かつて私の母は香奠袋を買い貯めることを決してしなかった。御霊前と書かれたあの袋は誰かの訃報に接したそのつど買い求めていた。死者の出るのを待っているかのような振舞いは慎むべきだ、という戒律のようなものが母にはあった。
今でもこの掟を守っている日本人は少くないだろう。私にも私の妻にもそのような心の動きがまだある。私たちはときとして便利に負けてこの定めを破ることがあると、「とうとう買い貯めてしまった」と悪いことをしたときのような会話をしてきたからである。
今の若い人はどうだろう。文具店などであの袋が3-5枚ビニールに入れられて売られているのを見ると、複数買い置きすることに抵抗はなく、それが死者を待つ悪心だと言い継ぐ人もいなくなっているのではないだろうか。
天皇の制度についても少し前までは不動のものという気風に揺らぎがなかった。遠藤浩一さんのブログを読んでいたら、氏の師匠筋にあたる、92歳になられた社会民主主義者の教授が「天皇制を抜きにした社会主義は考えられない」と仰言ったということばが記されていて、あゝ、一昔前まではたしかにそうだったと往時を思い出した。
三島由紀夫が日本共産党は天皇制を伴った革命を目指していると言ったことがあり、これを警戒すべき最大級のことと書いていたのを思い出す。社会主義者も共産主義者も天皇の二文字には勝てないといわれたものだった。
しかし今はどうだろう。天皇なんか要らないと平気で口にするのはホリエモンだけではない。ある年齢より下の層に、香奠袋の買い置きにためらう心が失われたのと似たような、たじろぎの無さ、無遠慮さ、ベールを剥がしてしまった素裸になった心の状態、が横行しているのではないだろうか。
最近私の雑誌論文にときどき感想文を寄せて下さる方に40代の公務員Aさんがいる。彼は率直に書いてこられて、正直に世代を告白している。次のように書くことにためらいを持たない世代に属する。
今回も、雑誌「正論」2月号に西尾先生が書かれた「皇室典範と財政」を拝読させて頂きました。30~50年後に天皇制が左右から攻撃され、真の危機が訪れるという視点は、他の論者にない大変説得力のある視点であり、かつ、これまで朝日新聞や中野での皇室典範改悪阻止国民決起集会などで西尾先生が繰り返し強調された点であり、かなり世間に浸透してきたと思います。
他の論者が主張する「2000年続いた伝統を守る」という視点だけでは、「日本の伝統を守る」という点に価値を見い出さない人や、むしろ日本の古い体質を変えていくことに価値を見い出す人にとっては説得力を持ち得ません。
私は、西尾先生が提示された視点に。更にもう1つ付け加えれば、更に説得力が増すのではないかと考えます。西尾先生が提示された視点は、天皇制が左右から攻撃され、やがて天皇制が廃止されるだろう、というところで止まっています。これでは、天皇制を存続させるべきと考える人々に訴えることは出来ますが、天皇制が廃止になっても、「ああ、天皇がいなくなったのか」という溜息だけで終わってしまう大部分の一般庶民には訴える力を持ち得ません。
「正論」2月号のなかで、旧竹田宮直孫である竹田恒泰氏が、天皇制を、世界最古の木造建築である法隆寺に例えておられます(この例えは、とても良く理解できる例えだと思います)が、法隆寺を木造のまま保存しなければならない、コンクリートに変えてはならない、という主張は、法隆寺を保存しなければならないと考えている人々にしか説得力を持たないのと同様です。
私は、天皇制が廃止になったその先に何がやって来るのか、を提示することが大切だと考えます。もし天皇廃止論者の思い通りに物事が進んだとすれば、天皇制が廃止になった後、共和制が導入されるかもしれないという点です。
この文章はひきつづき、共和制の国というと恐らく日本で考えられるのは「朝鮮民主主義人民共和国」や「中華人民共和国」のような社会主義国家だろうと述べている。1960-70年代のような過激な破壊行動ではなく、ゆっくりと、しかし着実に一貫性をもって進めるやり方で、天皇の制度を壊したいと考えている人々が多数いて、それは日本を社会主義国にしたいという動機から出ていると論述しておられる。
Aさんの質問に対し私はどう答えたものか悩むのである。「天皇制が廃止になったその先に何がやって来るのか」分らないというしか私にはまったく言いようがないからである。
共和国というのは何も社会主義国とはかぎらない。王制を持つ国の方が少い。フランスも、ドイツも、アメリカも君主国ではない。天皇の制度が廃止された後の状態として人々が連想するのは必ずしも北朝鮮や中国ではなく、普通の近代先進諸国家群である。
だから必ずしも特別のことではないと考えてよいのかもしれない。だからこそ、「大部分の一般庶民」は天皇の制度が廃止になっても「あゝ、日本から天皇がいなくなったのか」という溜息だけで終ってしまう、ということが平気で予想されているのである。多分これは真相を言い当てている。そして、とても厄介な、恐しい真相でもあるといえる。
けれども他方、日本人は未知の領域に入るような不安も抱いている。皇室典範が政治的タームになって以来、新しい変化を感じとり、慎重に扱うべきだとする人々の声が小さな波から津波のようなざわめきになって国内に広く及んでいる。日本の国民にとっては天皇の存在はやはり格別のことなのである。
平生は意識していない事柄が危機を迎えてあらためて意識される。伝統とか文化とかいうのはだいたいそういうものだろう。
トラックバック有難うございました。
コメントを書かせていただきたいと考えましたが、纏まりませんので、関連する事項を少々多く成りましたがトラックバックさせていただきます。
今朝ニュースで皇室の話題がありましたので、女房はどれくらい認識しているかを試そうと思い、「お母さん、女性天皇と女系天皇の違いって理解しているかい?」と聞くと、「全然感心が無い」とひと蹴りされました。同じ屋根の下に住む者どうしでこの意識の違いですから、一歩外に出たら、皇室の話題を持ち出しただけで「気は大丈夫か?」と言われるかもしれません。これが現実ってやつでしょう。
しかしそれでいて国民は初詣では神社に出かけ、私の家では女房が毎日神様の水を取り替え、榊も定期的に取り替え、出掛けるときは手を合わせます。
私よりずっと信心深いです。これって不思議です。
そして、何か皇室側はそのような国民・・・つまり無意識に当たり前の事が出来る者になれるよう望んでいらっしゃるのかもしれません。確かに知らないより知ることの方が大事ですが、知っていても当たり前の事が出来ないのなら、それは望ましくない。
香典袋もしかり、出掛ける前のお辞儀もしかり、習慣による節度を強く望まれている我が国の皇室は、常に姿勢を崩さない模範を示されています。
簡単なようで簡単ではない、しかし誰にでも実行可能な姿勢を後世にどう伝えるか、それはもう毎日の心掛けしかないでしょう。
初めて投稿致します。昨年11月のなかのゼロでの大会に参加、西尾先生の演説に感銘を受けた一人です。「正田家であれ、小和田家であれ誰が乗るのが問題なのではない。船が難破しないことこそ重要なのだ」という一文に集約される弁論は圧巻でした。
最近、産経新聞が首相批判の記事を何本も掲載していますね。次の記事もその例ですが、一国の総理大臣が一知半解とも疑われる知力で国政を担当しているのかと思うと、空恐ろしい気が致します。彼を担ぐどんな勢力に利用されても不思議ではないと危惧します。郵政民営化も、この調子で断行(蛮行)したのでしょうか。
私たちは本当に無意識に神道という宗教を体現した日常生活をしてきました。それは寛容で緩やかな宗教だからこそだできたことだと思います。お宮参り、初もうで、七五三、合格祈願、厄払い…。
でもその祭祀を司られるのが天皇陛下であることを知りません。
だから、一般の人は、今起こってることに危機感を感じられないのかもしれません。少しでも神道について教育でも受けてたら、違うのでしょうが。
将来の日本民族の没落を狙った近隣諸国の工作活動の一環だという説も、頷けます。ちょっとあてはまらないかもしれませんが、王制のあとには独裁者がでてきた例が多いですね。
皇室典範-小泉は意図的に皇室破壊を画策している
現在の小泉の皇室典範改正騒動は、皇室を「ぶっ壊す」ただこの一点に狙いを定めている。理由は、歴史観等ことごとく自分に逆らう現天皇に対するしっぺ返しである。橋本派を潰したときと動機は変わらない。
もう一つ、信長もできなかった天皇家滅亡への布石を打てることに大変な自己満足を感じている。
このことは邪推ではなく、1月5/12号週刊新潮の櫻井よしこ氏のレポートに、皇室の儀式が総理を差し置いて行われることにカチンときて「皇室の改革だ」と叫んだとあることからも明白である。これは小泉にとっては天皇家とのお得意な「権力闘争」なのだ。小泉とはそこまでの狂人なのだと思う。
現在、皇室典範の改正を持ち出すのは、もう今後皇太子に親王ができる可能性がなくなったといっているようなものだが、そう結論を出すのはもっと後でもよいだろう。皇太子ご夫婦に失礼ではないか。やはり、何がなんでも今のうちに女系天皇への布石を打ち皇室崩壊に導きたいのであろう。
男女同権を持ち出して、今この時点で皇室典範改正を持ち出す本当の動機を見抜く必要がある。
小泉首相を妄信する国民、ホリエモンを持ち上げたマスコミ、そして彼を崇拝した若者。
日本はマスコミを利用した全体主義に向かおうとしている。天皇陛下が、国民の象徴でなくなったときには、小泉さん以上の独裁者が現れ、ファシスト国家になると、わたしは予想する。
男系維持の方法はいくらでもあるので、そのことを議論する方が先ではないだろうか?
「女系」の話をしたいなら、あと30年先でも十分に間に合うので、今はそんなことよりも男系維持の方策を考えるのが先でしょ?
八木さんでさえ「万策尽きた暁には女系も・・・」なんて話をしていたが、「女系なんて話を今する必要なんて全くないよ?男系維持の方法はいくらでもあるのだから。なんで、今から30年先の『架空の話』をする必要があるの?そんなヒマあるなら男系維持の方策を検討するのが先でしょ?」くらいのインパクトのある発言をすればいいのにな。。。。(「女系」について「検討すること自体」が見当はずれであることに気付かせないと)
「女系」について話す人間は、男系維持を否定したい連中でではないか?(そう見なして間違いないだろう)←あるいは、男系維持(=天皇制維持)にそれほど熱意がない人間か天皇の存在意義をちゃんと理解していない人間かのどちらか
中国の古典などを読むと、現代の人間が古代から精神的にはまったく進歩していないと感じざるを得ません。
にもかかわらず現代人は、自分たちの浅はかな思慮によって世の中を正しく進められると思い込む傲慢さをもってしまった。
これだけ永く続いたもの、それの根本理由が理解できないのであれば、せめて畏れを感じる謙虚さを持ちたいものです。
はじめまして、あやこと申します。
いつもHPを拝見させていただいております。
私は現在フランスに住んでおり、過去アメリカにも1年ほど住んだことがございます。
その上で、日本がフランスやアメリカのようになって欲しくないと心から願っています。中国や北朝鮮のようにはなりたくないが、フランスやドイツ、アメリカのようにならなってもよいという考えはとても受け入れられません。
各国のスラムの様子を見るだけで、そう確信できるのではないでしょうか。フランスの暴動のニュースは日本の方もご覧になりましたよね?アメリカにも大きなスラムがあちこちにあります。深い絶望と暴力の中で暮らす人がたくさんいます。
天皇制を中心とした公と和の心を日本人が失うようになってはおしまいだと、私は信じています。
皇統破壊の危機。
21世紀の国難の始まりのような気がします。
今世紀半ば、少子高齢化の進展で、移民政策の是非が問われる日がからなずしや到来することでしょう。
皇統の断絶が象徴的・文化的な民族の危機だとすれば、移民大量受け入れは、物質的・現実的な民族の危機だと思います。
近代主義や、経済的「現実」主義、その他諸々の説が説かれ、時の経済界のドンなどが受け入れ賛成、などと主張し、政治家も目先の「経済」のために、追随することでしょう。
これに反対する根拠は民族的根拠(血の原理)以外にはないのではないでしょうか。日本は日本人の国なのだ、ということです。
その時、民族的紐帯の象徴、歴史と伝統の顕現たる皇統が毀損されていることが、わが民族にとって、民族(の伝統・文化)の保持を志向する者(こそが保守だと思いますが)にとって、どれほど大きな痛手となることでしょうか。
今、皇統護持で挫折したら、21世紀の今後わが民族を取り巻く大波の中で、わが民族は、すっかり洗い流されてしまうのではないでしょうか。
杞憂であることを願いますが。
天皇制度は、信仰のようなもの、という趣旨の西尾先生のご発言があったかに思います。
たしかにそうなのかもしれません。ただ、一朝有事の際には、まさに民族的紐帯として「機能」(不敬なものいいではありますが)してきたというのも事実なのではないのでしょうか。
「労働鎖国のすすめ」を著され、正鵠を射た批判をなさった先生としては、どのようなにお考えでしょうか。
もし「『万が一』のことがあったらどうするのだ?」と言われたら。。。
「大丈夫でしょ?いざとなったら「有識者」を集めて、一年足らずで「女系OK!」の答申を出せるんだから!」
と答えよう!(笑)
いや、実質は三十数時間なのだから、一週間も缶詰になれば大丈夫でしょ?(^O^)(だって、国家存亡の危機だモン♪)←その時は「拙速」でもかまいませんよw
(「正論」を考えるのはたいして難しくはない。。。だって、誰か先人がすでに考えているからね(-_-)bデショ?むしろ、このように「柔軟」な発想が出来ることが重要なのだねぇ(^へ^))
P.S.
国家存亡の危機に、「思想」を語るとか「人心の荒廃嘆く」なんて悠長なことを言っている場合なのだろうか?
「新朝廷を建設して、詔勅を発布するぞ!そして、念願の天皇親政を実現しよう!」くらいの大胆な戦略を考えることくらいのことしないと、世間へのアピールにならないのではないか?(そんな発言まで飛び出してくること「そのもの」が、政治的効果になるわけですよ。「天皇制打倒」はもう古いけど、「新朝廷建設」はこれまでにない発想では?(^^ )実際、南北朝があったのだから、全く「架空」の話でもないしw)
これは「思想的闘争」ではなく、明らかに「政治的闘争」ですよ?
なんだかんだ言ったところで、首相が「無自覚」に、皇室を政争の具にしてしまっているんだから、もうやるしかないでしょ?(苦笑)(日本の歴史にだって、「壬申の乱」があるわけだし)
他所にも書いたものですが、こちらにも転載します。
紀子様ご懐妊の報告をうけてもまだ女系にこだわる彼は、おそらく公明党に操られていますよ。人権保護法案の腰折れが女系論容認にすり替えられているかもしれません。
本来なら「今報告を得ましたが、紀子様がご懐妊だそうです。そうなると状況を鑑みるべき事態ではないでしょうか」と、言葉があってもよいはずが、まったくそれがありません。つまり、彼は女系論を買わねばならない条件の元にあるのでしょう。ここまでこだわる最大の理由は、公明党のコメントに全て答えが隠されていますね。ではなぜ公明党は女系にこだわるのか?
その本質を皆で探りませんか?
そこから問題を解決していくべきですな。
この期に及んでも女系天皇を今国会で成立させようとする小泉。全く常軌を逸している。普通なら状況を見守るだろう。
このままでは、男子が産まれるのを恐れて国会審理を加速させるというお得意の姑息な手段に打って出るかもしれない。
いや、これを小泉が私が指摘したとおり「権力闘争」ととらえているなら、紀子様と胎児の安全を憂慮せざるをえない。(御公務の際に不審人物に体当たりされて流産等)
ホリエモンが金のためならなんでもするのと同じで、権力維持のためならなんでもするのが小泉だからだ。(ホリエモンへの応援を見れば明らか。)これが全くの冗談に聞こえないところが怖ろしい。
「秋篠宮妃紀子様、ご懐妊」の報に接し、思わず「やった!」と叫んでしまいました。丁度TVの国会中継を見ていた所で、秘書官に耳打ちされた「朝敵小泉」は何ともいえない表情を浮かべていました。情勢の大きな変化にも関わらず、頑固に女系に拘っている様子。しかし、女系推進派に対する、大きな牽制になることだけは間違いないでしょう。
ところで「女系天皇」という用語が一人歩きするのは如何なものでしょうか。女系になれば、実態として新王朝になるのですから、「女系王朝」などと呼んだ方がいいのではないでしょうか。「女系天皇」を刷り込まれますと、知識のない人が聞いて「天皇家が続くのなら女性で構わない。何で女性がいけないのか」と思ってしまっても無理はないのでは。
歴史というのは皮肉なもので、苦しみ抜いた時代には継続が許され、楽な勝ち方を一度でも味わうととんでもない苦労や悲惨な結末が待ち受けていたりする。
今日本の場合、皇室が前者で政治が後者と見て取れるのかもしれない。
どんな世界も間違いなく共通して言えることは、越えねばならない峠を避けた者は必ず堕ちる坂があるということだろう。
しかもその坂は自分からわざわざ降る事が多々ある。不思議なもんですよ。
安国寺恵瓊の書面を思い出します。
信長之代、五年、三年者可被持候
明年辺者公家などに可被候かと、見及申候
左候て後、高ころびに、あおのけに、ころばれ候ずると、見え申候
(信長の代は3~5年は維持なさるでしょう。
来年あたりには公家になられるかとも拝見します。
しかしその後、高ころびして仰向けにひっくりかえってしまうのではないかと拝見する次第です。)
私は25歳の会社員です。今年60歳になった父親と議論しましたが、結局女系と女性の違いもわからず、推古天皇の例を持ち出して平然としていました。その年になって何を言っているのかと情けなくなります。何度説明しても、感覚的に、愛子様が継ぐのが自然だと思いこんでしまっているようで、しきりに首を傾げていました。世代間の断絶というか、一瞬、全く違う価値観の外国人と話しているような感覚に襲われました。世代に限らずとも、むしろこういった問題に無関心な人が多数でしょう。こういう人たちと、同じ日本の国民で、同じ天皇を戴いていることが何とも心許なく感じます。小泉フィーバーに熱狂する人たちも同類でしょう。何とも言い難い孤立感、焦燥感を日々感じています。
西尾先生、
はじめまして。「和と武」といいます。
以前よりご意見勉強させて頂いております。
「諸君!」3月号掲載の田中卓教授の件を検索していて辿り着きましたので、そのことについてコメントさせて頂きます。
歴史学者による日記「愚一記」:
http://www.toshiito.cside.ne.jp/t-diary/?date=20060212
の註1を読んで、田中卓教授の女系容認論の間違いが分かりました。
ご参考まで。