つくる会関係のことで私はいまメールなど大量の資料を分類し、整理し、読み始めているが、まだもう少し時間はかかりそうである。そうこうしているうちに私の意に適ういいブログを拝読した。
「Let’s Blow!毒吐き@てっく」という、いつも味のある卓見を思い切って乱暴に語るブログがあるが、5月13日付の長文は、今まで書かれるべくして書かれていない重要指摘に満ち溢れていると見た。
今日はこれをご本人の了解を得て全文そっくり掲示する。
つくる会クーデター未遂の考察
てっくちゃんと書いておかないと、気持ち悪いから、真面目に書いてみよう
事はつくる会だけの問題ではなく、敬愛するご皇室、そして我が日本にまで関わりかねないので
無視するのはヤメ
改心しない不心得者は、しつこいぐらい糾弾してやるさて、今日だけは以下の文章に真面目に句読点を入れます
今日、「西尾幹二のインターネット日録」で布袋和尚さんというHNの方の素晴らしい投稿を読んだ。
リンクを貼ると、その下に知足という、性根サヨクの汚らわしいアクセス乞食がまたくだらないコメントをしてるんで、全文転載させていただきます。
新田前理事の文章を一読し、「つくる会」の末端の、饒舌よりも行動を重んずる平凡な一会員として所感を申し上げます。
人間は立場によってものを考え、ものを感じる存在であり、ましてや西尾先生から厳しく論難され、激しく指弾された八木元会長や新田前理事達のお立場からすれば、とてものこと承伏できず、反論し逆襲に出たい言い分や論拠も多々あり心情も山々でありましょう。畢竟、「因果の論理」の応酬において、それは尽きるところなく際限がないものと思われます。
しかしながら、御両者を「品格の次元」と云う観点から見比べると、そこには雲泥の差があるものと感じます。御両者の対立の構図は、思想家としての立場から「つくる会」の理念と志操を守るべく「目的のためにも手段を選ぶべき」ことを標榜して譲らなかった「創立者」と、政治的な企図から「つくる会」において主導権を確保し、かつ、人脈(旧友)を擁護すべく「目的のためには権謀術数も駆使する」こと憚らなかった「後継者とその徒党」の間の葛藤であったものと思われます。
そして、後者は自ら掘った墓穴故に、八木元会長は屈辱と挫折に苦悶されつつ、新田前理事達は激しい憤懣と怨念を胸に、退会を余儀なくされたものと思われます。また、西尾先生もその志操故に、再び「つくる会」に復帰されることはないものと承知致します。悲痛の極みと云わざるを得ません。
向後、西尾先生には、保守思想界の重鎮として、大所高所から、敗戦後還暦を経てなお崩壊しながら漂流する吾が国が向かうべき方向を明示していただきたく、また、八木教授には、この挫折を天与の試練として受け止められ、人間として一回りも二回りも成長され、次代の保守思想家の雄として大成していただきたく、そして、新田教授におかれても、鉾を納めて自らの言動を深く内省せられ、その憂国の熱意と才気を更に錬磨され、保守思想界において所を得て応分の御活躍をいただきたく、切望申し上げるところです。
Posted by: 布袋和尚 at 2006年05月12日 12:40
そして、クライン孝子氏の「クライン孝子の日記」における、YUKI von MURATA という源氏名の方の考察
D-7.中国共産党説
極めて可能性が高い。日本共産党あるい共産党のコントロールを
無視した党員や左派とタグ(原文ママ、恐らくタッグの間違い)を組んでいる可能性がある。1.西尾氏のプロファイリングを利用し、藤岡氏と対立させる。
2.発信は八木氏周辺のように見せ掛ける。
3.3者間の不信感を高める。
4.工作員の存在は見えない。
5.結果的に「つくる会」を分裂させる。
6.日本の右派勢力の弱体化
7.日本の歴史観を中共の解釈に導く
このお二人の文章を読んで中国共産党の陰謀説も一考の余地ありと思い直してみた。
ここで、皆さんに中国人の洗練された外交(experienced in diplomacy)の手法について説明します。
中国人の外交術には歴史の重みがある。
戦乱と飢餓と権謀術数に明け暮れた中から得たかれらの術は、まさに中国の文化である。
相手に向かい合う時、決して譲歩してはならない。
日本人のように、問題を前に自分が譲歩し誠意を示せば相手も応え、円満に収まるだろうと思ったなら、その時点で戦いは負けである。
まず相手陣営内の揉め事を見つける。
つぎに好ましい話し相手を探す。
目を狙(つ)けるのは、自分は交渉術に長け影響力もあるとうぬぼれている人物がよい。
その者との対話では応分以上に持ち上げていい思いをさせ、議題は自陣営に有利なものを選び、自然に相手陣営を不利な立場に追い込む。
もちろん不利になるのは相手陣営であり、交渉したその者個人を不利な立場に追い込んではならない。すでにその者は相手陣営の人員ではなく、わが陣営の味方になっているからだ。
ここまでくれば、後はもう押しまくればよい。
その過程では、自分に都合のいいことなら、鹿を指して馬と為してでもそれを正義と言い立てる。
相手陣営がその論法の矛盾を突いてくれば、ますます声を大にして鹿を馬と言い張ればよい。
大声を繰り返せば、それは譲歩できぬ原則と相手は思い込み、腰が引けてくる。
こうなれば交渉の先は見えてきたも同然である。相手陣営は内部の足並みをいよいよ乱し、全体としての交渉力を失う。
そのための駒になり活躍してくれた人物はまさしく交渉術に長け、影響力を行使してくれたことになる。(踊らされた本人には皮肉な結果となる)
さて、このように中共の手口を皆さんにご紹介した上で、八木氏がこう言い訳をする中国の学者とのやり取りを一緒に見てみよう。
雑誌「正論」4月号より
解説(八木秀次)
以上、三月号・四月号の二号にわたって、『新しい歴史教科書』をめぐる中国社会科学院の日本研究所スタッフとの懇談の様子を紹介した。私たち日本側はプライベートな旅行ということもあって、討論をするつもりで社会科学院を訪れたわけではなかった。日本側の一人と中国側の数人が旧知の関係もあって、スタッフ数人との文字通り懇談とのイメージだった。しかし、結果は、日本側は学者は私一人、他は事務局スタッフと本誌編集部員というメンバーで中国の代表的日本研究者と論戦することになった。中国側は原稿を用意し、こちらは不十分なメンバーで即興の論戦ということで、その点、日本側の主張に物足りないものを感じる読者もいよう。
中国側にはあらためて正式に歴史学のプロパーを入れて論戦したい旨を伝えたが、私がここでこの中国社会科学院との遣り取りを紹介したのは、中国側の主張に日本側がどう反論したのかを伝えたいからではない。中国の代表的な日本研究者が『新しい歴史教科書』をどう認識しているのかを資料として紹介したかったからである。これまで中国の政府関係者や関係メディアからの批判はあったが、研究者レベルでの詳細な意見は紹介されたことがない。紙幅の関係でできるだけ中国側の主張を紹介し、日本側の発言を一部省略したのもそのような理由に基づいている。読者にはその点をご理解いただき、中国側がどのような認識を持っているのかに重点を置いてお読みいただきたい。
「正論」の編集部員を連れて(に、連れられて?)の中国旅行が「プライベート」であり、「討論をするつもりで社会科学院を訪れたわけではなかった」との八木氏の言は、私には到底納得できるものではないがここではこれ以上触れない。
「結果は、日本側は学者は私一人、他は事務局スタッフと本誌編集部員というメンバーで中国の代表的日本研究者と論戦することになった。」
まさに、敵の術中にまんまと嵌っているではないか。私なら、こんなケンカはしない。
八木氏に言っておこう。
ケンカとは、強いものが勝つのではない、勝った者が「強い」と言われるのだ。
私なら、勝てるケンカしかしないし、勝つための準備を整えて、地の利、相手の力量を踏まえたうえでケンカする。
その後の八木氏の「中国側は原稿を用意し、こちらは不十分なメンバーで即興の論戦ということで、その点、日本側の主張に物足りないものを感じる読者もいよう。」などというのは、全き言い訳に過ぎない。
しかも、相手は「つくる会」の現役会長と、反中メディアと目される産経のグループの「正論」編集者である。
自らの立場を顧みない無責任にはあきれてしまう。その後に続く言い訳は、考慮に値しない。
では、著作権の問題云々を取り沙汰されるのも本意ではないゆえ、八木氏達と中国人学者達のやり取りの一部を以下に抜粋引用する。
蒋 私の言った出発点というのはたいへん大事なんです。
出発点というのは何かというと、中国で戦争が起きたということです。だから中国は侵略されたというわけです。
日本には日本の国民を守るために戦ってきた、自衛戦争だという認識がある。けれども日本の国土で戦争したわけではないですよね。なぜ中国において、中国と戦争をして日本を守ったといえるのか。もし今、中国が日本に行って中国の人を守る戦争をしたとして、それが日本にとっては侵略ではないと思えますか。出発点はどこで戦争が起こったかです。また、誰がその戦争を起こしたのかです。八木 われわれは中国の教科書に日本が自衛戦争を行ったと書いてほしいと要求しているのではありません。日本の教科書に日本の言い分も書こうということに過ぎません。
中国から見れば、侵略であったと理解されるかもしれませんが、日本には日本の言い分がある。当時の事情もある。一つのことでも、ある人はこう認識しているけれども、立場の違う人は別の認識をしているということは、多くあります。
われわれが教科書の是正、記述の是正をなぜやっているかといえば、これまでの日本の戦後の歴史教育というのは、日本が加害者であったという点ばかりを強調していて、日本の言い分が一つも書かれていない、だから日本の言い分についても書こうということなのです。日本の子供たちにバランスよく、複眼的な見方を教えたいということから、教科書の記述是正の運動に立ち上がったということであり、あくまでもわれわれの土俵は日本の教科書なのです。そこを誤解されては困ります。日本の子供たちが使う教科書に、日本の言い分も書きたいということですから、そこはお互い認め合わなければならない。中国の教科書においては中国側の認識を書いていただくのは大いに結構ですけども、日本の教科書に日本の言い分を書いてはいけないといわれてもそれは通らない話ですし、われわれとしては到底受け入れられないことです。日本側出席者C これは日本から持ってきたものですが、こちらが扶桑社の教科書、こちらが日本でいちばんシェアが多い東京書籍の教科書です。これをつくったのは日本のTBSというテレビ局で筑紫哲也という人の番組です。「つくる会」に非常に批判的な人が取り上げたということでご覧いただきたいと思います。戦争当時のページで、ピンクのところが日本に肯定的な記述、ブルーのところが否定的記述です。
(東京書籍はブルーばかり。扶桑社はピンクもブルーも)今、八木先生が言ったのはこういうことです。いちがいに比較はできないのですが、「つくる会」に批判的なテレビ局の取り上げ方でもこういう状況になっていることを補足しておきます。王屏(日本研究所政治研究室副室長) 日本の教科書だと言われていますけれども、人類として普遍的な価値観があります。たとえば侵略することは悪い。人を殺すことは悪い。
これは人類の普通的な価値観でしょ。それは認めなければおかしいでしょ。日本側出席者B それは認めたうえでのことです。
中国側出席者 バランスの問題です。
八木 そう、バランスです。
八木 皆様方から『新しい歴史教科書』に対する見方を率直に聞くことができたことは、たいへん大きな収穫であったと思います。しかし、正確にご理解いただけていない点が残念です。
歴史教育、日本の歴史教育は、日本人としてのアイデンティティを育てることに目標が置かれるべきだと思います。それに当たっては、子供たちが長い歴史を持った日本という国を将来自らが支えていくんだという気持ちになれるような歴史教育を行いたいと思います。歴史の事実は無数にあります。その事実の中から何を取り上げていくのか、限られたページ数の中で何を取り上げていくのかというところに、価値観が反映されると思います。われわれとしては日本の子供たちに日本の国に生まれてよかった、そして大きくなったら日本の国を支えていきたいと思うように育てたいという思いで、この教科書を作りました。
もちろんこの教科書の記述が完壁なものだとは思っておりません。研究を重ね、多方面の建設的なご意見を参考にしながら、より良きものにしていきたいと考えております。本日はこのような貴重な機会を設けていただきましたことに、厚く御礼申し上げます。(拍手)蒋 Bさんのおっしゃったことに私は賛成します。つまり事実と立場という問題ですね。とても重要な問題です。同じ事実を違う立場から見ると違う結論が出されてしまう。
しかし、Bさんのおっしゃった日本人の立場と中国人の立場、この言い方はあまり正確ではありません。問題があると思います。、
たとえば近代史上日本のやったあの戦争に対して、東条英機はいい戦争だと言いましたが、日本でもその時代の反戦論者はこの戦争はダメだと言ったのです。
中国でもそうです。中国の多くの人民は侵略戦争だと言いましたが、江精衛(=江兆銘)は「ああ、いい戦争だ、いい戦争だ」と言いました。ですから日本人の立場と中国人の立場について、もう一歩考えなければなりません。つまり侵略者の立場、被侵略者の立場、抑圧者の立場、被抑圧者の立場という言い方が正確だと思います。
また日本の台湾の植民統治について、水利工事などをしてその時代の台湾人の利益になったと言う日本人もいます。しかし全面的に見れば、その植民統治は台湾の人民に対しても、また中国にとっても、良くないことだったと言えます。
もう一つ感じたのは、日本側の先生方はやはりもう一歩、中国の歴史について研究しなければならないということです。たとえば田中上奏文について先ほど話が出ました。実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつあるのです。そうした中国の研究成果を日本側はほんとうに知っているのでしょうか。
また、わが台湾について、Aさんが出した質問の答えは当たり前のことです。明の時代からの一々の歴史の記述があり、清の時代に入ればさらに沢山の記述があります。「わが台湾は」という言い方には問題はありません。たとえば一八七四年の台湾事件について、その時代の清政府の代表が日本側の質問に答え、「台湾の生蕃は化外に置く」と言いました。
この言葉は、中国の歴史をきちんと学ばなければ理解できません。台湾は中国の国土ではないということとは全く違います。つまりそのときの台湾の統治の民ですね。中国の大陸の民と発展の段階が、発展振り、段階がまったく違っていて、孔子の儒教の化外の民だという意味です。
ですから私の理解では、日本側も中国の歴史を、中国側も日本の歴史をほんとうに深く勉強して、両側の見方がだんだん接近できるようにしなければならないと思います。今日は相互理解に大変チャンスになりました。皆さん、どうもありがとうございました。ご苦労様でした。
そして彼らの帰国後、産経新聞はこう記事にした。
「田中上奏文」 中国側「存在しない」偽文書認める(WEB上に記事がないため転載)
中国が日本の大陸侵略意図の証拠としてきた「田中上奏文」について、中国政府直属の学術研究機関である社会科学院の蒋立峰・日本研究所所長が「存在しなかったという見方が主流になりつつある」と述べ、偽文書であることを事実上認めていたことが1日、分かった。
昨年12月に中国を訪問した新しい歴史教科書をつくる会の八木秀次会長(当時)らのグループに語った。
田中上奏文は、昭和2年に当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書の体裁をとり、日本や欧米では偽文書であることが証明されているが、中国では歴史教科書に記述されるなど事実として宣伝されてきた。
しかし、蒋所長は八木氏らに「実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつある。そうした中国の研究成果を日本側は知っているのか」と、中国の研究成果としても偽文書が通説であることを明らかにした。
蒋所長は社会科学院の世界歴史研究所や日本研究所で日本近現代政治史や中日関係の研究を長年続けてきた中国の日本研究の責任者。
八木氏は「偽文書だと分かっているなら、中国政府は田中上奏文を根拠とした対日非難をやめ、教科書記述も改めるべきだ」と話している。八木氏らと中国側のやり取りは1日に発売された月刊「正論」4月号に掲載されている。
■田中上奏文
昭和2年に政府が中国関係の外交官や軍人を集めて開いた「東方会議」の内容を当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書を装い、「世界を征服しようと欲せば、まず中国を征服しないわけにはいかない。これは明治天皇が遺した政策である」などと書かれている。4年に中国語の印刷物が現れ、英語版やロシア語版も登場した。あり得ない日付が記されるなど事実関係の誤りが多く、当初から偽文書と判明していたが、中国では本物として広まった。
まったく、何をかいわんやである。
元々、田中上奏文など偽書であることは周知の事実、しかも、町村外務大臣の時代にきちんと中共に主張している。
彼らが知らなかったとは言わせない。
そんなくだらないことを、手柄めかして記事にまでして言い訳に使う。
対談内容は、「正論」の私が抜粋した部分だけでも完全に「負け」である。
上記抜粋の対談内容の情けなさについて、ここの読者の方にいちいち解説する必要もあるまい。
しかし、八木氏はこう嘯く
私が中国側と論戦してまずもって思ったのは、中国側の対日認識の貧しさである。日本研究所のスタッフはいずれも日本への留学経験があり、日本通ではある。しかし、例えば、日本人の宗教感覚という問題になると、これはもう理解不可能のようである。
単に、馬を鹿という強弁を通されているだけではないか。
中共や反日左翼にとって、これほど与しやすい敵の親玉もあるまい、何しろ、親玉自らがアキレス腱となってくれるのだから。
さて、中共、あるいは左翼の陰謀説をとった場合、踊らされたのは、内紛を自ら主導した八木氏ではないのだろうか。
私は、八木氏の謹慎と、日本会議の英断による宮崎氏の処断を強く求めるものである。
とにかく、前科のある人間は反省し、身を謹んで、ご皇室や我が日本のことにしばらくは関わらないでいただきたい。
反日教科書に対抗する、唯一の牙城であった「つくる会」の国民よりの信頼を失わしめ、あまつさえ未だに八木氏の関係の人間が悪あがきをするなどということは、国賊に値する罪だと認識して欲しい。
彼のとった稚拙な、しかし極めて悪質な権謀術数については、あえてここで触れない。
産経にも問いたい。
我々が日々の糧を得るのに呻吟しながら、決して少なくない時間を割いて、ただひたすらに国のことを思い、本当に皆が純粋な気持ちで、少しでも次代の子孫達によい国を遺したいと草の根で汗を流している、その「思い」を台無しにするおつもりか。
今まで非公開にしていた、ご皇室を守るために集まった人間よりの各界へのメッセージのうち私の筆による一部を以下に掲載する。
郵政民営化のときに、「普通の若者」が小泉さんにだまされて、自民党を圧勝させてしまったという苦い経験を元に・・・・・
「運動」でも、「組織」でもなく、偉い先生方の言論に啓発されたのでもない、「普通の人々」が自分の頭で考えて、自らの良心にしたがって、1つの目的を達成するまでの間だけ、集おう・・・事がすんだら、また普段の生活に戻ろうという・・・
そんな挑戦を始めます。民主党が頼りない、思想的にダメ、だから、消去法で「小泉自民」を選んだんだ
仕方なかったんだ・・・だから、今の政治の状況がこんなでも、どうしようもない。
よく聞く言い訳です。
小泉シンパ側の言い訳にも使われます。私は、そんなのは嫌です。
国会議員が国を守ろうとする気概がないなら、不勉強なら、我々普通の人間が突き上げればいい。
イギリスにカントリージェントルマンという言葉があるそうです。
普通の暮らしをしながら、中央の政治に目を光らせ、いざ鎌倉というときには中央へ出て、彼らの姿勢を正すといった人間のこと言うそうです。
ことがあると、サっと集まって、去り際も潔い・・・そこには金銭欲も名誉欲も・・・もっと低次元の「誰かに自分を認めてもらいたい、今の自分の現実が、自分の思いに比して不当に不遇である・・・そんな自分の居場所を運動に求める」などという子供じみた欲すらもありません。そんな、ムーブメントをブログを通じで今回の「皇室典範問題」に関して起こそうと思ってます。
もうすでに種はまいています。
呼びかけも行いました。
WEB上にだけ存在する、架空の人格である「てっく」という存在(ただし、言う事は首尾一貫して自分なりの筋を通しているつもりですが・・・何者にも阿らず、世間のしがらみによって「転向」したりはしません、それがゆえのHNなのですから)
そんな、どこの馬の骨ともわからない人間の呼びかけに、たくさんの人が賛同してくださいました。そんな人々のメールを一部転載しますので、よろしければご覧ください。
(アドレス)
閲覧用パスワードは、後ほど送らせていただきます。偉い、学識のある、著名な先生方の呼びかけで集まったのでも、熱心な運動員が勧誘して集めたのでもない、ごく普通の人々が、自発的に集まって何ができるか
(運動家ではなく)本当に普通の人たちなので、現実に集まる暇もない・・・そのハンディを埋めるためにインターネットを使います。ま、ことが終わったら、一度くらいはみんなで集まってみたいとも思いますが。
そして、みんなでお疲れ様といって、さよならします。また、何かが起こったとき、集まれる人は1つの目的の下に集まることにして・・・
集う基準は、ご先祖様から受け継いだリレーのバトンをよりよい形で次の世代に渡す・・・それだけです。
失敗するかもしれません。
でも、いいんです。
失敗したって失うものはありませんし、失敗を恐れて手をこまねいているよりましだと思いますので。こんな、バカな無謀な試みを・・・どうかそっと見守ってやってください。
そして、曲がった方向に行こうとするときは、教えてやってください。不一
てっく拝
八木氏よ、産経よ、そして宮崎氏よ、日本人ならもう少し恥を知っていただきたい。
己の私利私欲のために、国を滅ぼさんとしてなんとする
当ブログにおける八木氏に関連するエントリ
八木秀次 『本当に女帝を認めてもいいのか』より
平成版、壬申の乱の勃発をも助長しかねない不敬なる言説
さまざまな噂③―小和田家の意向
噂はいろいろあるが、早い話が本当のところはどうもよく分からない。ただ宮内庁がずいぶん前から、皇位継承問題を研究していたのは事実である。しかし、その内容も果たして女帝を容認するものなのか、男系継承を続けて行くのか、正確なところは分からない。こういう生臭い説もある。現行の皇室典範の規定では、今上天皇の後は皇太子殿下が皇位に就かれるが、その際には秋篠宮殿下が皇太子になられる。皇太子殿下にも秋篠宮殿下にも男子がいらっしゃらないからである。さらに次の代 、ということになると、今度は秋篠宮家が主流となって秋篠宮家の直系が皇位を継承していくことになる。つまり将来、女性天皇を容認するにしても、その際には秋篠宮家の眞子様が皇位継承順位が第一位となって、愛子様は佳子様に続く第三位ということになってしまう。それを避けるために皇室典範を変えて愛子様に皇位継承を認め、その順位を秋篠宮殿下の上位に置こうとの考えがあるというのだ。
またそこには背景事情があるということもささやかれている。皇太子殿下と雅子妃殿下とのご結婚は妃殿下のお父上である小和田恒氏の意向が働いたとの観測がある。外務省の高官の中にもそう証言する人がいる。将来、愛子様が皇位に就かれれば、小和田恒氏は天皇の外祖父になる。これが小和田氏の名誉欲を満たす。しかし、皇位が秋篠宮家に移るとすれば、小和田家としては、何のために雅子様を皇太子妃として嫁がせたのか、ということになる。そこで、小和田家の意向を受けて、秋篠宮家に皇統が移らないように皇位継承順位を変更すべく皇室典範の改正が取りざたされているというのである。
憶測も、世に出していいことと悪いことがある。
あなたがくだらない小和田陰謀説を流布してどうする。
あなたに足りないもの、それは学者として、いや、男として、日本人としての矜持と品格。
Voice6月号(発売中)に平松茂雄氏と西尾幹二の対談「東シナ海進出は止まらない――『海への野心』で膨張する大国に日本は何ができるか」がのっています。
上記を見て、東京支部掲示板に、[1703] 八木氏に対する疑惑 外野応援団 2006-05-13 17:07という注目すべき見方の投稿が出ています。
5/13 追記
中国陰謀説なかなか説得力があります。大変興味深く読みました。
ところで,「つくる会」理事の中に左翼勢力のスパイがいる可能性についてはどうでしょうか。例えば,平成3年に共産党を離党したと言明しているF教授とか。どなたか,解説をお願いします。
私は「中国陰謀説」には全く説得力を感じない。
当事者の方々が書かれているブログを今まで色々と見てきたが、中国の匂いは全くしなかった。中国とは無関係に分裂したと考えるのが自然な見方ではないだろうか。
八木氏の中国での論争に、何か問題があったのだろうか?私もあの記事を読んだが、全く問題は無いと思った。中国陰謀説で八木氏を攻めるのは、中共を利用した姑息なイメージ操作であり、堂々たる国士のとるべき姿勢ではない。
中国が陰謀によってつくる会を内紛させたのならば、敵ながら天晴れである。我々は中国、中共を内紛させる事もできず、その気概もなく、ただ黙って叩かれているだけではないか。
> 上記を見て、東京支部掲示板に、[1703] 八木氏に対する疑惑 外野応援団 2006-05-13 17:07という注目すべき見方の投稿が出ています。
要するに、中国の工作員による謀略説ですか。この記事を中国の関係者が読んだら、大笑いすることでしょう。まるで自分の影に怯えているなんとかやら。中国が工作する必要があるくらいの存在だなんて、「つくる会」のことをうぬぼれてどうする。共産党の在籍情報くらいで大騒ぎするのにもあきれる限り。もしかしたら、西尾さんが大騒ぎするかも知れないと誰かが読んで(予想して)西尾さんのそういう性格を十二分に知っている誰かが仕掛けたのかも知れません。駄目で元々ですから。北朝鮮が自分たちに不利な状況になると、とかく反北勢力の陰謀とはやしたてるが、それとそっくりだ。この日録での藤岡氏、八木氏、支援団体への批判は、当たる当たらないは別にしても、一つの見方として、意義は小さくなかったと思うが、今日の謀略記事の紹介には正直、がっかりさせられた。将棋で言えば、西尾さんに残されている手駒はどんどん減っているように見える。
八木秀次氏は博識な方だとは思うのですが、どうも左派にとって都合のいい荒の多い保守派論客のように扱われているような感じがするのです。女性週刊誌を読むと皇室典範改訂問題でもえげつない発言をしているのです。もちろん出版社側の悪意もあるのでしょうけど、脇が甘いのかもしれません。
八木秀次氏の訪中はうかつです。私は昔、半分冗談ですが旧日録に「国家戦略としての西尾幹二研究」という投稿をしたことがあります。既に、西尾幹二氏は人民日報の一面を飾る日本右派分子な男なのです。そして藤岡信勝氏は、もう何年も前から、その顔写真が、歴史を歪める日本の右派分子として、石原慎太郎東京都知事、小泉純一郎内閣総理大臣の顔写真と共に、瀋陽の柳条湖傍にある9.18記念館に飾られているのです。その藤岡信勝氏の顔はまるで極悪人のような顔をしています。そういう風に見える顔写真を選んだのです(これも旧旧日録に投稿済み)。
となれば、中国側が、新しい歴史教科書を作る会会長八木秀次氏を、単なる歴史認識の違いについての溝を埋めるためだけの議論をするために訪中を要請したとは考えられません。
さすがに八木秀次氏が中国のスパイに操られているとまでは思いませんが、新しい歴史教科書を作る会の歴史観よりも中国サイドの歴史観の方が優位であることを見せ付けるための儀式に狩り出されたのは確実です。
私はもう数年間中国へ行ってないので現在の中国事情が全くわかりませんが、八木秀次氏は、訪中に関して、最低限、新聞、テレビニュースでどのように報道されたのかチェックしたのでしょうか?また、訪中に際してその当時の中国の言論事情をきちんと把握していたのでしょうか?
それよりもまず第一に新しい歴史教科書を作る会会長として藤岡信勝氏の顔写真を9.18記念館から撤去するように要請したのでしょうか?これを要請していなかったらその時点で議論は負けです。
八木秀次氏はまだまだなところがあります。帝国を形成しつつある中国を相手に喧嘩をするのと日本国のしょぼい民主青年同盟や革命的マルクス主義派同盟と喧嘩をするのでは訳が違います。学生運動ごっこは西尾先生を脅すくらいにしか通用しません。思い出としての学生運動ごっこに回帰するのはいたし方ないことですがその方法しか政治的交渉ができないようであれば非常に困ります。
おそらく、会談は、笑顔に包まれて終わったでしょう。八木秀次氏も有意義な会談をしたと思い込んでいるのかもしれません。しかし、その笑顔の中で、中国が何らかの利を得ようとしていたことを、きちんと自覚していたのでしょうか?
いまこうして考えてみれば、確かに、八木秀次氏の無断訪中は立派な会長解任事由にあたります。本当に八木秀次氏を失脚させるためだけに訪中問題を新しい歴史教科書を作る会首脳陣が道具として取り上げただけだったのであれば、新しい歴史教科書を作る会自体がアホということになります。
皇室典範改訂問題については、もはや、既存の保守派知識人に頼ってはいられない。名も無き市民達が、自ら東京、大阪、名古屋、地域ブロック都市で立ち上がり自然発生的な国民運動を沸き起こすしかありません。是非、有力ブログ毒吐き@てっく氏も、立ち上がっている名も無き若き市民達のために、インターネットを使用した国民運動のための技術指導等協力して頂きたいのです。
新田氏ほか関係者へ
私は長いこと日本会議およびつくる会の会員である。
今回の内紛はもとをただせば単純な問題と考える。私と仲間の考察では、以下のとおりである。
①「ならぬものは、ならぬ」の世界で、あなた方はレールを踏み外した。つくる会創立者や先輩方を相手取り、失礼な言動をとった。昔、国立市公立小学校で「校長土下座事件」があったと記憶する。高学年の生徒が卒業式当日、屋上に国旗日の丸を掲揚した校長に対して、左翼教師に唆され、校長に土下座を要求した。事例は異なるものの、あなたたちがやっていることは「人の道に反した慇懃無礼」においては同レベルの問題である。あまりに「異質」である。
西尾先生もさぞかし驚かれ、悩まれたことと察する。私も昔、精神的に異常な部下をマネージした経験があるので先生のお気持ちは理解できる。この社会には「言葉の通じない」世界があることを認識し嘆いたものである。評議員・全国支部長会議のリポートによると、あなたの言動をみての「バカみたい」というコメントがある。あなたは、それをどう受け止めているのか。「バカみたい」とは異質の侵入を意味する。「ガン細胞」と揶揄されても仕方ない。
あなた自身でブログをつくられた。あなたがご自身をどう認識されているか知らないが、あなたは発言を加えるたびにご自分の「価値」を下げている。それに気付かないあなたに憐れみを感じる。あなたの著書にも親しんできた私たちを裏切るものである。このまま発言を続けると、さらには八木氏、種子島氏ほか旧3理事、前事務局長の価値も下げ、あなたたちを支持してきた全国の会員にも迷惑をかけることになろう。あなたの気持ちも理解できるが、日本社会は若い者がまず鉾を収めることで修復も可能になる。
「格」の問題で言えば、西尾先生は日本思想界の「宝」なのである。残念ながらあなたの比ではない。あなたを含む若手学者に対しては私たちの期待も大きい。どうぞ見苦しい作法は控えていただきたい。もちろん、私はあなたたちなりの「正義」をすべて否定するつもりはない。事を弁えて欲しいということである。
種子島氏も疑問である。会長選任翌日の「改ざんファックス」発信後の対応はお粗末である。あの時こそ発信に関わった関係者を厳罰処分にし、全国支部に毅然と声明を発しておくべきであった。そうすれば、あなたたちの間で、その後の「ガセネタ情報」を巡る奇怪な行動も無かったかもしれない。日本会議・産経グループほかも、種子島氏の強い決意に信頼を寄せ、必要外の口出しはできなかった筈である。種子島氏の「腰砕け」が、その後の諸相をすべて誘発した、それが我々仲間の見解である。つまり会長の器ではなかったということである。西尾先生は種子島氏の行動をして「陋劣な」という言葉を使った。悲壮な気持ちであったものと察する。ここはあなたの評価と異なるかもしれないが、人の評価は「一点」の所作で決まるのである。
③中国視察旅行
八木氏は「何が悪いのか」・・終始この姿勢を変えなかったと聞く。『論座5月号』で、八木氏は西部邁氏との対談において「『一党独裁の国に行くのは会長として軽率だ。もし何かあったらどうするつもりだ』と言われまして、何もなかったんですけどね(笑い)」と発言している。何とも「稚気」丸出しの言葉ではないか。事はもっと本質の問題なのである。「つくる会会長」の立場で行くのに、中国旅行のことをどの理事も知らなかった・・? 企業人の私には理解不可能。即刻会長の首が飛んでもいい話である。本来は、この理由だけで解任動議を出すべきであった。評議員会にかければ、たぶん全員解任賛成の意向を示したであろう。この問題について、あなたたちは八木氏と同じ見解なのか。
④神社保守と近代保守
この分け方、言葉の使い方にあまり賛同できない。私なりに敢えて定義すれば、神社保守主義者は「村の掟」を守り、お互いの強い結束で動く・・表現を変えれば「群れて動く」傾向がある人たちのことである。近代保守主義者は「群れて行動すること」を嫌い、最後の決定は、理性と理知に基く「自己」判断で行動する。あなたたちの行動は、終始一貫、そのよう(前者)に映ったようだ。誰に聞いてもそう言う。教育委員の大多数は、このような「自己」が乏しいがゆえに、大勢に流され偏向教科書をあえて選んだという言い方もできる。
あなたは、神社保守を、神仏を信仰する集団、近代保守は無神論者の集団ともブログに書いた。学者らしからぬ暴言である。そのような「壁」はない。もっとも、この分け方はある意味、自分の思想、行動を律する基準ともなりそうで、自分なりに活用して行こうとは思うが、他人に押し付けるつもりはない。思想の座標軸で対立軸を対置することはいいことだ。あなたたちが、この「対立軸」を意識していたら、こんな混乱はなかったかもしれない。
⑤昭和30~40年代、綺羅星の如く、40~50台の輝く知識人が多数輩出し、日本人の方向を示してくれた。いまこの年代で、三島由紀夫、福田恒存、村松剛氏・・らに匹敵する人材がいるか、を考えたことがあるか。かような人たちが思想界でいかに心血を注いできたか考えて欲しい。いないとすれば、「あなたたちの怠慢」である。低劣な地下運動に時間を割く暇はない筈だと愚考する。学問に深く徹すべきではないか。
繰り返し言いたい。
一連の騒ぎの流れは「下克上」そのものであった。教科書改善に意を注ぐあまり、いつの間にか、一部関係者に美しい「修身」の世界が忘れ去られた。いまの社会の乱れを象徴しているようでもある。あなたたちが、その乱れを演じてくれた。それに感謝しつつ、もう恥ずかしいすがたを、これ以上見せないで欲しい。「修身」の世界は秩序の世界であることも忘れないで欲しい。
我われ仲間は、八木氏にも、新田氏にも今後、日本を代表する知識人として大成して欲しいとこころから願っている。際限のない因果応報の世界から距離をおくべきである。
文芸評論家の山崎行太郎氏がこの度の西尾先生の内部告発を「きわめて文学的な行為だ。」と自身のブログで批評しています。
「おそらく、政治や思想という次元でのみ、この内紛・騒動を読み解こうとすると、厳しい内部告発に至る西尾幹二の焦燥感や暗い情熱の意味が理解できないであろう、と思う。その意味で、私は西尾幹二を突き動かしている焦燥感と暗い情熱に興味がある。それはきわめて文学的、芸術的な問題である。それは世界や人間に対する根源的な違和感である。」
そして、山崎行太郎氏は、西尾幹二の焦燥感と違和感の根拠を、論壇を席捲している保守思想が、思考停止した「ファナティシズム」批判として機能しえなくなっていることに求めています。
しかし、西尾先生の今回の内部告発行為を、所謂、真の保守思想家とは何か、真の保守思想とは何かという形で論じてしまうのは文芸批評としてはあまりにも通俗的です。故福田恒存氏が「問いただしたき事ども」「言論の虚しさ」を発表したことについても真の保守思想家と言われる論者が同じようなスタンスで論じていました。
保守思想とは、論者の内面にやどる文化、伝統に基づく批評眼によって、国家、社会、人間等を論じる思想です。そしてその真贋、優劣は、自己の内面にやどる文化、伝統をいかにして多くの人達に、或いは一部の人であれ深く、普遍的な文化、伝統として気づかせることができるか否かにかかってきます。したがって、論者と社会のズレが決定的に生じてしまえば、批評として機能しえなくなります。論者の批評眼が鋭ければ鋭いほどズレが生じた時の焦燥感と違和感は深くなります。
ただ故福田恒存氏が「問いただしたき事ども」「言論の虚しさ」を発表した頃と違うのは社会的変化が政策論という形で見事なまでに露になっていることです。日米関係をどうするのか、日中関係をどうするのか、皇室典範改訂問題をどうするのか、日本国憲法をどのように改正するのか、階層化社会に対してどう対応するのか?
そして、西尾先生はもはやこの政策論にコミットすること自体に焦燥感と違和感を感じている。しかし、政策論は、戦後高度経済成長によって喪失した何かといったような抽象的なものではないのです。究極的には是か否かの二者選択にならざるを得ない極めて具体的かつ簡単な行為に落ち着きます。政策論になってしまえば、これは喪失した何かとか文学的解釈を弄ぶだけで解決することは難しい。
西尾先生、どうか、今ひとつ踏ん張ってください。我々は幸いなことに故福田恒存氏、故江藤淳氏、西尾幹二氏という鋭い批評眼を持った保守思想家が結果としてリレーを続けてきた事実を知っています。西尾先生の後を継ぐものは必ず現れます。どうか、その時まで踏ん張ってもらいたい。西尾先生は「言論の虚しさ」を書くにはまだ早すぎます。
布袋和尚の言っていることは「一将なって万骨折る」になるではないですか。たった独り生き残った一将でチャイナコリアと戦えるのか。
皆口が悪すぎる。中国陰謀論を取り上げた人もクライン孝子をバカ女と罵倒していた、陰謀論が正しいならテメエがバカだったことになる。クライン孝子もあの人なりに日本の事を心配しているのに、おれ様と意見の食い違いがあると知るとすぐに全否定する。皆意見は少しずつ違う。人格もそれぞれ欠けるところがある。八木氏が若いなら諭そうと思わないのか。郵政選挙では普通の若者が小泉に騙されファナティシズムで投票にいったのではない。民主党のチャイナ・コリア盲従のマ二フェストに反発していったのだ。保守の歴史観も一つではないのだから保守も二、三の教科書を出すべきだ。そうすれば喧嘩しなくてもよいだろう。
それを言うなら「一将功成りて万骨枯る」ですよ
自家薬籠中の物となってない言葉は、お使いにならないほうがよろしいのではないかと・・・
己亥歳詩でもお読みくださいませ
八木氏が功をたてて、自民党に取り入ろうなどという、そのかげには
骨となって朽ち果てる名もない何万の人がいるのだよ
・・・ちょっと遊んでみました
まぁ、羊にゃ獅子の群れを率いることはかないませんが
自らを勘違いしている羊には、マキャベリズムは危険なようで・・・
なんでもネットでしか調べない人にはこれ
http://sanaet0524.exblog.jp/2058756
インスタントでいいでしょ?
多分、私などはここにはふさわしくないゆえに、エントリを転載いただいたご挨拶のみとして
後はこれでもご紹介しておきます
虚実の皮膜って言葉、知ってる?
もうひとつ
http://tech.sub.jp/2006/05/post_535.html#c3704
それでは、皆様失礼いたします
西尾さんの最近の言動の評価は、言論人と市井の人との境界を取り払ったことではないかと思う。言論の大衆化への貢献は計り知れない。
そういえば、ソクラテスは一切、書物は残さず、アテネ市の若者との対話をしていたとか。
西尾先生のは対話とは言えないだろうが、対象を言論人から市井の人へ移しつつあるとは言える。
文学様へ
『正論』の訪中記事掲載後あちらのインターネット等を色々調べて見たのですが、八木氏の会長解任以前に社会科学院での「討論」について報道した形跡はありませんでした。
あの「討論」についての私見は先に投稿したとおりですが、「八木間諜説」は穿ちすぎでしょう。もし折角つくる会会長のようなおいしい人物をスパイに仕立て上げるのなら、もっと徹底的に伏せて温存しようとする筈。どこに「自分がスパイだ」と触れ回りかねぬ人間をスパイにしようとしますか。討論自体は大変結構。ただ微笑みながら相手を背中から刺すくらいの見識と度胸とが欲しかったのだが、残念ながら氏にはそれを行うだけの能力・準備ともに具わっていなかったということ、そして件の『論座』での対談の中でも、あたかもそのことだけが解任の理由かのように触れ回っているあたり、その人格を疑わざるを得ないというだけです。
なお、今回のことに対する西尾先生のお立場については、『ヨーロッパの個人主義』132頁以下が参考になると思います。
皇都衛士様へ
八木・新田両氏に頭を冷やしてもらいたいということについては同感ですが、八木氏が「つくる会会長の立場で訪中した」というのは初耳です。出拠をご教示願います。
運動と言論と政治と
てっくさんの論説を読んで書いてみました。
ここでは意図的に肯定的と否定的に西尾幹二先生(以下 西尾幹二と略)を捉えてみましょうか。作る会の運動と違った話から始めます。
★郵便事業への参入 規制緩和を
郵便事業の競争促進策を検討している竹中総務大臣の私的な研究会は、
新規参入する事業者に課される全国一律の料金やサービスの提供義務を
将来的に撤廃するなど参入に関する規制の大幅な緩和を来月まとめる
報告書に盛り込む方向で、最終的な調整を進めることになりました。
NHK http://www3.nhk.or.jp/news/2006/05/14/k20060513000037.html
西尾幹二などの郵政民営化反対論説で民営化すればユニバーサルサービスが消滅するという論立てがあり、多くの本来の自民党の党是を背負う議員がつぶられてきましたが、今度は郵政民営化での現実が現れてきたわけです。おそらくこれから郵政民営化に反対してきた人間が危機を感じたことが次々と出てくるでしょう。そして小泉首相の短い論理でさも国民が理解できたように見せるマジックに国民が気づくのはきっと小泉首相が退任して1から2年たった後でしょう。
わかりやすいことが正しいわけでなく、また多数が賛成することが正しいわけじゃありません。
なんでこんな話を始めたかというと西尾先生の背景には自民党や多くの国民への不信感があるのではないでしょうか。特に自民党ですね。国家の国益どころか国家の主権侵害をなされて平気な顔をしている自民党議員を信用していないのでしょう。教科書改善運動でいえば、自民党にすりよることがもしかすると教科書が中国よりのものになってしまうという恐怖があったのかもしれません。この認識を「A」ととりあえず呼びましょうか。
日本の現在の制度は直接民主制でなく議会民主制ですから議員は国民から選ばれた選良で場合によっては国民の意思に反しても国家の主権や国益を守るのが仕事なはずです。例でいうとポースマツ条約に不満がある国民から帰国した条約団を体を張って守った議員なんかを思い浮かべてください。
でも郵政民営化での結果や中国や韓国に対する対応を見ても歴史に関する無知の自覚のない自民党にすりよることが決していいとは西尾幹二は考えなかったのではないでしょうか。それが政治家に関係を持とうとした八木先生や四人組といわれたかたがたへの批判になったのはないでしょうか。けど、八木先生が雑誌「正論」に書いた以上の反論がありませんから、なんともこの私の認識が正しいかどうか判断のしようがありません。
一方で運動を達成するためには黙っている場合がいい場合もあります。
また論理を駆使するとわずかな差異が気になる場合があります。
運動では差異を確認することより共通項を把握して小異を捨てるという言葉にあるように多数派形成が重要なサブ目的になるのでしょう。多数派形成では小泉首相は見事に成功を収めました。この認識を「B]と呼びましょうか。
現時点で作る会に関する西尾幹二の論立ての認識をどう捉えるかは、「A」が正しいかどうかも私の誤解があるかもしれませんから正直わかりません。でも仮に教科書改善運動で中国の影響を受けた教科書が出来ることは大目的に反します。それは米国よりの教科書に教科書が変更されるのと同様にまずいでしょう。
中共スパイ説? 西尾先生、正気ですか? ついこの間まで「公安のイヌ」だったのに。
もうちょっと知的で上品な推理をしてください。
うれしそうに「そうだ、そうだ」と言っている人たちも、恥ずかしくないですか?
てっく 様
御洞察鋭い てっく様に、素朴な拙文に御共鳴をいただき、広く御紹介に与り、誠に有難いことと、満腔の感謝を申し上げます。
隠れつくる会ファン 様
尋常な愚見に対し、間髪を入れず同感するとの御表明いただき、実に嬉しく、厚く御礼申し上げます。
ただ、藤岡先生に関しましては、所見を異に致します。
藤岡先生は、毀誉褒貶相半ばし、様々な問題はあるものの、向後とも副会長のお一人として御活躍いただいて然るべき人物であると思います。人間は、その長所の裏返しとして必ず欠点があり、また、自分の「得意成功」には慢心して不心得を起こし易く、他人の「得意成功」には妬みを抱き易いと云う弱点をもった存在であると思います。藤岡先生が、昨年の杉並の採択戦において見せられた熱い陣頭指揮振りをはじめ数々の精力的な御活躍はその長所であり、一方、今般の内紛において露呈された狼狽、変節、何ともめまぐるしい言動のブレなどは、その裏返しとしての欠点であったと思われます。今年二月の時点で、西尾先生が藤岡先生に「会長」就任をお勧めになられたのは緊急避難としての方策であり、藤岡先生には、そもそも御自分が会長になろうと云うお気持ちも、また、その度量・資質が御自分におありになるとも、決してお思いではないでしょう。しかし、しっかりとした会長(統率者)の下で、副会長としてなら、教科書運動一筋にかける執念・情熱においては誰にも負けないと自負せられ、獅子奮迅の御活躍をなさるでしょう。
しっかりとした会長(統率者)に不可欠な度量・資質とは、先ず「長所・欠点を併せもつ個々の人材を、各々その才気に応じて活用し、器量に応じて所を得さしめる度量」であり、同時に「地位と力を得ると慢心し易い才人が、時として不心得を起こさないように睨みを利かす威厳」であると考えます。そのような度量・資質を求められる「会長」の重い職に、対外戦略の観点からか、未だ四十そこそこの八木助教授(当時)が推されたことが、組織の不幸であり、また、御当人の不幸であったとも思われます。
天の安川 様
「一将功成りて~」については認識を異に致しますが、「ともに戦うべき」と云う御趣旨には、大いに賛同致します。こと「つくる会」に関しては、「良い教科書をつくり、それを採択させたい」と云う、その一点を目的に様々な立場の人達が結集した組織であるはずであり、その個々人が「近代保守」であろうと「宗教保守」であろうと「その他何とか」であろうと、一向に差し支えないものと思います。しかし、であるからこそ、「つくる会」の理念と、その理念を堅守する志操を、常に明確にしておかなければならないものと信じます。その上に立ってこそ自らの思想信条において「近代保守」や「宗教保守」や「その他様々」な立場にある個々人が、相互に敬意を表しつつ、適切な距離を保ちつつ、各々の持ち味、強みを発揮しつつ、蟠りなく協力し合い、一つ運動を進めて行くことができるのではないでしょうか。
また、「保守のサイドが二つ、三つの教科書を出してもいいではないか」との御意見にも全面的に賛同致します。過日、歴史教科書がリライトされた時、格調高く優れた内容の当初の教科書が廃されることを本当に残念に思い、以来、そう思い続けております。現時点では、未だが願望の段階ですが、進むべき方向であるはずであると信じております。
新田均氏が西尾幹二氏に対してブログを使用して多角的に反論をしています。西尾日録の新しい歴史教科書を作る会の内紛自体は、やはり、深く関っている当事者の興味しか沸かないと思います。もちろん当事者で反論を求めている人達がいるのは事実でしょうから大いにやるべきことだと思います。
さて、新田均氏はブログで以下のようなことを述べています。
「西尾氏の言う「近代保守」の別名は無神論派でしょう。それが言い過ぎならば、神なんてものの実在は信じないけれども、神についての物語を人々が信じている方が社会にとって有益だ、だから、自分も信じているかのように振る舞うという「かのように派」でしょう。私は、真の保守とは、どこかで人間を超えるものの実在を感じて生きているものだと思っています。それをフィクションとしか思えない人は本物の保守ではないのではないでしょうか。はっきり言えば、天皇制度の意味など本質的には理解できない人々だと思います。
そのような人々は、平気で物語りを作り替えます。嘘をつきます。多くの人々が信じるならば、それが真実だ、と思っているのです。ある物語が疑わしくなれば、別の物語に置き換えればいいさ、ということで次々に偽りに満ちた幻想を創作し続けるのです。」
これは当事者以外も考えるべきテーマといえるでしょう。したがって、この点について、若干思うことを論じてみます。
近代保守主義は無神論派という訳ではありません。「かのように哲学」とはもともと森鴎外の短編小説「かのように」に基づくものですが、おしよせる近代化の波の中で、自己の内面に既にある信仰心なり伝統、文化を維持するための精神の平衡感覚の作法でした。それが戦後になって、急速にマルクス主義、近代主義、ポストモダンの思想が勃興しそれに対する論戦の作法として、信仰心なり伝統、文化そのものまでをもフィクションであるがあるがごとく振舞う哲学に変貌してしまい、ついには、論者が政治的思想的有用性の観点から自由に作り変えることのできるフィクションである物語になってしまったわけです。ただしここまで変貌してしまった「かのように哲学」はもはや近代保守主義とはいえません。そもそも無からかのように振舞うことなどは到底できない行為なのです。
近代保守主義とは、近代至上主義に懐疑を抱き、近代思想と近代思想にあらざるもの(我が国固有の信仰、文化、伝統)の調和を図る営みです。したがって、我が国固有の信仰、文化、伝統をかってに作り変えることを是とする有用主義とは異なります。近代保守主義にとって、信仰なり文化、伝統は発見すべきものです。そしてそれは決して論者の勝手な憶測からではなく、歴史の中から発見すべきものです。そして、発見したものに対して、今を生きる我々は多かれ少なかれ拘束されている存在であることを提示することです。その発見の方法として、文学的アプローチ、社会科学的アプローチ、法学的アプローチ等様々な手段が考えられる。
その発見の過程こそが近代保守主義の真贋、優劣を決するメルクマールです。つまり、神の実在については、それを信じていないということではなく、神の実在について、ただ盲目的に信じることを廃し、その存在を発見する過程こそが近代保守主主義の真骨頂なのです。無神論というわけではない。
確かに昭和60年代以降の近代保守主義は、主にポストモダン思想に引きづられて、なにもかもをもフィクションであるがそうでないがごとく振舞うべきであるという無神論的ペシミズムに陥ってしまったのは事実です。そして、そこから、政治思想的有用主義としての近代保守主義が生まれてしまった。しかし、今はそうではない。我が国の国内の問題がそのまま世界的な問題と直結する時代です。国内外の人的交流も活発です。かつての論者が、もはや本来の日本的なるものは既に存在しないといってた頃は幸せな時代だったのです。現代を生きる我々は、むしろ、日本的なるものを、単なる社会構造の変化といった時代の流れだけでなく、国際関係、政策論といった具体的な形でいやおうなく直面せざるを得ません。
そして、政治思想的有用主義の観点にたったとしても、それらの有用性は、信仰、伝統、文化を論者が勝手に作り変え都合のいい部分だけを抜き出すのであれば、有用性の土台となっているものを結局破壊することになってしまい、有用性すら無くなってしまうのではないか?
私は、今こそ近代保守主義が本来の近代保守主義に立ち戻る時期にきていると思います。そうすれば近代保守主義は、既存宗教団体の信仰心と対立するものではなく、ある程度までは両立する思想であるといえるでしょう。
布袋和尚さま
西尾先生と、八木、新田両氏の立場を忖度されたコメントは適切と思います。
年齢、経験は現実社会において無視できません。八木氏は「大事な局面で何度も落ち度がありながら」深謝する姿勢が薄弱だったように思われます。
若さゆえの落ち度かと察しますが、これだけ大きな団体であれば看過するわけにはいきません。
会長の座に何故こうもしがみつくのか、疑問に思っていました。私なら早々に辞めてサバサバしたいと思いますが・・・。
まだお若いのですから、今後登板の機会はいくらでもあるでしょう。
また新田氏の無念をはらそうとする「執念」は正直見苦しいと思います。愚かにも「無間地獄」をひたすらまっしぐらに突き進んでいるようでもあります。現代版「下克上」のモデルたらんとお考えなのでしょうか。彼の将来を思うとき、学者生命にブレーキがかかるのではないかと危惧しております。
選択は本人の自由ですが、新田氏は八木氏以上に「若さ」が露呈しているようでもあります。八木氏の「沈黙」は新田氏と対比したとき、大人の態度と思います。沈黙を重ねるたびに、八木氏はより大人になるでしょう。
八木氏には今後、ぜひ指導者に、というお声がかかるでしょうが、新田氏には間違っても、お声はかからないでしょう。お二人の差は歴然としています。
保守を割ってはならない。
近代保守と宗教保守が叩きあってはならない。
日本の二千年の歴史にチャイナやコリアのような圧制政治は現れていない。宗教保守が権力を独占するようなことになったとしても日本史の内に収まる。もし、チャイナ・コリアに日本の主権を奪われてしまったら、彼らの圧制政治文化圏のなかに引きずる込まれる。さらに植民地にされるから凄惨な支配になる。中国共産党や北鮮の政治は特別なことをやっているのではない、あれが昔からの政治文化なのです。
現在の保守は公明党の票を当てにしなければ政権も維持できない中数派だ。まだ日本人の多くは贖罪史観・左翼史観のなかに囚われている。憲法を改正しようとしても、愛国心の文言を入れようとしても、囚われた日本人に阻まれるかもしれない。そんな現状で保守が討ち合って弱体化したら、主権はチャイナ・コリアの手の中に落ちる。
藤岡さんの辞書にはフェアネスという言葉は無いかも
つくる会(に関係あったお方も含めて)のお三方のブログを拝見して
要するに「フェアネス(公正感)」にどれだけ敏感か、鈍感かということなのです。私の経験ではアメリカ社会は日本社会よりはるかにフェアネスに敏感です。真珠湾奇襲がアメリカを立ち上がらせたことを思い起こして下さい。フェアネスという点では、新田さんはかなり敏感だと思います。西尾さんはかなり鈍感、藤岡さんの辞書にはフェアネスという言葉は無いかも知れません。
http://blogs.dion.ne.jp/ hirokuri/archives/3403840.html
>知足さま
印象だけのコメントでは困ります。
具体的事例をもって、その印象に至った経緯をお書きください。以後、同じようにレッテル貼りだけのコメントは掲示をご遠慮願うことになりますので、よろしくお願いいたします。
長谷川様
先ほど ポンポンと叩いていましたら、私が書いていましたコメントが画面から消えてなくなりました。 そちらに既に送られてしまったのでしょうか? インターネットの世界に疎い私ゆえ、こんな質問をしましてごめんなさい。もし、そちらに届いていますなら、いいのですが、消えてしまったのなら、もう一度書き直します。
>その女 ソルベさま
いえ、コメントは上記のものしか届いておりません。
できましたら、もう一度お願いいたします。
ソルベさまのコメントをいつも楽しみに読んでおりますので。
大樹ゆたか歌唱の「英霊の杜」を有線で聞こう。
靖国神社に祭られた英霊を称えたすばらしい曲です。
若輩者なので皆様の博識で高邁な議論に参加できませんが、
先生の昔からの一ファンとして感想を。
ものすごいエネルギーを使って議論(言い訳も含む)を
しても、事の真相や評価は、やはり時間が経たないと
無理じゃないんですか。まぁ、時間が経つとわからなく
なることもあるし、時間が経っても分からないことも
ありますけど。
しかし、この騒動でいろんな形で不平不満を持った方は
多かったのかも知れませんが、そもそも、会を立ち上げて
こられて、こういう形で会に手を振り上げなければなら
なかった先生の内心をなんと表現してよいのか私には
わかりません。無念とかそういうレベルの話じゃない。
行動する思想家としての宿命と片付けてよいのやら。
結局、この国がこうなったのも、サヨクが根強かったん
じゃなくて、「保守(自称も含めて)」が弱かったに
過ぎないということのようですね。
知足氏の、「今日の謀略説の紹介には正直がっかりさせられました」
呆れすけん氏の、「中共スパイ説 西尾先生 正気ですか?」
このお二人は西尾先生のブログをきちんと読めないお方なのでしょうか。
【「Let Blow! 毒吐き@てっく」の中に今まで書かれるべくして書かれていない重要指摘に満ち溢れてると見た】
と西尾先生はおっしゃり、皆さん読んで何を思いましたか?と問題を投げかけてくださったのですよ。
学のない私だって、ゆっくり読めば分かります。
てっく氏:「中国人の外交術には歴史の重みがある。戦乱と飢餓と権謀術数に明け暮れた中から得た彼らの術はまさに中国の文化である。あいてに向かう時決して譲歩してはならない。日本人のように問題を前に自分が譲歩し誠意を見せれば相手も応え、円満に収まるだろうと思ったら、その時点で戦いは負けである」
八木氏の小和田家に対する不敬なる言説にたいして、「憶測も世に出していいことと悪いことがある。あなたがくだらない小和田陰謀説を流布してどうする。あなたに足りないもの、それは学者として、いや、男として、日本人としての矜持と品格」
中国視察旅行についての、総合学としての文学氏と皇都衛士氏のお言葉「うかつ・稚拙」、その通りだと思います。敵陣地に呼ばれた時、心身貞操帯(男性用)をきっちり身に纏い、武器も持って行きなさいということでしょう。
「何事もなかった」では済まされないと考えることのできない幼稚な脳味噌。八木さんを裸にし、どこに弱点があるかを研究しているでしょう。
相手はただでは転びませんよ。自民党と公明党の議員が骨抜きにされたのを見てもまだ懲りない面々。あぁ~男というものは・・・。
中国ばかりでなく、戦いは勝たなければ意義なしの欧米にもしかり。勝てる要素が少しでもあれば、試合が終わった後でも、勝ちをもぎ取っていくのが欧米人。米人は少しは恥を知っているかもね・・・。
ヨーロッパに住み「スポーツの世界を少し垣間見た」私の感想です。言論も欧人の「有利な川の流れ」にいつのまにか引き入れられているのが悲しいかな日本人。そして、かっとなり手を出して「野蛮人」のレッテルを貼られ、惨めな日々を送る男もおります。手を出させる方略を実によく心得ているのです。
西尾先生が「・・・他民族をコントロールするという仕方もほとんど知らない。西洋人が顔色ひとつ変えずに異民族を抑圧する時の、あのしぶとさのようなもの・・・日本人は確かに歴史的にそういう訓練も積んでいないし、外国人を礼儀正しく冷酷に扱う措置になれた国民でもないのである」と【国民の歴史】の中に書いておられます。
八木氏の週刊誌的言説について、女は週刊誌的言説を喜んで楽しむと男は笑います。でも最終的には、そのような言説を吐く男を女は軽蔑します。八木氏と新田氏含む4人の方々には、「立志伝中の人」に見られる、粘り強い志、才覚、重心の低さ、頼りがい、が感じられません。この方々が次代の言論の世界を切り開いていく人たちであるなら、ご自分の精神を鍛錬する時間を是非持っていただきたいです。他におられないのでしょうか?
布袋和尚氏:隠れつくる会ファン氏宛てのお言葉「・・藤岡氏は副会長としてなら獅子奮迅のご活躍をなさるでしょう、・・・人間の長所の裏返しが短所。それらを熟知しながら人材を使っていけるような度量と資質を、重職である会長たる人物は待っていなければならない。・・・」には、大喝采です。
今回の「怪メール事件」で、一流の素晴らしい方々:てっく様、総合学としての文学様、布袋和尚様、皇都衛士様:の論説を読めること、長谷川様の先見の明に敬意を表し、感謝いたします。西尾先生にブログ立ち上げのご提案をなされたことをどこかの記事で読みました。西尾先生の意をお汲みになり、のご奮闘はあっぱれでございます。本当に頭が下がります。
女が良い仕事をする裏にいい男あり。その逆も真なり。家事をこなして、机に向かう時間をつくること、本当に大変なのよ。物理的にも精神的にも。長谷川様のことをよく知らない私ですが想像して書いてみました。
男と女しかいないこの世の中、助け合えば、男も女もしあわせなのです。家庭で大人は子供に「助け合っているお手本」を見せるべきです。(わざと見せろとは言わない。助け合えということ)
西尾先生は音楽(お家に音響装置をつけて、奥様と音楽を楽しんでおられるとか)、私も大好きな映画、そしてお酒が、大好きととても人間くさく、70歳にして青春のお心を持ち、男子一生の問題と、日々戦っておられるお姿に敬服いたしております。
西尾先生を応援いたします。レベッカ様とともに・・・。
昨年夏以来、当ブログを注目してきが、初めて投稿します。
つくる会の「内紛」による保守の分裂を心配している人たちがいるようですが、元々保守が統一しているなどは言えないのが現状であり、如何なる思想的機軸によって統一保守を形成すべきか不明のま混沌としているのではなかろうか。それに対して、この度の西尾先生の奮闘は、保守陣営の思想的展開の新局面を開きつつあるものと考える。そのような展開の直接的契機がストーンヘッジこと岩田温氏の投稿である。西尾先生によれば、「近代保守」対「神社右翼」の対立と言うことであり、後者を主要対立者とすることには何人かの方々から疑問が呈されており、同感であるが、それはいずれ西尾先生の著作で明らかにされるものと期待している。
小生が西尾先生を全面的に信頼し期待する理由は、その思想的巨大さ、過去の評論の実績等は言うまでもないが、最近のことに限定するならば、先生が次の4点を主張し、保守派の中の対立や孤立を恐れず、旗幟鮮明にされていることである。
① 特に「小泉郵政」以来、小泉批判を徹底している。
② 経済を論じない保守を批判している。(月刊「WILL」)
③ 「日本人は天皇制度とともに、それを超えたもう一つの
柱を必要としている。」(三島由紀夫憂国忌シンポジウム)
④ 天皇の男系維持は国民の「信仰」の問題、という主張。(皇室典範改悪反対の集会での発言、「諸君」など。)
① 小泉批判について。
善意の保守派を含む大勢の人たちが、小泉首相の靖国参拝、中韓に対する非妥協的姿勢…等々の故に、従来の首相より一段と優れた政治家であると考えている。しかし栗本慎一郎氏によれば、小泉氏は首相になるまで「面倒くさい」という理由で靖国参拝はしたことがなかったという。最初からまやかしであり、靖国問題を政争の具にしたのは小泉氏自身であり、多くの保守派の人たちが目をくらまされてきたのだ。「中韓の批判に毅然としているではないか」と言われるであろう。確かに、小泉氏の靖国参拝が如何に不純な動機によるものであったとしても、外国からの干渉に対しては守らなければならない。だが、靖国問題で外国からの干渉を排除する唯一最良の方法は、心から英霊を祀り、干渉を拒否(無視)し続けることである。しかるに参拝の動機が不純であり、曖昧であるならば、そのような態度を貫ききれないのである。小泉氏は「反戦平和のために」などと見当違いの参拝理由を述べ、村山談話をしのぐ謝罪を繰り返して中韓に対応してきたのである。…いや、こんなことは西尾先生が既に繰り返し指摘していること、小生如きが述べるのもおこがましいが、ブログというものは実に様々な書き込みのされるものだから、敢えて記した次第である。蛇足ながら、小泉氏はブッシュ大統領との個人的関係を通じて日米関係を最良の状態にしていることは評価すべきだ、と言われるかもしれないが、それも文字通りに認めるわけにはいかない。日米の戦略再編成にTOPの指導力が最も必要な時期に「郵政」にかまけてそれを無視し続けて、日米関係を危険な瀬戸際に追い込んだ罪は大きい。何とか凌いでいるのは安倍官房長官、額賀防衛庁長官その他関係者の薄氷を踏む思いをしながらの努力のお陰ではないのか。
今日「保守派」の面々は、ポスト小泉の自民党総裁選挙で安倍晋三総理の実現に期待をかけているようだが、それは安直な邪道である。現状で安倍氏が総裁選挙に出馬することは、小生に言わせれば小泉の座敷牢の中から立候補するようなものだ。たとえ安倍総理が実現したとしても…確かに安倍総理の下で、いくつかの当面の外交・内政の諸問題の打開を見ることは可能かもしれないが…安倍氏自身は保守派至宝の政治家と考えられるが、それが凡庸な一保守政治家に転落することみなってしまうであろう損失は計り知れない。
安倍氏が真正保守政治家として総裁選に打って出るのなら、今国会の会期が終了次第官房長官を辞任し、小泉政治と対決すべきである。しかし、それは二つの面から不可能であろう。第一に、安倍氏は小泉改革を基本的に支持していること。「改革の継続」という呪縛から抜けるだけの思想的・政策的準備が安倍氏自身できていない。第二に、安倍氏のそのような行動を支える政治的基盤に欠けている。それは、単に国会議員にその支持勢力あるかどうかということ以上に、大衆的国民的な支えがないということである。つまり、保守派の政治運動は、そのような基盤を形成してこなかったのであり、ここに今日の保守政治運動の危機がある。
この度の西尾先生の奮闘は、そのような保守派の政治的危機に対する警鐘にほかならない。
② 経済を論じない保守について。
この問題は、保守派がイデオロギー問題にかまけて、国民多数の関心事に冷淡であることの現れである。それは、国民の中に多数派を形成しようとする意思の欠如に繋がる。
西尾先生が経済を論じているのに対しては、所詮文学者で経済の素人に何が分かるか、といった向きがあるようだ。しかしエコノミストなる専門家の多くは経済の表層の動向を把握するに過ぎないが、元来、経済学とはポリティカル・エコノミーであって、国民経済を歴史的政治的に総体的に捉えるものである。その意味では、生半可のエコノミストなどより西尾先生の方が経済の本質をついているのである。(先生は、経済の専門家でないから、経済問題解決の具体的政策にまで議論が及ばない、というだけである。まあ、エコノミストも同じと言えば同じであるが。)
保守派の宿阿とも言うべき経済音痴を克服せずに、近代保守などあり得ない。
③ 天皇制度を超えるもう一つの柱。
これは、天皇制度を相対化することであり、日本人のアイデンティティーの再構築を意味する。このような発言こそ、新田均氏などの逆鱗に触れるところではなかろうか。ここで重要なことは、西尾先生は、近代保守の最も根本的な問題を、書斎や論壇の中の問題ではなく、広く公衆の前に投げかけていることではなかろうか。
④ 天皇制度(皇室典範問題)と「信仰」の問題。
世論の80%が女帝容認かつ女系との区別も分からない、と言う状況下、萬世一系の歴史や伝統といったところで、多数の国民の理解をどうして得られるのか、という問題に対して、それは日本人の信仰の問題と捉えるべきだ、と西尾先生は言われたのである。つまり、日本人の意識下に訴えるならば、必ずや理解が得られるとの確信の表明でもある。雨の日比谷野外音楽堂の集会で、壇上からの西尾先生のこの発言を聞いて、いたく感動した。「戦闘的」な活動家達の評判は極めて悪かったようだが。ここに先生の情勢に対する厳しい認識の反面の、根本的な楽天性がみられる。
さて、西尾先生は、信仰には懐疑が伴うこと、懐疑の伴わない信仰はファナティズムであって、近代保守派は、それとは一線を画す、といわれた。そのことから、近代保守は、確信的な宗教者との無用な対立抗争を広げるのではないか、と懸念する向きもみられるようだが、そのような心配は無用であるう。
ファナティズム乃至カルトと真っ当な宗教とどう違うのか、おそらくそれは教義を見ただけでは分からないだろう。1,宗教的確信が如何に強烈であっても、それは基本的に内心の問題であって、世俗の規範との折り合いがつけられる、2.自己の信仰と異なる立場の存在を容認し、協調乃至対話が可能である、これらの条件が満たされるならば、ファナティズムやカルトから免れ得るだろう。問題は、先の①~④のような問題に応えられないばかりか、そのような問題への取組を妨げるような思想傾向は明らかに存在し、それとの闘いは避けられない、ということであろう。
この度のつくる会の「内紛」は、保守の分裂といった問題ではない。相当の出血も伴ったが、一応、つくる会の腫瘍摘出が終わったのである。体力の回復が必要であるが、次期採択に向けての発展にとって必要なことであったと考える。
言い残したこと多々あるが、又の機会にしたい。
このところ皇都衛士さん、ソルべさん、痩骨さん、高木さん、あいうえおさん、布袋和尚さん、その他たくさんの方々の理解あることば、激励のしるしを頂いているようで、深謝に耐えません。
とりわけ東埼玉人さんの新しい書き込みは、いまのわたしの問題の焦点がどこにあるかを整理し、道をお示しくださったにも等しく、まことにありがとうございました。
西尾幹二
西尾先生に「理解ある言葉、激励のしるし」を記した一人に挙げて戴いたので、少し西尾先生の事を書かせて下さい。
高校の国語教科書に小林秀雄さんの「私の人生観」の一節があり、こんな難しい日本語の文章があるのか、と驚いたのがきっかけで、少しずつ小林さんの本を読み始めました。後に全集を買い求めて読みました。分からない文章ばかりでしたが、一通り全集には眼を通しました。
福田恆存さんの名前も高校の時に知りました。学生の時はヴェトナム戦争の頃で、ベ平連の活動が最盛期だった時期です。小田実が学校に来た時、話を聞きに行った事もあります。反戦平和一色の論調に埋め尽くされていた風潮にあって、福田さんが一人「自由主義陣営の立場を全うせよ」と米国の北爆を支持する論陣を張っているのを知って、びっくりしました。当時の私には、どこからこの様な考えが出て来るのか、見当も付きませんでした。これが知りたくて、福田さんの本は、新書が出るたびに買い求めて読んでいました。
私の文章の好みは、小林秀雄さんと福田恆存さんで決められた様に思います。それ以外の人の本には殆ど関心が持てませんでした。小林さんが亡くなったのが昭和58年で、この頃福田さんも本を書かなくなっていましたから、私は何年か、読む本の無い時期を過ごしています。
西尾先生の「日本の不安」を見かけたのは、平成の初め頃だったと思いますが、偶然買って読み忽ち魅了されました。漸く小林さんと福田さんに続く作家を見つけた思いでした。
私は西尾先生の名前は知っていたのですが、単に欧州に留学した事のあるドイツ文学者としてであり、深刻な時局問題を論ずる人とは知りませんでした。すぐに続けて「日本の孤独」を買って読み、当時手に入る西尾先生の本は皆買い求めました。「ソ連知識人との対話」と「立ちすくむ日本」が入手出来なくて残念だった事を覚えています――絶版で今も持っておらず読んでいませんが。
私が歴史に関心を持ち出したのは、渡部昇一先生と呉善花氏の対談本を読み、朝鮮人の歴史解釈の珍妙を知ってからです。朝鮮人の書いた本を数冊読んで驚き、日鮮の古代史、植民地朝鮮の実体に関する彼らの見解は本当か、原本に当たって自分で調べて見ようと思ったのです。
「古事記」「日本書紀」「魏志倭人伝」「三國史」「三國遺事」「好太王碑」などの本を集めましたが、どれに当っても、騎馬民族征服説、広開度王碑改竄説、日本語のルーツが朝鮮語、神話のでっち上げ説、九州王朝説、任那日本府作り話説、などは出てこないと思いました。
古代史の本は書店に沢山並んでいますが、腑に落ちない本ばかりです。奇説・新説を競うか、単なる憶説を論証済みの様な顔をして通り過ぎるかです。朝鮮にひたすら恐縮し平伏するのもあります。ある本に「神功皇后の三韓征伐は作り話であるが、侵略は侵略である」などと書いているのを眼にして、馬鹿馬鹿しくなって抛り出した事もあります。
隋書に「新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使・往来す」とありますが、これに触れた本は殆ど無い。西尾先生も触れて居ないし、本居宣長も例証の一つとして素っ気なく引用して居るだけですが、おふたりは日本古代史の裏付けを支那文献に求める様な学者では無いからで、その潔癖に心を動かされます。日本の古書に無い卑弥呼を、魏志を根據に持ち出す大多数の学者が、上の一文に触れない事は、歴史解釈の下心を感じます。
或るシンポジウムで考古学者が「朝鮮人に遠慮するのは宜しくない、任那日本府があったとは云わないが・・」などと発言しているのを読んで複雑な気持ちになりました。前半は当たり前だし、後半には妙な思惑があるのを感じるからです。私は中学生の時に任那日本府の事を習っています。記紀に記述されている任那日本府が何時から無かった事になったのか、二千年も前の日本領を考古学が明証するのは難しいのでしょうが、何かの思惑がない限り、存在しない事を明証するのもそれ以上に難しい筈です。民族の共有財産である記紀は、学者の専有物ではないし、私にも1億分の1の解釈の権利がある筈だ。学者には「自分個人はこう推定している」という制限を付けて謙虚に発言して貰いたいものです。西尾先生の「今更確かめようもない古代に関して、断定的な事を云う学者は皆嘘を云っているのだ」と云う怖ろしい一文が、この考古学者の良心を揺さぶり、慚愧の思いを以て考古学を放擲する日が来ることを願っております。
西尾先生は、若年からの私の読書歴と切り離せない思想家なので、現在の論点と関係は無いのですが、思い出と古代史の事を少し書いて仕舞いました。ご健勝とご健筆を祈念致しております。
私にはちょっと不思議に思うことがある。それは中川八洋筑波大学教授と西尾先生の接点である。ご両人とも私の知る限りでは論文等での引用など何処のもないのです。思うにお二人は関心の所在に共通する側面が多々あると思うのです。勿論中川八洋先生が『つくる会』の賛同者名簿にも登載されているし確か『国民の歴史』の発刊記念パーティーにも出席されていたお姿もお見かけしました。西尾先生が石原慎太郎都知事が面識がないにもかかわらず一定の配慮を『会』に対してしていることに対して感謝の念を表しているのも存じてはいます。しかし中川八洋先生に対しては何処にも論じていることもない。私は、皇室典範その他皇室にかかわる喫緊の課題に対してはそんなに多くの相違はないと思っています。このお二人にはこれらのことについて何らかの形式により意見を交換して欲しいと思っております。