猪口邦子批判(旧稿)(十二)

世界文学が示す深海のような心の闇

 猪口邦子氏と同様に、大沼氏もまた文学をほとんど読んでいないのではないかと私は疑う。両氏には人間の心の襞(ひだ)が見えない。ステレオタイプ化した平等・自由・人権の拡大論ではなく、不平等・不自由・偏見・差別がときに人間性にとっては不可欠な要件だという、『アメリカン・マインドの終焉』の著者が示唆したような人間の心の秘密について、何がしかの予感さえ抱いていないように思える。

 今度、本稿を書くに当たってつくづく思ったが、新時代の二人の論客の表現世界は、俗流心理学の域をほとんど出ていない。彼らは真の洞察とプロパガンダの区別が分からない。ばかげた感傷的正義感と本物の高潔な精神的態度との間には、外見上髪一本の差しかないのだが、それを弁別する能力を与えてくれるのは、彼らが学んでいる社会科学ではなく、高校や大学初期に誰しもが耽読すべき偉大な文学の世界なのである。文学だけが人間の心の世界の複雑な可能性、類型に関する微妙な差異を比較する意識を育ててくれる。

 例えば、ドストエフスキイは、人間の謙虚さが持つ恐るべき傲慢さ、賤しさの奥に秘められた高貴さ、卑劣な弱者のみが持つしぶとい生命力、正義を維持するために必要な不正の質と規模、寛容とヒューマニズムがときとして惹き起こす悪逆無道、そして罪の中の愛と愛の中の罪との関わりについて、あるいはさらにもっと複雑な心の広い領域について、考えられる限りの可能性を追求し、展開している。

 われわれはそういうものを読むことを通じてしか、人間と社会と世界とを見る目を鍛えることは出来ない。あるいはスタンダールやバルザックが、シェイクスピアやディケンズが、ゲーテやニーチェが、世界の全体像を提出し、その限界を指し示していることと無関係に、国際政治学や法学や精神医学や生命科学が、それ自体として存立しているなどと私は考えることが出来ない。

 世界の文学が切り拓いた、深海のような広くて底のない心の闇について、ほとんど予感することもなく社会科学その他の学問を学んだら一体どういうことになるか、本稿ではその見本を提示した積りである。

 アラン・ブルーム氏ではないが、人類のマインド終焉し、知性の野蛮が行進し始めている。自分というものを欠いた、怜悧で、無知も盲目も知らない、単純化された魂の砂漠が広がり始めている。

 〈『中央公論』1989年3月号、『日本の不安』[PHP研究所、のちにPHP文庫]所収〉

「猪口邦子批判(旧稿)(十二)」への7件のフィードバック

  1. ピンバック: Merge Voices
  2. 心の闇が広がって、それでどうなるのですか?

    化学屋には分かりません。教えて下さい。

  3. ピンバック: 徒然なるままに

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