身を置くことが出来る。
自分の立脚点が脅かされることはないからだ。
 自分は永遠に安全地帯の中にいる。
 そして、他人の不足や欠陥をあれこれ批判する裁き手の快楽に安んじて身を委ねることが出来る。

 大沼氏の本は350余ページことごとくこの快楽に満ちている。読むに耐えないほど単調なのはそのゆえである。氏には自分が安心して正しいことを語っていることへの羞恥心がない。氏の正義感は幼児性の域を出ない。はっきり言って、在日朝鮮人の立場に立って、日本人を論理的に倒すのは、幼稚園の子供にも出来るのだ。そのことへの自己懐疑がない。従って、氏の立脚点は道徳以前である。氏は道徳的感情に浸(ひた)って論を張っているが、善悪に関する成熟した、繊細で微妙な感情が氏にはまったく育っていない。

「猪口邦子批判(旧稿)(十一)」への8件のフィードバック

  1. まず、既存の在日韓国朝鮮人問題と、アジア人移民受入れの問題は混同してはならない。と考え、したがって現行入国管理法の法改正のもと、広く門戸を開放し諸外国(主としてアジア全域)から単純労働者を受け入れるか否か。について、全く同じ物差しでは計ってはならない「論点」です。

    数年前の事、その道の実務経験者から聞き及びますに、
    「外国研修生」と称し、我国第二次産業を主とした(概ね)3K労働者を必要とする中小の町工場的製造業者向けに「外国人研修生」受け入れ制度が法制化されている。かの法律は、研修生と称し、失業者の多いアジア諸国から若き青年募集し我国に入国させ単純労働者として扱う。法務局に報告すべき規定の研修期間研修内容の実態は当該役所への提出書類を凡そ偽造し、実態は「単純労働者」として雇用している。という、実態があります。当該法律の目的は、広く技術発展途上諸国に向け、日本の高度な技術を指導育成する為。という、口上詭弁の上に成り立った法律であり、バブル経済華やかなりし頃、多くの3K従業員を必要とする巷の製造業者は、こぞって外国労働者を受け入れたものであり、今尚この不法制度に準拠する「外国人労働者の採用」は継続中、、、。
    加えて、これらの「研修生受入れ事業体」の種別を拡散させる方向に推移していると聞き及びます。例を上げれば、看護婦(もとい、看護士)介護士など、フィリピン人看護婦を大量に受け入れる素地が出来つつあるとの事。
    ここで問題は、
    上述の「外国人研修制度」たるや、法律の詭弁であって、すでに「ザル漏れ」状態明白。本来、出入国管理担当官により、摘発しなければならない実態にもかかわらず、ある特定の「外国人労働者紹介業者」に限り摘発されない実体があります。
    概ね、「大手の銀行」の配下にある紹介業者は、かの古狸政治家の秘めたる利権の基に「保護」されている。と、聞き及びます。
    外国人研修生の研修期間には限りがあり、特定のアジア人が、一回の研修を終えると、再び日本にて研修を受ける事難しく、さりとて、工場主は現場作業を取得した労働者は、経験者として再入国させ現場に戻したく、したがって不法滞在者を増加するか、偽造旅券所持の不法再入国者を見逃すか。詭弁を弄する研修精製度を定めた「悪しき法律」に翻弄される日本中小製造業者ならびにアジア諸国の若者の数たるは、想像の域を超えたものがあります。
    しかし、バブル経済崩壊後久しく、今日の3K産業には、日本人労働者の中から十分に、労働力供給可能でありましょう。が、問題は、我国の若者が3K労働に従事するかどうか。おおよそ団塊の世代の退職者が溢れる予測の中、定年を迎えた大量の弾痕世代に3Kの現場に投入可能か?
    このあたり、見えてこないものがあります。
    はっきりしている事、すでにアジア諸外国からの労働者の需要は減少しているという実態です。
    主題は、
    外国人(アジア人)の日本移民を、是とするか否か。
    否、です。
    むしろ、日本人(特に男性)が、広くアジア諸国に仕事と生活の場を拡大する必要があると考えます。
    尚、
    近隣の朝鮮半島からの移住?在日朝鮮半島人の云々について、論ずるに至らない問題だと考えます。
    私儀、
    長く東欧に滞在した経験を持ちますが、例えばハンガリー人、近隣諸国(ドイツを始め、オーストリア・ルーマニア・チェコ&スロバキア)の人々とは、長い歴史の中、遺伝子に染付いて今尚払拭できない「何か」を持ち、想い、捨て切れていません。トルコに対しては、歴史的な恨みつらみ不信感、引いては「卑下・軽蔑」の感、大いに持っているようです。現地に滞在していた私は、ハンガリー人と比較し、似ているものを見つけたり。と、沖縄県民あるいは朝鮮半島人の持つ「個性」の類似点を見たつもりでいました。が、しかし、ハンガリーの人々と、朝鮮半島の人々は、けっして「同一」ではありません。
    思うに、我々にとって大切な事あり。
    もう一度、我国の歴史認識を検めること。
    小中高校生時代を通し、まともな日本史を教割っていない私、今、西尾先生の日本史に関する著書を、熟読中です。

  2. ピンバック: なめ猫♪
  3. ピンバック: すーさん’s アイ
  4. こんにちは、犬笠銀次郎です。

    >外国人単純労働者に対し今正式に門戸を開くとどうかという国家百年の計に関わる高度に政治的な決断を要する問題と、現に流入した人間をどう扱うかという既成事実処理問題とは、問題の本質を異にするのである。前者は日本の国家的運命に関わる政治政策論であり、後者はあくまで道徳論ないし技術論である。

    日本国内に流入した人をどう扱うかも立派な政治の問題だと思われ。

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